瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
午前9時、江戸通りを南下、厩橋を渡り、清澄通りを南に100mほど進むと横網2丁目の信号がある。左折して東に向って歩くと、墨田区立外出小学校があり、その東に若宮公園がある。公園の北西隅は隅は、言問橋東にある牛嶋神社の摂社(本社に付属しその祭神との縁の深い神を祀った社で、末社よりは格が上)である若宮牛嶋神社がある。

牛嶋神社祭礼日の9月15日は、貞観の昔に初めて祭祀を行った日といわれている。現在では式典のみが執り行われ、前後の週末に各町で神輿の渡御などが行われる。氏子数は50町会にも上り、墨田区の約1/3(南西部)がこれにあたるという。大祭(次回は平成24年、鎮座1155年祭)は5年に1度しか行われず、規則的に行われている大祭では最も間遠になっているが、その熱気はすごいものだという。木曜日の夕刻には本殿より御鳳輩へ御神霊を移す遷霊祭が行われ、翌金曜日、そして土曜日の2日間は福島県相馬郡で委託飼育されている黒雄和牛が引く鳳輦を中心とする古式豊かな行列が氏子全町約37㎞を安泰祈願巡行をする神幸祭が執り行われ、途中、此処本所二丁目の摂社牛嶋神社(若宮)で一泊して翌日還御する。そして、日曜日には氏子全町大神輿約50基の連合渡御が行われる。第1組の両国・亀沢・緑・錦糸町地区は北斎通りに、第2組の本所・石原・東駒形・吾妻橋地区は春日通りに、第3組の向島・小梅・押上・業平地区は小梅通りにそれぞれ集合して牛嶋神社に向かうのである。
若宮牛嶋神社を後に春日通を東に四つ目通りまで歩く。四つ目通りを北上、京成橋を渡ると押上商店街を抜けて、桜橋通りを西に進んで帰宅した。東京スカイツリーは8月の末には100mを超えたと言うが、日を追って目に見えて高さを増しているようである。本日の徘徊記録、10145歩、6.5㎞となった。
来年の春には長男の結婚式を福岡で行うので、結納に上京したのだという。夕刻は高校時代の在京同期生の歓迎会かあるとかで、昼食を共にして別れた。
今朝は朝食後、言問橋を渡り、三つ目通りを南下。北斎通りを西進し、野見宿禰神社に立ち寄る。清澄通りから日大1高(1中)と東京江戸博物館の間の遊歩道を抜けて安田庭園前に出る。何時もは早朝と言うこともあって庭園は開いていないのであるが、今日は公園内を散策してみる。庭園内案内図を見ると駒止稲荷というのがあったので立ち寄ってみた。正面玄関から出て、安田庭園を後にすると、両国公会堂脇から隅田川のテラスに降りて、吾妻橋まで北上し、吾妻橋を渡って、隅田公園を抜けて帰宅した。吾妻橋の西袂では淺草水上バスステーションの新設工事が始った模様である。10268歩、6.6㎞を記録。
本日も朝食後の徘徊。両国橋まで昨日と同じコース。本日は両国3丁目界隈を徘徊。
京葉道路の両国2丁目の信号を右に入り、3つ目の路地を左折するとこの路地を挟んで右に飯澄稲荷、左に赤穂義士遺蹟・吉良邸跡がある。飯澄稲荷には由緒らしき石碑も案内板もないので、よく判らないが、この辺り一帯が吉良邸であったことを考えれば、恐らく吉良邸内にあったものだろう。

吉良邸跡は何回か訪ねたことがあるが、現在吉良邸跡として残る本所松坂公園は29.5坪(98㎡)で当時の86分の1に過ぎない。この吉良家上屋敷は東西73間(約134m)、南北34間(約63m)という広大なもので、上野介がこの屋敷を拝領したのは元禄14(1701)年9月、義士の討入りがあって没収されたのが元禄16年2月と、前後1年半に満たない僅かの期間であった。



