瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[277] [278] [279] [280] [281] [282] [283] [284] [285] [286] [287]
淮南子 地形訓 第四 より
 木勝土、土勝水、水勝火、火勝金、金勝木、故禾春生秋死、菽夏生冬死、麥秋生夏死、薺冬生中夏死。木壯、水老火生金囚土死;火壯、木老土生水囚金死;土壯、火老金生木囚水死;金壯、土老水生火囚木死。音有五聲、宮其主也;色有五章、黃其主也;味有五變、甘其主也;位有五材、土其主也。是故煉土生木、煉木生火、煉火生雲、煉雲生水、煉水反土。煉甘生酸、煉酸生辛、煉辛生苦、煉苦生鹹、煉咸反甘。變宮生征、變征生商、變商生羽、變羽生角、變角生宮。是故以水和土、以土和火、以火化金、以金治木、木得反土。五行相治、所以成器用。
(訳)
 木は土に勝つ。土は水に勝つ。水は火に勝つ。火は金に勝つ。金は水に勝つ。
 さても禾(いね、木徳)は、春(木王)に生じ、秋(金王)に枯れ、菽(まめ、火徳)は、夏(火王)に生じ、冬(水王)に枯れ、麦(金徳)は、秋に生じ、夏に枯れ、薺(せい、野菜、水徳)は、冬に生じ、中夏(季夏、土王)に枯れる。
 木が壮んになると、水は老え、火は生じ、金は囚われ、土は死ぬ。
 火が壮んになると、木は老え、土は生じ、水は囚われ、金は死ぬ。
 土が壮んになると、火は老え、金は生じ、木は囚われ、水は死ぬ。
 金が壮んになると、土は老え、水は生じ、火は囚われ、木は死ぬ。
 水が壮んになると、金は老え、木は生じ、土は囚われ、火は死ぬ。
c409276b.JPG 音(おん、音階)には、五声があり、(宮、商、角、徴、羽)があり、うち宮がその主宰者である。〔※西洋古典音楽の階名で大体、宮はド(Do)、商はレ(Re)、角はミ(Mi)、徴はソ(Sol)、羽はラ(La)にあたると説明されることが多い。〕
 色(色彩)には五章(黄、赤、青、白、黒)があり、うち黄がその主宰者である。
 味(味覚)には五変(甘、酸、辛、苦、鹹)があり、うち甘がその主宰者である。
 位(素材)には五材(土・木・火・金・水)があり、うち土がその主宰者である。
 さてこそ、土を錬(きた)えて木を生じ、木を錬えて火を生じ、火を錬えて雲(金気が宿る)を生じ、雲を錬えて水を生じ、水を錬えて土にかえる。―― 甘(あまみ)を錬(ね)て酸を生じ、酸(すっぱい)を錬って辛を生じ、辛(からみ)を錬って、苦を生じ、苦(にがみ)を錬って鹹を生じ、鹹(しおからい)を錬って甘にかえる。―― 宮を変じて徴を生じ、徴を変じて商を生じ、商を変じて羽を生じ、羽を変じて角を生じ、角を変じて宮を生じる。
 さてこそ、水によって土を調和し、土によって火を調和し、火によって金を化(とか)し、金によって木を治め、木は再び土にかえる。かく五行の徳が(つぎつぎと)治めあってこそ、器物の働きが完全に成りたつのだ。
 五行の互いの関係には、「相生」「相剋(相克)」「比和」「相乗」「相侮」という性質が付与されている。
8f0f55f0.JPG 相生とは、順送りに相手を生み出して行く、陽の関係。
木生火:木は燃えて火を生む。
火生土:物が燃えればあとには灰が残り、灰は土に還る。
土生金:鉱物・金属の多くは土の中にあり、土を掘ることによってその金属を得ることができる。
金生水:金属の表面には凝結により水が生じる。
水生木:木は水によって養われ、水がなければ木は枯れてしまう。
 相剋とは、相手を打ち滅ぼして行く、陰の関係。
木剋土:木は根を地中に張って土を締め付け、養分を吸い取って土地を痩せさせる。
土剋水:土は水を濁す。また、土は水を吸い取り、常にあふれようとする水を堤防や土塁等でせき止める。
水剋火:水は火を消し止める。
火剋金:火は金属を熔かす。
金剋木:金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。
 比和とは、同じ気が重なると、その気は盛んになる。その結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる。
