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一説によるとPerseus(ペルセウス)が王となった後、Dionȳsos(ディオニューソス)の来訪が起こりました。多くの土地でディオニュースは拒絶されましたが、Árgos(アルゴス)においては戦争に発展しました。ディオニューソスはエーゲ海の島から「海の女たち」をともなって現れました。ペルセウスは軍を率いてこれと戦い、多くの女たちを殺したといいます。


Pausanias(パウサニアス、115年頃~180年頃、ギリシアの旅行家で地理学者)の証言によると、アルゴスの市内には殺されたMainades(マイナデス、ディオニュソス の信女たち)の墓や合葬墓があったといいます。


その上さらにペルセウスはディオニューソスを殺したとさえ伝えられているようです。そしてペルセウスは神の死体をLerne(レルネー)の泉に捨てた、といいます。しかしディオニューソスはレルネーの泉を通って冥府から戻ってくることができたらしいといわれています。その後、両者は和解し、アルゴス人はディオニューソスの神域を選定して、Krētē(クレーテー)ゆかりのディオニューソスの神殿を建設したといいます。ちなみにこの神域が「クレータゆかりの」と呼ばれるようになったのは、この場所にディオニューソスがAriadne(アリアドネー、クレーテー王の娘で、テーセウスを恋しますが、ディオニューソスが彼女を奪ってLêmnos〈レームノス〉島へと連れて行き、子をなしたといいいます)を葬ったからだといいます。


 


ペルセウスの死に関しては、Proitos(プロイトス、Akrisos〈アクリシオス〉と双子の兄弟)の息子Megapenthēs(メガペンテース)によって殺されたとする説があります。死後、ペルセウスはAthēnā(アテーナー)によって天に上げられ、ペルセウス座になったといいます。

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