ウェブニュースより
将棋の藤井四段、棋王本戦へ=史上最年少、デビュー後連勝20に ―― 中学3年生の最年少将棋棋士、藤井聡太四段(14)が2日、大阪市で行われた第43期棋王戦の予選6組決勝で澤田真吾六段(25)に155手で勝ち、中学生初、史上最年少での本戦(挑戦者決定トーナメント)出場を決めた。プロデビュー後の公式戦連勝記録を20に伸ばし、将棋界の連勝記録としても歴代6位タイとなった。
藤井四段は先月25日、やはり史上最年少での竜王戦本戦進出を決めたばかり。いずれも渡辺明2冠(33)が持つ両タイトルへの挑戦に注目が集まる。
この日の対局は千日手で指し直しとなったが、藤井四段が激戦を制した。同四段の次の対局は7日の第2回上州YAMADAチャレンジ杯。同杯は早指し勝負で、勝ち上がれば同日中に3連勝し、連勝記録を歴代単独3位の23に伸ばす可能性がある。
藤井四段は愛知県瀬戸市出身。昨年10月、史上最年少の14歳2カ月でプロ入りし、同12月のデビュー戦以来、公式戦で連勝を続け、4月4日に新記録の11連勝を達成した。
棋王への挑戦権を得るには、本戦を4回勝ち上がって挑戦者決定2番勝負で1勝するか、ベスト4入りして他の2人との敗者者復活戦を勝ち上がり、同2番勝負で連勝しなくてはならない。本戦では、シード枠で加わるトップ棋士との公式戦初対局にも期待が高まる。(jiji.com 2017/06/02-21:28)
平野「銅」以上 卓球女子単で日本勢48年ぶり ―― 【デュッセルドルフ(ドイツ)=共同】世界選手権個人戦第5日は2日、ドイツのデュッセルドルフで行われ、女子シングルス準々決勝で世界ランキング8位の平野美宇(エリートアカデミー)が、ロンドン五輪銅メダルで同4位のフェン・ティアンウェイ(シンガポール)に4-0で快勝し、準決勝に進んだ。3位決定戦がないため銅メダル以上が確定し、この種目の日本勢で48年ぶりのメダルが決まった。女子ダブルス準々決勝では、ともに16歳の伊藤美誠(スターツ)早田ひな(福岡・希望が丘高)組が香港ペアを下してベスト4入りし、日本勢では16年ぶりのメダル獲得となった。
男子ダブルスでも丹羽孝希(スヴェンソン)吉村真晴(名古屋ダイハツ)組と大島祐哉(木下グループ)森薗政崇(明大)組がともに準決勝に進み、日本勢の3大会連続メダル獲得が決まった。女子シングルス準々決勝で石川佳純(全農)は丁寧(中国)に1-4で敗れ、メダル獲得はならなかった。
◆進化した攻撃で圧倒
表彰台への難関などはまるでないかのように、平野が圧倒的な強さで48年ぶりのメダルをつかんだ。準々決勝ではロンドン五輪シングルスの3位で、過去日本の前に立ちはだかってきた相手にストレート勝ちし、跳びはねて喜びを表現。「歴史に(名前を)残せてうれしい」と、なし得た快挙の重みをかみしめた。
第3ゲームで初めてもつれた。点の取り合いが続いた17-16。低く、鋭いロングサーブを相手の胸元へ運び「恐れずにいった」と強気を貫いてゲームを奪取。第4ゲームも一気に奪った。
リオデジャネイロ五輪の代表を逃したことが、プレーも性格も控えめだった少女を変えた。2015年秋。新たに師事した中沢コーチに、自分からスタイルを変更したいと告げた。現状維持ではなく、より攻撃的な卓球へ。今や高速のラリーで相手を圧倒する戦い方は最大の武器となった。
ここまでアジア女王として貫禄十分の勝ち上がりを見せている。初出場した前回大会は、3回戦で丁寧に敗れた。あれから2年、メダルに手が届くまでに成長。コートで見せる真剣な表情を緩ませ「アイドルが大好きなので(AKBなどと同じ)『48』でうれしいです」と笑った。 (共同)(東京新聞 2017年6月3日 朝刊)
13歳の張本智和、3回戦も突破 メダルまであと2勝/卓球 ―― 卓球・世界選手権個人戦第5日(2日、ドイツ・デュッセルドルフ)男子シングルス3回戦で13歳の張本智和(エリートアカデミー)が、台湾の選手に4-0で勝利。4回戦に駒を進めた。前日の第4日には日本のエースでリオデジャネイロ五輪銅メダルの水谷隼(27)=木下グループ=を4-1で破る大金星を挙げており、中学生の快進撃が続く。
今月27日にやっと14歳になるという張本が、世界の舞台でまたも輝いた。21歳の台湾選手を相手に第1ゲームを11-7で奪うと、第2ゲームも12-10で競り勝つ。勢いそのままに続く2ゲームも奪取し、ストレート勝ちで4回戦に駒を進めた。突破して準々決勝も勝ち上がれば、3位決定戦はないため、3位以上が確定する。メダルまであと2勝。中学生・張本の勢いが増す。
死後の世界を言います。「黄泉(こうせん)」は中国の死後の世界で、血の色に黄色を廃する五行思想に依った語です。仏教の「冥土」「地獄」と結びついてもっぱら地下にある国とされますが、古くははっきりしません。
黄泉とは、大和言葉の「ヨミ」に、漢語の「黄泉(こうせん)」の字を充てたものです。漢語で「黄泉」は「地下の泉」を意味し、それが転じて地下の死者の世界の意味となりました。「想い出が蘇る」などと言う「蘇る」は、「黄泉から帰る」、すなわち、生き返る意が原義だと言います。
語源には以下のような諸説があります。
「夜」説:夜方(よも)、夜見(よみ)の意味、あるいは「夜迷い」の訛りともいいます。
「四方」説:。単に生活圏外を表すとの説。
「闇」説:。闇(ヤミ)から黄泉(ヨモ・ヨミ)が派生したといいます。
「夢」説:。もともと夢(ユメ)のことをさしていたといいます。
「読み」説:。常世国の別名とする説で、常世国から祖霊が歳神(としがみ)として帰ってくる正月を算出するための暦(こよみ=日読み)から。
「山」説:。黄泉が「坂の上」にあり、原義は山であるとするがあります。古代の葬地が専ら山野だったことによると言います。
黄泉国には出入口が存在し、黄泉比良坂(よもつひらさか)といい、葦原中国とつながっているとされます。イザナギは死んだ妻・イザナミを追ってこの道を通り、黄泉国に入ったというのです。古事記には後に「根の堅州国」(ねのかたすくに)というものが出てきますがこれと黄泉国との関係については明言がなく、根の国と黄泉国が同じものなのかどうかは説が分かれるといいます。黄泉比良坂の「坂本」という表現があり、これは坂の下・坂の上り口を表しているという説と、「坂」の字は当て字であり「さか」は境界の意味であるという説とがあります。また古事記では、黄泉比良坂は、出雲国に存在する伊賦夜坂(いぶやざか)がそれであるとしており、現実の土地に擬されています。
以下、古事記には次のようにあります。
是(ここ)に其の妹(いも)伊邪那美命を相見むと欲(おも)ひて、黄泉国(よみのくに)に追ひ往きき。爾(ここ)に殿の縢戸(さしど)より出で向かへし時、伊邪那岐命、語らひ詔(の)りたまひけらく、「愛(うつく)しき我(あ)が那邇妹(なにも)の命(みこと)、吾(あれ)と汝(いまし)と作れる国、未だ作り竟(を)へず。故(かれ)、還るべし。」とのりたまひき。爾に伊邪那美命答へ白(まを)しけらく、「悔しきかも、速く来ずて。吾(あ)は黄泉戸喫為(よもつへぐいし)つ。然れども愛しき我が那勢(なせ)の命、入り来坐(きま)せる事恐(かしこ)し。故、還らむと欲ふを、且(しばら)く黄泉神(よもつがみ)と相論(あげつら)はむ。我をな視(み)たまひそ。」とまをしき。如此(かく)白して其の殿の内に還り入りし間、甚(いと)久しくて待ち難(かね)たまひき。故、左の御美豆良(みみづら)に刺せる湯津津間櫛(ゆつつまぐし)の男柱一箇(ひとつ)取り闕(か)きて、一つ火燭(びとも)して入り見たまひし時、宇士多加礼許呂呂岐弖(うじたかれころろきて)、頭(かしら)には大雷居り、胸には火(ほの)雷居り、腹には黒雷居り、陰(ほと)には拆(さき)雷居り、左の手には若(わか)雷居り、右の手には土雷居り、左の足には鳴(なり)雷居り、右の足には伏(ふし)雷居り、并(あは)せて八はしらの雷神(いかづちがみ)成り居りき。
