小野小町が少(わか)くて色を好みし時、もてなされしありさま、ならびなかりけり。『壮衰記』といふ物には、「三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻も、いまだこのおごりをなさず」と書きためり。
かかりければ、衣には錦繍のたぐひを重ね、食には海陸の珍を調へ、身には蘭麝を薫じ、口には和歌を詠(なが)め、万の男を賤しくのみ思ひ下し、女御・后に心をかけたりしほどに、十七にて母を失ひ、十九にて父におくれ、廿一にて兄に別れ、廿三にて弟を先立てしかば、単孤無頼の独り人になりて、頼むかたなかりき。
いみじき栄え、日々に衰へ、はなやかなる形、年々にすたれつつ、心かけたるたぐひも、うとくのみありしかば、家は壊れて月の光むなしく澄み、庭は荒れて蓬(よもぎ)のみいたづらに茂し。
かくまでになりにければ、文屋康秀が三河掾にて下りけるにいざなはれて、
わびぬれば身をうき草の根を絶えてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
など詠みて、次第に落ちぶれゆくほどに、つひには野山にぞさすらひける。懐旧の心のうちには、悔しきこと多かりけんかし。
現代語訳
小野小町がまだ若くて、色を好んでいた頃、その美貌故のもてはやされ方は一通りではなかった。玉造小町形衰書と云う書物によれば、三皇五帝の妃も、漢王・周公の妻も、小町の栄華には及ばないと謂う。
錦と刺繍をあしらった衣を重ね、海陸の珍味を食膳に並べ、蘭蕙香(らんけいこう)と麝香(じゃこう)の香りを身にまとい、口には和歌を詠じて、幾多の男を取るに足らぬものと見下して暮らしていた。
皇后になろうかとさえ望みを掛けていたが、十七で母を失い、十九で父に先立たれ、二十一の時に兄も亡くなり、二十三で弟も逝って仕舞った。身寄りもなく、孤立無援の身では立身の見込みもなく、目を見張るばかりの華やかな暮らしも日毎に寂しいものになって行った。絶世と謳われた容色も年齢と共に衰え、心を掛ける男たちも次第に少なくなって行ったから、家は破れ寂びて月ばかりが虚しく澄み、庭は荒れ放題で雑草が生い茂るばかりであった。
文屋康秀が三河の国司に赴任する時に誘うと、次の歌を詠んだ。
侘びぬれば身をうきくさのねをたえてさそふ水あらばいなんとぞ思ふ
(落ちぶれて我が身が厭になる程の身の上だから、根のない浮き草が水の流れで何処にでも行くように、誘う人があれば何処にでも行こうと思う)
時を経て、更に零落して、終いには野山をさすらったと謂うことである。
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