瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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梅を詠んだ歌2
梅花謌卅二首并序
標訓 梅花の歌三十二首、并せて序
 
天平二年正月十三日、萃于帥老之宅、申宴會也。于時、初春月、氣淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香。加以、曙嶺移雲、松掛羅而傾盖、夕岫結霧、鳥封穀而迷林。庭舞新蝶、空歸故鴈。於是盖天坐地、促膝飛觴。忘言一室之裏、開衿煙霞之外。淡然自放、快然自足。若非翰苑、何以濾情。詩紀落梅之篇。古今夫何異矣。宜賦園梅聊成短詠。
序訓 天平二年正月十三日に、帥の老の宅に萃(あつ)まりて、宴會を申く。時、初春の(れいげつ)にして、氣淑()く風ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かをら)す。加以(しかのみにあらず)、曙の嶺に雲移り、松は羅(うすもの)を掛けて盖(きぬがさ)を傾け、夕の岫(くき)に霧結び、鳥は穀(うすもの)に封()められて林に迷ふ。庭には新蝶(しんてふ)舞ひ、空には故鴈歸る。於是、天を盖(きにがさ)とし地を坐とし、膝を促け觴(さかずき)を飛ばす。言を一室の裏(うち)に忘れ、衿を煙霞の外に開く。淡然と自ら放(ほしきさま)にし、快然と自ら足る。若し翰苑(かんゑん)に非ずは、何を以ちて情を壚()べむ。詩に落梅の篇を紀(しる)す。古(いにしへ)と今とそれ何そ異ならむ。宜しく園の梅を賦()して聊(いささ)かに短詠を成すべし。
意味 天平二年正月十三日に、大宰の帥の旅人の宅に集まって、宴会を開いた。時期は、初春のよき月夜で、空気は澄んで風は和ぎ、梅は美女が鏡の前で白粉で装うように花を開き、梅の香りは身を飾った衣に香を薫ませたような匂いを漂わせている。それだけでなく、曙に染まる嶺に雲が移り行き、松はその枝に羅を掛け、またその枝葉を笠のように傾け、夕べの谷あいには霧が立ち込め、鳥は薄霧に遮られて林の中で迷い鳴く。庭には新蝶が舞ひ、空には故鴈が北に帰る。ここに、天を立派な覆いとし大地を座敷とし、お互いの膝を近づけ酒を酌み交わす。心を通わせて、他人行儀の声を掛け合う言葉を部屋の片隅に忘れ、正しく整えた衿を大自然に向かってくつろげて広げる。淡々と心の趣くままに振る舞い、快くおのおのが満ち足りている。これを書に表すことが出来ないのなら、どのようにこの感情を表すことが出来るだろう。漢詩に落梅の詩篇がある。感情を表すのに漢詩が作られた昔と和歌の今とで何が違うだろう。よろしく庭の梅を詠んで、いささかの大和歌を作ろうではないか。
注意 原文「鳥封穀而迷林」は「鳥封縠而迷林」とし「鳥は縠(うすもの)に封()められて林に迷ふ」、「役膝飛觴」は「促膝飛觴」とし「膝を促け觴(さかずき)を飛ばす」、「何以壚情」は「何以攄情」とし「何を以ちて情を攄()べむ」と訓みます。
 
 
ごく身近なことから幽玄な遠い峰へと引いていく、ダイナミズムあふれる視点の移動が感動的です。繊細でありながら力強い情景描写は、のちの狩野派による花鳥図もほうふつさせます。この序を書いたのは旅人か山上憶良といわれていますが、原文では旅人を「帥老(そちのおきな)」という尊称で表現しており、本人が自分を敬称で呼ぶのは不自然であることから、旅人ではなく憶良が旅人の身になって代筆したとも考えられています。
 
