大和物語 九十段
同じ女、故兵部卿の宮、御消息などしたまひけり。「おはしまさん」とのたまひければきこえける、
たかくとも何にかはせん呉竹のひとよふたよのあだのふしをば
※同じ女=修理の君(父兄が修理職(皇居の修理・造営をつかさどる役所)の役人だった)という女房
現代語訳 おなじ女に、故兵部卿の宮さまが、お手紙のやりとりなどなさっていたとさ。兵部卿の宮さまが手紙で「行きますよ」と、おっしゃったので、返事に申し上げた歌
丈が高くても何になるでしょう、呉竹の一節二節といったちょっとした役にも立たない節なんか。(あなた様の身分がいくら高くっても何になるでしょう。一夜二夜しかいらしてくださらない、不誠実なお泊まりなんて)
大和物語 百三十七段
志賀の山越のみちに、いはえといふ所に、故兵部卿の宮、家をいとをかしうつくりたまうて、時々おはしましけり。
いとしのびておはしまして、志賀にまうづる女どもを見たまふ時もありけり。おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。
おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。
としこ、志賀にまうでけるついでに、この家にきて、めぐりつつ見て、あはれがり、めでなどして、かきつけたりける、
かりにのみ くる君まつと ふりいでつつ なくしが山は 秋ぞ悲しき
となむ書きつけて往にける。
※故兵部卿の宮=陽成天皇の皇子、元良親王(890~943年)。
※としこ=肥前の守、藤原千兼の妻。藤原千兼の妻で、千兼は宇多天皇(=亭子院)の信任が厚かった歌人・忠房の息子です。また、忠房の娘、つまり千兼の姉か妹が源大納言清蔭の妻でしたた。としこは、この清蔭のもとに仕えており、そこで千兼と結ばれたと言います。
現代語訳 滋賀の山越えの道中の、岩江という所に、故兵部卿の宮が、家を非常に風流に建造なさって、時々その別荘においでになったそうです。
非常に人目を避けてお出かけになって、滋賀の寺社に参詣する女性たちを御覧になる時もあったということです。
おおよそお屋敷全体が、非常に風情があり、家の造りも非常に趣味が良かったようです。
俊子が、滋賀の寺社に参詣したついでに、この家に来て、周囲をめぐりながら見て、感嘆し、ほめたりなどして、塀に書きつけた歌、
仮りそめにだけやって来るあなた様を待とうと、声をふりしぼって鳴く鹿の住む滋賀の山は、秋が格別にもの悲しいことだ。
と書きつけて、たちさったということです。
sechin@nethome.ne.jp です。
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