 相侮とは、「侮(ぶ)」は侮(あなど)ることで、相剋の反対で、反剋する関係にある。
木侮金:木が強すぎると、金の克制を受け付けず、逆に木が金を侮る
金侮火:金が強すぎると、火の克制を受け付けず、逆に金が火を侮る
火侮水:火が強すぎると、水の克制を受け付けず、逆に火が水を侮る
水侮土:水が強すぎると、土の克制を受け付けず、逆に水が土を侮る
土侮木:土が強すぎると、木の克制を受け付けず、逆に土が木を侮る
火虚金侮:火自身が弱いため、金を克制することができず、逆に金が火を侮る
水虚火侮:水自身が弱いため、火を克制することができず、逆に火が水を侮る
土虚水侮:土自身が弱いため、水を克制することができず、逆に水が土を侮る
木虚土侮:木自身が弱いため、土を克制することができず、逆に土が木を侮る
金虚木侮:金自身が弱いため、木を克制することができず、逆に木が金を侮る
相乗とは、「乗」は陵辱することで、相剋が度を過ぎて過剰になったもの。
木乗土:木が強すぎて、土を克し過ぎ、土の形成が不足する。
土乗水:土が強すぎて、水を克し過ぎ、水を過剰に吸収する。
水乗火:水が強すぎて、火を克し過ぎ、火を完全に消火する。
火乗金:火が強すぎて、金を克し過ぎ、金を完全に熔解する。
金乗木:金が強すぎて、木を克し過ぎ、木を完全に切り倒す。
土虚木乗:土自身が弱いため、木剋土の力が相対的に強まって、土がさらに弱められること。
水虚土乗:水自身が弱いため、土剋水の力が相対的に強まって、水がさらに弱められること。
火虚水乗:
火自身が弱いため、水剋火の力が相対的に強まって、火がさらに弱められること。
金虚火乗:
金自身が弱いため、火剋金の力が相対的に強まって、金がさらに弱められること。
木虚金乗:
木自身が弱いため、金剋木の力が相対的に強まって、木がさらに弱められること。
 五行思想(ごぎょうしそう)または五行説(ごぎょうせつ)とは、古代中国に端を発する自然哲学の思想で、万物は木・火・土・金・水の5種類の元素からなるという説である。
 また、5種類の元素は『互いに影響を与え合い、その生滅盛衰によって天地万物が変化し、循環する』という考えが根底に存在する。
 五行思想は、戦国時代の陰陽家騶衍(すうえん、BC305~240年頃)が理論づけたとされる。一説によると、元素を5つとしたのは、当時中国では5つの惑星が観測されていたためだという。少なくとも当時から知られていた惑星、水星・金星・火星・木星・土星の名称は五行に対応している。春秋戦国時代の末頃に陰陽思想と一体で扱われるようになり、陰陽五行説となった。
 木(木行):木の花や葉が幹の上を覆っている立木が元となっていて、樹木の成長・発育する様子を表す。「春」の象徴。
 火(火行):光り煇く炎が元となっていて、火のような灼熱の性質を表す。「夏」の象徴。
 土(土行):植物の芽が地中から発芽する様子が元となっていて、万物を育成・保護する性質を表す。「季節の変わり目」の象徴。
 金(金行);土中に光り煇く鉱物・金属が元となっていて、金属のように冷徹・堅固・確実な性質を表す。収獲の季節「秋」の象徴。
 水(水行):泉から涌き出て流れる水が元となっていて、これを命の泉と考え、胎内と霊性を兼ね備える性質を表す。「冬」の象徴。
f921c8d8.JPG 四季の変化は五行の推移によって起こると考えられた。また、方角・色など、あらゆる物に五行が配当されている。そこから、四季に対応する五行の色と四季を合わせて、青春、朱夏、白秋、玄冬といった言葉が生まれた。
 五行説と陰陽説が統合されて陰陽五行説が成立した段階で、五行が混沌から太極を経て生み出されたという考え方が成立して、五行の生成とその順序が確立した。
 1.太極が陰陽に分離し、陰の中で特に冷たい部分が北に移動して水行を生じ、
 2.次いで陽の中で特に熱い部分が南へ移動して火行を生じた。
 3.さらに残った陽気は東に移動し風となって散って木行を生じ、
 4.残った陰気が西に移動して金行を生じた。
 5.そして四方の各行から余った気が中央に集まって土行が生じた。
というのが五行の生成順序である。
a4de24a7.JPG
