昔、子福さまという稲荷社が、千住長円寺の境内にありました。
長円寺といえば、乳泉石でも有名なお寺で、千住宿の裏通りに面していました。そのころは、この裏通りあたりまで家が建っていましたが、お寺の裏側となると、一面の田畑で、ずっと小管のほうまで見渡すことができました。
現在は、その裏のほうに常磐線や東武線が通っていますが、これらは、明治29年と32年に開通したもので、それ以前には何もありませんでした。ですから、このあたりは、今では想像もつかないほど寂しい所でした。ところで、子福さまについてですが、どうしてそうした名がついたのかはっきりしていません。
想像しますに、このお稲荷さまに祈願すると、子供達に幸福をもたらしてくれるということで、その名がついたものと思います。
子福さまは、その名の示しているように霊験あらたかで、子供の病気は言うにおよばず、大人の疲れから肩の凝り、腰から下の病気にいたるまでよく効き、祈願する者が後を断ちませんでした。
しかし、ここには、一つのならわしのようなものがありました。それは、祈願して効験があった場合には、そのお礼として油揚げを奉納するようになっていたことです。
もしも、油揚げのお礼をしないで、知らんふりをしていると、罰があたって、せっかく良くなったものが、再び元に戻るといわれていました。
さて、霊験あらたかなこの子福さまについて、次のような話が伝わっています。当時の長円寺は、境内がうっそうとした樹木でおおわれ、特に裏山と呼ばれる本堂裏の小高い所には竹薮もあって、昼なお暗く、お寺の人以外は入ることができませんでした。じつは、この裏山の大きな木のうろに、数匹の狐が棲みついていました。
一般に知られているように、動物は、ふだん食物が足りるときは、自分の棲みかの周囲にいて、他に危害を加えることはありませんが、大雪が降ったり、寒さが特に厳しかったりして、食物に不自由するようになりますと、人家近くに出没して、人さまに迷惑をかけるようなことをするものです。
長円寺の裏山に棲む狐も、その例外ではありませんでした。
ある年のこと、例年にない厳しい寒さと、何度か降った雪のために、裏山付近の食べ物は底をつき狐どもは難渋しました。そこで、狐達は、めったに出たことのない町中(マチナカ) に出張り、人の目をかすめては、置いてあるものを、そっと失敬していくようになりました。
それも一度や二度ならよいのですが、たび重なると、町の人は、おお目に見るわけにはいかなくなりました。
こうした狐の中には、こともあろうに老人だけの家に忍び入り、寝ている布団の上に乗って、油揚げを無心するふとどきなものまででてきました。
そして一度味をしめると、同じことを二度、三度と繰り返すようになりました。
最初のうちは、可哀そうにと見逃していましたが、このように度をこすと迷惑になり、なにか手をうたなければならなくなりました。
そこで、あちこちの被害者が名主宅に集まって、いろいろ話し合いをしました。しかし、狐に対するこれといったよい案は出てきませんでした。万策つきた町の人は“暴れ回っていた蛇を水神に祀りこめたら、二度と悪さをしなくなった。”という近隣の村の故事にならつて、“町の子供を守ってくださいますように”と、“子福稲荷”として、長円寺の境内に祀ることにしました。
それ以後、狐の悪さはなくなり、かえって、この子福稲荷社が、子供だけではなく町全体の危難を救ってくれるようになったということです。
ウェブニュースより
藤井聡太七段、王将戦二次予選決勝進出!挑戦者決定L懸け憧れの谷川九段と初対決へ ―― 将棋の第69期大阪王将杯王将戦(スポーツニッポン新聞社、毎日新聞社主催)は26日、東京都渋谷区の将棋会館で二次予選3組準決勝を行い、藤井聡太七段(17)が中村太地七段(31)を91手で下した。
https://www.youtube.com/watch?v=-udwl4cIPHc
藤井は自身初の挑戦者決定リーグ入りを懸け、次戦(9月1日=大阪市・関西将棋会館)の決勝で谷川浩司九段(57)と対戦。16年秋のプロ入り時に憧れの棋士として挙げた大先輩との初手合いがついに実現する。 [Sponichi Annex 2019年8月26日 17:31 ]
