瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
鳥越神社を訪ねるべく、江戸通りを南下、蔵前通りを西へ進む。









鳥越神社の祭神は日本武尊、天兒屋根命、徳川家康。天兒屋根命は武蔵国の国司となった藤原氏がその祖神を祀ったものといわれている。徳川家康は蔵前にあった松平神社が関東大震災で焼失したために当社に合祀されたものである。境内社として、福寿神社:祭神は倉稻魂命 大黒天神 惠比壽神 菅原道眞/祖霊社:氏子の祖霊を祀る/志志岐神社:祭神は豊玉姫命。対馬国下懸群久田村、藩主宋対馬守が江戸藩邸にあったものを現台東2-1付近に勧請、安産の神として祀られていたそうで、こちらへの移転は近年のことらしい。
日本武尊が東国平定のみちすがら、当地の白鳥村に滞在し、後に村民が白鳥明神として白鳥山の山頂に奉祀したことを起源とし、白雉2(652)年の創建とされる(1185年までこの辺りは「白鳥村」と呼ばれていたという)。 永承年間(1046~52年)奥州の安倍貞任(あべのさだとう)の乱(前九年の役)鎮定のためにこの地を通った源頼義と義家の軍勢は大川(隅田川)を白鳥の渡るのを見てそこが浅瀬であることを知って渡ることができ、白鳥大明神のご加護として鳥越大明神の社号を奉じ、社名も鳥越神社となったという。図は現在の地形から推定される江戸初期の鳥越周辺地形の推定図である。

隅田川の西岸は古利根川の運ぶ砂や砂利が堆積して標高3m~4mほどの丘が南北に続いている。貝塚もあることから縄文時代から陸地であったことが窺える。そこに浅草神社、石浜神社などの古社が並んでいる。河川のカーブする外側には砂利など流れにくい土砂が堆積して自然堤防を作るが、鳥越~浅草~石浜にはその堆積丘ができている。その内側も陸地化するはずなのだが、ここでは入間川(後に荒川)の浸水地域で鎌倉時代では長江の入江と呼ばれており、沼ようであったと思われる。入間川が運ぶ泥は流れ出ることがなく、堆積して江戸初期では千束池や姫ケ池の沼地となっていた(近世では蓮根の栽培地)。図の現在1mの標高になっている部分が沼池で江戸初期に埋め立てられた地域と推定できる。江戸市街開発のために隅田川西岸の堆積丘が取り崩されてこれらの沼地が埋め立てられ、江戸名所図会によれば七つあった山がひとつになってしまったいう。真土山(現:待乳山聖天の丘)は沖から入る船の目当てになっていたとあり、これがひとつだけ残った山(丘)とみえる。鳥越の丘も同様に取り崩されているが、当時の鳥越の丘がどのような状態だったのかは不明である。天正日記(家康腹心の内藤清成の日記)に「大水の時には不忍池と姫ケ池がつながっているように見えた」とある。図の標高2mのあたりまで水没したのだろう。それを防ぐために築堤されたのが日本堤であり、排水路が山谷堀ということになる。不忍池から流れ出る忍川(鳥越川)が開発以前にどのようなルートで隅田川へ流れていたかは判らないが、姫ケ池を経由して鳥越の丘を横断していたのではないだろうか。
出土由来が不詳ではありるが当社の社宝に高坏、勾玉、銀環、蕨手刀がる。蕨手刀は明治24年に出土して当社に奉納されたもので、この付近に古墳があった可能性を示す(東京の蕨手刀出土はここと武蔵野市吉祥寺の武蔵野八幡宮に伝えられる2本のみ)。

かっての境内は広大で末社として三味線堀に熱田神社、森田町に榊神社があって鳥越三所明神と呼ばれていた。しかし、これらの社地は旗元や大名屋敷の御用地とされ、三味線堀付近の熱田神社は山谷へ、森田町の榊神社(第六天)は堀田堀へ移転している。当社は現在地に残ったが、江戸末期の地図では隣接して神主屋敷と別当屋敷が明示されているところから、社殿の部分だけが旧地に残されたのだろう。熱田神社の移転先を新鳥越町(現:清川1丁目~東浅草1丁目)と称したので、江戸時代では現在地を元鳥越と称している。