23618734.JPG 五星(ごせい)とは、太陽系の惑星のうち水星・金星・火星・木星・土星の5つをいう。肉眼で容易に観測できるため、古代より知られていた惑星である。太陽系の内側から6つめまでの惑星のうち、天動説では惑星と認識されていなかった地球以外の5つでもある。五星(と地球)以外の惑星が知られたのは、天王星が発見された1781年である。
 中国では五行思想の元になり、漢字圏(中国語、日本語、韓国語、ベトナム語)では「木火土金水」の五行に「星」をつけた名で呼ばれる(ただしベトナム語では「星○」の語順)。五行と五星の対応は、惑星の性質(わかっていたのは運行・色・光度程度だが)から連想されるものになっており、単純な順序関係になっていない。五星に日と月を加えたものが七曜で、曜日に対応付けられている。七曜に計都(けいとう)と羅睺(ら合)を加えたものが九曜である。
 
淮南子 天文訓 第三より
 何謂五星? 東方、木也、其帝太皞、其佐句芒、執規而治春;其神為歲星、其獸蒼龍、其音角、其日甲乙。南方、火也、其帝炎帝、其佐朱明、執衡而治夏;其神為熒惑、其獸朱鳥、其音徵、其日丙丁。中央、土也、其帝黃帝、其佐後土、執繩而制四方;其神為鎮星、其獸黃龍、其音宮、其日戊己。西方、金也、其帝少昊、其佐蓐收、執矩而治秋;其神為太白、其獸白虎、其音商、其日庚辛。北方、水也、其帝顓頊、其佐玄冥、執權而治冬;其神為辰星、其獸玄武、其音羽、其日壬癸。
〈訳〉
 五星とは何か。
東方は木である。その帝は大皥(たいこう)、その佐(宰相)は句芒(こうぼう)で、規(コンパス)をとって春期を治める。神は歳星(木星)である。禽獣では蒼龍。五音では角。暦日では甲と乙。
 南方は火である。その帝は炎帝、その佐は朱明(しゅめい)で、衡(はかり)をとって夏期を治める。神は熒惑(けいわく、火星)である。禽獣では、朱鳥。五音では微(ち)。暦日では丙と丁。
 中央は土である。その帝は黄帝、その佐は后土で、縄(すみなわ)を取って四方を支配する。神は鎭星(土星)である。禽獣では、黄龍。五音では宮(きゅう)。暦日では戊と己。
 西方は金である。その帝は少昊(しょうこう)、その佐は蓐収(じょくしゅう)で、矩(ものさし)を取って秋期を治める。神は太白(たいはく)である。禽獣では白虎(びゃっこ)、五音では商(しょう)。暦日では庚と辛。
 北方は水である。その帝は顓頊(せんぎょく)、その佐は玄冥(げんめい)で、権(秤のおもり)を取って冬期を治める。神は辰星(水星)である。禽獣では玄武。五音では羽(う)。暦日では壬と癸。
 
  今朝のウェブニュースより
75dd98b8.JPG 【カダフィ大佐死亡】遺体は市中引き回し 群衆から歓喜の声「血は無駄ではなかった!」[中東・アフリカ]―― 【カイロ=大内清】リビアの最高指導者だったカダフィ大佐(69)が20日、中部シルトで反カダフィ派部隊に拘束、殺害されたことを受け、国内各地で市民が「カダフィ時代」の終わりを祝った。反カダフィ派代表組織「国民評議会」のアブドルジャリル議長は21日にも「全土解放」を宣言する見通し。/中東の衛星テレビ局アルアラビーヤが放映した映像によると、大佐の遺体が運ばれた北西部ミスラタでは20日、遺体を乗せた反カダフィ派部隊の車両が市中を回った。殺到した群衆からは、大佐を罵(ののし)る言葉とともに、「犠牲者の血は無駄ではなかった!」と歓喜の声が上がった。/首都トリポリでも多くの市民が反カダフィ派の旗を持って街へ繰り出し、夜もお祭り騒ぎが続いた。/一方、トリポリで記者会見した評議会のジブリル暫定首相は同日、大佐の最有力後継候補と目された次男サイフルイスラム氏がシルト脱出後、近郊の村に潜伏しているのをほぼ特定したと明らかにした。同氏をめぐっては、すでに殺害されたとの報道もあり、情報が錯綜(さくそう)している。 (産経ニュース 2011.10.21 08:26)
228ff00c.JPG