是に伊邪那岐命、見畏(みかしこ)みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち予母都志許売(よもつしこめ)を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄(う)つれば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。是をひろひ食(は)む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋(たかむな)生りき。是を抜き食む間に、逃げ行きき。且後(またのち)には、其の八はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。爾に御佩(はか)せる十拳劒(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)に布伎都都(ふきつつ)逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて、待ち撃てば、悉(ことごと)に迯(に)げ返りき。爾に伊邪那岐命、其の桃子に告(の)りたまひけらく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆる宇都志伎(うつしき)青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ愡(なや)む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみ)命と号(い)ひき。
最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。爾に千引(ちびき)の石(いは)を其の黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各対(おのおのむかひ)立ちて、事戸を度(わた)す時、伊邪那美命言ひけらく、「愛しき我が那勢の命、如此為(せ)ば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯(おひしきし)を以ちて、道敷(みちしき)大神と号くといふ。亦其の黄泉の坂に塞(さや)りし石は、道反之(ちがへし)大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸(よみど)大神謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ。
現代語訳
伊邪那岐命は死んだ伊邪那美命にどうしても会いたくなり、黄泉国へ追っていった。黄泉国の殿舎の塞がれた戸から出迎えた伊邪那美命に向かって、伊邪那岐命は「愛しい我が妻よ、私と君と一緒に作った国はまだ作り終わってはいない。だから一緒に帰ろう。」といった。これに伊邪那美命は答えて「悔しいことです。なぜもっと速く来てくれなかったのです。私は黄泉国の竃で煮たものを食べてしまいました。もう現世には戻れません。でも愛しい我が夫がせっかくここまで来てくれました。私が帰れるように黄泉神と相談してみましょう。その間決して私を見ないで下さい」といった。伊邪那美命はそういってから殿舎の中に帰っていった、長い間待っていたが待ちきれなくなり、結った髪の左に刺していた湯津津間櫛の両端にある太い歯を一つ取って、一つ火を灯して中に入り見た時、伊邪那美命は蛆にたかられ、咽がかれてむせぶような音をたてていた。頭には大雷、胸には火雷、腹には黒雷、陰には拆雷、左の手には若雷、右の手には土雷、左の足には鳴雷、右の足には伏雷、あわせて八はしらの雷神が化生していた。
是に伊邪那岐命、見畏(みかしこ)みて逃げ還る時、其の妹伊邪那美命、「吾に辱見せつ。」と言ひて、即ち予母都志許売(よもつしこめ)を遣はして追はしめき。爾に伊邪那岐命、黒御鬘を取りて投げ棄(う)つれば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)りき。是をひろひ食(は)む間に、逃げ行くを、猶追ひしかば、亦其の右の御美豆良に刺せる湯津津間櫛を引き闕きて投げ棄つれば、乃ち笋(たかむな)生りき。是を抜き食む間に、逃げ行きき。且後(またのち)には、其の八はしらの雷神に、千五百(ちいほ)の黄泉軍(よもついくさ)を副(そ)へて追はしめき。爾に御佩(はか)せる十拳劒(とつかのつるぎ)を抜きて、後手(しりへで)に布伎都都(ふきつつ)逃げ来るを、猶追ひて、黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本に到りし時、其の坂本に在る桃子(もものみ)三箇(みつ)を取りて、待ち撃てば、悉(ことごと)に迯(に)げ返りき。爾に伊邪那岐命、其の桃子に告(の)りたまひけらく、「汝、吾を助けしが如く、葦原中国(あしはらのなかつくに)に有らゆる宇都志伎(うつしき)青人草(あをひとくさ)の、苦しき瀬に落ちて患(うれ)ひ愡(なや)む時、助くべし。」と告りて、名を賜ひて意富加牟豆美(おほかむづみ)命と号(い)ひき。
最後(いやはて)に其の妹伊邪那美命、身自(みずか)ら追ひ来りき。爾に千引(ちびき)の石(いは)を其の黄泉比良坂に引き塞(さ)へて、其の石を中に置きて、各対(おのおのむかひ)立ちて、事戸を度(わた)す時、伊邪那美命言ひけらく、「愛しき我が那勢の命、如此為(せ)ば、汝の国の人草、一日(ひとひ)に千頭(ちがしら)絞(くび)り殺さむ。」といひき。爾に伊邪那岐命詔りたまひけらく、「愛しき我が那邇妹の命、汝然為ば、吾一日に千五百の産屋(うぶや)立てむ。」とのりたまひき。是を以ちて一日に必ず千人(ちたり)死に、一日に必ず千五百人(ちいほたり)生まるるなり。故、其の伊邪那美命を号(なづ)けて黄泉津(よもつ)大神と謂ふ。亦云はく、其の追斯伎斯(おひしきし)を以ちて、道敷(みちしき)大神と号くといふ。亦其の黄泉の坂に塞(さや)りし石は、道反之(ちがへし)大神と号け、亦塞り坐す黄泉戸(よみど)大神謂ふ。故、其の謂はゆる黄泉津良坂は、今、出雲国の伊賦夜(いふや)坂と謂ふ。
黄泉の国というのは言うまでもなく死者の世界であります。今日の私たちは死者の世界を霊的・宗教的なものとして考えがちですが、この黄泉の国の姿はひどく肉体的で、特に蛆がたかり波打つばかりであったというようなあたりは明らかに腐れただれた死体の印象からきたものです。説話化されているにもかかわらず黄泉の国の話には死体安置所である殯(もがり)に固有な肉体的臭気が付きまとっており何ら霊的なものを感じさせません。火葬の普及とともにモガリの制もやみ人間は死者の恐怖から解放されますが、それにかわって、死の恐怖が目覚め、かくして死後の世界は、道徳的・宗教的審判や呵責の行われる地獄の相貌を帯びることに至ります。仏教のもたらした地獄の日本的基盤を成すのが黄泉の国であったのは確かではありますが、黄泉の国には罪を罰するという地獄性は全くなく、現世との連続性がはっきりと見てとれます。
イザナギノ命が女神に会うために黄泉国を訪れる物語は、古代の貴人の死に行われる殯宮儀礼を背景として、形成されたものと言われます。「我をな視(み)たまひそ」というタブーを犯して、男神が女神をの屍体を見るのは、肉親を葬って後、近親者が屍体を見に行く風習があった事に関連して語られています。また女神の身体に雷神が発生していたとするのは、死霊に対する恐怖の心を具体的に語ったものなのでしょう。黄泉醜女(よもつしこめ)や黄泉軍(いくさ)が追いかける話は死霊や死の穢れに触れることの恐ろしさを語ったものでしょう。このように物を投げながら逃走する型の説話は世界的に広く分布しており、呪的逃走説話とよばれています。
