瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
本日は敬老の日だそうだ。先週、町会から「敬老の日のお祝いです」とカステラとドラ焼きの包みが2つ届けられたそうだ。敬老の日はこの瘋癲爺にとってはあっても無くても余り関係ない。
今朝のウェブニュースから
「シルバー世代」や「シルバー人材センター」という言葉があるように、シルバー(銀色)は、高齢者の代名詞としても使われている。ただし、英語のシルバーに、そんな意味はまったくない。昭和48(1973)年の「敬老の日」に、国鉄(現JR)が中央線に導入した「シルバーシート」に由来する。
▼JR東海相談役の須田寛さんによると、高齢者や身体障害者の優先席をシートの色で示すために、新幹線のこだまに使われていたシルバーグレーの布を採用した。「別の色の布だったら、違う名前だったかもしれません」という。▼「許しましょうああ許しましょう シルバーシートに座ってる 若さ眩(まぶ)しいあなた達 タヌキ寝入りか瞑想(めいそう)中か あるいはほんとに夢の中?」。詩人の川崎洋さんが、『許しましょうソング』のなかで、お年寄りに席を譲る気のない若者をからかっている。▼シルバーシートから、優先席に名前が変わっても、車内の光景は変わらない。「いっそのことなくしてしまい、すべての席をお年寄りや体の不自由な人に譲るマナーを広めるべきだ」「優先席ですら譲らない人が多い現実を、無視している」。新聞の投書欄などで、「シルバーシート是非論」が、何度も繰り返されてきた。▼9月15日から、いつのまにか9月の第3月曜日になった敬老の日にも、同じ議論がある。昨年の今ごろは、役所の記録には残っているものの、実は所在や生死がわからない100歳以上の男女が多数いることがわかり、大騒ぎになっていた。▼確かに、年長者への感謝と尊敬の念がこの国に満ちていれば、わざわざ特定の日を、国民の祝日にする必要はない。そんな日がいつか、やって来るのだろうか。 【産経抄】2011.9.19 03:06
韓非子 説林上 より
管仲、隰朋從於桓公而伐孤竹,春往冬反,迷惑失道,管仲曰:“老馬之智可用也。”乃放老馬而隨之,遂得道。行山中無水,隰朋曰:“蟻冬居山之陽,夏居山之陰,蟻壤一寸而仞有水。”乃掘地,遂得水。以管仲之聖,而隰朋之智,至其所不知,不難師於老馬與蟻,今人不知以其愚心而師聖人之智,不亦過乎。
〈訳〉管仲と隰朋の二人は、斉の桓公に従って遼東の孤竹君(こちくくん)を討伐した。行きは春だったが返りは冬となった。迷って道がわからなくなった。そこで管仲は「こういう時は、老馬の知恵が役に立つのだ」と言って、老馬を放って先に行かせ、この後ろについて行くと道を発見した。また山中で水がなくなってしまった。すると隰朋は、「蟻は、冬になると山の南に住み、山の北に住むもので、高さ一寸の蟻塚があると、その下、八尺のところにみずがあるものだ」と言ったので、それを目当てに地を掘ったところ、水を発見した。管仲のような賢人でも、また隰朋のような知者であっても、知らないことにあえば、躊躇せず老馬や蟻のようなものを師とするのである。ところが現在の人々は、愚かな心をしているくせに、聖人の知を師とすることを知らない。なんと間違ったことではないか。
いやはや、「騏驎の衰うるや、駑馬これに先んじ、孟賁(勇者の名)の疲るるや、女子これに優る」ともいう。長寿は目出度いものと言うが、本当に長寿を満喫している高齢者がどれだけ居るのだろう。かくいう、瘋癲爺も、来年は80歳、いつまで生き恥を晒せばよいのやら。
歩出夏門行
曹操
神亀雖寿 神亀は寿(いのちなが)しといえども
猶有竟時 なお終る時あり
騰蛇乗霧 騰蛇は霧に乗ずるも
終為土灰 終には土灰となる
老驥伏櫪 老驥は櫪に伏すも
志有千里 志 千里にあり
烈士暮年 烈士暮年
壮心不已 壮心やまず
〈訳〉亀の中には稀にものすごい長寿のものがあるというが、
それでも命に終わりはある。
竜は霧に乗って舞い上がるというが、
最後は土くれになってしまう。
しかし千里を駆ける駿馬は、たとえ老いて馬屋にあっても
志は千里を駆け巡っている。
男児たるもの、年老いたからといって
熱い気持ちを止められるものではないのだ。
今朝のウェブニュースから
▼JR東海相談役の須田寛さんによると、高齢者や身体障害者の優先席をシートの色で示すために、新幹線のこだまに使われていたシルバーグレーの布を採用した。「別の色の布だったら、違う名前だったかもしれません」という。▼「許しましょうああ許しましょう シルバーシートに座ってる 若さ眩(まぶ)しいあなた達 タヌキ寝入りか瞑想(めいそう)中か あるいはほんとに夢の中?」。詩人の川崎洋さんが、『許しましょうソング』のなかで、お年寄りに席を譲る気のない若者をからかっている。▼シルバーシートから、優先席に名前が変わっても、車内の光景は変わらない。「いっそのことなくしてしまい、すべての席をお年寄りや体の不自由な人に譲るマナーを広めるべきだ」「優先席ですら譲らない人が多い現実を、無視している」。新聞の投書欄などで、「シルバーシート是非論」が、何度も繰り返されてきた。▼9月15日から、いつのまにか9月の第3月曜日になった敬老の日にも、同じ議論がある。昨年の今ごろは、役所の記録には残っているものの、実は所在や生死がわからない100歳以上の男女が多数いることがわかり、大騒ぎになっていた。▼確かに、年長者への感謝と尊敬の念がこの国に満ちていれば、わざわざ特定の日を、国民の祝日にする必要はない。そんな日がいつか、やって来るのだろうか。 【産経抄】2011.9.19 03:06
韓非子 説林上 より
管仲、隰朋從於桓公而伐孤竹,春往冬反,迷惑失道,管仲曰:“老馬之智可用也。”乃放老馬而隨之,遂得道。行山中無水,隰朋曰:“蟻冬居山之陽,夏居山之陰,蟻壤一寸而仞有水。”乃掘地,遂得水。以管仲之聖,而隰朋之智,至其所不知,不難師於老馬與蟻,今人不知以其愚心而師聖人之智,不亦過乎。
いやはや、「騏驎の衰うるや、駑馬これに先んじ、孟賁(勇者の名)の疲るるや、女子これに優る」ともいう。長寿は目出度いものと言うが、本当に長寿を満喫している高齢者がどれだけ居るのだろう。かくいう、瘋癲爺も、来年は80歳、いつまで生き恥を晒せばよいのやら。
歩出夏門行
曹操
神亀雖寿 神亀は寿(いのちなが)しといえども
猶有竟時 なお終る時あり
騰蛇乗霧 騰蛇は霧に乗ずるも
終為土灰 終には土灰となる
老驥伏櫪 老驥は櫪に伏すも
志有千里 志 千里にあり
烈士暮年 烈士暮年
壮心不已 壮心やまず
それでも命に終わりはある。
竜は霧に乗って舞い上がるというが、
最後は土くれになってしまう。
しかし千里を駆ける駿馬は、たとえ老いて馬屋にあっても
志は千里を駆け巡っている。
男児たるもの、年老いたからといって
熱い気持ちを止められるものではないのだ。
秋風辞
漢 武帝 劉轍
秋風起兮白雲飛 秋風起って 白雲飛び
草木黄落兮雁南歸 草木黄落して 雁南に歸る
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀有り 菊に芳有り
懷佳人兮不能忘 佳人を懷うて 忘るる能はず
泛樓船兮濟汾河 樓船を泛べて 汾河を濟り
橫中流兮揚素波 中流に橫たはりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮發棹歌 簫鼓鳴りて 棹歌を發す
歡樂極兮哀情多 歡樂極りて 哀情多し
少壯幾時兮奈老何 少壯幾時ぞ 老いを奈何せん
〈訳〉秋風が立って白雲が飛び、
草木は黄ばみ落ちて雁が南に歸る、
蘭(ふじばかま)や菊が香るこの季節、
佳人が思い起こされて忘れることができない。
樓船(2階建ての船)を泛べて汾河を渡り、
中流に横たわって白い波をあげる、
船内は弦歌が鳴り響いて歓楽が極まるうちにも、なぜか憂いの感情が起こってくる。
若いときはいつまでも続かぬ、老いていく身をどうすることもできない。
前漢の武帝(BC156~87年〉は第7代皇帝。諱は徹。廟号は世宗。正式な諡号は孝武皇帝。BC141年に即位。BC87年に退位。前漢最盛期の皇帝で郷挙里選の法と呼ばれる官吏任用法を採用したことで有名。また、董仲舒(BC176?~104年?)の献策により五経博士を設置し、儒教を官学とした。外征では匈奴や衛氏朝鮮などの周辺諸国と戦った。
この秋風賦は武帝44歳のときの作。この年、武帝は山西省の汾陰に行幸して后土(土地神)を祭り、群臣とともに汾河に船を浮かべて行楽した。
汾上驚秋 汾上、秋に驚く
蘇頲 蘇頲(そてい)
北風吹白雲 北風白雲を吹き
萬里渡河汾 萬里河汾(かふん)を渡る
心緒逢揺楽 心緒(しんしょ)揺落(ようらく)に逢い
秋聲不可聞 秋聲(しゅうせい)聞く可(べ)からず
〈訳〉今や、秋風が白雲を吹き流す日。
我は万里を隔てた遠くに在り、この汾河を渡ろうとしている。
旅の思いに沈む我に、万物の枯れ凋む季節に巡り合っては、
秋の悲しい声には、とても聞くに堪えられぬのである。
蘇頲(670~727)