足立は、“葦立つ地”から“葦立ち”に、ついで“足立”になったともいわれています。この名の由来の示しますように、足立は、その昔葦がたくさん生い茂っていた湿地でした。
全国を行脚中の弘法大師は、関東の地に悪疫が流行していると聞き、この足立の地へと足を向けてきました。
豊島郡から足立郡へ入ろうとした弘法大師が、荒川の岸辺に立ちますと、あたりは一面の葦原で、特に川岸のあたりには、群れをなして生えていました。
その葦のあいまをぬった大師が渡しに乗り、いざ足立の地に足を踏み入れたと思った瞬間、今まで風の吹くままにそよいでいた葦が、風がピタリとやんだかのようにそよぐのをやめ、いっせいに大師の方を向いて靡き始めました。
つまり、葦の葉が弘法大師のご威光にひれ伏して、そのほうだけに靡きだしたのです。そして、その姿がそのまま片葉の葦に形を変え、後々までも、その姿のまま残ったとのことです。
これが片葉の葦の発端ですが、当初は荒川の岸全面に生えていたものが、年々変わりゆく環境の悪化によって、関屋天神のあった塚付近のみとなりました。
そこで、この記念すべき片葉の葦を末長く保存するために、仲町にある掃部宿の開祖石出掃部介の子孫宅に移植しました。が、これまた地味風土が合わないためか、今では絶滅して跡形もありません。残念なことです。
片葉の葦の話は、西新井大師の構え堀にもあり、やはり弘法大師との係わりがあります。
本所の七不思議の中にも、片葉の葦の話があります。これは、ならず者が町娘に横恋慕し、自分に靡かなかったので娘を殺して、その片手片足を切り落としたのが発端です。
千葉県市川真間の手児奈霊堂の池畔にも、片葉の葦の話があります。これは、手児奈という娘の美しさがもとになっています。
現在の緑町から桜木町に至るあたりを“牧の野”と呼んでいたころのことです。そのころのこのあたりは、今日のような賑やかさはなく、一面の蓮田か葦の生い茂った寂しい所でした。ですから“牧の野”の名がついたのでしょう。
この牧の野の地続きに“千住宿”がありましたが、千住宿は、奥州方面から江戸入りをする第一歩の地であり、また、江戸を去る第一歩の地でもありました。
したがって、その繁盛ぶりは目を見張るものがあり、問屋場、旅籠(ハタゴ゙)(宿)(ヤド゙) 商売屋(アキナイヤ)などが軒をならべていました。
そうした中に、峰岸楼という食売旅籠が2丁目にありました。食売旅籠とは、お客が宿泊するばかりか、それ以外に、女中さんつまり飯盛女に接待してもらう歓楽の場所でした。その峰岸楼に、“お牧さん”という若くて器量よしの女中さんがいました。お牧さんは、器量がよいばかりではなく、素直で気立てもよいので、お客の評判が大変よかったようです。
そうしたことから、“お牧さん”“お牧さん”と、指名のお客が多く、いわば峰岸楼の看板的な存在でした。お牧さんが、ここに奉公にあがったのは数年前ですが、なんでも川越在の農家の娘で、家の事情から前借りでここに住み込んだようです。
言葉に多少の訛語(ナマリ) はありましたが、かえってそれが器量と気立てのよさにひきたてられて、ひとつの愛嬌とさえなっておりました。
それはある晩のことでした。たまたま訪れてくれたお客の中に、川越夜舟の船頭がおりました。最初のうちはそれと気づきませんでしたが、話をする言葉つきに、自分と共通するものを感じ親しさを覚えました。相手の船頭も、女の言葉の中に相通ずるものをくみとって、ふるさとを同じくする者であることを知りました。何もわからない他国で、同国の者とめぐり会えることほど、心強く思うことはありません。二人の心はいつしか結ばれて、逢う瀬を楽しむ回数も次第に増え、その評判は、峰岸楼の朋輩や船頭仲間にまで伝わりました。
二人はそのうちに夫婦になる約束をするだろうと、占師のように先々を見通した言葉を吐くおせっかいやまで出てきました。
ところで、ご当人の心はおせっかいやの言葉どおり決っておりました。ただそれができないのは、前借金があることです。