桜餅(さくらもち)は、桜にちなんだ和菓子で、桜の葉で餅菓子を包んだものです。雛菓子の一でもあり、春の季語にもなっています。
関東風桜餅:関東で作られている桜餅。関東以外では長命寺餅とも呼ばれることもあります。関東では関東風の桜餅のことを長命寺と呼ぶことは少なく、「長命寺の桜餅」と称した場合、向島の「長命寺桜もち」製の桜餅を意味します。また、関西風の桜餅のことを道明寺と呼びます。
関西風桜餅:関西以西で作られている桜餅はふつう道明寺餅と呼ばれています。江戸で長命寺桜もちが文化文政年間に流行したことより、関東風桜餅が広く桜餅と呼ばれるようになり、他方の物を道明寺という名前で呼び分けています。関西では、関東風の桜餅のことを長命寺と呼ぶそうです。また、関西風の桜餅のことは道明寺と呼びます。
現在の桜餅だけでなく古文書などにも桜餅の名前が見えます。
桔梗屋菓子目録:南方熊楠によれば、桜餅の知られている出現は天和三年(1683年)であります。太田南畝の著「一話一言」に登場する京菓子司、桔梗屋の河内大掾が菓子目録に載せたといいます。天和三年には桔梗屋菓子目録が出版され、また京菓子司・桔梗屋の河内大掾が江戸に店舗を構えました。これは蒸菓子であり、後の世の物とは別の物のようです。昔の作り方では餅を桜の葉で包み、蒸籠で蒸すやり方があます。
男重宝記:男重宝記(元禄六年、1693年)に「桜餅」とあるところに桜の五弁の花びらを模した桜餅の図が載っていて、その傍らに「中へあん入れる」と記されています。
茶湯献立指南(元禄九年、1696年):「秋の野」「伊勢桜」など風流な名称の菓子が見られます。
長命寺の桜餅は享保二年(1717年)に、元々は寺の門番であった山本新六が門前で山本屋を創業し売り出したのがはじまりとされます。隅田川の桜の落ち葉を醤油樽で塩漬けにし、餅に巻いたとされます。もとは墓参の人をもてなした手製の菓子であったといわれ、桜餅の葉は落ち葉掃除で出た桜の葉を用いることを思い至ったからだといいます。はじめは桜の葉のしょうゆ漬けだったともいわれます。山本新六は下総国銚子の人で元禄四年(1691年)から長命寺の門番をしていました。将軍吉宗の台命により享保二年(1717年)同じ年に側傍の隅田川沿いに北から南へ桜木の植栽が行われ、これを機に花見時に賑わい発展しました。記録に文政のころ(1818-1830年)の桜餅屋のことが上がっています。曲亭馬琴他編の『兎園小説』の中で屋代弘賢が書いている内容からは盛況ぶりがうかがえます。
「去年甲申一年の仕込高、桜葉漬込卅壱樽、但し一樽に凡そ二万五千枚程入、葉数〆七拾七万五千枚なり、但し餅一に葉弐枚宛なり、此餅数〆卅八万七千五百、一つの価四文宛、此代〆壱千五百五拾貫文なり、金に直して二百廿ヒ両壱分弐朱と四百五拾文、但六貫八百文の相場、此内五拾両砂糖代を引き、年中平均して一日の売高四貫三百五文三分宛なり」屋代弘賢、兎園小説(文政八年、1825年)
桜餅一つの売値四文は現在の価値に直すと、推定で米の価格から換算した場合は約63円、大工の賃金から換算した場合は約322円。喜多村信節著文政十三年(1830年)自序の『嬉遊笑覧』には内容を変えて作られていることが記されています。
「近年隅田川長命寺の内にて櫻の葉を貯へ置て櫻餅とて柏餅のやうに葛粉にて作るはしめハ粳米にて製りしがやがてかくかへたり」『嬉遊笑覧巻十上 飲食』(文政十三年、1830年)
三田村鳶魚著の『桜餅』には「不忍の新土手は文政三年の築造であるから、それより前に、長命寺の桜餅があったのである。」とあり、文政三年(1820年)より前に長命寺の桜餅はあったと推察しています。
桜餅はさまざまな絵画や詩文にも登場します。 『東都歳時記』(天保九年、1838年)長谷川雪旦画「桜餅屋」は、「隅田川名物 さくらもち」の店の絵の図である。
歌川国芳の「諸鳥やすうりづくし」(天保十三年頃、1842年頃)には、隅田川名物櫻もちを作る2羽の都鳥が描かれている。この桜餅は現代のものとは異なり、餡を使っていません。
歌川広重二代画・喜翁(歌川豊国)三代筆「江戸自慢三十六興 向嶋堤ノ花并ニさくら餅」(元治元年、1864年)には、桜咲く墨堤を背景に、二人の女性が桜餅の袋を提げた竿の両端を持って歩いてゆく姿が描かれています。
明治二十一年の夏に正岡子規が長命寺境内の山本屋の二階に泊まっていた際に、七草集にある「花の香を若葉にこめてかぐはしき桜の餅(もちひ)家づとにせよ」(明治二十一年、1888年)という歌を詠んでいます。
道明寺(どうみょうじ)は、道明寺粉を用い、桜の葉で包む桜餅。京都の茶店や和菓子店でよく見られるとして京風桜餅とも呼ばれるものです。伝統で典型的なものの一つになっています。大阪府藤井寺市に材料の道明寺粉の由来にもなったという同名の寺があります。
もち米で出来た昔からの餅の姿が、古くから伝わる和菓子の流れに合っていて各地に通じて広まっている。東京製菓学校では、長命寺がもとと考えているが、根拠は挙げていません。同じように道明寺粉で作った餅を葉で挟む椿餅があります。
古代の日本人は稲、粟、稗などを主食とし、狩猟や漁撈などによってタンパク質を得ていましたが、そのほかにも空腹を感じると野生の木の実や果物をとって食していたと考えられ、これが間食としての菓子のはじまりであろうと考えられています。(現代においても果物は「水菓子」と呼ばれます。)初めは生のまま食べていましたが、次第に保存のため乾燥させたり、灰汁(あく)を抜いた木の実の粉で粥状のものを作ったり、あるいは丸めて団子状したりするようになり、今日の団子や餅の原型となるものが作られるようになっていきました。
『古事記』『日本書紀』においては、垂仁天皇の命で田道間守が不老不死の理想郷に赴き、10年の探索の末に非時具香菓(ときじくのかくのみ、橘の実とされる)を持ち帰ったと記されており、これによって果子(果物)は菓子の最初とされ、田道間守は菓祖神とされています。
『古事記』によるタジマモリの記述は以下の通りです。
「垂仁天皇は、三宅連の祖先の多遅摩毛理(タジマモリ)を常世国に派遣して、"ときじくのかくの木の実"を探させた。多遅摩毛理は遂に常世国へと到り、木の実を取って持ち帰ったが、そのとき既に天皇は崩御していた。そこで、多遅摩毛理は半分の苗を皇后に献上し、残り半分の苗を天皇の墓の入口に供えた。そして、木の実を持って大きな声で泣き叫び、「縵四縵(カゲヨカゲ)・矛四矛(ホコヨホコ)を分けて大后に献り、常世国の"ときじくのかくの木の実"を持って来ました」と申し上げると、そのまま泣き叫びながら死んでしまった。"ときじくのかくの木の実"とは今で言うところの橘(タチバナ)である。 垂仁天皇は153歳で亡くなった。墓は菅原の御立野の中にある。」
和菓子の原型は、推古天皇の頃、600年代より遣隋使を派遣し、中国大陸との交流を始めたことにより整えられていきました。文武天皇の治世の704年には、遣唐使の粟田真人によって、唐から唐果子(からくだもの)8種と果餅14種の唐菓子が日本にもたらされました。この中には油で揚げて作るものもあり、これはそれまでの日本にはなかった菓子の製法でした。これらの菓子は祭神用として尊ばれ、現在でも熱田神宮や春日大社、八坂神社などの神餞としてその形を残しています。奈良時代の754年には鑑真によって砂糖や蜂蜜が、平安初期の806年には空海によって煎餅の製法が伝えられました。
