瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
風邪がぶり返したらしい。咽喉がいがいが、洟水たらたら、徘徊は取りやめる。
本日のウェブニュースに曰く、《「真実追求、将来に有益」沖縄密約証言の元局長 ―― 1972年の沖縄返還を巡る「密約」の存在を、当時の外務省局長が公の場で証言した。東京地裁で1日、開かれた情報公開訴訟の法廷。吉野文六・元外務省アメリカ局長(91)と、密約の存在を訴え続けていた原告の元毎日新聞記者・西山太吉さん(78)が約37年ぶりに法廷で顔を合わせた。/ 証人尋問が行われたのは同地裁の103号法廷。吉野氏がいったん法廷を出ようとしたとき、原告席にいた西山さんが立ち上がってがっちりと握手し、笑顔で吉野氏の肩をたたいた。/吉野氏は、西山さんが約37年前、国家公務員法違反に問われた同じ東京地裁の公判で証人として出廷し、密約の存在を否定していた。この日の尋問後、東京・霞が関の司法記者クラブで開かれた記者会見で西山さんは、「法廷という厳正な場所で証言してくれた。相当の覚悟があってのことで、信ぴょう性を高く評価している」と感慨深げに話した。/一方、吉野氏も尋問後の記者会見で、「西山さんがたくさんの時間をかけて裁判に挑んでおり、信念の強さに感心していた」と評価。報道機関の取材に対して密約の存在を認めてきたが、法廷で証言した理由について問われると、「過去の真実を追求することが、日本の将来のために有益と信じるようになった。歴史を忘却したり歪曲(わいきょく)したりすると、歴史を作る国民にとってマイナスになることが大きい」と話した。/この日午後開かれた口頭弁論では、吉野氏が駐日米公使との間で、沖縄返還協定などで米側が支払うとされていた米軍使用地の原状回復補償費400万ドルと米短波放送中継局の国外への移転費1600万ドルを日本側が肩代わりすると、秘密裏に合意したと証言。局長室で公使と会い、合意文書に「BY」と、イニシャルで署名したことも認めた。/補償費の合意文書の作成経緯については「公使から、米議会から追及された場合に説得するためと要請された」と説明。文書の写しは、「日本側の立場では必要はないので処分したと思う」と述べた。(2009年12月2日09時59分 読売新聞)》
王戎(おうじゅう、234~305年)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。魏、晋に仕えた。字は濬沖(しゅんちゅう)。徐州瑯邪(ろうや)郡臨沂(りんぎ)県(山東省臨沂市)の出身(瑯琊王氏)。祖父は幽州刺史(ゆうしゅうしし)を務めた王雄(507~564年)、父は涼州刺史を務めた王渾(生没年不詳、王渾玄沖とは別人)。従弟に王衍。子に王万、王興、娘『晋書』に伝がある。幼いときはその神童ぶりに定評があり、曹叡(206or204~239年、明帝)や阮籍にも認められていた。阮籍は父の王渾とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。涼州刺史であった父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問におとずれたが、王戎は付け届けの類をすべて受け取らず、名声を高めた。王戎は体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼にこだわることはなくなった。話し好きで知られ、酒をたしなみながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐におもむく鍾会(225~264年)に相談を持ちかけられた際に、道家の言葉を引きつつ語った発言は鍾会の運命を見通したものであったため、識者に評価された。父の爵位を継ぎ、司馬昭(211~265年、晋の太祖文帝)の招聘を受けて以降、魏、晋で官職を歴任することになる。相国の縁から吏部黄門、散騎常侍、河東太守、荊州刺史と出世を重ねたが、荊州刺史のときに役人を私的な用事に使ったために免職となりそうだったのを、罰金で済まされた。その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。279年からの呉侵攻(晋が呉を滅ぼした戦い)では、呉の武昌(現在の武漢氏武昌)に侵攻して王濬(おうしゅん、206~285年)と共に呉を滅亡に追い込む武功を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いもかけられた。武帝(236~290年、司馬炎)はそれを庇っている。『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで上ったとしている。光録大夫・吏部尚書まで官職が上ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、母に対して親孝行であったために、見る見るうちにやつれていった。その様は劉毅(?~285年)に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は王戎に薬を与え医者にかからせた。武帝の没後、外戚の楊駿(ようしゅん、?~291年)が実権を握ると、太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公司馬繇((?~304年)が勝手な振る舞いをしたためこれを諌めた。司馬繇はまもなく罪を得て失脚した。王戎は光禄大夫、中書令となった。王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。王戎がそれでも地位を保てたのは外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。297年、官位はついに三公である司徒まで上ったが、300年に娘婿の裴頠に連座し免職となった。その後も政府の要職にあったに関わらず八王の乱(西晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱)の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかったが、それゆえ殺害されることもなかった。305年没。子の王万は若死し、王興は庶子であったため家に入れず、縁戚の者に跡を継がせた。
幼い頃から「神童」と呼ばれ、回りからちやほやされて育った王戎――若い頃から阮籍らと交流をしていくうちに、彼らを理想とし、将来は自分も隠遁生活を送りたいと思っていただろう。ところが現実はそう甘いものではない。仲間の一人、嵆康が処刑されてしまった。王戎は嵆康にも強い憧れを抱いていたと思われる。その嵆康は、自分の意志を貫き通したばかりに処刑されるという憂き目に遭った。それを目の当たりにした王戎は戸惑い、同時に世の中の厳しさを改めて思い知る。そして、阮籍も嵆康の死後一年でこの世を去る。人生の師とも言うべき二人を失った王戎は、その後全く生き方を変え、自分なりの韜晦(とうかい)法として吝嗇(りんしょく)を選んだ。王戎が吝嗇という道を選んだのはなぜだろうか。古今を通じて様々な人がその理由を論じてきたらしい。
《王戎の利殖行為と極端な物惜しみについては、当時からさまざまな見方があった。/曰く、「王戎を三公として仰ぐには、どうも重みが足りない」/曰く、「わざとああやって、韜晦しているのさ」/曰く、「王戎は晋朝の危機の時代を韜晦することでやりすごした。明哲保身の道といっていい」/ 曰く、「重臣の身で、そんな態度が許されるものか」(『三国志Ⅴ 不服従の思想』に拠る)》
