瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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   梁甫吟  無名氏
歩出齊城門  歩みて斉の城門を出ずれば
遥望蕩陰里  遥かに蕩陰(とういん)の里を望む
里中有三墳  里中に三墳有り
累累正相似  累累として正に相い似たり
問是誰家塚  問う是れ誰が家の墓ぞ
田彊古冶氏  田彊(でんきょう) 古冶子(こやし)なり
力能排南山  力は能く南山を排し
文能絶地紀  文は能く地紀を絶つ
一朝被讒言  一朝 讒言を被れば
二桃殺三士  二桃もて三士を殺す
誰能爲此謀  誰か能く此の謀を為す
國相齊晏子  国相 斉の晏子なり
 
7d515680.JPG〈訳〉斉の都の門を出ると
   はるかに蕩陰の村が見える
   村の中には三つの墓
   土もりあがりよく似た形の
   誰の墓かと問うて見れば
   田開彊・古冶子たちの墓
   力は山をも押し倒し
   地軸をも断ち切るほどの男たち
   ある日たちまち讒言により
   二つの桃が三人の男を殺した
   そんな悪だくみをした奴は誰
   総理大臣 斉の晏嬰
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bbecdd74.JPG  晏嬰〈?~BC500年〉は斉の霊公・荘公・景公3代に仕えた名宰相とされ、『史記』管晏列伝では司馬遷をして「もし晏子が健在ならば、私は馬丁となって仕えてもよい、それほど慕わしく思う」と言わしめた人物。
この歌の晏嬰評価は、司馬遷のそれとは大きく異なる。
蜀史に拠れば、諸葛亮はこの歌が好きでよく口ずさんでいたという。「晏嬰って奴はずる賢くてこんなことで人を殺す陰険な野郎!」という話なのか、「桃だけで三勇士を排除した晏嬰って頭いい、すごい宰相!」という解釈なのかは不明であるが、諸葛亮はこの詩のどこが気に入っていたのだろう。曹操に故郷を蹂躙され兄と別れ、こんな歌を歌いながら畑を耕しつつ過していた亮はある日劉備に拾われるのである。
 
この詩のことは以下の『晏子春秋』諫下篇にみえる。
《景公養勇士三人無君之義晏子諫》
公孫接、田開疆、古冶子事景公,以勇力搏虎聞。晏子過而趨,三子者不起。
晏子入見公曰:“臣聞明君之蓄勇力之士也,上有君臣之義,下有長率之倫,內可以禁暴,外可以威敵,上利其功,下服其勇,故尊其位,重其祿。今君之蓄勇力之士也,上無君臣之義,下無長率之倫,內不以禁暴,外不可威敵,此危國之器也,不若去之。”
公曰:“三子者,搏之恐不得,刺之恐不中也。”
晏子曰:“此皆力攻勍敵之人也,無長幼之禮。”因請公使人少餽之二桃,曰:“三子何不計功而食桃?”
公孫接仰天而歎曰:“晏子,智人也!夫使公之計吾功者,不受桃,是無勇也,士眾而桃寡,何不計功而食桃矣。接一搏猏而再搏乳虎,若接之功,可以食桃而無與人同矣。”援桃而起。
田開疆曰:“吾仗兵而卻三軍者再,若開疆之功,亦可以食桃,而無與人同矣。”援桃而起。
古冶子曰:“吾嘗從君濟于河,黿銜左驂以入砥柱之流。當是時也,冶少不能游,潛行逆流百步,順流九里,得黿而殺之,左操驂尾,右挈黿頭,鶴躍而出。津人皆曰:‘河伯也!’若冶視之,則大黿之首。若冶之功,亦可以食桃而無與人同矣。二子何不反桃!”抽劍而起。
公孫接、田開疆曰:“吾勇不子若,功不子逮,取桃不讓,是貪也;然而不死,無勇也。”皆反其桃,挈領而死。
古冶子曰:“二子死之,冶獨生之,不仁;恥人以言,而夸其聲,不義;恨乎所行,不死,無勇。雖然,二子同桃而節,冶專其桃而宜。”亦反其桃,挈領而死。
使者復曰:“已死矣。”公殮之以服,葬之以士禮焉。

