瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
きのうは、「むらた」で、Y氏が、3人の話が弾むのを見て「三笑」という謡曲の話を披露した。
今戸一丁目の山谷堀公園脇に曹洞宗の「潮江院」というと寺があり、ここに初代 三笑亭可楽の墓がある。毎春4月の初め、桜の花の満開の頃、ここで三笑亭一門によって、落語会が開かれ、そのあと初代可楽の法要が行われる「可楽まつり」が開かれる。
三笑亭可楽は江戸時代より続く落語家の名跡であり、当代は9代目という。名前の由来は「山椒は小粒でひりりと辛い」から、「三生亭花楽」としたが、松戸の贔屓筋から、『虎渓三笑』の故事にちなんで「三笑亭可楽」にしたという。
虎渓三笑は水墨画の画題して有名であるが、北宋時代の県知事陳舜兪が退官後、盧山の南に隠居して、著したという『廬山記』に:――恵遠法師、盧阜に居ること三十余年、客を送るに足跡未だ嘗て虎渓を過ぎず。時に陶元亮、栗里に居る。陸修静も亦有道の士なり。恵師この二人を送るに、与に語りて道合し、覚えず虎渓を過愚。因って大いに笑う、今の世に三笑図を伝う―― とある。
即ち、虎渓三笑とは、儒、仏、道の三賢者が一堂に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、すっかり夢中になってしまったという故事となったのであろう。しかし、この3人生没年があわないので、虎渓三笑の話は作り話とされている。
* ①恵遠(慧遠)法師(334~416年): 4世紀、高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。
②陶潜(365~427年)の名前と字については諸説があり、『晋書』隠逸伝では「陶潜、字元亮」、『南史』隠逸伝では「陶潜、字淵明。或云、字淵明、名元亮」とある。
③陸修静(りくしゅうせい、406―477年)は東晋末~南朝宋の道士。字は元徳、号は簡寂先生、諡号は高道処士。呉興(浙江省)東遷の人。南朝宋の明帝が467年(泰始3)に都の建康の北郊に崇虚館を建てて迎えたことで有名。
N氏は地域の戦没遺族会の会長を務めている。年齢的に最年長者ということもあって会長職を引き受けたのだという。近いうちにその法要が行われるらしいが、盛んに「その日を境に俺は死んじゃうのではないか」という。Y氏が「プールで1000m泳いでいる人が何を言うか」と、元気付けていたが、まあ、この年になってあまり生死については考えないほうがよいのではないか。拙痴无爺などは日がな一日、起きているのか眠っているのかいつも頭がボーとしている。テレビを見ていてもいつの間にか眠ってしまうし、本など読み始めて5分もしないうちにお目めがつぶってしまう。こういう状態を「認知症」というのかもしれない。まあ、こんな状態のまま気がつかぬうちにお陀仏してしまえば、こんな幸せなことはあるまい。
長歌行 漢・古樂府
青青園中葵、 青青たる 園中の 葵、
朝露待日晞。 朝露 日を 待ちて 晞(かわ)く。
陽春布德澤、 陽春 德澤を 布(し)き、
萬物生光輝。 萬物 光輝を 生ず。
常恐秋節至、 常に恐る 秋節の 至りて、
焜黄華葉衰。 焜黄せる 華葉の 衰ふを。
百川東到海、 百川 東のかた 海に 到るも、
何時復西歸。 何(いづ)れの時か 復(ま)た 西に歸らん。
少壯不努力、 少壯にして 努力をせざれば、
老大徒傷悲。 老大になりて 徒(いたづ)らに 傷悲せん。
人のいのち
青々としげれる畑の葵(あおい)
朝露はさしのぼる日に乾く
うららかな春に恵みはうるおい
万物は生命の光を放つ
気がかりなのは 秋が来て
すべての川の東して海に注げば
ふたたび西に帰ることなし
若い時代(とき)に励んでおかねば
年とって悲しみかこつこととなろう
長歌行とは、楽府題(がふだい)の一つで、「短歌行」とともに、寿命の長短について歌うところからつけられた名称だという。晋の崔豹(生没年不詳)の『古今注』によれば、「長歌・短歌とは、人の寿命の長短、各おの定分ありて、妄りに求むべからざるを言うなり」とある。