このお金を返済しないかぎり、お牧さんは自由の身になれないのです。自由の身になれなければ、船頭のおかみさんにはなれまん。
二人にとってこのときほど、世の中のはかなさを感じたことはありませんでした。そこで、自分達の望みを果たすために、ある夜駆け落ちをすることにしました。日時を決め、約束の場所は人気の少ない“牧の野”としました。峰岸楼をそっと抜け出したお牧さんは、人目を避けるように裏通りから牧の野へまいりました。腰をかがめて、葦の葉で身を隠しながら恋しい人の来るのを待ち続けました。が、いくら待っても約束を交わした人は、この約束の場所牧の野には姿を見せませんでした。このままでは峰岸楼へは帰れませんし、かといって故郷へも帰ることはできません。思いあまったお牧さんは、夢遊病者のように歩き回って千住河岸(カシ) にたどりつきました。
そして、心変わりをした男への怒りと悲しみを抱いて、荒川へ自らの身を沈めてしまいました。それからというものは、川越夜舟が牧の野のあたりを通りますと、その葦の茂みから大蛇が出てきて、船の横腹にぶつかって転覆させるということが度々続きました。
この話を聞いた千住宿の人達は、思いがかなわなかったお牧さんの祟(タタリ)にちがいないと言いました。大蛇に船を沈められた船頭達は、仲間の不信行為を恥じて、お牧さんの故郷である川越にお地蔵様をたてて、その冥福を祈ったということです。
その後は、大蛇の出ることもなく、川越夜舟は平穏な運航を続けることができたと伝えられています。
ただわからないのは、お牧さんとの約束を履行しなかった船頭の消息ですが、いつしか川越夜船から姿を消したそうです。
※川越夜船 川越と江戸との間を定期的に運航し、品物や人を運搬していました。川越をおよそ午後4時ごろ出帆し、千住河岸へ翌朝の8時ごろ、16、7時間かけて着くので、いつとはなしに“川越夜舟”の名がついたそうです。
※船頭気質 板子一枚下は地獄だ。“宵越しの銭は持たない”というのが船頭気質で、千住河岸へ着くと、千住宿の飯盛女を相手に一夜を明かし派手な遊びをしたようです。
※食売旅籠 平旅籠と区別して食売旅籠というのがありました。平旅籠は、ただ宿泊だけを目的としたものですが、食売旅籠は、それ以外に女中さん(飯盛女)のサービスがついていました。飯盛女のことを遊女と呼んでいます。
千住大橋から十数丁遡った対岸の“榛木山”(ハンノキヤマ) から、下流の鐘ヶ渕に至る一帯をすみかとしていた一匹の大 きな緋鯉がいました。
その緋鯉は、 大きさが小さな鯨ほどもあり、 緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。ですから、 かなり深いところを泳 いでいてもその雄姿が認められ、舟でこの川を往き来する人々の目を楽しませていました。
この緋鯉のことを、 川沿いの住民達は大川の主と呼び親しんでいました。ところが、 いつしかこの大川に橋をかけることになり、いざ橋杭を立てはじめますと、困ったことがおこりました。
それは、 立てた橋杭と橋杭の間が狭いために、 この大緋鯉が通れなくなったからです。榛木山の方から下ってきた大緋鯉が鐘ヶ渕へ向けて泳いでくると、きまって橋杭にその魚体がぶつかってしまうのです。
そのたびに、 立てたばかりの橋杭がグラグラ動いて倒れそうになります。せっかく打ち立てた橋杭を倒されては、 今までの苦労が水の泡になってしまいます。
そこで、 橋の普請主は付近の船頭達に頼み、 大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしました。 網に追い込まれた緋鯉は、捕らえられてなるものかと、ものすごい力をだして暴れ回りました。船頭は、自分達の日ごろの腕の見せどころとばかりがんばりましたが、思うようにはいきませんでした。
それならばと、網の中の緋鯉を櫓で力いっぱい叩 いたり突いたりしましたが、それでも捕らえることができませんでした。とうとう鳶口まで持ってきて、大緋鯉の目に打ち込んでしまいました。しかし、大緋鯉は目をつぶされただけで、網を破って 逃げ去ってしまいました。