王戎(おうじゅう、234~305年)は、中国三国時代から西晋にかけての政治家・軍人。魏、晋に仕えた。字は濬沖(しゅんちゅう)。徐州瑯邪(ろうや)郡臨沂(りんぎ)県(山東省臨沂市)の出身(瑯琊王氏)。祖父は幽州刺史(ゆうしゅうしし)を務めた王雄(507~564年)、父は涼州刺史を務めた王渾(生没年不詳、王渾玄沖とは別人)。従弟に王衍。子に王万、王興、娘『晋書』に伝がある。幼いときはその神童ぶりに定評があり、曹叡(206or204~239年、明帝)や阮籍にも認められていた。阮籍は父の王渾とも友人であったが、自分よりも20歳若い王戎と語らうことを好んだ。涼州刺史であった父が亡くなると、昔の家来達が香典を持って弔問におとずれたが、王戎は付け届けの類をすべて受け取らず、名声を高めた。王戎は体格は小柄であったが、堂々と振舞い、必ずしも礼にこだわることはなくなった。話し好きで知られ、酒をたしなみながら阮籍達と竹林で遊んだ。蜀征伐におもむく鍾会(225~264年)に相談を持ちかけられた際に、道家の言葉を引きつつ語った発言は鍾会の運命を見通したものであったため、識者に評価された。父の爵位を継ぎ、司馬昭(211~265年、晋の太祖文帝)の招聘を受けて以降、魏、晋で官職を歴任することになる。相国の縁から吏部黄門、散騎常侍、河東太守、荊州刺史と出世を重ねたが、荊州刺史のときに役人を私的な用事に使ったために免職となりそうだったのを、罰金で済まされた。その後、豫州刺史に転任し、建威将軍に任命された。279年からの呉侵攻(晋が呉を滅ぼした戦い)では、呉の武昌(現在の武漢氏武昌)に侵攻して王濬(おうしゅん、206~285年)と共に呉を滅亡に追い込む武功を挙げた。その功績で安豊亭侯の爵位を得た。呉の人に恩寵を施し、多くの人を心服させ侍中となったが、贈賄の疑いもかけられた。武帝(236~290年、司馬炎)はそれを庇っている。『晋書』は政治家としての王戎について、特別の能力はなかったが多くの功績がついてきたため、高官にまで上ったとしている。光録大夫・吏部尚書まで官職が上ったところで、母の喪に服するために官を離れた。王戎は礼に拘る人間ではなかったが、母に対して親孝行であったために、見る見るうちにやつれていった。その様は劉毅(?~285年)に「死孝」であると評され、身の安全を心配した武帝は王戎に薬を与え医者にかからせた。武帝の没後、外戚の楊駿(ようしゅん、?~291年)が実権を握ると、太子太傅に任命された。楊駿が誅殺されると、それに功績のあった東安公司馬繇((?~304年)が勝手な振る舞いをしたためこれを諌めた。司馬繇はまもなく罪を得て失脚した。王戎は光禄大夫、中書令となった。王戎は「甲午の制」と呼ばれる官吏登用制度を始めたが、不正の温床となっていると指弾された。王戎がそれでも地位を保てたのは外戚の賈氏や郭氏と結びついていたからであった。297年、官位はついに三公である司徒まで上ったが、300年に娘婿の裴頠に連座し免職となった。その後も政府の要職にあったに関わらず八王の乱(西晋の滅亡のきっかけを作った皇族同士の内乱)の政治的混乱の中、積極的な政治力を発揮することはなかったが、それゆえ殺害されることもなかった。305年没。子の王万は若死し、王興は庶子であったため家に入れず、縁戚の者に跡を継がせた。
《王戎の利殖行為と極端な物惜しみについては、当時からさまざまな見方があった。/曰く、「王戎を三公として仰ぐには、どうも重みが足りない」/曰く、「わざとああやって、韜晦しているのさ」/曰く、「王戎は晋朝の危機の時代を韜晦することでやりすごした。明哲保身の道といっていい」/ 曰く、「重臣の身で、そんな態度が許されるものか」(『三国志Ⅴ 不服従の思想』に拠る)》
今日から師走。昼食後、隅田川遊歩道を北上、瑞光橋公園・汐入公園を回って、水神大橋を渡り、東白鬚公園から墨堤通りを南下して、帰宅した。万歩計の装着を忘れ、記録が取れず。

瑞光橋の袂では鴨の群れが遊んでいたが、カメラを向けると餌がもらえるものと近寄ってくる。汐入公園から水神大橋に向う途中に、ふゆざくらが花を持っていた。こんな櫻の仲間があると言うことは今まで知らなかった。
向秀(しょうしゅう、227?~272年) 、字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。嵆康・呂安と交友した。嵆康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って嵆康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。
思旧賦序: 嵇博綜技藝、于絲竹特妙。臨當就命、顧視日影、索琴而彈之。余逝將西邁、經其舊廬。于時日薄虞淵、寒冰凄然。鄰人有吹笛者、發音寥亮。追思曩昔游宴之好、感音而歎、故作賦云。「読み: 嵆、博(ひろ)く技芸を綜(す)べ、絲竹において特に妙なり。まさに命に就(つ)くべきときに臨み、顧みて日影を視、琴を索(もと)めてこれを弾く。逝(ゆ)きてまさに西に邁(ゆ)かんとし、その旧廬を経たり。時に日、虞淵に薄(せま)りて、寒冰凄然たり。隣人笛を吹く者あり。音を発して寥亮たり。曩昔游宴の好(よし)みを追思し、音に感じて歎ず。故に賦を作る」
世説新語・言語篇に曰く、《嵆中散(嵆康)が誅を受けた後、向子期は郡計の吏に任用されて都の洛陽にやってきた。文王はこれを引見していった。「君は箕山の志(隠遁の志)をいだいて、官には仕えないつもりだと聴いていたが、なぜこんなところへやってきたのかね」/向子期は答えた。「巣父(そうふ)や許由(きょゆう)は、固苦しくて了見の狭い人物です。敬慕するほどのことはありませんよ」/文王はひどく感嘆した。》
向秀(しょうしゅう、227?~272年) 、字は子期。河内郡懐県の人。老荘を好み、自然と名教の統一を、儒道合一を主張した。『荘子』の注をなした。嵆康・呂安と交友した。嵆康・呂安が殺されると、迫られて洛陽に入った。官は黄門侍郎・散騎常侍にいたった。のちに「思旧賦」を作って嵆康・呂安を悼んだ。竹林七賢のひとり。
世説新語・言語篇に曰く、《嵆中散(嵆康)が誅を受けた後、向子期は郡計の吏に任用されて都の洛陽にやってきた。文王はこれを引見していった。「君は箕山の志(隠遁の志)をいだいて、官には仕えないつもりだと聴いていたが、なぜこんなところへやってきたのかね」/向子期は答えた。「巣父(そうふ)や許由(きょゆう)は、固苦しくて了見の狭い人物です。敬慕するほどのことはありませんよ」/文王はひどく感嘆した。》
阮咸(げんかん、生卒年不詳)は、竹林の七賢の一人。字は仲容。三国時代の魏および西晋の文人。陳留郡尉氏県(いしけん、河南省開封市)の人。魏の武都太守・阮熙の子であり、步兵校尉・阮籍の従子に当たる。阮瞻(げんせん)、阮孚(げんふ)の父である。竹林の七賢中では、存命中の事跡が非常に少なく、『世説新語』『新書』及び唐宋代の類書中に見えるのみである。その年齢は王戎(おうじゅう)に比較してやや年長であり、竹林の七賢中で二番目に年少である。若くして叔父の阮籍と共に飲酒宴遊した。散騎侍郎に任じられたが、西晋の時代、山濤が阮咸を吏部郎に推挙した時、武帝(司馬炎)は、その虚浮の談を尊び、飲酒の度が過ぎることを理由に用いなかった。阮咸は、その人となりが放誕で、礼法に拘らず、当時の儒士に誹謗された。また、琵琶を善くし、音律に精通していた。そこから、阮咸が亀玆(クチャ)伝来の琵琶を改造した、という説が生まれ、後世にはまた、その琵琶を阮咸と呼んだ。略称は阮。後に、荀勗(じゅんきょく、?~289年)荀に憎まれて、始平太守(しへいたいしゅ)に出されたので、後人は彼を阮始平と称した。後に長寿によって没した。楽器の阮咸は、正倉院に伝わっている。唐代の作で、通常の琵琶とは異なり、胴の部分が円形をしている。弦は4弦。秦制と漢制を併せて作られているので、秦琵琶、秦漢子の別称がある。
