人去つて空しき菊や白き咲く 芥川龍之介
■これは夏目漱石の一周忌の折に詠まれた芥川龍之介の俳句です。第四次『新思潮』の創刊号に発表した小説「鼻」が夏目漱石に認められ、芥川が文壇にデビューしたのは、大正5(1916)年2月、東京帝国大学生の時でした。その年の7月に大学を卒業、12月に横須賀の海軍機関学校の嘱託教官となり、鎌倉の野間西洋洗濯店の離れに下宿します。漱石が亡くなったのは同じ年の12月9日のことでした。
■夏目漱石の有名な句に、「有る程の菊抛〈な〉げ入れよ棺の中」があります。これは友人の夫人で作家・歌人の大塚楠緒子(くすおこ・なをこ、本名:久寿雄)が明治43年(1910)11月9日に35歳で亡くなった時に、病床にあった漱石が「床の中で楠緒子さんの為に手向の句を作る」の前書きで11月15日の日記に記(しる)した句です。対詠の挨拶句で、漱石が生涯忘れることができなかった恋人の死にあたり、病床から、せめてありったけの菊の花を棺に入れてやってほしいと、何のわだかまりもなく、まっすぐに詠っています。
■芥川は、大正6年(1917)11月24日の松岡譲宛葉書に「先生没後1年とは早すぎる位早い」として、かなりこの句を意識して、掲句を詠んでいます。ここには、父なるものの漱石への追念とともに、15年前の11月28日に発狂して亡くなった実母への永遠の想いが込められていないでしょうか。また、同25日の池崎忠孝(赤木桁平の本名)宛葉書に「序〈ついで〉に名句を披露する」として、「たそがるる菊の白さや遠き人」「白菊や匀〈におい〉にもある影日なた」の2句を記しています。
■芥川にとっての大正6年は、第一短編小説集『羅生門』(5月)、第二短編小説集『煙草と悪魔』(11月)を刊行し、また翌年2月に塚本文子との結婚も決まり、一見意気軒昂の時のように思われます。しかし、その一方で漱石という大きな後ろ盾を失って非常に落胆し、また久米正雄と夏目筆子のスキャンダルが持ち上がっている時でもあり、さらには、筆子の第一婿候補に芥川の名が挙がっていたこともあり、前掲の「白菊」の句は、そんな状況を詠んだ句なのです。
■芥川は明治25年(1892)3月1日に父新原(にいはら)敬三、母フクの長男として、東京都京橋区入舟町(現・中央区明石町)に生まれました。しかし、母のフクが突然発狂、芥川は生後間もなく本所区小泉町(現・墨田区両国)の母の実家で未婚の伯母フキに育てられます。養子となって芥川姓になったのは、母フクが死去した翌々年の明治37年(1904)満12歳のときでした。
■芥川の俳句を、飯田蛇笏は、小説よりも高く評価していました。また、岡本かの子も、芥川の俳句を短歌よりも高く評価し、「芭蕉の不易流行の不易を内容的心的境涯とし、流行を表現形式の手段とすれば、流行は既に手に入り、ひたすら不易に於ける幽処の到達に腐心している」と評しています。このように、文人の中でも芥川の俳句は、一、二と称されるほどの名手であり、実力者だったのです。しかし、昭和2年(1927)に香典返しとして編まれた『澄江堂〈ちょうこうどう〉句集』には、生前の自選50句を含む77句しか収録されていません。芥川が生涯に詠んだ俳句は、560句とも1,200句ともいわれています。
■芥川は子供時代から早熟で、すでに俳句や短歌に親しみ、江東尋常高等小学校4年生の時の句に、
落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな
があります。この句について、大正14年(1925)6月の『俳壇文芸』に発表された「わが俳諧修業」に、「鏡花の小説など読みゐたれば、その羅曼主義を学びたるなるべし」と記しています。その後、「大学を卒業するまで句作を行わず」(この間、書簡の中に句が散見されます)、海軍機関学校の教官となり、高浜虚子と同じ鎌倉に住んだ折に「ふと句作をして見る気になり」、虚子に10句ばかりの添削をお願いしたところ『ホトトギス』に2句掲載されたのだといいます。それを機に、虚子に就いて本格的に俳句を学んでいます。また、芭蕉に惹かれ「芭蕉雑記」(大正12年)、「続芭蕉雑記」(昭和2年)や小説「枯野抄」(大正7年)を書いています。俳号は我鬼(餓鬼を捻ったものとも、中国語で自我のことともいわれています)。
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