瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
角川の漢和中辞典から、魚に関する国字を20字ばかり拾い出してみたが、まだまだ漢和辞典に掲載されてない国字もあるし、パソコンでは打てない国字も沢山あると思われる。
鮴(ごり)の名で呼ばれる魚は地方によって異なる。ハゼ科に属するヨシノボリ類、チチブ類、ウキゴリ類など小型のハゼ類や、カジカ科に属するカジカ類、あるいはその両方を合わせて呼ぶ場合などがある。「ゴリ」という語が標準和名に組みこまれているのは、ハゼ科・ウキゴリ属のウキゴリ類だけである。
鰡(ぼら)はほぼ全世界の熱帯・温帯に広く分布する大型魚で、海辺では身近な魚の一つである。鯔(漢字、シ、ぼら)・鮱(国字、おおぼら)の字が当てられることがある。
われわれの身の回りの木、鳥、魚の名にも国字が多い。




栂(とが・つが)は木目が細かく健在などに用いられることが多く、建材の母体となる木という意。椙(すぎ)は木扁に栄える意を持つ昌をあわせて、すくすく伸びる杉を表わした国字である。
榊(さかき)は神前に捧げる木という意であり、樫(かし)は堅い木の意。
椚(くぬぎ)は、門が家の外と家を区別するので、クヌギの一名「くのき」を区の木と解して木扁に門の字を組み合わせて当て字としたという。椨(たぶのき)についてはその字源がふめいである。
椣(しで)は、花をつけた様子が幣(しで)に似ているところからついた名であるが、その国字が木扁に典をつけたものになるのかは何故か良く判らない。同様に栃の字源も不明である。


鳥の名では鳰 (にお)。これはカイツブリという水鳥で、水に入る鳥という意。鵆(チドリ)は行き交う鳥の意で、中国では鴴を用いる。普通には千鳥と書く。
鵇(とき)は年を告げる鳥の意。鴇・朱鷺とも書く。19世紀までは東アジアに広く分布しており珍しくない鳥であったが、20世紀前半には激減した。中国国際放送局によれば2010年12月上旬の時点で中国・日本・韓国を合わせた個体数は1,814羽という。鵥(かけす)は人の言葉を判断する鳥という意で、他の鳥の鳴き声や物音を真似るのが特異な鳥。懸巣とも書く。

漢字の易には、「いきちがう」といういをもつという。鶍(いすか)はスズメ科の小鳥であるが、針葉樹の実を食べやすいように上下の嘴が食い違っているため、易と鳥を組み合わせて作られた国字である。鶫(つぐみ)は漢字の鶇(トウ・つぐみ)に似せて作った国字だという。
栂(とが・つが)は木目が細かく健在などに用いられることが多く、建材の母体となる木という意。椙(すぎ)は木扁に栄える意を持つ昌をあわせて、すくすく伸びる杉を表わした国字である。
榊(さかき)は神前に捧げる木という意であり、樫(かし)は堅い木の意。
椚(くぬぎ)は、門が家の外と家を区別するので、クヌギの一名「くのき」を区の木と解して木扁に門の字を組み合わせて当て字としたという。椨(たぶのき)についてはその字源がふめいである。
椣(しで)は、花をつけた様子が幣(しで)に似ているところからついた名であるが、その国字が木扁に典をつけたものになるのかは何故か良く判らない。同様に栃の字源も不明である。
鳥の名では鳰 (にお)。これはカイツブリという水鳥で、水に入る鳥という意。鵆(チドリ)は行き交う鳥の意で、中国では鴴を用いる。普通には千鳥と書く。
鵇(とき)は年を告げる鳥の意。鴇・朱鷺とも書く。19世紀までは東アジアに広く分布しており珍しくない鳥であったが、20世紀前半には激減した。中国国際放送局によれば2010年12月上旬の時点で中国・日本・韓国を合わせた個体数は1,814羽という。鵥(かけす)は人の言葉を判断する鳥という意で、他の鳥の鳴き声や物音を真似るのが特異な鳥。懸巣とも書く。
永井荷風の小説に『濹東綺譚』があるが、この「濹東」とは隅田川の東岸という意味である。すなわち「濹」は隅田川を表わす字で江戸時代の儒者林述斎((1768~1841年)が作ったものらしいということである。隅田川は元墨田川とも書いたので、墨に川の意を表わすサンズイをつけたものである。
漢字は表意文字だから扁と旁の組み合わせでいくらでも字を作り出すことができる。火と田を組み合わせて乾いた耕地をあらわす畑(はたけ)という字を作ったもの。畠も白く乾いた田ということからできた字である。漢字は中国で作られた字という意味であるが、濹や畑・畠のように日本で作られた漢字をとくに「国字」という。
日本で新しく出来たものを書き表すために作られた国字もある。明治の中頃、日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。この人力車も「俥」と書いて表わし、「くるま」と読んだ。
見ただけで想像のつくものも多い。毛を少なくすると書いて「毟(むし)る」、心を永くもつ意で「怺(こら)える」など。

国字には日本人の好みや生活が反映されていて、よく使われるツクリに上と下を縦に並べたものがある。ヤマヘンに付けて「峠」、革ヘンに付けて「鞐(こはぜ)」、テヘンに付けて「挊(かせ)ぐ」、木ヘンに付けて「桛(かせ)」、衣ヘンにつけて「裃(かみしも)」などがある。「裃」以外にも着物に関する国字には「裄(ゆき)」「褄(つま)」「襷(たすき)」などがある。裄は着物の背縫いから袖口までのながさのこと、褄は着物のおくみの腰から下の縁の部分を指し、襷は着物の袖の部分を挙げることからつけられたもの。裄と褄は旁の部分の訓読みをあてて作ったものである。芸者のことを「左褄」ということがあるが、これは芸者が歩くときは左手で着物の褄を取ることからきている。
ほかには旁でよく用いられるも国字に「花」がある。米扁に花で「糀(こうじ)」、米や麦を蒸して麹黴を繁殖させる時、黴が米や麦に花のように付くことからできた国字。金扁に花で「錵(にえ)」、日本刀の刃のところに現れる、銀砂をふりかけたように輝いている雲形の模様をいう。木扁に花で「椛(もみじ)」、木の葉が花のように赤くなることからできた国字で、日本人の国民性がよく表れている。
