瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
「國破れて山河在り 城春にして草木深し 時に感じて花にも涙を濺(そそ)ぎ 別れを恨んで鳥にも心を驚かす 峰火三月(さんげつ)に連なり 家書萬金に抵(あた)る 白頭掻いて更に短かし 渾(す)べて簪(しん)に勝(た)えざらんと欲す」
本日、66年目の「敗戦の日」。昭和20年8月15日中国山地にある町、三次で敗戦を迎えた。昭和21年春、拙痴无爺は疎開先の農家に預けれられ、母と姉は一足さきに北九州に帰っていった。中学2年になったばかりの春、漢文で杜甫の「春望」を教わった。それから1年、昭和22年の春、北九州に帰った。
隅田川沿いを徘徊しながら、思い出し、思い出ししつつ、この「春望」を反復暗誦してみる。
本日は旧暦7月16日、5時20分頃、水神大橋西詰でご来光。西の空には十六夜の月が沈もうとしている。
五噫歌 漢 梁鴻 五噫の歌 漢 梁鴻(りょうこう)
陟彼北芒兮、噫! 彼の北芒に 陟(のぼ)りて、噫(ああ)!
顧瞻帝京兮、噫! 帝京を 顧瞻して、噫!
宮闕崔巍兮、噫! 宮闕 崔巍として、噫!
民之劬勞兮、噫! 民の 劬勞は、噫!
遼遼未央兮、噫! 遼遼 未だ央(つ)きず、噫!
(訳) 五つのためいきの歌 梁鴻
かの北芒の山にのぼって ああ
都のかたを見下ろせば ああ
宮居はたかだかと聳え立ち ああ
民草の苦しみは ああ
いつ果てるとも鳴く ああ
『後漢書』逸民伝は、隠遁者梁鴻がたまたま都(洛陽)を通った時この歌を作ったとして全文を載せ、時の肅宗皇帝はこれを聞いて怒り、鴻を探させたが、鴻は姓名を変えて身を晦ましたと言う。
梁鴻の現存する詩は、本篇のほか「思友詩」「適呉詩」の2篇(ともに『後漢書』逸民伝所載)にすぎないという。
後漢書 逸民伝 より
居有頃,妻曰:“常聞夫子欲隱居避患,今何為默默?無乃欲低頭就之乎?”鴻曰:“諾。”乃共入霸陵山中,以耕織為業,詠詩書,彈琴以自娛。仰慕前世高士,而為四皓以來二十四人作頌。
因東出關,過京師,作五噫之歌曰:“陟彼北芒兮,噫!顧覽帝京兮,噫!宮室崔嵬兮,噫!人之劬勞兮,噫!遼遼未央兮,噫!”肅宗聞而非之,求鴻不得。乃易姓運期,名燿,字侯光,與妻子居齊魯之閒。
こうして(結婚して)暫く経ったとき、妻が言った。
「いつかあなたは侘び住まいして世のごたごたを避けたいとおっしゃいましたね。いまどうしてぐずぐずしているんです? まさか頭を下げて就職するおつもりではないでしょうね?」
鴻は言う、「よし」と。 そこでともども覇陵(陝西省長安県)の山中に入り、田を耕し機を織って暮らした。詩を詠じ書を読み、琴を弾いて楽しむ。遥かに前代の隠者を慕い四皓(秦・漢の乱を商山にさけた四人の老人)以来の二十四人の讃歌を作った。東のかた函谷関を出て、洛陽の都を通ったついでに、五噫の歌を作った。
かの北芒(山名)に陟(のぼ)り、噫!
顧みて帝京を覧(み)るに、噫!
宮室は崔嵬(さいかい)たり、噫!
人の劬(いたづ)き労(つか)るる、噫!
遼々(はるかなるさま)としていまだ央(つ)きず、噫!
章帝はこれを聞いて怪しからぬと思い、鴻を捜したが捉まらぬ。鴻はそこで姓を運期、名を燿、字を侯光と改め、妻子とともに斉魯の間(山東省)に隠れ住んだ。
本日、66年目の「敗戦の日」。昭和20年8月15日中国山地にある町、三次で敗戦を迎えた。昭和21年春、拙痴无爺は疎開先の農家に預けれられ、母と姉は一足さきに北九州に帰っていった。中学2年になったばかりの春、漢文で杜甫の「春望」を教わった。それから1年、昭和22年の春、北九州に帰った。
隅田川沿いを徘徊しながら、思い出し、思い出ししつつ、この「春望」を反復暗誦してみる。
本日は旧暦7月16日、5時20分頃、水神大橋西詰でご来光。西の空には十六夜の月が沈もうとしている。
五噫歌 漢 梁鴻 五噫の歌 漢 梁鴻(りょうこう)
陟彼北芒兮、噫! 彼の北芒に 陟(のぼ)りて、噫(ああ)!
顧瞻帝京兮、噫! 帝京を 顧瞻して、噫!
宮闕崔巍兮、噫! 宮闕 崔巍として、噫!
民之劬勞兮、噫! 民の 劬勞は、噫!
遼遼未央兮、噫! 遼遼 未だ央(つ)きず、噫!
(訳) 五つのためいきの歌 梁鴻
かの北芒の山にのぼって ああ
都のかたを見下ろせば ああ
宮居はたかだかと聳え立ち ああ
民草の苦しみは ああ
いつ果てるとも鳴く ああ
『後漢書』逸民伝は、隠遁者梁鴻がたまたま都(洛陽)を通った時この歌を作ったとして全文を載せ、時の肅宗皇帝はこれを聞いて怒り、鴻を探させたが、鴻は姓名を変えて身を晦ましたと言う。
梁鴻の現存する詩は、本篇のほか「思友詩」「適呉詩」の2篇(ともに『後漢書』逸民伝所載)にすぎないという。
後漢書 逸民伝 より
居有頃,妻曰:“常聞夫子欲隱居避患,今何為默默?無乃欲低頭就之乎?”鴻曰:“諾。”乃共入霸陵山中,以耕織為業,詠詩書,彈琴以自娛。仰慕前世高士,而為四皓以來二十四人作頌。
因東出關,過京師,作五噫之歌曰:“陟彼北芒兮,噫!顧覽帝京兮,噫!宮室崔嵬兮,噫!人之劬勞兮,噫!遼遼未央兮,噫!”肅宗聞而非之,求鴻不得。乃易姓運期,名燿,字侯光,與妻子居齊魯之閒。
こうして(結婚して)暫く経ったとき、妻が言った。
「いつかあなたは侘び住まいして世のごたごたを避けたいとおっしゃいましたね。いまどうしてぐずぐずしているんです? まさか頭を下げて就職するおつもりではないでしょうね?」
鴻は言う、「よし」と。 そこでともども覇陵(陝西省長安県)の山中に入り、田を耕し機を織って暮らした。詩を詠じ書を読み、琴を弾いて楽しむ。遥かに前代の隠者を慕い四皓(秦・漢の乱を商山にさけた四人の老人)以来の二十四人の讃歌を作った。東のかた函谷関を出て、洛陽の都を通ったついでに、五噫の歌を作った。
かの北芒(山名)に陟(のぼ)り、噫!
顧みて帝京を覧(み)るに、噫!
宮室は崔嵬(さいかい)たり、噫!
人の劬(いたづ)き労(つか)るる、噫!
遼々(はるかなるさま)としていまだ央(つ)きず、噫!
章帝はこれを聞いて怪しからぬと思い、鴻を捜したが捉まらぬ。鴻はそこで姓を運期、名を燿、字を侯光と改め、妻子とともに斉魯の間(山東省)に隠れ住んだ。
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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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