鎌倉時代には、宋から茶苗を持ち帰った栄西によって茶の栽培と普及が進められて喫茶文化が広まったことにより、点心の一つとしての菓子作りも発達していきました。当時食されていた菓子は今日にはほとんどその形をとどめていませんが、1341年に日本にもたらされた饅頭(蒸し饅頭)は、現在も続いている最も古い菓子の一つです。饅頭は仁和寺の第二世龍山徳見に弟子入りした宋の林浄因によってもたらされたもので、浄因は奈良の村に定住して日本における最初の饅頭である「奈良饅頭」を売り出しました。饅頭には当初中国のものにならって羊豚の肉が餡として使われていましたが、日本には当時肉食の習慣がなかったため、浄因は肉の代わりに豆類餡を入れたものを創案し、この形の饅頭が全国に波及していきました。鎌倉時代から室町時代にかけてもたらされた羊羹も、もともとは文字通り羊の肉が使われていたものでしが、日本では小豆を使用したものに改良されてしだいに現在の形になっていったものです。
室 町時代にはポルトガル、スペイン、オランダの宣教師たちにより、カステラ、ボーロ、金平糖、カルメラといったいわゆる南蛮菓子がもたらされ、小麦粉や砂糖を使ったこれらの菓子は和菓子の製法と発展にも大きな影響を与えました。またこれらの南蛮菓子もその後の改良により、伝来時の形と大きく異なっているものも少なくありません。
その後、江戸時代には鎖国体制が敷かれたため菓子の発展にもいったん歯止めをかけることになりますが、一方でそれまで貴重品であった砂糖の輸入も増え、また平和が続いたこともあって独自に製菓技術が発達していき、江戸で武家や庶民に親しまれた江戸菓子、京都のみやびな京菓子がその形を整えていきました。また参勤交代制度によって各地の街道が整備されたことでひとびとの行き来や情報交流が盛んになり、各地の銘菓・名物菓子が知られるようになりました。このようにして江戸時代には現在の和菓子のほとんどが形作られたのです。
明治時代になると、開国とともに西洋の文化が押し寄せ、チョコレートやビスケット、ケーキ、キャンディーといった洋菓子が日本に次々と導入されてきました。これにともない新たに日本に入ってきた洋風菓子を「洋菓子」、それまでの日本の菓子を「和菓子」とする呼び分けがされるようになったのです。その後はあんパン、クリーム入りの饅頭といった和洋折衷の菓子なども生まれ、現代の日本では多様な菓子が並立する時代となっているのです。
日本にすっかりお馴染みになっている洋菓子の中には、言語を知っていればすぐにお菓子の形状が浮かぶものがあります。「シュークリーム」はフランス語 chou a la creame でクリーム入りのキャベツのことです。「バウムクーヘン」はドイツ語 Baumkuchen で樹の菓子をいみします。「ミルフィーユ」はフランス語 mille-feuille で千枚の葉という意味です。
ドイツ発祥の焼き菓子プレッツェルは独特な結び目の形に作られます。小麦粉とイーストを原料とし、焼く前に数秒間水酸化ナトリウム水溶液(3~5%)につけます。焼ける間に空気中の二酸化炭素と反応して炭酸ナトリウムと水に変化し、表面が特徴的な茶色になります。稀に炭酸水素ナトリウム水溶液にくぐらせることもあるといいます。ドイツ語圏ではアルカリ溶液を意味する Lauge を付け加えて、Laugenbrezel ラウゲン・ブレーツェルとも呼ばれます。焼き上げる前には岩塩の粒をまぶします。
語源はラテン語ブラーキテッルム brachitellum に由来し、その語根は bracchium 「腕」であるといいます。腕組をしたような形を示しています。古高ドイツ語 brezitella を経て、現代の諸方言につながっているといいます。プレッツェルの起源ははっきりわかっていません。一般的な説では、プレッツェルはブレーツェル Brezel、あるいはブレーツェ Brezeと呼ばれている南ドイツ(バーデン地方)の焼き菓子が広まったものとしています。それ以外にもドイツとの国境に近いフランス・アルザスの料理であるとする説もあります。最初に作られたのは中世ヨーロッパ時代とする説もあれば、ローマ帝国時代だとする説、他にも古代ケルト人の菓子であったとする説もあるそうです。
プレッツェルの独特の形についてもいろいろな説があります。窃盗の罪を犯したパン職人が、一つのパンから太陽を一つの角度から3度見ることができれば牢獄に入らなくても良いと領主に言われ、生地をプレッツェルの形にねじり上げて焼き上げたという伝承があるそうです。プレッツェルの形は祈りをささげている修道士をかたどったものだとする伝承もああります。また別の伝承によるとこの3つの穴はキリスト教の三位一体を象徴しているとしています。プレッツェルはパン屋のシンボルとして、よく店の看板やマークに使用されることがあるそうです。かつてドイツでは3つの輪をつなげた看板がパン屋の看板として使われていましたが、プレッツェルの形が看板として使われたのか、プレッツェルが看板の形に作られたのかはっきりしません。しかし、いずれの伝承も後付けされたものであるようで、答えはわかりません。
シフォン‐ケーキ(chiffon cake)は小麦粉に卵・砂糖・サラダ油を混ぜて練り、型に入れて焼いた洋菓子です。スポンジケーキの一種で、アメリカで生まれたといいます。シフォン(薄い平織りの絹織物、フランス語の語源はぼろ布)のような軽くふんわりとした食感であるところからの名といいます。
エクレアの代表的なチョコレートのアイシングをかけた品は、仏語でエクレール・オ・ショコラ(éclair au chocolat)と呼ばれます。「エクレール」とは仏語で「雷・稲妻」の意味で、この名前の由来にはいくつか説があり、焼いた表面にできる割れ目が稲妻に似ているために名付けられたという説、アイシングのフォンダンがぎらりと光るからという説、中のクリームが飛び出たり表面のフォンダンが溶けないうちに稲妻のように素早く食べるべしということで名付けられた説などがあります。
※アイシング(英: icing、砂糖衣がけ)とは、焼き菓子を覆う甘いクリーム状のペーストです。アメリカでは主にフロスティング(frosting)と呼ばれるそうです。
エクレアは、細長いシュークリームの上に薄くチョコレートをかけた洋菓子です。代表的なチョコレートのアイシングをかけた品は、フランス語でエクレール・オ・ショコラ(éclair au chocolat)と呼ばれます。「エクレール」とは仏語で「雷・稲妻」の意味で、この名前の由来にはいくつか説があり、焼いた表面にできる割れ目が稲妻に似ているために名付けられたという説、アイシングのフォンダンがぎらりと光るからという説、中のクリームが飛び出たり表面のフォンダンが溶けないうちに稲妻のように素早く食べるべしということで名付けられた説などがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=iZ1Tjz0VhXk
シュトーレンは洋酒に漬け込んだドライフルーツやナッツが生地に練りこまれており、表面にはたっぷりの砂糖がまぶされています。
ドイツ語の綴りがStollenなので、正確には「シュトレン」と言うそうです。日本では「シュトーレン」が一般的で、シュトーレンと書かれているのを見かけますが、ドイツ語の発音規則としては正しくないのだそうです。シュトレンはドイツ語で「坑道」の意味です。またその真っ白な形は、白い産着に包まれた幼子イエスをイメージしているとも言われています。
柔らくて甘い洋菓子のマシュマロ(marshmallow)は、その音からして、いかにも丸くてふわふわしたいめーじにあっているようですが、本来は単なる植物名なのです。Marsh は「沼地」、mallow は「葵」で、和名をウスベニタチアオイという植物の根なのです。その粘液を原料として作ったところからの名だと言います。いまでは水飴やゼラチンなどで作られているそうです。