5414796d.JPG 二十八宿(にじゅうはっしゅく)とは、天球における天の赤道を、28のエリア(星宿)に不均等分割したもの。二十八舎(にじゅうはっしゃ)ともいう。またその区分の基準となった28の星座(中国では星官・天官といった)のこと。中国の天文学・占星術で用いられた。28という数字は、月の任意の恒星に対する公転周期(恒星月)である27.32日に由来すると考えられ、1日の間に、月は1つのエリアを通過すると仮定している。
角宿を起宿として天球を西から東に不均等分割したもので、均等区分の十二次と共に天体の位置を表示する経度方向の座標として用いられた。二十八宿の星座は4つの方角の七宿ごとにまとめられ、その繋げられた形は4つの聖獣の姿に見たてられ、東方青龍・北方玄武・西方白虎・南方朱雀の四象(四神あるいは四陸ともいう)に分けられた。
二十八宿はそれぞれ西端の比較的明るい星を基準(距星という)とし、その距星から東隣の宿の距星までがその宿の広度(赤経差)となる。『漢書』「律暦志」 以降、二十八宿は度数をもって表されたが、その周天度は360度ではなく、1太陽年の長さ、すなわち365度で表された。この場合、正確には365度に4分の1程度の端数が生じる訳で、その端数は全て斗宿の広度に含められ、これを斗分と呼んだ。
 考古学上、二十八宿の名称が整った形で発見されたのは、1978年、湖北省随県で発掘された戦国時代初期(紀元前5世紀後半)の曾侯乙墓(曾国の乙侯の墓)から出たものが最古である。そこで発見された漆箱の蓋には青竜・白虎と朱書きされた二十八宿の名称のある図があった。日本における最初の二十八宿図は、7世紀から8世紀頃に造られた高松塚古墳やキトラ古墳の壁画で白虎などの四神と共に見付かっており、中国の天文学体系がこの頃には渡来していたことを伺わせる。
 
淮南子 天文訓 第三 より
 星、正月建營室、二月建奎、婁、三月建胃、四月建畢、五月建東井、六月建張、七月建翼、八月建亢、九月建房、十月建尾、十一月建牽牛、十二月建虛。
星分度、角十二、亢九、氐十五、房五、心五、尾十八、箕十一四分一、斗二十六、牽牛八、須女十二、虛十、危十七、營室十六、東壁九、奎十六、婁十二、胃十四、昴十一、畢十六、觜嶲二、參九、東井三十三、輿鬼四、柳十五、星七、張、翼各十八、軫十七、凡二十八宿也。

〈訳〉
 〔星・月〕は、正月には営室〔・東壁〕に建ち、二月には奎・婁に建ち、三月には胃〔・昴〕に建ち、四月には畢〔・觜嶲・参〕に建ち、五月には東井〔・輿鬼〕に建ち、六月には〔柳・七星・〕張に建ち、七月には翼〔・軫〕に建ち、八月には〔角・〕亢〔・氐〕に建ち、九月には房〔・心〕に建ち、十月には尾〔・箕〕に建ち、十一月には〔斗・〕牽牛に建ち、十二月には〔須女・〕虚〔・危〕に建つ。
 〔星宿の分度〕 〔二十八〕星宿の分度は、角(かく)が十二、亢(こう)が九、氐(てい)は十五、房(ぼう)が五、心(しん)が五、尾(び)が十八、箕(き)が十一と四分の一。〔以上東七十五度と四分の一度。〕
斗(と)が二十六、牽牛(けんぎゅう)が八、須女(しゅじょ)が十二、虚(きょ)十、危(き)が十七、営室(えいしつ)が十六、東壁(とうへき)が九。〔以上、北九十八度。〕 奎(けい)が十六、婁(ろう)は十二、胃(い)がじゅよん、昴(ぼう)が十一、畢(ひつ)が十六、觜嶲(しけい)が二、参(しん)が九。〔以上、西八十度。〕 東井(とうせい)が三十三、輿鬼(よき)が四、柳(りゅう)が十五、七星(しちせい)が七、張(ちょう)と翼(よく)とがおのおの十八、軫(しん)が十七。〔以上、南百二十二度。〕で、すべて二十八宿である。
 *〔 〕内は、すべて原文に補足したものである。
史記 孟子・荀卿列伝 第十四 より
 是以騶子重於齊。適梁、惠王郊迎、執賓主之禮。適趙、平原君側行撇席。如燕、昭王擁彗先驅、請列弟子之座而受業、筑碣石宮、身親往師之。作主運。其游諸侯見尊禮如此、豈與仲尼菜色陳蔡、孟軻困於齊梁同乎哉!笔武王以仁義伐紂而王、伯夷餓不食周粟;衛靈公問陳、而孔子不答;梁惠王謀欲攻趙、孟軻稱大王去邠。此豈有意阿世俗茍合而已哉!持方枘欲內圜鑿、其能入乎?或曰、伊尹負鼎而勉湯以王、百里奚飯牛車下而繆公用霸、作先合、然後引之大道。騶衍其言雖不軌、儻亦有牛鼎之意乎? 自騶衍與齊之稷下先生、如淳于髡、慎到、環淵、接子、田駢、騶奭之徒、各著書言治亂之事、以干世主、豈可勝道哉!