今戸一丁目の山谷堀公園脇に曹洞宗の「潮江院」というと寺があり、ここに初代 三笑亭可楽の墓がある。毎春4月の初め、桜の花の満開の頃、ここで三笑亭一門によって、落語会が開かれ、そのあと初代可楽の法要が行われる「可楽まつり」が開かれる。
三笑亭可楽は江戸時代より続く落語家の名跡であり、当代は9代目という。名前の由来は「山椒は小粒でひりりと辛い」から、「三生亭花楽」としたが、松戸の贔屓筋から、『虎渓三笑』の故事にちなんで「三笑亭可楽」にしたという。
虎渓三笑は水墨画の画題して有名であるが、北宋時代の県知事陳舜兪が退官後、盧山の南に隠居して、著したという『廬山記』に:――恵遠法師、盧阜に居ること三十余年、客を送るに足跡未だ嘗て虎渓を過ぎず。時に陶元亮、栗里に居る。陸修静も亦有道の士なり。恵師この二人を送るに、与に語りて道合し、覚えず虎渓を過愚。因って大いに笑う、今の世に三笑図を伝う―― とある。
即ち、虎渓三笑とは、儒、仏、道の三賢者が一堂に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、すっかり夢中になってしまったという故事となったのであろう。しかし、この3人生没年があわないので、虎渓三笑の話は作り話とされている。
* ①恵遠(慧遠)法師(334~416年): 4世紀、高僧慧遠は廬山に東林寺を建てた。慧遠は太元9年(384年)の来住以来、一生、山外に出ないと誓いを立てたとされ、そのことにちなんだ「虎渓三笑」の説話の舞台もこの山である。また慧遠は蓮池を造り、その池に生える白蓮にちなんだ「白蓮社」と呼ばれる念仏結社を結成したとされ、中国の浄土教の祖とされている。
②陶潜(365~427年)の名前と字については諸説があり、『晋書』隠逸伝では「陶潜、字元亮」、『南史』隠逸伝では「陶潜、字淵明。或云、字淵明、名元亮」とある。
③陸修静(りくしゅうせい、406―477年)は東晋末~南朝宋の道士。字は元徳、号は簡寂先生、諡号は高道処士。呉興(浙江省)東遷の人。南朝宋の明帝が467年(泰始3)に都の建康の北郊に崇虚館を建てて迎えたことで有名。
N氏は地域の戦没遺族会の会長を務めている。年齢的に最年長者ということもあって会長職を引き受けたのだという。近いうちにその法要が行われるらしいが、盛んに「その日を境に俺は死んじゃうのではないか」という。Y氏が「プールで1000m泳いでいる人が何を言うか」と、元気付けていたが、まあ、この年になってあまり生死については考えないほうがよいのではないか。拙痴无爺などは日がな一日、起きているのか眠っているのかいつも頭がボーとしている。テレビを見ていてもいつの間にか眠ってしまうし、本など読み始めて5分もしないうちにお目めがつぶってしまう。こういう状態を「認知症」というのかもしれない。まあ、こんな状態のまま気がつかぬうちにお陀仏してしまえば、こんな幸せなことはあるまい。
長歌行 漢・古樂府
青青園中葵、 青青たる 園中の 葵、
朝露待日晞。 朝露 日を 待ちて 晞(かわ)く。
陽春布德澤、 陽春 德澤を 布(し)き、
萬物生光輝。 萬物 光輝を 生ず。
常恐秋節至、 常に恐る 秋節の 至りて、
焜黄華葉衰。 焜黄せる 華葉の 衰ふを。
百川東到海、 百川 東のかた 海に 到るも、
何時復西歸。 何(いづ)れの時か 復(ま)た 西に歸らん。
少壯不努力、 少壯にして 努力をせざれば、
老大徒傷悲。 老大になりて 徒(いたづ)らに 傷悲せん。
人のいのち
青々としげれる畑の葵(あおい)
朝露はさしのぼる日に乾く
うららかな春に恵みはうるおい
万物は生命の光を放つ
気がかりなのは 秋が来て
すべての川の東して海に注げば
ふたたび西に帰ることなし
若い時代(とき)に励んでおかねば
年とって悲しみかこつこととなろう
長歌行とは、楽府題(がふだい)の一つで、「短歌行」とともに、寿命の長短について歌うところからつけられた名称だという。晋の崔豹(生没年不詳)の『古今注』によれば、「長歌・短歌とは、人の寿命の長短、各おの定分ありて、妄りに求むべからざるを言うなり」とある。
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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