先週の火曜日(5月16日)から風邪をひき、咳に悩まされました。市販の咳止めで咳は何とかおさまりましたが、胃腸の具合が悪く、家の中に閉じこもっていたのですが、ブログもついついサボりがちになってしまいました。そんなわけで、今年の三社祭は本神輿にもお目にかかっていません。水曜日には下関在住の甥が訪ねてくれたのですが、その応対もままならぬ有様でした。
福岡の甥からメールが入り、今度は娘夫婦も巻き込んで新しくメール句会を始めるようです。今回も冊子にするとのこと、今日から再びパソコンの前に座ることにしました。
ウェブニュースより
宇良、特別な相手に快勝=大相撲夏場所 ―― 宇良は立ち合いで右に動いて北勝富士の圧力をかわすと、右を差されても慌てなかった。肩透かし気味にいなして後ろにつき、持ち味のスピードとうまさを見せた。
同学年で学生横綱にもなった北勝富士は特別な相手で「序ノ口から当たってきた。番付を上げて対戦できるのがうれしい」と言う。幕内での初対戦に快勝して白星を2桁に乗せ、「あと三つに集中したい」と意欲を高めていた。(jiji.com 2017/05/25-20:44)
石浦、勢の右差し封じて肩すかしで勝つ ―― 大相撲夏場所12日目 ○石浦(肩すかし)勢●(25日・両国国技館) 西前頭11枚目・石浦(27)=宮城野=が西前頭6枚目の勢(30)=伊勢ノ海=と対戦した。
石浦は立ち合いで勢の右差しを封じると、そのまま肩すかしで勝利した。石浦は6勝6敗。 (スポーツ報知5月25日(木)17時9分)
藤井四段19連勝で竜王戦決勝T進出「攻め続けたのが良かった」と淡々 ―― 将棋の最年少プロ棋士で、デビューから無敗の18連勝を記録していた藤井聡太四段(14)が25日、東京・千駄ヶ谷の将棋会館で行われた、竜王戦6組ランキング戦の決勝戦で、近藤誠也五段(20)を102手で破った。自身が持つデビューからの連勝記録を19に伸ばすとともに、竜王戦の決勝トーナメント進出も決定。史上最年少でのタイトル獲得に、一歩近づいた。
相手に付け入る隙を与えない完勝にも、藤井四段は笑みを浮かべず淡々。「攻め続けたのが良かった」と自己分析した。前代未聞の中学生タイトルホルダーへ向け、決勝トーナメント進出を決めた藤井四段は「19連勝はうれしいです。(決勝トーナメントでは)強い先生ばかりとの対戦になるので、気を引き締めて全力でぶつかりたい」と前を向いた。
対戦相手の近藤五段は15年10月に四段に昇段してプロとなり、24日までの通算勝率は7割4分を超えている。11月には王将戦の挑戦者決定リーグ戦で、羽生善治三冠(46)を破った。今年に入っても、1月12日の順位戦C級2組から3月9日の竜王戦6組まで10連勝をマークするなど、14勝1敗という驚異的な成績で、順位戦では1期でC級1組への昇格を決めており、将来の名人候補との呼び声も高い存在だ。
その近藤五段に対し、後手番となった藤井四段は、真っ向勝負を挑んだ。戦形は、近藤五段が羽生三冠を破った対局でも採用した「相掛かり」。藤井四段は自身の得意な「角換わり」ではなく、相手の得意戦法を受けて立つ形となった。序盤から力のこもった戦いが続いたが、中盤に機敏な指し回しで優位を築くと、夕食休憩時にはすでにはっきり優勢との評判に。最後は抜群の終盤力できっちり押し切った。
これで19連勝となり、歴代単独7位に。さらに、11人による竜王戦の挑戦者決定トーナメントにも駒を進めた。デビュー1年目で竜王戦6組を優勝したのは、通算8人目。このまま決勝トーナメントも勝ち進めば、前代未聞の中学生タイトルホルダー誕生の可能性も出てくる。
一挙手一投足が注目される藤井四段は、対局中の食事も“勝負メシ”として話題となっている。この日の昼食は、ボリューム満点なことで知られる中華料理店「紫金飯店」の五目焼きそば。デビュー戦となった昨年12月の加藤一二三九段戦でも、夕食に同店の卵チャーハンを注文した。夕食は、将棋会館での出前メニューの“定番”である「ほそ島や」のチャーシューメン。昼夜とも恒例の麺類で、しっかり栄養分を補給した。
明日からまたがんばります。よろしく。
手の「ゆび」の語源をしらべてみると、
〔指の語源は諸説あるが、古くは「および」と言い、さし出して物に及ぶところから、「及び(および)」の意味とする説がよい。/現在では手足ともに「ゆび」と呼ぶが、元は手のものを「指(てゆび)」、足のものを「趾(あしゆび)」といって区別していた。/漢字の「指」は、「手」+「音符旨(シ)」からなる形声文字で、まっすぐに伸びて直線に物をさすゆびを表している。/なお、「旨」には「うまい」の意味があるが、「指」の漢字では音符に過ぎず「うまい」といった意味は含まれていない。〕(語源由来辞典より)
とあります。
指のそれぞれの名前は、親指・人差指・中指・薬指・小指ですが、昔の和語では、おおゆび・塩なめゆび・丈高(たけだか)ゆび・紅さしゆび・ちいさゆびと呼ばれていました。漢語では、拇指(ぼし)・食指・中指(ちゅうし)・無名指(むめいし)・小指(しょうし)といいます。
親指の意味:西洋文化では親指以外の指を握り、親指を上へ向けてのばす動作は良い状態、あるいは肯定を表します(Thumbs up〈サムズアップ〉)。そのまま親指を下へ向けると、否定、もしくは「死ね」を表すことになります。一説には古代ローマの剣闘士における生死をかけた真剣勝負に負けた側の処遇を指示する仕草に由来し、健闘むなしく負けた剣士には賛辞と慈悲の助命としてサムズアップを、卑劣な戦いや臆病な行動に対する不満には親指を下にして止めを刺すよう求めたといいます。こと後者は西洋でははっきりとした敵意のイメージを相手に与える動作として使われています。ゆえに、西洋でむやみにこれを使うと人間関係が破壊されることもあります。
中世の日本では「おほゆび(大指)」と呼ばれ、江戸時代から「おやゆび」の用例が見られるようになったといいます。親指の呼称が定着したのは明治時代以後のことです。日本のボディーランゲージでは、親指は「男」を意味します。日本手話でも「男」または「彼(三人称の代名詞)」)という意味で使われるそうです。「霊柩車を見た時は親指を隠す」「野犬に吠えつかれた時は親指を隠す」など、俗信の対象ともなっています。
人差指の意味:文化によっては、人差し指で他人を指差す行為は無礼に当たり、挑発行為と見なされる場合もあります。人差し指を立て、横に振ることは相手に対する不同意を示すことになります。唇近くで人差し指を立てることは「静かに」「音を立てないように」と相手に注意を促す意味を持ちます。
日本においては、人差し指を鉤型に曲げると窃盗を示します。イタリアでは、子供が美味であることを示す場合、人差し指を頬にあて、ねじるように動かす行為をします。飲茶の習慣では、他人にお茶を注いでもらった際などに人差し指と中指でテーブルを2回叩くことで感謝を表現します。一方、フィリピンでは指でテーブルを叩くことは無礼なこととされているのです。
漢語では人差指を食指と言い、食欲や物事についての興味をしめすことを「食指を動かす」と言いますが、これについては以下の故事があります。
『春秋左氏伝』宣公四年より
楚の人が黿(げん、すっぽん)を鄭の霊公に献じた。公子宋と公子家とが、連れ立って朝廷に上がったところ、子公(子宋)の食指がぴくぴくと動く。子公はその指を帰生(子家)に見せた。
「今までこういうことがあると、わたしはきっと珍しいご馳走にありつくのだよ。」