〈訳〉
 かくて、騶衍は斉で重んぜられた。梁におもむくと恵王は国都の郊外に出迎えて、主客対等の礼を行い、賓客として待遇した。趙におもむくと、平原君は極めて敬虔な態度で接し、彼の側につきそって歩行し、彼の坐席を自分の衣服で払ってやるほどであった。燕におもむくと、昭王は箒を手にして道を清めて先駆し、弟子の座に連なって学業を受けたいと請い、碣石宮を築いて、水から出向いて彼に師事した。騶衍はそこで「主運篇」を作述した。騶衍が諸侯の間に遊歴して尊敬礼遇されたのは以上のようであって、仲尼(ちゅうじ)が陳・蔡で飢えて青白くなり、孟軻(もうか)が斉・梁で苦しんだのとは、同日の談ではない。むかし、周の武王は仁義の故に殷の紂王を伐って天下の王者となったが、伯夷は武王を非として、餓死しても周の扶持米を受けようとはしなかった。衛の霊公が軍陣の法を問うたが、孔子は答えなかった。梁の恵王が趙を攻めたいと相談したが、孟軻は周の大王(古公亶父、武王の曾祖父)が民を思って邠(陝西省)を去ったことを称揚した。この伯夷・孔子・孟軻の態度は、世俗に阿(おもね)ったり、ただ相手に気に入られようとする心からは決して生まれない。四角な柄を円い孔に入れようとしても、入るはずがない。ある人は言った。
「伊尹(いいん)は、はじめ鼎を背負った料理人として殷の湯王に近づき、後に湯王を激励して王者たらしめた。百里奚(ひゃくりけい)は牛を車の下で飼って秦の繆公(ぼく)に認められ、繆公は百里奚のお陰で覇者となった。この二人は、まず相手に近づく手段を講じておいて、それから相手を大道に引き入れたのである。騶衍は、その言説は不軌であったが、あるいは牛を飼った百里奚、鼎を背負った伊尹のような意があったのではなかろうか」
320ce862.JPG 騶衍をはじめ、斉の稷下先生(斉の威王・宣王の時代に、斉の国都臨菑〔りんし〕の城門である稷門付近に集まった学者たち)、たとえば淳于髠(じゅんうこん)・慎倒・環淵・接子(しょうし)・田駢(でんへん)・騶奭(すうせき)の徒のごときまで、各々の書を著し、治乱を論じて、時の君主に仕官をもとめた。その数は非常に多くて、すべてに言及することはできない。
3adcb21a.JPG 陰陽家(おんようか)は諸子百家の一つで、六家の一つに数えられる思想集団である。世界の万物の生成と変化は陰と陽の二種類に分類されると言う陰陽思想を説いた。代表的な思想家として騶衍(すうえん。鄒衍と表記する場合もある)や、公孫発などが挙げられる。後、戦国時代末期に五行思想と一体となった陰陽五行思想として東アジア文化圏に広まった。陰陽家の思想は主に2つある。
1 「陰陽説」: 世界は「陰」と「陽」、「男」と「女」、「天」と「地」のように、2つのものに分かれ、それらがうまく混じりあって万物が「調和」しているのだ、という考え。
2 「五行説」: 陰と陽から「木」「火」「土」「金」「水」の五つの要素がうまれ、またその5つの要素から万物が生まれていくという考え。
 これら2つを総称して「陰陽五行説」と呼ぶ。
 
史記 孟子・荀卿列伝 第十四 より
 齊有三騶子。其前騶忌、以鼓琴干威王、因及國政、封為成侯而受相印、先孟子。其次騶衍、后孟子。騶衍睹有國者益淫侈、不能尚德、若大雅整之於身、施及黎庶矣。乃深觀陰陽消息而作怪迂之變、終始、大圣之篇十餘萬言。其語閎大不經、必先驗小物、推而大之、至於無垠。先序今以上至黃帝、學者所共術、大并世盛衰、因載其禨祥度制、推而遠之、至天地未生、窈冥不可考而原也。先列中國名山大川、通谷禽獸、水土所殖、物類所珍、因而推之、及海外人之所不能睹。稱引天地剖判以來、五德轉移、治各有宜、而符應若茲。以為儒者所謂中國者、於天下乃八十一分居其一分耳。中國名曰赤縣神州。赤縣神州內自有九州、禹之序九州是也、不得為州數。中國外如赤縣神州者九、乃所謂九州也。於是有裨海環之、人民禽獸莫能相通者、如一區中者、乃為一州。如此者九、乃有大瀛海環其外、天地之際焉。其術皆此類也。然要其歸、必止乎仁義節儉、君臣上下六親之施、始也濫耳。王公大人初見其術、懼然顧化、其后不能行之。
〈訳〉
 斉に三騶子がいた。最初の騶忌〈すうき〉は琴を弾くのがうまいという理由で、威王に仕官を求め、それをきっかけにして国政にあずかり、封ぜられて成侯となり、宰相の印綬を受けた。時代は孟子より先である。
