瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
晏子春秋 内篇 雑下六 より
靈公好婦人而丈夫飾者。國人盡服之。公使吏禁之曰、女子而男子飾者、裂其衣斷其帶。裂衣斷帶、相望而不止。晏子見。公問曰、寡人使吏禁女子而男子飾、裂斷其衣帶、相望而不止者何也。晏子對曰、君使服之於内、而禁之於外。猶懸牛首于門而賣馬肉於内也。公何以不使内勿服。則外莫敢爲也。公曰、善。使内勿服。踰月而國莫之服。
〈訳〉
斉の霊公は男装を好み宮廷内の女性に男装をさせていた。するとこれが国内の民衆にまで広まってしまった。 霊公は之を禁じて御触れを出した。女子にして男子の飾りをする者は、その衣を裂きその帯を断つ、と。実際に衣を裂かれ帯を断たれる者が続出したがそれでも止むことがなかった。そこに晏子が謁見した。困っていた霊公は晏子に問うた。
「我は官吏に女子にして男子の飾りをするを禁ずる御触れを出させた。そして実際に違反した者の衣帯を裂断した。それにも関わらず、一向に止むことがないのはどういうわけだろうか」と。
晏子が答えて云う。
「君は内では之を許し、外では之を禁じています。例えるならば、牛首を門に懸けて馬肉を売っているようなものです。なぜ内に男装を禁じないのでしょうか。そうでなければ外に禁ずるなどはできません」と。
霊公は善し、と言って宮廷内の男装も禁止した。すると一ヶ月にして国内に男装する者はいなくなったという。
史記 列伝 管・晏列伝 第二 より
晏平仲嬰者、萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公、以節儉力行重於齊。既相齊、食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言;語不及之、即危行。國有道、即順命;無道、即衡命。以此三世顯名於諸侯。
越石父賢、在縲紲中。晏子出、遭之涂、解左驂贖之、載歸。弗謝、入閨。久之、越石父請絕。晏子懼然、攝衣冠謝曰:“嬰雖不仁、免子於緦何子求絕之速也?”石父曰:“不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中、彼不知我也。夫子既已感寤而贖我、是知己;知己而無禮、固不如在縲紲之中。”晏子於是延入為上客。
晏子為齊相、出、其御之妻從門閒而闚其夫。其夫為相御、擁大蓋、策駟馬、意氣揚揚甚自得也。既而歸、其妻請去。夫問其故。妻曰:“晏子長不滿六尺、身相齊國、名顯諸侯。今者妾觀其出、志念深矣、常有以自下者。今子長八尺、乃為人仆御、然子之意自以為足、妾是以求去也。”其后夫自抑損。晏子怪而問之、御以實對。晏子薦以為大夫。
〈訳〉
晏平仲嬰(平は諡、仲は字、嬰は名)は萊(山東省)の夷維(いい)の人である。斉の霊公・荘公・景公に仕え、節倹・力行の人として斉で重んぜられた。斉の宰相になってからも、食事のときも肉は一種類であり、その妾は帛(きぬ)を着なかった。朝廷に出仕していて、君公が下問すると言葉を尽くして答え、下問されないときには、正しく行動するようにつとめた。国政に道義がたもたれ国内がきちんとしているときには、天命にしたがって行動し、そうでないときには、慎重に天命を推し測って行動した。このようなわけで、霊公・荘公・景公の三代の間、晏嬰の名は諸侯の間でゆうめいであった。
越石父(えつせきほ)は賢人であったが、どうした訳か囚人になっていた。晏子は外出して途でこれにあい、乗っていた三頭立ての馬車の左方の馬を解いて、それで越石父を贖(あがな)った。そして、馬車に同乗させて帰宅し、挨拶もせずに部屋に入った。しばらくすると、越石父は絶交したいと申し出た。晏子はびっくりして、衣冠をただしてその申し出をしりぞけて言った。
「私は人徳のない人間ではあるが、あなたを災厄から解放してあげた。それなのに、どうして、あなたは性急にぜっこうしたいというのか」
越石父は言った。
「私は『君子たるものは、自分を理解してくれないものには才能をしめそうとしないが、自分を理解してくれるものには志を明らかにして大いに能力を振るう』と聞いております。私が囚人であったときには、周囲の者は私を理解しておりませんでした。ところが、あなたはお感じになるところがあって、私を贖ってくださいました。これは、私を理解してくださったのです。理解してくださっていながら礼遇していただけないのでは、囚人として獄に繋がれていた方がましです」
そこで、晏子は越石父をひきいれて、上客にした。
晏子が斉の宰相になってからのことである。ある時外出しようとすると、その御者の妻が門の隙間から夫の様子を窺った。夫は宰相の御者として、馬車の大蓋を頭上にいただき、四島立ての馬に鞭をくれ、意気揚々として甚だ得意げであった。やがて帰ってくると、その妻は離縁したいと思った。夫がその理由を問うと、妻は言った。
「晏さまは身長が五尺にも足りませんが、斉国の宰相となり、その名は諸侯の間にかくれもありません。いま、私がその外出のお姿を観察いたしますと、思慮深い様子で、しかも謙虚さを湛えておられます。ところが、あなたは六尺ゆたかの大男でありながら、人の御者となり、しかも満足しておられる様子です。ですから、私はあなたのもとを去りたいと思うのです」
そののち、御者はみずからおさえて謙虚にしていた。晏子がいぶかしく思ってそのわけを問うと、御者はありのままに答えた。晏子は御者を推薦して大夫にした。
晏平仲嬰者、萊之夷維人也。事齊靈公、莊公、景公、以節儉力行重於齊。既相齊、食不重肉、妾不衣帛。其在朝、君語及之、即危言;語不及之、即危行。國有道、即順命;無道、即衡命。以此三世顯名於諸侯。
越石父賢、在縲紲中。晏子出、遭之涂、解左驂贖之、載歸。弗謝、入閨。久之、越石父請絕。晏子懼然、攝衣冠謝曰:“嬰雖不仁、免子於緦何子求絕之速也?”石父曰:“不然。吾聞君子詘於不知己而信於知己者。方吾在縲紲中、彼不知我也。夫子既已感寤而贖我、是知己;知己而無禮、固不如在縲紲之中。”晏子於是延入為上客。
晏子為齊相、出、其御之妻從門閒而闚其夫。其夫為相御、擁大蓋、策駟馬、意氣揚揚甚自得也。既而歸、其妻請去。夫問其故。妻曰:“晏子長不滿六尺、身相齊國、名顯諸侯。今者妾觀其出、志念深矣、常有以自下者。今子長八尺、乃為人仆御、然子之意自以為足、妾是以求去也。”其后夫自抑損。晏子怪而問之、御以實對。晏子薦以為大夫。
〈訳〉
晏平仲嬰(平は諡、仲は字、嬰は名)は萊(山東省)の夷維(いい)の人である。斉の霊公・荘公・景公に仕え、節倹・力行の人として斉で重んぜられた。斉の宰相になってからも、食事のときも肉は一種類であり、その妾は帛(きぬ)を着なかった。朝廷に出仕していて、君公が下問すると言葉を尽くして答え、下問されないときには、正しく行動するようにつとめた。国政に道義がたもたれ国内がきちんとしているときには、天命にしたがって行動し、そうでないときには、慎重に天命を推し測って行動した。このようなわけで、霊公・荘公・景公の三代の間、晏嬰の名は諸侯の間でゆうめいであった。
越石父(えつせきほ)は賢人であったが、どうした訳か囚人になっていた。晏子は外出して途でこれにあい、乗っていた三頭立ての馬車の左方の馬を解いて、それで越石父を贖(あがな)った。そして、馬車に同乗させて帰宅し、挨拶もせずに部屋に入った。しばらくすると、越石父は絶交したいと申し出た。晏子はびっくりして、衣冠をただしてその申し出をしりぞけて言った。
