詩人のサトーハチローや小説家・佐藤愛子の父親である佐藤紅緑は、少年小説の第一人者であるとともに、子規の門人でした。
紅緑は明治26(1893)年、弘前中学校を中退して、郷土の先輩で遠縁にあたる陸掲南を頼って上京し、羯南の書生となって国学院に通いました。しかし、国学院で古典の勉強を始めますが、なかなか理解できず、誰か親切に教えてくれる人はないだろうかと、羯南に相談すると、子規を紹介されました。
この向いに正岡という社(日本新聞社)に勤めている人がある、それは幸いだと喜んで見たが、さてその正岡という人は奥州の方を旅行中でいつ帰るかわからぬというのでそのままになってしまった。しかし肺病で血を吐いて自ら子規と号したこと、書はなかなか上手に書けること、社の方では何をさしても立派に書くことなどわかった。それから秋の夕暮の頃である、書生部屋に灯を付けようと思っていたら、玄関に案内を乞うものがある。薄暗い中に立っていたのは肩の幅が広く四角で、丈は余り高くない、顔は白く平ったい方の人間である。余の案内も待たずのこのこ中に這入ろうとしている。この家に来る客の中で案内なしに這入るのは、青崖氏たった一人であるのに、今またこんな変挺な人が一人殖えたと驚いて、名前を聞いたら、正岡ですとハッキリ答えた。丁度向いの住人余が教を乞うべき人とは急に気が付かなかった。(佐藤紅緑 子規翁)
翌年、紅緑は5月に日本新聞社に入社して子規と机を並べることになり、俳句にも親しむようになります。紅緑は、たちまちのうちに頭角を現しますが、明治28年(1895)夏には脚気のため帰郷。「東奥日報社」の記者となりますが、翌年には仙台の「東北日報社」に入社し、明治30(1897)年には同志と仙台で「河北新報」を創刊し、5月に24歳の紅緑は「河北新報社」の社長の義妹である19歳の鈴木はると結婚しました。
その時に、子規から妻の名前を詠み込んだ「婿となり嫁となるはるのちぎりかな」という、ふたりの結婚を祝う句をもらい、婦人家庭欄の初代主筆となっています。
しかし、紅緑の腰は落ち着きません。明治31(1898)年1月には大隈重信の推薦で「富山日報社」に入社し、やがて主筆となりました。
大隈重信の進歩党に入党していた紅緑は、明治31年に青年急進党を組織するという噂を聞いた子規は、1月には4月8日、紅緑に手紙を送ります。「体の健康な人は十分考えて一時の軽挙にいでぬように願いおり候。きょうも貴兄の御地方に評判よしということを聞てうれしくもあるからに何やら例の杷憂も起り候まま下らぬくり言申上候」と忠告し、「われ病んてさくらにおもふこと多し」という句を送りました。
紅緑は、この手紙がよほど肝に答えたのか、「この手紙は余がバイブルである、御経である、論語である座右の銘である、余が欠点、病処を救うの道を教えたのは実にこの書である」と『子規翁』に書いています。
この年の初秋、紅緑は肺炎に罹りました。子規は「心を静かにせよ」とだけの手紙を送り、次便で、「肺炎は死ぬ病には無之候。小生の知き結核性のものにしても死ぬことには無之候。ただ屢々喀血すれば身体の衰弱を来す故かなり風邪を引かぬように用心致し候。貴兄もその辺御注意可被成。肺炎などはわけのなき病にて候えば、焦らずに御静養可然候」と、紅緑を励ましています。
明治32(1899)年12月25日、子規は紅緑が弘前で「陸羽新報」を創刊すると聞き、「雑煮くふて第一号をいはいけり」の句を贈っています。
しかし「陸羽新報」には1ヶ月いただけで、明治33(1900)年2月、紅緑は上京して「報知新聞社」に入社。記者活動とともに俳人として活躍します。明治38(1905)年には記者をやめて、自然主義小説を書き始め、劇作家、小説家としてようやく大成しますが、子規に受けた思義は生涯忘れることはありませんでした。
紅緑の『子規翁』に書かれた子規の言葉を紹介します。
人と交わるに長所のみを知って欠点を知らなければ永久の交わりはできぬ。また交わる方面を別に定めておかねばならぬ。政治家で俳句をやるものがあれば、その俳句の方面で交わり、政治の方は問わんでよろしい。実業家、商人、何でもそうである。故に世間的のこと、すなわち我が交わる処の俳句の方面において義を欠いた処がなければ他の実業や政治においてどんな失策があろうとも、そは別にしなければならぬ。(佐藤紅緑 子規翁)
「ああそうだ。瓢亭に薬を造ってもらうのだね、それを飲めば死んでしまうのだとして、もう苦しくてたまらんから死のうと思た時にそれを飲むことに決めて置くのだ。なかなか飲まんだろうと思う。本当に死ぬんだと思えば決して飲まれるものではない」。暫く話は途切れたが「劇薬のつもりで、瓢亭は何か笑い薬か踊り薬というようなものを入れておいたら山ができるね。いよいよこの一服で死ぬるのだというので家族のものやら君らが枕元に並んでおるさ。水を打たるごとくになっておるさ。そこで僕が飲む。自分でもう死んでしまったつもりになっておるさ。そうすると薬が利きだして、急に笑い出す、踊り出す、ステテコか何かで踊ったら滑稽だろうじゃないか」翁の話は大抵このように悲しい話でも、御しまいには滑稽に帰着してしまうのである。(佐藤紅緑 子規翁)
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