9cb2d0ec.JPG その次の騶衍(すうえん)は時代は孟子より後である。騶衍は、当時の君主がますます淫逸奢侈に走り、徳をたっとぶ点において、『詩経』の大雅篇にうたわれている君主(周の文王・武王)が、まず道によって身を整えてから、次第に庶民に及ぼしたようにはできないのを見て取って、陰陽の消長変化を深く観察し、「怪迂の篇」「終始大聖の篇」(騶衍の書は伝わっていないが、おそらくその篇名)など、十余万字の書を著した。その説は広遠雄大で常法を無視し、必ずまず小さな事物を検討してある結論を引き出し、それを基に推論して、拡大し、ついには無限大のことまで論及している。たとえば、時についての考察においては、まず現代(戦国時代)を述べてから遡って黄帝にいたるまでを述べているが、それは学者たちが共通して述べているところで、大抵は世の盛衰を論じたものである。これに関連して、吉凶の兆や法令制度を記し、さらに推論して拡大し、天地がまだ生じない前の幽遠で根源を考究できない時代にまで至っている。物についての考察においては、まず中国の大山・大川・大谷や禽獣その他水陸に繁殖するところのもの、珍奇な物類を列挙し、それらから推論して、人々が見ることのできない海外の物に及び、天地が別れて以来、五行(木火金水土)の徳が順次に転移するに随って、宜しきを得た治世がそれぞれ成立し、吉凶が応報すると論じている。その説に言う。
「儒者のいわゆる中国は、全天下においては八十一分の一にすぎない。中国を名付けて赤県神州という。この赤県神州の内に、おのずから九州がある。禹が整理した九州がこれで、これは州の数には入らない。中国の外に赤県神州と同様のものが九つあって、これがいわゆる九州である。小海があって九州の一つ一つを取り巻いており、人民禽獣は互いに交流することが出来ず、それぞれ一つの区域を形成しているわけで、それが一州である。そのような大きな州が九つあって、大海がその外を取り巻いている。これが天地の際限である」
 騶衍の述べるところは、みなこの類である。しかし、その帰するところを要約すれば、必ず仁義・節倹を強調しているのであって、君臣・上下・六親(父母兄弟妻子)の間に施し行うべき道である。ただ、始めが虚誕でつかみどころがないだけである。王侯・貴人ははじめてその説に接すると、驚いてひきつけられるが、その後、実行することは出来なかった。
史記 列伝 管・晏列伝 第二 より
 太史公曰:吾讀管氏牧民、山高、乘馬、輕重、九府、及晏子春秋、詳哉其言之也。既見其著書、欲觀其行事、故次其傳。至其書、世多有之、是以不論、論其軼事。
 管仲世所謂賢臣、然孔子小之。豈以為周道衰微、桓公既賢、而不勉之至王、乃稱霸哉?語曰“將順其美、匡救其惡、故上下能相親也”。豈管仲之謂乎?
方晏子伏莊公尸哭之、成禮然後去、豈所謂“見義不為無勇”者邪? 至其諫說、犯君之顏、此所謂“進思盡忠、退思補過”者哉! 假令晏子而在、余雖為之執鞭、所忻慕焉。

(訳)
 太子公曰く ――
 わたしは、管仲の著作である牧民・山高・乗馬・軽重・九府の諸篇および晏子の著作である『晏子春秋』を読んだが、その立論はじつに精密である。
 著書を見おわると、行ないを観察したいという思いがつのったので、その伝を述べてみた。二人の著書は世間に多く流布されているので論じないことにして、その逸事を論じたのである。
 管仲は世にいわゆる賢臣であるが、孔子は小人物だとした。それは、周の政道が衰微していた状況下で、桓公が賢人であったにもかかわらず、大いに励まして王者にまでしたてずに、覇を称(とな)えさせるにとどまったと考えたからであろうか。古語(『孝経』)に、
「君主の美点を助長し、欠点を矯正する臣下であるから、君臣がよく相親しむのだ」
とあるが、まさに管仲のごときを言ったのであろうか。
cbbe90a1.JPG 崔杼に弑殺された荘公の屍に伏して、これを哭礼して立ち去った晏子は、いわゆる「義を見てせざるは勇なき」ものであろうか。君主に面と向かって強諌した晏子は、いわゆる「進んでは忠を尽くそうと思い、退いては過ちを補おうと思う」ものであろうか。もし、いま晏子が生存しているなら、わたしはその御者としてでも仕えたい、とまで慕っている。