小さな潜戸から公園内部に入ると「松坂稲荷大明神」の鳥居がある。これと並んで吉良上野介追慕碑、吉良家家臣二十士碑があり、南東の片隅に首洗いの井戸がある。
松坂公園を後にして京葉道路に出ると清澄通りを北上、日大付属1高(1中)前、横網公園前を通り抜けて、墨田区役所前から枕橋、言問橋を渡って帰宅した。本日の記録は11242歩、7.3㎞とあった。
どうした訳か、今朝は寝坊してしまい早朝徘徊は止めにした。
朝食後、昼間の徘徊はどんなものかと両国橋まで昨日と同じ道筋をたどってみた。柳橋から両国橋を渡った付近は京葉道路の始るところで、この付近は墨田区の両国1丁目である。すなわち、両国1丁目は京葉道路によって南北にわかれている。凡そ数字1桁の番地は南、2桁の番地は北に存在するようである。

最南端の細い路地を通っていると朱色の鳥居が見えるので訪ねてみた。鳥居の額には「伏見・小林稲荷神社」とあるが、由来等については一切掲示がない。伏見の名があることから恐らく京都の伏見稲荷から勧請したものであろう。この路地の1つ北側の道路には春日野部屋がある。

一つ目通りから京葉道路を横切り、ジグザグに北上していると総武線の高架線の近くの路地に朱色の鳥居が見えるがここにも何の案内板もない。鳥居を潜ると左手に拝殿があり、よくよく見ると古ぼけた板が2枚ならんでおり、「米山神社」「栄稲荷」と書いてある。これら2つの稲荷神社について帰宅後ネットで調べてみたが、名前はあっても、由緒などについては何の手がかりも得られなかった。
総武線の高架線を潜り、両国国技館の前に出た。九月場所も今日で6日目、相も変わらず外国人力士ばかりが話題になり、日本人力士は影が薄い感じだ。

水上バスの乗場から、テラスに降りると、目の前を小さな曳舟がでかい浮き桟橋を曳いて隅田川を溯っている。この曳舟、テラスを北上する爺とほぼ同じ速さで、何時までたっても爺の横にへばりついたままであった。川を下ってくる水上バスも、すれ違うときには何だか小さく見えた。
吾妻橋を渡って、隅田公園を抜けて帰宅した。11390歩、7.4㎞を記録していた。
朝食後、昼間の徘徊はどんなものかと両国橋まで昨日と同じ道筋をたどってみた。柳橋から両国橋を渡った付近は京葉道路の始るところで、この付近は墨田区の両国1丁目である。すなわち、両国1丁目は京葉道路によって南北にわかれている。凡そ数字1桁の番地は南、2桁の番地は北に存在するようである。
吾妻橋を渡って、隅田公園を抜けて帰宅した。11390歩、7.4㎞を記録していた。
江戸通りを南下、何時ものように柳橋から両国橋を渡り、一つ目通りを南下する。一之橋を渡り暫く進むと、江島杉山神社がある。

江島杉山(えじますぎやま)神社は神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天(市杵島比売命)と、鍼術の神様・杉山和一(1610~94年)総検校(そうけんぎょう)が祀られている。弁財天は全ての願いを叶えてくれる神様となっているが、特に芸能上達に通じているという。杉山和一は、鍼の神様、視覚障害者の先駆者、視覚障害者に鍼・按摩を職業として与えてくれた人として尊敬されている。



