瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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巻5-0864: 後れ居て長恋せずは御園生の梅の花にもならましものを
 
この歌には、次のような題詞がついています。
題詞:宜啓 伏奉四月六日賜書 跪開封函 拜讀芳藻 心神開朗以懐泰初之月鄙懐除□ 若披樂廣之天 至若羈旅邊城 懐古舊而傷志 年矢不停憶平生而落涙 但達人安排 君子無悶 伏冀 朝宜懐□之化暮存放龜之術 架張趙於百代 追松喬於千齡耳 兼奉垂示 梅苑芳席 群英□藻 松浦玉潭 仙媛贈答類否壇各言之作 疑衡皐税駕之篇 耽讀吟諷感謝歡怡 宜戀主之誠 誠逾犬馬仰徳之心 心同葵□ 而碧海分地白雲隔天 徒積傾延 何慰勞緒 孟秋膺節 伏願萬祐日新 今因相撲部領使謹付片紙 宜謹啓 不次
よみ:宜(よろし)啓(まを)す。伏して四月六日の賜書を奉(うけたまわ)りぬ。跪きて封函を開き、拝(をろが)みて芳藻を読むに、心神開朗(こころほがらか)なること泰初の月を懐(うだ)けるに以って、鄙しき懐除(おもひのぞこ)りさゆらゆること、楽広の天を披けるがごとし。渡城に羈旅(だび)し、古舊を懐(おも)ひて志を傷ましめ、年矢停らず平生を憶ひて涙を落とすといふが若きに至りては、但(ただ)達人は排に安みし、君子は悶無し。伏して冀(ねが)はくは、朝にきざしを懐けし化を宣べ、暮(ゆふべ)に亀を放ちし術を存し、張趙を百代に架(しの)ぎ、松喬を千齡に追ひたまはまくのみ。兼ねて垂示を奉るに、梅苑の芳席に、群英の藻をのべ、松浦の玉潭に、仙媛と贈答せるは否壇の各言の作に類(たぐ)ひ、衡皐が税駕の篇に疑(なぞ)ふ。耽読吟諷し、感謝歡怡す。宜、主を恋(しの)ふ誠、誠に犬馬に逾え、徳を仰ぐ心、心は葵□に同じ。しかも碧海地を分ち、白雲天を隔てり。徒に傾延を積み、いかにしてか労緒を慰めむ。孟秋、節に膺(あた)れり、伏しては願はくは、萬祐日に新ならむことを。今、相撲部領使(すまひことりづかひ)に因りて、謹みて片紙を付けたり。宜、謹みて啓す。不次
意味:宜が謹んで申し上げます。四月六日にお手紙を頂戴致しました。謹んで封緘を開き、立派な文章を拝読致しました。私の心は明るく開け泰初が月を懐に入れたような心地で、鬱積も晴れて樂廣の青天を披くような気分です。大宰府に旅して、昔を回想して心を悲しませたり、歳月が矢のように過ぎ去り若き日々を思って涙を落としたりすることです。ただ達人の境地で成り行きに任せ、立派な君子として心を煩わさないようにするしかありません。朝には雉をなつかせるような徳政を敷き夕方には亀を逃がすような仁術を施し、張・趙のように百年後までも名を残し、松・喬のように千歳の寿を保ってください。あわせてお示しになったように、梅花の宴で多くの優れた人が立派な歌をつくり、松浦川の淵で仙女と歌を贈答なさったのは、孔子の講壇で人々が意見を述べたごとくですしまさに衡皐税駕の故事のようです。読み耽っては口ずさみ、お気持ちをありがたく親しみ楽しんでおります宜のあなたに対する思慕の情は、犬や馬を超える忠誠心で徳を仰ぐ心は、向日葵が太陽に向かうのと同じです。紺碧の海は地を分かち白雲は天を隔てて遠く、空しく思慕の念を積み重ねています。どのようにして心の嘆きを慰めましょう。秋の季節の変わり目です。何卒日々御加護がありますように。相撲部の部領使いが下向するにあたり、片の書簡を託します。以上、宜が謹んで申し上げました。


※この文章は、大宰師の大伴旅人が奈良の都にいる吉田宜(きちたのよろし)に贈った書簡に、吉田宜が返書して贈ったものです。
 
旅人はこの宜への書簡に「梅花(うめはな)の歌」23種(巻5:815 ~846までを参照)や、「松浦河に遊ぶ」の歌(巻5:853 ~863までを参照)を添えて贈ったようです。
 
吉田宜は百済からの渡来人の吉氏の子孫で、出家して「八恵俊」と名乗っていたのを文武天皇が還俗させて以後、吉田姓を賜りました。吉氏は代々、医術の家系で吉田宜も医師でもあったようです。大伴旅人とは奈良の都で親しい間柄だったのでしょう。
 
そんな吉田宜が旅人からの手紙に返した返書ですが、旅人から贈られた手紙を読んで心が明るく開け晴天を仰いだ心地のごとくだと謝辞を述べています。
 
泰初(たいしよ)」は昔の魏の人物で「朗々として日月の懐に入れるが如し」とは世説新語にある故事。「楽広(がくくわう)」は晋の人物でこちらも晋書に「晴天を仰ぐ」の故事があります。
 
吉田宜が渡来系の人物であるためか他にも大陸の故事を譬えにした文章が多く続きますが、旅人たちがこれらの故事を解したであろうことからも奈良時代には大陸からの文化の影響が大きかったことが伺えます。
 
また旅人が書簡に添えて贈った「梅花(うめはな)の歌」や「松浦河に遊ぶ」の歌にも孔子(こうし)や曽植(そうしよく)の故事に譬えて讃え、「繰り返し読んでは口ずさみ、お気持ちに感謝して楽しんでおります。」と謝辞を伝えています。そして折しも下向する相撲の部領に書簡を託したことを伝えて手紙を締めくくっています。
 
相撲とは、この頃、宮中で七夕に相撲の節会が行われ諸国から相撲人が集めらたようです。そんな相撲の節会が終わって諸国へ帰ってゆく相撲人を引率する部領に書簡を託したというわけです。
 
この書簡とともに宜もまた旅人に以降の歌(巻864などを参照)を数首添えて贈ったわけですが、大伴旅人や吉田宜が交わした書簡が万葉集の歌とともにこのような形で現在に伝わっているのは、当時の人々を知るうえで非常に貴重な資料です。
 
以下、吉田宜の歌が続きます。
 
 吉田宜(きちたのよろし):出自は百済といいます。出家して恵俊を号していましたが、文武四年(700)八月、還俗して吉(きち)の姓と宜()の名を賜わり、朝廷に医術を以て仕えました。和銅七年(714)、従五位下。神亀元年(724)、改めて吉田連(よしだのむらじ)の姓を賜わります。図書頭・典薬頭などを歴任し、正五位下に至ります。大伴旅人と親交があったらしく、天平二年(730)七月、旅人に和歌四首を添えて書簡を贈った(万葉集巻五)。『懐風藻』にも漢詩二首を載せています。


 

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