瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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ウェブニュースより
 稀勢 第72代横綱へ 25日に正式決定、19年ぶりの日本出身横綱誕生 ―― 「大相撲初場所・千秋楽」(22日、両国国技館)
 14日目に初優勝を決めた大関稀勢の里(30)=田子ノ浦=が横綱白鵬(31)=宮城野=をすくい投げで破って14勝1敗とし、初の天皇賜杯を手にした。取組後には、審判部が八角理事長(元横綱北勝海)に横綱昇進を審議する臨時理事会の招集を要請。23日の横綱審議委員会(横審)の推挙を経て、25日の春場所番付編成会議と理事会で正式に1998年の三代目若乃花以来、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。

 千秋楽、取組がすべて終わっても館内は熱気に包まれていた。待ちに待った優勝インタビュー。稀勢の里が登場すると、万雷の拍手と歓声がこだました。
 「ずいぶん長くなったけれど、いろんな人の支えがあって、ここまで来られた」と万感の思いを口にした。そして、両親が見ている前で勝った、と問われると、もう涙腺は耐えられなかった。「最後は必死になって残して…はい…」と、おえつ交じり。「一日一番という気持ちでやった結果」と男泣きしながら言葉を絞り出した。
 前日に悲願の初優勝を果たしても、気持ちを切らさなかった。「壁になる」と宣言した気合十分の白鵬が立ち合いからど迫力で突進してきた。左を差され、ぐいぐい押され俵に足がかかった。絶体絶命のピンチから代名詞の左のおっつけで相手を起こした。そのまま左を差して、大逆転の投げを豪快に決めた。
 常に優勝を阻まれてきた宿敵を直接対決で撃破。「気持ちだけ引き締めていきました。これから自信になります。自分一人の力じゃない。我慢して腐らずできて本当に良かった」とかみ締めた。


 自己最多となる大きな14勝目。「誰かに支えられている気がした」。踏ん張り切れた土俵際に、先代師匠の故鳴戸親方(元横綱隆の里)を思う。相撲も礼儀も、すべてを教わった角界の父に捧げる有終星には言葉にはできない感慨がある。
 11年11月。師の急逝に25歳関脇だった愛弟子は人目をはばからずに泣いた。中学2年の夏、中学校の担任にも告げずに鳴戸部屋の稽古を見学。「一番、稽古が厳しい部屋に」と荒波に飛び込んだ。
 指導は想像以上だった。部屋の力士一人が部屋のルールを破れば連帯責任で夜中でも正座を命じられた。テレビ出演の依頼を受けたが、白鵬と控室が同じだったため「仲良しこよしじゃ駄目だ」と出演は許されなかった。
 勝負の世界の厳しさを徹底的にたたき込んでくれた師匠。遅咲きで「おしん横綱」と呼ばれた。師匠が30歳9カ月、自身は師匠に次ぐ史上4位、30歳6カ月の年長で横綱昇進となることは確実だ。部屋に戻ると遺影の前で正座をし、手を合わせて思いを伝えた。
 審判部の二所ノ関部長(元大関若嶋津)は13勝でも「昇進相当」としていたが異論なしの14勝目。取組後、八角理事長に臨時理事会の招集を要請した。25日に、19年ぶりに日本出身横綱が誕生する。来場所からは17年ぶりの4横綱時代となる。
 「賜杯?言葉にならない」と喜びに浸りながら、自らの力に満足はない。「まだまだ物足りない部分があるし、強くなれる。これで終わりじゃない」。新入幕から73場所での昇進は史上最も遅い。「平成のおしん横綱」ははや先の戦いを見据えた。