それからしばらくの間、緋鯉は姿を見せませんでしたが、たまたまその姿を目にした人の話では、片目がなくなっていたそうです。
片目を失った緋鯉は、目の傷が治ると以前にも増して暴れ回り、橋杭にもよくぶつかりました。ぶつかるたびに橋杭は、地震のときのように大きく揺れ動き、今にも倒れそうになりました。
こうしたことが、いつまでも続いては困りますので、せっかく立てた橋杭の一本を岸辺に寄せて立て替え、大緋鯉が自由に泳ぎ回れるようにしてやりました。
それからというものは、大緋鯉が橋杭にぶつかることもなく、舟の事故や水死人の数が少なくなって、めでたしめでたしの 結果に終わったということです。
もちろん、その後も緋鯉の大きく美しい姿が、この川を往き来する人々の目を楽しませたことは言うまでもありません。
※・榛木山 葛飾北斎の“富嶽三十六景”に“武州千住”という絵があります。
この絵の富士山の左の方に、三本の立木と林があります。これが明治のころまであった“榛木山”です。現在の荒川区町屋八丁目のあたりです。
昔は荒川(現隅田川)の洪水の護岸用樹として、榛木が植えられていました。
千住大橋は、隅田川にかけられた最初の橋です。この隅田川は以前荒川とも渡裸(トラ)川とも呼んでいました。この川は、昔その文字の示すように、荒れる川であり、トラ(虎に音が通じている)のように暴れる川でしたので、その名がついたといわれています。
こうした川に橋をかけることは難事業ですが、当時土木工事の名人といわれた伊奈備前守忠次によって完成されました。
伊奈備前守忠次といえば、豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めたおりに、その先鋒をつとめた徳川家康の家臣で、富士川の渡河を成功させたり、後年利根川、荒川の流路をつけかえた伊奈氏の初代で、治水土木の大家として知られています。
千住大橋の架橋につきましては、“武江年表”文禄三年の条に、「……中流急湍にして橋柱支ふることあたわず。橋柱倒れて船を圧す。船中の人水に漂う。伊奈氏熊野権現に祈りて成就すという。」と書いてあります。
この文章にあるように、川の流れが複雑で、しかも地盤に固い所があって、橋杭を打ち込むのに苦労したようです。そうしたことから、完成時には一部の橋脚と橋脚の間が特に広くなってしまいました。実は、この一部橋脚が広くなったことにつきまして“大亀”の話があるのです。
この川には、ずっと以前から、川の主といわれている大亀が棲んでいました。そして、そのすみかが、架橋付近の川底にありましたので、打ち込まれた橋杭が大亀の甲羅にぶつかってしまいました。いくら打ち込もうと力を入れても、橋杭はいっこうに入っていきません。そうこうしているうちに、杭は川の流れに押し流されて倒れてしまいました。そのあおりで、杭の付近の数そうの舟は転覆し、乗っていた人夫は川の中へほうり出されてしまいました。
そこで、その場所は避けて、岸辺に寄ったほうに杭を立てて打ち込みましたところ、さほどの苦労もなく入っていきました。
しかし、岸辺に寄せたぶんだけ橋脚の幅が広くなって、見た目にも不揃いに映りましたが、しかたありませんでした。大橋完成後も、この川を往き来する舟が、この橋の近くで転覆したり、橋脚にぶつかるようなことがあると、このあたりの住民は、大川の主が舟の下にもぐり込んでひっくりかえしたとか、橋脚にぶつけさせたと、言っていました。
また、ときたま人が溺死でもすると、大亀様が怒ってそうしたのだと恐れておりました。ですから、船頭仲間でも、大橋付近は危険な場所として、かなりの年季を入れた船頭でさえ最大の注意をはらい、ここを通り越すとホッとしたそうです。(速く不規則な流れが橋脚にぶつかって、より複雑な流れになっていたようです。)大橋付近は船頭の登竜門、ここを無事に通り抜けられれば、“一人前”のレッテルが貼られたともいわれています。
その証拠に、当時の人々は架橋したあたりを、“亀のま”とか“亀のます”といって恐れていました。明治に入って、この川の流れを橋の上から見た人は、「潮が上げ下げするときなどは、橋脚のあたりで大きな渦を巻いておりました。その渦もきっと“亀のま”の亀が川底で波をおこしているからでしょう。」ともらしていたそうです。
