初代将軍・徳川家康が入城して以来、幕末までの200年以上に渡り、歴代将軍が居城としてきた江戸城です。現在の皇居の部分は当時の江戸城内郭の一部にすぎず、当時は内郭だけでも約30万坪以上の広大な敷地を誇りました。将軍家をはじめ、大奥と中奥の役人たち数千人が暮らしていたとされる広大な江戸城もまた、怪奇とは無縁ではありませんでした。
江戸城七不思議 その一 (丑三つ時に蹄の音が鳴り響くと……)
江戸城の西に広がる吹上御苑の馬場で、丑三つ時(深夜2時頃)に馬の蹄の音が鳴り響くことがあった。また、その翌日になると不思議と落馬の事故が起こった。人びとは「妖怪の仕業」と噂したという。
江戸城七不思議 その二 御濠に棲む「どんどん河童」
子どもに手習いを教えている神田の浪人が夏の夜に江戸城の濠端を歩いていたときのこと。ずぶ濡れの子どもが濠へ向かって歩いてきた。浪人が傘に入らぬかと声をかけた途端、子どもは恐ろしい形相を見せ、濠へひきずり込もうとした。浪人は刀で斬りつけ、難を逃れたという。河童の仕業とされ、当時溜池の堰から流れ落ちる滝を「どんどん」と呼んだことから、「どんどん河童」と呼んで恐がった。
江戸城七不思議 その三 御鈴廊下近くの「夜泣き石」
5代将軍綱吉の頃。若く美しい奥女中と、将軍の身の回りの世話係の小姓が、場内御鈴廊下(おすずろうか)の外の石に腰を下ろして密会していることが知れ渡った。奥女中は外出許可でもない限り日頃から自由に大奥外に出ることはできない。小姓もまた、大奥に立ち入ることはできない。やがて密会が表沙汰になり、ふたりは現場である石のそばで手討ちにされた。その後、ふたりの命日には当時地に染まった石から鬼火のように青白い光が立ち上り、女のすすり泣きが聞こえるようになったという。
江戸城七不思議 その四 天守なき天守台から死体が!
文政期(1818~30年)のこと。御末と呼ばれる役職(大奥の下級女中)のあらしという名の娘が行方不明になった。神隠しにあったのでは、と案じつつ探し回ったが見つからない。それから3日後。大奥近くの天守台の下を巡回していた天守番がしわがれ声を聞いた。「あらしはここに、ここに」と。すると、天守台からどさり、と落ちてきたのは血まみれになったあらしの無惨な死骸。全身をまるで爪のようなものでかきむしられた惨い姿だった。
江戸城七不思議 その伍 伏見櫓から白骨が出現
江戸城の櫓で現存するのは富士見櫓と桜田二重櫓だが、大正12年の関東大震災のとき、伏見櫓の土手が崩れた。その際、16体の白骨が出てきた。人柱、事故死などの諸説があるが、真相は今もって不明だ。
江戸城七不思議 その六 将軍が見た「宇治の間」の霊
嘉永6年(1853)、12代将軍家慶(いえよし)は大奥の宇治の間近くの廊下を進んでいたところ、敷居に両手をついた黒紋付姿の老女を見た。家慶は誰かと供の奥女中にたずねたが、他のものにはその姿は見えずに皆は恐怖に震えあがった。そのときは将軍に対して誰もいないとは言えず、適当に返答したが、またその数日後も宇治の間近くで家慶は歩を緩め「今日は泣いていた」と言ったという。大奥ではその亡霊は150年前の、5代将軍綱吉の正室・信子に仕えた御年寄だと伝えられていた。一説には、信子がその御年寄に手伝わせて綱吉を宇治の間で殺害。その数日後に自害したとも言い伝えられている。
江戸城七不思議 その七 身投げに誘(いざな)う呪われた井戸
大奥のイヂは身投げをする奥女中が絶えないことから、文政期(1818~30)頃、暮れ六つ(午後6時頃)には井戸に蓋をして錠をかけることになった。ある日、上臈(じょうろう)年寄の飛鳥井(あすかい)に仕えていた部屋方の女中の姿が見えないことから探し回ったところ、深夜になって屋外で叫ぶ声が聞こえた。中奥に務める男の役人らが確認したところ、錠をかけたはずの井戸の中で発見、救出された。女いわく、小袖を着た女が井戸の後ろに物言いたげに立っているので近づいたところ、落ちたという。その井戸は12名が飛び込み自殺をしたもので、その後、埋められた。
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