瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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/(しの)を詠める歌8
15-3758:さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ

※中臣宅守(なかとみのやかもり、生没年不詳)
 奈良時代の歌人です。『万葉集』巻15の目録に、,蔵部の女孺(後宮蔵司の女官か)狭野茅上娘子を娶ったときに流罪に断ぜられたとあり、越前国に配流されます。原因は、時の政情に絡むかと推測されますが、禁を犯して娘子と結ばれたためともいいます。天平12(740)年6月の大赦では「赦の限りに在らず」とされており、罪せられたのは同11年2月の大赦以後でしょうか。同13年9月の大赦で帰京した蓋然性が高い。天平宝字8(764)年藤原仲麻呂の乱に連座して除名(重罪の官人から位勲のすべてを剥奪する付加刑)されます。『万葉集』の40首は、配所での、都の娘子との贈答が主ですが、娘子の23首をも含め、編者(大伴家持か)の手で再構成されたといわれ、全体が悲劇的な愛の物語の趣を呈します。
16-3791:みどり子の若子髪にはたらちし母に抱かえ.......(長歌)
標題:竹取翁、偶逢九箇神女、贖近狎之罪作歌一首并短歌
標訓:竹取の翁の、偶(たまたま)九箇(ここのたり)の神女(めかみ)に逢ひしに、近く狎()れし罪を贖(あが)ひて作れる歌一首并せて短歌
:昔有老翁、号曰竹取翁也。此翁、季春之月登丘遠望、忽値煮羮之九箇女子也。百嬌無儔、花容無止。于時娘子等呼老翁嗤曰、叔父来乎。吹此燭火也。於是翁曰唯々、漸赴徐行著接座上。良久娘子等皆共含咲相推譲之曰、阿誰呼此翁哉。尓乃竹取翁謝之曰、非慮之外偶逢神仙、迷惑之心無敢所禁。近狎之罪、希贖以謌。即作謌一首并短謌
序訓:昔、老翁ありき、号(なづけ)て竹取翁と曰ふ。この翁、季春(きしゅん)の月に丘に登り遠く望むに、忽(たちま)ちに、羮(あつもの)を煮る九箇の女子に値()ひき。百嬌儔(たぐ)ひ無く、花容に匹するは無し。時に娘子等は老翁を呼び嗤(わら)ひて曰はく「叔父来れ。この燭の火を吹け」という。ここに翁は「唯々」と曰ひて、漸(やくやく)に赴き徐(おもふる)に行きて座(むしろ)の上に著接(まじは)る。良久(ややひさか)にして娘子等皆共に咲(えみ)を含み相推譲(おしゆづ)りて曰はく「阿誰(あた)がこの翁を呼べる」といふ。すなわち竹取の翁謝(ことは)りて曰はく「慮(おも)ざる外に、偶(たまさか)に神仙に逢へり、迷惑(まど)へる心敢(あへ)へて禁()ふる所なし。近く狎()れし罪は、希(ねが)はくは贖(あがな)ふに歌をもちてせむ」といへり。すなはち作れる歌一首并せて短歌