杉山和一は、三重県津市の出身で江戸時代初期の人であるが、幼くして失明し、江戸に出て山瀬琢一に鍼術を学び、更に江ノ島弁天の岩屋に篭り鍼術の一つである管鍼(くだはり・かんしん)術を授かった。その後和一は、京都に行き入江豊明にも鍼術を学び、再び江戸に戻り鍼の名人として有名となる。この和一の名声を聞いた五代将軍徳川綱吉が、和一を「扶持検校[ふちけんぎょう]」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせた。しかし、高齢だったために侍医・御典医という役職には就かなかった。和一はすでに多くの弟子を教育していたので、代わりにその弟子達が江戸幕府や大名の鍼科の御典医となった。綱吉は和一に、江ノ島弁天に月参りをして感謝しているのを不憫(ふびん)と思い、元禄6年(1693)5月16日に当地本所一つ目に1860坪余りの屋敷を賜い、同6月18日には弁財天像、先の屋敷内西側989坪余りに弁財天の社地を下賜したのである。当地下賜の逸話に、綱吉が和一に「何かほしいものはないか」と問われ、「一つ目が欲しい」との返答に当地が撰ばれたと言う。
和一は、鍼治療に際し管の中に鍼を入れるという方法を創案・大成した。これは現在日本の鍼治療の方法の主流となっていて、世界にも伝わっている。杉山流鍼治は和一が延宝8 (1680) 年には視覚障害者に鍼・按摩を教育した世界一古い障害者教育でもあるという。江戸時代の後期より本社二の鳥居の手前・南側にその教育施設「杉山流鍼治稽古所 四間余二五間」が在った。二の鳥居の手前・南側、拝殿に向かい右手に「贈正五位杉山検校彰徳」の石碑がある。和一の業績が認められ、大正13年2月11日に正五位が追贈されたのを記念にして作られた世界に一つしかない点字の石碑であるという。石碑の上部には「杉山検校頌徳碑」の文字。その下には杉山検校の肖像のレリーフ。さらにその下に遺徳を点字で記した金属板がはめ込まれている。曰く、「贈 正五位 杉山 検校 頌徳碑/天つ日昇りましてもの皆明し。 杉山 検校 現れまして世のやもうどと盲いとは皆済われたり。杉山検校和一は慶長十五年伊勢の国の津に生れましき。いとけなくして盲いとなられければ鍼の道を究めて世を済わばやと志し江戸に出でて山瀬検校に学びけれども あかぬ節々多かりければ 終に江ノ島の宮居に詣でて おしものをさえ断ちて祈りを籠められけり。 願 果つる 夜の夢に管と鍼とを得て驚き欣びここに初めて管鍼の業は世に現れたり。後 京都に行きて 入江豊明に 学びあるは自ら究め身を砕き時を重ねて終にその上に栄えし鍼の博士の道をあからめ 元禄二年 五月 徳川の五代将軍に召されて奥医師となられけり。こはまさしく鍼科が内科外科と並びてくすしの道の 一科となれりしなり。五百歳余り 廃れたる道の興したるにて いみじき御功にこそ 東山天皇の御世元禄五年四月に盲官の式目を改めさせられ総検校を江戸に置かせらるることとなりてこの検校ぞ先ず総検校に挙げられける /扶持八百石かづけられ江戸本所 一ツ目の橋の傍らに広らかなる大宅をさえたばせられぬ。ここに 鍼の道の学び舎を建てて名を北は陸奥より南は筑紫の国に至るまでこの道の学び舎を置き ひろく学ばされしかばくぬちの盲いらここに学びてその業を得けり。星移りもの変われどもいま鍼の道にかかずらう者五百たれかはこの 検校の御影に依らざるべき。世に育まるべき盲いにしてかえりて世を済い世を過ごすたずきを得つるは 異国々に例なきことにしてこは皆この検校の御功なり。元禄七年 検校 八十路余り五つという年の五月十八日病にて身罷られぬ。著しし書に医学 節用集、撰鍼 三要集、療治乃 大概集ありて長くこの 道の鑑なり。 天皇この検校の御功を記し給いこたび東宮の御慶事を折りとして正五位を贈らせらるる貴きろかも 畏きろかも 畝傍の宮柱太しく仕え奉りしより三千歳に近くすがれたる人々いやつぎつぎに現れしかど盲いにしてかかる 御功 立てたる人は類あらじかし。ここにこの御影による遠近の人々諮りて大正十三年五月十八日二百歳余り五十歳の祭りに仕りてその形見にとてこの碑を検校がおわしし所と偲びつつここに建つることとはしつその 々が 筆執りてより言わるるままに ふじのや あろじ なおまさ 記す 《花は 笑み 波は さざめく ぬばたまの/闇を 払ひて 日の 出づる とき》昭和 五年五月 検校の二百八十歳の祭りもとどこおることなく済ませける。この 形見にと 年古りてこぼちける この碑も読み難くなりしかば新たにその板作りなし ここにしふくなせり /財団 法人 杉山 検校 遺徳 顕彰会/(板 製作者 せと せんぞー)」