多くの国字は、あまり使われずJISや漢和辞典などからも排除される傾向にある。パソコンの外字エディタを用いて、文字を作成して、これを登録することはできるが、自分のパソコンで呼び出して、文書で読んだり印刷したりすることはできるが、ウェブにのせて相手方に送信したりすることはできないようである。
漢字は表意文字だから扁と旁の組み合わせでいくらでも字を作り出すことができる。火と田を組み合わせて乾いた耕地をあらわす畑(はたけ)という字を作ったもの。畠も白く乾いた田ということからできた字である。漢字は中国で作られた字という意味であるが、濹や畑・畠のように日本で作られた漢字をとくに「国字」という。
日本で新しく出来たものを書き表すために作られた国字もある。明治の中頃、日本で発明された人力車は、それまで使われていた駕籠より速かったのと、馬よりも人間の労働コストのほうがはるかに安かったため、すぐに人気の交通手段になった。この人力車も「俥」と書いて表わし、「くるま」と読んだ。
見ただけで想像のつくものも多い。毛を少なくすると書いて「毟(むし)る」、心を永くもつ意で「怺(こら)える」など。
唐詩選の選者をめぐってはいろいろな説がある。町の商人が、当時名声の高かった李攀竜の名を騙り、李の編んだ漢詩集『古今詩刪』の唐の部分を抜き出し、李の遺稿「選唐詩序」を「唐詩選序」と改竄して序文とし、あたかも李が『唐詩選』を編纂したかのように見せかけ、注釈も唐汝詢の『唐詩解』から盗用したものであろうというのも一つの説である。
李攀龍の「選唐詩序」という序文は僅か166文字の短文に過ぎないが、全唐詩を評論した名文として、とくに宋詩の風格を学んできた日本の五山文学の伝統をくつがえし、江戸中期以来唐詩全盛へと一大転換させたのである。
選唐詩序
唐無五言古詩而有其古詩陳子昂以其古詩爲古詩弗取也 七言古詩惟子美 不失初唐気格而縦横有之 太白縦横往往彊弩之末間雑長語 英雄欺人耳 至如五七言絶句実唐三百年一人 蓋以不用意得之 即太白亦不自知其所至 而工者顧失焉 五言律・排律諸家概多佳句 七言律体諸家所難 王維・李頎頗臻其妙 即子美篇什雖衆憒焉自放矣 作者自苦 亦惟天実生才不尽 後之君子乃茲集以尽唐詩而唐詩尽於此 済南 李攀龍
唐に五言古詩無し、而して其の古詩あるは陳子昂(ちんすごう、661~702年)、其の古詩を以って古詩と爲すは取らざるなり。七言古詩は惟だ子美(しび、杜甫の字)のみ。初唐の気格を失わずして縦横之あり。太白(李白)の縦横は往往(おうおう)彊奴(きょうど)の末(まつ)、間(まま)長語を雑(まじ)う。英雄人を欺くのみ。五・七言絶句のごときに至りては、実に唐三百年の一人なり。蓋し不用意を以って之を得たり。即ち太白も亦自ら其の至る所を知らず。而して工〈たくみ〉なるものは顧(かえ)って焉(これ)を失す。五言律・排律は諸家概(おおむ)ね佳句多し。七言律体は諸家の難(むつか)しとする所なり。王維・李頎は頗るその妙に臻(いた)る。即ち子美が篇什は衆(おお)しと雖も、憒焉(かいえん)とし自ら放(ほしいま)まなり。作者自ら苦しむ。亦、惟(た)だ天実に才を生じて尽くさず。後の君子。乃ち茲(こ)の集以って唐詩を尽くさば、而も唐詩此(ここ)に尽きなん。
〈大意〉「唐代には、伝統的な五言古詩はなくなって、唐代独自の五言古詩が発生した。陳子昂(ちんすごう)は自分の古詩を伝統的な古詩と考えているが、私は賛成しない。七言古詩では杜甫だけが初唐の風格を保っているものの、格調を破った奔放な所がある。李白も奔放だが、いくら強い弓でも射程の尽きる所では力がなくなるもので、同じようなことが彼の詩にも往々にして起こる。そこで時には間ののびた句をはさんだりするが、これは英傑の士が凡俗の目をくらましているに過ぎない。だが五言・七言の絶句となると、李白は全く唐代三百年間の第一人者である。それと言うのも、思いを凝らさない為に名詩が浮かんだのであろう。だから李白自身も気の付かぬうちに至上の境地へと達したのであって、技巧を凝らした作品は却って敗北している。五言律詩・五言俳律には、どの詩人にも大体佳句が多い。七言律詩は、どの詩人にも作りにくいものだが、王維と李頎(りき)は至妙の境地にまで、幾らか手が届いている。杜甫でさえ、作品の数が多いが、雄健な力を失って、規格を外れた勝手な方向へと流れてしまった。このように、詩人達はそれぞれに苦労をしているのだが、天が才能のある人物を生む力はまことに尽きぬものがある。だから後世に君子が現れて、この選集によって唐詩を知り尽くしてくれたならば、唐詩の全てはここに尽きたこととなるのだ。」 済南 李攀竜
暑さ寒さも彼岸までというが、ここの所めっきり秋らしくなった。夜明けも5時半を過ぎなければ、明るくならないし、夕方もも17時を過ぎるともう薄暗くなる。気温もかなり低く、今年は酷暑が続いた所為もあり、何だか駆け足で秋が来たようである。
三夕(さんせき)とは新古今和歌集にある、下の句が「秋の夕暮れ」で終る次の3首をさしていう。
さびしさはその色としもなかりけり槙(まき)立つ山の秋の夕暮(新古今361)
寂連法師(1139? ~1202年)
〈訳〉なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだった。杉檜が茂り立つ山の、秋の夕暮よ。
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮[新古今362]
西行法師(1118~1190年)
〈訳〉心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れよ。
見わたせば花も紅葉(もみじ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮〔新古今363〕
藤原定家(1162~1241年)
〈訳〉まわりを見渡しても、美しい花や鮮やかな紅葉があるわけではない。海辺の苫葺(とまぶ)きの粗末な小屋が建っているだけの秋の夕暮れなのに、胸に染みてくるこの思いは何なのだろう。
新古今和歌集のこの3首につづく和歌も下の句は「秋の夕暮」で終っているが、四夕としなかったのは、何故だろう。主題が「秋の歌」というより「恋の歌」と見たからだろうか?