世説新語・賞譽篇に曰く、《山公(山濤)は阮咸を吏部郎に推挙しようとし、評語を書いた。「清らかで真実があり、寡欲である。いかなるものも彼の心を動かすことは出来ない」》また、術解篇に曰く、《荀勗(じゅんきょく)はよく音楽を解したので、当時の人々は天才的な理解力の持ち主であると評判した。ついには律呂(十二の音階があり、これを陰陽に二分し陽の六を律、陰の六を呂という)の音階を整え、雅楽の在り方を正すまでになり、朝廷の儀式に殿庭で音楽を演奏するたびに、自分で宮商(五音のこと。宮・商・角・徴・羽であるが、ここでは宮・商で音階のすべてを代表させている)の音階をととのえたが、いずれも韻律にかなわないものはなかった。/阮咸は音楽のすぐれた鑑賞家で、当時の人々は絶妙な鑑賞力の持ち主であると評判していた。いつも朝廷の会合で音楽が演奏されるたびに、心中それが音階にかなっていないものと思っていた。しかし、それについて一言も口に出さなかったので、荀勗は内心これを憎み、そのため阮咸を始平太守に転出させてしまった。/のち一農夫が野で耕していたところ、周代の玉製の尺を発見した。これこそ天下の標準となる正尺であった。荀勗は試みに自分が調整した鐘や太鼓をはじめ、金・石・糸・竹などで作った様々な楽器について測定してみたところ、みな粟粒一つ分だけ短いことに気付いた。そこで始めて阮咸の絶妙な鑑識力に敬服した。》さらに、任誕篇には次のような逸話が載せられている。
①《阮仲容(阮咸)と歩兵(阮籍)とは道路の南側に住み、他の阮氏は道路の北側に住んでいた。北の阮氏はみな富裕だったが、南の阮氏は貧乏だった。七月七日には、北の阮氏は盛大な衣装の虫干しをした。どれも薄絹や錦のきらびやかなものばかりである。阮仲容は竿の先に大きな布の犢鼻褌(ふんどし)をぶら下げ、家の中庭に立てた。ある人が怪しんで訊ねると、答えて言った。「未だ俗を免るる能わず、聊か復た爾るのみ(まだ俗気から抜け切ることができないので、ちょっとこうやってみたまでさ)」》 ②《阮氏の一族はみなよく酒を飲んだ。阮仲容は一族の処へ言って集会を開くときには、ありきたりの盃でやりとりせず、大きな甕(かめ)に酒を盛り、車座になって向かい合いながらぐいぐいとやった。あるとき豚の群れが酒を飲みにやってきた。阮仲容は構わず迎え入れて、そのまま一緒に飲んだ。》 ③《阮仲容は以前から姑(おば)の家の鮮卑(せんぴ)の侍女を寵愛していたが、そののち母の喪に服していたところ、姑が遠方へ移ることになった。初めはその侍女を残しておくといっていたが、いざ出発となると、これはしたり、連れて行くと言うのである。阮仲容は喪服をつけたまま、客の驢馬(ろば)を借りて追いかけ、馬を連ねて帰ってきたが、つぶやいた。「子だねは絶やしてはいけないよ」その鮮卑の侍女は阮遥集(阮孚)の母である。》
①《阮仲容(阮咸)と歩兵(阮籍)とは道路の南側に住み、他の阮氏は道路の北側に住んでいた。北の阮氏はみな富裕だったが、南の阮氏は貧乏だった。七月七日には、北の阮氏は盛大な衣装の虫干しをした。どれも薄絹や錦のきらびやかなものばかりである。阮仲容は竿の先に大きな布の犢鼻褌(ふんどし)をぶら下げ、家の中庭に立てた。ある人が怪しんで訊ねると、答えて言った。「未だ俗を免るる能わず、聊か復た爾るのみ(まだ俗気から抜け切ることができないので、ちょっとこうやってみたまでさ)」》 ②《阮氏の一族はみなよく酒を飲んだ。阮仲容は一族の処へ言って集会を開くときには、ありきたりの盃でやりとりせず、大きな甕(かめ)に酒を盛り、車座になって向かい合いながらぐいぐいとやった。あるとき豚の群れが酒を飲みにやってきた。阮仲容は構わず迎え入れて、そのまま一緒に飲んだ。》 ③《阮仲容は以前から姑(おば)の家の鮮卑(せんぴ)の侍女を寵愛していたが、そののち母の喪に服していたところ、姑が遠方へ移ることになった。初めはその侍女を残しておくといっていたが、いざ出発となると、これはしたり、連れて行くと言うのである。阮仲容は喪服をつけたまま、客の驢馬(ろば)を借りて追いかけ、馬を連ねて帰ってきたが、つぶやいた。「子だねは絶やしてはいけないよ」その鮮卑の侍女は阮遥集(阮孚)の母である。》
朝食後、隅田川沿いに北上、汐入公園内のさくら橋を渡り、水神大橋にでる。東白鬚公園を貫けて、墨堤通りと並行する東側の道を南下、じまん草餅の仮店舗(墨堤通りの本店は現在建替え中)で、草餅を買い、桜橋を渡って帰宅した。本日の記録、10416歩、6.7kmであった。



本日は小春日和、気持ちよい陽気で、その上土曜日ということもあって、遊歩道は人出が多く、方々で今流行のウォーキングの集まりがあちこちに見られた。
劉伶(りゅうれい、221? ~ 300?年)は、竹林の七賢の一人。字は伯倫。三国時代の魏および西晋の文人。沛國(江蘇省銅山県の西北)の人。反礼教的で自由奔放な思想を持ち、建威将軍の参軍をつとめたこともあるが、無作為の教化を説いて辞職し、酒びたりの気ままな一生を送った。いつも酒徳利をぶら下げ、鋤を肩にした従僕を従え、「死ねばその場で埋めよ」と言っていたという。著書に『酒徳頌』がある。
世説新語・容止篇に曰く、《劉伶は身長が六尺(140cm)どまりで、容貌はひどく醜くやつれていたが、ゆうゆうとして一切に無頓着であり、肉体を土木のようにみなしていた》また、任誕篇に曰く、《劉伶は二日酔いで咽喉がひどく渇いたので、妻に酒を求めた。妻は酒をすて、酒器を壊し、泣きながらいった。「貴方は余りにも飲みすぎです。養生の道から外れています。どうぞきっぱり酒を断ってください」劉怜は言った。「たいへん結構だ。だが、わしは自分の力では禁酒できないから、ひたすら神に祈り、誓いを立てて断つより他はない。すぐ酒と肉とを調えてくれ」妻はこたえた。「かしこまりました」神前に酒肉を供え、劉伶に願をかけるように促した。劉怜は跪いて祝詞をあげた。「天は劉伶を生みたまい、酒を以って名をなさしむ。一度飲めば一斛、五斗ならば悪酔いざまし。婦人の言は、心してきくべからず」その後すぐ酒を引き寄せ肉を食い、陶然としてすっかり酔っ払ってしまった。》さらに、《劉怜はいつも酒に酔っ払って奔放な振舞いをした。時には衣服を脱ぎ裸になって家の中にいた。ある人がこれを見て誹ると、劉怜は言った。「わしは天地をば家とし、家屋をばわが衣、わが褌と心得ている。諸君はなぜわしの褌の中にはいりこんでくるのだ」》
『酒徳頌』: 酒徳は酒の功徳、頌は韻文の一種で褒め称える言葉すなわち賛歌である。大人先生という架空の人物に託した作者劉伶の自画像であり、老荘哲学の表白でもある。わが国の大伴旅人の「讃酒歌」などは、この作品の影響を受けたものといわれる。
「訳: 酒の功徳をたたえる 劉伶/大人先生という人物がいた。天地の生成をも一日のごとくみなし、一万年も瞬時、日と月とは戸口と窓、世界の果ても我が庭か往来のごとく見做していた。何処へ行くにも決まった道を通らず、何処にも決まった住まいを持たず、大空を屋根とし、大地を敷き莚(むしろ)として行きたい所へ出掛けていった。坐っていれば大盃やぐい呑みを手にし、出掛けるとき酒樽や徳利をぶら下げ、酒だけがつとめと心得、他のことは気にも掛けなかった。ある貴公子と大物の浪士が、先生の評判を聞き、そのわけを論じ合った。そこで大いに奮い立ち、勇んで出掛け、目を怒らせ歯がみして、礼法について述べ立て、鋭く論難した。先生はそのとき、酒がめをかかえますにうけ、杯をふくんで濁酒(どぶろく)を口に流し込み、ひげを捻って両足を投げ出し、こうじを枕に酒樽を敷布団にして横たわり、何の頓着もなく、陶然と楽しげであった。傲然と酔うているかと思うと、突然はっと醒めるが、*1 耳をすましているようでも、雷の音さえ耳に入らず、目を凝らしているようでも、泰山の姿さえ目に入らぬ様子、寒暑が肌を刺し、利欲が心を動かすのも気付かぬげである。万物が乱れ騒ぐのを見下ろして、まるで大河が浮き草を浮かべたほどにも気に掛けぬ。二人のおえらがたは傍に侍り、*2 ミイラ取りがミイラになった」