君の前に出ると(果たして)料理版が鼈を割いているので、二人は思わず顔を見合わせて笑った・公が気づいて笑うわけを訊いたから、子家が(食指のことを)話した。それなのに、大夫たちに鼈のお相伴をさせる段になって、わざと公子を召しておきながら、食べさせない。子公は怒り、すっぽんの鼎に指をすりつけ、その指を嘗め嘗め退(さが)った。公は腹を立て、子公を殺してやろうと思った。子公は子家に先手を打とうと持ちかけたが、子家はとめて、
「家畜でも飼いなれたら殺しにくいものだ。まして主人ではないか」
すると子公は(それならば)子家を公に謗ろうとしたので、子家はやむを得ず従って、夏、二人で霊公を弑(あや)めた。―― 平凡社、中国古典文学大系2、春秋左氏伝より
中指の意味:手の甲を相手に向けて中指だけを立てるジェスチャーは、欧米社会などの英語圏で相手を侮辱する"Fuck You" を意味し、日本でもファックサインと呼ばれています。(くたばれ、くそくらえ)などの侮蔑表現に相当する卑猥で強烈な侮辱の仕草なのです。サインを出した後、突き上げるようにするとさらに意味が強くなるといいます。
古英語の時代には「こんにちは」のあいさつ、中・新英語の時代は「鳥をすばやく投げる」という意味で、元は汚い意味ではありませんでした。
ちなみに日本の指文字の「せ」は中指だけを立てますが、手の甲を自分に向けます。また、日本手話においての「兄」は手の甲を相手に向けて中指のみを立てるのだそうです。
薬指の意味:薬指はパソコンの語源由来辞典によれば、次のようにあります。
【薬指の語源・由来】
薬指を古くは「ナナシノユビ」「ナナシノオユビ」「ナナシノオヨビ」といい、中世頃から「クスシノユビ」「クスシユビ」、江戸時代から「クスリユビ」「ベニサシユビ」と呼ばれ、明治後半以降、「薬指」が一般的な呼称となった。/「ナナシノユビ」「ナナシノオユビ」「ナナシノオヨビ」の「ナナシ(名無し)」は、中国で薬指のことを「無名指」と呼んでいたことから、その訳語と考えられ、「オユビ」「オヨビ」は「指」をいう古語である。/「クスシノユビ」「クスシユビ」の「クスシ(薬師)」は「薬師如来」のことで、薬師如来が印を結ぶ際に使う指だからという説がある。/「ベニサシユビ(紅差し指)」は紅をさすのに使う指の意味で、「クスリユビ(薬指)」は薬をつけたり、薬を水に溶かしたりするのに用いる指からと考えられている。/「薬師指」から「薬指」への変化は、上記の役割からと考えられているが、それ以前に「薬師(やくし)」を「くすし」と呼んでいる点に疑問が残る。/「薬師」を「くすし」といった場合、「医者」や「薬師(くすりし)」を表し、その語源は「くすりし」の略や、治療する意味の「くすす」からと考えられている。/そのため、「薬師指」と呼ばれていた時点で、薬を水に溶かしてつけるのに用いる指という意味があったとも考えられる。
薬指の由来は、昔、薬を水に溶かす際や塗る際にこの指を使ったことによるという説、薬師如来が右の第四指を曲げている事によるとすめ説があります。和語では薬師(くすし)指、医者指といった、薬と関連する用例の他、紅差し指(紅付け指)ともいいます。最も古い名無し指(漢語では無名指との呼び方がある)もあるそうです。方言の分布状況としては西日本で紅差し指系の用例が多く、東日本では薬指系の用例が多いといいます。
薬指の名称が薬師如来の印相に由来するという説では、第四指が薬指と呼ばれるようになった以降、呼び名からこの指で薬を塗るなどの俗習が広まったとします。
英語ではfourth fingerですが、ring finger が一般的です。婚約指輪は右手の、結婚指輪は左手の薬指に着用するのだそうです。
小指の意味:小指という名は最も小さい指であることに由来しています。漢語では小指(しょうし)、又、「季(すえ)の指」ということから季指との呼び方もあります。
日本では小指は「女」を意味します。「コレ」と言いつつ小指を立てると、(女性の)「恋人」「愛人」などの意味にもにります。
欧米の一部では、男性に向かって小指を立てるサインが重大な侮辱と取られる場合があるそうです。
日本では相手に対する誠意や忠義を示す風習として小指を切るという行為があり、かつては遊女が客に対して自分の小指を切断して渡すという行為があったといいます。また、現代の日本の暴力団では、落とし前の付け方として、小指を詰めることがしばしば行われていました。
https://matome.naver.jp/odai/2135805724674803201
https://www.youtube.com/watch?v=klafInH5Tbw
日本語で、指は指示や指摘の意味で用いられることが多く、それらに纏わる慣用句がたくさんあります。
・指を折る:指折りの、屈指の、多くの中で指を折って数え上げるほど優れていること。また、数える時の動態。
・指を差す:モノを指で示すこと。人をあざけりそしること。手を出すこと。
・指一本も差させない:他者に少しも非難を許さない潔癖な状態。また人に干渉させないことを言う。
・指の股を広げる:太鼓持ちが遊客をおだてて機嫌を取るさまを言う。
・指果報:指紋を見て占いをすること。転じて、思いがけない幸せ。
・指を咥える:うらやましがりながら、手を出せずにいる。また、きまり悪そうにする。恥ずかしそうにする。
指を用いて数える時は、人差し指を立てて 1、さらに中指を立てて 2、さらに薬指を立てて 3、さらに小指を立てて 4、さらに親指を立てて片手を広げて 5 を表します。両手を使うと 10 までを表せます。また左右の手の指に限らず、親指と人差し指で円を作ることで 0 を意味することがあります。
独特ではありますが、二進数の表記に指を用いることがあります。またその時は片手で 31 まで、両の手で 1023 までを表すことができるのです。ただし、数によっては(特に薬指を立てる場合)表すのが困難なものがあります。
日本語では古来、中国から大量の漢語、すなわち中国語の単語を借用してきました。漢語の造語法に習熟するにしたがい、独自の和製漢語を造るようになりました。その造語法をみると、まず漢字で表記した大和言葉を音読したものがあります。例えば、「火のこと」を「火事」、「おほね」を「大根」、「腹を立てる」を「立腹」とする類です。また、中国語にない日本特有の概念や制度、物を表すために漢語の造語法を用いたものがあります。「介錯」「芸者」などがその例です。
『解体新書』刊行後、医学が発展したことはもちろんですが、オランダ語の理解が進み、鎖国下の日本において西洋の文物を理解する下地ができたことは重要です。また大槻玄沢などの人材が育つ契機ともなりました。翻訳の際に「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」などの語が作られ、それは今日でも使われています。例えば、「神経」は杉田玄白らが解体新書を翻訳する際、神気と経脈とを合わせた造語をあてたことに由来しており、これは現在の漢字圏でもそのまま使われています。もっとも、最初の翻訳という性質上仕方ないことでありますが、『解体新書』には誤訳も多かったため、のちに大槻玄沢が訳し直し、『重訂解体新書』を文政9年(1826年)に刊行します。なお、「『十二指腸』の名前は誤訳であったが訂正されずに現在に至り、正式な医学用語として定着してしまった」と言われていますが、これは俗説のようです。
長い鎖国時代が終わり、開国と同時に西洋文明がどっと流れ込んできた幕末・明治期に、外国の文物を日本語に取り込むとき、当時の人は漢語に翻訳する工夫をしました。今では当たり前の日本語として定着している言葉の中には、当時の名だたる知識人が知恵を絞った翻訳語がいくつもあります。例えば、小栗上野介「company→商社」、西周「logic→論理学」、中江兆民「symbole→象徴」、井上哲次郎「ethics→倫理学」、福沢諭吉「copyright→版権」、坪内逍遥「dance→舞踊」などがあります。