たへてやは思ひありともいかがせむ葎(むぐら)の宿の秋の夕暮(新古今364)
藤原雅経(1170~1221年
〈訳〉耐えられるものですか。恋しい思いがあるとしても、どうにもならない。こんな、葎の生えた侘び住居の秋の夕暮、とてもあなたの思いを受け入れることなどできない。
「唐詩選」の巻三 五言律詩のなかに、「野望」という秋の夕暮を詠った詩を見つけた。
野望
王績
東皐薄暮望 東皐(とうこう) 薄暮に望み
徙倚欲何依 徙倚(しき)して何(いずこ)に依らんと欲す
樹樹皆秋色 樹樹 皆 秋色
山山唯落暉 山山 唯 落暉
牧人驅犢返 牧人 犢(こうし)を駆って返り
獵馬帶禽歸 獵馬 禽(とり)を帯びて帰る
相顧無相識 相顧みて 相識 無く
長歌懐采薇 長歌して 采薇(さいび)を懐う
〈訳〉夕暮れの迫る頃 東の丘にたって眺めやり
どこへ身を寄せるあてもなしに歩き回る
木々はみな秋の色に染まって
山々はすべて夕日の光
牧夫たちは子牛を追いながら小屋へともどり
猟師の馬は獲物の鳥をさげながら帰ってくる
見まわしても顔を知る者は一人もない
私は声長く詠いつつ首陽山に薇を採った人を懐かしむ
王績(おう せき、585年 - 644年)は、中国・唐の詩人。絳(こう)州竜門(山西省河津県)出身。字は無功。隋末の儒者・王通(おう つう)の弟。隋の官僚となったが、天下の乱れを察し、職を捨てて郷里へ逃げ帰った。唐になってから召し出され、門下省の待詔となったが、仕官を望まず、太宗の貞観初年に辞職して帰り、黄河のほとりの東皐(とうこう)に隠棲した。酒を好み、家の周りには黍(きび)を植えて春秋に酒を造り、鴨や雁を飼い、『易経』『老子』『荘子』だけを座右に置き、東皐子(とうこうし)と号して自由な生活を送ったという。
三夕(さんせき)とは新古今和歌集にある、下の句が「秋の夕暮れ」で終る次の3首をさしていう。
寂連法師(1139? ~1202年)
〈訳〉なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだった。杉檜が茂り立つ山の、秋の夕暮よ。
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮[新古今362]
西行法師(1118~1190年)
〈訳〉心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れよ。
見わたせば花も紅葉(もみじ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮〔新古今363〕
藤原定家(1162~1241年)
〈訳〉まわりを見渡しても、美しい花や鮮やかな紅葉があるわけではない。海辺の苫葺(とまぶ)きの粗末な小屋が建っているだけの秋の夕暮れなのに、胸に染みてくるこの思いは何なのだろう。
たへてやは思ひありともいかがせむ葎(むぐら)の宿の秋の夕暮(新古今364)
藤原雅経(1170~1221年
〈訳〉耐えられるものですか。恋しい思いがあるとしても、どうにもならない。こんな、葎の生えた侘び住居の秋の夕暮、とてもあなたの思いを受け入れることなどできない。
「唐詩選」の巻三 五言律詩のなかに、「野望」という秋の夕暮を詠った詩を見つけた。
野望
王績
東皐薄暮望 東皐(とうこう) 薄暮に望み
徙倚欲何依 徙倚(しき)して何(いずこ)に依らんと欲す
樹樹皆秋色 樹樹 皆 秋色
山山唯落暉 山山 唯 落暉
牧人驅犢返 牧人 犢(こうし)を駆って返り
獵馬帶禽歸 獵馬 禽(とり)を帯びて帰る
相顧無相識 相顧みて 相識 無く
長歌懐采薇 長歌して 采薇(さいび)を懐う
〈訳〉夕暮れの迫る頃 東の丘にたって眺めやり
どこへ身を寄せるあてもなしに歩き回る
木々はみな秋の色に染まって
山々はすべて夕日の光
牧夫たちは子牛を追いながら小屋へともどり
猟師の馬は獲物の鳥をさげながら帰ってくる
見まわしても顔を知る者は一人もない
私は声長く詠いつつ首陽山に薇を採った人を懐かしむ
王績(おう せき、585年 - 644年)は、中国・唐の詩人。絳(こう)州竜門(山西省河津県)出身。字は無功。隋末の儒者・王通(おう つう)の弟。隋の官僚となったが、天下の乱れを察し、職を捨てて郷里へ逃げ帰った。唐になってから召し出され、門下省の待詔となったが、仕官を望まず、太宗の貞観初年に辞職して帰り、黄河のほとりの東皐(とうこう)に隠棲した。酒を好み、家の周りには黍(きび)を植えて春秋に酒を造り、鴨や雁を飼い、『易経』『老子』『荘子』だけを座右に置き、東皐子(とうこうし)と号して自由な生活を送ったという。
感遇
張九齢(ちょうきゅうれい)
孤鴻海上來 孤鴻(ここう) 海上(かいじょう)より来(きた)り
池潢不敢顧 池潢(ちこう) 敢(あえ)て顧(かえり)みず
側見雙翠鳥 側(そば)め見(み)る 双翠鳥(そうすいちょう)の
巢在三珠樹 巣(す)くうて三珠樹(さんしゅじゅ)に在(あ)るを
矯矯珍木巓 矯矯(きょうきょう)たり 珍木(ちんぼく)の巓(いただき)
得無金丸懼 金丸(きんがん)の懼(おそ)れ無(な)きを得(え)んや
美服患人指 美服(びふく)は人(ひと)の指(ゆび)ささんことを患(うれ)え
高明逼神惡 高明(こうめい)は神(かみ)の悪(にく)みに逼(せま)る
今我遊冥冥 今我(われいま) 冥冥(めいめい)に遊(あそ)ぶ
弋者何所慕 弋者(よくしゃ) 何(なん)の慕(した)う所(ところ)ぞ
(訳)独り離れた大鴈が、海上から飛んで來る。
その鳥は小さな池や水溜りは決して顧りみない。
側に二羽のつがいの翡翠の鳥が美しい羽を輝かす三珠樹と言う珠の木に巣を作っている
(彼の二人)高高とこの珍しい木の頂上にいれば
誰の目につく狙う物が黄金の弾で撃つ懼れが無いわけではない。
美しい服は人が指さしあれこれ言う心配がある。