 
becaae45.JPG《景公勇士三人を養ふ、君臣の義なし、晏子諌む》【第二十四】
  公孫接・田開彊・古冶子らは景公に仕えた。勇力があり、虎を手で討ち取ることで有名であった。
晏子が彼らの前を小走りで通り過ぎても、彼らは立ち上がらなかった。
晏子は公に見えて「臣はこう聞いています。明君が勇力の士を仕えさせるときには、上には君臣の義があり、下には年順のすじちみがある。内においては暴を禁じ、外においては敵を威圧する。上はその功を有し、下はその勇に服すと。ゆえにその位を尊くして、その禄を重くしているのです。
 いま君は勇力の士を仕えさせ、上は君臣の義なく、下は年順のすじみちがありません。内に暴を禁じず、外には敵を威圧していません。これは国を危うくするやからです。これを去らせるべきです」と言った。
 公は「三人を手で捕らえようとしてもできず、これを刺し殺そうとしてもおそらく当たらないだろう」と言った。
晏子は「彼らはみな力で攻め、それによって敵に当たるもので、年順の礼はありません。公に請います。人をやって彼らに二つの桃を送らせてください。そして『三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ』と言わさせてください」と言った。
 公孫接は天を仰いで嘆じて「晏子は智者である。公に我らのてがらを比べさせたのだ。桃を受けなければ、勇のないことになる。今、三人いるが桃は二つである。どうして功を計って桃を食わないことがあろうか。
 接は雄の鹿を討ち、また子持ちの虎を討った。接の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。
 田開彊は「わしは兵を率いて軍を退けること二回であった。開彊の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。
古冶子は「わしはかつて君に従って黄河を渡った。大すっぽんが馬車のそえ馬を加えて中流の砥柱山にもぐっていったとき、冶子は泳ぐことができないので水底を行き、流れに逆らうこと100歩、 流れに従うこと9里にして大すっぽんを殺した。
 左手にそえ馬を操り、右手に大すっぽんの頭をひっさげて踊り出た。渡しもりたちは皆河伯であると言い、これを見たら大すっぽんの首であった。
冶の功はまた桃を食べられるほどで、人にはできないことだ。桃を返されよ」と言い、剣を抜いて立ち上がった。
 公孫接と田開彊は「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
古冶子は「ふたりがここで死んで、冶がひとり生きるのは不仁である。人に恥をかかせるのに言葉をもってして、自分だけが勇士の名声を誇るの不義である。
 然りと雖もふたりの功績は同等であるから、一個の桃を分けて食べたらよく、自分が一個の桃を食べればよかったのだ」と言い、またその桃を返して、頭を打ち付けて死んだ。
使者は復命して「彼らはすでに死にました」と言った。
 公は死者に衣をかぶせて、これを葬るのに士礼をもってした。
 
 N氏、Y氏は水門会のメンバーである。毎年10月に開かれる「総会」に、出席しようかどうしようかと思い悩んでいるらしい。

   悲歌
 悲歌可以當泣  悲歌(ひか)は以て泣くに當(あ)つべく
 遠望可以當歸  遠望(えんぼう)は以て歸るに當つべし
 思念故鄉     故鄉を思念すれば
 鬱鬱纍纍     鬱鬱(うつうつ)纍纍(るいるい)たり
 欲歸家無人   家に歸らんと欲するも人なく
 欲鍍河無船   河を鍍らんと欲するも船なし
 心思不能言   心に思ひて言ふ能(あた)はず
 腸中車輪轉   腸中(ちょうちゅう)車輪轉(てん)ず

(訳)    悲しい歌
     悲しい歌は 涙の代わり
     遠い眺めは 帰郷の代わり
     故郷を 遠く偲べば 
     胸ふさがれて 思いはつのる
     帰っても あの人は家にはいまい
     渡ろうにも 河に舟がないように
     心に思うだけ 言葉にならぬ
     はらわたに車輪(わだち)がきしむ

d08cdc54.JPG(訳)静かな夜更け、寝床の前に月の光がさし込んでいる。
   あまりにも白いので、地上に降った霜かと疑った。
   光をたどって頭を上げると、山に美しい月が出ている。
   そして、自然にうなだれて、故郷のことが思い出されるのである。