千住大橋と大亀、科学が進んでいなかった時代には、何か事がおこると、人々はいろいろと想像をめぐらして、こうした話が生まれたものと思いますが、夢があって楽しいような気がします。
※・岸辺に寄せた杭は、岸辺から数えて三番目で、三番目と四番目の杭の間を、 “亀の間 ” と呼んでいたようです。
※ 洪水のとき、大橋が流されなかったのは、大亀が橋の下で水をかいていたからだ。という話もあります。
簡単に言いますと北千住は足立区、南千住は荒川区で隅田川を挟んで違う区にあります。一口に「千住」と言いますが、千住という地域は二つの区にまたがった地域になります。この2つの地を結ぶのが千住大橋なのです。
この隅田川を挟んだ千住にも、七不思議があります。
1.千住大橋と大亀
千住大橋を架ける工事のとき、どうしても橋杭がうちこめない場所がありました。川の主の大亀がこの場所に住んでいて、亀の甲羅があったためです。そのため千住大橋の三番目と四番目との間を少し広げたところ、杭を打つことができました。また、この場所は流れが複雑で「亀のま」とか「亀のます」とよびました。
2.千住大橋と大緋鯉(おおひごい)
川の主である大緋鯉が上流と下流を行ったり来たりしていました。千住大橋を作る時、橋杭を立て始めると、この大緋鯉(おおひごい)がぶつかって橋杭が倒れそうになります。大緋鯉をつかまえようとしましたがうまくいきません。そのため千住大橋の橋杭を1本少し広げて立てかえ、大緋鯉が自由に泳ぐことができるようにしました。
3.牧の野の大蛇
「一緒に逃げよう」と約束をした船頭の男の人は表れません。恋人の裏切りに悲しんで身投げした女性は大蛇)になりました。牧の野(現在の千住緑町から千住桜木町あたり)からこの大蛇が表れ、恨みのため船が通ると転覆させたといいます。
4.片葉の葦(かたはのあし)
弘法大師が荒川の岸辺に立つと、葦の葉がその御威光に恐れ入り、風にそよそよなびいていたのをピタリとやめ、ひれ伏しました。そのまま片葉の葦に姿を変えました。
5.子福(こふく)さま
長円寺(千住4丁目)の裏山に住む狐は調子に乗ってだんだん悪さをするようになりました。困った町の人は子福さまとしてお狐様を寺の境内に大切にまつりました。大事にされたお狐様は町全体の守り神となりました。
6.金蔵寺(こんぞうじ)の蕎麦閻魔
金蔵寺(千住2丁目)にえんま様がまつられています。日光街道沿いのそば屋に毎日そばを食べに来る女の人がいました。「あのきれいな娘はどこの人?」と不思議に思ったそば屋があとをつけてみるとむすめはえんま堂の中へ…。それから、えんま様に願いごとをかなえてもらったお礼にそばをお供えするようになりました。
7.置いてけ堀
堀切から牛田の辺に大きな堀がありました。ここでつった魚を持ち帰ろうとすると、「おいてけ~おいてけ~」と地の底からわき出るような不気味な声が…。無理に持ち帰ろうとすると葦のしげみからぬけ出せなくなってしまいます。
①「永代橋の落橋」
文化四年八月十九日深川八幡祭禮の日永代橋崩壊約二千人怪我人溺死者が出ました。その時の悲鳴が夜更けに聞こえるといいます。
②「高橋の息杖」
ある時この橋でかごやが殺されました。その怨念が残り寂しい晩などには橋の上を息杖をつく音が聞こえるといいます。
③「閻魔堂橋恨みの縄」
昔この橋で首つりがありその怨念が残り、物思いに沈んで通ると縄切れが欄干にぶら下がってるのが見えるといいます。
④「仙台堀血染めの駒下駄」
この堀で殺された者の血の付いた下駄が河岸に残されていました。土地の者が川に流す度にいつの間にか元の岸に戻るといいます。
⑤「八幡山の破れ障子」
深川八幡の門前の茶屋に祟りあり、ある一部屋の障子が何度貼り直しても翌朝には一箇所破れているといいます。
⑥「六万坪の怪火」
州崎から砂村に通ずる一面の平原に時々怪火がみえるといいます。
⑦「万年橋の主」
万年橋のたもとには主がいて、日照り雨の日に傘をさして覗くと、そのが姿を見られるといいます。