三味線堀は埋め立てられた千束池(姫ケ池)の名残りで、もとは御手洗池と呼ばれていたという。ただし、江戸地図と重ねると三味線堀の位置は姫が池とその西の小さい池の間の標高2mの位置にあり、江戸時代に土砂を取ったとしてもデコボコにするとは考えにくく、三味線堀が姫が池の中心とは思われない。三味線堀は姫が池とその西の小さい池を埋め立てる時の排水用の堀で、忍川と鳥越川を接続するために残されたものではないかと推測される。幕府の御家人は薄給で内職をしていたが(表向きは禁止)、三味線堀の御家人はここで金魚の養殖を行って他よりずっとよい稼ぎだったということだ。鳥越神社の東に天文屋敷測量所があり、葛飾北斎が鳥越の不二で描いている。頒暦調所ともいい、暦や測量、地誌編纂や洋書翻訳を行っていた。江戸城や大名屋敷など幕府施設の絵は軍事機密のためか浮世絵などに描かれていないが、ここは大丈夫だったのだろうか? 手前の屋根の上に蛎殻がおいてあるが、板葺き屋根の防火のために蛎殻を屋根に並べることが推奨されていたようでその名残りだろう。
江戸時代では奥州へ向かうには根岸、下谷から北上して千住大橋で隅田川(荒川)を渡る(奥州道あるいは日光道中)。鎌倉時代では隅田川西岸の土手沿いに北上して石浜社あたりで渡し船で渡河し、亀有から下総台地にそって北上する道が古奥州道(東海道)だったようである(江戸時代ではこれが水戸道中となる)。新編武蔵風土記稿の牛御前社に、源頼朝が隅田川を渡るとき洪水で増水して渡れなかったので船筏で渡り、これを謝して牛御前社に領地を奉納したとある。増水して渡れない、ということは軍勢の通常渡河なら牛島あたりの浅瀬を直接渡渉していたものとみえる。鳥越神社の源頼義と義家の渡河伝承も、潮が引いて浅瀬となった隅田川河口の白鳥が餌をついばむところを渡ったのだろう。はるかに遡って、日本武尊もここを渡ったことが白鳥の丘で祀られた源になったのかもしれない。
鳥越神社を後にして、蔵前橋通りから左衛門橋通りに入ると、おかず横丁というのがあり、此処では惣菜関係の品物は安く手に入るということで近辺の主婦に人気のある商店街だと聞く。左衛門橋通りを言問通りまで北上。言問通りを東に進んで帰宅した。本日の徘徊記録は10264歩、6.6㎞。
鳥越神社の祭神は日本武尊、天兒屋根命、徳川家康。天兒屋根命は武蔵国の国司となった藤原氏がその祖神を祀ったものといわれている。徳川家康は蔵前にあった松平神社が関東大震災で焼失したために当社に合祀されたものである。境内社として、福寿神社:祭神は倉稻魂命 大黒天神 惠比壽神 菅原道眞/祖霊社:氏子の祖霊を祀る/志志岐神社:祭神は豊玉姫命。対馬国下懸群久田村、藩主宋対馬守が江戸藩邸にあったものを現台東2-1付近に勧請、安産の神として祀られていたそうで、こちらへの移転は近年のことらしい。
出土由来が不詳ではありるが当社の社宝に高坏、勾玉、銀環、蕨手刀がる。蕨手刀は明治24年に出土して当社に奉納されたもので、この付近に古墳があった可能性を示す(東京の蕨手刀出土はここと武蔵野市吉祥寺の武蔵野八幡宮に伝えられる2本のみ)。
江戸時代では奥州へ向かうには根岸、下谷から北上して千住大橋で隅田川(荒川)を渡る(奥州道あるいは日光道中)。鎌倉時代では隅田川西岸の土手沿いに北上して石浜社あたりで渡し船で渡河し、亀有から下総台地にそって北上する道が古奥州道(東海道)だったようである(江戸時代ではこれが水戸道中となる)。新編武蔵風土記稿の牛御前社に、源頼朝が隅田川を渡るとき洪水で増水して渡れなかったので船筏で渡り、これを謝して牛御前社に領地を奉納したとある。増水して渡れない、ということは軍勢の通常渡河なら牛島あたりの浅瀬を直接渡渉していたものとみえる。鳥越神社の源頼義と義家の渡河伝承も、潮が引いて浅瀬となった隅田川河口の白鳥が餌をついばむところを渡ったのだろう。はるかに遡って、日本武尊もここを渡ったことが白鳥の丘で祀られた源になったのかもしれない。