53d94c7c.JPG いやはや、拙痴无爺はどうするか。石もて追われた身なれば、遠きにありて思うもので終らせるか。はたまた、冥土ゆきのお別れを告げに重い腰を揚げるか。N氏・Y氏ご両人とご同様、思い悩んでいる昨今である。
◎ N氏からのメールの標題 「私は遺族会の会長なんかじゃない、ただの集金係」 8/10(水) 
 きのうは、「むらた」で、Y氏が、3人の話が弾むのを見て「三笑」という謡曲の話を披露した。
 今戸一丁目の山谷堀公園脇に曹洞宗の「潮江院」というと寺があり、ここに初代 三笑亭可楽の墓がある。毎春4月の初め、桜の花の満開の頃、ここで三笑亭一門によって、落語会が開かれ、そのあと初代可楽の法要が行われる「可楽まつり」が開かれる。
 三笑亭可楽は江戸時代より続く落語家の名跡であり、当代は9代目という。名前の由来は「山椒は小粒でひりりと辛い」から、「三生亭花楽」としたが、松戸の贔屓筋から、『虎渓三笑』の故事にちなんで「三笑亭可楽」にしたという。
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585d09c9.JPG 虎渓三笑は水墨画の画題して有名であるが、北宋時代の県知事陳舜兪が退官後、盧山の南に隠居して、著したという『廬山記』に:――恵遠法師、盧阜に居ること三十余年、客を送るに足跡未だ嘗て虎渓を過ぎず。時に陶元亮、栗里に居る。陸修静も亦有道の士なり。恵師この二人を送るに、与に語りて道合し、覚えず虎渓を過愚。因って大いに笑う、今の世に三笑図を伝う―― とある。
 即ち、虎渓三笑とは、儒、仏、道の三賢者が一堂に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、すっかり夢中になってしまったという故事となったのであろう。しかし、この3人生没年があわないので、虎渓三笑の話は作り話とされている。
* ①恵遠(慧遠)法師(334~416年): 4世紀、高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。
 ②陶潜(365~427年)の名前と字については諸説があり、『晋書』隠逸伝では「陶潜、字元亮」、『南史』隠逸伝では「陶潜、字淵明。或云、字淵明、名元亮」とある。
 ③陸修静(りくしゅうせい、406―477年)は東晋末~南朝宋の道士。字は元徳、号は簡寂先生、諡号は高道処士。呉興(浙江省)東遷の人。南朝宋の明帝が467年(泰始3)に都の建康の北郊に崇虚館を建てて迎えたことで有名。

 N氏は地域の戦没遺族会の会長を務めている。年齢的に最年長者ということもあって会長職を引き受けたのだという。近いうちにその法要が行われるらしいが、盛んに「その日を境に俺は死んじゃうのではないか」という。Y氏が「プールで1000m泳いでいる人が何を言うか」と、元気付けていたが、まあ、この年になってあまり生死については考えないほうがよいのではないか。拙痴无爺などは日がな一日、起きているのか眠っているのかいつも頭がボーとしている。テレビを見ていてもいつの間にか眠ってしまうし、本など読み始めて5分もしないうちにお目めがつぶってしまう。こういう状態を「認知症」というのかもしれない。まあ、こんな状態のまま気がつかぬうちにお陀仏してしまえば、こんな幸せなことはあるまい。

  長歌行    漢・古樂府
青青園中葵、  青青たる 園中の 葵、
朝露待日晞。  朝露 日を 待ちて 晞(かわ)く。
陽春布德澤、  陽春 德澤を 布(し)き、
萬物生光輝。  萬物 光輝を 生ず。
常恐秋節至、  常に恐る 秋節の 至りて、
焜黄華葉衰。  焜黄せる 華葉の 衰ふを。
百川東到海、  百川 東のかた 海に 到るも、
何時復西歸。  何(いづ)れの時か 復(ま)た 西に歸らん。
少壯不努力、  少壯にして 努力をせざれば、
老大徒傷悲。  老大になりて 徒(いたづ)らに 傷悲せん。

   人のいのち
 青々としげれる畑の葵(あおい)
 朝露はさしのぼる日に乾く
 うららかな春に恵みはうるおい
 万物は生命の光を放つ
 気がかりなのは 秋が来て
 すべての川の東して海に注げば
 ふたたび西に帰ることなし
 若い時代(とき)に励んでおかねば
 年とって悲しみかこつこととなろう

5995244a.JPG 長歌行とは、楽府題(がふだい)の一つで、「短歌行」とともに、寿命の長短について歌うところからつけられた名称だという。晋の崔豹(生没年不詳)の『古今注』によれば、「長歌・短歌とは、人の寿命の長短、各おの定分ありて、妄りに求むべからざるを言うなり」とある。




 横浜在住のN氏、藤沢在住のY氏の誘いで、JRの御徒町駅で待ち合わせ、昼食をともにした。千代田区に程近い上野3丁目の「むらた」を紹介した。
 この店の店主さんとは、2人の娘さんの勉強のお手伝いをしたので古くからの知り合いである。お店には下の娘さんのchikaちゃんが相手をしてくれた。まあ、楽しい半日を過した。
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78fc0572.jpg 本日は、66回目の原爆の日。
 隅田川ではユリカモメの姿はまったく見られなくなったが、あちこちでカワウが見られる。水面に浮かぶカワウはカメラに収めるのが難しい。すぐに水に潜り、一旦潜ると、長時間水中にあり、何処に出てくるか見当もつかぬ。