 
この序には書の世界の神的存在である古代中国の書家、王義之(おうぎし)の最も高名な作品『蘭亭の序』から引用したスタイルが多くみられるとのことですが、『蘭亭の序』は蘭亭という場所を会場にしてもよおされた宴の席で参加者が詠んだ27編の詩の序として、イイ心持ちに酔った主催者の王義之が書いたものだそうです。なるほど状況設定が旅人と同じです。
 
  蘭 亭 序             王 羲 之
永和九年歳在癸丑暮春之初會于會稽山陰
之蘭亭脩禊事也群賢畢至少長咸集此地有
崇山峻¹茂林脩竹又有清流激湍暎帶左右
 
1「領」は、古く「嶺」と通じて用いられた。
引以爲流觴曲水列坐其次雖無絲竹管弦之
盛一觴一詠亦足以暢叙幽情是日也天朗氣
淸惠風和暢仰觀宇宙之大俯察品類之盛所
以遊目騁懷足以極視聽之娯信可樂也夫人
之相與俯仰一世或取諸懷抱悟言一室之内
因寄所託放浪形骸之外雖趣舎萬殊靜躁
不同當其欣於所遇蹔得於己²怏然自足不知
 
2「怏然」は「快然」が正しいとされる。
老之將至及其所之既惓情隨事遷感慨係之
矣向之所欣俛仰之閒以爲陳迹猶不能不以
之興懷況脩短隨化終期於盡古人云死生亦
大矣豈不痛哉毎攬昔人興感之由若合一契
未甞不臨文嗟悼不能喩之於懷固知一死生
爲虚誕齊彭殤爲妄作後之視今亦³今之視
 
3「由」は「猶」と通用。
昔悲夫故列叙時人録其所述雖世殊事異所
以興懷其致一也後之攬者亦將有感於斯文

《蘭亭序(らんていじょ)書き下し文》
 
永和九年、歳(とし)は癸丑(きちう)に在り。暮春の初め、会稽山陰の蘭亭に会す。禊事(けいじ)を脩(をさ)むるなり。群賢(ぐんけん)畢(ことごと)く至り、少長(せうちやう)咸(みな)集まる。此の地に、崇山(すうざん)峻領(しゆんれい)、茂林(もりん)脩竹(しうちく)有り。
 
又、清流(せいりう)激湍(げきたん)有りて、左右に暎帯(えいたい)す。引きて以て流觴(りうしやう)の曲水と為(な)し、其の次(じ)に列坐す。糸竹管弦の盛(せい)無しと雖(いへど)も、一觴一詠、亦以て幽情を暢叙(ちやうじよ)するに足る。
 
是の日や、天朗(ほが)らかに気清く、恵風(けいふう)和暢(わちやう)せり。仰いでは宇宙の大を観(み)、俯しては品類の盛んなるを察す。目を遊ばしめ懐(おも)ひを騁(は)する所以(ゆゑん)にして、以て視聴の娯しみを極むるに足れり。信(まこと)に楽しむべきなり。
 
夫(そ)れ人の相与(あひとも)に一世(いつせい)に俯仰(ふぎやう)するや、或いは諸(これ)を懐抱(くわいはう)に取りて一室の内に悟言(ごげん)し、或いは託する所に因寄(いんき)して、形骸の外(ほか)に放浪す。
 
趣舎(しゆしや)万殊(ばんしゆ)にして、静躁(せいさう)同じからずと雖も、其の遇ふ所を欣び、蹔(しばら)く己(おのれ)に得るに当たりては、怏然(あうぜん)として自(みづか)ら足り、老(おい)の将(まさ)に至らんとするを知らず。
 
其の之(ゆ)く所既に惓(う)み、情(じやう)事(こと)に随ひて遷(うつ)るに及んでは、感慨(かんがい)之(これ)に係(かか)れり。向(さき)の欣ぶ所は、俛仰(ふぎやう)の閒(かん)に、以(すで)に陳迹(ちんせき)と為(な)る。猶(な)ほ之(これ)を以て懐(おも)ひを興(おこ)さざる能はず。況んや脩短(しうたん)化(か)に随ひ、終(つひ)に尽くるに期(き)するをや。
 
