瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 Korinthos(コリントス)はもともとMēdeia(メーデイア)の父Aiētēs(アイエーテース)の出身地であり、アイエーテースが執政を置いていたのでメーデイアは統治権を要求できる立場にあったのです。コリントス王Kreon(クレオーン)は、Iāsōn(イアーソーン)の人柄を気に入って彼を歓迎し、娘Glauke(グラウケー)との結婚話を持ちかけるのでした。


イアーソーンは、メーデイアとの間に子供もできていましたが、メーデイアの凄まじいやり口を次第に忌み恐れるようになっていましたので、イアーソーンはメーデイアとの誓いを破棄してクレオーン王の娘グラウケーと結婚しようとするのでした。このためメーデイアは毒を染みこませた結婚衣装をグラウケーに送り、グラウケーがその衣装を身につけたところ、衣装はたちまち炎に包まれ燃え上がり、グラウケーと彼女を助けようとしたクレオーン王はともに焼け死んでしまいます。


さらにメーデイアはイアーソーンとの子まで殺し、竜の牽く戦車に乗ってコリントスを去ったといわれていますが、これは後世Eurīpidēs(エウリーピデース、BC480年頃~406年頃、古代アテナイのギリシア悲劇における三大悲劇詩人の1人)による脚色であるともいわれています。


 


Eugène Delacroix(ウジェーヌ・ドラクロワ):フランスの19世紀ロマン主義を代表する画家。ドラクロワは近代絵画発展上、本質的で革新的な絵画を描いたといわれています。


 


イアーソーンとメーデイアの間には、7人の息子と7人の娘がいましたが、メーデイアが手にかけたのではなく、グラウケーとクレオーンの殺害に憤激したコリントス人たちが、彼らをことごとく捕らえ、石を投げつけて殺したということです。また、長男のMedeios(メーデイオス)は、イアーソーン同様Pelion(ペーリオン)山のCheirōn(ケイローン)に養育されていて、難を逃れたともいわれています。


悪女とくっついてしまったばかりに貧乏クジばかり引くことになってしまった哀れなイアーソーンはどうなったのでしょうか? 彼は故郷のIolkós(イオルコス)へと戻ることもかなわず、諸国を転々とするはめになったのです。失意のイアソンの末路については諸説あり、いずれも悲惨な最期を迎えているようです。イアーソーンがコリントスの王となってクレオーン王の娘グラウケーとの結婚話が持ち上がり、メーディアを離縁したとき、怒ったメーディアはクレオーンとグラウケー、さらには自分の子どもたちを殺して立ち去りますが、イアーソーンもこの時メーディアに殺された、あるいは自殺したというのがあります。


他の伝説では狂人となって各地をさまよい、アルゴー船が引き上げられて、そのままになっている、イオルコスの浜辺に戻って来ました。「お前だけが僕の友達だ。」そうつぶやいて、船のそばでまどろんでいる時、船は崩れ落ち、舳先がイアーソーンの頭にあたりました。こうしてイアーソーンは、波乱の生涯を閉じたというのもあります。


 いずれにしても、能力あり、胆力あり、人望ありとまさに英雄としての条件を全て備えていたイアーソーンではありましたが、彼の唯一にして最大のミスは、メーディアなんて女を妻に迎えてしまったことだったというわけです。

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1932/02/04
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