「栄花物語」月の宴
 ただ今の摂政太政大臣にては、基経の大臣(おとど)の御子、四郎忠平の大臣、帝の叔父にて、世を政(まつりごち)ておはす。その大臣の御子五人ぞおはしける。太郎は今の左大臣にて、実頼と聞こえて、小野宮と言ふ所に住み給ふ。次郎は右大臣にて、師輔の大臣、九条と言ふ所に住み給ふ。三郎の御有様おぼつかなし。四郎師氏(もろうぢ)と聞こえける、大納言までなり給ひける。五郎師尹(もろただ)の左大臣と聞こえて、小一条と言ふ所に住み給ふ。
 さればただ今は、この太政大臣の御子ども、やがていとやむごとなき殿ばらにておはす。この殿ばら皆各々御子ども様々にておはする中に、九条の師輔の大臣、いとたたはしくおはして、数多の北の方の御腹に、男十一人、女六人ぞおはしける。小野宮の左大臣殿は、男三人ばかりぞおはしける。女君もおはしけり、一所は宮腹の具にておはす。差し次は女御にておはしけり。次々様々にておはす。小一条の師尹の大臣、男子二人、女一所ぞおはしける。男子一人は、はかなうなり給ひにけり。
現代語訳
 この時の摂政太政大臣は、基経大臣(藤原基経)の子、四男忠平大臣(藤原忠平)でした、帝(第六十二代村上天皇)の叔父でしたので、世を治めました。忠平大臣には男子が五人いました。長男は今の左大臣で、実頼(藤原実頼。摂政関白太政大臣)と申して、小野宮(現京都市中京区。地下東西線丸田町近く)という所に住みました。次男は右大臣で、師輔大臣(藤原師輔)、九条という所に住みました。三男(藤原師保もろやす)のことはよく知りません(出家したらしい)。四男は師氏(藤原師氏)と申して、大納言までなりました。五男は師尹左大臣(藤原師尹)と申して、小一条という所に住みました。
 こうして今では、この太政大臣(藤原忠平ただひら)の子たちは、次第に身分高くなりました。この殿たちには皆それぞれ子が多くいましたが、九条師輔大臣(藤原師輔)には、たいそう多く子がありました、多くの北の方の腹に、男十一人(十二人、一人は僧)、女は六人いました。小野宮左大臣殿(藤原実頼さねより)には、男が三人ほどいました。女君もいました、一人は宮腹(源高明たかあきら。第六十代醍醐天皇の第十皇子)の妻でした。差し次([すぐ次])は女御(三女、藤原述子。第六十二代村上天皇女御)でした。次々それぞれでした。小一条師尹大臣(藤原師尹)には、男の子二人、娘が一人いました。男子一人(藤原定時さだとき)は、若くして亡くなりました。