高く明い家を作ると高慢な心の為に神の悪に近ずく
今私は一羽の鴻となり光の届かぬ空を高く飛でいる
射て鳥を捕る人どうして私を追いかけ狙うことなどあろうか、
私は何の憂いも無く優游自適の暮らしを楽しんでいる。
この詩は張九齢が失脚の後、自適の心境を述べた詩。政敵李林甫・牛仙客の豪奢高慢を風刺し抑えがたい哀情を発露したものである。陳子昂と方駕し李白と驂乗すべきすべきものと伝えられる。一方、晉の阮籍の詠懐詩に倣い、忠誠の情を鳥魚草木に託して述べたものとも言う。
玄宗の開元の治も、李林甫の登用、張九齢の失脚で凶兆が現れ、天宝の乱に向かって唐朝崩壊えと進む。張九齢の罷免が治乱の原因の一つであろう。古来より歴史研究家の指摘するところだという。
張九齢(ちょうきゅうれい)
孤鴻海上來 孤鴻(ここう) 海上(かいじょう)より来(きた)り
池潢不敢顧 池潢(ちこう) 敢(あえ)て顧(かえり)みず
側見雙翠鳥 側(そば)め見(み)る 双翠鳥(そうすいちょう)の
巢在三珠樹 巣(す)くうて三珠樹(さんしゅじゅ)に在(あ)るを
矯矯珍木巓 矯矯(きょうきょう)たり 珍木(ちんぼく)の巓(いただき)
得無金丸懼 金丸(きんがん)の懼(おそ)れ無(な)きを得(え)んや
美服患人指 美服(びふく)は人(ひと)の指(ゆび)ささんことを患(うれ)え
高明逼神惡 高明(こうめい)は神(かみ)の悪(にく)みに逼(せま)る
今我遊冥冥 今我(われいま) 冥冥(めいめい)に遊(あそ)ぶ
弋者何所慕 弋者(よくしゃ) 何(なん)の慕(した)う所(ところ)ぞ
その鳥は小さな池や水溜りは決して顧りみない。
側に二羽のつがいの翡翠の鳥が美しい羽を輝かす三珠樹と言う珠の木に巣を作っている
(彼の二人)高高とこの珍しい木の頂上にいれば
誰の目につく狙う物が黄金の弾で撃つ懼れが無いわけではない。
美しい服は人が指さしあれこれ言う心配がある。
高く明い家を作ると高慢な心の為に神の悪に近ずく
今私は一羽の鴻となり光の届かぬ空を高く飛でいる
射て鳥を捕る人どうして私を追いかけ狙うことなどあろうか、
私は何の憂いも無く優游自適の暮らしを楽しんでいる。
この詩は張九齢が失脚の後、自適の心境を述べた詩。政敵李林甫・牛仙客の豪奢高慢を風刺し抑えがたい哀情を発露したものである。陳子昂と方駕し李白と驂乗すべきすべきものと伝えられる。一方、晉の阮籍の詠懐詩に倣い、忠誠の情を鳥魚草木に託して述べたものとも言う。
玄宗の開元の治も、李林甫の登用、張九齢の失脚で凶兆が現れ、天宝の乱に向かって唐朝崩壊えと進む。張九齢の罷免が治乱の原因の一つであろう。古来より歴史研究家の指摘するところだという。
今日は彼岸の中日。老妻婆は船橋の妹と実家の寺へ墓参。
昨日は横浜高島屋の地下にある「甍(いらか)」で、昼食をとり神奈川三賢人と話に花を咲かせた。それぞれ、過ぎ去りし日の思い出を語っていた。地下をあちこちと歩き回り、コーヒーを飲みながらまた一談義。地下を上って外に出るとどうやら雨。朝方は台風一過のいい日和だったのに、実に何とか心と秋の空。今回の企画は海老名市在住のS氏が企画してくれものという。どうもありがとう。横浜市在住のN氏より「奥様へ」とフルーツチョコを戴き、横浜発午後3時45分の押上行の快速に乗車。浅草に着いて地下鉄を出ると、かなりの雨。雨の中を少々濡れながら家路に着いた。

カメラを忘れ、写真を撮ることはできなかったが、今朝ほどメールを開くと藤沢市在住のY氏より写真が貼付送信されていた。
いやはや、お互いに年取ったものだ。昨夜洗面場の鏡の前に立ち照らし出された己の姿を眺めながら「唐詩選」にあった張九齢の五言絶句『照鏡見白髮』を思い出す。
照鏡見白髮 鏡(かがみ)に照(て)らして白髪(はくはつ)を見(み)る)
張九齡(ちょうきゅうれい)
宿昔青雲志 宿昔(しゅくせき) 青雲(せいうん)の志(こころざし)
蹉跎白髪年 蹉跎(さた)たり 白髪(はくはつ)の年(とし)
誰知明鏡裏 誰(たれ)か知(し)らん 明鏡(めいきょう)の裏(うち)
形影自相憐 形影(けいえい) 自(おの)ずから相(あい)憐(あわ)れまんとは
〈訳〉若き日に、とく青雲を志し
躓(つまず)きて、いま白髪の年となる
誰か知る、鏡にうつるわが影と
形と憐れみ合はむとは
張九齢(673~740年) 中国、唐代の政治家・詩人。字は子寿。玄宗の宰相となるが、李林甫(?~752年、唐朝の宗室)と対立して左遷。詩の復古運動に尽くしたことで知られる。
いやはや、お互いに年取ったものだ。昨夜洗面場の鏡の前に立ち照らし出された己の姿を眺めながら「唐詩選」にあった張九齢の五言絶句『照鏡見白髮』を思い出す。
照鏡見白髮 鏡(かがみ)に照(て)らして白髪(はくはつ)を見(み)る)
張九齡(ちょうきゅうれい)
宿昔青雲志 宿昔(しゅくせき) 青雲(せいうん)の志(こころざし)
蹉跎白髪年 蹉跎(さた)たり 白髪(はくはつ)の年(とし)
誰知明鏡裏 誰(たれ)か知(し)らん 明鏡(めいきょう)の裏(うち)
形影自相憐 形影(けいえい) 自(おの)ずから相(あい)憐(あわ)れまんとは
躓(つまず)きて、いま白髪の年となる
誰か知る、鏡にうつるわが影と
形と憐れみ合はむとは
張九齢(673~740年) 中国、唐代の政治家・詩人。字は子寿。玄宗の宰相となるが、李林甫(?~752年、唐朝の宗室)と対立して左遷。詩の復古運動に尽くしたことで知られる。
Les Feuilles Mortes
レフゥイユ モルトゥ
曲 Joseph Kosma
ジョセフ コズマ
詞 Jacques Prévert
ジャク プレヴェール
Oh ! je voudrais tant que tu te souviennes
オー! ジュ ヴドレ タン ク テュ トゥ スヴィエヌ
Des jours heureux ou nous etions amis.