小栗上野介は独特な言語センスの持ち主であったらしく、頑迷固陋な役人のことを、「器械」という単語を捩って「製糞器」と呼び、彼らを嘲っています。西周は明治文化の功労者の一人であり、「哲学」という国字の開発者であると共に、我国哲学界の先駆者として知られています。中江兆民はルソー『民約訳解』翻訳刊行等により自由民権運動に人民主権の理論を提供し“東洋のルソー”といわれましたた。門人に幸徳秋水らがいます。井上哲次郎はドイツ観念論哲学を紹介し、日本の観念論哲学を確立した人です。
知的財産権の一つである「著作権」――福沢諭吉がcopyrightを「版権」と訳したのが最初だと言います。1875年の出版条例で正式に決定されますが、1899年の著作権法で「著作権」という言葉に置き換えられました。
「舞踊」という言葉はすっかり日本語として馴染んでいますが、ダンスの訳語として「舞」と「踊」とを組み合わせて作られた歴史的には比較的浅い語なのです。1904年の坪内逍遥の『新楽劇論』によって広まったということです。
明治期には、手の「舞」と足の「踏(ふみ)」とを合わせた「舞踏」も、同じく「ダンス」の訳語として用いられました。実は「舞踏」という言葉自体は起源が古く、『源氏物語』33帖「藤裏葉」にも登場します。叙位・任官などのとき拝謝の意を示す礼(再拝して袖を振り、手を動かして足を踏んだりする.「拝舞」とも言います)のことです。
池の魚〔いを〕を左少将取り、蔵人所〔くらうどどころ〕の鷹飼〔たかがひ〕の北野に狩り仕〔つか〕まつれる鳥一番〔ひとつがひ〕を、右少将捧げて、寝殿〔しんでん〕の東〔ひむがし〕より御前〔まへ〕に出〔い〕でて、御階〔みはし〕の左右に膝をつきて奏〔そう〕す。太政大臣〔おほきおとど〕、仰せ言〔ごと〕賜〔たま〕ひて、調〔てう〕じて御膳〔おもの〕に参る。親王〔みこ〕たち、上達部〔かんだちめ〕などの御まうけも、めづらしきさまに、常の事どもを変へて仕うまつらせ給へり。
皆御酔〔ゑ〕ひになりて、暮れかかるほどに、楽所〔がくそ〕の人召す。わざとの大楽〔おほがく〕にはあらず、なまめかしきほどに、殿上〔てんじやう〕の童〔わらは〕べ、舞仕うまつる。朱雀院〔すざくゐん〕の紅葉の賀〔が〕、例〔れい〕の古事〔ふるごと〕思〔おぼ〕し出でらる。「賀王恩」といふものを奏するほどに、太政大臣の御弟子〔おとご〕の十ばかりなる、切〔せち〕におもしろう舞ふ。内の帝、御衣〔ぞ〕ぬぎて賜ふ。太政大臣下りて舞踏〔ぶたふ〕し給ふ。 (源氏物語33帖 藤裏葉より)
現代語訳
池の魚を、左の少将が取り、蔵人所の鷹飼が北野で捕まえ申し上げた鳥一番を右の少将が捧げて、寝殿の東から御前に出て、階段の左右に膝をついて申し上げる。太政大臣が冷泉帝のお言葉をいただいて、調理をしてお膳としてお出し申し上げる。親王たちや上達部などの饗応も、めずらしい様子で、普段の目先を変えて御用意申し上げなさった。
皆お酔いになって、日が暮れ始める頃に、楽所の演奏家をお呼びになる。大掛かりな舞楽ではなく、優美な感じに、殿上の童たちが、舞をし申し上げる。朱雀院の紅葉の賀を、いつものように、先例をふと思い出しなさる。「賀王恩」という舞楽を演奏する時に、太政大臣の末っ子の十歳ぐらいであるのが、とてもみごとに舞う。内裏の帝〔:冷泉帝〕が、衣服を脱いでお与えになる。太政大臣が庭におりてお礼の舞をなさる。
「ダンス」の意の「舞踏」は、いまは前衛舞踊などで使うほか、「舞踏会」「舞踏病」と言った語に名残をとどめます。
雛罌粟(ひなげし)は、罌粟の仲間ですが、麻酔物質をもちません。1972年田中内閣が成立、日中国交が復活した年にアグネス・チャンの「ひなげしの花」が巷に流れました。
https://www.youtube.com/watch?v=XcU7cRjcdMs
楚の項羽は垓下(がいか)で漢の劉邦(りゅうほう、高祖)の軍に囲まれた時、「四面楚歌」のなかでみずからの敗北を知り、寵姫虞美人を前に、「虞や虞や、なんじをいかんせん」と嘆きます。虞美人は項羽に和して歌い、自害します。この虞美人の墓に真紅の花「ひなげし」が咲いたという伝説にもとづいて、これを「虞美人草」と呼んだと言います。
虞美人は、気位の高い女性だったようです。そういえば、夏目漱石の小説「虞美人草」の女性も気が強いようでした。ともに、「ひなげし」のはかなげなたおやかさはありません。
人名から付けられた植物に「ベンケイ草」があります。山地に生え、高さ約50センチ、いきぐさともいいます。葉は対生し、楕円形で厚く、白みを帯びる。夏から秋、淡紅色の小花が多数集まって咲きます。ベンケイソウ科の双子葉植物は約1500種がオーストラリアを除く全世界に分布しています。多肉性の草本が多く、キリンソウ・タコノアシなども含まれています。
和名を「ミセバヤ」という、ベンケイソウの仲間で秋に淡紅色の花をつける植物があります。君に見せばや(見せたいものだ)」と、控えめな願望をあらわした名前ですが、「見て呉れ」は江戸時代には「見体」という当て字があるように、見かけ、外見の意です。「これを見て呉れ」といわんばかりに、他人に派手な身なりや言動を見せつける言葉です。この押しつけがましさに対して控え目な願望を表した言葉が「見せばや」です。
源平の一の谷の戦いで、若武者平の敦盛を剛の者熊谷直実が泣く泣く討つ話は『平家物語』の名場面です。その二人の武者が母衣(ほろ、鎧の背につけて、飾りにしたり、流れや除けにした布)を背負う姿に見立てた植物がアツモリソウとクマガイソウです。
ともにラン科の多年草ですが、アツモリソウは深山に自生し、夏、紫紅色の花を開き、クマガイソウは山地の林に春、紅紫の小さい斑点のある白い花を開きます。
一般に中国四大美人と呼ばれるのは次の女性たちといわれています。
西施(春秋時代)・王昭君(漢)・貂蝉(後漢)・楊貴妃(唐)
ただし、このほかに卓文君(漢)を加え、王昭君を除くこともあります。また虞美人(秦末)を加え、貂蝉を除くこともあります。
西施
本名は施夷光(しいこう)。中国では西子ともいいます。紀元前5世紀、春秋時代末期の浙江省紹興市諸曁県(しょきけん、現在の諸曁市)生まれだと言われています。現代に広く伝わる西施と言う名前は、出身地である苧蘿(ちょら)村に施と言う姓の家族が東西二つの村に住んでいて、彼女は西側の村に住んでいたため、西村の施→西施と呼ばれるようになったと言います。
西施(せいし)の「顰(ひそみ)に倣(なら)う」という故事を四字熟語としたものが、「西施捧心(せいしほうしん)」です。
越王勾践が、呉王夫差に、復讐のための策謀として献上した美女たちの中に、西施や鄭旦などがいました。貧しい薪売りの娘として産まれた施夷光は谷川で洗濯をしている姿を見出されたといわれています。策略は見事にはまり、夫差は彼女らに夢中になり、呉国は弱体化し、ついに越に滅ぼされることになります。呉が滅びた後の生涯は不明ですが、勾践夫人が彼女の美貌を恐れ、夫も二の舞にならぬよう、また呉国の人民も彼女のことを妖術で国王をたぶらかし、国を滅亡に追い込んだ妖怪と思っていたことから、西施も生きたまま皮袋に入れられ長江に投げられたともいわれています。その後、長江で蛤がよく獲れるようになり、人々は西施の舌だと噂しあったと言います。この事から、中国では蛤のことを西施の舌とも呼ぶようになったそうです。
また、美女献上の策案者であり世話役でもあった范蠡(はんれい)に付き従って越を出奔し、余生を暮らしたという説もあります。
