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 以前横浜に在住のIN氏の息子さんが、慶応大学医学部を卒業後、国立感染症研究所に勤務しているということを聞いたことがあります。50年ほど昔に兼愛塾の臨海学校を手伝っていただいたNO氏とたまたま同じ研究所でご一緒だということを聞いて、不思議な因縁を感じたことがあります。IN氏は息子さんのことを「何だか解らないけど何でもアマゾン川流域当たりの風土病について研究しているらしいよ。」と言っていましたが、宝塚市のKS氏によると、「臨床医ではなくてそんな地味な研究をコツコツやっているというからには将来のノーベル賞候補かもしれないね」なんて言っていました。IN氏のご子息TN氏は現在は国立感染症研究所寄生動物部部長を務められているようです。また、国立大学法人筑波大学大学院生命環境科学研究科教授も務めていらっしゃるようです。


 いやはや、昨夕のテレビによるニュースでは、IN氏と同じような研究をされている北里大学特別栄誉教授のノーベル医学生理学賞の受賞が決まったようです。まさしく、宝塚市在住のKS氏の言は当たらずとも遠からずかもしれません。


 今朝のウェブニュースより


ノーベル賞:大村氏、医学生理学賞 毎年3億人を救う こだわった独創性 ――  今年のノーベル医学生理学賞受賞が決まった大村智(さとし)・北里大特別栄誉教授(80)は、自然界から役に立つ化学物質を見つけ出して数々の抗生物質の開発に結びつけ、アフリカなどの毎年約3億人を感染症の危機から救っている。70年前の1945年にペニシリンの発見で同じ賞を受賞したアレクサンダー・フレミングをはじめ著名な科学者を輩出してきたこの分野で、大村氏の上げた成果は質量ともに世界で類を見ない。輝かしい実績の背景には、「オリジナリティー」への大村氏のこだわりと、積極的な産学連携があった。


 大村氏が自然界に存在する抗生物質の探索に本格的に乗り出したのは、米国留学から帰国して北里研究所に研究室を持った1973年。翌年、静岡県内で採取した土から新種の放線菌を発見し、菌が生み出す未知の抗生物質を見つけた。79年に学会で発表した「エバーメクチン」はその後、寄生虫が引き起こす家畜の感染症の特効薬となり、アフリカや中南米で毎年3億人を超える人々を感染症から救うことになった。


 大村氏は、オリジナリティー(独創性)にこだわり、画期的な化学物質の発見を引き寄せた。研究室を開いた際、大村氏は「動物薬の開発を目指す」と宣言。当時、家畜用薬はヒト用の使い古しで専用薬はほとんどなく、「普通の方法では世界に太刀打ちできない。動物薬の開発は、ヒトと共通する病気の動物実験を同時にできる」と考えた。


 そこで、大村氏は、抗生物質の研究で傍流だった「マクロライド系」の追跡を選んだ。既に市場に出ていたペニシリン、ストレプトマイシンなどと系列が異なり、働き方が分かっていなかった。だが、「オリジナリティーを追求するのが科学」という信念が研究を後押しし、それまでの研究で「副作用が少なく、多くの機能があるようだ」という直感も当たった。


 一方、土壌から抗生物質を取り出すには、高い技術が必要だ。有機合成化学の世界的権威の竜田邦明・早稲田大栄誉フェローは「大村さんは北里研で化学の基礎を徹底的に学び、物質ふるい分けの高い技術や、化学反応の解析力にも優れていた」と話す。


 抗生物質の研究はもともと、みそや酒など微生物を利用した発酵技術が進んでいた日本の得意分野だ。微生物化学研究所を創設した梅沢浜夫・元東京大教授(191486年)は「カナマイシン」の発見で世界的に知られ、大村氏の指導者でもあった秦藤樹(とうじゅ)・元北里大学長(19082004年)は「ロイコマイシン」や「マイトマイシン」の発見でがん治療を大きく進展させた。大村氏の受賞は、この分野の日本の貢献に改めて光を当てた。


 ◇産学連携先取り


 「生涯に一つでも薬にできる成分を見つけられた研究者は幸運」と言われるほど、化学物質を発見し、実用化することは難しい。大村氏らが発見した化学物質は、26種類が医薬品や農薬などになった。この抜きんでた実績の原動力に、製薬企業などとの積極的な「産学連携」があった。


 米ウェスレーヤン大(コネティカット州)留学中、マックス・ティシュラー教授の研究室にいた大村氏は「研究費は自分で集める」という、当時の日本の科学界になかった姿勢を学んだ。「米国レベルの仕事をするには、あてがわれた研究費だけでは足りない。企業からの資金が必要」と考え、帰国前に米製薬大手のメルク社から年間8万ドル(当時のレートで約2500万円)の提供を3年間受ける契約を結んだ。


 帰国した大村氏の研究室(大村研)が有用な化学物質を探し、医薬品の開発と販売はメルク社が独占的に担う。特許は共有し、特許料が入れば研究室の人件費や設備投資に回す仕組みだった。「国から金をもらう国立大の研究者と違い、うちは自分で稼がねばならない。研究成果を社会に還元しなければならないという気持ちの強さが違った」と大村氏は振り返る。一方、「企業の下請けにはならない。研究室の根幹は自分たちで決めていた」という。


 日本で産学連携が本格化したのは1990年代後半からで、大村氏は時代を20年以上先取りする産学連携の草分けだ。取り組みは米国でも注目され「大村方式」と呼ばれた。メルク社との共同研究で巨額の特許料収入を得た大村研は、独立採算制を敷いて研究の幅を広げ、さらに産学連携を進めて成果を上げた。


 光触媒の研究で世界をリードし、自身も産学連携に取り組む藤嶋昭・東京理科大学長は「基礎研究を応用し、人類の役に立たせるのには産学連携が不可欠。そういう意味で、大村先生は『産学連携のかがみ』と言える」と高く評価する。  (毎日新聞 20151006日 東京朝刊)


  今日は、これから先日の大腸ポリープ切除後の検査結果を聞きに、三井記念病院に出かけます。ギリシア神話はお休みします。


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