「私は人徳のない人間ではあるが、あなたを災厄から解放してあげた。それなのに、どうして、あなたは性急にぜっこうしたいというのか」
越石父は言った。
「私は『君子たるものは、自分を理解してくれないものには才能をしめそうとしないが、自分を理解してくれるものには志を明らかにして大いに能力を振るう』と聞いております。私が囚人であったときには、周囲の者は私を理解しておりませんでした。ところが、あなたはお感じになるところがあって、私を贖ってくださいました。これは、私を理解してくださったのです。理解してくださっていながら礼遇していただけないのでは、囚人として獄に繋がれていた方がましです」
そこで、晏子は越石父をひきいれて、上客にした。
「晏さまは身長が五尺にも足りませんが、斉国の宰相となり、その名は諸侯の間にかくれもありません。いま、私がその外出のお姿を観察いたしますと、思慮深い様子で、しかも謙虚さを湛えておられます。ところが、あなたは六尺ゆたかの大男でありながら、人の御者となり、しかも満足しておられる様子です。ですから、私はあなたのもとを去りたいと思うのです」
そののち、御者はみずからおさえて謙虚にしていた。晏子がいぶかしく思ってそのわけを問うと、御者はありのままに答えた。晏子は御者を推薦して大夫にした。
『管子(かんし)』は、管仲に仮託して書かれた法家の書物で、管仲の著書だと伝えられてはいるが、実際にはその中に管仲よりも以後のことがしばしば書かれていることからも自著でないことは確かである。管子の思想内容は豊富であり、一見雑然としている。成立についても戦国から漢代の長い時期に徐々に完成されたと考えられ、戦国期の斉の稷下の学士たちの手によって著された部分が多いと考えられている。
三計(さんけい)
管子 権修 より
上恃龜筮、好用巫醫、則鬼神驟祟;故功之不立、名之不章、為之患者三:有獨王者、有貧賤者、有日不足者。一年之計、莫如樹穀;十年之計、莫如樹木;終身之計、莫如樹人。一樹一穫者、穀也;一樹十穫者、木也;一樹百穫者、人也。我苟種之、如神用之、舉事如神、唯王之門。
〈訳〉
君主が占いに頼り、呪い師を好んで用いるならば、鬼神が祟りをする。だから功績が成就せず、名声が顕れないのには、その原因が三つある。賢臣を用いず、すべて独裁するという場合がある。国が貧しく君主の値打ちがなくなるという場合がある。政治が煩雑で日も足りないという場合がある。一年の計は穀物を植えるのに及ぶものがない。十年の計は木を植えるのに及ぶものはない。終身の計は人を植えるのに及ぶものがない。一度植えて一度収穫があるのは穀物である。一度植えて十度収穫があるのは木である。一度植えて百度収穫があるのは人である。われわれがしばしば人を植えるならば、その効果は神の作用のようである。事を行って神のようであること、これぞ王者への門である。
虚に拠り影を搏(う)たしむ
管子 兵法 より
利適、器之至也。用敵、教之盡也。不能致器者、不能利適。不能盡教者、不能用敵。不能用敵者窮、不能致器者困。遠用兵、則可以必勝。出入異塗、則傷其敵。深入卮之、則士自修。士自修、則同心同力。善者之為兵也、使敵若據虛、若搏景。無設無形焉、無不可以成也。無形無為焉、無不可以化也。此之謂道矣。若亡而存、若後而先、威不足以命之。
〈訳〉
敵に勝つのは、兵器の精巧なためである。敵を我に役立てるのは、兵士の教化が行き届いているからである。兵器を精巧にすることにできないものは敵に勝つことはできない。教化をゆきとどかせることのできない者は、敵を役立てることはできない。敵を役立たせることのできない者は行き詰まり、兵器を精巧にできない者は苦しむ。
速やかに軍隊を用いるならば、必勝することができる。出没するのにその場所を色々変えるならば、敵国に損害を与える。深く敵地に侵入して部下を危険にさらすならば、兵士はみずから備えをする。兵士が自ら備えをするならば、心を一つにして力を合わせる。じょうずな者の用兵の仕方は、敵軍を暖簾と腕押しし、影と相撲をとるような目に合わせる。こちらには何の定まった設備もなく、何の定まった形もないのであるから、何事も成功できないことはないのである。こちらは何の定まった形も泣く、何の行動も取らないのであるから、なにものも感化できないことはないのである。これを「道」という。無いようであって存在し、遅れているようであって先にいる。われわれはこれをどう名付けてよいかわからない。
三計(さんけい)
管子 権修 より
上恃龜筮、好用巫醫、則鬼神驟祟;故功之不立、名之不章、為之患者三:有獨王者、有貧賤者、有日不足者。一年之計、莫如樹穀;十年之計、莫如樹木;終身之計、莫如樹人。一樹一穫者、穀也;一樹十穫者、木也;一樹百穫者、人也。我苟種之、如神用之、舉事如神、唯王之門。
君主が占いに頼り、呪い師を好んで用いるならば、鬼神が祟りをする。だから功績が成就せず、名声が顕れないのには、その原因が三つある。賢臣を用いず、すべて独裁するという場合がある。国が貧しく君主の値打ちがなくなるという場合がある。政治が煩雑で日も足りないという場合がある。一年の計は穀物を植えるのに及ぶものがない。十年の計は木を植えるのに及ぶものはない。終身の計は人を植えるのに及ぶものがない。一度植えて一度収穫があるのは穀物である。一度植えて十度収穫があるのは木である。一度植えて百度収穫があるのは人である。われわれがしばしば人を植えるならば、その効果は神の作用のようである。事を行って神のようであること、これぞ王者への門である。
虚に拠り影を搏(う)たしむ
管子 兵法 より
利適、器之至也。用敵、教之盡也。不能致器者、不能利適。不能盡教者、不能用敵。不能用敵者窮、不能致器者困。遠用兵、則可以必勝。出入異塗、則傷其敵。深入卮之、則士自修。士自修、則同心同力。善者之為兵也、使敵若據虛、若搏景。無設無形焉、無不可以成也。無形無為焉、無不可以化也。此之謂道矣。若亡而存、若後而先、威不足以命之。
〈訳〉
敵に勝つのは、兵器の精巧なためである。敵を我に役立てるのは、兵士の教化が行き届いているからである。兵器を精巧にすることにできないものは敵に勝つことはできない。教化をゆきとどかせることのできない者は、敵を役立てることはできない。敵を役立たせることのできない者は行き詰まり、兵器を精巧にできない者は苦しむ。
速やかに軍隊を用いるならば、必勝することができる。出没するのにその場所を色々変えるならば、敵国に損害を与える。深く敵地に侵入して部下を危険にさらすならば、兵士はみずから備えをする。兵士が自ら備えをするならば、心を一つにして力を合わせる。じょうずな者の用兵の仕方は、敵軍を暖簾と腕押しし、影と相撲をとるような目に合わせる。こちらには何の定まった設備もなく、何の定まった形もないのであるから、何事も成功できないことはないのである。こちらは何の定まった形も泣く、何の行動も取らないのであるから、なにものも感化できないことはないのである。これを「道」という。無いようであって存在し、遅れているようであって先にいる。われわれはこれをどう名付けてよいかわからない。
史記 列伝 管・晏列伝 第二より
管仲既任政相齊、以區區之齊在海濱、通貨積財、富國彊兵、與俗同好惡。故其稱曰:“倉廩實而知禮節、衣食足而知榮辱、上服度則六親固。四維不張、國乃滅亡。”下令如流水之原、令順民心。故論卑而易行。俗之所欲、因而予之;俗之所否、因而去之。其為政也、善因禍而為福、轉敗而為功。貴輕重、慎權衡。桓公實怒少姬、南襲蔡、管仲因而伐楚、責包茅不入貢於周室。桓公實北征山戎、而管仲因而令燕修召公之政。於柯之會、桓公欲背曹沫之約、管仲因而信之、諸侯由是歸齊。故曰:“知與之為取、政之寶也。”