  萬歳樓  唐 王昌齡
 江上巍巍萬歳樓、 江上(くゎうじゃう)巍巍(ぎぎ)たり  萬歳樓、
 不知經歴幾千秋。 知らず幾千秋を經歴(きょうりゃく)せしかを。
 年年喜見山長在、 年年 喜び見る 山の長(とこしな)へに 在(あ)るを、
 日日悲看水獨流。 日日 悲しみ看る 水の獨(ひと)り 流るるを。
 猿狖何曾離暮嶺、 猿狖(ゑんいう) 何ぞ 曾(かつ)て  暮嶺を 離れんや、
 鸕鶿空自泛寒洲。 鸕鶿(ろじ)空(むな)しく 自(おのづか)ら寒洲に泛(う)かぶ。

 長江のほとりら聳え立つ万歳楼は/行く専念を経てきたことか/年毎に何時も変わらぬ山の姿を見るのはうれしいが/日ごと ひとり流れる川水を眺めては悲しみに沈む/悲しげに鳴く猿さえ夕暮れの峰から離れたことはないものを/鵜の鳥がうら枯れた中州辺りに浮かぶにも似た私の境涯/雲霧の立ちこめる中を楼上から望む思いに誰が堪えられよう/夜も近づけば辺りはただ茫茫 旅愁のみがわきおこる

4c5d63fa.JPG 王昌齢は太原の人、一説には京兆(長安)の人または江寧(南京)の人。字は少伯。開元15(727)年の進士。校書郎・范水(河南省成皋の付近)の尉・江寧の丞などをつとめたが、素行を慎まないという理由で竜標(湖南省黔陽)の尉として流された。安録山の乱のとき、混乱にまぎれて郷里へ帰ったが、刺史の閭丘曉に殺された。

 朝食後、大宰府の姉から、電話有。しばし、66年前の広島での思い出を話す。とにかく、姉は86歳、この爺は79歳―― よくもこの年まで生き延びたものだ。

73a579a4.JPG Shinさんのコメントによれば、中国の知識人の中には日本のことを『扶桑』と呼ぶことがあるそうだ。そういえば、王維(『旧唐書』によれば699~759年、『新唐書』では701~761年)の日本へ帰国する阿部仲麻呂(698~770年)を送った詩の中にも日本は『扶桑』の外にある国だと詠っている。

  送祕書晁監還日本国  王維
 積水不可極  積水 極む可からず
 安知滄海東  安んぞ 滄海の東を知らんや
 九州何處遠  九州 何れの處か遠き
 萬里若乘空  万里 空に乗ずるが若し
 向國惟看日  国に向かって惟(た)だ日を看(み)
 歸帆但信風  帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ
 鰲身映天黑  鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く
 魚眼射波紅  魚眼は波を射て紅なり
 鄕樹扶桑外  鄕樹は扶桑の外
 主人孤島中  主人は孤島の中
 別離方異域  別離 方(まさ)に域を異にす
 音信若爲通  音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや
(訳)
 大海原の水はどこまで続くのか、見極めようが無い。
 その東の果てがどうなっているのか、どうして知れるだろう。
 わが国の外にあるという九つの世界のうち、
 最も遠い世界、それが君の故郷、日本だ。
 万里もの道のりは、さながら空を旅してるようなものだろう。
 ただ太陽の運行と風向きに任せて進んでいくほかはないだろう。
 伝説にある大海亀は黒々と天にその姿を映し、
 巨大魚の目の光は真っ赤で、波を貫いくことだろう。
 君の故郷日本は、太陽の昇る所に生えているという神木(扶桑)のはるか外にあり、
 その孤島こそが、君の故郷なのだ。
 私たちは、まったく離れた世界に別たれてしまうのだ。
 もう連絡の取りようも無いのだろうか。

 『山海経』によると、東方の海中に黒歯国があり、その北に「扶桑」という木が立っており、そこから太陽が昇るという。

 黑齒國在其北 爲人黑 食稻啖蛇 一赤一青 在其旁 一曰 在豎亥北 爲人黑首 食稻使蛇 其一蛇赤 下有湯谷 湯谷上有扶桑 十日所浴 在黑齒北 居水中 有大木 九日居下枝 一日居上枝  『山海経』 第九 海外東経より
(訳) 黒歯国はその北にあり、人となり黒い歯、稲(こめ)を食い、蛇を食う。一つは赤く一つは青い。(蛇が)傍に居る。下(部)に湯の湧く谷があり、湯の谷の上に扶桑あり、ここは十個の太陽が湯浴みする所。黒歯の北にあり。水の中に大木があって、九個の太陽は下の枝に居り、一個の太陽が(いま出でんとして)上の枝にいる。

aa011115.JPG Shinさんから先月末にコメントをいただき、――屈原の『離騒』にある「路曼曼其修遠兮,吾将上下而求索」という一句はよく人口に膾炙しています(少なくとも中国の人々にとって)。その日本語バージョンをぜひ――ということである。
 『離騒』は現実の楚国の政治に対する屈原の憂国の情を表した2490字に及ぶ詩で、とても、ブログで扱える代物ではない。何時の日にか1冊の冊子にでも纏めたいと思うが、とりあえず「路曼曼其修遠兮,吾将上下而求索」の句を含む第十段に挑戦してみた。