江戸通りを南下して、春日通りを渡った1つ目乃至は2つ目の路地を右折すると蔵前神社がある。正面鳥居の左に「蔵前神社由緒沿革」の案内板が立っているが、写真に撮っては見たが字が細かくて読み辛い。凡そ次のようにあった。



当社は、徳川第5代将軍綱吉公が元禄6(1693)年、山城國(やましろのくに=京都)男山(おとこやま)の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)を当地に勧請したのが始まりという。以来、江戸城鬼門除の守護神ならびに徳川将軍家祈願所の1社として篤(アツ)く尊崇せられ、御朱印社領200石を寄進されたという。文政年間(1818~1830年)の『御府内備考続編』(ごふないびこうそくへん)ならびに『寺社書上』(じしゃかきあげ)に曰く、「御祭神/誉田別天皇(ホンダワケノスメラミコト)/息長足姫命(オキナガタラシヒメノミコト)/姫大神(ヒメノオオカミ)/倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)/菅原道真公(スガワラミチザネコウ)/塩 土 翁 命(シオツチノオキナノミコト)//石清水八幡宮。御朱印社領200石。当社、石清水八幡宮境内、拝領の儀は元禄6年5月27日、高野山興山寺上り屋敷拝領つかまつり、同年8月、八幡宮社頭建立の節、御金子300両拝領つかまつり、諸堂建立つかまつり候。其の節、境内坪数2271坪6合拝領つかまつり候。其の後、享保17子年3月28日類焼つかまつり候に付、替地として、元坪の通り、浅草三嶋町に遷し置かれ候ところ、延享元子年3月20日、寺社御奉行大岡越前守忠相殿、三嶋町の儀、御祈願所に不相応にして、別けても、神前の向、宜しからず候に付、此の度、御上意を以て元地へ引き移し候よう仰せ付けられ候旨、申し渡され候。」すなわち、創建39年後に類焼し、浅草三嶋町に遷されていたが、その12年後の延享元年、元地である藏前(八幡町)に還幸した。当時は神仏習合思想に基づいて、全国の主要な神社には付属して別当寺が建立されていた。そして、当社石清水八幡宮の別当寺としては、雄徳山大護院(オトコヤマダイゴイン=新義真言宗)が営まれ、江戸の「切絵図」にも見ることができる。正式な社号は『石清水八幡宮』であるが、一般には『藏前八幡』または『東石清水宮』と唱えられ、庶民の崇敬者が多く関東地方における名社の一つに数えられたという。また、天保12(1841)年には、日本橋の「成田不動」(成田山御旅宿=なりたさんおたび)が、幕府の方針に基づく寺社御奉行松平伊賀守忠優(ただやす)の達を受けて、当社境内に遷さた。幕末の安政2(1855)年10月2日、江戸を襲った所謂「安政の大地震」では、儒学者藤田東湖を含む1万余人もの犠牲者を見たが、幕府は安政4年7月、当社境内に高さ1丈5尺の「宝塔」1基(大施餓鬼塔=おおせがきとう)を建立し、その10月には開眼供養を行わしめたという。明治に入ると、その3月に『神仏分離令』が布告され、別当寺であった雄徳山大護院は廃寺(廃絶)となった。そして、成田不動は、明治2年深川に遷され、大施餓鬼塔も、同3年練馬の東高野山に移された。明治6年、郷社に列格し、同11年、社号をそれまでの『石清水八幡宮』から「石清水神社」と改称、さらに同19年、再び『石清水八幡宮』と改称した。其の後、大正12年9月の関東大震災および昭和20年3月の戦災により社殿を焼失、昭和22年、隣接の稲荷神社と相殿・北野天満宮とを合併合祀し、同26年3月、社号を『藏前神社』と改称、平成7年10月、創建当初から境内神社として鎮座の『鹽竈(しおがま)神社』(陸奥國のち陸前國宮城郡鎮座鹽竈神社遥拝殿)を合祀して現在に至っている。