なお、拝殿の右側の奥には岩屋があるが、和一が江ノ島弁天の岩屋にこもり管鍼術を創案したことに由緒があり、それにちなんで造られたものである。中には宗像三神・宇賀神(人頭蛇尾)、杉山和一の石像が祀られている。境内社の杉多稲荷神社については何も判らない。

江島杉山神社の南面の鳥居の前の道を東に進み千歳葉橋を渡って北上すると墨田区教育委員会とぶらり両国街かど展の案内板が並んで建っている。尺振八と彼が創設した共立学舎跡についての説明が書かれていた。京葉道路に出て、東に進むと程なくここにもぶらり両国街かど展の案内板があり、此処に江戸時代の将棋の御三家の1つである伊藤宗印の屋敷跡がこの辺りにあったことを知る。
京葉道路をさらに東へ進み、三つ目通りを北上して帰宅した。本日の記録12741歩、8.2㎞なり。
京葉道路をさらに東へ進み、三つ目通りを北上して帰宅した。本日の記録12741歩、8.2㎞なり。
江戸通りを南下、浅草橋をわたる。

浅草橋を過ぎての直ぐの道を左折すると初音森ビルの前に朱色の鳥居があり、2階へ通じる階段があり、階段横には小祠が設えてある。お狐様が鎮座ましますところを見るとお稲荷さんなのであろう。この初音森ビルの2階に神殿・儀式殿があり、1階はガレージとなっている。階段を昇り、ガラス戸越しに儀式殿の中を覗くと、なかなか立派な小奇麗なもので、ちょっとした結婚式ぐらいは挙げられそうだ。昨日訪れた墨田区千歳にある本社は寂れた祠という感じであったが、もともと神社にとっても氏子にとっても、本社の位置は不便極まりないもののようで、敢えて無理に立派な社殿を構えようということにはならないのだろう。よほど経済的に余裕がないと手が回らないということだろう。

初音森神社の創建は元弘年間(1331~34年)で、文明年間(1469~86年)太田道灌により社殿が造営される。当時の鎮座地は、初音の里と呼ばれていた現在の儀式殿のあたりで、初音稲荷と称していた。天文20(1551)年社前に馬場ができた。初音稲荷に因んで初音の馬場と呼ばれ、初午祭などには馬追などが行われたという。ここで馬を商うために博労たちが集まったのが馬喰町である。また慶長5(1600)年関ヶ原の合戦へと出陣する徳川家康は、この馬場で馬揃えをしたという。しかし、浅草見附門の建設のために社地の半分を削られ、さらに明暦の大火の後、郡代屋敷建設のため、現在本社がある墨田区千歳へと遷座した。氏子は元の土地に残ったため、神社と氏子が離れる結果となった。祭礼の時など、わざわざ隅田川を渡って神輿を運び、氏子地域を巡ったという。このような不便を解消すべく、昭和23(1948)年かつての初音の里に神社を建立。さらに昭和48(1973)年神殿・儀式殿を備えたビルとしたのだという。 ある程度のことは昨日の段階で調べておいたのだが、引き返して階段を下りるときに階段の壁に由緒書きが掲示されていることに気付いた。
初音森神社を後にして、両国橋を渡り、国技館通りを通って国技館の前に出た。両国の町の方々には「ぶらり両国街かど展実行委員会」の名前で案内板が立っている。両国橋から国技館を過ぎるまでに3つの案内板をみた。京葉道路沿いに「小泉町跡」、総武線ガードを過ぎたところに「百本杭跡」、国技館を過ぎたところには「御蔵橋跡」それぞれの案内板が立っていた。