管仲富擬於公室、有三歸、反坫、齊人不以為侈。管仲卒、齊國遵其政、常彊於諸侯。后百餘年而有晏子焉。
〈訳〉
管仲は、政治を任されて斉の宰相になった。姓は微小な国で、しかも海に面した辺鄙に地であったが、貨物を流通させて蓄財し、国を富ませ兵力を強大にし、衆俗の好悪にしたがって大衆を導いた。それ故にその言説(『管子』牧民篇)にいう。
「人は、米倉が充実して初めて礼節を知り、衣食が充足して始めて栄辱を知る。上の行うところが法度にかなえば、六親(父・母・兄・弟・妻・子)は相親しんで堅固な状態になる。四維(国を治める四つの大綱。礼・義・廉・恥)が張り詰めていないと国はめつぼうする」
精霊を下す場合には、水が水源から流れて次第に低きにつくがごとくに、民心に順応するようにした。それ故に、論議は卑近で実行しやすかった。衆俗の望むところはこれを与え、よく禍をきっかけにして福とし、失敗を転じて成功に導き、また、何事においてもその軽重をみきわめて慎重に釣り合いが取れるようにした。たとえば、実情は桓公が少姫(蔡の姫で、桓公の夫人)を怒って蔡を襲撃したのだが、管仲はそれをきっかけにして楚を伐ち、楚から周室に献上していた包茅(祭祀に用いる青茅のつつみ)が、楚の怠慢によっていつのまにか周室に入貢されなくなったのを責めている。また、実情は桓公が北のかた山戎を征伐したのであるが、管仲はそれをきっかけにして、燕(えん)にその祖である召公の善政を修めさせている。また、柯(か)の会盟(柯は地名、山東省。斉の桓公と魯の荘公との会盟)のときに、桓公は曹沫(そうばつ、生没年不詳、魯の将)との約束にそむこうとしたが、管仲は桓公を諌めて信を守らせている。このようなわけで、諸侯は斉に帰したのである。その故に、その言説(『管子』牧民篇)にいう。
「人に与えることが、実はやがて取ることになる――これを知るのが、政治の要諦なのだ」
管仲の富は斉の公室に比肩するほどであり、三帰・反坫(三帰は台、反坫は盃をのせる道具で元来、諸侯の所有すべきもの)もあった。しかし、斉の人々は管仲の功労を多とし、かれが奢っているとは思わなかった。管仲が死んでからも、斉はその施政にしたがい、つねに諸侯の間において強盛であった。管仲の死後、百余年経って晏子(晏平仲嬰)があらわれた。
管仲既任政相齊、以區區之齊在海濱、通貨積財、富國彊兵、與俗同好惡。故其稱曰:“倉廩實而知禮節、衣食足而知榮辱、上服度則六親固。四維不張、國乃滅亡。”下令如流水之原、令順民心。故論卑而易行。俗之所欲、因而予之;俗之所否、因而去之。其為政也、善因禍而為福、轉敗而為功。貴輕重、慎權衡。桓公實怒少姬、南襲蔡、管仲因而伐楚、責包茅不入貢於周室。桓公實北征山戎、而管仲因而令燕修召公之政。於柯之會、桓公欲背曹沫之約、管仲因而信之、諸侯由是歸齊。故曰:“知與之為取、政之寶也。”
管仲富擬於公室、有三歸、反坫、齊人不以為侈。管仲卒、齊國遵其政、常彊於諸侯。后百餘年而有晏子焉。
〈訳〉
「人は、米倉が充実して初めて礼節を知り、衣食が充足して始めて栄辱を知る。上の行うところが法度にかなえば、六親(父・母・兄・弟・妻・子)は相親しんで堅固な状態になる。四維(国を治める四つの大綱。礼・義・廉・恥)が張り詰めていないと国はめつぼうする」
精霊を下す場合には、水が水源から流れて次第に低きにつくがごとくに、民心に順応するようにした。それ故に、論議は卑近で実行しやすかった。衆俗の望むところはこれを与え、よく禍をきっかけにして福とし、失敗を転じて成功に導き、また、何事においてもその軽重をみきわめて慎重に釣り合いが取れるようにした。たとえば、実情は桓公が少姫(蔡の姫で、桓公の夫人)を怒って蔡を襲撃したのだが、管仲はそれをきっかけにして楚を伐ち、楚から周室に献上していた包茅(祭祀に用いる青茅のつつみ)が、楚の怠慢によっていつのまにか周室に入貢されなくなったのを責めている。また、実情は桓公が北のかた山戎を征伐したのであるが、管仲はそれをきっかけにして、燕(えん)にその祖である召公の善政を修めさせている。また、柯(か)の会盟(柯は地名、山東省。斉の桓公と魯の荘公との会盟)のときに、桓公は曹沫(そうばつ、生没年不詳、魯の将)との約束にそむこうとしたが、管仲は桓公を諌めて信を守らせている。このようなわけで、諸侯は斉に帰したのである。その故に、その言説(『管子』牧民篇)にいう。
「人に与えることが、実はやがて取ることになる――これを知るのが、政治の要諦なのだ」
管仲の富は斉の公室に比肩するほどであり、三帰・反坫(三帰は台、反坫は盃をのせる道具で元来、諸侯の所有すべきもの)もあった。しかし、斉の人々は管仲の功労を多とし、かれが奢っているとは思わなかった。管仲が死んでからも、斉はその施政にしたがい、つねに諸侯の間において強盛であった。管仲の死後、百余年経って晏子(晏平仲嬰)があらわれた。
史記 列伝 管・晏列伝 第二 より
管仲夷吾者、潁上人也。少時常與鮑叔牙游、鮑叔知其賢。管仲貧困、常欺鮑叔、鮑叔終善遇之、不以為言。已而鮑叔事齊公子小白、管仲事公子糾。及小白立為桓公、公子糾死、管仲囚焉。鮑叔遂進管仲。管仲既用、任政於齊、齊桓公以霸、九合諸侯、一匡天下、管仲之謀也。
〈訳〉
管仲夷吾(仲は字、夷吾は名)は、頴水のほとりの人である。若い頃、常に鮑叔芽と交友した。鮑叔は管仲の賢才を知っていた。管仲は貧しくて生活に苦しみ、いつも鮑叔をあざむいたが、鮑叔は終始好意を持って遇し、欺かれたことについてとやかく言わなかった。その後、鮑叔は斉の公子小白(しょうはく)に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えた。小白が立って桓公となるにおよんで、これと争った公子糾は死んで管仲は囚われの身となった。ときに、鮑叔は桓公に管仲を推薦した。こうして、管仲は登用されて斉の政治に当たり、桓公は覇者となった。斉が諸侯を九合して天下の政治を正したのは、管仲の謀に依ったのである。
管仲曰、“吾始困時、嘗與鮑叔賈、分財利多自與、鮑叔不以我為貪、知我貧也。吾嘗為鮑叔謀事而更窮困、鮑叔不以我為愚、知時有利不利也。吾嘗三仕三見逐於君、鮑叔不以我為不肖、知我不遭時也。吾嘗三戰三走、鮑叔不以我怯、知我有老母也。公子糾敗、召忽死之、吾幽囚受辱、鮑叔不以我為無恥、知我不羞小睗而恥功名不顯于天下也。生我者父母、知我者鮑子也。”鮑叔既進管仲、以身下之。子孫世祿於齊、有封邑者十餘世、常為名大夫。天下不多管仲之賢而多鮑叔能知人也
〈訳〉
管仲はいった。