デ ジュール ズル ウ ヌ ゼティオン ザミ
En ce temps-la la vie etait plus belle,
アン ス タン ラ ラ ヴィ エテ プリュ ベル
Et le soleil plus brulant qu'aujourd'hui.
エ ル ソレイユ プリュ ブリュラン コージュルデュイ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle.
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Tu vois, je n'ai pas oublie...
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle,
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Les souvenirs et les regrets aussi
レ スヴニル ゼ レ ルグレ ゾッスィ
Et le vent du nord les emporte
エ ル ヴァン デュ ノール レ ザンポールトゥ
Dans la nuit froide de l'oubli.
ダン ラ ニュイ フロワードゥ ドゥ ルゥーゥブリ
Tu vois, je n'ai pas oublie
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
La chanson que tu me chantais.
ラ シャンソーン ク テュ ム シャンテー
― refrain ―
ルフラン
C'est une chanson qui nous ressemble.
セ テュヌ シャンソーン キ ヌゥ ルサーンブル
Toi, tu m'aimais et je t'aimais
トワ、テュ メメェー エ ジュ テメー
Et nous vivions tous les deux ensemble,
エ ヌ ヴィヴィオン トゥー レ ドゥー ザンサンーブル
Toi qui m'aimais, moi qui t'aimais.
トワ キ メメー、モワ キ テメー
Mais la vie separe ceux qui s'aiment,
メ ラ ヴィ セパール スー キ セーム
Tout doucement, sans faire de bruit
トゥ ドゥースマーン サン フェーェル ドゥ ブリュイ
Et la mer efface sur le sable
エ ラ メー レファース スュール ル サーブル
Les pas des amants desunis.
レ パー デ ザマーン デズュニー
先ずは若き日のYves Montand(イヴ・モンタン)の枯葉をお聴きあれ。
http://www.youtube.com/watch?v=bKuSbz7DkFk
心あるお方は、ルヒ付の原詩をご覧になりながら、この歌を何度もお聴きの上、お覚えあれ。
〈訳〉ああ私はあなたを忘れはしない
私たちが友人でいた幸せな日々を
あの頃、今日よりも人生は美しく
そして、太陽は明るかった
枯葉がシャベルに集められる
あなたは私が忘れていないことを知っている
枯葉がシャベルに集められる
想い出と後悔とともに
そして、北風がそれらを運び去る
忘却の冷たい夜へ
あなたは私が忘れていないことを知っている
あなたが私に歌ってくれた歌を
それは、私たちのような歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛して
そして、私たちは二人一緒に暮らしていた
私が愛したあなた、私を愛したあなたと
しかし、人生は愛する人たちを離れさせる
緩やかに、音も立てずに
海は砂の上の分かれた恋人たちの足跡を
消し去ってしまう
『枯葉』(フランス語原題:Les Feuilles mortes )は、1945年にJoseph Kosma(ジョゼフ・コズマ)が作曲し、後にJacques Prévert(ジャック・プレヴェール)が詞を付けたという、シャンソンのナンバーである。
ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラードで、6/8拍子の長いヴァース(序奏部)と、4拍子のコーラス部分から成り、その歌詞は遠く過ぎ去って還ることのない恋愛への追想を、季節を背景とした比喩を多用して語るものである。
第二次世界大戦後のシャンソンの曲として、世界的にも有名なスタンダードであり、いち早くジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどのレコーディングが存在することでも知られる。
フランス語の原詞のほか、日本語をはじめ各国語の歌詞を与えられ、広く歌われている。
Joseph Kosma(ジョゼフ・コズマ)は1905年 ブダペストで生まれ、1969年 パリまたはラ・ロシュ・ギヨンで没す。ハンガリー出身の作曲家であるが。ユダヤ人だったため、1933年にナチス・ドイツを避けてパリに定住。1936年より音楽家としてフランス映画界に進出。1946年にフランスに帰化した。フランスでは、綴り字のルールに則ってコスマと発音されるのを受けて、日本でもハンガリー語の正式な発音のコズマよりもコスマと発音されることが多いという。
Jacques Prévert(ジャック・プレヴェール、1900~1977年)は、フランスの民衆詩人、映画作家、童話作家。シャンソン『枯葉』の詞や、映画『天井桟敷の人々』のシナリオを書いたことで有名である。
Yves Montand(イヴ・モンタン、1921~1991年)はいわずと知れたイタリア出身でフランスで活躍した俳優・シャンソン歌手。農民の子であるが、母は敬虔なカトリック教徒であったが、父が強固な共産主義支持者であったため、当時台頭してきたムッソリーニのファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住した。マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。1944年にÉdith Piaf(エディット・ピアフ, 1915~1963年、シャンソン歌手)に見出され、彼女はモンタンにとって助言者また愛人となり、2人の関係は数年の間続いたという。1951年に女優のシモーヌ・シニョレ(Simone Signoret、1921~1985年)と結婚。2人は幾つかの作品で共演している。夫婦でフランス共産党の活動に参加していた。1957年には妻シニョレ同伴で東側諸国全てでコンサート・ツアーを行っている。
今日は神奈川の三賢人と横浜で会食しようということになっている。10時59分、都営浅草線浅草発の電車に出かけるべく家を出る。
レフゥイユ モルトゥ
曲 Joseph Kosma
ジョセフ コズマ
詞 Jacques Prévert
ジャク プレヴェール
Oh ! je voudrais tant que tu te souviennes
オー! ジュ ヴドレ タン ク テュ トゥ スヴィエヌ
Des jours heureux ou nous etions amis.
デ ジュール ズル ウ ヌ ゼティオン ザミ
En ce temps-la la vie etait plus belle,
アン ス タン ラ ラ ヴィ エテ プリュ ベル
Et le soleil plus brulant qu'aujourd'hui.
エ ル ソレイユ プリュ ブリュラン コージュルデュイ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle.
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Tu vois, je n'ai pas oublie...