1ebb2cbc.JPG  楚辞 離騒 第十段 埃風上征
 跪敷衽以陳辭兮、耿吾既得此中正;駟玉虯以乘鷖兮、溘埃風余上徵。
 朝發軔於蒼梧兮、夕余至乎縣圃;欲少留此靈瑣兮、日忽忽其將暮。
 吾令義和弭節兮、望崦嵫而勿迫。路曼曼其脩遠兮、吾將上下而求索。
 飲余馬於咸池兮、總余轡乎扶桑。折若木以拂日兮、聊逍遙以相羊。
 前望舒使先驅兮、後飛廉使奔屬。鸞皇為余先戒兮、雷師告余以未具。
 吾令鳳鳥飛騰兮、繼之以日夜。飄風屯其相離兮、帥雲霓而來御。
 紛緫緫其離合兮、斑陸離其上下。吾令帝閽開關兮、倚閶闔而望予。
 時曖曖其將罷兮、結幽蘭而延佇。世溷濁而不分兮、好蔽美而嫉妒。

跪(ひざまづ)き衽(じん)を敷きて以て辞(じ)を陳(の)べ、
耿(あきら)かに吾(われ)既に此の中正(ちゅうせい)を得たり
玉虯(ぎょくきゅう)を駟(し)として以て鷖(えい)に乗り、
溘(たちま)ち風に埃(ほこり)あげて余(よ)上り征(ゆ)く

朝(あした)に軔(じん)を蒼梧(そうご)に発し、
夕に余(よ)縣圃(けんぽ)に至る
少(しばら)く此(こ)の霊瑣(れいさ)に留(とどま)らんと欲すれば、
日は忽忽(こつこつ)として其(そ)れ将(まさ)に暮(く)れんとす

吾(われ)義和(ぎくわ)をして節(せつ)を弭(ゆる)めて、
崦嵫(えんじ)を望んで迫(せま)る勿(な)からしむ
路(みち)は曼曼(まんまん)として其(そ)れ修遠(しゅうえん)なり。
吾(われ)将(まさ)に上下(じょうげ)して求索(きゅうさく)せんとす

余(よ)が馬(うま)を咸池(かんち)に飲(うるお)ひ、
余が轡(くつわ)を扶桑(ふそう)に結(むす)び
若木(じゃくぼく)を折(お)りて以(もっ)て日をはらひ、
聊(しばら)く逍遥(しょうよう)して以(もっ)て相羊(しょうよう)す

望舒(ぼうじょ)を前(まえ)にして先駆(せんく)せしめ、
飛廉(ひれん)を後(あと)にして奔属(ほんぞく)せしむ
鸞皇(らんおう)余(よ)が為(ため)に先戒(せんかい)し、
雷師(らいし)余(よ)に告(つ)ぐるに未(いま)だ具(そな)はらざるを以(もっ)てす

吾(われ)鳳鳥(ほうちょう)をして飛騰(ひとう)せしめ、
之(これ)を継(つ)ぐに日夜(にちや)を以(もっ)てす
飄風(ひょうふう)屯(あつ)まって其(そ)れ相離(あいはな)れ、
雲霓(うんげい)を師(ひき)ゐて来(きた)り御(むか)ふ

紛(ふん)として總總(そうそう)として其(そ)れ離合(りごう)し、
斑(はん)として陸離(りくり)として其(そ)れ上下(じょうげ)す
吾(われ)帝閽(ていこん)をして関(かん)を開かしめんとすれば、
閭闔(しょうこう)に倚(よ)りて予(よ)を望(のぞ)む

時(とき)曖曖(あいあい)として其(そ)れ将(まさ)に罷(きわ)まらんとす。
幽蘭(ゆうらん)を結(むす)んで延佇(えんちょ)す
世(よ)溷(こん)して分(わか)れず、
好(こ)んで美(び)を蔽(おお)ひて嫉妬(しっと)す

(訳)
けれども衣の衽(おくみ)を敷いて跪きわが辞(ことば)を述べ終わると
私は明らかに正しい道に適っていることを感じた。
そこで四つの虬(みずち)に曳かせて鷖(えい)の車に乗り
たちまち風を迎えて空に昇った。