字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)、進士に及第した。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任した。また玄宗の信任もあつく、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜられて玄宗を補佐した。
漢 武帝 劉轍
秋風起兮白雲飛 秋風起って 白雲飛び
草木黄落兮雁南歸 草木黄落して 雁南に歸る
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀有り 菊に芳有り
懷佳人兮不能忘 佳人を懷うて 忘るる能はず
泛樓船兮濟汾河 樓船を泛べて 汾河を濟り
橫中流兮揚素波 中流に橫たはりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮發棹歌 簫鼓鳴りて 棹歌を發す
歡樂極兮哀情多 歡樂極りて 哀情多し
少壯幾時兮奈老何 少壯幾時ぞ 老いを奈何せん
草木は黄ばみ落ちて雁が南に歸る、
蘭(ふじばかま)や菊が香るこの季節、
佳人が思い起こされて忘れることができない。
樓船(2階建ての船)を泛べて汾河を渡り、
中流に横たわって白い波をあげる、
船内は弦歌が鳴り響いて歓楽が極まるうちにも、なぜか憂いの感情が起こってくる。
若いときはいつまでも続かぬ、老いていく身をどうすることもできない。
この秋風賦は武帝44歳のときの作。この年、武帝は山西省の汾陰に行幸して后土(土地神)を祭り、群臣とともに汾河に船を浮かべて行楽した。
汾上驚秋 汾上、秋に驚く
蘇頲 蘇頲(そてい)
北風吹白雲 北風白雲を吹き
萬里渡河汾 萬里河汾(かふん)を渡る
心緒逢揺楽 心緒(しんしょ)揺落(ようらく)に逢い
秋聲不可聞 秋聲(しゅうせい)聞く可(べ)からず
我は万里を隔てた遠くに在り、この汾河を渡ろうとしている。
旅の思いに沈む我に、万物の枯れ凋む季節に巡り合っては、
秋の悲しい声には、とても聞くに堪えられぬのである。
字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)、進士に及第した。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任した。また玄宗の信任もあつく、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜられて玄宗を補佐した。
秋夜寄丘二十二員外 秋夜 丘二十二員外に寄す
韋応物
憶君屬秋夜 君を憶ひ 秋夜に属し
散歩詠涼天 散歩して 涼天に詠ず
山空松子落 山空しうして 松子落ち
幽人應未眠 幽人 応(まさ)に未だ眠らざるべし
〈訳〉君を想い 静かな秋の夜に
庭を歩き回って 涼しい空に詩を吟じている
君は人気のない山の中 松かさの落ちる音を聞いているか
ひっそりと暮らす君は きっとまだ眠っていないだろう
「丘二十二員外」は、友人の丘丹のこと、それに和したのが次の詩。
和韋使君秋夜見寄 韋使君の秋夜寄せらるるに和す
丘丹
露滴梧葉鳴 露滴り 梧葉鳴りて
秋風桂花發 秋風に 桂花発(ひら)く
中有學仙侶 中に仙を学ぶ侶(ともがら)有り
吹簫弄山月 簫を吹いて 山月を弄せり
韋応物(737?~792?)は中唐期の詩人。京兆(けいちょう、陝西省)万年県の人。若いころ侠気(きょうき)を重んじ、玄宗の近衛(このえ)士官として奔放な生活を送ったが、安禄山(あんろくざん)の乱で職を失ってから、心を入れ替えて勉強に励んだという。洛陽(らくよう)(河南省)丞(じょう)、櫟陽(れきよう)(陝西省)令、比部員外郎、滁州(ちょしゅう)(安徽(あんき)省)刺史(しし)、江州(江西省)刺史、左司郎中を歴任。蘇州(そしゅう)(江蘇省)刺史で終わったことから韋蘇州とよばれる。自然詩人として、「王(維)、孟(浩然(こうねん))、韋(応物)、柳(宗元)」と並称され、その詩風は「澄淡精緻(ちょうたんせいち)」と評されている。
丘丹 丘は姓、丘丹。二十二は排行。員外は官名、員外郎。長官の補佐役
登 楼 楼に登る
韋応物
茲楼日登眺 茲の楼 日に登り眺む
流歳暗蹉跎 流歳 暗に蹉跎たり
坐厭淮南守 坐して厭う淮南の守
秋山紅樹多 秋山 紅樹多し
高楼に登って 毎日あたりを眺める
来し方を懐えば おのずから悔やまれる
淮南の刺史となったが 嬉しくもなく
秋の山に 紅葉はみちている
「蹉跎」はつまずく、時機を失するの意で、後悔することのみ多いという意味。「淮南守」は滁州刺史〈じょしゅうしし〉のことで、刺史になったが嫌なことばかり多くて、美しいのは秋の山の紅葉だけだと、自然の美しさに心を和ませている。
聞 雁 雁を聞く
韋応物
故園眇何処 故園眇として何処ぞ
帰思方悠哉 帰思方まさに悠なる哉
淮南秋雨夜 淮南秋雨の夜
高斎聞雁来 高斎雁の来るを聞く
〈訳〉都の方は 漠として定かに見えず
帰心がつのって眠れない
淮南の夜に 秋雨が降り
楼上の部屋で 飛び来る雁の声を聞く

韋応物の任地滁州は淮水の南の地(淮南)にあたるので、刺史のときの作品と思われる。「故園」は生まれ故郷のことであるが、韋応物は京兆長安県の生まれなので、都を意味する。都が「眇何処」というのはあり得ないことなのので、地方勤務が長くて都の状況もわからなくなったという意味だろう。都に帰りたくて眠れない。「悠哉」は『詩経』関雎の「悠哉悠哉輾転反側」を踏まえており、心に悩みがあって眠れないことを意味する。
眠れないでいる高楼の部屋で雁が飛んできたのを耳にした。秋雨の降る秋の季節なので、雁は北から南へ飛んでいく。雁はいつもの通り北からやってきたが、都からの便りはないという意味を含んでいる。
雁(がん、かり)(異字:鴈)とは、カモ目カモ科の水鳥の総称である。
韋応物
憶君屬秋夜 君を憶ひ 秋夜に属し
散歩詠涼天 散歩して 涼天に詠ず
山空松子落 山空しうして 松子落ち
幽人應未眠 幽人 応(まさ)に未だ眠らざるべし
〈訳〉君を想い 静かな秋の夜に
庭を歩き回って 涼しい空に詩を吟じている
君は人気のない山の中 松かさの落ちる音を聞いているか
ひっそりと暮らす君は きっとまだ眠っていないだろう
「丘二十二員外」は、友人の丘丹のこと、それに和したのが次の詩。
和韋使君秋夜見寄 韋使君の秋夜寄せらるるに和す
丘丹
露滴梧葉鳴 露滴り 梧葉鳴りて
秋風桂花發 秋風に 桂花発(ひら)く
中有學仙侶 中に仙を学ぶ侶(ともがら)有り
吹簫弄山月 簫を吹いて 山月を弄せり
韋応物(737?~792?)は中唐期の詩人。京兆(けいちょう、陝西省)万年県の人。若いころ侠気(きょうき)を重んじ、玄宗の近衛(このえ)士官として奔放な生活を送ったが、安禄山(あんろくざん)の乱で職を失ってから、心を入れ替えて勉強に励んだという。洛陽(らくよう)(河南省)丞(じょう)、櫟陽(れきよう)(陝西省)令、比部員外郎、滁州(ちょしゅう)(安徽(あんき)省)刺史(しし)、江州(江西省)刺史、左司郎中を歴任。蘇州(そしゅう)(江蘇省)刺史で終わったことから韋蘇州とよばれる。自然詩人として、「王(維)、孟(浩然(こうねん))、韋(応物)、柳(宗元)」と並称され、その詩風は「澄淡精緻(ちょうたんせいち)」と評されている。
丘丹 丘は姓、丘丹。二十二は排行。員外は官名、員外郎。長官の補佐役
登 楼 楼に登る
韋応物
茲楼日登眺 茲の楼 日に登り眺む
流歳暗蹉跎 流歳 暗に蹉跎たり
坐厭淮南守 坐して厭う淮南の守
秋山紅樹多 秋山 紅樹多し
高楼に登って 毎日あたりを眺める
来し方を懐えば おのずから悔やまれる
淮南の刺史となったが 嬉しくもなく
秋の山に 紅葉はみちている
「蹉跎」はつまずく、時機を失するの意で、後悔することのみ多いという意味。「淮南守」は滁州刺史〈じょしゅうしし〉のことで、刺史になったが嫌なことばかり多くて、美しいのは秋の山の紅葉だけだと、自然の美しさに心を和ませている。
聞 雁 雁を聞く
韋応物
故園眇何処 故園眇として何処ぞ
帰思方悠哉 帰思方まさに悠なる哉
淮南秋雨夜 淮南秋雨の夜
高斎聞雁来 高斎雁の来るを聞く
〈訳〉都の方は 漠として定かに見えず
帰心がつのって眠れない
淮南の夜に 秋雨が降り
楼上の部屋で 飛び来る雁の声を聞く
眠れないでいる高楼の部屋で雁が飛んできたのを耳にした。秋雨の降る秋の季節なので、雁は北から南へ飛んでいく。雁はいつもの通り北からやってきたが、都からの便りはないという意味を含んでいる。
雁(がん、かり)(異字:鴈)とは、カモ目カモ科の水鳥の総称である。
To Autumn
John Keats
Season of mists and mellow fruitfulness,
Close bosom-friend of the maturing sun;
Conspiring with him how to load and bless
With fruit the vines that round the thatch-eves run;
To bend with apples the moss'd cottage-trees,