「私が貧乏だった頃、鮑叔と共同で商売をしたことがある。利益を分けるときに自分が多く取るようにしたが、鮑叔は私を貪欲だとは思わなかった。それは、私が貧乏であることを知っていてくれたからである。私はかつて、鮑叔のためにあることを謀ってやって、より以上の苦境に落ちたことがあるが、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。それは、時に利と不利とがあることを知っていてくれたからである。私はかつて、三度仕官して三度とも君主からお払い箱になったが、鮑叔は私を不肖者とは思わなかった。それは、私が時勢にあわないだけなのを知っていてくれたからである。私はかつて三度戦って三度とも逃げたが、鮑叔は私を卑怯者とは思わなかった。それは、私に老母があることを知っていてくれたからである。公子糾が敗れたとき、私とともにその大夫であった召忽〈BC685年没、死に際し、管仲に対して「子は生臣となれ、忽、死臣とならん」と言ったという〉は討ち死にした。私は捕えられて獄に投ぜられ、辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずだとは思わなかった。それは、私が小さな節操を守らないことを恥としないで、功名が天下に顕れないことを恥としているのを知っていてくれたからである。まことに、私を生んでくれたのは父母であるが、私を真に理解してくれたのは鮑叔である」
鮑叔はすでに管仲を推挙すると、自らその下位についた。その子孫は代々斉の禄を賜り、十余代にわたって封邑を保ち、常に名大夫であった。天下の人々は、管仲の賢才を称揚するよりは、鮑叔がよく人物を理解していたことを高く評価した。
管仲夷吾者、潁上人也。少時常與鮑叔牙游、鮑叔知其賢。管仲貧困、常欺鮑叔、鮑叔終善遇之、不以為言。已而鮑叔事齊公子小白、管仲事公子糾。及小白立為桓公、公子糾死、管仲囚焉。鮑叔遂進管仲。管仲既用、任政於齊、齊桓公以霸、九合諸侯、一匡天下、管仲之謀也。
〈訳〉
管仲夷吾(仲は字、夷吾は名)は、頴水のほとりの人である。若い頃、常に鮑叔芽と交友した。鮑叔は管仲の賢才を知っていた。管仲は貧しくて生活に苦しみ、いつも鮑叔をあざむいたが、鮑叔は終始好意を持って遇し、欺かれたことについてとやかく言わなかった。その後、鮑叔は斉の公子小白(しょうはく)に仕え、管仲は公子糾(きゅう)に仕えた。小白が立って桓公となるにおよんで、これと争った公子糾は死んで管仲は囚われの身となった。ときに、鮑叔は桓公に管仲を推薦した。こうして、管仲は登用されて斉の政治に当たり、桓公は覇者となった。斉が諸侯を九合して天下の政治を正したのは、管仲の謀に依ったのである。
管仲曰、“吾始困時、嘗與鮑叔賈、分財利多自與、鮑叔不以我為貪、知我貧也。吾嘗為鮑叔謀事而更窮困、鮑叔不以我為愚、知時有利不利也。吾嘗三仕三見逐於君、鮑叔不以我為不肖、知我不遭時也。吾嘗三戰三走、鮑叔不以我怯、知我有老母也。公子糾敗、召忽死之、吾幽囚受辱、鮑叔不以我為無恥、知我不羞小睗而恥功名不顯于天下也。生我者父母、知我者鮑子也。”鮑叔既進管仲、以身下之。子孫世祿於齊、有封邑者十餘世、常為名大夫。天下不多管仲之賢而多鮑叔能知人也
〈訳〉
「私が貧乏だった頃、鮑叔と共同で商売をしたことがある。利益を分けるときに自分が多く取るようにしたが、鮑叔は私を貪欲だとは思わなかった。それは、私が貧乏であることを知っていてくれたからである。私はかつて、鮑叔のためにあることを謀ってやって、より以上の苦境に落ちたことがあるが、鮑叔は私を愚か者とは思わなかった。それは、時に利と不利とがあることを知っていてくれたからである。私はかつて、三度仕官して三度とも君主からお払い箱になったが、鮑叔は私を不肖者とは思わなかった。それは、私が時勢にあわないだけなのを知っていてくれたからである。私はかつて三度戦って三度とも逃げたが、鮑叔は私を卑怯者とは思わなかった。それは、私に老母があることを知っていてくれたからである。公子糾が敗れたとき、私とともにその大夫であった召忽〈BC685年没、死に際し、管仲に対して「子は生臣となれ、忽、死臣とならん」と言ったという〉は討ち死にした。私は捕えられて獄に投ぜられ、辱めを受けたが、鮑叔は私を恥知らずだとは思わなかった。それは、私が小さな節操を守らないことを恥としないで、功名が天下に顕れないことを恥としているのを知っていてくれたからである。まことに、私を生んでくれたのは父母であるが、私を真に理解してくれたのは鮑叔である」
鮑叔はすでに管仲を推挙すると、自らその下位についた。その子孫は代々斉の禄を賜り、十余代にわたって封邑を保ち、常に名大夫であった。天下の人々は、管仲の賢才を称揚するよりは、鮑叔がよく人物を理解していたことを高く評価した。
今朝のウェブニュースより
小沢氏、広がる健康不安 「大丈夫だ」沈静化に躍起 ―― 6日夜に救急搬送され、そのまま東京都内病院に入院した民主党の小沢一郎元代表(69)。病名は「左尿管結石」という。小沢氏の健康不安は、これまでもたびたび表面化してきたが、刑事裁判の初公判を終えた当夜の体調不良に、政界には驚きが広がった。/ 「検査の結果、左尿管結石と判断しました。経過を観察中です」。小沢氏が入院した日本医科大付属病院(東京都文京区)の福永慶隆院長と本間博医師は7日、記者会見して小沢氏の病状を説明した。/6日の初公判終了から約4時間後の午後8時ごろ、腰に強い痛みを感じて嘔吐(おうと)。その後も激しい腰痛と嘔吐があり、自宅から救急車で搬送された。1週間程度の入院が必要という。/小沢氏には、健康不安がつきまとう。1991年には狭心症で約40日間入院。最近では、民主党代表当時の2008年10月に体調を崩して入院している。/ 刑事裁判は今月14日に2回目の公判が予定されている。本間医師は、延期やドクターストップの可能性について「本人に聞かないといけない。その場で考えたい」と述べるにとどめた。/支持候補も含めて小沢氏は党代表選に3連敗したうえ、刑事裁判で身動きが取れず、求心力に陰りが見える。それだけに、広がる波紋を鎮めるのに躍起だ。/小沢氏は7日朝から、民主党の輿石東幹事長や鳩山由紀夫元首相に電話で「心配かけて悪かった。大丈夫だ」とアピール。見舞いに訪れた側近の樋高剛、松木謙公両衆院議員や小沢グループの谷亮子参院議員らには、点滴を受けながら「痛みがある時は痛いけど、ない時は何ともない」と笑顔を見せた。/小沢グループの議員によると、病院側の記者会見も「メディアが騒いでうるさいから、病状を教えてやれ」と小沢氏が指示して設定したという。別の側近議員は「結石なんて病気じゃない。石さえ出ればすぐに退院できる」と強調した。 (asahi com 2011年10月7日22時27分)
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より(昨日の続き)
太史公曰:知死必勇,非死者難也,處死者難。方藺相如引璧睨柱,及叱秦王左右,勢不過誅,然士或怯懦而不敢發。相如一奮其氣,威信敵國,退而讓頗,名重太山,其處智勇,可謂兼之矣!
〈訳〉
太子公曰く――
死を覚悟すれば、必ず勇気があふれてくる。死それ自体が難しいのではなく、死に処することが難しいのである。藺相如が璧を取り返して柱をにらんだ時、あるいはまた、秦王の左右を叱りつけた時には、勢いのおもむくところ自分が誅殺されるのだと知っていたのだ。しかし、士のある者は怯懦〈きょうだ〉であって、あえて勇気をだそうとしない。相如は一たびその気を奮って、威は敵国に伸び、退いては廉頗に譲り、その名声は太山(泰山)よりも重かったのである。智・勇に処して、この二つを兼備した人物というべきであろう。
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より(昨日の続き)
太史公曰:知死必勇,非死者難也,處死者難。方藺相如引璧睨柱,及叱秦王左右,勢不過誅,然士或怯懦而不敢發。相如一奮其氣,威信敵國,退而讓頗,名重太山,其處智勇,可謂兼之矣!
