瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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萩を詠める歌6
巻8-1550:秋萩の散りの乱ひに呼びたてて鳴くなる鹿の声の遥けさ

※湯原王(ゆはらのおおきみ、生没年不詳)
 奈良時代の皇族、歌人です。天智天皇の孫で、施基(志貴)皇子の子です。宝亀1(770)年、兄弟の白壁王が即位して光仁天皇となり、兄弟姉妹諸王子を親王、内親王としたことをもって湯原親王と称されますが、閲歴は明らかでありません。延暦24(805)73歳で薨じた大納言壱志濃王は、その第2子です。『万葉集』に、配列上から天平初期(729年以後)ごろの作品と推定される短歌19首が残っています。佳作が多く、「吉野にある菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山陰にして」「夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも」といった叙景・詠物の歌には、繊細優美な風を示し、「蜻蛉羽の袖振る妹を 玉匣奥に思ふを見給へあが君」などの宴席歌、また「娘子」との相聞贈答歌群では、即興的、機知的な才をのぞかせています。大伴家持に代表される天平の歌風への移行期において、大伴坂上郎女らと共にその新風を開いた観があり、家持に与えた影響も少なくありません。
巻8-1557:明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ

◎注意 原文の「逝廻岳之」は一般に「逝廻丘之」と表わし、「秋芽者」は一般に「子」の一字を補い「秋芽子者」と表わします。
※多治比国人(たじひの-くにひと、生没年不詳)
 奈良時代の官吏です。出雲守(いずものかみ)、播磨(はりまの)守、大宰少弐(だざいのしょうに)を歴任、天平勝宝(てんぴょうしょうほう)3年(751)従四位下にすすみます。のち摂津大夫(だいぶ)、遠江(とおとうみの)守となりますが、橘奈良麻呂(たちばなの-ならまろ)の変に連座して伊豆(いず)に流されました。「万葉集」に長歌1首,短歌3首がみえます。氏は丹比とも書きます。
巻8-1558:鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも

※沙弥・沙弥尼(しゃみ・しゃみに)
 仏教において、若くして出家(しゅっけ)し、十戒(じっかい)を守っている者で、具足戒(ぐそくかい)を受けて比丘(びく)・比丘尼(びくに)になる以前の徒弟僧侶(そうりょ)のことです。沙弥はサンスクリット語のシュラーマネーラśrāmaeraに、沙弥尼は同じくシュラーマネーリカーśrāmaerikāに相当する音訳語で、努め励む者の意です。勤策(ごんさく)、勤策女(ごんさくにょ)などと漢訳します。沙弥は男性で、20歳になれば比丘になることができます。沙弥尼は女性で、18歳になれば式叉摩那(しきしゃまな)(正学女(しょうがくにょ))になることができます。なお、わが国では妻帯した僧を俗に沙弥と称します。
巻8-1559:秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや

◎注意 原文の「頭刺不捶」の「捶」は、一般に代匠記以降は「插」の誤記として「插頭(かざし)に插()さず」と訓みます。歌意は変わります。
豊浦寺(とゆらでら)

 奈良県良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村にある太子山(たいしざん)向原寺(こうげんじ)の通称です。浄土真宗本願寺派に属します。欽明(きんめい)天皇のとき百済(くだら)から献じた仏像、経巻を蘇我稲目(そがのいなめ)が受けて小墾田(おはりだ)の家に安置し、のち向原(むくはら)の家を寺として移したのに始まるといいます。これが日本最初の寺院であるところから元興寺(がんごうじ)(建興寺)とよばれ、また所在地の地名から向原(むくはら)寺、小墾田寺、桜井寺ともよばれました。590年(崇峻天皇3)善信尼らが百済から帰って桜井に移されていた本寺に住し、593年(推古天皇1)には等由良(とゆら)宮(豊浦宮)を移してその地に金堂などを造営したので豊浦寺とよばれました。710年(和銅3)平城遷都とともに元興寺も平城京に移され、この地が衰えるとともにほとんど廃絶しましたが、江戸時代に旧跡に一堂を建て、向原寺の字音にちなんで広厳寺と称しましたが、現在向原寺と称しています。
巻8-1560:妹が目を始見の崎の秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ

◎跡見田庄(とみのたどころ)の所在は不明ですが、奈良県桜井市の外山(とび)付近や、同じく奈良県桜井市の吉隠(よなばり)近くにある鳥見山(とりみやま)山麓の地あたりと思われます。
 「始見の崎」は跡見田庄の近くの山のことで吉隠(よなばり)のあたりの山でしょうか。

巻8-1565:我が宿の一群萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも

◎この歌は日置長枝娘子(へきのながえのをとめ、伝承不詳)の詠んだ先の巻八(1564)の歌「秋づけば 尾花が上に 置く露の ぬべくも は思ほゆるかも(秋になると尾花の上に置く露のように消えてしまいそうなほど私は切なく思います)」に、大伴家持(おほとものやかもち)が答えて詠んだ一首です。

ウェブニュースより
 河野太郎氏出馬にも国民ウンザリ…ポスト欲しさの恩着せ、勝ち馬探しに奔走する自民議員にも嫌悪感 ―― 顔ぶれがほぼ出そろったようだ。
 菅首相の後継を選ぶ自民党総裁選(17日告示、29日投開票)で、河野規制改革担当相(58)が10日会見し、出馬表明した。総裁選出馬を決めたのは岸田前政調会長(64)、高市前総務相(60)に続く3人目となった。

 世論調査で国民人気が高いとされる河野氏の出馬で注目を集める総裁選だが、ネット上では、各候補の出馬をめぐって露骨に繰り広げられている党内抗争や勝ち馬探しに右往左往する議員の様子に嫌悪感を示す声が少なくないようだ。
 例えば河野氏については、持論の脱原発や女系天皇容認発言への懸念がベテラン議員に根強いことが出馬のハードルを高めていたとはいえ、何よりも“障害”となっていたのは所属派閥トップの麻生副総理兼財務相を説得することだったという。
 結局、麻生氏から「頑張れよ」と了解を得て出馬表明を決意するわけだが、ネット上では<どんなに国民人気が高くても、ボスの了解、容認をもらわないと総裁選には出られないのね>といった声や、<選挙とは名ばかりの談合、中身はポスト欲しさの恩着せ合戦>と手厳しい意見がチラホラみられる。
 森友問題の再調査をにおわせる発言が徐々にトーンダウンしている岸田氏に対しても、ネット上では<安倍さんに何か言われたのね><総裁選前からこんなグダグダじゃあ、何もやらないと言っているに等しい>と呆れる意見が目立つ。
極めつきは菅首相の総裁選不出馬の舞台裏報道
 極めつきは、10日付の朝日新聞が報じていた、菅首相の総裁選不出馬をめぐる舞台裏を描いた記事だろう。この記事によると、菅首相から幹事長交代を告げられた二階氏が「立ち止まって考えるべきだったな。恩知らずだった」などと周囲に漏らす様子が詳述されているのだが、この記事が事実であれば、まさに今の自民党内は恩讐と怨嗟の声が渦巻く阿鼻叫喚の世界。誰が総裁になったところで、しょせんは「操り人形」になってがんじがらめに陥るのは目に見えているではないか。

 ネット上でも<結局、影の総裁が本当の総理大臣ということ><この闇の支配構図が続く限り、いつまで経っても何も明らかにならないし、解決しない>と冷めた見方が多い。
 安倍前首相は、<河野太郎が総裁になったら国がめちゃくちゃになる>と話している、と報じられているが、公文書改竄や破棄、虚偽答弁が当たり前に行われるようになってしまったこの国は、安倍政権の時代から、すでにメチャクチャになっているのかもしれない。    
(日刊ゲンダイ 公開日:2021/09/11 06:00 更新日:2021/09/11 12:26


 

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