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle,
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Les souvenirs et les regrets aussi
レ スヴニル ゼ レ ルグレ ゾッスィ
Et le vent du nord les emporte
エ ル ヴァン デュ ノール レ ザンポールトゥ
Dans la nuit froide de l'oubli.
ダン ラ ニュイ フロワードゥ ドゥ ルゥーゥブリ
Tu vois, je n'ai pas oublie
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
La chanson que tu me chantais.
ラ シャンソーン ク テュ ム シャンテー
― refrain ―
ルフラン
C'est une chanson qui nous ressemble.
セ テュヌ シャンソーン キ ヌゥ ルサーンブル
Toi, tu m'aimais et je t'aimais
トワ、テュ メメェー エ ジュ テメー
Et nous vivions tous les deux ensemble,
エ ヌ ヴィヴィオン トゥー レ ドゥー ザンサンーブル
Toi qui m'aimais, moi qui t'aimais.
トワ キ メメー、モワ キ テメー
Mais la vie separe ceux qui s'aiment,
メ ラ ヴィ セパール スー キ セーム
Tout doucement, sans faire de bruit
トゥ ドゥースマーン サン フェーェル ドゥ ブリュイ
Et la mer efface sur le sable
エ ラ メー レファース スュール ル サーブル
Les pas des amants desunis.
レ パー デ ザマーン デズュニー
先ずは若き日のYves Montand(イヴ・モンタン)の枯葉をお聴きあれ。
http://www.youtube.com/watch?v=bKuSbz7DkFk
心あるお方は、ルヒ付の原詩をご覧になりながら、この歌を何度もお聴きの上、お覚えあれ。
私たちが友人でいた幸せな日々を
あの頃、今日よりも人生は美しく
そして、太陽は明るかった
枯葉がシャベルに集められる
あなたは私が忘れていないことを知っている
枯葉がシャベルに集められる
想い出と後悔とともに
そして、北風がそれらを運び去る
忘却の冷たい夜へ
あなたは私が忘れていないことを知っている
あなたが私に歌ってくれた歌を
それは、私たちのような歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛して
そして、私たちは二人一緒に暮らしていた
私が愛したあなた、私を愛したあなたと
しかし、人生は愛する人たちを離れさせる
緩やかに、音も立てずに
海は砂の上の分かれた恋人たちの足跡を
消し去ってしまう
『枯葉』(フランス語原題:Les Feuilles mortes )は、1945年にJoseph Kosma(ジョゼフ・コズマ)が作曲し、後にJacques Prévert(ジャック・プレヴェール)が詞を付けたという、シャンソンのナンバーである。
ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラードで、6/8拍子の長いヴァース(序奏部)と、4拍子のコーラス部分から成り、その歌詞は遠く過ぎ去って還ることのない恋愛への追想を、季節を背景とした比喩を多用して語るものである。
第二次世界大戦後のシャンソンの曲として、世界的にも有名なスタンダードであり、いち早くジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどのレコーディングが存在することでも知られる。
フランス語の原詞のほか、日本語をはじめ各国語の歌詞を与えられ、広く歌われている。
Jacques Prévert(ジャック・プレヴェール、1900~1977年)は、フランスの民衆詩人、映画作家、童話作家。シャンソン『枯葉』の詞や、映画『天井桟敷の人々』のシナリオを書いたことで有名である。
今日は神奈川の三賢人と横浜で会食しようということになっている。10時59分、都営浅草線浅草発の電車に出かけるべく家を出る。
September 1, 1939
W.H.Auden
I sit in one of the dives
On Fifty-second street
Uncertain and afraid
As the clever hopes expire
Of a low dishonest decade:
Waves of anger and fear
Circulate over the bright
and darkened lands of the earth,
Obsessing our private lives;
The unmentionable odour of death
Offends the September night.
Accurate scholarship can
unearth the whole offence
From Luther until now
That has driven a culture mad,
Find what occurred at Linz,
What huge imago made
A psychopathic god:
I and the public know
What all schoolchildren learn,
Those to whom evil is done
Do evil in return.
Exiled Thucydides knew
All that a speech can say
About Democracy,
And what dictators do,
The elderly rubbish they talk
To an apathetic grave;
Analysed all in his book,
The enlightenment driven away,
The habit-forming pain,
Mismanagement and grief:
We must suffer them all again.
Into this neutral air
Where blind skyscrapers use
Their full height to proclaim
The strength of Collective Man,
Each language pours its vain
Competitive excuse:
But who can live for long
In an euphoric dream;
Out of the mirror they stare,
Imperialism¹s face
And the international wrong.
Faces along the bar
Cling to their average day:
The lights must never go out,
The music must always play,
All the conventions conspire
To make this fort assume
The furniture of home;
Lest we should see where we are,
Lost in a haunted wood,
Children afraid of the night
who have never been happy or good.
The windiest militant trash
Important Persons shout
Is not so crude as our wish:
What mad Nijinsky wrote
About Diaghilev
Is true of the normal heart;
For the error bred in the bone
Of each woman and each man
Craves what it cannot have,
Not universal love
But to be loved alone.
From the conservative dark
Into the ethical life
The dense commuters come,
Repeating their morning vow,
"I will be true to the wife.
I'll concentrate more on my work,"
And helpless governors wake
To resume their compulsory game:
Who can release them now,
Who can reach the deaf,
Who can speak for the dumb?
All I have is a voice
To undo the folded lie,
The romantic lie in the brain
Of the sensual man-in-the-street
And the lie of Authority
Whose buildings grope the sky:
There is no such thing as the State
And no one exists alone;
Hunger allows no choice
To the citizen or the police;
We must love one another or die.
Defenceless under the night
Our world in stupor lies;
Yet, dotted everywhere,
Ironic points of light
Flash out wherever the Just
Exchange their messages;
May I, composed like them
Of Eros and of dust,
Beleaguered by the same
Negation and despair,
Show an affirming flame.