〈訳〉
太子公曰く――
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より (昨日の続き)
秦王坐章臺見相如、相如奉璧奏秦王。秦王大喜、傳以示美人及左右、左右皆呼萬歲。相如視秦王無意償趙城、乃前曰:“璧有瑕、請指示王。”王授璧、相如因持璧卻立、倚柱、怒髪上沖冠、謂秦王曰:“大王欲得璧、使人發書至趙王、趙王悉召群臣議、皆曰‘秦貪、負其彊、以空言求璧、償城恐不可得’。議不欲予秦璧。臣以為布衣之交尚不相欺、況大國乎!且以一璧之故逆彊秦之驩、不可。於是趙王乃齋戒五日、使臣奉璧、拜送書於庭。何者?嚴大國之威以修敬也。今臣至、大王見臣列觀、禮節甚倨;得璧、傳之美人、以戲弄臣。臣觀大王無意償趙王城邑、故臣復取璧。大王必欲急臣、臣頭今與璧俱碎於柱矣!”相如持其璧睨柱、欲以擊柱。秦王恐其破璧、乃辭謝固請、召有司案圖、指從此以往十五都予趙。相如度秦王特以詐詳為予趙城、實不可得、乃謂秦王曰:“和氏璧、天下所共傳寶也、趙王恐、不敢不獻。趙王送璧時、齋戒五日、今大王亦宜齋戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧。”秦王度之、終不可彊奪、遂許齋五日、舍相如廣成傳。相如度秦王雖齋、決負約不償城、乃使其從者衣褐、懷其璧、從徑道亡、歸璧于趙。
〈訳〉

秦王は章台〈秦の王城内の台の名〉に坐って相如を引見した。相如は璧を奉じて秦王に捧呈した。秦王は大いに喜んで、次々に手渡して美人(女官)や左右のものに示した。左右のものはみな「万歳」と叫んだ。相如は秦王が城邑を代償として趙に与える心意のないのを見て取ると、進み出て言った。
「璧に瑕(きず)があります。それを王にお示しいたしましょう」
王は璧を授けた。相如は璧を持ち、退いてすっくと立って柱に倚った。怒りのために頭髪は逆立って冠を衝きあげたいた。そして、秦王に言った。
「大王は璧を得たいとお思いになり、使者を派して書面を趙王に送られました。趙王は群臣をことごとく召して審議しました。みなが、『秦は貪欲でその強大をたのみ、空言を持って璧を求めているのだ。代償の城邑はおそらくは得ることができないだろう』と言って、秦に璧を与えることを望みませんでした。しかし、私は『無位無官の者の交際でも、欺きあったりはしない。まして、大国間の交際ではなおさらのことだ。それに、たった一個の璧のために強い秦の歓心に逆らうことはよろしくない』と考えました。かくて趙王は斎戒(さいかい)なさること五日、私に命じて、璧を奉じて恭しく書面を秦の宮廷に届けさせたのです。何故ならば、大国の威を畏れて、敬しみを修めたからです。ところが、いま、私が到着いたしますと、大王は私を賓客として待遇せずに、臣下ともどもご覧になり、その礼節ははなはだ倨(おご)っておられ、璧を入手なさると、これを美人に手渡して私を翻弄されておられます。私は、大王に代償として城邑を趙王に与える心意がおありにならないと判断しましたので、璧を取り返したのです。もし、大王が私を追い詰めようとなさるなら、私の頭は、いま、璧とともに柱に撃ちつけられて砕けるでしょう」
相如はその璧を持って柱をにらみ、柱に撃ちつけようとした。秦王は相如が璧を砕くことを恐れたので、謝って、役人を召して地図を案じ、指さしてここから先の十五都邑を趙に与えるからと請願した。相如は、秦王がただ偽って趙に城邑を与える振りをしているだけで、実は城邑を得ることはできないと判断して、秦王に言った。
「和氏の璧は、天下がともに伝えて宝としているものであります。趙王は秦を恐れて、それを献上しないわけにはまいりませんでした。趙王が璧を送り出すときには五日間斎戒なさいました。今、大王もまた、五日間斎戒して、九賓の礼(賓客を礼遇する非常に丁重な儀式)を宮廷で行われるべきです。そうなされば、私はあえて璧をたてまつりましょう」
秦王は、どうしても強奪することはできないと考えて、五日間斎戒することを許し、相如を広成伝舎(客舎の名)に宿泊させた。相如は秦王が斎戒してもきっと約定にそむいて城邑を代償とはしないだろうと判断して、従者に命じて、粗末な衣服を着てその璧を懐中にし、間道伝いに亡げて璧を趙に届けさせた。
秦王齋五日后,乃設九賓禮於廷,引趙使者藺相如。相如至,謂秦王曰:“秦自繆公以來二十餘君,未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙,故令人持璧歸,閒至趙矣。且秦彊而趙弱,大王遣一介之使至趙,趙立奉璧來。今以秦之彊而先割十五都予趙,趙豈敢留璧而得罪於大王乎?臣知欺大王之罪當誅,臣請就湯鑊,唯大王與群臣孰計議之。”秦王與群臣相視而嘻。左右或欲引相如去,秦王因曰:“今殺相如,終不能得璧也,而絕秦趙之驩,不如因而厚遇之,使歸趙,趙王豈以一璧之故欺秦邪!”卒廷見相如,畢禮而歸之。相如既歸,趙王以為賢大夫使不辱於諸侯,拜相如為上大夫。秦亦不以城予趙,趙亦終不予秦璧。其后秦伐趙,拔石城。明年,復攻趙,殺二萬人。
〈訳〉
秦王は五日間斎戒したのち、九賓の礼を宮中で行い、趙の使者藺相如を引見した。相如はやってきて秦王にいった。
「秦は繆公以来二十余君ですが、まだかって、約束を堅く守った君主はありません。私は王に欺かれて趙に背く結果になるのを心から恐れましたので、人に命じて、璧を持ってひそかに趙に帰らせました。しかし、秦は強大で趙は弱小です。大王がたった一人の使者を趙にご派遣になれば、趙はたちどころに璧を奉じてまいりましょう。いま、秦の強大をもってして、まず十五都邑を割(さ)いて趙にお与えになれば、趙はどうして、あえて璧を留めて罪を大王に得るようなことをいたしましょうか。私は大王を欺いた罪が誅殺に該当するのを存じております。どうか湯鑊(とうかく、釜うでの刑)にして下さい。ただ、大王におかれましては、群臣とつらつらご審議のほどを」
秦王は群臣と顔を見合わせて驚き怒った。左右の者たちのうちには相如を引き立てて立ち去ろうとするものもあった。すると、秦王は言った。
「いま、相如を殺しても、ついに璧を得ることはできないし、秦・趙の友好を絶ってしまうだろう。むしろ、相如を厚遇して趙に帰らせたほうがよかろう。趙王は、一個の璧をめぐって問題があったからといって、どうして秦をあざむいたりしようか」
そして、相如を賓客として宮廷で引見し、儀礼を終えてから帰国させた。相如がすでに帰国すると、朝王は彼が賢人だったから使者として諸侯に辱められなかったと考えて、相如を上大夫に任じた。秦も城邑を趙に与えず、趙もとうとう秦に璧を与えなかった。
その後、趙を伐って石城(せきじょう、河南省)を抜いた。その翌年、また趙を攻めて二万人を殺した。
秦王坐章臺見相如、相如奉璧奏秦王。秦王大喜、傳以示美人及左右、左右皆呼萬歲。相如視秦王無意償趙城、乃前曰:“璧有瑕、請指示王。”王授璧、相如因持璧卻立、倚柱、怒髪上沖冠、謂秦王曰:“大王欲得璧、使人發書至趙王、趙王悉召群臣議、皆曰‘秦貪、負其彊、以空言求璧、償城恐不可得’。議不欲予秦璧。臣以為布衣之交尚不相欺、況大國乎!且以一璧之故逆彊秦之驩、不可。於是趙王乃齋戒五日、使臣奉璧、拜送書於庭。何者?嚴大國之威以修敬也。今臣至、大王見臣列觀、禮節甚倨;得璧、傳之美人、以戲弄臣。臣觀大王無意償趙王城邑、故臣復取璧。大王必欲急臣、臣頭今與璧俱碎於柱矣!”相如持其璧睨柱、欲以擊柱。秦王恐其破璧、乃辭謝固請、召有司案圖、指從此以往十五都予趙。相如度秦王特以詐詳為予趙城、實不可得、乃謂秦王曰:“和氏璧、天下所共傳寶也、趙王恐、不敢不獻。趙王送璧時、齋戒五日、今大王亦宜齋戒五日、設九賓於廷、臣乃敢上璧。”秦王度之、終不可彊奪、遂許齋五日、舍相如廣成傳。相如度秦王雖齋、決負約不償城、乃使其從者衣褐、懷其璧、從徑道亡、歸璧于趙。