また、当社は相撲と深い関係がある。江戸時代、当境内で勧進大相撲が開催された。その回数は宝暦7(1757)年を始めとして、安永・天明・寛政・享和・文化・文政と約70年の間に23回にも及び、その勧進大相撲の3大拠点の一つであった。とくに、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には、大関雷電などの名力士も当社境内を舞台に活躍したという。当社で開催された本場所では幾多の名勝負が見られたが、なかでも、天明2(1782)年2月場所7日目、安永7(1778)年以来、実に63連勝の谷風が新進小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中を大騒ぎさせたという。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当社で開催された本場所から始められたもので、財団法人日本相撲協会では本興行をもって、従来、京・大坂に従属した江戸相撲の独立形態とみなしている。そして、当社で開催された宝暦11(1761)年10月場所より、従来の勧進相撲が『勧進大相撲』となり、財団法人日本相撲協会の直属機関でもある相撲博物館には、一部の勝負付けは欠落してはいるが、当場所以来の『殆どの勝負付け』が現存・所蔵されている。このように当社の境内は相撲熱で大いに賑わったものであり、明治時代には花相撲が行われたりもしていた。このような史実に基づいて、財団法人大日本相撲協会(現・財団法人日本相撲協会)から現存の社号標や石玉垣が奉納されているのである。
境内社(末社)に福徳稲荷神社があり、祭神は倉稲魂命。商売繁昌、五穀豊穣、家内安全に新得ありとされる。例祭は2月の初午の日である。
蔵前神社を後にして、蔵前警察署の横から榊神社、淺草中学校の前をとおって、隅田川沿いの道を南下する。総武線のガードを潜って、柳橋へ向う途中に「石塚稲荷神社」というのがあった。



元和6年、2代将軍秀忠の頃、隅田川沿いに「浅草御蔵」が作られ柳橋(旧名・旅籠町)は急に賑やなったという。旅籠町の人々は町内の安全と火除けを祈り、石塚稲荷神社をお祭した。数度の御蔵拡張で、元禄・享保のころ、御蔵森田町・片町などが今の柳橋1丁目1番あたりに移って、この地は「柳橋代地」と呼ばれるようになった。その中心が石塚稲荷なのである。総武線の高架線沿いをまっすぐに東に進むと隅田川にぶつかる。河岸通りを右に回ると石塚神社がある。江戸、明治、大正、昭和の中頃まで、料亭や芸者衆でにぎわった柳橋代地。石塚稲荷神社の鳥居の左側には柳橋料亭組合、右には柳橋芸妓組合の大きな文字が彫られている。地元花柳界で大事にされてきたことが良く判る。玉垣の内側に「台東区旧町名由来板」があり、旧淺草柳橋の説明が書かれている。
柳橋を渡り、両国橋東からテラスに降りて、吾妻橋まで南下。吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。本日の徘徊記録歩数10264歩、距離6.6km。
境内社(末社)に福徳稲荷神社があり、祭神は倉稲魂命。商売繁昌、五穀豊穣、家内安全に新得ありとされる。例祭は2月の初午の日である。
蔵前神社を後にして、蔵前警察署の横から榊神社、淺草中学校の前をとおって、隅田川沿いの道を南下する。総武線のガードを潜って、柳橋へ向う途中に「石塚稲荷神社」というのがあった。
元和6年、2代将軍秀忠の頃、隅田川沿いに「浅草御蔵」が作られ柳橋(旧名・旅籠町)は急に賑やなったという。旅籠町の人々は町内の安全と火除けを祈り、石塚稲荷神社をお祭した。数度の御蔵拡張で、元禄・享保のころ、御蔵森田町・片町などが今の柳橋1丁目1番あたりに移って、この地は「柳橋代地」と呼ばれるようになった。その中心が石塚稲荷なのである。総武線の高架線沿いをまっすぐに東に進むと隅田川にぶつかる。河岸通りを右に回ると石塚神社がある。江戸、明治、大正、昭和の中頃まで、料亭や芸者衆でにぎわった柳橋代地。石塚稲荷神社の鳥居の左側には柳橋料亭組合、右には柳橋芸妓組合の大きな文字が彫られている。地元花柳界で大事にされてきたことが良く判る。玉垣の内側に「台東区旧町名由来板」があり、旧淺草柳橋の説明が書かれている。
