瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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其六 無縫塔(むはうとう)
 
 
蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)門外、溪流數十尋(すじうじん)の渕(ふち)囘(めぐ)りて、百歩ばかりの間(あいだ)、岸、平かに、亂石(らんせき)、磊落(らいらく)たり。此寺、住僧入寂三年の前、必、此渕より墓所の印(しるし)となせる石一ツ、岸の上に上ぐることなり。其石、常躰(つねてい)の石に異なるにもあらねど、自然にして來徃(らいわう)の人、誰(たれ)云ふとなく、「是こそ無縫塔なり」と。衆目の指す所、皆、一(いつ)なり。其奇怪、如何なることとも量りがたし。一トたび、衆人の名付(なづく)るより、其石、幾度(いくたび)、渕に抛入(なげいる)れども、一夜(いちや)にして、また、もとの所に上げ置く、となり。先年、住職の和尚、其石を渕に投入(なげいれ)て曰、「我、大願あり。いまだ死すべからず」とて、其場より、寺を出(いで)て、再び歸らざりしに、命(いのち)恙(つゝが)なく、長壽なりし、と云へり。其奇、甚(はなはだ)し。予此所に到りて、寺の墳墓を見るに、已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり。信州四部(しぶ)の温泉寺(をんせんじ)、此奇と相同じと云へ[やぶちゃん注:ママ。]傳ふ。予いまだ其地に至らず。知る人に詳しく聞得(きゝえ)しに、水底(すいてい)より無縫塔の形を ★ 作りなして上ぐると云へり。甚(はなは)タ、訝(いぶか)し。追(おつ)て考ふべし。只し、此一奇は怪と云ふべきのみ。
※ ★ の所には下記の画像が入ります。
 
注釈
 
「蒲原郡河内谷(かはちだに)陽谷寺(やうこくじ)」現在の新潟県五泉市川内(かわち)にある曹洞宗雲栄山永谷寺(ようこくじ)の誤りである。
 
ブログ「新潟県北部の史跡巡り」の「おぼと石/五泉市」で、この寺を本話の舞台としておられ、その淵から揚がる石を「おぼと石」と呼ぶとある。本歩柑子は大高興氏なる方の「北越奇談」の現代語訳から引用をされており、その冒頭は『中蒲原郡河内谷、陽(永)谷寺門外の渓流数』十『尋(ひろ)』(七十メートルほど)『のふちを回って、百歩ばかりの間は平になっていて、岩石がうず高く積っております』。『この寺の住僧が死ぬ』三『年前までは、必ず毎年ふちから墓印のついた石が一つずつ岸に上がります』(以下略)とあるから間違いない)。そこに画像で示された現地の説明板「オボト石」によれば、雷城(いかずちじょう:新潟県五泉市雷山(いかづちやま)に築かれた中世の山城。築城時期・築城主ともに不明。戦国時代には越後と会津蘆名氏との領界の城として重視され、天正一七(一五八九)年に蘆名氏が伊達氏に滅ぼされると同時に廃城となっている)落城の際、城主の一人娘菊姫が東光院淵に身を投じたが、永谷寺の大潮和尚の功徳によって成仏し、淵の龍神と化したという(「成仏」して「龍神」というのは私にはやや解せぬ)。それに感謝し(感謝して死を告げるというのも私には解せぬ)、歴代の住職が亡くなる七日前になると、淵から墓石となる丸い石を届けるようになったという。村人達はこの石を「オボト石」と呼び、毎年、般若会には見知らぬ女性が法会の席に座っており、これは菊姫の化身がお参りに来ると伝えられているとある(「越後村松 桜藩塾」という署名が最後にある)。「おぼといし」は「むほうとう」と発音が似ている。
 
 
「數(す)十尋(じん)」水深としての一尋(ひろ)ならば六尺で約一・八メートルであるが、これでは深過ぎる。淵の周囲の距離としておこう。百八メートル前後か。永谷寺の西方山下には早出川というが川が流れてはいる。
 
「磊落」原義使用で、石が多く積み重なっているさま。
 
「已に其石、十四、五、並(なら)べり。余(よ)は常の無縫塔、人作(じんさく)なり」ということは、人が彫った無縫塔以外に、そうでない自然石に見えるものが、十四、五も卵塔場(この場合は住職その他のその「陽谷寺」関連の僧侶の墓所という狭義の意で用いた。一般に寺僧の墓は墓所の中でも一定区画に纏められてある)に存在したと崑崙は言っているのである。しかし、この寺の創建が古いものであったとすれば、古えの僧の無縫塔が風化して自然石のように見えたとも解釈可能ではある。粗悪な砂岩などを用いれば、風雨にさらされれば短期で崩落してしまうからである。
 
「信州四部(しぶ)の温泉寺(おんせんじ)」現在の長野県下高井郡山ノ内町(まち)にある渋温泉の横湯山温泉寺。嘉元三(一三〇五)年、京の臨済宗東福寺の虎関師練国師が草庵を建てて温泉の効能を教え、弘治二(一五五六)年に佐久曹洞宗貞祥寺から節香徳忠禅師を招いて開山、武田信玄が永禄七(一五六四)年に伽藍を寄進し、寺の紋を武田菱とした。川中島の戦いの折りには武田方の湯治場となっていた。


 

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