〈訳〉
「璧に瑕(きず)があります。それを王にお示しいたしましょう」
王は璧を授けた。相如は璧を持ち、退いてすっくと立って柱に倚った。怒りのために頭髪は逆立って冠を衝きあげたいた。そして、秦王に言った。
「大王は璧を得たいとお思いになり、使者を派して書面を趙王に送られました。趙王は群臣をことごとく召して審議しました。みなが、『秦は貪欲でその強大をたのみ、空言を持って璧を求めているのだ。代償の城邑はおそらくは得ることができないだろう』と言って、秦に璧を与えることを望みませんでした。しかし、私は『無位無官の者の交際でも、欺きあったりはしない。まして、大国間の交際ではなおさらのことだ。それに、たった一個の璧のために強い秦の歓心に逆らうことはよろしくない』と考えました。かくて趙王は斎戒(さいかい)なさること五日、私に命じて、璧を奉じて恭しく書面を秦の宮廷に届けさせたのです。何故ならば、大国の威を畏れて、敬しみを修めたからです。ところが、いま、私が到着いたしますと、大王は私を賓客として待遇せずに、臣下ともどもご覧になり、その礼節ははなはだ倨(おご)っておられ、璧を入手なさると、これを美人に手渡して私を翻弄されておられます。私は、大王に代償として城邑を趙王に与える心意がおありにならないと判断しましたので、璧を取り返したのです。もし、大王が私を追い詰めようとなさるなら、私の頭は、いま、璧とともに柱に撃ちつけられて砕けるでしょう」
相如はその璧を持って柱をにらみ、柱に撃ちつけようとした。秦王は相如が璧を砕くことを恐れたので、謝って、役人を召して地図を案じ、指さしてここから先の十五都邑を趙に与えるからと請願した。相如は、秦王がただ偽って趙に城邑を与える振りをしているだけで、実は城邑を得ることはできないと判断して、秦王に言った。
「和氏の璧は、天下がともに伝えて宝としているものであります。趙王は秦を恐れて、それを献上しないわけにはまいりませんでした。趙王が璧を送り出すときには五日間斎戒なさいました。今、大王もまた、五日間斎戒して、九賓の礼(賓客を礼遇する非常に丁重な儀式)を宮廷で行われるべきです。そうなされば、私はあえて璧をたてまつりましょう」
秦王は、どうしても強奪することはできないと考えて、五日間斎戒することを許し、相如を広成伝舎(客舎の名)に宿泊させた。相如は秦王が斎戒してもきっと約定にそむいて城邑を代償とはしないだろうと判断して、従者に命じて、粗末な衣服を着てその璧を懐中にし、間道伝いに亡げて璧を趙に届けさせた。
秦王齋五日后,乃設九賓禮於廷,引趙使者藺相如。相如至,謂秦王曰:“秦自繆公以來二十餘君,未嘗有堅明約束者也。臣誠恐見欺於王而負趙,故令人持璧歸,閒至趙矣。且秦彊而趙弱,大王遣一介之使至趙,趙立奉璧來。今以秦之彊而先割十五都予趙,趙豈敢留璧而得罪於大王乎?臣知欺大王之罪當誅,臣請就湯鑊,唯大王與群臣孰計議之。”秦王與群臣相視而嘻。左右或欲引相如去,秦王因曰:“今殺相如,終不能得璧也,而絕秦趙之驩,不如因而厚遇之,使歸趙,趙王豈以一璧之故欺秦邪!”卒廷見相如,畢禮而歸之。相如既歸,趙王以為賢大夫使不辱於諸侯,拜相如為上大夫。秦亦不以城予趙,趙亦終不予秦璧。其后秦伐趙,拔石城。明年,復攻趙,殺二萬人。
〈訳〉
秦王は五日間斎戒したのち、九賓の礼を宮中で行い、趙の使者藺相如を引見した。相如はやってきて秦王にいった。
「秦は繆公以来二十余君ですが、まだかって、約束を堅く守った君主はありません。私は王に欺かれて趙に背く結果になるのを心から恐れましたので、人に命じて、璧を持ってひそかに趙に帰らせました。しかし、秦は強大で趙は弱小です。大王がたった一人の使者を趙にご派遣になれば、趙はたちどころに璧を奉じてまいりましょう。いま、秦の強大をもってして、まず十五都邑を割(さ)いて趙にお与えになれば、趙はどうして、あえて璧を留めて罪を大王に得るようなことをいたしましょうか。私は大王を欺いた罪が誅殺に該当するのを存じております。どうか湯鑊(とうかく、釜うでの刑)にして下さい。ただ、大王におかれましては、群臣とつらつらご審議のほどを」
秦王は群臣と顔を見合わせて驚き怒った。左右の者たちのうちには相如を引き立てて立ち去ろうとするものもあった。すると、秦王は言った。
「いま、相如を殺しても、ついに璧を得ることはできないし、秦・趙の友好を絶ってしまうだろう。むしろ、相如を厚遇して趙に帰らせたほうがよかろう。趙王は、一個の璧をめぐって問題があったからといって、どうして秦をあざむいたりしようか」
そして、相如を賓客として宮廷で引見し、儀礼を終えてから帰国させた。相如がすでに帰国すると、朝王は彼が賢人だったから使者として諸侯に辱められなかったと考えて、相如を上大夫に任じた。秦も城邑を趙に与えず、趙もとうとう秦に璧を与えなかった。
その後、趙を伐って石城(せきじょう、河南省)を抜いた。その翌年、また趙を攻めて二万人を殺した。
史記 列伝 廉頗藺相如列傳 第二十一 より
廉頗者、趙之良將也。趙惠文王十六年、廉頗為趙將伐齊、大破之、取陽晉、拜為上卿、以勇氣聞於諸侯。藺相如者、趙人也、為趙宦者令繆賢舍人。

(訳〉
廉頗(れんぱ)は趙の良将である。趙の恵文王の十六年、廉頗は趙の将軍として斉を伐ち、大いにこれをやぶり、陽晋〈山東省〉を取ったので、上卿に任ぜられた。勇気をもって諸侯に聞こえた。
藺相如(りんしょうじょ)は趙の人である。趙の宦者の令〈長官〉繆賢(ほくけん)の舎人〈けらい〉であった。
趙惠文王時、得楚和氏璧。秦昭王聞之、使人遺趙王書、願以十五城請易璧。趙王與大將軍廉頗諸大臣謀:欲予秦、秦城恐不可得、徒見欺;欲勿予、即患秦兵之來。計未定、求人可使報秦者、未得。宦者令繆賢曰:“臣舍人藺相如可使。”王問:“何以知之?”對曰:“臣嘗有罪、竊計欲亡走燕、臣舍人相如止臣、曰:‘君何以知燕王?’臣語曰:‘臣嘗從大王與燕王會境上、燕王私握臣手、曰“願結友”。以此知之、故欲往。’相如謂臣曰:‘夫趙彊而燕弱、而君幸於趙王、故燕王欲結於君。今君乃亡趙走燕、燕畏趙、其勢必不敢留君、而束君歸趙矣。君不如肉袒伏斧質請罪、則幸得脫矣。’臣從其計、大王亦幸赦臣。臣竊以為其人勇士、有智謀、宜可使。”於是王召見、問藺相如曰:“秦王以十五城請易寡人之璧、可予不?”相如曰:“秦彊而趙弱、不可不許。”王曰:“取吾璧、不予我城、柰何?”相如曰:“秦以城求璧而趙不許、曲在趙。趙予璧而秦不予趙城、曲在秦。均之二策、寧許以負秦曲。”王曰:“誰可使者?”相如曰:“王必無人、臣願奉璧往使。城入趙而璧留秦;城不入、臣請完璧歸趙。”趙王於是遂遣相如奉璧西入秦。
〈訳〉
趙の恵文王のとき、王は「和氏の璧」を手に入れた。すると秦の昭王がこれを聞いて、使者をよこして朝王に書を送り、秦の十五城邑と璧を交換して欲しいと願ってきた。朝王は大将軍廉頗や諸大臣と相談したが、璧を秦に与えれば、秦の城邑はおそらく得られず、ただ欺かれるばかりであり、与えなければ秦軍が来襲する恐れがあり、方針がなかなかきまらなかった。また、秦への回答使をさがしたが、これもなかなかえられなかった。すると宦者の令の繆賢が言った。「私の舎人の藺相如は、回答使としててきにんです」
王は問うた。「どうして、それがわかるのか」
