瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 アジサイは6月から7月にかけて開花し、白、青、紫または赤色の萼(がく)が大きく発達した装飾花をもちます。ガクアジサイではこれが花序の周辺部を縁取るように並び、園芸では「額咲き」と呼ばれます。ガクアジサイから変化した、花序が球形ですべて装飾花となったアジサイは「手まり咲き」と呼ばれます。日本、ヨーロッパ、アメリカなどで観賞用に広く栽培され、多くの品種が作り出されています。原産地は日本で、ヨーロッパで品種改良されたものはセイヨウアジサイ と呼ばれています。

 アジサイの語源ははっきりしませんが、最古の和歌集『万葉集』では「味狭藍」「安治佐為」、平安時代の辞典『和名類聚抄』では「阿豆佐為」の字をあてて書かれています。もっとも有力とされているのは、「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」がなまったものとする説です。そのほか、「味」は評価を、「狭藍」は花の色を示すという谷川士清の説、「集まって咲くもの」とする山本章夫の説(『万葉古今動植物正名』)、「厚咲き」が転じたものであるという貝原益軒の説があります。花の色がよく変わることから、「七変化」「八仙花」とも呼ばれます。

 日本語で漢字表記に用いられる「紫陽花」は、唐の詩人白居易が別の花、おそらくライラックに付けた名で、平安時代の学者源順がこの漢字をあてたことから誤って広まったといわれています。
  
 草冠の下に「便」を置いた字が『新撰字鏡』にみられ、「安知佐井」のほか「止毛久佐」の字があてられています。
 アジサイ研究家の山本武臣は、アジサイの葉が便所で使われる地域のあることから、止毛久佐は普通トモクサと読むが、シモクサとも読むことができると指摘しています。また『言塵集』にはアジサイの別名として「またぶりぐさ」が挙げられています。
 山本武臣氏は、「草冠に便」の字が和製漢字で、「止毛久佐」とセットだという興味深い考えを述べています(「アジサイの話」山本武臣著:1981年、八坂書房刊)。
「略・・・ 「新撰字鏡」には「草冠+便」の字を安知左井にあて、別に止毛久佐の字もあてられている。中世の「言塵集」には、「またぶり草とは、あぢさいの一名也、和 名、四平草」とあり、また、かたしろぐさの別名もあげられている。止毛久佐は、トモクサと一般によまれているが、「草冠+便」の字、トモクサ、マタブリグサ、カタシログサなどについては、まだ正確な意味が解明されていない。
略・・・三宅島や八丈島などの離島では、昔はこのガクアジサイの大きな葉が便所の落とし紙の代用として使用され、クソシバとか、カンジョーシバとか呼ばれてた。
略・・・上代のころ、内地でもこうした習慣があり、「新撰字鏡」の著者、僧昌住は、便の字の上にクサカンムリをつけて「草冠+便」の和製漢字を作ったのかもしれない。
略・・・またぶりぐさは、またふきぐさの転化ともみられ、止毛久佐は、シモクサと読めないであろうか。・・・略」
 つまり、アジサイの葉はトイレットペーパーであったということで、それを表すための漢字をつくったということです。