柳橋を渡り、両国橋東からテラスに降りて、吾妻橋まで南下。吾妻橋を渡り、隅田公園を抜けて帰宅した。本日の徘徊記録歩数10264歩、距離6.6km。
早朝のこととて本殿の扉が閉まっていて、拝見することはできなかったが、帰宅して矢先稲荷神社について調べていると、拝殿の格天井には、神代から今日にいたる「日本馬乗史」を描いた絵が奉納されているといういうことを知った。人物、馬の姿態、武具、服装などすべてが精密な考証のもとに描き上げられていて、馬にまつわる歴史が一目瞭然に理解できる貴重なものであるという。ネットあった写真を借用編集して、掲載しておこう。
春日通りから、左折して左衛門橋通りを北上する。淺草通りから左衛門橋通りのこの辺りは現在は東上野6丁目に当たり、以前は「淺草北清島町」といった。左衛門橋通りを隔てて西側一帯が松ヶ谷である。昭和38(1963)年吉展ちゃん誘拐殺人事件で有名になった南入谷公園の南に「秋葉神社」がある。境内に入ると年取った禰宜さんが掃除をされていた。竹町の秋葉神社との関係を訊ねてみたが、直接の関係はないようである。当社の縁起についていろいろと話をうかがい、最後に「11月6日には午後4時30分より、火渡り神事がありますので、好ければ是非いらしてください」ということであった。裏参道から神社を後にして、言問橋通りに出るとそのまま真っ直ぐ東進して帰宅した。10581歩、6.8kmと記録されていた。
墨田区にもおなじ名前の神社があるので帰宅後、秋葉神社について調べてみた。江戸時代から方々にあった秋葉大権現は、ここ松ヶ谷の秋葉神社とはあまり関係がないようである。当初の名は鎮火社といって、明治2(1869)年暮れの大火を受け、明治天皇の勅命により翌明治3(1870)年に現在のJR秋葉原駅構内(神田花岡町)の地に、火の神火産霊大神、水の神水波能売神、土の神埴山毘売神の三柱を祀神として勧請したのが始まりである。江戸時代の江戸の街は度々大火災が発生した事から、神仏混淆の秋葉大権現(秋葉山、静岡県浜松市)が火防(ひぶせ)の神として広く信仰を集めていたが、本来この社は秋葉大権現と直接の関係はないようである。しかし、秋葉大権現が勧請されたものと誤解した人々は、この社を「秋葉様」「秋葉さん」と呼び、社域である周辺の火除地(空き地)を「秋葉の原(あきばのはら)」「秋葉っ原(あきばっぱら)」と呼んだ。「あきば」は下町訛りで、本来の秋葉大権現では「あきは」と読む。鎮火社はいつしか秋葉社となり、明治21(1888)年日本鉄道が建設していた鉄道線(現在の東北本線)が現在の上野駅から秋葉原駅まで延長され、秋葉の原の土地が払い下げられたのに伴って現在地(台東区松ヶ谷)に移転した。その後昭和5(1930)年に秋葉神社と改名された。跡地の駅を、下町訛りを知らない官吏たちが「あきはばら」と名付けたことが、今日世界的に知られる電気街「秋葉原」の名の由来なのである。
高松城を築城し、城下町の建設に着手したのは、豊臣秀吉より讃岐国を与えられた生駒親正 (1526~1603年)である。この社は慶長年間に高松藩17万3千石の生駒家2代藩主一正(1555~1610年)が拝領した竹町中屋敷に領国の讃岐象頭山・金比羅大権現から勧請したという。東京に金比羅神社はいくつか有るが最古の神社である。生駒一正の孫高俊(1611~1659年)の時代に生駒騒動《藩主高俊は暗愚なため、外祖父の藤堂髙虎の家臣が国政を専断し、そのため反対派の家臣が幕府に提訴し、幕府は高俊を出羽矢島1万石に移封された》が発生し、改易され、出羽国由利郡矢島1万石へ減転封された。生駒家はやがて8千石の交替寄合となったが、社は産土神として残ったのだという。