「私は、かつて罪を犯しまして、ひそかに燕に逃げようと計画いたしました。すると、私の舎人の相如が私をとめまして、『あなたはどいうわけで燕王を知っているのですか』と申しますので、かつて大王のお供をして燕王と国境付近であったことがあり、その時に燕王がそっと私の手を握って友人になろうといったのだ、こうしたわけで知り合いになったので、行こうと思うのだが、と告げますと、相如は私に『そもそも、趙は強大で燕は弱小です。しかもあなたは趙王に寵遇されていますので、燕王はあなたと交際を結ぼうと望んだのです。ところが、いま、あなたは趙を亡げて燕にはしるのです。燕は趙をおそれて、勢いとしてあなたを滞在させないことは必定です。そしてあなたを縛って趙に送り返すでしょう。あなたは肌脱ぎになって処刑台に伏し、罪を請われることにこしたことはありません。そうなされば、あるいは幸いに刑罰を免れるかも知れません』と申しました。私がその計に従いますと、大王もまた幸いに私をお赦しくださいました。こうして、私は相如という人物が勇士であり、智謀もあると認めたのであります。回答使としてまず間違いありません」
そこで、王は藺相如を召見して問うた。
「秦王が十五城をもって寡人(わし)の璧と交換したいと請うてきたが、璧を与えるべきだろうか、どうだろうか」
「秦は強大で趙は弱小です。許(き)かないわけにはまいりません」
「こちらの璧を取り上げて、城邑を与えてくれなかったらどうしよう」
「秦が城邑をくれるという条件で璧を求めておりますのに、趙が許かなければ、曲は趙にあります。趙が璧を与えたのに秦が趙に城邑を与えなければ、曲は秦にあります。この二策を比較してみますに、先方の言い分を許いて秦に曲を負わせる方がよろしいと存じます」
「だれか回答使とすべきものがいるだろうか」
「王がどうしても適当な人の心当たりがございませんでしたら、私に壁を奉じて使いさせてください。城邑が趙の手に入りますなら、璧は秦に留めましょう。城邑が入手できないのでしたら、きっと璧を完うして趙にかえってまいりましょう」
趙王はかくて、遂に相如を派遣して璧を奉じて西の方秦に入らせた。
完璧〈かんぺき〉とは瑕のない璧、欠点がなくて優れてよいことを言うらしいが、藺相如は胆力と知恵だけを武器に、強国秦に一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子(めんつ)も保ったのである。正〈まさ〉しく「完璧」(中国語では「完璧帰趙」)な対処といえよう。
廉頗者、趙之良將也。趙惠文王十六年、廉頗為趙將伐齊、大破之、取陽晉、拜為上卿、以勇氣聞於諸侯。藺相如者、趙人也、為趙宦者令繆賢舍人。
廉頗(れんぱ)は趙の良将である。趙の恵文王の十六年、廉頗は趙の将軍として斉を伐ち、大いにこれをやぶり、陽晋〈山東省〉を取ったので、上卿に任ぜられた。勇気をもって諸侯に聞こえた。
藺相如(りんしょうじょ)は趙の人である。趙の宦者の令〈長官〉繆賢(ほくけん)の舎人〈けらい〉であった。
趙惠文王時、得楚和氏璧。秦昭王聞之、使人遺趙王書、願以十五城請易璧。趙王與大將軍廉頗諸大臣謀:欲予秦、秦城恐不可得、徒見欺;欲勿予、即患秦兵之來。計未定、求人可使報秦者、未得。宦者令繆賢曰:“臣舍人藺相如可使。”王問:“何以知之?”對曰:“臣嘗有罪、竊計欲亡走燕、臣舍人相如止臣、曰:‘君何以知燕王?’臣語曰:‘臣嘗從大王與燕王會境上、燕王私握臣手、曰“願結友”。以此知之、故欲往。’相如謂臣曰:‘夫趙彊而燕弱、而君幸於趙王、故燕王欲結於君。今君乃亡趙走燕、燕畏趙、其勢必不敢留君、而束君歸趙矣。君不如肉袒伏斧質請罪、則幸得脫矣。’臣從其計、大王亦幸赦臣。臣竊以為其人勇士、有智謀、宜可使。”於是王召見、問藺相如曰:“秦王以十五城請易寡人之璧、可予不?”相如曰:“秦彊而趙弱、不可不許。”王曰:“取吾璧、不予我城、柰何?”相如曰:“秦以城求璧而趙不許、曲在趙。趙予璧而秦不予趙城、曲在秦。均之二策、寧許以負秦曲。”王曰:“誰可使者?”相如曰:“王必無人、臣願奉璧往使。城入趙而璧留秦;城不入、臣請完璧歸趙。”趙王於是遂遣相如奉璧西入秦。
〈訳〉
趙の恵文王のとき、王は「和氏の璧」を手に入れた。すると秦の昭王がこれを聞いて、使者をよこして朝王に書を送り、秦の十五城邑と璧を交換して欲しいと願ってきた。朝王は大将軍廉頗や諸大臣と相談したが、璧を秦に与えれば、秦の城邑はおそらく得られず、ただ欺かれるばかりであり、与えなければ秦軍が来襲する恐れがあり、方針がなかなかきまらなかった。また、秦への回答使をさがしたが、これもなかなかえられなかった。すると宦者の令の繆賢が言った。「私の舎人の藺相如は、回答使としててきにんです」
王は問うた。「どうして、それがわかるのか」
「私は、かつて罪を犯しまして、ひそかに燕に逃げようと計画いたしました。すると、私の舎人の相如が私をとめまして、『あなたはどいうわけで燕王を知っているのですか』と申しますので、かつて大王のお供をして燕王と国境付近であったことがあり、その時に燕王がそっと私の手を握って友人になろうといったのだ、こうしたわけで知り合いになったので、行こうと思うのだが、と告げますと、相如は私に『そもそも、趙は強大で燕は弱小です。しかもあなたは趙王に寵遇されていますので、燕王はあなたと交際を結ぼうと望んだのです。ところが、いま、あなたは趙を亡げて燕にはしるのです。燕は趙をおそれて、勢いとしてあなたを滞在させないことは必定です。そしてあなたを縛って趙に送り返すでしょう。あなたは肌脱ぎになって処刑台に伏し、罪を請われることにこしたことはありません。そうなされば、あるいは幸いに刑罰を免れるかも知れません』と申しました。私がその計に従いますと、大王もまた幸いに私をお赦しくださいました。こうして、私は相如という人物が勇士であり、智謀もあると認めたのであります。回答使としてまず間違いありません」
そこで、王は藺相如を召見して問うた。
「秦王が十五城をもって寡人(わし)の璧と交換したいと請うてきたが、璧を与えるべきだろうか、どうだろうか」
「秦は強大で趙は弱小です。許(き)かないわけにはまいりません」
「こちらの璧を取り上げて、城邑を与えてくれなかったらどうしよう」
「秦が城邑をくれるという条件で璧を求めておりますのに、趙が許かなければ、曲は趙にあります。趙が璧を与えたのに秦が趙に城邑を与えなければ、曲は秦にあります。この二策を比較してみますに、先方の言い分を許いて秦に曲を負わせる方がよろしいと存じます」
「だれか回答使とすべきものがいるだろうか」
「王がどうしても適当な人の心当たりがございませんでしたら、私に壁を奉じて使いさせてください。城邑が趙の手に入りますなら、璧は秦に留めましょう。城邑が入手できないのでしたら、きっと璧を完うして趙にかえってまいりましょう」
趙王はかくて、遂に相如を派遣して璧を奉じて西の方秦に入らせた。
完璧〈かんぺき〉とは瑕のない璧、欠点がなくて優れてよいことを言うらしいが、藺相如は胆力と知恵だけを武器に、強国秦に一歩も退かずに璧を守り通し、趙の面子(めんつ)も保ったのである。正〈まさ〉しく「完璧」(中国語では「完璧帰趙」)な対処といえよう。
璧(へき)は古代中国で祭祀用あるいは威信財として使われた玉器で、多くは軟玉から作られたという。形状は円盤状で、中心に円孔を持つ。表面に彫刻が施される場合もあるという。和氏の璧(かしのへき、-たま)は、中国の春秋時代・戦国時代の故事にあらわれた名玉とされ。『韓非子』および『史記』に記される。連城の璧(れんじょう-)とも称する。
韓非子 第十三 和氏篇 より
楚人和氏得玉璞楚山中、奉而獻之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰:“石也。”王以和為誑、而刖其左足。及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而獻之武王、武王使玉人相之、又曰“石也”、王又以和為誑、而刖其右足。武王薨、文王即位、和乃抱其璞而哭於楚山之下、三日三夜、泣盡而繼之以血。王聞之、使人問其故、曰:“天下之刖者多矣、子奚哭之悲也?”和曰:“吾非悲刖也、悲夫寶玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也。”王乃使玉人理其璞而得寶焉、遂命曰:“和氏之璧。”
