瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
荀子は非十二子篇第六で、十二人の思想家を非難し、孔子・子弓、舜帝・禹王を顕彰している。その十二人とは――
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〔道家・快楽説批判〕生まれつきの感情のままに振る舞って放縦をよいことにし、鳥や獣のように行動して、その結果として、礼義にかなった秩序のある生活ができない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが它囂と魏牟である。
〔道家・無欲説批判〕生まれつきの感情をおしころし、世間から超然として、ほんの少しでも人々に異説を唱えることを良いことと考え、その結果として、一般の人々と一緒になって、基本的な秩序をわきまえた生活をすることがとうていできない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが陳仲と史鰌である。
〔墨家批判〕全世界を統一し国家を安定させるための基準である礼を知らないで、功利実用を尊び、倹約を重んじ、しかも、秩序のための差別を無視する。そこで、その結果として、社会的な階層の差別を容認して、君臣間の秩序を立てることができない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応すじみちがたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが墨翟と宋鈃である。
〔法家批判〕法令を尊びはするものの、理想的な王の定めた法を無視し、教育修養を軽視しながら、新たにことを始めることを好み、上は君主に厚遇されることを願い、下は世間からもよく言われたいと無理をしている。終日説きつづけて立派なことをいってみても、それを繰り返しよく調べてみると、実際とかけ離れて支離滅裂で論旨に統一がなく、それによって国家を運営し社会秩序を立てることはとうていできない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが慎到と田駢である。
〔名家批判〕古代の理想的な王の教えを模範とせず、社会の根本規範をよしとせず、好んであやしげな説をまなび、奇怪な言辞をもてあそび、きわめて分析的だが不必要で、あれこれ説きたてるがさっぱり役に立たず、多くの仕事に手を出すがさっぱり成果があがらず、それらを国政を秩序立てる根本原理とすることはできない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが恵施と鄧析である。
〔儒家・子思孟子批判〕おおよそは古代の理想的な王の教えの模範としてはいるが、その政治の根本理念はわきまえず、みかけはゆったりしているが、激しい気性で野望は大きく、知識は広いが雑然としており、古い昔のことに照らして自分の学説をつくりあげ、それを五行と呼んでいる。だが、それはきわめてよこしまな説で、規範がなく、曖昧模糊としていて深くは解き明かされておらず、ぶっきらぼうで具体的な解説をしていない。そのくせことばを飾り立てもったいを付け、「これこそほんとうのむかしの理想的な人物、孔子のことばである」と主張する。孔子の孫の子思がこれを言い出し、孟軻がそれを支持した。世間の暗愚な儒者たちは、口やかましくさわぎたてるが、それがまちがいであることが分からないでいる。あげくのはてに、それをまに受けて伝えるようになり、孔子と子游とは子思と孟軻によって後世に重んぜられるようになったのだと考えている。このようなことは、つまり、子思と孟軻が犯した罪悪である。
〔道家・快楽説批判〕生まれつきの感情のままに振る舞って放縦をよいことにし、鳥や獣のように行動して、その結果として、礼義にかなった秩序のある生活ができない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが它囂と魏牟である。
〔道家・無欲説批判〕生まれつきの感情をおしころし、世間から超然として、ほんの少しでも人々に異説を唱えることを良いことと考え、その結果として、一般の人々と一緒になって、基本的な秩序をわきまえた生活をすることがとうていできない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが陳仲と史鰌である。
〔墨家批判〕全世界を統一し国家を安定させるための基準である礼を知らないで、功利実用を尊び、倹約を重んじ、しかも、秩序のための差別を無視する。そこで、その結果として、社会的な階層の差別を容認して、君臣間の秩序を立てることができない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応すじみちがたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが墨翟と宋鈃である。
〔法家批判〕法令を尊びはするものの、理想的な王の定めた法を無視し、教育修養を軽視しながら、新たにことを始めることを好み、上は君主に厚遇されることを願い、下は世間からもよく言われたいと無理をしている。終日説きつづけて立派なことをいってみても、それを繰り返しよく調べてみると、実際とかけ離れて支離滅裂で論旨に統一がなく、それによって国家を運営し社会秩序を立てることはとうていできない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが慎到と田駢である。
〔名家批判〕古代の理想的な王の教えを模範とせず、社会の根本規範をよしとせず、好んであやしげな説をまなび、奇怪な言辞をもてあそび、きわめて分析的だが不必要で、あれこれ説きたてるがさっぱり役に立たず、多くの仕事に手を出すがさっぱり成果があがらず、それらを国政を秩序立てる根本原理とすることはできない。とはいうものの、自説を主張できるだけの理由はあり、その発言は一応筋道がたっていて、愚昧な民衆を欺きまどわすにはじゅうぶんである。このようなのが恵施と鄧析である。
〔儒家・子思孟子批判〕おおよそは古代の理想的な王の教えの模範としてはいるが、その政治の根本理念はわきまえず、みかけはゆったりしているが、激しい気性で野望は大きく、知識は広いが雑然としており、古い昔のことに照らして自分の学説をつくりあげ、それを五行と呼んでいる。だが、それはきわめてよこしまな説で、規範がなく、曖昧模糊としていて深くは解き明かされておらず、ぶっきらぼうで具体的な解説をしていない。そのくせことばを飾り立てもったいを付け、「これこそほんとうのむかしの理想的な人物、孔子のことばである」と主張する。孔子の孫の子思がこれを言い出し、孟軻がそれを支持した。世間の暗愚な儒者たちは、口やかましくさわぎたてるが、それがまちがいであることが分からないでいる。あげくのはてに、それをまに受けて伝えるようになり、孔子と子游とは子思と孟軻によって後世に重んぜられるようになったのだと考えている。このようなことは、つまり、子思と孟軻が犯した罪悪である。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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