先ずは原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=oWtVYYoJFl4
W.H.オーデンの詩「1939年9月1日」
September 1, 1939
壺齋散人訳
52番街の安酒場で
不安と恐れを抱きながら
俺がひとりで座りこんでいると
低劣でいい加減な10年間が
希望もなしに消え去っていく
怒りと恐怖の感情が
地上のところどころで
波のように渦巻いて
俺たちの生活にまとわりつき
名状しがたい死の匂いが
9月の夜を挑発する
まともな学問なら
ルターから今日に到るまで
文明を狂気に駆り立てた
すべての罪業を明らかにできる
リンツで起きたことを見よ
どんなに巨大な妄想が
異様な神を作り出したことか
どんな生徒たちだって
人に対してなされた悪と
それへの復讐について
学習するようになるものさ
追放の身のトゥキディデスは
デモクラシーについて何がいえるか
独裁者たちが何をするか
老人たちが墓場にむかって
どんな繰言を繰り返すか
そのことをよく知っていた
その上で歴史書に書き込んだのだ
追い払われた啓蒙運動
習慣を形成することの苦しみ
失敗と痛恨と
人はこれらすべてを甘受せねばならぬと
盲目の摩天楼が
そのすさまじい高度によって
人間の集合的な力を示している
その中立の空の中に
諸民族の言葉が競い合って
空虚な命題を注ぎ込む
だがだれも幸福な夢を
何時までも見続けていられない
鏡の中から現れてくるのは
帝国主義の顔と
国際的な悪行だ
バーに並んだ顔は
平凡な毎日にしがみついている
灯りは消してはならぬ
音楽はいつでもやってなきゃならぬ
何もかもが共謀して
この砦を家具のように
見せかけようとしている
俺たちがいったいどこにいるのか
わからせまいとするかのように
俺たちときては幽霊のいる森の中で迷い
夜を怖がっている子どもみたいだ
戦闘的なたわごとも
重要人物の演説も
俺たちの望みほど粗野じゃない
狂ったニジンスキーが
ディアギレフについて語ったことは
普通の人間についてもいえることだ
男と女の骨の髄にまで
染み付いている罪業は
持ち得ないものを熱望することだ
普遍的な愛では満足できずに
自分ひとりだけが愛されることを熱望する
因習の闇から
倫理的な生活へと
おびただしい数の通勤客がやってきて
いつもどおり朝の誓言をする
「今日も女房を大事にして
一生懸命働くぞ」
頼りない亭主たちが毎日起きるのは
変り映えのしないゲームをするためさ
だれがこいつらを解放してやれるだろう
だれがつんぼの耳に語りかけられるだろう
だれがおしの口に語らせられるだろう
もつれた嘘を解くために
俺が持っているのはひとつの声だけだ
その嘘はありふれた人間の
脳みそに巣くうロマンティックな嘘だったり
空を手探りする
高層ビルの権威に巣くう嘘だったりする
この世に国家などというものはない
また孤独な人間というものもない
飢えは市民にも警察官にも
わけ隔てなく訪れる
俺たちはお互いに愛し合わねばならぬのだ
宵闇の中で無防備に
世界は昏睡して横たわっている
だが正義がメッセージを交し合うところ
そういうところではいたるところ
点々と光が交差して
まぶしい耀きを放っている
俺もエロスと泥から作られており
同じく否定と絶望に
付きまとわれている限りは
この光の交差のような
肯定の炎を放ってみたいものだ
1939年9月1日は、ナチスドイツによるポーランド侵攻が行われた日、この日を境にして第二次世界大戦が勃発した。オーデンのこの詩は、戦争と平和、文明と狂気の不思議な関係について、やりきれないような気持ちで語っている。
W.H.Auden
I sit in one of the dives
On Fifty-second street
Uncertain and afraid
As the clever hopes expire
Of a low dishonest decade:
Waves of anger and fear
Circulate over the bright
and darkened lands of the earth,
Obsessing our private lives;
The unmentionable odour of death
Offends the September night.
Accurate scholarship can
unearth the whole offence
From Luther until now
That has driven a culture mad,
Find what occurred at Linz,
What huge imago made
A psychopathic god:
I and the public know
What all schoolchildren learn,
Those to whom evil is done
Do evil in return.
Exiled Thucydides knew
All that a speech can say
About Democracy,
And what dictators do,
The elderly rubbish they talk
To an apathetic grave;
Analysed all in his book,
The enlightenment driven away,
The habit-forming pain,
Mismanagement and grief:
We must suffer them all again.
Into this neutral air
Where blind skyscrapers use
Their full height to proclaim
The strength of Collective Man,
Each language pours its vain
Competitive excuse:
But who can live for long
In an euphoric dream;
Out of the mirror they stare,
Imperialism¹s face
And the international wrong.
Faces along the bar
Cling to their average day:
The lights must never go out,
The music must always play,
All the conventions conspire
To make this fort assume
The furniture of home;
Lest we should see where we are,
Lost in a haunted wood,
Children afraid of the night
who have never been happy or good.
The windiest militant trash
Important Persons shout
Is not so crude as our wish:
What mad Nijinsky wrote
About Diaghilev
Is true of the normal heart;
For the error bred in the bone
Of each woman and each man
Craves what it cannot have,
Not universal love
But to be loved alone.
From the conservative dark
Into the ethical life
The dense commuters come,
Repeating their morning vow,
"I will be true to the wife.
I'll concentrate more on my work,"
And helpless governors wake
To resume their compulsory game:
Who can release them now,
Who can reach the deaf,
Who can speak for the dumb?
All I have is a voice
To undo the folded lie,
The romantic lie in the brain
Of the sensual man-in-the-street
And the lie of Authority
Whose buildings grope the sky:
There is no such thing as the State
And no one exists alone;
Hunger allows no choice
To the citizen or the police;
We must love one another or die.
Defenceless under the night
Our world in stupor lies;
Yet, dotted everywhere,
Ironic points of light
Flash out wherever the Just
Exchange their messages;
May I, composed like them
Of Eros and of dust,
Beleaguered by the same
Negation and despair,
Show an affirming flame.