朝 蒼悟(舜を葬った所)から出で立って
夕べには崑崙の県圃(けんぽ、山上の神の住居)に着いた
しばらくこの天門に休もうとすれば
日は見る見るうちに暮れかかる

日の御者(ぎょしゃ)義和(ぎくわ)に歩みをゆるませ
崦嵫(日の沈む山)の山に近づかせず
はるばる遠く長い路(みち)を
上り下ってわがよきひとを捜(さが)し求めよう

わが馬に咸池(太陽が昇るとき水浴びする所)で水飲ませ
手綱を扶桑(日の昇ってくる所にある木)の木に結び
若木を折って日を払い
しばらく辺りを逍遥しよう

望舒(月の御者)を先駆(せんく)に立て
飛廉(風の神)を後(あと)に従(したが)え
鸞凰(らんおう)は私のため道を払うが
雷神(らいじん)はまだまだ供ぞろえが足らぬという

そこで鳳凰をたかく飛ばせ
夜を日についでいそがせれば
諷風(つむじかぜ)はどっと集まりまたちって
雲や霓(にじ)をつれて出迎える

わが行列はむらがりまた散って
乱れきらめき上下する
さて天門を開けさせようとすれば
門番は門に寄りかかって黙って私を見ているだけ

日は薄暗く暮れかかるに
幽蘭を結んで私の心を伝えようと空しく佇むばかり
世は乱れ濁って善し悪しも分かたず
ここでも好んで人の美徳を蔽い嫉むのか

fbdeb959.JPG 四匹の竜に曳かせ鳳を車として、風に乗って空に舞い上がり、屈原の幻想的「天井遍歴」の始る件(くだり)である。香草や、霊鳥や、自然の神々がつぎつぎにあらわれ、まことに絢爛。とともに、何処を尋ねても、自分を求めるもののない、諦めきれぬ深い憂鬱が執拗に全編を蔽うのである。
 

ad83fedd.jpg 今日から8月、戻り梅雨なのか最近は明け方の雨が多い。徘徊も行ったり、行かなかったり。まあ、お陰で猛暑から解放されて、クーラー無しの日が続く。
 今朝は、山谷堀水門広場でスカイツリーを眺め、足が桜橋通りに向う。京成橋を渡り、北十間川沿いに東武橋に出る。言問い通りを西進、言問橋を渡って帰宅した。

  照鏡見白髪   張九齢(初唐)
宿昔青雲志   宿昔(しくせき) 青雲の志
蹉跎白髪年   蹉跎(さだ)たり 白髪の年
誰知明鏡裏   誰か知らん 明鏡の裏
形影自相憐   形影(けいえい) 自ら相憐(あいあわ)れまんとは

[訳]
 昔は世に羽ばたく大きな夢を抱いていたもの
 ついつまずいて、白髪の年になってしまった。
 誰が分かろうか、明るい鏡の中で
 自分とうつった影とが互いに憐れみ合うなどとは

cb83b80d.JPG 張九齢は曲江(広東省)の人。玄宗の信任を得て左補闕・中書舎人に進み、733年には宰相に至ったが、野心家の李林甫(?~752年)と衝突し、玄宗の寵を失い、荊州(湖北省江陵)長史に流された。




抱卜子  外篇 第三十八 博喩
20.抱樸子曰:卑高不可以一概齊,餐廩不可以勸沮化。是以惠施患從車之苦少,莊周憂得魚之方多。
 抱僕子が言う、高い低いは一つ基準でならすことはできない。禄に対する関心の程度は説得によって変えることはできない。
 だから恵施(魏の相)はお供の車を沢山引き連れながら、まだ少な過ぎるはせぬかと気に病んだ。荘子は釣りあげた魚が晩飯には多すぎはせぬかと思い、その分を川に捨てた。

淮南子 斉俗篇 第十一 より
今從箕子視比干、則愚矣;從比干視箕子、則卑矣;從管、晏視伯夷、則戇矣;從伯夷視管、晏、則貪矣。趨舍相非、嗜欲相反、而各樂其務、將誰使正子?曾子曰:“擊舟水中、鳥聞之而高翔、魚聞之而淵藏。”故所趨各異、而皆得所便。
故惠子從車百乘、以過孟諸、莊子見之、棄其餘魚。鵜胡飲水數鬥而不足、鱔鮪入口若露而死。智伯有三晉而欲不澹、林類、榮啟期、衣若縣衰而意不慊。由此觀之、則趣行各異、何以相非也!
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7cb8effc.JPG(訳)今箕子より比干を見れば愚であろう。比干から箕子を見ればいやしかろう。管子・晏子より伯夷(殷末の隠者)を見れば愚直、伯夷より管・晏を見れば貪りとなろう。それぞれが、他の赴くところを非としているし、欲望が背きあう。それぞれが、その務めを楽しむならば、誰がこれを正せよう。曾子が言った、「舟を水中に押しやれば鳥はこれを聞いて高く翔(かけ)り、魚はこれを聞き淵に隠れる」と。おのおのの趣くところこそ異なれ、その便をえていればこそ。
 だから、恵子が車百乗を従えて孟諸(もうしょ、河南省商丘県)の沢を通り過ぎた時、荘子がこれを見て、みずからの余分の魚を棄てたという。鵜胡(うこ、大きな鳥)は数斗の水を飲んでもまだ足らず、鱔鮪(ぜんゆう、小さな虫)は露ほどの水を含んだだけで余る。智伯は三晋を合わせてもまだ足りず、林類や栄啓期は、蓑のような服を着けていても人を羨まぬ。してみれば、趣くところが異なればとて、何で互いに誹れよう。