And fill all fruit with ripeness to the core;
To swell the gourd, and plump the hazel shells
With a sweet kernel; to set budding more,
And still more, later flowers for the bees,
Until they think warm days will never cease,
For summer has o'er-brimm'd their clammy cells.
Who hath not seen thee oft amid thy store?
Sometimes whoever seeks abroad may find
Thee sitting careless on a granary floor,
Thy hair soft-lifted by the winnowing wind;
Or on a half-reap'd furrow sound asleep,
Drows'd with the fume of poppies, while thy hook
Spares the next swath and all its twined flowers:
And sometimes like a gleaner thou dost keep
Steady thy laden head across a brook;
Or by a cyder-press, with patient look,
Thou watchest the last oozings hours by hours.
Where are the songs of spring? Ay, where are they?
Think not of them, thou hast thy music too, -
While barred clouds bloom the soft-dying day,
And touch the stubble-plains with rosy hue;
Then in a wailful choir the small gnats mourn
Among the river sallows, borne aloft
Or sinking as the light wind lives or dies;
And full-grown lambs loud bleat from hilly bourn;
Hedge-crickets sing; and now with treble soft
The red-breat whistles from a garden-croft;
And gathering swallows twitter in the skies.
クリックして、原語での朗読を聴かれたし。
http://benwhishaw.blog131.fc2.com/blog-entry-115.html
〈訳〉 秋に寄せるうた
出口 保夫
霧と熟れたる豊穣(ほうじょう)の季節よ
恵みあふれる太陽の親しい友だちよ。
葉のひさしに捲(ま)き付いた葡萄(ぶどう)づるには重い房を
どんなに垂れ下げようかと、おまえは太陽と語らいたくらむ
苔むした納屋の古木(こぼく)には林檎(りんご)をたわわに実らせ、
すべての果物をその芯にまで熟れさせようとする、
またひょうたんを膨らまし、そして蜜蜂たちには
遅れ咲きの花をもっともっと開かせようとする。
夏が蜜蜂の巣の蜜房にねばねばと満ちていて、
暖かい日々の終わることがないだろうと思うまで。
誰が収穫のときにしばしばおまえを見かけなかったであろう。
ときおりおまえをあちこち捜したものなら、
おまえが穀倉の床のうえで吹き過ぎる
風に髪をゆるやかになぶらせて、
ただぼんやりと坐っているのを見かけたものだ。
あるいは半ば刈りとられた畝(うね)で
芥子(けし)の匂いに眠気を催し、
いっぽうおまえの鎌は、次の麦株と絡まる
花々を惜しんでぐっすりと寝入っている。
またときおりおまえは落穂(おちぼ)拾いの人のように
花をのせた頭を辛抱づよい目差し(まなざし)で
果物搾りから落ちる
春の歌ごとはどこに行ったのであろう。
ああ、いまはどこに。
そのことを思うてはならぬ、おまえには
おまえの歌がある-
たなびく雲は紅(あか)く沈まんとする夕陽(ゆうひ)に映(は)え、
薔薇色に切株の畑を染めるとき、
ちいさな羽虫のむれはかわやなぎの枝のなかで
かろやかな風が立ちまたやんだりするままに
高く運ばれあるいは低く降りたりしながら
哀しげにうたう、
生長した仔羊(こひつじ)がむこうの丘から啼(な)きつつやってくる。
垣根のこおろぎが鳴く、そしていま菜園に駒鳥が美しいソプラノで囀(さえず)る。
また空には。南に帰る燕のむれが囀っている。
ジョン・キーツ (John Keats, 1795~1821年)
ロンドンで貸馬車屋を経営する父親の下に生まれたロマン派詩人。幼い頃に両親と死別し、親交の深かった貴族出身のシェリー(P. B. Shelley)やバイロン(George Gordon Byron)とは違い、大学教育を受けることはできなかった。しかし、Aeneid の翻訳やスペンサー(Edmund Spenser)の作品など多くの本に夢中になり、1817年には最初の詩集を発表した。その4年後1821年、25歳という若さで結核のために生涯を閉じた。
訳者の 出口 保夫(でぐち やすお、1929年~ )は、英文学者、英国文化研究家、早稲田大学名誉教授。
John Keats
Season of mists and mellow fruitfulness,
Close bosom-friend of the maturing sun;
Conspiring with him how to load and bless
With fruit the vines that round the thatch-eves run;
To bend with apples the moss'd cottage-trees,
And fill all fruit with ripeness to the core;
To swell the gourd, and plump the hazel shells
With a sweet kernel; to set budding more,
And still more, later flowers for the bees,
Until they think warm days will never cease,
For summer has o'er-brimm'd their clammy cells.
Who hath not seen thee oft amid thy store?
Sometimes whoever seeks abroad may find
Thee sitting careless on a granary floor,
Thy hair soft-lifted by the winnowing wind;
Or on a half-reap'd furrow sound asleep,
Drows'd with the fume of poppies, while thy hook
Spares the next swath and all its twined flowers:
And sometimes like a gleaner thou dost keep
Steady thy laden head across a brook;
Or by a cyder-press, with patient look,
Thou watchest the last oozings hours by hours.
Where are the songs of spring? Ay, where are they?
Think not of them, thou hast thy music too, -
While barred clouds bloom the soft-dying day,
And touch the stubble-plains with rosy hue;
Then in a wailful choir the small gnats mourn
Among the river sallows, borne aloft
Or sinking as the light wind lives or dies;
And full-grown lambs loud bleat from hilly bourn;
Hedge-crickets sing; and now with treble soft
The red-breat whistles from a garden-croft;
And gathering swallows twitter in the skies.