大鏡 藤原忠平 貞信公
 この大臣(おとど)、これ、基経(もとつね)のおとどの四郎君。御母、本院(ほんゐん)の大臣・枇杷(びは)の大臣に同じ。このおとど、延長(えんちやう)八年九月二十一日摂政、天慶(てんぎやう)四年十一月関白(くわんばく)の宣旨(せんじ)かぶり給(たま)ふ。公卿(くぎやう)にて四十二年、大臣にて三十二年、世をしらせ給(たま)ふこと二十年。後(のち)の御諡号(いみな)貞信公と名づけ奉(たてまつ)る。子一条(こいちでう)の太政大臣(だいじやうだいじん)と申(まう)す。朱雀院(すざくゐん)并(なら)びに村上の御舅(をぢ)に御座(おは)します。この御子五人。その折は、御位(くらゐ)太政大臣(だいじやうだいじん)にて、御太郎、左大臣(さだいじん)にて実頼(さねより)のおとど、これ、小野宮(をののみや)と申(まう)しき。二郎、右大臣師輔(もろすけ)のおとど、これを九条殿(くでうどの)と申(まう)しき。四郎、師氏(もろうじ)の大納言(だいなごん)と聞(き)こえき。五郎、また左大臣(さだいじん)師尹(もろまさ)のおとど、子一条殿と申(まう)しきかし。これ、四人君達、左右(さう)の大臣、納言(なごん)などにて、さしつづき御座(おは)しましし、いみじかりし御栄花(えいぐわ)ぞかし。女君(をんなぎみ)一所(ひとところ)は、先坊(せんばう)の御息所(みやすどころ)にて御座(おは)しましき。
 つねにこの三人の大臣たちの参(まゐ)らせ給(たま)ふ料(れう)に、小一条(こいちでう)の南、勘解由小路(かげゆのこうぢ)には、石畳(いしだたみ)をぞせられたりしが、まだ侍(はべ)るぞかし。宗像(むなかた)の明神(みやうじん)の御座(おは)しませば、洞院(とうゐん)・小代(こしろ)の辻子(つじ)よりおりさせ給(たま)ひしに、雨などの降る日の料とぞ承(うけたまは)りし。凡(おほよそ)その一町(ひとまち)は、人まかり歩(あり)かざりき。今は、あやしの者も馬・車に乗りつつ、みしみしと歩(ある)き侍(はべ)れば、昔のなごりに、いとかたじけなくこそ見給(たま)ふれ。この翁(おきな)どもは、今もおぼろけにては通り侍(はべ)らず。今日も参(まゐ)り侍(はべ)るが、腰のいたく侍(はべ)りつれば、術(ずち)なくてぞまかり通りつれど、なほ石畳をばよきてぞまかりつる。南のつらのいとあしき泥(でい)をふみこみて候(さぶら)ひつれば、きたなき物(もの)も、かくなりて侍(はべ)るなり』とて、引き出(い)でて見す。
,世継*}『「先祖の御物(もの)は何もほしけれど、小一条のみなむ要(えう)に侍(はべ)らぬ。人は子うみ死なむが料にこそ家もほしきに、さやうの折、ほかへわたらむ所は、なににかはせむ。また、凡(おほよそ)、つねにもたゆみなくおそろし」とこそ、この入道(にふだう)殿(どの)は仰(おほ)せらるなれ。ことわりなりや。この貞信公には、宗像の明神(みやうじん)、うつつに、物(もの)など申(まう)し給(たま)ひけり。「我よりは御位(くらゐ)高くて居(ゐ)させ給(たま)へるなむ、くるしき」と申(まう)し給(たま)ひければ、いと不便(ふびん)なる御こととて、神の御位申(まう)しあげさせ給(たま)へるなり。
 この殿(との)、何(いづれ)の御時とは覚(おぼ)え侍(はべ)らず、思(おも)ふに、延喜(えんぎ)・朱雀院(すざくゐん)の御ほどにこそは侍(はべ)りけめ、宣旨(せんじ)承(うけたまは)らせ給(たま)ひて、おこなひに陣座(ぢんのざ)ざまに御座(おは)します道に、南殿(なでん)の御帳(みちやう)のうしろのほど通らせ給(たま)ふに、物(もの)のけはひして、御太刀(たち)の石突(いしづき)をとらへたりければ、いとあやしくてさぐらせ給(たま)ふに、毛はむくむくと生ひたる手の、爪(つめ)ながくて刀(かたな)の刃(は)の様(やう)なるに、鬼なりけりと、いとおそろしくおぼえけれど、臆(おく)したるさま見えじと念(ねん)ぜさせ給(たま)ひて、「おほやけの勅宣(ちよくせん)承(うけたまは)りて、定(さだめ)に参(まゐ)る人とらふるは何者ぞ。ゆるさずは、あしかりなむ」とて、御太刀をひき抜きて、かれが手をとらへさせ給(たま)へりければ、まどひてうち放(はな)ちてこそ、丑寅(うしとら)の隅(すみ)ざまにまかりにけれ。思(おも)ふに夜(よる)のことなりけむかし。こと殿(との)ばらの御ことよりも、この殿の御こと申(まう)すは、かたじけなくもあはれにも侍(はべ)るかな』とて、音(こゑ)うちかはりて、鼻度々(たびたび)うちかむめり。
{*《世継》『いかなりけることにか、七月にて生まれさせ給(たま)へるとこそ、人申(まう)し伝へたれ。天暦(てんりやく)三年八月十一日にぞ失(う)せさせ給(たま)ひける。正一位(じやういちゐ)に贈(ぞう)せられ給(たま)ふ。御年七十一。