昨日と同じく江戸通りを南下、蔵前橋通りを西へ。昭和通りの少し手前台東2丁目の蔵前通り面したところに朱色の鳥居が立っている。潜り口が狭く、馬鹿にのっぽの鳥居に見える。鳥居から奥は路地になっていて、その奥に本殿(拝殿)がある。「櫻稲荷神社」というらしい。縁起を書いたレリーフがあったので写真に収めたが、大変読みづらいので、ここに書きとめておく。



曰く「桜稲荷神社縁起/大正十二年東京大震災の後当時藤堂家邸内ニ鎮座マシマセシ稲荷神社の放置荒廃ヲ案ジ岡本悟一氏世話人トナリ現在境内ニ建立シアル石碑ニ記名奇特ノ方々ト相ハカリ昭和三年十一月新ニ神祠ヲ建立遷座ヲ奉ジ桜稲荷神社ト奉称今日ニ至ル/以後 大東亜戦争ノ末期昭和二十年二月二十五日空爆ニヨリ神祠破壊焼却サルモ昭和二十四年岡本悟一氏再建ス/次デ昭和二十七年四月隅井菊生氏御本体ヲ京都伏見稲荷本社に詣デ奉受シコゝニ改メテ鎮座を拝ス/昭和五十五年五月川西催隆氏ノ尽力ニヨリ祭礼用器具並二防災用具ノ倉庫構築/昭和五十六年四月祠屋ノ修理改築ヲ行フ/以上は岡本いせ氏ノ記憶ニ基キ山室利夫縁起ヲ確認ス/御本体ハ伏見稲荷大明神/行事 新年初詣祭一月十日(川西催隆氏発祥)/大祭 四月中旬金、土曜日/役員講元、講中世話人(省略)/昭和五十九年一月十日記 山室」
清洲橋通りを淺草通りまで北上。東京メトロ銀座線の稲荷町駅より、地下鉄にて浅草駅まで来ると、ここから隅田公園を通って帰宅した。以上、9249歩、6.0㎞を記録。
帰宅して櫻稲荷神社について調べるも、掲示板の記事のほかは詳しいことは判らず。
清洲橋通りを淺草通りまで北上。東京メトロ銀座線の稲荷町駅より、地下鉄にて浅草駅まで来ると、ここから隅田公園を通って帰宅した。以上、9249歩、6.0㎞を記録。
帰宅して櫻稲荷神社について調べるも、掲示板の記事のほかは詳しいことは判らず。
一昨日の日曜日は衆議院選挙、昨日月曜日は台風11号の北上で1日中荒れ模様。2日間徘徊をお休み。
今朝の東京の日の出は5時13分。5時に家を出たときはまだ暗い。

江戸通りを南下→ 蔵前通りを西に進む→ 台東1丁目→ 清洲橋通りを南下→ 台東1丁目と神田和泉町の境の通りを西へ(台東区旧町名由来板・二長町)→ 凸版印刷敷地(市村座跡地碑・千代田稲荷神社)→ 蔵前橋通りを西へ→ 浅草通り→ 東京メトロ銀座線末広町駅→ 《地下鉄にて》浅草駅→ 江戸通りを北上→ 言問橋5叉路(言問橋越しに東京スカイツリー)→ 自宅 以上、9628歩、6.2㎞



ここ下谷二長町(現台東1丁目)に市村座が開場したのは明治25(1892)年のことである。市村座は寛永11(1634)年に日本橋葺屋町に創設され、後に「森(守)田座」「中村座」と共に江戸三座とよばれるようになる。天保13(1842)年に淺草猿若町2丁目に移り、ついでここ二長町に再転するが、明治26年2月に焼失する。翌年明治27年7月に再建して東京市村座と呼ばれる。再建の劇場は煉瓦造り3階建てでその舞台では6世尾上菊五郎・初代中村吉衛門らの人気役者が上演して、満都の人気を集めたという。大正12年9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年5月に自火焼失し消滅したという。現在はその面影を伝えるものは殆んどなく、石碑(凸版印刷の正面玄関)の裏手にある菊五郎・吉右衛門が信仰したという千代田稲荷が現存する程度である。明治25年から昭和の初期にかけて450坪ほどの敷地に収容人数千数百人という大劇場が存在していたとは驚くべきことではある。



千代田稲荷神社の祭神は宇賀御魂神といわれ、その昔長禄元(1457)年太田道灌が千代田城を築城の折、武蔵国千代田郷に古くから祀られていた千代田神社を場内に遷座し、守護神としたのが始まりであるという。その後、徳川家康が慶長8(1603)年入城して千代田稲荷を城内紅葉山に移し、江戸城の守護神とする一方、江戸城拡張に当たり渋谷村宮益坂に遷宮し、神領を寄進したので江戸城守護および万民斉仰の神社として広く参詣を集めた。