クリックして、原語での朗読を聴かれたし。
http://benwhishaw.blog131.fc2.com/blog-entry-115.html
〈訳〉 秋に寄せるうた
出口 保夫
霧と熟れたる豊穣(ほうじょう)の季節よ
恵みあふれる太陽の親しい友だちよ。
葉のひさしに捲(ま)き付いた葡萄(ぶどう)づるには重い房を
どんなに垂れ下げようかと、おまえは太陽と語らいたくらむ
苔むした納屋の古木(こぼく)には林檎(りんご)をたわわに実らせ、
すべての果物をその芯にまで熟れさせようとする、
またひょうたんを膨らまし、そして蜜蜂たちには
遅れ咲きの花をもっともっと開かせようとする。
夏が蜜蜂の巣の蜜房にねばねばと満ちていて、
暖かい日々の終わることがないだろうと思うまで。
誰が収穫のときにしばしばおまえを見かけなかったであろう。
ときおりおまえをあちこち捜したものなら、
おまえが穀倉の床のうえで吹き過ぎる
風に髪をゆるやかになぶらせて、
ただぼんやりと坐っているのを見かけたものだ。
あるいは半ば刈りとられた畝(うね)で
芥子(けし)の匂いに眠気を催し、
いっぽうおまえの鎌は、次の麦株と絡まる
花々を惜しんでぐっすりと寝入っている。
またときおりおまえは落穂(おちぼ)拾いの人のように
花をのせた頭を辛抱づよい目差し(まなざし)で
果物搾りから落ちる
春の歌ごとはどこに行ったのであろう。
ああ、いまはどこに。
そのことを思うてはならぬ、おまえには
おまえの歌がある-
たなびく雲は紅(あか)く沈まんとする夕陽(ゆうひ)に映(は)え、
薔薇色に切株の畑を染めるとき、
ちいさな羽虫のむれはかわやなぎの枝のなかで
かろやかな風が立ちまたやんだりするままに
高く運ばれあるいは低く降りたりしながら
哀しげにうたう、
生長した仔羊(こひつじ)がむこうの丘から啼(な)きつつやってくる。
垣根のこおろぎが鳴く、そしていま菜園に駒鳥が美しいソプラノで囀(さえず)る。
また空には。南に帰る燕のむれが囀っている。
ジョン・キーツ (John Keats, 1795~1821年)
訳者の 出口 保夫(でぐち やすお、1929年~ )は、英文学者、英国文化研究家、早稲田大学名誉教授。
Chant d'Automne〈秋の歌〉
Charles Baudelaire 詩
永井 荷風 訳
一 吾等忽ちに寒さの闇に陥らん、
夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
落つる木片のかなしき響。
冬の凡ては ー 憤怒と憎悪、戦慄と恐怖や、
又強ひられし苦役はわが身の中に帰り来る。
北極の地獄の日にもたとえなん、
わが心は凍りて赤き鐵の破片よ。
をののぎてわれ聞く木片の落つる響は、
断頭台を人築く音なき音にも増(まさ)りたり。
わが心は重くして疲れざる
戦士の槌の一撃に崩れ倒るる観楼かな。
かかる惰き音に揺られ、何処にか、
いとも忙しく柩の釘を打つ如き・・・・そは、
昨日と逝きし夏の為め。秋來ぬと云ふ
この怪しき聲は宛(さなが)らに、死せる者送出す鐘と聞かずや。
二 長き君が眼の緑の光のなつかしし。
いと甘かりし君が姿など今日の我には苦き。
君が情も、暖かき火の辺や化粧の室も、
今の我には海に輝く日に如かず。
さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。
母の如かれ、忘恩の輩、ねぢけしものに。
恋人か将た妹か。うるはしき秋の栄や、
又沈む日の如、束の間の優しさ忘れそ。
定業は早し。貪る墳墓はかしこに待つ。
ああ君が膝にわが額を押し当てて、
暑くして白き夏の昔を嘆き、
軟くして黄き晩秋の光を味はしめよ。
永井荷風著『珊瑚集より』
Charles Baudelaire(シャルル・ボードレール1821~1867) は19世紀フランス文学を代表する詩人たるに留まらず、その影響は19世紀後半以降のフランス文学を超えて、世界中に及んだという。とりわけ19世紀末の世界の詩人たちをひきつけたデカダンスの文学はことごとく、ボードレールの落とし子だったという。
20世紀にはいっても、ボードレールの影響はいっそう力を発揮した。彼の作品を彩る退廃への嗜好が、殺戮に明け暮れた時代の雰囲気にマッチしたためだという。ボードレールは特異な現象ではなく、世界が堕落して人間が腐敗するとき、その死臭の中からボードレールの物憂き声が聞こえてくるのである。
永井 荷風(ながい かふう、1879~1959年)は、1910年、森鴎外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となり、このころ八面六臂の活躍を見せ、木下杢太郎らのパンの会に参加して谷崎潤一郎を見出だしたり、訳詩集『珊瑚集』の発表、雑誌『三田文学』を創刊し谷崎や泉鏡花の創作の紹介などを行っている。
『珊瑚集』は,フランス詩の翻訳38篇とフランス文学関係の翻訳や諸文章9篇を集めて、大正2年4月に出版された,荷風のフランス関係の書物としては最初のまとまった作品であるという。上田敏の『海潮音』と並んで当時の人々に、遠くフランスの息吹を伝える清新な書物として、強い印象と大きな影響を与えたものである。当時のフランス詩壇の概観を日本に伝えようとして企てられた訳詩集ではなく、荷風が深く自分の琴線に触れた作品を選んでは、折にふれ訳出したのがこの訳詩集だったのだという。
Charles Baudelaire 詩
永井 荷風 訳
一 吾等忽ちに寒さの闇に陥らん、
夢の間なりき、強き光の夏よ、さらば。
われ既に聞いて驚く、中庭の敷石に、
落つる木片のかなしき響。
冬の凡ては ー 憤怒と憎悪、戦慄と恐怖や、
又強ひられし苦役はわが身の中に帰り来る。
北極の地獄の日にもたとえなん、
わが心は凍りて赤き鐵の破片よ。
をののぎてわれ聞く木片の落つる響は、
断頭台を人築く音なき音にも増(まさ)りたり。
わが心は重くして疲れざる
戦士の槌の一撃に崩れ倒るる観楼かな。
かかる惰き音に揺られ、何処にか、
いとも忙しく柩の釘を打つ如き・・・・そは、
昨日と逝きし夏の為め。秋來ぬと云ふ
この怪しき聲は宛(さなが)らに、死せる者送出す鐘と聞かずや。
二 長き君が眼の緑の光のなつかしし。
いと甘かりし君が姿など今日の我には苦き。
君が情も、暖かき火の辺や化粧の室も、
今の我には海に輝く日に如かず。
さりながら我を憐れめ、やさしき人よ。
母の如かれ、忘恩の輩、ねぢけしものに。
恋人か将た妹か。うるはしき秋の栄や、
又沈む日の如、束の間の優しさ忘れそ。
定業は早し。貪る墳墓はかしこに待つ。
ああ君が膝にわが額を押し当てて、
暑くして白き夏の昔を嘆き、
軟くして黄き晩秋の光を味はしめよ。
永井荷風著『珊瑚集より』
20世紀にはいっても、ボードレールの影響はいっそう力を発揮した。彼の作品を彩る退廃への嗜好が、殺戮に明け暮れた時代の雰囲気にマッチしたためだという。ボードレールは特異な現象ではなく、世界が堕落して人間が腐敗するとき、その死臭の中からボードレールの物憂き声が聞こえてくるのである。
『珊瑚集』は,フランス詩の翻訳38篇とフランス文学関係の翻訳や諸文章9篇を集めて、大正2年4月に出版された,荷風のフランス関係の書物としては最初のまとまった作品であるという。上田敏の『海潮音』と並んで当時の人々に、遠くフランスの息吹を伝える清新な書物として、強い印象と大きな影響を与えたものである。当時のフランス詩壇の概観を日本に伝えようとして企てられた訳詩集ではなく、荷風が深く自分の琴線に触れた作品を選んでは、折にふれ訳出したのがこの訳詩集だったのだという。
秋刀魚の歌
佐藤 春夫
あはれ
秋風よ
情(こころ」あらば
伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉(ゆうげ)に
ひとりさんまを食(くら)ひて
思ひにふけると。
さんま、さんま、
そが上に青き蜜柑(みかん)の酸(す」を したたらせて
さんまを食ふはその男がふる里の ならひなり。