 抱朴子 外篇 第三十八 博喩(はくゆ)より
12.抱樸子曰:九斷四屬者、蘊藻所以表靈;摧柯碎葉者、茝蕙所以增芬。是以夷吾桎檻、而建匡合之績;應侯困辱、而著入秦之勛。
 抱朴子が言う。:九つに切り四方から綴り合せてこそ、模様の美しさは現れる。茎を砕き葉を磨り潰してこそ、匂い草の香りは増す。だから管仲は牢に入れられたが、後天下統一の偉業を遂げ、范雎は簀巻きにされ小便を掛けられたが、秦に入って手柄を立てた。

14.抱樸子曰:精純舛跡、則淩遲者愧恨;壯弱異科、則扛鼎者見忌。是以淮陰顯擢、而庸隸悒懊以疾其超;武安功高、而範睢飾談以破其事。
 抱朴しが言う。:技倆の段が違うと、劣ったほうは恥じ恨む。力の強弱がかけ離れると鼎を持ち上げたほうは憎まれる。だから、韓信が抜擢されると、凡庸なもの共はやきもきしてその早い出世を憎み、白起の手柄が大きくなると、范雎は秦王にうまく説きつけその仕事を台無しにした。

fce8b842.JPG 范雎(?~BC225年?)は魏の人で、諸侯の間を遊説し、魏の大夫・須賈に仕えた。須賈の共をして斉へ使者として赴き、その地で数ヶ月間を過ごした。この時に斉の襄王が范雎の弁舌が優れていることを聞いて金十斤と牛・酒を送ってきたが、范雎はこれを断った。ところがこれを須賈が邪推し、魏の秘密を斉に漏らした代金としてこれらの品物を送ってきたのだろうと考えた。魏へと帰ってきた須賈は宰相の魏斉へと報告した。魏斉は怒って范雎を竹の板で何度も打った。このことで范雎はあばらを折り、歯をくじいた。これでは殺されると思った范雎は死んだ振りをしたが、魏斉は范雎を簀巻で巻いて厠へと放り出し、客は厠へと来るたびに范雎に小便をかけていった。范雎は番人に「後で礼をするから」と約束して助け出してもらい、番人は魏斉に対して死体を捨ててきたと嘘を言った。
 范雎は友人の鄭安平の助けを借りて体を治し、魏斉が范雎が本当に死んだかを疑っていると聞いて、張禄と言う偽名を使って逃げた。その頃、秦の昭襄王が使わした謁者(宦官)の王稽と言う者が来ていた。鄭安平は張禄こと范雎をこの者に売り込み、范雎を秦へと逃がした。

 秦に入った范雎は王稽から昭襄王に推挙されたが、登用されなかった。当時、秦の宰相は穣侯(魏冄)で昭襄王の母の宣太后の弟であった。穣侯は絶大な権力を誇り、名将白起を使って周囲の国々を何度も討って領土を獲得していた。しかしその領土は穣侯や穣侯と同じく太后の弟の華陽君、あるいは昭襄王の弟の高陵君・涇陽君などが取ってしまい、その財産は王室よりも多かった。一年余りを昭襄王に迎えられないまますごした范雎は、昭襄王に対して「とにかく試してください。良ければ用い、悪ければ打首にされても構いません。ただただ王様のことを思っているのです」と手紙を書いて自分の意見を聞いてくれるように訴えた。これを受けて昭襄王は范雎を招いた。謁見するにあたり范雎は後宮へと入り込み、怒った宦官が「王のご到着だ」と言って追い払おうとしたが范雎は「どうして秦に王がいようか。いるのは太后と穣侯だけだ」と言い放った。昭襄王はそれを全く不問とし、范雎を迎え入れて話を聞こうとした。しかし盗み聞きするものがいたので、范雎はまず外事について説いた。曰く「穣侯はいま韓や魏と結んで斉を討とうとしているが、これは間違いです(仮に勝って領土を奪ってもそれを保持することが出来ないため)。それよりも遠く(趙・楚・斉)と交わり、近く(魏・韓)を攻めるべきです。そうすれば奪った領土は全て王のものとなり、更に進出することができます」と。これが遠交近攻策である。
 この進言を受け入れた昭襄王は、魏を攻めて領土を奪い、韓に対して圧迫をかけた。その成果に満足した昭襄王は范雎を信任することが非常に厚くなった。そこで范雎は昭襄王に対して穣侯たちを排除しなければ王権が危ういことを説いた。これに答えて昭襄王は太后を廃し、穣侯・華陽君・高陵君・涇陽君を函谷関の外へ追放した。