歌舞伎との関連は、天保の改革によって猿若町に芝居町が形成されてから数十年が経過した頃、物価騰貴などの理由で世相は暗く猿若三座の顔見世狂言も取りやめになったためこの千代田稲荷を分社して、一陽来福と繁昌を祈願するに至った。その後明治25年に市村座が移転。同27年には近代建築に再建され、この神社も劇場の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、 昭和7年の市村座の焼失時に奇しくも類焼を免れたため、地元町会により現在地に再建され、現在に至っているという。
今朝の東京の日の出は5時13分。5時に家を出たときはまだ暗い。
ここ下谷二長町(現台東1丁目)に市村座が開場したのは明治25(1892)年のことである。市村座は寛永11(1634)年に日本橋葺屋町に創設され、後に「森(守)田座」「中村座」と共に江戸三座とよばれるようになる。天保13(1842)年に淺草猿若町2丁目に移り、ついでここ二長町に再転するが、明治26年2月に焼失する。翌年明治27年7月に再建して東京市村座と呼ばれる。再建の劇場は煉瓦造り3階建てでその舞台では6世尾上菊五郎・初代中村吉衛門らの人気役者が上演して、満都の人気を集めたという。大正12年9月の関東大震災で焼けたが再興、昭和7年5月に自火焼失し消滅したという。現在はその面影を伝えるものは殆んどなく、石碑(凸版印刷の正面玄関)の裏手にある菊五郎・吉右衛門が信仰したという千代田稲荷が現存する程度である。明治25年から昭和の初期にかけて450坪ほどの敷地に収容人数千数百人という大劇場が存在していたとは驚くべきことではある。
歌舞伎との関連は、天保の改革によって猿若町に芝居町が形成されてから数十年が経過した頃、物価騰貴などの理由で世相は暗く猿若三座の顔見世狂言も取りやめになったためこの千代田稲荷を分社して、一陽来福と繁昌を祈願するに至った。その後明治25年に市村座が移転。同27年には近代建築に再建され、この神社も劇場の守護神として正面表口に祀られた。以後、市村座と興亡を共にしたが、 昭和7年の市村座の焼失時に奇しくも類焼を免れたため、地元町会により現在地に再建され、現在に至っているという。
本日は、少々ルートを変えて北コースで上野公園迄行き辺りを徘徊してみることにした。
本日の徘徊ルート 言問通り→ 昭和通→ 両大師橋→ 公園大噴水→ 上野公園8丁目(上野東照宮)→ 動物園通り→ 上野中央通(上野公園正面出入口)→ 東京メトロ上野駅→ 《地下鉄にて》浅草駅→ 江戸通り→ 自宅 以上 本日の記録は8530歩、5.5㎞。
1616年、2月4日、お見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎(とうどうたかとら、1556~1630年)と天海僧正(1536~1643年)は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作って欲しいという遺言を受けた。そこで藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営した。1646年には正式に東照宮の宮号を授けられた。1651年に三代将軍・(1536年~1643年)徳川家光公(1604〜1651年)が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿である。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれている。当時は東叡山寛永寺の一部であったが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立した。その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物である。