古人云へり、死生も亦(また)大なりと。豈(あ)に痛ましからずや。毎(つね)に昔人(せきじん)感を興(おこ)すの由(よし)を攬(み)るに、一契(いつけい)を合(あは)せたるが若(ごと)し。未(いま)だ甞(かつ)て文に臨んで嗟悼(さたう)せずんばあらず。之(これ)を懐(こころ)に喩(さと)ること能はず。
 
固(まこと)に死生を一(いつ)にするは虚誕(きよたん)たり、彭殤(はうしやう)を斉(ひと)しくするは妄作(まうさく)たるを知る。後(のち)の今を視るも、亦(また)由(な)ほ今の昔を視るがごとくならん。
 
悲しいかな。故に時人(じじん)を列叙し、其の述ぶる所を録す。世(よ)殊に事(こと)異(こと)なりと雖も、懐(おも)ひを興(おこ)す所以(ゆゑん)は、其の致(むね)一(いつ)なり。後(のち)の攬(み)る者も、亦(また)将(まさ)に斯(こ)の文に感ずる有らんとす。


蘭亭の序の現代語訳
 
永和九年癸丑の歳、三月初め、会稽郡山陰県蘭亭に集ったのは禊(みそぎ)を行うためである。賢者がことごとく集まり、老いも若きもみな集まった。この地には高い山と険しい嶺、茂った林、長い竹がある。
 
また、清流や早瀬があり、左右に照り映えている。その水の流れを引いて、觴(さかずき)を流すための「曲水」を作り、人々はその傍らに順序よく並んで坐った。琴や笛のような音楽はないが、觴がめぐってくる間に詩を詠ずるというこの催しは、心の奥深い思いを述べあうのに十分である。
 
この日、空は晴れわたり空気は澄み、春風がおだやかに吹いていた。
 
仰げば広大な宇宙が見え、見下ろせば万物の盛んなさまがうかがえる。
 
こうして、目を遊ばせ思いを十分に馳せ、見聞の娯しみを尽くすのは本当に楽しいことである。
 
そもそも人間が同じこの世で暮らしていく上で、ある人は一室にこもり胸に抱く思いを友人と語り、またある人は志の赴くままに、肉体の外に、自由に振舞う。
 
どれを取りどれを捨てるかもみな違い、静と動の違いはあるけれど、その境遇を喜び、それぞれ合致すればよろこび合う。暫し自分の意のままになるとき、人は快く満ち足りた気持ちになり、老いていくのも気づかない。
 
その行き着くところに飽きてくると、感情は対象に従い移ろい、感慨もそれにつれて変わってしまう。以前の喜びはほんのつかの間のうちに過去のものとなってしまうが、だからこそおもしろいと思わずにはいられない。ましてや、人の命は物の変化に従い、ついには死が定められていることを思えばなおさらである。
 
昔の人も「死生はまことに人生の一大事」と言っているが、何とも痛ましいことではないか。昔の人がいつも何に感激していたかを見ると、割り符を合わせたかのように私の思いと一致し、その文を読むたび嘆き悼まずにはいられないが、我が心を諭すことはできない。
 
死と生を同一視するのは偽りであり、長命も短命も同じなどというのはでたらめであることは知っているものの、後世の人々が現在の我々を見るのは、ちょうど今の我々が昔の人々を見るのと同じことだろう。
 
悲しいではないか。それゆえ今日ここに集う人々の名を列記し、それぞれ述べたところを記録することにした。時代は移り、事情は異なっても、人々が感慨を覚える理由は、結局は一つである。後世の人々もまたこの文に共感するにちがいない。


 

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令和
元号「令和」の出典となった詩ですね。このころ知識人たちはすでに中国の書籍に通じていたということは、遣唐使を通じてたくさん輸入されていたのですね。必死に唐の書物を勉強していたのでしょう。すごいですね。
中公房 2020/04/22(Wed) 編集
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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