fd1a06be.JPG 権力を確保した范雎は秦から偽名である張禄を号として貰い、応に領地を貰い応侯と名乗った。この頃、魏では秦が韓・魏を討とうとしているとの情報を掴み、須賈を使いに出した。須賈が秦に来ていると知った范雎はみすぼらしい格好をして須賈の前に現れた。須賈は范雎が生きていたことに驚き、范雎にどうしているのかと聞いた。范雎は「人に雇われて労役をしている」と答えた。范雎のみすぼらしさを哀れんだ須賈は絹の肌着を范雎に与え、「秦で宰相になっている張禄という人に会いたい」と告げた。范雎は主人が伝を持っているので会わせることが出来ると言い、自ら御者をして張禄の屋敷(すなわち自分の屋敷)へと入った。先に入った范雎がいつまでも出てこないので須賈は門番の兵に「范雎はどうしたか」と聞くと、「あのお方は宰相の張さまである」との返事が返ってきた。驚いた須賈は大慌てで范雎の前で平服して過去の事を謝った。范雎は須賈にされたことを鳴らして須賈を非難したが、須賈が絹の肌着を与えて同情を示したことで命は助け、「魏王に魏斉の首を持って来いと伝えろ。でなければ大梁(魏の首都。現在の開封)を皆殺しにするぞ」と言った。帰国した須賈は魏斉にこのことを告げ、驚いた魏斉は趙の平原君の元へ逃げた。
 その後、范雎を推挙してくれた王稽が范雎に「自分に対して報いが無いのでは」と暗に告げた。范雎は内心不快であったが、昭襄王に言って王稽を河東(黄河の東)の長に任命した。更に鄭安平を推挙して秦の将軍にし、財産を投げ打って自分を助けてくれた人に礼をして回った。この時の范雎は一杯の飯の恩義にも睨み付けられただけの恨み(睚眦の恨み)にも必ず報いたと言う。
 昭襄王は范雎の恨んでいる魏斉が平原君の元にいると知り、何とかこの恨みを晴らしてやりたいと思っていた。そこで平原君を秦に招き、「魏斉を殺してくれなければ秦から出さない」と脅したが、平原君はこれを断った。今度は昭襄王は趙の孝成王を脅した。恐れた孝成王は兵を出して平原君の屋敷を取り囲み、魏斉は趙の宰相の虞卿と共に逃げ出して、魏の信陵君に助けを求めた。信陵君は初めは秦を恐れて魏斉を受け入れることを躊躇ったが、食客の言葉で思い返し、国境まで迎えに出た。しかし魏斉は信陵君が躊躇したことで、自ら首をはねていた。この首を孝成王は秦へ送り、平原君は解放された。

 時間が遡るが、范雎は白起があまりに功績を挙げるので、恐れて白起が趙の首都・邯鄲を攻めようとするのを止めさせた。その後、昭襄王に讒言して白起を誅殺させた。その後任として范雎をかくまってくれた恩人の鄭安平を推挙したが、その鄭安平は二万の兵と共に趙へ降ってしまった。さらに范雎を昭襄王に推挙してくれた王稽は他国と通じた罪で誅殺された。これらのことで范雎は憂いたが、昭襄王の信頼は変わらず、また推挙者が罪を犯したことによる連座も不問にされた。
 この時に、遊説家の蔡沢が范雎に商鞅・呉起・文種などのことを例に挙げ、「貴方様がこれらの人とどれほど違いましょうか」と、自らの手腕で国を隆盛させた時の王が健在中は贔屓にされるが、王の代が変れば贔屓により鬱積していた不満が出てきたりなどで悲劇的な末路を描くだろうと長く権力の座にあることの危うさを説き、范蠡に倣って致仕(引退)することを勧めた。范雎はこの言を入れて致仕し、後任の宰相に蔡沢が就いた。 天下に覇を唱えんとする国の臣下最高位から潔く引いたが、范雎は商鞅達のような末路を辿らずに済んだ。 そして秦はその後も、范雎が築いた方針を礎に覇業を順調に進めたのである。
 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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