瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
―― ここに人がいて、年齢は似たり寄ったり、資産もほぼ同じで、才能にもそれほどの差はなく、容貌もおっつかっつである。ところが寿命の長短は親子ほども開き、地位の高低は大きく隔たり、名声にもひどい差があり、他人に愛されるか憎まれるかと言う点でも親子ほどの違いがある。これは一体どうしたことであろうか。
すると楊朱先生が答えた。
―― 昔の人がこんなことを言っているよ。私が何時も念頭においている言葉だが、それをひとつそなたに教えてあげよう。「なぜそうなるのかの理由が分からずにそうなるのが運命というものである。」と言う言葉だ。いま、われわれの現実の生活においては、ぼんやりとして捉えどころがなく、ごてごてと入り乱れて、さまざまな事象が、行為を為せば為すにつれて、為さねば為さぬにつれて日毎に消え去ってゆき、日毎にたち現れてくるが、どうしてそうなるかという真相は誰にも分からず、それらはみな「命」―― 運命の巡り会わせなのだ。いったいすべてを運命に任せる者は、寿命の長短など問題にせず、すべてを自然の理法に任せる者は、事の順逆など問題にせず、すべてを生命の本質に任せる者は、一身の安危など忘れてしまう。かくてこのような境地を“何ものにもすべてまかせることがなく、しかもあらゆるものにすべてを任せてゆく境地”―― 任せるとか任せないとか言うことさえ超えた至人の捉われない境地 ―― と呼ぶのである。そこでは真実であり誠実であることが問題なので在り、何を否定し、何を肯定し、何を哀しみ何を楽しみ、何を行い何を行わないかと言ったような価値の判断、思慮分別などは無用なのである。
『黄帝の書』に、「道の体得者である至人は、じっとしているときは死人のようであり、行動しているときはからくり人形のようだ」とあるが、このような至人は、己が何故じっとしているかの理由も分からず、また何故じっとしていないかの理由も分からず、何故行動するかの理由を意識することもなく、何故行動しないかの理由を意識することもない。人々が観ているからと言って己の気持ち・態度を変えることもなく、人々が観ていないからといって己の気持ち・態度を変えないと言うこともない。なにものにも捉われずにただ独り天地を往来し、ただ独り宇宙に出入し、何ものも彼の捉われない自由を妨げることは出来ないのである。
今日は日曜日、朝から報道番組に見とれていた。
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プロフィール
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目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
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くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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