両国公会堂の傍にあるテラスの昇降口から、テラスに降りて昨日と同じように北上し、吾妻橋を渡って隅田公園を抜けて帰宅した。10259歩、6.6㎞の徘徊であった。
両国公会堂の傍にあるテラスの昇降口から、テラスに降りて昨日と同じように北上し、吾妻橋を渡って隅田公園を抜けて帰宅した。10259歩、6.6㎞の徘徊であった。
江戸通りを南下、蔵前橋通りからジグザグコースで柳橋に出る。柳橋を渡り、靖国通りを横切った処に案内地図があり、それに拠るとすぐ近くに川上稲荷神社というのがあったので、立ち寄ってみた。

川上稲荷神社の祭神は宇迦之御魂神で今から378年前、寛永5(1628)年7月の創建と伝えられる。古来「川上稲荷」と称し、江戸幕府の乗船場に在ったもので、明治2年4月、新開の街となるに及び神域を当地に移して崇敬しているという。明治6年1月より神田神社の兼務社となり、昭和20年戦禍にて烏有(うゆう)に帰したが、昭和63年、近隣町民有志にて再建されたそうだ。
川上稲荷を後に浜町河岸を南下、もうすっかり秋で川風が肌に冷たく感じられる。テラスの昇降口に上って今来た道を振り返ると両国橋と総武線の鉄橋が一望に見渡せる。暫くの間台東区の西側部分を徘徊していたので、新大橋を渡るのは久し振りである。橋を渡るとそこは江東区。一つ目通りを北上、最初の信号を右に取ると墨田区千歳2丁目に入る。ここに初音森神社というのがある。



初音森神社の創建は600年ほど前とされる。当初「初音の里」(現日本橋馬喰町)にあり、明暦の大火(1657年)後、付近の社寺とともに、当時下総国だった現在地に移転した。しかし現在ここには社殿はなく、日本橋の旧跡に儀式殿が建立されているという。境内にある社は寶録稲荷神社で、狛犬もこの神社のもの。吽像は失われ、擬宝珠を付けた阿像のみが残されている。

寶録稲荷神社の右手に半分壊れかけたそれこそ私庭にあるような小さな祠がある。右横に祠より大きな「富福稲荷神社」の石碑が立っていて、何やら碑文が刻んであるようだがよく読み取れない。初音森神社を後に一之橋に向って歩いていると、ビルの隅のちょっとした空き地に個人のものであろう名前の判らない小祠があった。まあ、この辺りの下町ではあまり珍しいことではない。
一之橋の手前に街角案内板があり、新大橋からこの辺りにかけて御船蔵があったらしい。戦国時代から江戸時代前期にかけて、木造の戦艦が多数建造されたが、大型の木造戦艦の一種に「安宅(あたけ)船」と呼ばれるものがあった。寛永9年(1632)以来、そうした当時の戦艦を係留する場所のひとつがこの地であった。安宅船は、当時としては最大限の工夫をこらして建造した大型戦艦ではあったが、龍骨がなく、構造的に弱さがあり、大きすぎて機動性に欠けて、実は役に立たない船であった。そういうこともあり、半世紀のちの天和2年(1682) ここに係留していた安宅船は解体されることになり、この地は御船蔵跡となった。御船蔵跡にできた町は、この「あたけ」にちなんで「あたけ町」と呼ばれるようになった。

一之橋を渡るとそこは両国。一つ目通りによって西が1丁目、東が2丁目である。京葉道路に出る2・3本手前の道を左折すると春日野部屋がある。部屋の前の道路で2人の力士が座り込んでいるので、許しを得てカメラに収めた。一人の力士に四股名と番付を聞くと「3段目の《栃の濱》す」と答えが返ってきた。
京葉道路に出ると「もゝんじや」の前にも街角案内板が立つていた。もゝんじやは江戸時代から続く肉料理店であるという。京葉道路を横断するとそこは国技館通り、総武線の高架線の手前に「陸奥部屋」がある。

陸奥部屋は同じ一門の井筒部屋に所属していた元大関霧島が元幕内星岩涛から継承した部屋だと聞く。格子の間の金網の入ったガラス越しに中の稽古場が見える。6・7人の人が格子の間に顔を入れてガラス越しに稽古場を覗いていた。格子の間にカメラを入れてガラス越しに稽古場を収めた。