註 *1 雷は音の大きなものの代表、泰山は中国一の名山のひとつで形の大きなものの代表としていう。それらさえ耳に入らず、目にはいらぬ。 *2 原文は「蜾臝(から、じが蜂)の螟蛉(めいれい、桑虫)に与(お)けるが如し」とある。じが蜂は桑虫の子を育てて自分の子と化す、という言い伝えから、影響を受けて速やかに変化してしまうことをいう。
◎ 大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首――万葉集より
験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあるらし(3-338)/【通釈】くよくよと甲斐のない物思いに耽るよりは、一杯の濁り酒を飲む方がよいらしい。/【補記】十三首の連作。おそらく天平二年(730)頃の作と思われる。
酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古(いにしへ)の大き聖の言(こと)の宣(よろ)しさ(3-339)/【通釈】酒の名を聖人と名付けた昔の大聖人の言葉のなんと結構なことよ。/【補記】『魏史』巻二十七、清酒を聖人、濁酒を賢人に譬えた故事に由る。
古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあるらし(3-340)/【通釈】昔の竹林の七賢も、欲しがったものは酒であったそうな。/【補記】『世説新語』任誕篇の竹林の七賢が酒を飲み清談に耽ったとの故事に由る。
賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするしまさりたるらし(3-341)/【通釈】かしこぶって物を言うよりは、酒を飲んで酔い泣きするようがましのようであるよ。
言はむすべ為むすべ知らず極りて貴(たふと)き物は酒にしあるらし(3-342)/【通釈】言いようもなく、どうしようもない程に、この上もなく貴い物は酒であるらしい。
中々に人とあらずは酒壺(さかつほ)になりてしかも酒に染(し)みなむ(3-343)/【通釈】なまじ人であるよりは、いっそ酒壺になってしまいたい。いつも酒浸りでいられようから。
あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(3-344)/【通釈】ああみっともない。かしこぶって、酒を飲まない人をよく見れば、猿にそっくりではないか。
価(あたひ)なき宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒に豈(あに)まさめやも(3-345)/【通釈】値のつけようもない宝であっても、一杯の濁酒にどうしてまさろうか。
夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るに豈(あに)しかめやも(3-346)/【通釈】暗い夜にも輝く宝玉であっても、酒を飲んで憂さ晴らしするのにどうして及ぼうか。
世間(よのなか)の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべかるらし(3-347)/【通釈】世の中の遊びで一番楽しいことと言ったら、酒に酔って泣くことに決まっているようだ。
この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも我はなりなむ(3-348)/【通釈】現世が楽しければ、来世には虫だろうと鳥だろうと、俺はなってしまおうよ。
生まるれば遂にも死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな(3-349)/【通釈】この世に生れれば、結局は死んでしまうのだから、この世に生きている間は楽しくこそ過ごしたいものよ。
黙然(もだ)居りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ及(し)かずけり(3-350)/【通釈】黙りこくってかしこぶっているなんてのは、酒を飲んで酔い泣きするのに、何といっても及ばないなあ。
本日は小春日和、気持ちよい陽気で、その上土曜日ということもあって、遊歩道は人出が多く、方々で今流行のウォーキングの集まりがあちこちに見られた。
劉伶(りゅうれい、221? ~ 300?年)は、竹林の七賢の一人。字は伯倫。三国時代の魏および西晋の文人。沛國(江蘇省銅山県の西北)の人。反礼教的で自由奔放な思想を持ち、建威将軍の参軍をつとめたこともあるが、無作為の教化を説いて辞職し、酒びたりの気ままな一生を送った。いつも酒徳利をぶら下げ、鋤を肩にした従僕を従え、「死ねばその場で埋めよ」と言っていたという。著書に『酒徳頌』がある。
世説新語・容止篇に曰く、《劉伶は身長が六尺(140cm)どまりで、容貌はひどく醜くやつれていたが、ゆうゆうとして一切に無頓着であり、肉体を土木のようにみなしていた》また、任誕篇に曰く、《劉伶は二日酔いで咽喉がひどく渇いたので、妻に酒を求めた。妻は酒をすて、酒器を壊し、泣きながらいった。「貴方は余りにも飲みすぎです。養生の道から外れています。どうぞきっぱり酒を断ってください」劉怜は言った。「たいへん結構だ。だが、わしは自分の力では禁酒できないから、ひたすら神に祈り、誓いを立てて断つより他はない。すぐ酒と肉とを調えてくれ」妻はこたえた。「かしこまりました」神前に酒肉を供え、劉伶に願をかけるように促した。劉怜は跪いて祝詞をあげた。「天は劉伶を生みたまい、酒を以って名をなさしむ。一度飲めば一斛、五斗ならば悪酔いざまし。婦人の言は、心してきくべからず」その後すぐ酒を引き寄せ肉を食い、陶然としてすっかり酔っ払ってしまった。》さらに、《劉怜はいつも酒に酔っ払って奔放な振舞いをした。時には衣服を脱ぎ裸になって家の中にいた。ある人がこれを見て誹ると、劉怜は言った。「わしは天地をば家とし、家屋をばわが衣、わが褌と心得ている。諸君はなぜわしの褌の中にはいりこんでくるのだ」》
『酒徳頌』: 酒徳は酒の功徳、頌は韻文の一種で褒め称える言葉すなわち賛歌である。大人先生という架空の人物に託した作者劉伶の自画像であり、老荘哲学の表白でもある。わが国の大伴旅人の「讃酒歌」などは、この作品の影響を受けたものといわれる。
註 *1 雷は音の大きなものの代表、泰山は中国一の名山のひとつで形の大きなものの代表としていう。それらさえ耳に入らず、目にはいらぬ。 *2 原文は「蜾臝(から、じが蜂)の螟蛉(めいれい、桑虫)に与(お)けるが如し」とある。じが蜂は桑虫の子を育てて自分の子と化す、という言い伝えから、影響を受けて速やかに変化してしまうことをいう。
◎ 大宰帥大伴卿、酒を讃むる歌十三首――万葉集より
酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古(いにしへ)の大き聖の言(こと)の宣(よろ)しさ(3-339)/【通釈】酒の名を聖人と名付けた昔の大聖人の言葉のなんと結構なことよ。/【補記】『魏史』巻二十七、清酒を聖人、濁酒を賢人に譬えた故事に由る。