⑧「木場の錆鎗(さびやり)」
『木場の錆槍』という話についてはどんな話だったのかわからなくなってしまっているそうです。ためしに、検索してみると、「近代デジタルライブラリー – 深川七不思議」というのが出てくるのですが、伊東潮花という人の講談の書き起こしのようでして、木場の錆槍については言っているようで結局言ってないような…。
吉原七不思議は、東京都台東区に江戸時代から存続している遊郭街吉原を舞台にした駄洒落です。不思議と言っても怪談である本所七不思議などとは違って、こちらはユーモアや冗談を中心にした駄洒落です。七不思議と言っても7つ以上のエピソードが存在します。
①大門(おおもん)あれど玄関なし
吉原遊郭の入口には「吉原大門」と呼ばれる楼門がありました。門の向こうは遊ぶ場所、どこぞのお屋敷へ通じるわけではありません。
②茶屋あれど茶は売らず
茶屋といえば街道筋などの休憩所のことだが、吉原では「引き手茶屋」、すなわち遊女や遊郭の紹介所を指します。茶を出してくれるわけではありません。
③角(すみ)町あれど中にある
「角町」とは遊郭内の一区画の名で、吉原街の中ほどにありました。角っこにあるわけじゃねえよ、という駄洒落。
④揚屋あれど揚げはなし
「揚屋町」も区画の名です。揚げものを売っているわけではないという駄洒落。
⑤やり手といえど取るばかり
やり手とは遊女の管理や営業を行う「遣り手ババア」のことです。「やる」とは言っても金を取るだけという皮肉です。
⑥年寄りでも若い衆
遊郭に勤める男性の従業員は歳に関係なく「若い衆」と呼ばれていたことをからかったものです。
⑦河岸(かし)あれど魚なし
「河岸」とは低価格で遊べる場末の遊郭の俗称です。魚河岸ではないから、当然魚も売っていない。
⑧水道あれど水はなし
当時の吉原の突き当たりや町はずれを「水道尻」という俗称で呼んでいました。べつに水道(水路)が引いてあるわけでもありません。
ここで魚を獲ると「おいてけ、おいてけ」という声がするという、有名な本所七不思議の「おいてけ堀」の怪談を、田中貢太郎らしい簡潔な文体で再話しています。ここに田中貢太郎の短編小説『おいてけ堀』を紹介します。
なんだか、中学時代に習ったLafcadio Hearn(小泉八雲)の「Mujina」にとても良く似ております。
なお、『置いてけ堀』の場所については、色々な説があり、特定することができません。
おいてけ堀 田中貢太郎
本所のお竹蔵(たけぐら)から東四つ目通、今の被服廠跡の納骨堂のあるあたりに大きな池があって、それが本所の七不思議の一つの「おいてけ堀」であった。
其の池には鮒や鯰がたくさんいたので、釣りに往く者があるが、一日釣ってさて帰ろうとすると、何処どこからか、おいてけ、おいてけと云う声がするので、気の弱い者は、釣っている魚を魚籃(びく)から出して逃げて来るが、気の強い者は、風か何かのぐあいでそんな音がするだろう位に思って、平気で帰ろうとすると、三つ目小僧が出たり一つ目小僧が出たり、時とすると轆轤首(ろくろくび)、時とすると一本足の唐傘(からかさ)のお化ばけが出て路を塞ふさぐので、気の強い者も、それには顫(ふるえ)あがって、魚は元より魚籃も釣竿もほうり出して逃げて来ると云われていた。
金太と云う釣好きの壮佼(わかいしゅ)があった。金太はおいてけ堀に鮒が多いと聞いたので釣りに往った。両国橋を渡ったところで、知りあいの老人に逢あった。
「おや、金公か、釣に往くのか、何処だ」
「お竹蔵の池さ、今年は鮒が多いと云うじゃねえか」
「彼処(あすこ)は、鮒でも、鯰でも、たんといるだろうが、いけねえぜ、彼処には、怪物(えてもの)がいるぜ」
金太もおいてけ堀の怪(あや)しい話は聞いていた。
「いたら、ついでに、それも釣ってくるさ。今時、唐傘のお化でも釣りゃ、良い金になるぜ」
「金になるよりゃ、頭からしゃぶられたら、どうするのだ。往くなら、他へ往きなよ、あんな縁儀でもねえ処へ往くものじゃねえよ」
「なに、大丈夫ってことよ、おいらにゃ、神田明神がついてるのだ」
「それじゃ、まあ、往ってきな。其のかわり、暗くなるまでいちゃいけねえぜ」