東照宮とは、徳川家康公(東照大権現、1542〜1616年)を神様として祀る神社である。日光東照宮、久能山東照宮が有名ですが、全国各地に数多くある。そのため、他の東照宮と区別するため上野東照宮と呼ばれているが、正式名称は東照宮であるという。春はぼたん・桜の名所として、秋は紅葉狩り、お正月は初詣や冬ぼたん鑑賞の人々で大変賑わい、開運・学業などの祈願成就を願う人が後を絶たないという。また、本格的な江戸建築を間近で見られる神社として、この頃は外国人観光客も多く見かけられるという。
1616年、2月4日、お見舞いのために駿府城にいた藤堂高虎(とうどうたかとら、1556~1630年)と天海僧正(1536~1643年)は、危篤の家康公の病床に招かれ、三人一つ所に末永く魂鎮まるところを作って欲しいという遺言を受けた。そこで藤堂家の屋敷地であった上野に1627年に東照宮を造営した。1646年には正式に東照宮の宮号を授けられた。1651年に三代将軍・(1536年~1643年)徳川家光公(1604〜1651年)が大規模に造営替えをしたものが、現存する社殿である。金箔をふんだんに使い、大変豪華であったことから「金色殿」とも呼ばれている。当時は東叡山寛永寺の一部であったが、戦後神仏分離令により寛永寺から独立した。その後、戦争や震災などの災厄に一度も倒れることなく、江戸の面影をそのまま現在に残す、貴重な文化財建造物である。
境稲荷神社の創建年代は不明だが、文明年間(1469~87年)に室町幕府の9代将軍足利義尚が再建したと伝えられている。社名は、この辺りが忍ヶ岡(上野台地)と向ヶ岡(本郷台地)の境であったことに由来するという。かつての茅野(現池之端一、二丁目の一部)の鎮守として、今も崇敬されている。
境内の北側の一画、東大付属病院北門のすぐ近くに「弁慶鏡ヶ井戸」という井戸がある。源義経主従が奥州平泉へ落ちて行く途中、弁慶が見つけて一行が渇きをうるおしたと伝えられている井戸である。伝説はともかく、昔は名水として評判だったようである。かつての神社の別当三光寺の山号を「原泉山」といったのも、この井戸に由来したものと推定されている。一時、埋め立てられたが、昭和15(1940)年、再び掘り返された。それで東京大空襲のときに、火に追われた被災者のために大いに役立ったという。そばの石碑は、再掘削の記念碑である。表には「此の井水は往昔より清冽明澄なる事鏡の如く里人呼んで辨慶鏡ケ井と称へたる名水な里・・・・・・」と刻まれている。裏面にある建碑者の連名の中に近隣に住んでいた日本画壇の重鎮横山大観(1868~1958年)の名も見える。現在、井戸はコンクリートの蓋がしてあるが、今では懐かしい手動のポンプがあって、それをこげば冷たい水が出てくるが、そばの立て札には「この水は飲めません」とある。
お狐さんが溢れるかえる江戸のお稲荷さんのなかで、あえて狛犬を奉献している稲荷社には、比較的古社(江戸前期以前)が目立つように思える。先代が狛犬ならば、新しく奉献するときには、また狛犬を奉納するのだろう。ここ七倉(しちくら)稲荷神社は、元々蔵前にあった、7つの蔵の守護神だったという。この辺りはその昔、七軒町といったらしいが、これとは全く関係ないらしい。3代将軍徳川家光(1623~51年)の頃、この辺りは武家屋敷であったらしい。本町の起立年代ははっきりしないが、武家方と寺方そして町人7人がこの土地を買い求めて7軒の家が建ったので、七軒町の名がついたということである。
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目高 拙痴无
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1932/02/04
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