古(いにしへ)の七(なな)の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあるらし(3-340)/【通釈】昔の竹林の七賢も、欲しがったものは酒であったそうな。/【補記】『世説新語』任誕篇の竹林の七賢が酒を飲み清談に耽ったとの故事に由る。
賢(さか)しみと物言ふよりは酒飲みて酔(ゑ)ひ泣きするしまさりたるらし(3-341)/【通釈】かしこぶって物を言うよりは、酒を飲んで酔い泣きするようがましのようであるよ。
言はむすべ為むすべ知らず極りて貴(たふと)き物は酒にしあるらし(3-342)/【通釈】言いようもなく、どうしようもない程に、この上もなく貴い物は酒であるらしい。
中々に人とあらずは酒壺(さかつほ)になりてしかも酒に染(し)みなむ(3-343)/【通釈】なまじ人であるよりは、いっそ酒壺になってしまいたい。いつも酒浸りでいられようから。
あな醜(みにく)賢(さか)しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(3-344)/【通釈】ああみっともない。かしこぶって、酒を飲まない人をよく見れば、猿にそっくりではないか。
価(あたひ)なき宝といふとも一坏(ひとつき)の濁れる酒に豈(あに)まさめやも(3-345)/【通釈】値のつけようもない宝であっても、一杯の濁酒にどうしてまさろうか。
夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣(や)るに豈(あに)しかめやも(3-346)/【通釈】暗い夜にも輝く宝玉であっても、酒を飲んで憂さ晴らしするのにどうして及ぼうか。
世間(よのなか)の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべかるらし(3-347)/【通釈】世の中の遊びで一番楽しいことと言ったら、酒に酔って泣くことに決まっているようだ。
この世にし楽しくあらば来(こ)む世には虫に鳥にも我はなりなむ(3-348)/【通釈】現世が楽しければ、来世には虫だろうと鳥だろうと、俺はなってしまおうよ。
生まるれば遂にも死ぬるものにあればこの世なる間(ま)は楽しくをあらな(3-349)/【通釈】この世に生れれば、結局は死んでしまうのだから、この世に生きている間は楽しくこそ過ごしたいものよ。
黙然(もだ)居りて賢(さか)しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほ及(し)かずけり(3-350)/【通釈】黙りこくってかしこぶっているなんてのは、酒を飲んで酔い泣きするのに、何といっても及ばないなあ。
山濤(さんとう、205~283年)は、三国時代の魏及び西晋の文人。 姓は山、字は巨源。河内郡懐県(現在の河南省)の人。幼時に父の山曜を亡くしたために貧窮した生活を送った。老荘思想に耽って阮籍、嵆康らと交遊し、竹林の七賢の一人となった。40歳を過ぎて官途について司馬氏に属したため、嵆康を朝廷に推薦したときに「與山巨源絶交書」(山巨源に与える絶交書)を突きつけられた。しかし、嵆康の刑死の際には後に残す息子の行く末を託されたことからみても、彼らの友情は変わらなかったものと思われる。曹爽(そう そう、? ~249年)の台頭により隠棲するが、曹爽が司馬懿(しばい、179~251年)のクーデターで粛清されると再び出仕。264年、司馬昭が鍾会(しょうかい、225~264年)の謀反鎮圧のため洛陽を離れると、山濤を行軍司馬に任じ、鄴の警護をさせた。簒奪を目前に控えた司馬昭は、曹子一族を鄴(ぎょう、大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県)に軟禁していた。山濤はその監視を任された(これは司馬昭の母方の祖母山氏が山濤の大叔母に当たったため、親戚として任命されたからである)。西晋代になって吏部尚書、太子少傅を歴任するなど栄達し、79歳のとき司徒になった。また、鍾会の讒言により殺された、嵆康の遺児である嵆紹(けいしょう、253~304年)らを推挙している。
世説新語・賢媛篇に曰く、《山公は嵆康・阮籍と一度あっただけで、金蘭のような交わりを結んだ。山公の妻の韓氏は、公と二人が尋常の交わりでないことをさとり、公に訊ねた。公は言った。「わしが一生のうちで友としてよいものは、ただこの二人だけだ」妻は言った。「*1負羈(ふき)の妻も、自分の目で狐偃(こえん)と趙衰(ちょうし)とを確かめたといいます。私もそっと見たいのですが、宜しいでしょうか?」/他日、二人がやって来た。妻は二人を泊めるように勧め、酒肉を調えた。夜になって、墉(かき)に穴を開け覗き込み、朝になるまで帰るのを忘れる有様であった。公は部屋に入ってきて訊ねた。「ふたりはどうだね」「あなたは、才能ではとても太刀打ちできません。もっぱら見識と度量とでつきあいなさいませ」/公は言った。「あの連中も、いつもわしの度量が勝れているのを認めているよ」》
註 *1 春秋時代の曹の国に、僖負羈(きふき)という者がいたが、諸国を放浪していた重耳(ちょうじ、後の晋の文公)が、臣下の狐偃と趙衰とを連れてその国を訪れた。そのとき僖負羈の妻は2人の従者を見て、公子を助けて天下の覇者にするであろうと予言した。
嵆康(けいこう、224~262or263年)は、三国時代の魏の文人。竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。字は叔夜(しゅくや)。譙国銍(しょうこくちつ、現在の安徽省宿州市)の人。曹操(155~220年)の曽孫の長楽亭を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、嵆中散とも呼ばれる。子に嵆紹(253~304年)がいる。非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり鍛鉄をしたりするなどの行動を通して老荘思想に没頭した。気心の知れた少数の人々と清談と呼ばれる哲学論議を交わし名利を求めず、友人の山濤(205~283年)が自分の後任に嵆康を吏部郎に推薦した時には「与山巨源絶交書」(『文選』所収)を書いて彼との絶交を申し渡し、それまで通りの生活を送った。ただし死の直前に息子の嵇紹を山濤に託しているように、この絶交書は文字通りのものではなく、自らの生き方を表明するために書かれたものである。
世説新語・簡傲篇に曰く、《嵆康と呂安とは仲がよかった。ひとたび相手のことを思い出すと、たとえ千里の道を隔てていても車を命ずるという有様であった。呂安がその後訪れたとき、たまたま嵆康は不在であった。兄の嵆喜が戸口から出て来て招き入れようとしたが、呂安は内に入らず、門の上に「鳳」という字を書いて帰った。嵆喜はその意味をさとらず、それを喜んでいた。/もともと鳳(凡+鳥)という字を書いた本意は、凡鳥ということである。――平凡社刊、中国湖と无文学大系に拠る》
後に呂安の異母兄呂巽(りょせん)が呂安の妻と密通し、発覚を恐れてかえって呂安を不孝の罪で告発した。嵆康は友人のために弁護したが、彼が魏の宗室と婚姻関係にあったこと、たびたび不遜の言動をしたこと、当時の権臣鍾会(しょうかい、225~264年)の怨みを買っていたことなどが併合されて、彼自身も有罪となり死刑に処されることになった。「幽憤詩」は呂安の事件に連座して入獄しているときに作られたという。彼が詩を予知していたか否かははっきりしないが、四言の長編に悶々の情と共に彼の精神史を書き綴っている。