  あじさいの歌は万葉集に二首ありますが、平安時代にはほとんど見えなくなります。古今から新古今までの八代集に、あじさいを詠んだ歌は一首も採られていません。梅雨の季節に欠かせない風物詩と思える紫陽花が、古典和歌ではこれほど不人気なのも、不思議なことです。
 万葉集に見えるのは、次の二首です。
   言問はぬ木すらあぢさゐ諸弟(もろと)らが練りのむらとにあざむかれけり (大伴家持) 万葉集 巻四 773
   〔物言わぬ木でさえ、あじさいのような移変わりやすいものがあります。諸弟らの巧みな言葉に私は騙されました。〕
   あぢさゐの八重咲くごとく弥(や)つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ (橘諸兄) 万葉集 巻二十 4448
   〔あじさいが幾重にも群がって咲くように、変わりなくいつまでもお健やかで居て下さい。私はこの花を見るたびにあなたを思い出しましょう。〕
 家持の歌では、あじさいが人を欺く不実なものの譬えに使われています。色が変わりやすく、しかも実を結ばない花なので、こう言うのでしょう。遷都により恭仁京にいた大伴家持が、平城京にいる坂上大嬢(さかのうえのおおおとめ)に送った五首のうちのひとつです。「諸弟」「練」「村戸」などの言葉の解釈が定まっていないため、難解です。ただ、この前後に載せられている歌(四-七七二、七七四)を見ると、二人の仲はあまり上手くいっていなかった時期のようです。「あざむかえけり」とあるので、大嬢を責めていることが知られます。後に家持はこの坂上大嬢を妻に迎えます。

 いっぽう諸兄の歌では、八重咲き(厚咲き)のあじさいをめでたい花として取り上げています。当時のあじさいは、現在見られるような大手鞠でなく、花(実は萼ですが)の数が少ない日本原産のガクアジサイであろうと言われていますが、貴族の庭園などには厚咲きのものが植えられていたことがわかります。それなりに古来賞美されてきたようです。天平勝宝七(755)年五月十一日に、右大弁丹比真人国人の家で、左大臣橘諸兄(684~757年)を招いて宴を催したとき、諸兄が主人国人を祝って詠んだ歌です。あじさいの豊かな花のように、またつぎつぎ色を変えて長く咲き誇るようにと国人を祝って詠んでいます。作者、橘宿禰諸兄(たちばなのすくねもろえ)はもともと葛城王(かつらぎのおおきみ)と称していましたが、後に母方の橘宿禰を継ぐことを請い、許され改名します。天平9(737)年の疫病により四子が次々と亡くなると、大納言に昇進します。以後、大きく政治に携わっていきますが、天平17(745)年の遷都計画が失敗に終わりますと、次第に実権を藤原仲麻呂にうばわれてゆきます。この歌を詠んだ翌年二月、宴席で上皇を誹謗したと、側近に密告され、この責を負って諸兄は政界を離れます。

 王朝文化華やかなりし頃になると、あじさいは忘れ去られたようなかっこうですが、十世紀後半頃に編集された『古今和歌六帖』に、かろうじて一首みつけることができます。
   茜さす昼はこちたしあぢさゐの花のよひらに逢ひ見てしがな (作者不明)
   (明るい昼間は何かと事情が許さぬので、紫陽花の花の宵にでも逢いたいものです)
 「こちたし」は言痛しとも書き、噂がうるさくて嫌だ、といった意味です。「あぢさゐの花のよひら」は、要するに「よひ(宵)」を言いたいために使っています。「昼は人目が多いから、宵に逢いたいものだ」というだけの内容ですが、あじさいの花の陰でのひっそりとした逢瀬、というようなイメージも浮びます。「よひら」は、四枚ずつ咲くあじさいの花びらを言います。平安後期の源俊頼『散木奇歌集』にも同じ言葉遣いがありました。
   あぢさゐの花のよひらにもる月を影もさながら折る身ともがな (源俊頼『散木奇歌集』)
   (繁みを洩れた月の光が、池の面にアジサイの四ひらの花のように映じている。その影をさながら折り取ることができたらなあ。)
 この「影」は、水面に映った月光でしょう。あじさいの繁みを洩れた月の光が、池の面に四ひらの花のように映じている。その影をさながら折り取ることができたら、という願望、というより幻想をよんでいます。歌の主題はあくまでも月の光で、あじさいのイメージは引き立て役みたいなものです。