そのならひを あやしみ なつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎ来て 夕げにむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする 人妻と
妻にそむかれたる男と食卓に むかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男に さんまの 腸はらをくれむと 言ふにあらずや。
あはれ
秋風よ
汝(なれ)こそは 見つらめ
世のつねならぬ団欒(まどゐ)を。
いかに
秋風よ
いとせめて
証(あかし)せよ かの一ときの団欒(まどゐ) ゆめに非ずと。
あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば 伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児(をさなご)とに伝へてよ
―男ありて
今日の夕げに ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。
さんま、さんま、
さんま苦いか 塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて さんまを食ふは
いづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは 問はまほしくをかし。
「秋刀魚の歌」は大正デモクラシーから昭和初期、当時の文壇の寵児、谷崎潤一郎の妻千代と佐藤春夫の不倫に始まり、ついには兄弟同様の付き合いであった潤一郎と佐藤春夫が絶交してしまうというどろどろとした関係が背景になっている。詩中「あはれ、人に捨てられんとする人妻」とはその頃 夫、潤一郎に疎んじられていた妻千代の事を指し、「妻に背かれたる男と食卓にむかへば」は以前に妻と離婚していた佐藤春夫を指している。後日両者は和解し、昭和5(1930)年8月18日3人連名で声明文を出し、「…我ら3人はこの度合議をもって千代は潤一郎と離別いたし、春夫と結婚することと相成り、潤一郎娘鮎子は母と同居いたすべく…」となるわけであるが、明治からまだ間もない大正時代の出来事としては当時の人々の耳目をあつめ、「細君譲渡事件」として余りにも有名な話である。
10日(土)に大分のM氏より、カボスが届いた。毎年この時期に郷土の味覚として送ってくださる。今年はまた一段と粒の揃った立派なものであった。
本日は仲秋の十五夜の日、旧暦では8月15日。六曜は月の数と日の数の和を6で割り、その余りによって決まる。割り切れる場合は「大安」、余りが1なら「赤口」、2なら「先勝」、3なら「友引」、4なら「先負」、5なら「仏滅」となる。従って旧暦8月15日は (8+15)÷6=3余り5 となって、「仏滅」なのである。「仏滅名月」といわれている由縁である。


中秋月 中秋の月
蘇軾
暮雲収盡溢清寒 暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢無聲轉玉盤 銀漢 声無く 玉盤を転ず
此生此夜不長好 此の生 此の夜 長くは好からず
明月明年何處看 明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん
〈訳〉日暮れ時、雲はすっかり無くなり、心地よい涼風が吹いている。
銀河には音も無く玉の盆のような月があらわれた。
こんな楽しい人生、楽しい夜、しかし永遠に続くものでは無い。
来月は、来年は、どこでこの中秋の月を見ているだろう。
Dem aufgehenden Vollmonde (満月上昇)
詩:Johann Wolfgang von Goethe
訳:大山 定一
Willst du mich sogleich verlassen!
Warst im Augenblick so nah!
Dich umfinstern Wolkenmassen,
Und nun bist du gar nicht da.
Doch du fühlst, wie ich betrübt bin,
Blickt dein Rand herauf als Stern!
Zeugest mir, daß ich geliebt bin,
Sei das Liebchen noch so fern.
So hinan denn! hell und heller,
Reiner Bahn, in voller Pracht!
Schlägt mein Herz auch schmerzlich schneller,
Überselig ist die Nacht.
満月に
おまえはすげなく僕を見すてるのか
ほのぼのとさし出た明るい顔に
ふと白雲の一団がかかるとみるまに
お前の姿はもうきえている
おまえはしかし僕の心の切なさを感じるらしい
ふたたび雲間からそっとおまえの顔が星影のようにさしのぞく
とおく離れた恋人が
ひそやかに僕を思うあかしのように
さやかにふたたび押し照らす
玲瓏の月のひかり
僕の胸は切なさに波立ちながら
ひとり天心にさしのぼった満月をながめている
1828年8月25日、ドルンブルクでの作。ゲーテはこの詩を清書してマリアンネ・フォン・ウィレマー(1784~1860年)に贈った。満月の夜には、たとえ遠く離れていても、互いに思いを込めて相手を偲ぼうというのが、愛する二人の固い誓約であった。
本日は仲秋の十五夜の日、旧暦では8月15日。六曜は月の数と日の数の和を6で割り、その余りによって決まる。割り切れる場合は「大安」、余りが1なら「赤口」、2なら「先勝」、3なら「友引」、4なら「先負」、5なら「仏滅」となる。従って旧暦8月15日は (8+15)÷6=3余り5 となって、「仏滅」なのである。「仏滅名月」といわれている由縁である。
中秋月 中秋の月
蘇軾
暮雲収盡溢清寒 暮雲 収め尽くして清寒溢れ
銀漢無聲轉玉盤 銀漢 声無く 玉盤を転ず
此生此夜不長好 此の生 此の夜 長くは好からず
明月明年何處看 明月 明年 何れ(いずれ)の処にて看ん
銀河には音も無く玉の盆のような月があらわれた。
こんな楽しい人生、楽しい夜、しかし永遠に続くものでは無い。
来月は、来年は、どこでこの中秋の月を見ているだろう。
Dem aufgehenden Vollmonde (満月上昇)
詩:Johann Wolfgang von Goethe
訳:大山 定一
Willst du mich sogleich verlassen!
Warst im Augenblick so nah!
Dich umfinstern Wolkenmassen,
Und nun bist du gar nicht da.
Doch du fühlst, wie ich betrübt bin,
Blickt dein Rand herauf als Stern!
Zeugest mir, daß ich geliebt bin,
Sei das Liebchen noch so fern.
So hinan denn! hell und heller,
Reiner Bahn, in voller Pracht!
Schlägt mein Herz auch schmerzlich schneller,
Überselig ist die Nacht.
満月に
おまえはすげなく僕を見すてるのか
ほのぼのとさし出た明るい顔に
ふと白雲の一団がかかるとみるまに
お前の姿はもうきえている
おまえはしかし僕の心の切なさを感じるらしい
ふたたび雲間からそっとおまえの顔が星影のようにさしのぞく
とおく離れた恋人が
ひそやかに僕を思うあかしのように
さやかにふたたび押し照らす
玲瓏の月のひかり
僕の胸は切なさに波立ちながら
ひとり天心にさしのぼった満月をながめている
東日本大震災から今日は丁度半年目、期せずしてアメリカ同時多発テロから10年目だという。新聞には愚かな大臣の不用意発言で辞任した記事が大きく扱われている。いやはや現在の世の中何処かしら狂っているのではなかろうか?
