瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 朝の徘徊では、公園に入ると早朝より蝉の声がひとしきり。
797d58f4.JPG 王籍(おうせき、生卒年不詳)は南北朝時代・梁の詩人。五言詩「入若耶溪」中の「蝉噪林逾静 鳥鳴山更幽」対句はあまりに有名で、「閑さや岩にしみ入る 蝉の声」と詠んだ芭蕉は多分この詩を知っていたのだろう。 若耶溪(じゃくやけい)は紹興の近くにある名勝で、西施がこの畔で生まれたと云われている。古来、多くの文人墨客が訪れたところだという。

d7697781.JPG 美しく飾った舟がゆらりゆらりと浮かび、
 空と水は共にゆったりとしている。
 暗い霞が遠くの峰にかかり、
 明るい陽射しが流れを逐って輝く。
 蝉の鳴き声が林の静けさをますます深いものにし、
 鳥が鳴くと山が更に幽玄の感を増す。
 この地にいると故郷を思う心が沸き起こり、
 長年の憂き旅を悲しく思うのだ。

10c19987.JPG 昨日取り上げた「塩車の憾み」という成語は英才の報いられぬ憾みをいうのであるが、この語は前漢 賈誼の「弔屈原賦」の「驥垂兩耳、服鹽車兮→驥(き)両耳を垂れ、塩車に服す」が出典であるとする説もある。

漢賦‧吊屈原賦‧賈誼
誼為長沙王太傅、既以謫去、意不自得;及度湘水、為賦以吊屈原。屈原、楚賢臣也。被讒放逐、作《離騷》賦、其終篇曰:“已矣哉!國無人兮、莫我知也。”遂自投汨羅而死。誼追傷之、因自喻、其辭曰:

恭承嘉惠兮、俟罪長沙;側聞屈原兮、自沉汨羅。造讬湘流兮、敬吊先生;遭世罔極兮、乃殞厥身。嗚呼哀哉!逢時不祥。鸞鳳伏竄兮、鴟梟翱翔。闒茸尊顯兮、讒諛得志;賢聖逆曳兮、方正倒植。世謂隨、夷為溷兮、謂跖、蹻為廉;莫邪為鈍兮、鉛刀為銛。吁嗟默默、生之無故兮;斡棄周鼎、寶康瓠兮。騰駕罷牛、驂蹇驢兮;驥垂兩耳、服鹽車兮。章甫薦履、漸不可久兮;嗟苦先生、獨離此咎兮。
訊曰:已矣!國其莫我知兮、獨壹鬱其誰語?鳳漂漂其高逝兮、固自引而遠去。襲九淵之神龍兮、?"深潛以自珍;偭蟂獺以隱處兮、夫豈從蝦與蛭蟥?所貴聖人之神德兮、遠濁世而自藏;使騏驥可得係而羈兮、豈雲異夫犬羊?般紛紛其離此尤兮、亦夫子之故也。歷九州而其君兮、何必懷此都也?鳳凰翔于千仞兮、覽德輝而下之;見細德之險徵兮、遙曾擊而去之。彼尋常之污瀆兮、豈能容夫吞舟之巨魚?橫江湖之鳣鯨兮、固將制于螻蟻。
 わたくしは長沙王の太傅とはなったが、君側から遠ざけられたのであるから、心中おもしろくはなかった。湘水(湖南省を流れて洞庭湖に入る河)を渡るに当たって、賦を作って屈原を弔った。屈原は楚の国のけんしんである。彼は讒言にあって追放され、「離騒」の賦を作った。その篇末(乱の部分)には「やんぬるかな、国には人物(ひと)なく、吾を知るものなし」と歌い、遂に汨羅(湖南省を流れる湘水に入る川)に身を投げて死んだ。わたしは追悼し、それによって自己の心境をなぞらえた。それはつきの如くである。

 みことのりをかしこみ、罪の決定を長沙にてお待ち致します。屈原は汨羅に身を投じたとかききました。私は湘水のほとりにまいり、流れに寄せて弔意を評した次第です。
 世の乱れにかかずらい、身を滅ぼされとは。ああ哀しいことよ、好ましくない時代に生まれあわされた。鳳の類は隠れ伏し、梟どもは天翔がける。つまらぬ輩は世にときめき、媚び諂い、人をあしざまに言う奴は出世する。立派な人間は押しのけられ、正道を歩む者はひどい仕打ちにあう。世の中では言っている卞随・伯夷(ともに殷の節義の士)はくわせもの、盗跖・荘蹻(魯と楚の大盗賊)は身ぎれいだ。莫邪の剣はなまくらで、鉛の剣はするどいぞと。
facd4f64.JPG ああ、先生(屈原)は何の理由もないままに、辛い定めに落ちられた。周の鼎は捨てられて、破れがめは宝物となり、疲れ牛は乗用に供せられ、びっこの驢馬は副馬(そえうま)となるも、名馬は両耳を垂れ、塩つむ車を引き、章甫の冠(殷代の黒い布の冠、儒者の冠)は履の下敷きとなる。かくては、もはや長続きは適わぬこと。ああ、いちわしや先生、おん身ひとりこの憂患(くるしみ)にかかられた。
 反歌にはいう。ああ、すべては終った。国には私を知ってくれるものはいない。あなたひとりが愁いに沈みつつも、誰に話しかけようとはなさる。鳳の軽やかに空高く翔けるは、自ら身を引き遠くへ去らんがためであり、深い淵に住む神龍は、ひそみかくれて己が身をいとおしむ。井守どもに背を向けて、引きこもるからは、どうして蟇(がま)や蛭・蚯蚓と交わり住むであろうか。貴ぶべきは、聖人の徳として、穢れた世から遠ざかり、自己を包み隠すこと。駿馬も繋ぎ止められれば、どこに犬や羊と異なるところがありましょうや。
 世の様、千々(ちぢ)に乱れるにも拘らず、この憂患にかかられたは、おん身自らが招かれたこと。全土をくまなく巡られれば、頼むべきお方にも会われたろうに、何故に、この国にのみ執着なさる。鳳凰は遥か上空を翔けるも、徳備わる人を見れば、舞い下り、徳薄き人に危険な兆しを見れば、翼羽ばたき遠く高く去り行きます。わずかな幅の溝の中に、どうして舟を呑み込む魚がいられましょうや。江湖に浮かぶ鱣鯨(おおうお)も溝に横たえられたなら、螻蛄(けら)や蟻にすき放題に振る舞われるは当然でありましょう。
 

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屈原の『離騒』
 また注文していいですか。屈原の『離騒』にある「路曼曼其修遠兮,吾将上下而求索」という一句はよく人口に膾炙しています(少なくとも中国の人々にとって)。その日本語バージョンをぜひ瘋癲爺にお願いいたしたいですね。

シン 2011/07/28(Thu) 編集
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目高 拙痴无
年齢:
92
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1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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