中国四大美人の一人と呼ばれる一方で、俗説では絶世の美女である彼女達にも一点ずつ欠点があったともいわれており、それが西施の場合は大根足であったとされ、常に裾の長い衣が欠かせなかったといわれていそうです。逆に四大美女としての画題となると、彼女が川で足を出して洗濯をする姿に見とれて魚達は泳ぐのを忘れてしまったという俗説から「沈魚美人」といわれているそうです。
王昭君
『西京雑記』(せいけいざっき)は、前漢の出来事に関する逸話を集めた書物です。著者は晋の葛洪(かつ こう、283~343年、西晋・東晋時代の道教研究家・著述家)ともされますが、明らかではありません。この中の記述に次のようにあります。
〔元帝の後宮に住む女性たちは既にたくさんいたので、常に(元帝に)お目にかかることができるというわけではありませんでした。/そこで(元帝は)絵描きたちに(女性の)姿を描かせて、その絵で、(選んだ)女性を召し抱えて寵愛していました。/宮中の女性たちは皆、(美しく描いてもらおうと)絵描きたちに賄賂をわたし、多い者は十万(の賄賂)を、少ない者でも五万を下りませんでした /一人王嬙(王昭君)だけはこれを良しとしませんでした。/(醜く描かれた絵のせいで、王昭君は)ついに(元帝に)お目にかかることはできませんでした。
匈奴が朝貢してきたとき、美人をもらって君主の妻としたいと言いました。/(元帝は)そこで、(絵描きに描かせた)絵を参考に、王昭君を(妻として)行かせることにしました。/(王昭君が宮廷を)去ることになったので、(元帝が)召し抱えて(王昭君を)見たところ、(王昭君は)宮廷一の美貌でした。/対応の仕方がよく、立ち振舞いはしとやかで優雅でした。/元帝はこれ(王昭君を嫁がせること)を後悔しましたが、(王昭君の名が記された)名簿は既に出来上がっていました。/元帝は外国への信用を重視しました。/それゆえにもう人を変えることはしませんでした。/そこで(元帝は不思議に思って)その事を徹底的に調べて、絵描きたちを皆死刑にしてその死体を市中にさらしました。〕
前漢の元帝の時代、匈奴の呼韓邪単于((こかんやぜんう、?~BC31年)が、漢の女性を閼氏(あっし、匈奴の言葉で君主の妻)にしたいと、元帝に依頼したところ(逆に漢王朝が持ちかけたという説もあります)王昭君が選ばれました。以後、王昭君は呼韓邪単于の閼氏として一男を儲けます。その後、呼韓邪単于が死亡したため、当時の匈奴の習慣に倣い、義理の息子に当たる復株累若鞮単于(ぶくしゅるいにゃくたいぜんう、?~BC20年)の妻になって二女を儲けました。漢族は父の妻妾を息子が娶ることを実母との近親相姦に匹敵する不道徳と見なす道徳文化を持つため、このことが王昭君の悲劇とされました。『後漢書』によると、呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若鞮単于の妻になった時、王昭君は、反発しましたが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったとの記述があります。 こうした悲劇は『西京雑記』などで書き加えられ、民間にその伝承が広まりました。
王昭君は旅の途中、故郷の方向へ飛んでいく雁を見ながら望郷の思いをこめて琵琶をかき鳴らした所、彼女の姿と悲しい調べに魅入られて雁が次々に落ちてきたので、「落雁美人」と言われました。俗説では、撫で肩が欠点であったということで、いつも肩パットを愛用したとか?
貂蝉
貂蝉(ちょうせん)は、小説『三国志演義』に登場する架空の女性です。実在の人物ではありませんが、楊貴妃・西施・王昭君と並び、古代中国四大美人の一人に数えられるそうです。
『三国志演義』第八回から登場します。幼少時に市で売られていた孤児で、王允が引き取り、実の娘のように諸芸を学ばせて育てられました。朝廷を牛耳り、洛陽から長安に遷都するなど、暴虐の限りを尽くす董卓を見かねた王允が、董卓誅殺を行う為に当時16歳とされる養女・貂蝉を使い、董卓の養子の呂布と仲違いさせる計画を立てます。
王允はまず呂布に貂蝉を謁見させ、その美貌に惚れさせます。次に呂布とは別に貂蝉を董卓に謁見させ、董卓に貂蝉を渡してしまいます。怒った呂布が王允に詰問すると、「董卓には逆らえない」と言い繕い、その場を円く納めます。その後、呂布と貂蝉が度々密会し、貂蝉が呂布のもとにいたいという意思表示をするのです。2人が密会していることに董卓はいったん怒るのですが、腹心の李儒の進言により貂蝉を呂布の元に送るように言います。だが、一方で貂蝉は董卓にも「乱暴者の呂布の元には行きたくない」と泣きつき、董卓の下を動こうとしません。それに怒った呂布が王允と結託し、董卓を殺害するのです。2人の間に貂蝉を置き(美人計)、貂蝉を巡る両者の感情を利用し2人の関係に弱点を作り、そこを突く(離間計)、これが「連環の計」なのです。
董卓亡き後の貂蝉は呂布の妾となるのですが子ができません。(第十六回)
下邳(かひ)の攻防戦では、陳宮(ちんきゅう)に掎角(きかく、両雄が相対して勢力を争うこと)の勢を進言されこれに従い出陣しようとした呂布を正妻の厳氏ともに引き止めています。下邳陥落後の貂蝉については記述がありません。
楊貴妃(ようきひ、(719~756年))
中国、唐第6代皇帝玄宗の寵妃(ちょうひ)です。蒲州(ほしゅう)永楽(山西省城(ぜいじょう)県)出身の父楊玄(げんえん)が、蜀(しょく)州(四川(しせん)省崇慶(すうけい)県)司戸参軍として任地にあるとき生まれます。幼名を玉環(ぎょくかん)といい、早く父に死別、叔父の河南府士曹(しそう)参軍楊玄(げんきょう)の養女となったとされますが、玄の実子とする説もあります。
才知あり歌舞に巧みな豊満な美女で、735年玄宗の第18皇子寿王李瑁(りまい)の妃(きさき)となりましたが、ちょうど寵妃武恵妃と死別した玄宗はこれを愛し、740年寿王邸から出して女冠(じょかん)(女道士)とし、太真(たいしん)の名を与え、744年宮中に召したのです。翌年27歳で正式に貴妃に冊立、政務に飽きた玄宗の心を完全にとらえ、娘子(じょうし)とよばれて皇后に等しい待遇を受けました。
3人の姉は韓国(かんこく)、虢国(かくこく)、秦国(しんこく)夫人の称号を賜り、族兄楊(ようしょう)は国忠の名を賜り、一族みな高官に列し皇族と通婚し、官僚たちはみなこれに取り入ろうと競いました。貴妃の好む南方産のレイシ(茘枝)が早馬で届けられた話は有名です。
毎冬帝とともに華清宮温泉に遊び、宦官(かんがん)高力士、安禄山(あんろくざん)らも寵を競い、李白(りはく)らの宮廷詩人たちに囲まれ豪奢(ごうしゃ)な生活を送ったといいのす。しかし楊国忠と対立した安禄山がついに反乱し(安史の乱)、756年長安に迫るや、楊国忠の勧めで玄宗は蜀(四川)へ逃亡しようとし、貴妃および楊氏一族と少数の廷臣を引き連れ長安を脱出します。しかし西方数十キロメートルの馬嵬(ばかい)駅(陝西(せんせい)省興平県)で警固の兵士たちが反乱を起こし、国難を招いた責任者として国忠を殺し、さらに玄宗に迫って貴妃を駅の仏堂で縊殺(いさつ)せしめたのです。時に38歳であったといいます。
兵士はようやく鎮まって帝を守って成都へ向かった。長安奪回後、都へ戻った玄宗は馬嵬に埋められていた屍(しかばね)を棺に収めて改葬させましたが、余生は貴妃の画像に朝夕涙を流すのみであったといいます。貴妃と玄宗の情愛と悲劇は同時代から文学作品の題材とされ、白居易(はくきょい)(白楽天(はくらくてん))の『長恨歌(ちょうごんか)』をはじめ、後世まで多くの詩、戯曲、小説を生んだのです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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