昨日のshinさんのコメント「教師の日」を見て、中国での教師の日の実情をウェブニュースで調べてみた。
過熱する教師への贈り物合戦、旅行で親密作戦も ―― 2011年8月28日、新民晩報によると、近年、中国の多くの家庭では教育の質を重視しており、子供を名門小学校に入学させるだけでなく、教師から特別な関心や重点的な指導を受けさせるため、保護者の中には競って教師に高価な贈り物をする現象が起きている。中国新聞社が伝えた。/昨今、子供を特別扱いして欲しい保護者から教師への贈り物合戦が激化している。一部では入学前から、担任する教師に500~2000元(約6000~2万4000円)相当のギフトカードや交通カード、現金などを準備している家庭もあるという。/以前は贈り物の多くが花や年賀状、カレンダーなどささやかな物だったが、近年ではその内容も高価で多種多様になっている。中秋節や9月10日の教師節(教師の日)など季節の行事に合わせた、高級月餅、ギフト券、交通カードなどのほか、女性教師には高級化粧品やハンドバッグなども贈られるという。/一部の保護者は万策を講じて教師と親しくなろうと必死だ。中間、期末テストの前になると国語、数学、外国語科目の教師をレストランに招待し、食後に贈り物をしたり、裕福な家庭は夏休みの度に担任教師のために海南島、香港、シンガポール、マレーシア、タイなどへの旅行を計画する者もいる。/教育界の有識者は、高価な贈り物を受け取る行為は教師のモラルが低下していることの表れであり、手本となる教育者のイメージを壊すことになり、生徒の教育にとって不利だとの見解を示した。教育主管部門や学校の指導者もこの問題を重視しており、教師のモラル教育は重要課題となっている。(翻訳・編集/若林亜希) 2011-08-30 13:37:52 配
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http://www.youtube.com/watch?v=0s09IYvAdSk
不尚賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不為盜;不見可欲,使心不亂。是以聖人之治,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨。常使民無知無欲。使夫1知者不敢為也。為無為,則無不治。 (老子第三章)
賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争(あらそ)わざらしむ。得難(がた)きの貨を貴(たっと)ばざれば、民をして盗(とう)をなさざらしむ。欲(ほっ)すべきを見(しめ)さざれば、民の心(こころ)をして乱(みだ)れざらしむ。ここをもって聖人(せいじん)の治は、その心(こころ)を虚(むな)しくし、その腹を実(み)たし、その志(こころざし)を弱くし、その骨を強くす。常(つね)に民をして無知無欲ならしめ、かの知者(ちしゃ)をしてあえてなさざらしむ。無為をなせば、すなわち治(おさ)まらざるなし。
(訳)才能すぐれた者を抜擢するということをやめるなら人民の間で競争はなくなるであろう。手に入りにくい珍しい品を貴重とすることをやめるなら、人民の間で盗みを働く者はなくなるであろう。欲望を刺激する物が目に入らないようにすれば人民の心は乱されなくなるであろう。それ故、聖人の政治では、人民の心をむなしくして、その腹を満たしてやり、人民の志望を弱くして、その筋骨を強固にしてやり、いつも人民を知識もなく欲望もない状態にならせて、あの知恵者たちもどうしようもないようにさせるのである。「無為」の(すなわち、ことさら何もしない)政治をしておれば、万事うまく治まるのだ。
イギリスの詩人John Donne(ジョン・ダン)の蚤と題する詩は、1635年版の冒頭におかれた。蚤を介して二人の血が結ばれたことを材料に、本物の肉の結びつきを迫る恋の歌である。相手の女性が誰であるかははっきりしないが、生涯唯一の妻、アン・モアだった可能性は高い。John DonneがAnne More(アン・モア)と出会ったのは、がまだ十六・七歳の頃であり、Anneには厳格な父親がいた。だからJohn Donneはそう簡単にはAnneと結ばれることは出来なかった。そこでこんなトリックを使って、アンを誘ったことと考えられるのである。
THE FLEA.
by John Donne
MARK but this flea, and mark in this,
How little that which thou deniest me is ;
It suck'd me first, and now sucks thee,
And in this flea our two bloods mingled be.
Thou know'st that this cannot be said
A sin, nor shame, nor loss of maidenhead ;
Yet this enjoys before it woo,
And pamper'd swells with one blood made of two ;
And this, alas ! is more than we would do.
O stay, three lives in one flea spare,
Where we almost, yea, more than married are.
This flea is you and I, and this
Our marriage bed, and marriage temple is.
Though parents grudge, and you, we're met,
And cloister'd in these living walls of jet.
Though use make you apt to kill me,
Let not to that self-murder added be,
And sacrilege, three sins in killing three.
Cruel and sudden, hast thou since
Purpled thy nail in blood of innocence?
Wherein could this flea guilty be,
Except in that drop which it suck'd from thee?
Yet thou triumph'st, and say'st that thou
Find'st not thyself nor me the weaker now.
'Tis true ; then learn how false fears be ;
Just so much honour, when thou yield'st to me,
Will waste, as this flea's death took life from thee.
〈訳〉
この蚤を見てごらん こいつにとっては
君が僕を拒絶したことなど 何の意味もないのだ
こいつはまず僕の血を吸い ついで君の血を吸った
こいつの中で僕らの血は混ざり合ったのだ
わかるだろうこれは 別に罪でもなく
恥でもなく 貞操が失われたわけでもない
こいつは求愛もしないうちからお楽しみ
僕ら二人の血を吸って丸々と太っている
僕らができないことをまんまとしでかして!
助けておやりよ 蚤には三つの命があるのだから
蚤のおかげで僕らは結びついたんじゃないか
こいつは君でもあるし 僕でもある
こいつは僕らの新床でかつ 教会だ
親たちがなんと言おうと 君が嫌がろうと
こいつの黒い体の中で僕らは結ばれたんだ
こいつを殺すのは僕を殺すこと
また君自身を殺すことでもある
こいつを殺せば三つの罪を犯すのだよ
ああなんということだ 君はもう
こいつの血で爪を赤く染めてしまったのか
この蚤に何の罪があるというのだ
君の血をちょっぴり吸っただけではないか
なのに気味は誇らしげに笑っていう
私もあなたも大したことはなかったのよと
そうかもね でもそれなら恐れることはない
君が僕に身を任せても こいつが君から
奪った命ほど 名誉が損なわれることもないのだから
ジョン・ダン (John Donne) 1572-1631
熱心なカトリックの家に生まれる。12歳でオクスフォード大学に入学、後にケンブリッジ大学に学ぶ。これは宗教上の理由からであり、その同じ理由で学位をとらず、ロンドンの法学院に移る。この頃「御婦人達や劇場をさかんに訪れた」といわれている。またおそらくは弟の獄死などから宗教的な危機をも経験したと思われる。ヨーロッパ各地を旅行し、エセックス伯のカディス遠征にも参加したらしい。1598年国璽尚書サー・トマス・エジャートンの秘書となり、輝かしい未来が期待されていたが、エジャートンの親戚のアン・モアと恋に落ち、密かに結婚する(1601)。これが父親のサー・ジョージ・モアの怒りを買い、その訴えで一時投獄までされる。このため職を失い、ダンの輝かしい未来は瓦解する。以後しばらく友人の庇護に頼る失意の生活を送る。この間貴族のパトロンを求め、彼らによって猟官運動をするが実らず。しかしジェイムズ1世がダンの聖職者としての能力を認め、その意向で15年英国国教会の聖職者となる。21年セント・ポール寺院の主席司祭(dean)となり、当時のもっとも有名な説教者となる。伝記作家のウオルトンによれば、死を予感したダンは棺の中に立ち死装束に身を包んだ自らの姿を描かせた、という。
昨日のshinさんのコメント「教師の日」を見て、中国での教師の日の実情をウェブニュースで調べてみた。
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http://www.youtube.com/watch?v=0s09IYvAdSk
不尚賢,使民不爭;不貴難得之貨,使民不為盜;不見可欲,使心不亂。是以聖人之治,虛其心,實其腹,弱其志,強其骨。常使民無知無欲。使夫1知者不敢為也。為無為,則無不治。 (老子第三章)
賢(けん)を尚(たっと)ばざれば、民をして争(あらそ)わざらしむ。得難(がた)きの貨を貴(たっと)ばざれば、民をして盗(とう)をなさざらしむ。欲(ほっ)すべきを見(しめ)さざれば、民の心(こころ)をして乱(みだ)れざらしむ。ここをもって聖人(せいじん)の治は、その心(こころ)を虚(むな)しくし、その腹を実(み)たし、その志(こころざし)を弱くし、その骨を強くす。常(つね)に民をして無知無欲ならしめ、かの知者(ちしゃ)をしてあえてなさざらしむ。無為をなせば、すなわち治(おさ)まらざるなし。
(訳)才能すぐれた者を抜擢するということをやめるなら人民の間で競争はなくなるであろう。手に入りにくい珍しい品を貴重とすることをやめるなら、人民の間で盗みを働く者はなくなるであろう。欲望を刺激する物が目に入らないようにすれば人民の心は乱されなくなるであろう。それ故、聖人の政治では、人民の心をむなしくして、その腹を満たしてやり、人民の志望を弱くして、その筋骨を強固にしてやり、いつも人民を知識もなく欲望もない状態にならせて、あの知恵者たちもどうしようもないようにさせるのである。「無為」の(すなわち、ことさら何もしない)政治をしておれば、万事うまく治まるのだ。
THE FLEA.
by John Donne
MARK but this flea, and mark in this,
How little that which thou deniest me is ;
It suck'd me first, and now sucks thee,
And in this flea our two bloods mingled be.