 次にあげる俊成の歌は、俊頼の作に影響を受けていることが明らかです。
   夏もなほ心はつきぬあぢさゐのよひらの露に月もすみけり (藤原俊成『千五百番歌合』)
  ((秋こそ趣き深い季節だと言う歌があるけれど) 夏だってあまりにも情感豊かで精魂尽き果ててしまいましたよ。 紫陽花の四ひらの花の上の露に月の明かりが宿っているのを見ておりましたら。)
 「夏もなほ心はつきぬ」は、古今集の名歌「木の間よりもりくる月の影みれば心づくしの秋は来にけり(読み人知らず、古今集184」を背景にしています。「心づくし」は何も秋だけではない、夏だって、アハレを催すあまり心魂尽きてしまった。あじさいの四ひらの花に置いた露に、澄んだ月の光が宿っているのを見ていたら…。「花の露に宿った月の光」は当時ありふれた趣向で、俊成の歌としては特に秀歌というほどではありません。ただ、あじさいを用いたのは珍しく、薄い藍色の花と月光の取り合わせは、夏の夜に玲瓏とした涼味を与えています。
 このように平安末期頃になると、にわかにあじさいは好んでよまれるようになります。さほど歌の数は多くありませんが、俊成の息子である定家の作に、次のような美事な歌があらわれます。
   あぢさゐの下葉にすだく蛍をば四ひらの数の添ふかとぞ見る (藤原定家 拾遺愚草)
   (日もとっぷりと暮れてアジサイの花も夕闇に沈んでいく。蛍が飛び始めアジサイの下葉に集りまたたくとアジサイの花が増えたように見えることだ。蛍は暗 くなってから光るが、このころの歌は、情景を詠んでいるのではないので、アジサイの花にアジサイの下葉に群れる蛍の瞬きが加わり花が増えたようだと云って いるのかも知れない。)
 あじさいの花は夕闇に隠れる。それと入れ替わるように、蛍が乱舞を始め、あじさいの下葉に集まる。「下葉」という目の付け所が絶妙で、そこはあたりでいちばん暗いところです。そこに蛍が群れをつくり、光を発する。そのさまを、四ひらの花の数が増えたかのように見ているのです。上の方の葉には花が群がり咲いていたが、それが見えなくなったあと、今度は下葉にまぼろしの花が咲いた…。
 月との取り合わせを、定家は明滅する蛍の光に置き換えて、あじさいの花の夢幻性をいっそう引き出すことに成功したように思われます。しかし、定家の作も、あじさいより蛍を主としてよんだ歌と言うべきでしょう。ここでもこの花は引き立て役に甘んじている、と言わなければなりません。
 品種改良を加えたいまの紫陽花は、雨を引き立て役にして、梅雨の季節の主役となった観があります。私たちは、色のうつろいやすさを不実となじるかわりに、雨にうたれて色を濃くするその姿に、どこか儚い健気さを感じて、憂鬱な季節を慰めてもらっているように感じます。

 江戸時代に入っても紫陽花の人気はいまいち。むしろ、植木屋にはやや嫌がられていた存在でした。というのも、紫陽花は繁殖が容易な花。折った茎を土に植えておくだけで、株がどんどん増やせます。だれでも簡単に植えて花を咲かせることができるため、植木屋としては紫陽花は商売にはならないということでしょう。俳句や川柳には取り上げられるようになりました。松尾芭蕉もあじさいの句を残しています。

 また、紫陽花は画壇でもしばし描かれています。葛飾北斎も「あじさいに燕」という絵を描いています。濃淡で色づけされた紫陽花が印象的な作品です。

 シーボルトは、日本の様々な植物を掲載した『日本植物誌』を刊行します。そこで彼は、長崎の中国寺で採取したという空色の紫陽花を「Hydrangea otaksa」(ハイドランゼア オタクサ)と名づけて紹介したのです。「オタクサ」とは、「お滝さん」のこと。ドイツ人シーボルトが、妻の名を呼ぶ時の発音そのままを花の名にしたのでした。

 生前に「あじさいの歌」を歌ったこととアジサイが好きだったことにより717日の石原裕次郎忌を「あじさい忌」というのだそうです。

https://www.youtube.com/watch?v=XcVmSmjP-EI


 


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