「魚が釣れるなら、今晩は月があるよ」
「ほんとだよ、年よりの云うことはきくものだぜ」
「ああ、それじゃ、気をつけて往ってくる」
金太は笑い笑い老人に別れて池へ往った。池の周囲まわりには出たばかりの蘆の葉が午(ひる)の微風にそよいでいた。金太は最初のうちこそお妖怪(ばけ)のことを頭においていたが、鮒が後から後からと釣れるので、もう他の事は忘れてしまって一所懸命になって釣った。そして、近くの寺から響いて来る鐘に気が注ついて顔をあげた。十日比ごろの月魄(つきしろ)が池の西側の蘆の葉の上にあった。
金太はそこで三本やっていた釣竿をあげて、糸を巻つけ、それから水の中へ浸けてあった魚籃をあげた。魚籃には一貫匁あまりの魚がいた。
「重いや」
金太は一方の手に釣竿を持ち、一方の手に魚籃を持った。と、何処からか人声のようなものが聞えて来た。
「おい、てけ、おい、てけ」
金太はやろうとした足をとめた。
「おい、てけ、おい、てけ」
金太は忽ち、嘲(あざけ)りの色を浮べた。
「なに云ってやがるんだ、ふざけやがるな、糞でも啖(くら)えだ」
金太はさっさとあるいた。と、また、おい、てけの声が聞えて来た。
「まだ云ってやがる、なに云ってやがるのだ、こんな旨い鮒をおいてってたまるものけい、ふざけやがるな。狸か、狐、口惜しけりゃ、一本足の唐傘にでもなって出て来やがれ」
金太は気もちがわるいので足はとめなかった。と、眼の前へひょいと出て来た者があった。それは人の姿であるから一本足の唐傘ではなかった。
「何だ」
鈍い月の光に眼も鼻もないのっぺらの蒼白い顔を見せた。
「わたしだよ、金太さん」
金太はぎょっとしたが、まだ何処かに気のたしかなところがあった。金太は魚籃と釣竿を落とさないようにしっかり握って走った。後からまた聞えてくるおいてけの声。
「なに云やがるのだ」
金太はどんどん走って池の縁(へり)を離れた。来る時には気が注かなかったが、其処に一軒の茶店があった。金太はそれを見るとほっとした。金太はつかつかと入って往った。
「おい、茶を一ぱいくんねえ」
行燈(あんどん)のような微暗(うすぐら)い燈のある土室(どま)の隅から老人がひょいと顔を見せた。
「さあ、さあ、おかけなさいましよ」
金太は入口へ釣竿を立てかけて、土室の横へ往って腰をかけ、手にした魚籃を脚下(あしもと)へ置いた。老人は金太をじろりと見た。
「釣りのおかえりでございますか」
「そうだよ、其所の池へ釣に往ったが、爺さん、へんな物を見たぜ」
「へんな物と申しますと」
「お妖怪(ばけ)だよ、眼も鼻もない、のっぺらぼうだよ」
「へえェ、眼も鼻もないのっぺらぼう。それじゃ、こんなので」
老人がそう云って片手でつるりと顔を撫でた。と、其の顔は眼も鼻もないのっぺらぼうになっていた。金太は悲鳴をあげて逃げた。魚籃も釣竿も其のままにして。
錦糸町にある山田家という和菓子屋に、本所七不思議をテーマにした、人形焼きがあります。
包み紙も、袋も、箱も、紙袋も、本所七不思議のイラストが書いてあります。包装紙、本所七不思議のお話が、一話ずつ、イラスト付で書いてあります。
このイラストは、漫画家で江戸文化研究家の、宮尾しげを氏が書いたそうです。
※宮尾 しげを〔1902年(明治35年)~1982年(昭和57年)〕は、日本の漫画家、江戸風俗研究家です。東京出身。本名は重男。岡本一平に師事し、1922年「東京毎夕新聞」に子供向け物語漫画「漫画太郎」を連載してデビューしました。代表作は「団子串助漫遊記」。戦時中より江戸の庶民文化を研究、戦後はこれに専念しました。
また、直木賞作家の宮部みゆきさんは、山田家の包装紙に描かれる物語をヒントに、本所深川ふしぎ草子を書いたそうです。
しおりには、山田家のある所は、昔、おいてけ堀のあった所で知られたと書いてあります。
詳しい場所とは、少し離れているとしても、山田家のある場所は、錦糸堀にも近いですし、本所なので、間違ってはいないと思います。
sechin@nethome.ne.jp です。
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