瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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抱卜子  外篇 第三十八 博喩
20.抱樸子曰:卑高不可以一概齊,餐廩不可以勸沮化。是以惠施患從車之苦少,莊周憂得魚之方多。
 抱僕子が言う、高い低いは一つ基準でならすことはできない。禄に対する関心の程度は説得によって変えることはできない。
 だから恵施(魏の相)はお供の車を沢山引き連れながら、まだ少な過ぎるはせぬかと気に病んだ。荘子は釣りあげた魚が晩飯には多すぎはせぬかと思い、その分を川に捨てた。

淮南子 斉俗篇 第十一 より
今從箕子視比干、則愚矣;從比干視箕子、則卑矣;從管、晏視伯夷、則戇矣;從伯夷視管、晏、則貪矣。趨舍相非、嗜欲相反、而各樂其務、將誰使正子?曾子曰:“擊舟水中、鳥聞之而高翔、魚聞之而淵藏。”故所趨各異、而皆得所便。
故惠子從車百乘、以過孟諸、莊子見之、棄其餘魚。鵜胡飲水數鬥而不足、鱔鮪入口若露而死。智伯有三晉而欲不澹、林類、榮啟期、衣若縣衰而意不慊。由此觀之、則趣行各異、何以相非也!
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7cb8effc.JPG(訳)今箕子より比干を見れば愚であろう。比干から箕子を見ればいやしかろう。管子・晏子より伯夷(殷末の隠者)を見れば愚直、伯夷より管・晏を見れば貪りとなろう。それぞれが、他の赴くところを非としているし、欲望が背きあう。それぞれが、その務めを楽しむならば、誰がこれを正せよう。曾子が言った、「舟を水中に押しやれば鳥はこれを聞いて高く翔(かけ)り、魚はこれを聞き淵に隠れる」と。おのおのの趣くところこそ異なれ、その便をえていればこそ。
 だから、恵子が車百乗を従えて孟諸(もうしょ、河南省商丘県)の沢を通り過ぎた時、荘子がこれを見て、みずからの余分の魚を棄てたという。鵜胡(うこ、大きな鳥)は数斗の水を飲んでもまだ足らず、鱔鮪(ぜんゆう、小さな虫)は露ほどの水を含んだだけで余る。智伯は三晋を合わせてもまだ足りず、林類や栄啓期は、蓑のような服を着けていても人を羨まぬ。してみれば、趣くところが異なればとて、何で互いに誹れよう。

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