Thou know'st that this cannot be said
A sin, nor shame, nor loss of maidenhead ;
Yet this enjoys before it woo,
And pamper'd swells with one blood made of two ;
And this, alas ! is more than we would do.
O stay, three lives in one flea spare,
Where we almost, yea, more than married are.
This flea is you and I, and this
Our marriage bed, and marriage temple is.
Though parents grudge, and you, we're met,
And cloister'd in these living walls of jet.
Though use make you apt to kill me,
Let not to that self-murder added be,
And sacrilege, three sins in killing three.
Cruel and sudden, hast thou since
Purpled thy nail in blood of innocence?
Wherein could this flea guilty be,
Except in that drop which it suck'd from thee?
Yet thou triumph'st, and say'st that thou
Find'st not thyself nor me the weaker now.
'Tis true ; then learn how false fears be ;
Just so much honour, when thou yield'st to me,
Will waste, as this flea's death took life from thee.
〈訳〉
君が僕を拒絶したことなど 何の意味もないのだ
こいつはまず僕の血を吸い ついで君の血を吸った
こいつの中で僕らの血は混ざり合ったのだ
わかるだろうこれは 別に罪でもなく
恥でもなく 貞操が失われたわけでもない
こいつは求愛もしないうちからお楽しみ
僕ら二人の血を吸って丸々と太っている
僕らができないことをまんまとしでかして!
助けておやりよ 蚤には三つの命があるのだから
蚤のおかげで僕らは結びついたんじゃないか
こいつは君でもあるし 僕でもある
こいつは僕らの新床でかつ 教会だ
親たちがなんと言おうと 君が嫌がろうと
こいつの黒い体の中で僕らは結ばれたんだ
こいつを殺すのは僕を殺すこと
また君自身を殺すことでもある
こいつを殺せば三つの罪を犯すのだよ
ああなんということだ 君はもう
こいつの血で爪を赤く染めてしまったのか
この蚤に何の罪があるというのだ
君の血をちょっぴり吸っただけではないか
なのに気味は誇らしげに笑っていう
私もあなたも大したことはなかったのよと
そうかもね でもそれなら恐れることはない
君が僕に身を任せても こいつが君から
奪った命ほど 名誉が損なわれることもないのだから
熱心なカトリックの家に生まれる。12歳でオクスフォード大学に入学、後にケンブリッジ大学に学ぶ。これは宗教上の理由からであり、その同じ理由で学位をとらず、ロンドンの法学院に移る。この頃「御婦人達や劇場をさかんに訪れた」といわれている。またおそらくは弟の獄死などから宗教的な危機をも経験したと思われる。ヨーロッパ各地を旅行し、エセックス伯のカディス遠征にも参加したらしい。1598年国璽尚書サー・トマス・エジャートンの秘書となり、輝かしい未来が期待されていたが、エジャートンの親戚のアン・モアと恋に落ち、密かに結婚する(1601)。これが父親のサー・ジョージ・モアの怒りを買い、その訴えで一時投獄までされる。このため職を失い、ダンの輝かしい未来は瓦解する。以後しばらく友人の庇護に頼る失意の生活を送る。この間貴族のパトロンを求め、彼らによって猟官運動をするが実らず。しかしジェイムズ1世がダンの聖職者としての能力を認め、その意向で15年英国国教会の聖職者となる。21年セント・ポール寺院の主席司祭(dean)となり、当時のもっとも有名な説教者となる。伝記作家のウオルトンによれば、死を予感したダンは棺の中に立ち死装束に身を包んだ自らの姿を描かせた、という。
朝起きると腰周りや足が無性に痒い場合がある。その多くは蚤に刺されたものであるらしい。何処で貰ってくるのかはわからないが、こんな時は部屋を閉め切ってバルサンを焚くことにしている。
日本語名の「のみ」は、人間の血を飲むことから「飲む」の訛りから付いたそうだ。漢字の「蚤」は、「掻きたくなる痒い虫」という意味だという。
のみしらみ 馬の尿する 枕もと(松尾芭蕉)
蚤虱 音に鳴く秋の 虫ならば わが懐は 武蔵野の原(良寛)
蚤焼いて 日和占う 山家かな(小林一茶)
よい日やら 蚤が跳ねるぞ 踊るぞや(小林一茶)
俳句や和歌に歌われるほど昔から、蚤や虱は日常生活に身近なものだったのだろう。
『蚤の歌』はゲーテの戯曲「ファウスト」にある詩(ファウスト第一部、ライプチヒのアウエルバッハの酒場でメフィストフェレスが歌う)に展覧会の絵でおなじみのムソルグスキーが曲をつけたものである。まずは、Ctrlキーを押しながら
http://www.youtube.com/watch?v=zRZH4TXO62c
をクリック、インターネットエクスプロラーから、再度このブログを呼び出して、曲を聴きながら詩を味わっていただこう。
蚤の歌
堀内 敬三 訳詩
MUSORGSKI(ムソルグスキー)作曲
小川一鬼 独唱
昔 王様蚤を飼い 蚤 蚤
王子のように可愛がる
蚤 ハハハハハ 蚤 ハハハハハ 蚤
仕立て屋を召し 言わるる
余の蚤の外套を立派に作れ
蚤に外套 ハハハハハ
蚤 ハハハハハ 外套 ハハハハ
ハハハハハハ 蚤に外套
ビロードの服を蚤に着せて
御殿の中でいばりかえらす ハハ
ハハハハハ 蚤 ハハハハ
ハハハハハハ 蚤
蚤は大臣になりすまして
仲間の蚤ども連れて歩く ハハ
妃も女官も恐れをなし
うかつに手出しするものなくハハ
さされてたとえ痒かろうとも
つぶすことさえまかりならぬ
ハハハハハハ …
詞は、ゲーテの『ファウスト』をアレクサンドル・ストルゴフシチコフ(1808~1878年)がロシア語訳したものが使われているという。メフィストフェレスは、王様に寵愛されたノミにまつわる歌を歌い、権力者に媚びへつらう姿勢をファウストの取り巻き連中に見立てて揶揄するのである。曲の随所に挿入された「ハハハ、ヘヘヘ」というメフィストフェレスの笑い声はムソルグスキーの発案によるものであり、訳詞のロシア語イントネーションを旋律に密接に関連させるなど、完成度の高い作品に仕上がっているという。
日本語名の「のみ」は、人間の血を飲むことから「飲む」の訛りから付いたそうだ。漢字の「蚤」は、「掻きたくなる痒い虫」という意味だという。
のみしらみ 馬の尿する 枕もと(松尾芭蕉)
蚤虱 音に鳴く秋の 虫ならば わが懐は 武蔵野の原(良寛)
蚤焼いて 日和占う 山家かな(小林一茶)
よい日やら 蚤が跳ねるぞ 踊るぞや(小林一茶)
俳句や和歌に歌われるほど昔から、蚤や虱は日常生活に身近なものだったのだろう。
http://www.youtube.com/watch?v=zRZH4TXO62c
をクリック、インターネットエクスプロラーから、再度このブログを呼び出して、曲を聴きながら詩を味わっていただこう。
蚤の歌
堀内 敬三 訳詩
MUSORGSKI(ムソルグスキー)作曲
小川一鬼 独唱
昔 王様蚤を飼い 蚤 蚤
王子のように可愛がる
蚤 ハハハハハ 蚤 ハハハハハ 蚤
仕立て屋を召し 言わるる
余の蚤の外套を立派に作れ
蚤に外套 ハハハハハ
蚤 ハハハハハ 外套 ハハハハ
ハハハハハハ 蚤に外套
ビロードの服を蚤に着せて
御殿の中でいばりかえらす ハハ