先ずは原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=oWtVYYoJFl4
W.H.オーデンの詩「1939年9月1日」
September 1, 1939
壺齋散人訳
52番街の安酒場で
不安と恐れを抱きながら
俺がひとりで座りこんでいると
低劣でいい加減な10年間が
希望もなしに消え去っていく
怒りと恐怖の感情が
地上のところどころで
波のように渦巻いて
俺たちの生活にまとわりつき
名状しがたい死の匂いが
9月の夜を挑発する
まともな学問なら
ルターから今日に到るまで
文明を狂気に駆り立てた
すべての罪業を明らかにできる
リンツで起きたことを見よ
どんなに巨大な妄想が
異様な神を作り出したことか
どんな生徒たちだって
人に対してなされた悪と
それへの復讐について
学習するようになるものさ
デモクラシーについて何がいえるか
独裁者たちが何をするか
老人たちが墓場にむかって
どんな繰言を繰り返すか
そのことをよく知っていた
その上で歴史書に書き込んだのだ
追い払われた啓蒙運動
習慣を形成することの苦しみ
失敗と痛恨と
人はこれらすべてを甘受せねばならぬと
盲目の摩天楼が
そのすさまじい高度によって
人間の集合的な力を示している
その中立の空の中に
諸民族の言葉が競い合って
空虚な命題を注ぎ込む
だがだれも幸福な夢を
何時までも見続けていられない
鏡の中から現れてくるのは
帝国主義の顔と
国際的な悪行だ
バーに並んだ顔は
平凡な毎日にしがみついている
灯りは消してはならぬ
音楽はいつでもやってなきゃならぬ
何もかもが共謀して
この砦を家具のように
見せかけようとしている
俺たちがいったいどこにいるのか
わからせまいとするかのように
俺たちときては幽霊のいる森の中で迷い
夜を怖がっている子どもみたいだ
戦闘的なたわごとも
重要人物の演説も
俺たちの望みほど粗野じゃない
狂ったニジンスキーが
ディアギレフについて語ったことは
普通の人間についてもいえることだ
男と女の骨の髄にまで
染み付いている罪業は
持ち得ないものを熱望することだ
普遍的な愛では満足できずに
自分ひとりだけが愛されることを熱望する
因習の闇から
倫理的な生活へと
おびただしい数の通勤客がやってきて
いつもどおり朝の誓言をする
「今日も女房を大事にして
一生懸命働くぞ」
頼りない亭主たちが毎日起きるのは
変り映えのしないゲームをするためさ
だれがこいつらを解放してやれるだろう
だれがつんぼの耳に語りかけられるだろう
だれがおしの口に語らせられるだろう
もつれた嘘を解くために
俺が持っているのはひとつの声だけだ
その嘘はありふれた人間の
脳みそに巣くうロマンティックな嘘だったり
空を手探りする
高層ビルの権威に巣くう嘘だったりする
この世に国家などというものはない
また孤独な人間というものもない
飢えは市民にも警察官にも
わけ隔てなく訪れる
俺たちはお互いに愛し合わねばならぬのだ
宵闇の中で無防備に
世界は昏睡して横たわっている
だが正義がメッセージを交し合うところ
そういうところではいたるところ
点々と光が交差して
まぶしい耀きを放っている
俺もエロスと泥から作られており
同じく否定と絶望に
付きまとわれている限りは
この光の交差のような
肯定の炎を放ってみたいものだ
Autumn Song
By W.H.Auden
Now the leaves are falling fast,
Nurse's flowers will not last;
Nurses to the graves are gone,
And the prams go rolling on.
Whispering neighbours, left and right,
Pluck us from the real delight;
And the active hands must freeze
Lonely on the separate knees.
Dead in hundreds at the back
Follow wooden in our track,
Arms raised stiffly to reprove
In false attitudes of love.
Starving through the leafless wood
Trolls run scolding for their food;
And the nightingale is dumb,
And the angel will not come.
Cold, impossible, ahead
Lifts the mountain's lovely head
Whose white waterfall could bless
Travellers in their last distress.
まずは、原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=vwNpsUZlZpo
〈訳〉木の葉がさっと舞い落ちる
おばさんの花も枯れそうだ
おばさんはもう死んでしまって
乳母車だけが残された
うるさい隣人が左右から
ぼくらの楽しみを取り上げようとする
これじゃ両手もかじかんで
膝のうえで手持ち無沙汰さ
何百という死人たちが
青白い顔で追いかけてきて
両腕を振り回しながら非難する
愛についての間違った見方を
裸の森の中を飢えに駆られ
小人たちが食い物を探してる
ナイチンゲールが泣くこともなく
天使がやってくる気配もない
目の前にはぶざまで冷たい
山の頂がのぞいている
その白い滝が旅人を祝福するのは
臨終のときだけさ
1936年、オーデン29歳の時の作品だという。秋は、人生の秋、つまり老年の象徴だ。まだ若かったオーデンが何故、老年にこだわったか。その背景には、世界大戦の暗雲があったに違いない。
Wystan Hugh Auden(ウィスタン・ヒュー・オーデン、 1907~1973年)はイギリス出身でアメリカ合衆国に移住した詩人。20世紀最大の詩人の一人とみなされている。オーデンがナチス・ドイツのポーランド侵攻及び第二次世界大戦の勃発に際して書いた詩「1939年9月1日」は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ直後、時代と社会の実相、人々の置かれたありようを深いところで表す詩としてアメリカを中心に改めて注目され広く読まれたという。
By W.H.Auden
Now the leaves are falling fast,
Nurse's flowers will not last;
Nurses to the graves are gone,
And the prams go rolling on.
Whispering neighbours, left and right,
Pluck us from the real delight;
And the active hands must freeze
Lonely on the separate knees.
Dead in hundreds at the back
Follow wooden in our track,
Arms raised stiffly to reprove
In false attitudes of love.
Starving through the leafless wood
Trolls run scolding for their food;
And the nightingale is dumb,
And the angel will not come.
Cold, impossible, ahead
Lifts the mountain's lovely head
Whose white waterfall could bless
Travellers in their last distress.
まずは、原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=vwNpsUZlZpo
おばさんの花も枯れそうだ
おばさんはもう死んでしまって
乳母車だけが残された
うるさい隣人が左右から
ぼくらの楽しみを取り上げようとする
これじゃ両手もかじかんで
膝のうえで手持ち無沙汰さ
何百という死人たちが
青白い顔で追いかけてきて
両腕を振り回しながら非難する
愛についての間違った見方を
裸の森の中を飢えに駆られ
小人たちが食い物を探してる
ナイチンゲールが泣くこともなく
天使がやってくる気配もない
目の前にはぶざまで冷たい
山の頂がのぞいている
その白い滝が旅人を祝福するのは
臨終のときだけさ
Wystan Hugh Auden(ウィスタン・ヒュー・オーデン、 1907~1973年)はイギリス出身でアメリカ合衆国に移住した詩人。20世紀最大の詩人の一人とみなされている。オーデンがナチス・ドイツのポーランド侵攻及び第二次世界大戦の勃発に際して書いた詩「1939年9月1日」は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ直後、時代と社会の実相、人々の置かれたありようを深いところで表す詩としてアメリカを中心に改めて注目され広く読まれたという。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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