 史記 世家 斉太公世家 第二 より
 六年、初、棠公妻好、棠公死、崔杼取之。莊公通之、數如崔氏、以崔杼之冠賜人。待者曰:“不可。”崔杼怒、因其伐晉、欲與晉合謀襲齊而不得閒。莊公嘗笞宦者賈舉、賈舉復侍、為崔杼閒公以報怨。五月、莒子朝齊、齊以甲戌饗之。崔杼稱病不視事。乙亥、公問崔杼病、遂從崔杼妻。崔杼妻入室、與崔杼自閉戶不出、公擁柱而歌。宦者賈舉遮公從官而入、閉門、崔杼之徒持兵從中起。公登臺而請解、不許;請盟、不許;請自殺於廟、不許。皆曰:“君之臣杼疾病、不能聽命。近於公宮。陪臣爭趣有淫者、不知二命。”公踰墻、射中公股、公反墜、遂弒之。晏嬰立崔杼門外、曰:“君為社稷死則死之、為社稷亡則亡之。若為己死己亡、非其私暱、誰敢任之!”門開而入、枕公尸而哭、三踴而出。人謂崔杼:“必殺之。”崔杼曰:“民之望也、捨之得民。”
 丁丑、崔杼立莊公異母弟杵臼、是為景公。景公母、魯叔孫宣伯女也。景公立、以崔杼為右相、慶封為左相。二相恐亂起、乃與國人盟曰:“不與崔慶者死!”晏子仰天曰:“嬰所不(獲)唯忠於君利社稷者是從!”不肯盟。慶封欲殺晏子、崔杼曰:“忠臣也、捨之。”齊太史書曰“崔杼弒莊公”、崔杼殺之。其弟復書、崔杼復殺之。少弟復書、崔杼乃捨之。

(訳)
 (荘公の)六年のことである。――これより先、斉の大夫の棠公(とうこう)の妻は美人であった。棠公が死んで、崔杼(さいちょ、?~BC546年)がこれを娶った。荘公はこれと密通し、しばしば崔杼の邸宅に通い、崔杼の冠を持ち出して、人に与えたりした。侍者が
「そのようなことをなされてはなりません」
と言ったが、荘公は聞き入れなかった。崔杼は怒って、斉が晋を伐つのにかこつけて晋と謀を打ち合わせ、荘公を襲撃使用としたが、その隙を捕えることができなかった。また、荘公はかつて宦者の賈挙(かきょ)を鞭打ったことがある。賈挙はそれからも、君側にじしていて、崔杼のために荘公の隙をうかがい、怨みを報じようとした。――この年の五月に、莒(きょ)の君主が斉に来朝した。斉は甲戌(こうじゅつ)の日にこれを饗応した。崔杼は病気と称して出席しなかった。乙亥(いつがい)の日に、崔杼の病気を慰問し、崔杼の妻と淫楽しようとした。崔杼の妻は、崔杼とともに部屋にこもって、戸を閉じて出てこなかった。荘公は呼び出そうとして、柱を抱いて歌った。宦者の賈挙が、荘公の従者を遮り留めて、ひとり屋内に入り、門を閉じた。崔杼の家臣が、武器を持って邸内から蜂起した。荘公は台(うてな)にのぼって和解して欲しいと請うたが、崔杼の家臣は許さなかった。宗廟で自殺したいと請うたが許さなかった。そして口々に言った。
「わが斉君の臣下である崔杼は、現在重病で、君命を聞くことが出来ない。この邸は宮廷に近い。われら陪臣は、主人である崔杼の命をうけて、至急淫蕩な奴を討とうとしているのだ。われらは主人の命のみを聞くのだ」
36e00b50.JPG 荘公は牆(かき)をこえて脱れようとしたが、崔杼の家臣の矢が股にあたって、こちら側に落ちた。崔杼はの家臣はついに荘公を弑殺した。晏嬰が駆けつけて、崔杼の邸の門外に立って言った。
「わが君が、公儀をもって国家のために死亡なさったのなら、私もお供をして死にもしよう。国家のために逃亡なさったのなら、私もお供をして逃亡もしよう。もし、だが私欲のために死亡し、または逃亡なさるのなら、君公がひそかになじまれたものでなくては、だれがお供をしようか!」
 そして、門が開くと中に入り、荘公の屍に枕させて哭泣し、礼式通り三踊の礼(三度哀悼して足ずりをする礼)をして退出した。ある人が崔杼に言った。
「かならず殺してしまいなさい」
崔杼が言った。
「晏嬰には人望がある。このまま生かしておいて民心を得よう」
 丁丑(ていちゅう)の日に、崔杼は、荘公の異母弟の杵臼(しょきゅう)を立てた。これが景公である。景公の母は魯の叔孫宣白(しゅくそんせんはく)の女(むすめ)である。景公が立って、崔杼を右相に任じ、慶幇(けいほう)を左相に任じた。二相は、乱が起こるのを恐れて、国人と盟って言った。
「崔氏・慶氏にくみしないものは、死刑にしょする」
 晏嬰は天を仰いで、
「嬰は、したがうことはできない。ただ、わが君に忠に、国家に利益をもたらすものにしたがおう」