両国の町は昨日は九月場所の初日。両国国技館前は沢山の幟が立ち並び、広場のあちこちには何時もより沢山の自動車が留めてあり、何となく活気付いている。国技館前を過ぎて、隅田川沿いの道を北上。蔵前橋東でテラスに降りて、何時ものように吾妻橋を渡ると隅田公園を抜けて帰宅した。
本日の記録は16953歩、9.0㎞。少々歩き過ぎたかな?
初音森神社の創建は600年ほど前とされる。当初「初音の里」(現日本橋馬喰町)にあり、明暦の大火(1657年)後、付近の社寺とともに、当時下総国だった現在地に移転した。しかし現在ここには社殿はなく、日本橋の旧跡に儀式殿が建立されているという。境内にある社は寶録稲荷神社で、狛犬もこの神社のもの。吽像は失われ、擬宝珠を付けた阿像のみが残されている。
本日の記録は16953歩、9.0㎞。少々歩き過ぎたかな?
銀杏岡八幡神社を跡にすると、総武線に沿って左衛門橋通りに出ると、これを言問通りまで北上。言問い通りを東へ進んで帰宅した。今日の記録は12020歩、7.8㎞とあった。
江戸通りを南下、蔵前橋通りとJR総武線の中間辺りに須賀神社がある。


須賀神社の祭神は素蓋鳴尊。当社の「嘗社牛頭天王線起」(1642年当社別当による奥書あり)によれば、当社は尾張国津嶋牛頭(ごず)天王の勧請とある(愛知県津島市の津島神社と思われる)。推古天皇時代に疫病が流行ったが、このあたりに神詞があり在郷の人々がこれに祈ったところ病が治ったそうで、これを創祀としている。当社に所蕨される「天王塚碑文」には、《推古天皇9年に疫病が流行ったとき、当地に法喜という隠者がいた。あるとき白衣の異人が海岸に現れ(身長三丈余という、約9m)、「我は牛頭天王なり我を祀れば疫病を避けることができる」と言った。法喜が顔をあげると異人は消えており、どのように祀ったらよいのか思案してると、旅僧がやってきてこの話を聞き、『有合う木』で牛頭天王の像を彫って去った》とあるという。江戸中期の「求涼雑記」には、誰が勧請したかわからず、明和元(1764)年頃から700年前であるから天暦(947~957年)であろうと書かれている。江戸名所図絵でも天暦年中の鎮座であるとしているから同じ情報源かもしれない。これらが正しいなら当社が牛頭天王を祀るようになるのは950年頃とみるのが妥当であるようだ。推古時代に法喜という隠者がいたというのはそれ以前からなんらかの祭祀が行われていたことを示すものであろう。隅田川上流の隅田川神社には往古に海神が上陸したという伝承がある。

鎌倉初期には江戸重長が現在の皇居付近に江戸城を初めて築いている。吾妻鏡、源平盛衰記、義経記などによると江戸重長は「八ケ国の大福長者」であり、多数の漁民を支配して西国の船数千艘があったという。数千艘は誇大にせよ、少なくとも鎌倉初期では近畿や九州方面と交易していたことが窺がえる。推古時代になんらかの有力豪族が太平洋航路で交易していた可能性も十分ある(輸出したのは鉄、硫黄、馬といったところか)。 当社では海岸に異人が現れたとしており、尾張の津嶋牛頭天王社が海部郡(往古の津島市付近は海)にあることから海人系とのつながりによる祭祀がまずはあり、後に津嶋の牛頭天王が運ばれて重なった可能性がみえる。 八坂神社(祇園社)縁起によれば、656年に高句麗の使者が新羅の牛頭山の素盞鳴尊を山城国愛宕(おたぎ)郡八坂郷に祀って八坂姓(馬養部)を賜ったことを縁起としいる。牛頭天王の登場はこれ以降と見るのが妥当と思われる。