〈訳〉
楚の和氏(かし、姓は卞《べん》)は璞(あらたま)を楚山(荊山)の中で発見したので、これを大事に持参して楚の厲王(れいおう)に献じた。厲王は玉人に鑑定させたが、玉人はただの石でございますと言ったので、王は和氏をお上をだますものだと怒って彼の左足を切断した。やがて厲王は死んで武王が位に就くと、和氏はまたもや、その璞を大事に持参して武王に献じた。武王は玉人に之を鑑定させるとまたもや、ただの石でございますと言ったので、武王も和氏をお上を欺くものだとおこって右足を切断した。武王が死に、文王が位に就いたとき、和氏はこの璞を抱いて、楚山の麓で大声を上げて哭きつづけること三日三夜、涙は涸れてしまって血を流すほどであった。文王はこのことをきき、人をやってその哭泣するわけをたずねさてこういった。
「世間では足を切られるものが非常に多いが、おまえはなぜそんなにかなしそうに哭いているのか」
和氏は答えた。「私は、足を切られたのを悲しむわけではございません。かような宝玉でありながら、ただの石といわれ、誠実な人間であるのに、君を欺くといわれますからかなしくてなりません」
そこで王は玉人にその璞を磨かせると、宝石を得た。よってこれを「和氏の壁」と名付けた。
和氏の璧は、暗闇で鈍く光り、置いておくと夏は涼しく、冬は暖かくしてくれ、虫除けにもなったという言い伝えがある。そのため、春秋戦国時代では最高の宝石として位置づけられており、上述の「韓非子」以外にも「史記」、「十八史略」などの書物にも登場している。しかし、趙没落後は歴史上には登場せず、行方知れずとなっている。一説では、趙の滅亡後に中原を統一した秦に渡り、始皇帝が和氏の璧を玉璽(伝国璽)にしたとされ、その後漢王朝の歴代皇帝もその玉璽を使用していたとされる。「三国志演義」などでもその説を採っているが、仮に和氏の璧=伝国璽だとしても、五代十国時代の946年に後晋の出帝が遼の太宗に捕らえられた時に伝国璽は紛失してしまっており、現在では実際に存在する可能性は低いと考えられている。
十八史略
趙恵文王、嘗得楚和氏璧。秦昭王、請以十五城易之。欲不与畏秦強、欲与恐見欺。藺相如願奉璧往。「城不入則臣請、完璧而帰。」既至秦。王無意償城。相如乃欺取璧、怒髪指冠、却立柱下曰、「臣頭与璧倶砕。」遣従者懐璧間行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。
趙の恵文王、嘗て楚の和氏の璧を得たり。秦の昭王、十五城を以て之に易へんと請ふ。与へざらんと欲せば秦の強きを畏れ、与へんと欲せば欺かるるを恐る。藺相如、璧を奉じて往かんことを願ふ。
「城入らずんば則ち臣請ふ、璧を完うして帰らん。」と。既に秦に至る。
王に城を償ふ意無し。相如乃ち欺きて璧を取り、怒髪冠を指し、却き柱下に立ちて曰はく、「臣が頭は璧と倶に砕けん。」
従者をして璧を懐きて間行し先づ帰らしめ、身は命を秦に待つ。秦の昭王、賢として之を帰す。
〈訳〉
趙の恵文王は、かつて稀代の名玉、和氏の璧を手に入れた。秦の昭王は、十五の城と和氏の壁を交換しようと申し出た。秦の強大さが恐ろしくて断れず、また欺かれるのも恐ろしく、承諾するのもどうかと思われた。そのとき、藺相如という者が和氏の璧を持って秦に行きたいと願い出た。
「城が手に入らなかったら、私にこう命じられよ、和氏の璧を完全な状態で持ち帰れ、と。」藺相如は秦に到着した。
秦の昭王には城を与える意思は無かった。そこで、藺相如は欺いて和氏の璧を奪い返した。その瞬間に髪は怒りで逆立ち、冠を突き上げた。彼は後ずさりして柱の下に立ち、こう言った、「私の頭をこの壁にぶつけ、もろとも砕いてやる。」
後に、従者に璧を懐に抱いて抜け道を通り、気づかれないように帰るようにさせて、自身は秦の処分を待った。秦の昭王はこれを賢いとして藺相如を趙に返した。
韓非子 第十三 和氏篇 より
楚人和氏得玉璞楚山中、奉而獻之厲王、厲王使玉人相之、玉人曰:“石也。”王以和為誑、而刖其左足。及厲王薨、武王即位、和又奉其璞而獻之武王、武王使玉人相之、又曰“石也”、王又以和為誑、而刖其右足。武王薨、文王即位、和乃抱其璞而哭於楚山之下、三日三夜、泣盡而繼之以血。王聞之、使人問其故、曰:“天下之刖者多矣、子奚哭之悲也?”和曰:“吾非悲刖也、悲夫寶玉而題之以石、貞士而名之以誑、此吾所以悲也。”王乃使玉人理其璞而得寶焉、遂命曰:“和氏之璧。”
〈訳〉
楚の和氏(かし、姓は卞《べん》)は璞(あらたま)を楚山(荊山)の中で発見したので、これを大事に持参して楚の厲王(れいおう)に献じた。厲王は玉人に鑑定させたが、玉人はただの石でございますと言ったので、王は和氏をお上をだますものだと怒って彼の左足を切断した。やがて厲王は死んで武王が位に就くと、和氏はまたもや、その璞を大事に持参して武王に献じた。武王は玉人に之を鑑定させるとまたもや、ただの石でございますと言ったので、武王も和氏をお上を欺くものだとおこって右足を切断した。武王が死に、文王が位に就いたとき、和氏はこの璞を抱いて、楚山の麓で大声を上げて哭きつづけること三日三夜、涙は涸れてしまって血を流すほどであった。文王はこのことをきき、人をやってその哭泣するわけをたずねさてこういった。
「世間では足を切られるものが非常に多いが、おまえはなぜそんなにかなしそうに哭いているのか」
和氏は答えた。「私は、足を切られたのを悲しむわけではございません。かような宝玉でありながら、ただの石といわれ、誠実な人間であるのに、君を欺くといわれますからかなしくてなりません」
そこで王は玉人にその璞を磨かせると、宝石を得た。よってこれを「和氏の壁」と名付けた。
十八史略
趙恵文王、嘗得楚和氏璧。秦昭王、請以十五城易之。欲不与畏秦強、欲与恐見欺。藺相如願奉璧往。「城不入則臣請、完璧而帰。」既至秦。王無意償城。相如乃欺取璧、怒髪指冠、却立柱下曰、「臣頭与璧倶砕。」遣従者懐璧間行先帰、身待命於秦。秦昭王賢而帰之。
趙の恵文王、嘗て楚の和氏の璧を得たり。秦の昭王、十五城を以て之に易へんと請ふ。与へざらんと欲せば秦の強きを畏れ、与へんと欲せば欺かるるを恐る。藺相如、璧を奉じて往かんことを願ふ。
「城入らずんば則ち臣請ふ、璧を完うして帰らん。」と。既に秦に至る。
王に城を償ふ意無し。相如乃ち欺きて璧を取り、怒髪冠を指し、却き柱下に立ちて曰はく、「臣が頭は璧と倶に砕けん。」
従者をして璧を懐きて間行し先づ帰らしめ、身は命を秦に待つ。秦の昭王、賢として之を帰す。
〈訳〉
趙の恵文王は、かつて稀代の名玉、和氏の璧を手に入れた。秦の昭王は、十五の城と和氏の壁を交換しようと申し出た。秦の強大さが恐ろしくて断れず、また欺かれるのも恐ろしく、承諾するのもどうかと思われた。そのとき、藺相如という者が和氏の璧を持って秦に行きたいと願い出た。
「城が手に入らなかったら、私にこう命じられよ、和氏の璧を完全な状態で持ち帰れ、と。」藺相如は秦に到着した。
秦の昭王には城を与える意思は無かった。そこで、藺相如は欺いて和氏の璧を奪い返した。その瞬間に髪は怒りで逆立ち、冠を突き上げた。彼は後ずさりして柱の下に立ち、こう言った、「私の頭をこの壁にぶつけ、もろとも砕いてやる。」
後に、従者に璧を懐に抱いて抜け道を通り、気づかれないように帰るようにさせて、自身は秦の処分を待った。秦の昭王はこれを賢いとして藺相如を趙に返した。
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