ハハハハハ 蚤 ハハハハ
ハハハハハハ 蚤
蚤は大臣になりすまして
仲間の蚤ども連れて歩く ハハ
妃も女官も恐れをなし
うかつに手出しするものなくハハ
さされてたとえ痒かろうとも
つぶすことさえまかりならぬ
ハハハハハハ …
本日は新暦ではあるが、9月9日。重陽の節句である。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数 本日は新暦ではあるが、9月9日。重陽の節句である。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。さらに、茱萸(グミではなくカワハジカミ)の実を入れた袋を肘に下げたり、郊外の丘など高い場所へピクニックに出掛け遠くを見る(これを登高と呼ぶ)ことが行われた。中国で重陽が正式な節句として認められたのは漢代であるというが、現在では、他の節句と比べてあまり実施されていないようである。
九日藍田崔氏荘 九日 藍田の崔氏の荘
杜甫
老去悲愁強自寛 老い去(ゆ)きて悲愁(ひしゅう)に強(し)いて自ら寛(ゆる)うし
興来今日尽君歓 興(きょう)来たりて今日(こんにち)ぞ君の歓(よろこ)びを尽くす
羞将短髪環吹帽 羞(は)ずらくは短髪を将(もっ)て環(な)お帽(ぼう)を吹かるるを
笑倩旁人為正冠 笑いて旁人(ぼうじん)を倩(やと)いて為に冠(かんむり)を正さしむ
藍水遠従千澗落 藍水(らんすい)は遠く 千澗(せんかん)従(よ)り落ち
玉山高並両峰寒 玉山(ぎょくざん)は高く 両峰(りょうほう)を並べて寒し
明年此会知誰健 明年(みょうねん) 此の会 知んぬ 誰か健(けん)なるを
酔把茱萸子細看 酔うて茱萸(しゅゆ)を把(と)りて子細(しさい)に看(み)る
〈訳〉年は取っても私は 悲しい秋に、無理にでも気持ちをゆったりもちたい
面白い。今日はあなたのもてなしをじっくり受けるとしよう
短くなった髪 風が帽子を吹き飛ばしりしたら恥ずかしい
そばの人に頼んで冠をしっかりつけてもらうのもご愛嬌
藍水は遠く千々の谷間の水を集めて流れ落ちてくる
玉山は高く二つの峰と竝んで寒々とそびえている
明年のこの日の集まりには誰がはたして達者でいるのやら
私は酔い 茱萸を手にしてつくづくそれを見つめる
九月九日憶山東兄弟 九月九日山東の兄弟を憶う
王維
獨在異鄕爲異客 独り異郷に在って異客と為り
毎逢佳節倍思親 佳節に逢う毎に倍(ます)ます親を思う
遙知兄弟登高處 遥かに知る兄弟高きに登る処
徧插茱萸少一人 遍(あまね)く茱萸(しゅゆ
作者王維が17歳で長安に留学した時の作。山東は函谷関以東の地で、作者王維の故郷を指す。9月9日の重陽の節句は重要な行事の一つで、人々は山や岡、または楼に登り菊花を浮かべた酒を飲み、茱萸の実の付いた枝を髪に挿して、厄除けをするのが例であった。
「日本書紀」に、菊理媛という神名を通してキクの名が表れる。しかし、万葉集に菊は一首も詠まれていない。万葉集には166種類の植物が歌われ、インドの古典「ベーダ」や中国の「詩経」に載る植物数よりも多いという。重陽の節会の初見は日本書紀にある「(天武天皇14年)九月の甲辰の朔壬子(みずのえねのひ、九日)に天皇、舊宮の安殿の庭に宴(とよのあかりきこしめ)す」であるが、万葉集に菊が詠まれていないというのは大いに謎である。菊は詠まれていなくても、柿本人麻呂の「うはぎ」や「防人の歌」の百代草は野菊のことではないかと思われる。
妻毛有者 採而多宜麻之作美乃山 野上乃宇波疑 過去計良受也
柿本人麻呂
妻もあらば、摘みて食(た)げまし、沙弥(さみ)の山、野の上(へ)の、うはぎ過ぎにけらずや
〈訳〉もし妻といっしょだったらうはぎを摘んで食べただろうに。沙弥(さみ)の野にうはぎが空しく伸びてしまっています。
父母我 等能ゝ志利弊乃 母ゝ余具佐 母ゝ与伊弖麻勢 和我伎流麻弖
右一首、同郡の生玉部足國 万葉集 巻20 4326
父母が 殿の後方の 百代草 百代いでませ わが来るまで
右の一首は、同じ郡の生玉部足国のなり
〈訳〉今日まで私のことを大事に育てて下さったお父さんお母さん、これから先どうか百代の後の世までも健やかに長生きして下さい。私が無事に生きて帰って来るその日まで。
陰陽思想では奇数は陽の数であり、陽数の極である9が重なる日であることから「重陽」と呼ばれる。奇数の重なる月日は陽の気が強すぎるため不吉とされ、それを払う行事として節句が行なわれていたが、九は一桁の数のうち最大の「陽」であり、特に負担の大きい節句と考えられていた。後、陽の重なりを吉祥とする考えに転じ、祝い事となったものである。邪気を払い長寿を願って、菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた酒を酌み交わして祝ったりしていた。また前夜、菊に綿をおいて、露を染ませ、身体をぬぐうなどの習慣があった。さらに、茱萸(グミではなくカワハジカミ)の実を入れた袋を肘に下げたり、郊外の丘など高い場所へピクニックに出掛け遠くを見る(これを登高と呼ぶ)ことが行われた。中国で重陽が正式な節句として認められたのは漢代であるというが、現在では、他の節句と比べてあまり実施されていないようである。
九日藍田崔氏荘 九日 藍田の崔氏の荘
杜甫
老去悲愁強自寛 老い去(ゆ)きて悲愁(ひしゅう)に強(し)いて自ら寛(ゆる)うし
興来今日尽君歓 興(きょう)来たりて今日(こんにち)ぞ君の歓(よろこ)びを尽くす
羞将短髪環吹帽 羞(は)ずらくは短髪を将(もっ)て環(な)お帽(ぼう)を吹かるるを
笑倩旁人為正冠 笑いて旁人(ぼうじん)を倩(やと)いて為に冠(かんむり)を正さしむ
藍水遠従千澗落 藍水(らんすい)は遠く 千澗(せんかん)従(よ)り落ち
玉山高並両峰寒 玉山(ぎょくざん)は高く 両峰(りょうほう)を並べて寒し
明年此会知誰健 明年(みょうねん) 此の会 知んぬ 誰か健(けん)なるを
酔把茱萸子細看 酔うて茱萸(しゅゆ)を把(と)りて子細(しさい)に看(み)る
〈訳〉年は取っても私は 悲しい秋に、無理にでも気持ちをゆったりもちたい
面白い。今日はあなたのもてなしをじっくり受けるとしよう
短くなった髪 風が帽子を吹き飛ばしりしたら恥ずかしい
そばの人に頼んで冠をしっかりつけてもらうのもご愛嬌
藍水は遠く千々の谷間の水を集めて流れ落ちてくる
玉山は高く二つの峰と竝んで寒々とそびえている
明年のこの日の集まりには誰がはたして達者でいるのやら
私は酔い 茱萸を手にしてつくづくそれを見つめる
九月九日憶山東兄弟 九月九日山東の兄弟を憶う
王維
獨在異鄕爲異客 独り異郷に在って異客と為り
毎逢佳節倍思親 佳節に逢う毎に倍(ます)ます親を思う
遙知兄弟登高處 遥かに知る兄弟高きに登る処
徧插茱萸少一人 遍(あまね)く茱萸(しゅゆ
「日本書紀」に、菊理媛という神名を通してキクの名が表れる。しかし、万葉集に菊は一首も詠まれていない。万葉集には166種類の植物が歌われ、インドの古典「ベーダ」や中国の「詩経」に載る植物数よりも多いという。重陽の節会の初見は日本書紀にある「(天武天皇14年)九月の甲辰の朔壬子(みずのえねのひ、九日)に天皇、舊宮の安殿の庭に宴(とよのあかりきこしめ)す」であるが、万葉集に菊が詠まれていないというのは大いに謎である。菊は詠まれていなくても、柿本人麻呂の「うはぎ」や「防人の歌」の百代草は野菊のことではないかと思われる。
柿本人麻呂
妻もあらば、摘みて食(た)げまし、沙弥(さみ)の山、野の上(へ)の、うはぎ過ぎにけらずや
〈訳〉もし妻といっしょだったらうはぎを摘んで食べただろうに。沙弥(さみ)の野にうはぎが空しく伸びてしまっています。
右一首、同郡の生玉部足國 万葉集 巻20 4326
父母が 殿の後方の 百代草 百代いでませ わが来るまで
右の一首は、同じ郡の生玉部足国のなり
〈訳〉今日まで私のことを大事に育てて下さったお父さんお母さん、これから先どうか百代の後の世までも健やかに長生きして下さい。私が無事に生きて帰って来るその日まで。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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