と言って、ついに盟約することを承諾しなかった。慶封は晏嬰を殺そうと望んだ。崔杼は
「忠臣である」
と言って、晏嬰をそのままにした。
 崔の史官が書いた。
「崔杼、荘公を弑す」
 崔杼は、これを殺した。その弟がまた書いた。崔杼はまた殺した。その末弟がまた書いた。崔杼はついにこれをそのままにした。
 史記 世家 孔子世家 第十七 より
 孔子年三十五、而季平子與郈昭伯以鬬雞故得罪魯昭公、昭公率師擊平子、平子與孟氏、叔孫氏三家共攻昭公、昭公師敗、奔於齊、齊處昭公乾侯。其后頃之、魯亂。孔子適齊、為高昭子家臣、欲以通乎景公。與齊太師語樂、聞韶音、學之、三月不知肉味、齊人稱之。
景公問政孔子、孔子曰:“君君、臣臣、父父、子子。”景公曰:“善哉! 信如君不君、臣不臣、父不父、子不子、雖有粟、吾豈得而食諸!”他日又復問政於孔子、孔子曰:“政在節財。”景公說、將欲以尼谿田封孔子。晏嬰進曰:“夫儒者滑稽而不可軌法;倨傲自順、不可以為下;崇喪遂哀、破產厚葬、不可以為俗;游說乞貸、不可以為國。自大賢之息、周室既衰、禮樂缺有閒。今孔子盛容飾、繁登降之禮、趨詳之節、累世不能殫其學、當年不能究其禮。君欲用之以移齊俗、非所以先細民也。”后景公敬見孔子、不問其禮。異日、景公止孔子曰:“奉子以季氏、吾不能。”以季孟之閒待之。齊大夫欲害孔子、孔子聞之。景公曰:“吾老矣、弗能用也。”孔子遂行、反乎魯。

〈訳〉
 孔子が三十五歳のときに、季平子(魯の大夫、?~BC505年)が郈昭伯(魯の大夫、生没年不詳)と闘鶏を行ったために、魯の昭公に罰せられた。昭公は軍を率いて平子を撃った。平子は孟氏・叔孫氏と組んで、三家そろって昭公を攻めた。昭公は軍敗れて斉に出奔した。斉は昭公を乾侯(河北省)に居住させた。その後しばらく経って、魯が乱れた。孔子は斉におもむいて、斉の大夫の高昭子の家臣となり、意を景公に通じようと望んだ。斉の太師(音楽官)と音楽を語り、韶(しょう、帝舜の音楽)の音を聞いて、これを学び、その盛美にうたれて、三ヶ月のあいだ肉の味も知らなかった。斉の人々はこのことを称揚した。
 景公が政治を景公に問うた。孔子は答えた。
「君が君であり、臣が臣であり、父が父であり、子が子であることです」
 景公は言った。
「よろしい! まことに、もし君が君らしくなく、臣が臣らしくなく、父が父らしくなく、子が子らしくなかったら、いくら米粟があったところで、わしは安閑とそれを食っておれようか」
 後日、また政治を孔子に問うた。孔子は答えた。
「政治の要諦は材用を節約することです」
 景公は喜んで、尼谿(じけい、斉の地653b9d90.JPG)の田を与えて孔子を封じようとした。すると晏嬰がすすみでていった。
「儒者というものは多弁でありまして、そのいうところを法則とすることはできません。また、傲慢不遜で自らの意に沿いますので、下位につけることはできません。喪に服することを崇び、どこまでも悲哀の情をとげ、家産をやぶってまでも葬儀を手厚くしますから、人民の風俗とすることは出来ません。大賢(文王・周公など)が絶えてから、周室はすでに衰え、礼楽が不完全なものになって久しく経ちました。ところが、いま、孔子は、義容の修飾を盛大にし、登降・歩行の礼節を煩雑に致しました。世を重ねてもその学を究めつくすことは出来ず、当今、その礼を究めることもできません。わが君がこれを用いて斉の風俗を改めようとのぞまれることは、細民の先頭に立って、民を指導する所以ではございません」
 その後、景公はなお敬意を以って孔子に会ったが、礼を問うことはなかった。また、後日景公が孔子を引き止めていった。
「そなたに季氏(魯の上卿)と同等の俸禄を与えることは出来ない。季氏と孟氏(魯の下卿)の中間で待遇しよう」
 また、斉の大夫が孔子を殺害しようとした。孔子はこのことを聞き知った。
 景公が言った。
「わしは老いた。そなたを登用することはできない」
 孔子は、ついに斉を去って魯に帰った。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
04 2025/05 06
S M T W T F S
1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/