世説新語・雅量篇に曰く、《嵆中散は洛陽の東市場で死刑になるとき、顔色ひとつ変えず、琴を引き寄せてつまびき、広陵散の曲をかなでた。曲が終わると言った。/「袁孝尼(えんこうじ、生没年不詳)が以前にこの曲を習いたいとねだったことがあるが、わしは固く秘密にして教えてやらなかった。広陵散も之で最後だ」/大学生三千人が朝廷に上書して嵆中散を師としたいと請願したが、ゆるされなかった。/文王(司馬昭)もやがてまた後悔した。》
嵆康は「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど音楽理論に精通していた。著作は他に「養生論」「釈私論」、詩は四言詩にすぐれ、「幽憤詩」のほか「贈秀才入軍五首」などがある。
「訳:幽憤の詩 嵆康/ああ、私は倖(しあわ)せうすく 幼い時に父を失い 憂い悲しむことを知らず 褓繦(むつき)の中にくるまっていた 母と兄とに養い育てられ 慈(いつく)しまれるも厳しさを知らず 愛に甘えて傲(おご)り高ぶり 訓(さと)されず師にもつかなかった/成人して出仕するに及んでも 恩寵を頼んで恣(ほしいまま)に振舞い 心を高ぶらせて元古の世を慕い よしと思う道をひたすらに追い求めた 老荘の教えをこよなく愛し 外物をいやしんでおのれ一身を尊び 自然のまま飾らぬを志し 本質をつちかい真実を貫こうとした/だが私は愚かであったため 善意ばかりで世事に疎く *1子文(しぶん)が子玉(しぎょく)の失敗を責められたように 窮地に陥ったこともしばしばであった 大人物は度量が広く 清濁をあわせのむものだが 悪事を働く人民が多い時に 責任のない地位にありながら 狭い心を持ったばかりに さしでがましくも事の善悪を弁別した それを過失(あやまち)と悟った時には 打身のように胸は疼(うず)き 過失(あやまち)を犯すまいと努めても 非難の声はすでに沸きあがる 人を傷つけようとは思わなかったのに しきりに怨みと憎しみを招いてしまった 昔の人では*2柳下恵(りゅうかけい)に面目なく 今の人では*3孫登(そんとう)に会わす顔なく 内にかえりみてはかねての志に背(そむ)き 外に対しては良友に恥ずかしく思う かくして*4厳君平(げんくんぺい)や鄭子真(ていししん)のように 道を楽しみひっそりと暮らし 世間との交際(まじわり)を絶ち 精神を安らかに保とうと考えた/ああ私がいたらぬばかりに 煩(わずら)わしい事に巻きこまれ心配が絶えぬ それは天のなせる業ではなく 実にかたくなで疎漏(そろう)な性格(さが)による 道理は崩れ災禍(わざわい)は動かぬものとなって ついに囚獄(ひとや)につながれる身となり いやしい獄吏の訊問に答えつつ 奥深く隔てられ捕らわれている 訴えが理由(わけ)なくとも恥ずかしいことだが 時勢は私にみかたせぬようだ 真実はこちらにあるとはいえ 魂は屈辱にまみれ 志は挫(くじ)け 蹌踉(そうろう)の水に身を清めても もはや汚濁(おじょく)はぬぐいきれぬ/雁はなごやかに鳴きかわし 大きく羽ばたいて北に飛び 季節に従って移り行き 満ち足りて思いわずらうこともない ああ私は嘆きまた憤(いきどお)る まったく雁とはくらべられぬ 事態は願望とくい違い 囚人としてここに留めおかれている 人生が天命に左右されるものであれば 何を求めようと詮無いことだ 古人も言ったではないか 「善行はつむとも名声をえてはならぬ」と 時の流れに従いつつましく生きれば 後悔などしなくともすむ *5万石君(ばんせきくん)父子は慎み深かったゆえ 親は安らかで繁栄を保ったのだ 世の中はごたごたと用務が多く わが心をひたすらに乱すが 安楽であっても警戒を怠らなければ 順調にまた正しく生き抜けよう/光り輝く霊芝(れいし)は 一年に三度花開く この私だけが何ゆえに 志を抱くも遂げられぬか 災禍(わざわい)に懲り本来に戻ろうと思うが 遅きを恐れ心ひそかに憂慮する 願わくは望みを将来に託し 名誉もなく非難もなく 薇(のえんどう)を山かげに摘み ざんばら髪のまま岩山に隠れ 口笛を長く吹き詩を長閑(のどか)に吟じ 天性を養い寿命を永く保ちたいものだ ―― 平凡社刊、中国古典文学大系に拠る」
註:*1 子文は楚の宰相で、子玉を信頼して大任を委譲したが、子玉がその器でなかったため失敗した.楚の蔿賈(いこ)は子玉の人間を見抜き失敗を予言して、子文を責めた。/*2 柳下恵は春秋魯の賢人、3度仕えて3度退けられても怨みに思うことなく、直道を貫いた。/*3 孫登は嵆康と同時代の隠者。中山の北に居り、嵆康も修業を志して共にいたが、嵆康にはものも言わず、嵆康が去るに際して「子(きみ)は才多く、識寡(すくな)し、今の世に免るること難し」と言った。/*4 厳君平も鄭子真もともに漢代の隠者。出仕せず、身を修め性(さが)を保った。厳君平が成都で売卜し、必要な収入をあげると店をたたんで、『老子』を説いたという。/*5 万石君は漢の石奮(せきふん、?~BC124年)のこと。石奮及びその子四人はともに二千石の大官となったので、景帝は「万石君父子」と呼んだという。ともに極めて謹直であって一門は栄えた。
世説新語・簡傲篇に曰く、《嵆康と呂安とは仲がよかった。ひとたび相手のことを思い出すと、たとえ千里の道を隔てていても車を命ずるという有様であった。呂安がその後訪れたとき、たまたま嵆康は不在であった。兄の嵆喜が戸口から出て来て招き入れようとしたが、呂安は内に入らず、門の上に「鳳」という字を書いて帰った。嵆喜はその意味をさとらず、それを喜んでいた。/もともと鳳(凡+鳥)という字を書いた本意は、凡鳥ということである。――平凡社刊、中国湖と无文学大系に拠る》
後に呂安の異母兄呂巽(りょせん)が呂安の妻と密通し、発覚を恐れてかえって呂安を不孝の罪で告発した。嵆康は友人のために弁護したが、彼が魏の宗室と婚姻関係にあったこと、たびたび不遜の言動をしたこと、当時の権臣鍾会(しょうかい、225~264年)の怨みを買っていたことなどが併合されて、彼自身も有罪となり死刑に処されることになった。「幽憤詩」は呂安の事件に連座して入獄しているときに作られたという。彼が詩を予知していたか否かははっきりしないが、四言の長編に悶々の情と共に彼の精神史を書き綴っている。
世説新語・雅量篇に曰く、《嵆中散は洛陽の東市場で死刑になるとき、顔色ひとつ変えず、琴を引き寄せてつまびき、広陵散の曲をかなでた。曲が終わると言った。/「袁孝尼(えんこうじ、生没年不詳)が以前にこの曲を習いたいとねだったことがあるが、わしは固く秘密にして教えてやらなかった。広陵散も之で最後だ」/大学生三千人が朝廷に上書して嵆中散を師としたいと請願したが、ゆるされなかった。/文王(司馬昭)もやがてまた後悔した。》
嵆康は「声無哀楽論」「琴賦」を著すなど音楽理論に精通していた。著作は他に「養生論」「釈私論」、詩は四言詩にすぐれ、「幽憤詩」のほか「贈秀才入軍五首」などがある。
註:*1 子文は楚の宰相で、子玉を信頼して大任を委譲したが、子玉がその器でなかったため失敗した.楚の蔿賈(いこ)は子玉の人間を見抜き失敗を予言して、子文を責めた。/*2 柳下恵は春秋魯の賢人、3度仕えて3度退けられても怨みに思うことなく、直道を貫いた。/*3 孫登は嵆康と同時代の隠者。中山の北に居り、嵆康も修業を志して共にいたが、嵆康にはものも言わず、嵆康が去るに際して「子(きみ)は才多く、識寡(すくな)し、今の世に免るること難し」と言った。/*4 厳君平も鄭子真もともに漢代の隠者。出仕せず、身を修め性(さが)を保った。厳君平が成都で売卜し、必要な収入をあげると店をたたんで、『老子』を説いたという。/*5 万石君は漢の石奮(せきふん、?~BC124年)のこと。石奮及びその子四人はともに二千石の大官となったので、景帝は「万石君父子」と呼んだという。ともに極めて謹直であって一門は栄えた。
昨日に続いて、阮籍の「詠懐」を2首。その1つは精神の遍歴を語る1首である。
