瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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   梁甫吟  無名氏
歩出齊城門  歩みて斉の城門を出ずれば
遥望蕩陰里  遥かに蕩陰(とういん)の里を望む
里中有三墳  里中に三墳有り
累累正相似  累累として正に相い似たり
問是誰家塚  問う是れ誰が家の墓ぞ
田彊古冶氏  田彊(でんきょう) 古冶子(こやし)なり
力能排南山  力は能く南山を排し
文能絶地紀  文は能く地紀を絶つ
一朝被讒言  一朝 讒言を被れば
二桃殺三士  二桃もて三士を殺す
誰能爲此謀  誰か能く此の謀を為す
國相齊晏子  国相 斉の晏子なり
 
7d515680.JPG〈訳〉斉の都の門を出ると
   はるかに蕩陰の村が見える
   村の中には三つの墓
   土もりあがりよく似た形の
   誰の墓かと問うて見れば
   田開彊・古冶子たちの墓
   力は山をも押し倒し
   地軸をも断ち切るほどの男たち
   ある日たちまち讒言により
   二つの桃が三人の男を殺した
   そんな悪だくみをした奴は誰
   総理大臣 斉の晏嬰
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bbecdd74.JPG  晏嬰〈?~BC500年〉は斉の霊公・荘公・景公3代に仕えた名宰相とされ、『史記』管晏列伝では司馬遷をして「もし晏子が健在ならば、私は馬丁となって仕えてもよい、それほど慕わしく思う」と言わしめた人物。
この歌の晏嬰評価は、司馬遷のそれとは大きく異なる。
蜀史に拠れば、諸葛亮はこの歌が好きでよく口ずさんでいたという。「晏嬰って奴はずる賢くてこんなことで人を殺す陰険な野郎!」という話なのか、「桃だけで三勇士を排除した晏嬰って頭いい、すごい宰相!」という解釈なのかは不明であるが、諸葛亮はこの詩のどこが気に入っていたのだろう。曹操に故郷を蹂躙され兄と別れ、こんな歌を歌いながら畑を耕しつつ過していた亮はある日劉備に拾われるのである。
 
この詩のことは以下の『晏子春秋』諫下篇にみえる。
《景公養勇士三人無君之義晏子諫》
公孫接、田開疆、古冶子事景公,以勇力搏虎聞。晏子過而趨,三子者不起。
晏子入見公曰:“臣聞明君之蓄勇力之士也,上有君臣之義,下有長率之倫,內可以禁暴,外可以威敵,上利其功,下服其勇,故尊其位,重其祿。今君之蓄勇力之士也,上無君臣之義,下無長率之倫,內不以禁暴,外不可威敵,此危國之器也,不若去之。”
公曰:“三子者,搏之恐不得,刺之恐不中也。”
晏子曰:“此皆力攻勍敵之人也,無長幼之禮。”因請公使人少餽之二桃,曰:“三子何不計功而食桃?”
公孫接仰天而歎曰:“晏子,智人也!夫使公之計吾功者,不受桃,是無勇也,士眾而桃寡,何不計功而食桃矣。接一搏猏而再搏乳虎,若接之功,可以食桃而無與人同矣。”援桃而起。
田開疆曰:“吾仗兵而卻三軍者再,若開疆之功,亦可以食桃,而無與人同矣。”援桃而起。
古冶子曰:“吾嘗從君濟于河,黿銜左驂以入砥柱之流。當是時也,冶少不能游,潛行逆流百步,順流九里,得黿而殺之,左操驂尾,右挈黿頭,鶴躍而出。津人皆曰:‘河伯也!’若冶視之,則大黿之首。若冶之功,亦可以食桃而無與人同矣。二子何不反桃!”抽劍而起。
公孫接、田開疆曰:“吾勇不子若,功不子逮,取桃不讓,是貪也;然而不死,無勇也。”皆反其桃,挈領而死。
古冶子曰:“二子死之,冶獨生之,不仁;恥人以言,而夸其聲,不義;恨乎所行,不死,無勇。雖然,二子同桃而節,冶專其桃而宜。”亦反其桃,挈領而死。
使者復曰:“已死矣。”公殮之以服,葬之以士禮焉。

 
becaae45.JPG《景公勇士三人を養ふ、君臣の義なし、晏子諌む》【第二十四】
  公孫接・田開彊・古冶子らは景公に仕えた。勇力があり、虎を手で討ち取ることで有名であった。
晏子が彼らの前を小走りで通り過ぎても、彼らは立ち上がらなかった。
晏子は公に見えて「臣はこう聞いています。明君が勇力の士を仕えさせるときには、上には君臣の義があり、下には年順のすじちみがある。内においては暴を禁じ、外においては敵を威圧する。上はその功を有し、下はその勇に服すと。ゆえにその位を尊くして、その禄を重くしているのです。
 いま君は勇力の士を仕えさせ、上は君臣の義なく、下は年順のすじみちがありません。内に暴を禁じず、外には敵を威圧していません。これは国を危うくするやからです。これを去らせるべきです」と言った。
 公は「三人を手で捕らえようとしてもできず、これを刺し殺そうとしてもおそらく当たらないだろう」と言った。
晏子は「彼らはみな力で攻め、それによって敵に当たるもので、年順の礼はありません。公に請います。人をやって彼らに二つの桃を送らせてください。そして『三人それぞれ自分のてがらを計った上で、二個の桃を食べよ』と言わさせてください」と言った。
 公孫接は天を仰いで嘆じて「晏子は智者である。公に我らのてがらを比べさせたのだ。桃を受けなければ、勇のないことになる。今、三人いるが桃は二つである。どうして功を計って桃を食わないことがあろうか。
 接は雄の鹿を討ち、また子持ちの虎を討った。接の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。
 田開彊は「わしは兵を率いて軍を退けること二回であった。開彊の功は桃を食べられるほどで、人にはできないことだ」と言い、桃をとって立ち上がった。
古冶子は「わしはかつて君に従って黄河を渡った。大すっぽんが馬車のそえ馬を加えて中流の砥柱山にもぐっていったとき、冶子は泳ぐことができないので水底を行き、流れに逆らうこと100歩、 流れに従うこと9里にして大すっぽんを殺した。
 左手にそえ馬を操り、右手に大すっぽんの頭をひっさげて踊り出た。渡しもりたちは皆河伯であると言い、これを見たら大すっぽんの首であった。
冶の功はまた桃を食べられるほどで、人にはできないことだ。桃を返されよ」と言い、剣を抜いて立ち上がった。
 公孫接と田開彊は「わしの勇はあなたに勝らず、功はあなたに及ばない。桃を取って譲らないのは貪ることになる。ここで死なないのは勇がないことになる」と言い、ふたりは桃を返して、首を切って死んだ。
古冶子は「ふたりがここで死んで、冶がひとり生きるのは不仁である。人に恥をかかせるのに言葉をもってして、自分だけが勇士の名声を誇るの不義である。
 然りと雖もふたりの功績は同等であるから、一個の桃を分けて食べたらよく、自分が一個の桃を食べればよかったのだ」と言い、またその桃を返して、頭を打ち付けて死んだ。
使者は復命して「彼らはすでに死にました」と言った。
 公は死者に衣をかぶせて、これを葬るのに士礼をもってした。
 
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