現代語訳
 このおとどは、基経のおとどの四男でございます。御母は、本院大臣時平殿、枇杷大臣仲平殿と同じです。この忠平殿は、延長八年(930)九月一日摂政、天慶四年(941)十一月関白宣旨をお受けなさいました。公卿にて四十二年、大臣の位にて三十二年、世をお治めになること二十年でございます。後の御いみなは貞信公と申しあげました。小一条大臣と申し上げます。また、朱雀院、村上天皇の御伯父であられます。この殿のご子息は五人。殿が太政大臣の位にあられた時、ご長男の実頼殿は左大臣にて、小野宮と申し上げます。次男の右大臣師輔殿は、九条殿と申し上げました。四男の師氏殿は大納言でいらっしゃいました。五男は、後に左大臣になられたのですが、師尹のおとどで、小一条殿と申し上げました。この四人の君達が、左右大臣、納言などに続いていらっしゃったことは、大変に素晴らしいご栄華でございますね。ご長女は、先坊の御息所でいらっしゃいました。
 実頼、師輔、師尹の三人の大臣が小一条に参上なさるために、小一条の南、勘解由小路には石畳が造られたのです。それは、未だに残ってございます。宗像の明神がお邸においでになったために、大臣方は東洞院と小代の辻より車を降りられたので、石畳は雨などが降る日のためだとお聞きしました。おおよそ、その一町に人々は参りませんでした。今は身分の低い者も車や馬に乗ってみしみしと通りますので、昔の名残を畏れ多く拝見いたします。私などは、今も、並々のことではそこを通りません。今日ここに参りましたが、腰が痛みましたので、仕方なくそこを通って参りました。それでも、石畳をよけて歩きました。南の端のたいそうひどいぬかるみを踏んでしまいましたので、汚い着物が更にこのようになってしまいました。皆さんにもお見せしましょう。さて、「先祖の御物は何でも欲しいものだが、小一条だけはそうでもない。人は子を産み、また死んでいくために家という物が必要だが、神が居られるためにそのような時に他へ移らなければならない邸は、どうにもならない。また、おおよそ、普段から気が緩むことがなくて、畏れ多い」とただいまの入道道長殿は仰られたのですな。全く、その通りでございます。この忠平殿には宗像の明神が現実に物など申し上げなさったそうです。「私より忠平殿の御位が高くいらっしゃるのは、差し支えがある」と申し上げられたので、それはとても不都合なことだと、神の御位をお上げになられました。
 何時というのは憶えておりませんが、思うに醍醐か朱雀院の御時でありましょう、忠平殿が宣旨をお受けになって、それを執り行うために陣座の方へいらっしゃる途中、南殿の御帳台の後ろ辺りを通られました。なにやら気配がして、忠平殿の御太刀のいしづきが捉えられました。とても変に思ってお探りになると、むくむくと毛むくじゃらで、爪は長い刀の刃のような手でありました。「鬼であるぞ」と大変恐ろしく思われましたが、臆した様子を見せまいとお念じになり、「帝の宣旨を承って定に参上する人を捉えるのは何者か。放さないなら、怒るぞ」と言って、御太刀を引き抜いて、その手を捉えましたところ、鬼は慌てて手を放して、丑寅の隅の方へ行ってしまいました。思うに、夜のことでありましょう。
 他の殿のことよりも、この忠平殿のことを申し上げるのは、畏れ多くもあり、またしみじみと思い出深いものでございますな。
 世継はそういうと、鳴き声になり、鼻を度々かんだ。
 どうしたことでございましょうか、忠平殿は七ヶ月でお生まれになられたと人々は申し伝えております。天暦三年(949)八月十一日にお亡くなりになりました。正一位が贈られました。御歳、七十一でございます。


 


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