千住大橋から十数丁遡った対岸の“榛木山”(ハンノキヤマ) から、下流の鐘ヶ渕に至る一帯をすみかとしていた一匹の大 きな緋鯉がいました。
その緋鯉は、 大きさが小さな鯨ほどもあり、 緋の色の鮮やかさは目も覚めるばかりでした。ですから、 かなり深いところを泳 いでいてもその雄姿が認められ、舟でこの川を往き来する人々の目を楽しませていました。
この緋鯉のことを、 川沿いの住民達は大川の主と呼び親しんでいました。ところが、 いつしかこの大川に橋をかけることになり、いざ橋杭を立てはじめますと、困ったことがおこりました。
それは、 立てた橋杭と橋杭の間が狭いために、 この大緋鯉が通れなくなったからです。榛木山の方から下ってきた大緋鯉が鐘ヶ渕へ向けて泳いでくると、きまって橋杭にその魚体がぶつかってしまうのです。
そのたびに、 立てたばかりの橋杭がグラグラ動いて倒れそうになります。せっかく打ち立てた橋杭を倒されては、 今までの苦労が水の泡になってしまいます。
そこで、 橋の普請主は付近の船頭達に頼み、 大きな網の中に追い込んで捕獲しようとしました。 網に追い込まれた緋鯉は、捕らえられてなるものかと、ものすごい力をだして暴れ回りました。船頭は、自分達の日ごろの腕の見せどころとばかりがんばりましたが、思うようにはいきませんでした。
それならばと、網の中の緋鯉を櫓で力いっぱい叩 いたり突いたりしましたが、それでも捕らえることができませんでした。とうとう鳶口まで持ってきて、大緋鯉の目に打ち込んでしまいました。しかし、大緋鯉は目をつぶされただけで、網を破って 逃げ去ってしまいました。
それからしばらくの間、緋鯉は姿を見せませんでしたが、たまたまその姿を目にした人の話では、片目がなくなっていたそうです。
片目を失った緋鯉は、目の傷が治ると以前にも増して暴れ回り、橋杭にもよくぶつかりました。ぶつかるたびに橋杭は、地震のときのように大きく揺れ動き、今にも倒れそうになりました。
こうしたことが、いつまでも続いては困りますので、せっかく立てた橋杭の一本を岸辺に寄せて立て替え、大緋鯉が自由に泳ぎ回れるようにしてやりました。
それからというものは、大緋鯉が橋杭にぶつかることもなく、舟の事故や水死人の数が少なくなって、めでたしめでたしの 結果に終わったということです。
もちろん、その後も緋鯉の大きく美しい姿が、この川を往き来する人々の目を楽しませたことは言うまでもありません。
※・榛木山 葛飾北斎の“富嶽三十六景”に“武州千住”という絵があります。
この絵の富士山の左の方に、三本の立木と林があります。これが明治のころまであった“榛木山”です。現在の荒川区町屋八丁目のあたりです。
昔は荒川(現隅田川)の洪水の護岸用樹として、榛木が植えられていました。
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