瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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百人一首2130についても調べてみます。


 
21. 素性法師 今来むと 言ひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな(古今集)
 素性法師(そせいほうし) 俗名良岑玄利(よしみねのはるとし、生没年不詳)は遍照の子。平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。左近将監に任官した後に出家し、権律師(ごんのりっし)となる。
 現代語訳 あなたがすぐに来ると言ったばかりに秋の夜長を待っていたら、有明の月が出てしまった。
22. 文屋康秀 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ(古今集)
 文屋康秀(ふんやのやすひで、生没年不詳)は平安前期の歌人。六歌仙の一人。文屋朝康の父。
 現代語訳 吹くとすぐに秋の草木がしおれるので、なるほど山風を嵐というのだろう。
※小野小町と親密だったといい、三河国に赴任する際に小野小町を誘ったといいます。それに対し小町は「わびぬれば 身をうき草の 根を絶えて 誘ふ水あらば いなむとぞ思ふ」(=こんなに落ちぶれて、我が身がいやになったのですから、根なし草のように、誘いの水さえあれば、どこにでも流れてお供しようと思います)と歌を詠んで返事をしたといいます。のちに『古今著聞集』や『十訓抄』といった説話集に、この歌をもとにした話が載せられるようになりました。
3. 大江千里 月見ればちぢにものこそ悲しけれ わが身ひとつの秋にはあらねど(古今集)
 大江千里(おおえのちさと、生没年不詳)は平安前期の歌人、漢学者。中古三十六歌仙の一人。在原行平・業平の甥。宇多天皇の勅命により『句題和歌』を編纂。
 現代語訳 月を見ると、いろいろと物事が悲しく感じられる。私ひとりの秋ではないのだが。
※ 句題和歌とは 平安前期の歌人大江千里(おおえのちさと)の家集。『大江千里集』ともいう。894年(寛平6)成立。宇多(うだ)天皇より古今の和歌の類聚(るいじゅう)を求められたのに対し、唐詩の一句を題とした翻案歌110首(現存本は115首)をそれぞれの摘句とともに番(つが)えて、これを漢詩文集の部類をも参考に、春、夏、秋、冬、風月、遊覧、離別、述懐に分類し、末尾に自詠和歌10首(詠懐)を添えて献上したもの。和漢対照様式の斬新(ざんしん)な趣向は当代の好尚を反映するものですが、佳句撰(せん)的傾向が強く、題詠歌としては習作の域を出ません。出典の判明する88句中の8割が白楽天詩からの摘句であると言います。
24. 菅家 このたびは ぬさもとりあへず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに(古今集)
 菅家 菅原道真 (すがわらのみちざね、845~903年)は文人官僚。894年、遣唐使に任ぜられますが、建言により廃止。従二位・右大臣となるも、藤原時平により太宰権帥に左遷されます。学問・詩文に優れ、『類聚国史』、『三代実録』などを編集。没後、学問の神、天満天神とされます。贈正一位。
 現代語訳 今度の旅は、御幣をささげることもできない。とりあえず、手向けに山の紅葉を錦に見立てて御幣の代わりにするので、神の御心のままにお受け取りください。
25. 三条右大臣 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人にしられで くるよしもがな(後撰集)
 三条右大臣 藤原定方(ふじわらのさだかた、873~932年)は三条に邸宅があったことから三条右大臣とよばれた。
 現代語訳 逢坂山のさねかずらが逢って寝るという名を持っているのであれば、さねかずらが蔓を手繰れば来るように、誰にも知られずにあなたを手繰り寄せる方法がほしいものだなあ。
※ 逢坂山は山城国(現在の京都府)と近江国(現在の滋賀県)の国境にあった山で関所がありました。「逢ふ」との掛詞になっています。また、「くるよしもがな」の「くる」は「来る」と「繰る(手繰り寄せる)」の掛詞となっています。
26. 貞信公 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ(拾遺集)
 貞信公(ていしんこう) 藤原忠平(ふじわらのただひら、880~949年)は平安中期の貴族。藤原基経の子。時平の弟。「延喜格式」を完成。摂政・関白・太政大臣を歴任。長期にわたって政権の中枢に位置し、藤原摂関家の基礎をかためる。従一位・贈正一位。貞信公は諡号。
 現代語訳 小倉山の紅葉よ。お前に心があるなら、いま一度の行幸があるまで散らずに待っていてほしい。
※ 『拾遺集』の詞書によると、宇多上皇が大堰川に御幸された際、その景色を子の醍醐天皇にもお見せしたいとおっしゃったことを受けて、天皇の義理の兄である藤原忠平(貞信公)がこの歌に託して奏上したということです。寛大で慈愛が深かったので、その死を惜しまぬものはなかったといいます(『栄花物語』)。
27. 中納言兼輔 みかの原 わきて流るる 泉川いつ見きとてか 恋しかるらむ(新古今集)
 中納言兼輔(ちゅうなごんかねすけ) 藤原兼輔(ふじわらのかねすけ、877~933年)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。加茂川の近くに邸宅があり、堤中納言とよばれました。
 現代語訳 みかの原から湧き出て、原を二分するようにして流れる泉川ではないが、いったいいつ逢ったといって、こんなに恋しいのだろうか。(一度も逢ったことがないのに)
※「瓶原(みかのはら)」は、山城国(現在の京都府)の南部にある相楽(そうらく)郡加茂町(かもちょう)を流れる木津川の北側の一部を指します。泉川は現代の木津川で、ここまでがこの和歌の序詞にあたります。
28.  源宗于朝臣 山里は冬ぞさびしさまさりける 人めも草もかれぬと思へば(新古今集)
 源宗于朝臣(みなもとのむねゆきあそん) 源宗于(?~939年)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。光孝天皇の孫でありながら、官位に恵まれず正四位下右京大夫にとどまります。『大和物語』に不遇を嘆く歌を残しています。
 現代語訳 山里は、冬に一段と寂しくなるものだなあ。人も来なくなり、草も枯れてしまうと思うので。
29. 凡河内躬恒 心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花(新古今集)
 凡河内躬恒(おおしこうちのみつね、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』撰者の一人。官位は低かったが、紀貫之とならぶ歌壇の中心的人物とされました。
現代語訳 当てずっぽうで折るなら折ってみようか。初霜がおりて区別しにくくなっている白菊の花を。
※『大和物語』に、醍醐天皇に「なぜ月を弓張というのか」と問われ、即興で「照る月をゆみ張としもいふことは山の端さして入(射)ればなりけり(=照っている月を弓張というのは、山の稜線に向かって矢を射るように、月が沈んでいくからです)」と応じたという話があり、『無名抄』によると貫之・躬恒の優劣を問われた源俊頼は「躬恒をばなあなづらせ給ひそ(=躬恒をばかにしてはいけません)」と答えたと言います。
30.  壬生忠岑 有明のつれなく見えし別れより 暁ばかりうきものはなし(新古今集)
 壬生忠岑(みぶのただみね、生没年不詳)は平安前期の歌人。三十六歌仙の一人。『古今集』の撰者の一人。忠見の父。
 現代語訳 有明の月がつれなく見えた。薄情に思えた別れの時から、夜明け前ほど憂鬱なものはない。
※身分の低い下級武官であったが、歌人としては一流と賞されており、『古今和歌集』の撰者として抜擢されています。『大和物語』によると藤原定国の随身であったといいます。


 


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