千住の素盞鳴神社でも延暦14(795)年に黒珍なる者の前に老翁が現れて牛頭天王を名乗る縁起がある。また法喜や黒珍といった名が残るところからは牛頭信仰の広まりには僧侶等が介在している可能性もみえる。江戸時代での当社は、祇園社、蔵前牛頭天王、江戸神社、団子天王様、団子様などと呼ばれていた。蔵前は武士の禄米を金に換えるなど米商人(札刺)が多数いて祭礼も盛んで、当時の江戸十社に含まれていたらしい。明治の神仏分離令によって社名が須賀神社に改名されている。当社の祭事に笹団子があるが、病治癒を感謝して団子が供えられたことが由来である。
須賀神社の裏手に学制発布よりも先に開校したという東京で最も早い公立小学校といわれる育英小学校がある。須賀神社と育英小学校の間辺りを歩いていると「玩具会館」というビルの植え込みの中に石碑のようなものがあったので覗いてみると「閻魔堂跡」とあった。江戸名所図会にある閻魔堂のあった場所なのだろう。それにしても折角ある石碑もこれでは何の役にも立っていないようだ。
神田川の北側を通り、柳橋から両国橋を渡り、何時ものようにテラスを北上し、吾妻橋を渡って隅田公園を抜けて帰宅した。公園の方々には彼岸花が見られた。本日の記録は11650歩、7.5㎞となった。
須賀神社の祭神は素蓋鳴尊。当社の「嘗社牛頭天王線起」(1642年当社別当による奥書あり)によれば、当社は尾張国津嶋牛頭(ごず)天王の勧請とある(愛知県津島市の津島神社と思われる)。推古天皇時代に疫病が流行ったが、このあたりに神詞があり在郷の人々がこれに祈ったところ病が治ったそうで、これを創祀としている。当社に所蕨される「天王塚碑文」には、《推古天皇9年に疫病が流行ったとき、当地に法喜という隠者がいた。あるとき白衣の異人が海岸に現れ(身長三丈余という、約9m)、「我は牛頭天王なり我を祀れば疫病を避けることができる」と言った。法喜が顔をあげると異人は消えており、どのように祀ったらよいのか思案してると、旅僧がやってきてこの話を聞き、『有合う木』で牛頭天王の像を彫って去った》とあるという。江戸中期の「求涼雑記」には、誰が勧請したかわからず、明和元(1764)年頃から700年前であるから天暦(947~957年)であろうと書かれている。江戸名所図絵でも天暦年中の鎮座であるとしているから同じ情報源かもしれない。これらが正しいなら当社が牛頭天王を祀るようになるのは950年頃とみるのが妥当であるようだ。推古時代に法喜という隠者がいたというのはそれ以前からなんらかの祭祀が行われていたことを示すものであろう。隅田川上流の隅田川神社には往古に海神が上陸したという伝承がある。
因みに、姓は違っても名は同じく甚内と称した高名高い賊が江戸市中を徘徊した記録が残っている。日本、支那、朝鮮に輩出した巨盗大賊の伝記『緑林黒白』に曰く、「庄司甚内というは同じ盗賊ながら日本を回国し、孝子孝女を探し、堂宮の廃れたるを起こし、剣鎗に一流を極め、忍術に妙を得、力量三十人に倍し、日に四十里を歩し、昼夜ねぶらざるに倦む事なし。/飛沢甚内というは同列の盗賊にして、剣術、柔術は不鍛錬なれど、早業に一流を極め、幅十間の荒沢を飛び越える事は鳥獣よりも身軽く、ゆえに自ら飛沢と号す。/勾坂甚内の生長は…(以下、前述事項と重複のため略)」 庄司甚内(1575~1644年)は詳細は定かではない(父の又左衛門は北条家臣であったという)が、1617(元和3)年、自ら発起人となって幕府に遊郭の設置を要望し、幕府の許可が下りたという。自らは江戸日本橋に遊郭を開設し、一代で財を成したという。1644(正保元)年に70歳で没したが、その後も「甚右衛門」の名跡は庄司家に代々受け継がれていったらしい。飛沢甚内は元は小田原浪人で江戸で盗賊宿を営んでいたが、後に盗品があれば届け出ることを条件に幕府より古着の専売権を得た。その仲間たちも古着商を営み、その一帯は日本橋鳶沢町(富沢町)となったのだという。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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