「訳:かつて 十四五歳の頃には/志操高く『書経』『詩経』を愛読し/粗衣をまとうも 珠玉の心をいだき/やがては顔淵(がんえん)か閔子騫(びんしけん)にもと思い/窓を開け放って 四方の曠野を眺め/髙処(たかみ)に登って 賢人たちを思いえがいたが/山や岡をおおいつくす 数知れぬ墳墓/万代の生き死にも 塚のうちに埋もれ/千秋万歳の 後にあっては/在りし日の栄誉も まこと夢か幻か/かくて悟ったは 羨門子(古の仙人)の道/からからと わが愚かしさを笑うのみである(平凡社刊、中国古典文学大系に拠る)」
もう1つは生き難い世を生き抜いた1知識人の告白の1首である。「竹林の七賢」の代表的な1人として、自由奔放に生きたように思われる阮籍の一面が描き出されている。
「訳:今日モマタ、夜ガ来タ/夜ガ明ケルト マタ朝ガ来ル/顔ツキモ 少シズツ変ワリ/心ノハリモ ダンダンニ衰エル/胸ノ中ハ 煮エタギリ/ヤツレル度アイモ 激シクナル/世ノ中ハ 千変万化/智慧ヲ働カシテ 何ニナル/ダガ ウカウカシテイルト/風二生命ガ 吹キ飛バサレル/薄イ氷ヲ踏ンダ一生ダッタトハ/誰モ知ラナイ コトダロウ(平凡社、中国古典文学大系に拠る)
世説新語・徳行篇に「晋の文王(司馬昭)、阮嗣宗(げんしそう)の至慎を称(たた)えて、毎(つね)に之と言(かた)るに、言(ことば)は皆玄遠にして、未だ嘗(かつ)て人物を臧否(あげつら)わずという《訳:晋の文王は、阮嗣宗の慎重さを誉めて言った。「あの男と話していると、深遠な道理を話すばかりで、人物の善し悪しの批評をしたことは一度もない」――平凡社刊、中国古典文学大系に拠る》」とみえる。
本日A医院で定期健診。今日も洟水たらたら、咽喉はいがいが。徘徊は見合す。
もう1つは生き難い世を生き抜いた1知識人の告白の1首である。「竹林の七賢」の代表的な1人として、自由奔放に生きたように思われる阮籍の一面が描き出されている。
世説新語・徳行篇に「晋の文王(司馬昭)、阮嗣宗(げんしそう)の至慎を称(たた)えて、毎(つね)に之と言(かた)るに、言(ことば)は皆玄遠にして、未だ嘗(かつ)て人物を臧否(あげつら)わずという《訳:晋の文王は、阮嗣宗の慎重さを誉めて言った。「あの男と話していると、深遠な道理を話すばかりで、人物の善し悪しの批評をしたことは一度もない」――平凡社刊、中国古典文学大系に拠る》」とみえる。
本日A医院で定期健診。今日も洟水たらたら、咽喉はいがいが。徘徊は見合す。
今朝のNHKテレビよりニュース2つ その1→ 6時04分:鳩山総理大臣の政治資金をめぐる問題で、元公設秘書が資金管理団体の収支報告書に記載したうその収入の総額は、5年間で2億数千万円に上る疑いがあることが関係者への取材でわかりました。東京地検特捜部は、元公設秘書を政治資金規正法違反の疑いで立件する方針で捜査を進めています。/この問題は、鳩山総理大臣の資金管理団体「友愛政経懇話会」が、実際には献金していない人から寄付を受けたと政治資金収支報告書にうその内容を記載していたもので、東京地検特捜部は、会計事務を担当していた元公設秘書から事情を聞くなど捜査を進めています。「友愛政経懇話会」の収支報告書には、去年までの5年間で個人からの献金やパーティー券代などとして6億7000万円余りの収入があったと記載しています。しかし、関係者によりますと、うその記載があったとしてすでに訂正している平成17年から20年の個人からの献金2177万円に加え、16年の個人からの献金の一部、それに、この5年分の匿名の小口献金、1億7000万円余りの大半のあわせて2億数千万円については、元秘書がうその内容を記載していた疑いがあることがわかりました。元秘書は、事務所にある名刺や鳩山家に関係のある団体の名簿などから、勝手に名前を使って個人からの献金を装っていたということです。しかし、実際は、鳩山氏の口座から引き出した資金などが充てられたということです。元秘書が鳩山氏の口座から引き出した現金は1年間に平均でおよそ5000万円だったとされていますが、このうちどのくらいが、毎年、政治資金に使われていたのかやこのほかに使われた資金がないのかは、明らかになっていません。特捜部は、元公設秘書を政治資金規正法違反の疑いで立件する方針で、献金などを装った巨額の資金をどのようにねん出していたかなど解明を進めています。
その2→ 6時59分: 中東のイエメンで、今月15日に武装した地元の部族に連れ去られた日本人技術者の真下武男さん(63)が犯人グループから解放され、日本大使館に無事保護されました。/この事件は、イエメンの首都サヌアの郊外で今月15日、JICA=国際協力機構の支援事業に携わる技術者の真下武男さんが、銃で武装した地元部族によってイエメン人の運転手とともに連れ去られたものです。犯人側が刑務所に収監されている仲間の釈放を要求したのに対し、イエメン政府は、地元の有力者を仲介者にたて、真下さんらの解放に向けた交渉を続けてきました。その結果、真下さんは、日本時間の24日未明、犯人グループから解放され、現地時間の23日夜、日本時間の24日午前3時すぎサヌア州の州庁舎に到着しました。1週間以上も拘束されていた真下さんは、疲れた表情を見せていましたが、しっかりとした足取りで、州庁舎に入りました。このあと記者会見した真下さんは、まず英語で「交渉に尽力してくれた地元有力者のグループ、日本政府、日本大使館、イエメン政府の協力に感謝します。とてもうれしいです。どうもありがとうございました」と述べました。また日本語で「体は大丈夫です。ずっとシャワーに入れなかったので、シャワーを浴びたいです。拘束中は4畳半から6畳ほどの部屋にいて外に出られませんでした。無事解放され安心しています」と話しました。真下さんが解放された経緯やイエメン政府が犯人グループの要求を受け入れたかどうかなどは明らかにされていませんが、サヌア州のドゥワイド知事は、記者会見で「仲介者の努力に感謝している」と述べ、解放に向けた交渉では地元部族の有力者たちが仲介役として大きな役割を果たしたことを明らかにしました。ドゥワイド知事は、また「イエメンの発展に協力してくれている日本人の身にこうしたことが起こり、たいへん申し訳なく思う」と述べました。真下さんはこのあと日本大使館で健康状態のチェックを受けたあと、日本時間の24日夕方あらためて記者会見することにしています。(以上、ウェブニュースよりコピー掲載)
阮籍(げんせき、210~263年)、字(あざな)は嗣宗(しそう)、陳留(ちおりゅう)尉氏(いし)の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は*建安七子の一人である阮瑀(げんゆ)。甥の阮咸(げんかん)も竹林の七賢の一人である。子は阮渾(げんこん)、兄は阮熙(げんき)をもつ。/魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行い、俗物を蔑視した行動をしたと言われている。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉怜と酒を飲んでいた。それで阮歩兵と呼ばれることもある。 当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、彼の母の葬式の日も大酒を飲んで肉を食い、母の棺に別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。 権力者の司馬昭(しばしょう、晋の太祖文帝、211~265年)の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。彼を陥れようとする人たちが時事を問いかけたが、いつも返事は抽象的で難解な返事ばかりで、失言は得られなかった。 司馬昭が息子の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送った。それと察したか彼は60日間酔っぱらい続け、使者は用件を言い出せなくて諦めて帰った。 あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』では老子について、『達荘論』では荘子について論じている。 詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」、李白の「古風」、など五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。/阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。