序訳:昔、八十歳を越える老人がいた。呼び名を竹取の翁といった。この老人が春三月頃に丘に登って遠くを眺めると、たまたま、羮を煮る九人の女性に出逢った。その妖艶さは比べるものが無く、花のように美しい顔立ちに匹敵する人がいない。その時、娘女達は老人を呼び笑いながらいった。「おやじ、ここに来い。この焚き火の火を吹け。」と。老人は「はいはい」といってゆっくりと娘女達の間に近づき、膝を交えて座った。ところが、しばらくして、娘女達は一様に笑いを含めながらお互いをつつきあい、「一体、誰が、このおやじを呼んだの」といった。そこで、竹取の翁が詫びていうには、「思ってもいなくて、たまたま神仙に回り逢い、戸惑う気持ちをどうしても抑えることが出来ませんでした。近づき馴れ馴れしくした罪は、どうか、この償いの歌で許して欲しい」といった。そこで作った歌一首。并せて短歌。
原文:緑子之 若子蚊見庭 垂乳為母所懐 褨襁 平生蚊見庭 結經方衣 水津裏丹縫服 頚著之 童子蚊見庭 結幡之 袂著衣 服我矣 丹因 子等何四千庭 三名之綿 蚊黒為髪尾 信櫛持 於是蚊寸垂 取束 擧而裳纒見 解乱 童兒丹成見 羅丹津蚊經 色丹名著来 紫之 大綾之衣 墨江之 遠里小野之 真榛持 丹穂之為衣丹 狛錦 紐丹縫著 刺部重部 波累服 打十八為 麻續兒等 蟻衣之 寶之子等蚊 打栲者 經而織布 日曝之 朝手作尾 信巾裳成 者之寸丹取 為支屋所經 稲寸丁女蚊 妻問迹 我丹所来為 彼方之 二綾裏沓 飛鳥 飛鳥壮蚊 霖禁 縫為黒沓 刺佩而 庭立住 退莫立 禁尾迹女蚊 髣髴聞而 我丹所来為 水縹 絹帶尾 引帶成 韓帶丹取為 海神之 殿盖丹 飛翔 為軽如来 腰細丹 取餝氷 真十鏡 取雙懸而 己蚊杲 還氷見乍 春避而 野邊尾廻者 面白見 我矣思經蚊 狭野津鳥 来鳴翔經 秋僻而 山邊尾徃者 名津蚊為迹 我矣思經蚊 天雲裳 行田菜引 還立 路尾所来者 打氷刺 宮尾見名 刺竹之 舎人壮裳 忍經等氷 還等氷見乍 誰子其迹哉 所思而在 如是 所為故為 古部 狭々寸為我哉 端寸八為 今日八方子等丹 五十狭邇迹哉 所思而在 如是 所為故為 古部之 賢人藻 後之世之 堅監将為迹 老人矣 送為車 持還来 持還来
           万葉集 巻16-3791
          作者:竹取翁
よみ:緑子の 若子の時(かみ)には たらちしも懐(なつか)し 褨(すき)を襁()け 平生(ひらお)の時(かみ)には 木綿(ゆふ)の肩衣(かたきぬ) ひつらに縫ひ着 頚(うな)つきの 童(わらは)の時(かみ)には 結幡(けつはん)の 袖つけ衣(ころも) 着し我れを 丹()よれる 子らが同年輩(よち)には 蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛持ち ここにかき垂れ 取り束(たか)ね 上げても巻きみ 解き乱り 童に為()しみ 薄絹(うすもの)似つかふ 色に相応(なつか)しき 紫の 大綾(おほあや)の衣(きぬ) 住吉の 遠里小野の ま榛(はり)持ち にほほし衣(きぬ)に 高麗錦 紐に縫ひつけ 刺()さへ重(かさ)なへ 浪累()き 賭博為し 麻続(をみ)の子ら あり衣の 宝(たから)の子らか 未必(うつたへ)は 延()へて織る布(ぬの) 日晒(ひさら)しの 麻手(あさて)作りを 食薦(しきむも)なす 脛裳(はばき)に取らし 醜屋(しきや)に経()る 否(いな)き娘子(をとめ)か 妻問ふに 我れに来なせと 彼方(をちかた)の 挿鞋(ふたあやうらくつ) 飛ぶ鳥の 明日香壮士(をとこ)か 眺め禁()み 烏皮履(くりかわのくつ) ()し佩()きし 庭たつすみ 甚(いた)な立ち 禁(いさ)め娘子(をとめ)か 髣髴(ほの)聞きて 我れに来なせと 水縹(みなはだ)の 絹の帯を 引き帯()なし 韓(から)を帶に取らし 海若(わたつみ)の 殿(あらか)の盖(うへ)に 飛び翔ける すがるのごとき 腰細(こしほそ)に 取り装ほひ 真十鏡(まそかがみ) 取り並()め懸けて 己(おの)か欲()し 返へらひ見つつ 春さりて 野辺を廻(めぐ)れば おもしろみ 我れを思へか 背の千鳥(つとり) 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば 懐かしと 我れを思へか 天雲も 行き棚引く 還へり立ち 道を来れば 打日刺す 宮女(みやをみな) さす竹の 舎人(とねり)壮士(をとこ)も 忍ぶらひ 返らひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえてある かくのごと 為()し故(ゆへ)し 古(いにしへ)の 狭幸(ささき)し我れや 愛()しきやし 今日(けふ)やも子らに 不知(いさ)にとや 思はえてある かくのごと 為()し故(ゆへ)し 古(いにしへ)の 賢(さか)しき人も 後の世の 語らむせむと 老人(おひひと)を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり
意訳:私が乳幼児の若子の頃は上等の布で母にくるまれ、稚児になると木綿製の裏付きの着物を着せられ、首まで切りそろえた幼児になると絞り染めの袖のついた着物を着ていた。ほおの赤い、あなたがたと同じような年頃になると、黒髪を櫛でかいて前に垂らし、取り束ねて巻き上げてみたり、あるいは解き乱したりして童子らしくしたものさ。ほの赤い色に似つかわしい紫染めの、綾織りの文様の大きな着物に、住吉(すみのえ)の遠里小野(とほさとをの)の、あの高級な榛(はん)の木で染めた着物を着、高麗錦を紐状に縫ひつけたものさ。その上、高麗錦の紐を挿したり合わせたりして重ね着飾ったものさ。麻をつむ子や織物に従事する子がこさえた白布を伸ばして織った着物に、日にさらした真っ白な麻製の、美しく屋根状に盛り上がった、ひれをなしたスカート状の上着を羽織る。下級役人の稲置娘子が求婚する私に、遠方から送ってよこした二色交ぜ織りの下足袋を履き、明日香の男が長雨時のように家にこもって縫ってくれた黒靴を履いたもんさ。その靴を履いて庭に立っていると、それを漏れ聞いた稲置娘子が、そんな風にお立ちでないと、私に送ってよこした韓帯(外国製の帯)を紐のように使って引き締めなさいといった。海神の御殿の屋根の上部に飛び回るジガバチのように、スマートな腰細の格好で装ほい、その自分を鏡に映してほれぼれしたもんさ。春がやってきて野辺をめぐると、格好いいと思ったのか野の鳥が鳴きながら飛んできた。秋になって山辺を歩くと、天雲までも私になついてたなびいている始末。、帰り道をたどって都大路にさしかかると、女官たちも高級な舎人(とねり)たちも、密かに振り返って見ては、どこの家の若様かと思われたものさ。こんなふうなありさまだから、この私も昔は時めいていたと思ったのさ。まあ今となれば、あなたがたのような若い方であれば変なじいさんと思われても仕方がない。だけど昔の賢人たちもこれを後の世の鑑(かがみ)とするように、人の老いは繰り返されるのだよ。
◎「春になって野辺をめぐれば、私を面白く思ってか野の鳥が近くへやって来ては鳴きて飛び交う。秋になって山辺を行けば懐かしいと私を思うからか天雲も行きたなびいたことだ。帰ろうと道を歩いて来れば日の輝く宮殿の女たちも、竹の根が伸びる舎人の男たちも、さりげなく振り返り見て、どこの子だろう?と思われたものだ。」と、自分のモテ期を自慢げに詠っています。
 そして、「このようにされて来たから昔は華やかだった私は、いとしくも今日のあなたたちに、どこの誰だろう?と思われているのだろう。このようにされて来たから昔の偉い人も後の世の鏡になるようにと、老人を運んだ車を持ち帰って来たことだ。持ち帰って来たことだ。」と、歌を締めくくっています。
 むかしは華やかさで「どこの子だろう?」と思われていたのが、いまでは邪魔な老人として「どこの誰だろう?」と仙女たちに思われている皮肉を詠った訳です。
 最後の「老人を運んだ車を持ち帰って来たことだ。」とは、孝子伝にある原穀が、祖父を乗せて捨てに行った手車を「父を捨てるときにも使うから」と言って持ち帰って、祖父を捨てることを命じた父を諫めた逸話のことですね。
 つまりは、「いまは華やかなあなたたちも、いつかは私のように年老いてしまうのですよ」と諭している訳です。
 まあ、取りようによっては、償いの歌と言いながら説教を始める困ったお爺さんと言った感じにも読めますが、この歌の場合は素直に「まだ若い仙女たちのために素晴らしい教えを与えてあげるための歌」と解釈するのが正解だと思います。
 「年寄りを邪魔者にすると、いつかあなたたちも同じように扱われますよ」と教えてあげている訳ですね。
◎この万葉集巻十六(三七九一)の歌に出て来る竹取の翁は、後の平安時代に作られた竹取物語の登場人物の竹取の翁のもとになったとも云われています。
 竹取物語において、竹取の翁はその名を「讃岐造(さぬきのみやつこ)」とされ、その出身部族である讃岐氏は、持統-文武期に朝廷に竹細工を献上するために讃岐国(さぬきのくに)の氏族斎部(いちべ)氏が大和国広瀬郡散吉(さぬき)郷に移り住んだものだそうです。

 おなじく、竹取物語のかぐや姫の五人の求婚者である貴公子たちが、万葉集の一時代である持統期末期から文武期初期にかけての朝廷の中心に居た実在の人物に比定されることも、この巻十六(三七九一)の歌から始まる一連の連作との関係を感じさせてくれて興味深いものがあります。


 

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