*建安七子:中国、建安年間(196~220年)を代表する七人の文人孔融・陳琳(ちんりん)・王粲(おうさん)・徐幹・阮瑀(げんう)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)をいう。
此処に掲げる阮籍の詩は、詠懐の序章のである。「訳:深夜眠るに眠られず、起き直ってひき琴をかき鳴らす。/薄い帳(とばり)にくっきり明月の影はうつり、清(すず)やかな風が衿元(えりもと)をなでる。/群れを離れた鴻(ひしくい)は野外に叫び、空翔ぶ鳥は北の林になく。/さまよいつつなにをみようとするのか。《中国古典文学大系「漢・魏・六朝詩集」に拠る》」
本日風邪っ気につき、徘徊取り止め。
阮籍(げんせき、210~263年)、字(あざな)は嗣宗(しそう)、陳留(ちおりゅう)尉氏(いし)の人。竹林の七賢の指導者的人物である。父は*建安七子の一人である阮瑀(げんゆ)。甥の阮咸(げんかん)も竹林の七賢の一人である。子は阮渾(げんこん)、兄は阮熙(げんき)をもつ。/魏の末期に、偽善と詐術が横行する世間を嫌い、距離を置くため、大酒を飲み清談を行い、俗物を蔑視した行動をしたと言われている。 俗物が来ると白眼で対し、気に入りの人物には青眼で対した。 歩兵校尉の役所に酒が大量に貯蔵されていると聞いて、希望してその職になり、竹林の七賢の一人の劉怜と酒を飲んでいた。それで阮歩兵と呼ばれることもある。 当時の礼法では、喪中には酒や肉を断つ義務があったが、彼の母の葬式の日も大酒を飲んで肉を食い、母の棺に別れた後、もうだめだと言って血を吐いて倒れた。 権力者の司馬昭(しばしょう、晋の太祖文帝、211~265年)の幕僚となっていたが、いつも酔っぱらっていた。彼を陥れようとする人たちが時事を問いかけたが、いつも返事は抽象的で難解な返事ばかりで、失言は得られなかった。 司馬昭が息子の嫁に、彼の娘をもらおうと使者を送った。それと察したか彼は60日間酔っぱらい続け、使者は用件を言い出せなくて諦めて帰った。 あてもなく馬車を駆って遠出するのが好きで、行き止まりにあうと慟哭して帰った。老荘思想を理想とし、その著作の『大人先生伝』では老子について、『達荘論』では荘子について論じている。 詩では「詠懐詩」82首が有名で、陶淵明の「飲酒」、李白の「古風」、など五言詩の連作の先駆けである。深い思索に基づき格調高く、全編が人間社会の悲哀に満ちている。/阮籍は、青眼と白眼を使い分けることができたという。礼法を重視した儒家のような気に入らない人物に対しては白眼で対応し、気に入った人物に対しては青眼で対応したという。転じて、気に入らない人物を冷遇することを、白眼視という。
*建安七子:中国、建安年間(196~220年)を代表する七人の文人孔融・陳琳(ちんりん)・王粲(おうさん)・徐幹・阮瑀(げんう)・応瑒(おうとう)・劉楨(りゅうてい)をいう。
本日風邪っ気につき、徘徊取り止め。
首相、対象以外のムダ事業の洗い出しも指示 ―― 鳩山首相は20日の閣議で、「(行政刷新会議による事業)仕分け対象とならなかった事業についても、徹底した見直しに取り組んでいきたい」と述べ、同じような無駄な事業がないか洗い出すよう各閣僚に指示した。
一方、日本テレビは、行政刷新会議が把握している独立行政法人などが抱える基金のリストを入手した。基金の総額は2兆2275億円に上る。これまでの事業仕分けでは、「こうした基金の多くを国庫に戻すべき」との結論が出ており、仕分け人の一人は「新たな財源となる」と述べている。(日テレNews 2009年11月20日 18:55)
今日のウェブニュースに曰く、「事業仕分け後半へ、思いやり予算など焦点 ―― 政府の行政刷新会議(議長・鳩山首相)は24日から、2010年度予算の概算要求から無駄を洗い出す「事業仕分け」の後半4日間の作業を始める。/防衛省の在日米軍駐留経費の日本側負担分(思いやり予算、防衛省)や教職員給与の3分の1を国が負担する「義務教育費国庫負担金」(文部科学省)などが焦点となる。/思いやり予算では、国家公務員並みとされる基地従業員の給与に充てる労務費などを取り上げる。/日米同盟関係の根幹にかかわる問題だけに、北沢防衛相は「いきなり刷新会議が入ってきて削るという話は乱暴だ」と反発しており、仕分けチームも「政治で決める部分に踏み込む考えはない」(統括役の枝野幸男・民主党元政調会長)と制度そのものには触れない考えだ。ただ、給与削減となれば、従業員で作る労働組合などからの反発は確実だ。/地方経済に影響を及ぼす事業も多く対象となる。国が行う離島航路運営補助・バスの運行補助(国土交通省)や整備新幹線の未着工区間の調査費(同)などだ。義務教育費国庫負担金の扱いでは、教職員数や給与の適否に議論が及びそうだ。/前半5日間の仕分け作業では、事業の「廃止」「予算削減」により、少なくとも4152億円の歳出を削減し、埋蔵金9139億円の国への返納を求めることを決めた。同会議はさらに上積みし、全体で3兆円超の成果を目指している。/後半の結果は12月1日、「親会議」に報告される。会議では、前半を含む仕分け結果を議論して方針を最終決定し、それに沿った予算編成を財務省に求めることにしている。仕分け結果が会議の最終決定にどこまで反映されるかや、閣僚は予算編成の段階で会議の決定を覆せるのかどうかなどは、不透明なままだ。/実際、一部の仕分け作業で国会議員が不在だったため、「権限のない民間人の判断が予算に反映されるのはおかしい」という批判もある。/このため、一部の事業の扱いは12月中下旬の閣僚間折衝などに持ち越す可能性が今から指摘されている。予算編成の過程が複雑になったことで、政府内では「今年の編成は大みそかまでかかる可能性もある」という声も上がっている。(2009年11月22日15時38分 読売新聞)」
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
カレンダー
02 | 2025/03 | 04 |
S | M | T | W | T | F | S |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | ||||||
2 | 3 | 4 | 5 | 6 | 7 | 8 |
9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 |
16 | 17 | 18 | 19 | 20 | 21 | 22 |
23 | 24 | 25 | 26 | 27 | 28 | 29 |
30 | 31 |
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター