瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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()を詠んだ歌1
 檜()/()は、今のヒノキ科の常緑高木の檜(ひのき)のことです。雌雄同株で、春に花が咲き、秋に球形の果をつけます。昔から建築材料として使われてきました。
 
 檜(/ひのき)が多い場所を、檜原/桧原(ひはら)と呼んでいて(一部は地名化していたようです)、6首に詠みこまれています。
 
巻1-0050: やすみしし我が大君高照らす日の皇子.......(長歌)
標題藤原宮之役民作謌
標訓藤原宮の役民(えのみたから)の作れる歌
 
原文:八隅知之 吾大王 高照 日乃皇子 荒妙乃 藤原我宇倍尓 食國乎 賣之賜牟登 都宮者 高所知武等 神長柄 所念奈戸二 天地毛 縁而有許曽 磐走 淡海乃國之 衣手能 田上山之 真木佐苦 檜乃嬬手乎 物乃布能 八十氏河尓 玉藻成 浮倍流礼 其乎取登 散和久御民毛 家忘 身毛多奈不知 鴨自物 水尓浮居而 吾作 日之御門尓 不知國 依巨勢道従 我國者 常世尓成牟 圖負留 神龜毛 新代登 泉乃河尓 持越流 真木乃都麻手乎 百不足 五十日太尓作 泝須郎牟 伊蘇波久見者 神随尓有之
       万葉集 巻1-0050
     作者:不明(藤原宮の役民)
 
よみ:八隅(やすみ)()し 吾()が大王(おほきみ) 高照らす 日の皇子 荒栲(あらたへ)の 藤原が上に 食()す国を 見し給はむと 都宮(みあから)は 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も 寄りてあれこそ 磐走(いははし)る 淡海(あふみ)の国の 衣手の 田上山の 真木さく 檜の嬬手(つまて)を 物(もの)の布()の 八十(やそ)宇治川に 玉藻なす 浮かべ流せれ 其を取ると 騒く御民(みたから)も 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮き居()て 吾()が作る 日の御門に 知らぬ国 寄し巨勢道より 我が国は 常世にならむ 図負(あやお)へる 神(くす)しき亀も 新代(あらたよ)と 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手を 百(もも)足らず 筏に作り 泝(のぼ)すらむ 勤(いそ)はく見れば 神ながら有()らし
意味:天下をあまねく統治される我が大王の天まで威光を照らす日の皇子が、新しい藤原の地で統治する国を治めようと王宮を御建てになろうと現御神としてお思いになられると、天神も地祇も賛同しているので、岩が河を流れるような淡海の国の衣手の田上山の立派な檜を切り出した太い根元の木材を川に布を晒すように川一面に沢山、宇治川に玉藻のように浮かべて流すと、それを取り上げようと立ち騒ぐ民の人々は家のことを忘れ、自分のことも顧みずに、水に浮かぶ鴨のように水に浮かんでいて自分たちが造る、その天皇の王宮に人も知らない遥か彼方の国から通ってくる、その巨勢の道から我が国は永遠に繁栄すると甲羅に示した神意の亀もやってくる。新しい時代と木津川に宇治川から持ち越してきた立派な木材を百(もも)には足りないが五十(いか)のその筏に組んで川を上らせる。民の人々が勤勉に働く姿を見ると、これも現御神であることらしい。
 
左注:右、日本紀曰、朱鳥七年癸巳秋八月、幸藤原宮地。八年甲午春正月、幸藤原宮。冬十二月庚戌朔乙卯、遷居藤原宮
注訓:右は、日本紀に曰はく「朱鳥七年癸巳の秋八月に、藤原宮の地に幸(いでま)す。八年甲午春正月に、藤原宮に幸(いでま)す。冬十二月庚戌の朔乙卯に、居を藤原宮に遷(うつ)せり」と云へり。

ウェブニュースより
 藤井聡太七段、阿部七段下しダブルタイトル挑戦へ王手!王位戦挑戦者決定戦へ進出 ―― 将棋の藤井聡太七段(17)は13日、東京都渋谷区の将棋会館で行われた第61期王位戦挑戦者決定リーグ白組最終局で阿部健治郎七段(31)を下し、5戦全勝の1位でリーグを終了した。23日の挑戦者決定戦では紅組を全勝で制した永瀬拓矢2冠(27)と対戦する。

https://www.youtube.com/watch?v=DnyNv7zjiDE
 藤井は「少し自信ないのかなと思っていた」と意外な心境を明かしたものの、64手での終局は快勝に近い。この日敗れた場合は15
日のプレーオフに回る日程が組まれていたが、勝利を手にしたことで次局まで中6日を確保し「ここで1週間空く。状態を整えたい」と目尻を下げた。
 挑決戦の相手・永瀬とは4日に行われた棋聖戦挑戦者決定トーナメント決勝で激戦を制したばかり。「永瀬2冠の強さを感じた。その経験を生かしてしっかり指したい」と意欲を口にした。対する永瀬は「やりがいを感じています。(対局に)感謝しかなく、結果が出ればさらにうれしい」と話した。
 藤井が勝てば例年7月開幕の7番勝負で木村一基王位(46)との対戦も実現。現在進行中の棋聖戦とのダブルタイトル戦が待っている。   [Sponichi Annex 2020613 19:09 ]


 

久木(ひさぎ)を詠んだ歌
 ひさぎは、トウダイグサ科アカメガシワ属の落葉高木の赤芽柏(あかめわしわ)と考えられています。初春の新芽が赤くて美しいのが特徴です。また、昔はこの葉をカシワと同じように食物をのせるのに用いたことから「赤芽柏」の名がついたとのことです。
 
 なお、ノウゼンカズラ科キササゲ属の木大角豆(きささげ)だという説もあります。
 
万葉集には四首に登場します。
巻6-0925: ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
 
10-1863: 去年咲きし久木今咲くいたづらに地にか落ちむ見る人なしに
 
11-2753: 波の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして
 
12-3127: 度会の大川の辺の若久木我が久ならば妹恋ひむかも


 

春菜(はるな)・若菜(わかな)を詠んだ歌2
17-3969: 大君の任けのまにまにしなざかる越を治めに出でて来し.......(長歌)
題詞:更贈謌一首并短謌
題訓:更に贈れる謌一首并せて短謌
標題:含弘之徳、垂恩蓬軆、不貲之思、報慰陋心。戴荷未春、無堪所喩也。但以稚時不渉遊藝之庭、横翰之藻、自乏于彫蟲焉。幼年未逕山柿之門、裁謌之趣詞失于聚林矣。爰辱以藤續錦之言、更題将石間瓊之詠。因是俗愚懐癖、不能黙已。仍捧數行、式酬(酬は、酉+羽の当字)嗤咲。其詞曰
標訓:含弘(がんこう)の徳は、恩を蓬軆(ほうたい)に垂れ、不貲(ふし)の思は、陋心(ろうしん)に報(こた)へ慰(なぐさ)む。未春(みしゅん)を戴荷(たいか)し、喩(たと)ふるに堪()ふることなし。但、稚き時に遊藝(いうげい)の庭に渉(わた)らざりしを以ちて、横翰(わうかん)の藻は、おのづから彫蟲(てんちゆう)に乏し。幼き年にいまだ山柿の門に逕(いた)らずして、裁謌(さいか)の趣詞を聚林(じゅうりん)に失ふ。爰(ここ)に藤を以ちて錦に續ぐ言(ことば)を辱(かたじけな)くして、更に石を将ちて瓊(たま)に間(まじ)ふる詠(うた)を題(しる)す。因より是俗愚(ぞくぐ)をして懐癖(かいへき)にして、黙已(もだ)をるを能(あた)はず。よりて數行を捧げて、式()ちて嗤咲(しせう)に酬(こた、酬は、酉+羽の当字)ふ。その詞に曰はく、
標訳:貴方の心広い徳は、その恩を賤しい私の身にお与えになり、測り知れないお気持ちは狭い私の心にお応え慰められました。春の風流を楽しまなかったことの慰問の気持ちを頂き、喩えようがありません。ただ、私は稚き時に士の嗜みである六芸の教養に深く学ばなかったために、文を著す才能は自然と技巧が乏しい。幼き時に山柿の学風の門に通うことをしなかったことで、詩歌を創る意趣で、どのような詞を選ぶかを、多くの言葉の中から選択することが出来ません。今、貴方の「藤を以ちて錦に續ぐ」と云う言葉を頂戴して、更に石をもって宝石に雑じらすような歌を作歌します。元より、私は俗愚であるのに癖が有り、黙っていることが出来ません。そこで数行の歌を差し上げて、お笑いとして貴方のお便りに応えます。その詞に云うには、
 
原文:於保吉民能 麻氣乃麻尓々々 之奈射加流 故之乎袁佐米尓 伊泥氏許之 麻須良和礼須良 余能奈可乃 都祢之奈家礼婆 宇知奈妣伎 登許尓己伊布之 伊多家苦乃 日異麻世婆 可奈之家口 許己尓思出 伊良奈家久 曽許尓念出 奈氣久蘇良 夜須家奈久尓 於母布蘇良 久流之伎母能乎 安之比紀能 夜麻伎敝奈里氏 多麻保許乃 美知能等保家波 間使毛 遣縁毛奈美 於母保之吉 許等毛可欲波受 多麻伎波流 伊能知乎之家登 勢牟須辨能 多騰吉乎之良尓 隠居而 念奈氣加比 奈具佐牟流 許己呂波奈之尓 春花之 佐家流左加里尓 於毛敷度知 多乎里可射佐受 波流乃野能 之氣美豆妣久々 鴬 音太尓伎加受 乎登賣良我 春菜都麻須等 久礼奈為能 赤裳乃須蘇能 波流佐米尓 々保比々豆知弖 加欲敷良牟 時盛乎 伊多豆良尓 須具之夜里都礼 思努波勢流 君之心乎 宇流波之美 此夜須我浪尓 伊母祢受尓 今日毛之賣良尓 孤悲都追曽乎流
          万葉集集巻17-3969
     作者:大伴の宿禰家持
よみ:大王(おほきみ)の 任()けのまにまに 級(しな)(さか)る 越を治めに 出()でて来()し 大夫(ますら)(われ)すら 世間(よのなか)の 常しなければ うち靡き 床に臥()い伏し 痛けくの 日に異()に増せば 悲しけく 此処(ここ)に思ひ出 いらなけく 其処(そこ)に思ひ出 嘆くそら 安けなくに 思ふそら 苦しきものを あしひきの 山き隔(へな)りて 玉桙の 道の遠けば 間使(まつかひ)も 遣()る縁(よし)も無()み 思ほしき 言(こと)も通はず たまきはる 命惜しけど 為()むすべの たどきを知らに 隠(こも)り居て 思ひ嘆かひ 慰むる 心はなしに 春花の 咲ける盛りに 思ふどち 手折(たお)り插頭(かざ)さず 春の野の 茂み飛びくく 鴬の 声だに聞かず 娘女(をとめ)らが 春菜(はるな)()ますと(くれなゐ)の 赤裳の裾の 春雨に にほひひづちて 通ふらむ 時の盛りを 徒(いたづら)に 過ぐし遣()りつれ 偲(しの)はせる 君が心を 愛(うる)はしみ この夜すがらに 寝()も寝ずに 今日もしめらに 恋ひつつぞ居()
意味:大王の御任命によって、都の輝きから離れて、越の国を治めるために出立して来た、立派な大夫である私でも、世の中がいつもそうでないように、身を横たえ床に倒れ伏し、身体が痛むことが日に日にまさるので、悲しいことをここに思い浮かべ、辛いことをそこに思い浮かべ、嘆く身は心安らぐこともなく、もの思う身は苦しいのだが、足を引くような険しい山を隔たり、立派な鉾を立てる官道が遠いので使いを送り遣る事も出来ないので、思うことの伝言を伝えることも出来ず、寿命を刻む、その命は惜しいけど、どのようにして良いやら判らずに、部屋に隠って居て、物思いを嘆き、慰められる気持ちもないままに、春花が咲く盛りに、気の合う友と花枝を手折りかざすこともなく、春の野の茂みを飛びくぐぐる鶯の声すら聞かず、娘女たちが春菜を摘もうと紅の赤い裳の裾を春雨にあでやかに濡れ染めて、通っているでしょう、その時の盛りを、空しくやり過ごしてしまったので、私を気にかけてくれる貴方の気持ちを有り難く思い、この夜一晩中、寝ることもせずに、今日一日も、貴方を慕っています。
 
左注:三月三日大伴宿祢家持
注訓:三月三日大伴宿禰家持


 

春菜(はるな)・若菜(わかな)を詠んだ歌1
 春菜(はるな)もしくは若菜(わかな)は、春になって目を出す菜の類を言います。昔の人は春に「若菜摘み」をし、不老不死を願って食べたようです。
 
万葉集には、7首に登場します。
巻1-0001: 篭もよみ篭持ち堀串もよみ堀串持ちこの岡に菜摘ます子.......(長歌)
 
巻8-1421: 春山の咲きのををりに春菜摘む妹が白紐見らくしよしも
 
※尾張連(おわりのむらじ、生没年未詳)
 伝不詳。連(むらじ)は姓(かばね)で、名は不明です。万葉集巻八に二首記載されています。尾張氏は火明命を始祖とし、古来后妃・皇子妃を多く出したとの伝承を持つ氏族です。本宗は尾張国造ですが、諸国に広く分布し、『新撰姓氏録』には左右京・山城・大和・河内に住した尾張連を載せています。奈良朝の著名な尾張連出身者としては、孝謙天皇の勅により「陵王」を改修したという楽師、浜主(733-?)などがいます。
巻8-1427: 明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
 
巻8-1442: 難波辺に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ
 
※丹比屋主(たじひのやぬし、生没年未詳)
 万葉集に二首の歌を残します。天平十二年(740)十月に京を出発した聖武天皇の関東行幸に従駕しますが、河口行宮より京に帰還しました(万葉集巻六の左注)。また万葉集巻八の題詞によれば、天平年間に大蔵少輔の地位にありました。
 続日本紀に見える丹比(多治比)屋主は神亀元年(724)二月に従五位下に叙せられ、備前守・左大舎人頭などを歴任しています。しかし万葉集の丹比屋主はこれとは別人物で、天平九年に従五位下に叙せられた丹比家主であろうとする説もあります。
10-1919: 国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ
 
11-2838: 川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ
 

ウェブニュースより
 小池氏の再選出馬、12日表明 東京五輪準備、都政継続訴え ―― 東京都の小池百合子知事(67)が任期満了に伴う今月18日告示、7月5日投開票の都知事選に再選を目指して12日午後に立候補を表明する方針を固めたことが11日、関係者への取材で分かった。新型コロナウイルス対策や来年夏に延期された東京五輪・パラリンピックの準備などの課題に対応した都政の継続を訴える方針。
 
 既に支援方針で準備している自民党本部のほか、都議会で近い会派の関係者にも12日午後の表明を伝えた。10日閉会の都議会定例会では出馬表明を見送ったが、総額5832億円の追加補正予算が成立し、感染状況も落ち着きを見せて11日に「東京アラート」が解除となった。   【東京新聞 2020611 2131分 (共同通信)】


 

(はり)を詠んだ歌4
19-4207: ここにしてそがひに見ゆる我が背子が.......(長歌)
 
※久米広縄(くめの-ひろなわ、生没年不詳)
 奈良時代の官吏。天平20 (748) 年から3年あまり越中掾(じょう)。越中守大伴家持らと布勢水海(ふせのみずうみ、富山県氷見市)をたずね、内蔵縄麻呂(くらの-なわまろ)宅の宴に参加するなどして歌をよんでいます。「万葉集」巻1819に、長歌1首、短歌8首があります。名は「ひろただ」「ひろつな」ともよみます。
※内蔵縄麻呂(くらの-なわまろ、生没年不詳)
 奈良時代の官吏、歌人です。天平17 (745) 年ごろ大蔵少丞(おおくらのしょうじょう)でした。19年越中介(えっちゅうのすけ)として赴任、守(かみ)大伴家持らと酒宴や遊覧につどい、歌を詠みました。そのときの4首と、家持が縄麻呂の歌に和した4首が「万葉集」に載っています。天平勝宝5 (753) 年には造東大寺司の判官(じょう)の任にありました。名は「ただまろ」ともよみます。

ウェブニュースより
 藤井七段「途中で誤算あって」今期初黒星で予選敗退 ―― 将棋の最年少タイトル挑戦者、藤井聡太七段(17)が10日、大阪市の関西将棋会館で行われた王座戦2次予選決勝で大橋貴洸六段(27)に敗れ、挑戦者決定トーナメントの進出を逃した。棋聖戦に続く、2つ目のタイトル挑戦権獲得を逃した。
 
 新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、約2カ月、延期されていた対局。藤井は序盤から惜しみなく時間を使い、リードを広げたが終盤に逆転負け。「けっこう激しい将棋で、途中で誤算があってダメにしてしまった」と悔しそうに振り返った。今期、初黒星で連勝は10で止まった。
https://www.youtube.com/watch?v=4r-cUaOqThI
 藤井と大橋は1610月に四段に昇段した同期。両者の過去の対戦成績は22敗。この日の勝利で対藤井戦、3連勝となった大橋は「藤井キラー? この先はどうなるか分かりません」と笑顔で話した。藤井が8日に第91期棋聖戦5番勝負第1局で戦った渡辺明棋聖(36
)は大橋と同門の兄弟子。大橋は「兄弟子のリベンジ?」に苦笑い。
 藤井は棋聖戦第1局から中1日での対局だった。コロナ禍によるブランク明けは、10日間で早くも4局目となり、今月は9局が確定。過密日程との戦いとなる。   [日刊スポーツ 20206102215]

 昭恵夫人 再開初日に居酒屋急行!軽率な外出控えての声届かず ―― 東京都内の和食居酒屋「UZU」の勝手口に入っていったのは安倍昭恵夫人(57
)だった――。

 大手紙の政治部記者はこう語る。「安倍首相が国民へ不要不急の外出の自粛を呼びかけていたにもかかわらず、昭恵夫人はタレントらとレストランで私的な『桜を見る会』を開催したり、3月中旬には大分県の神社を団体で参拝したりしていたことも発覚しました。
 そのたびに首相は苦しい弁明をせざるをえませんでした。官邸からは『安倍首相のために、緊急事態宣言が解除された後も、夫人には、軽率な外出は控えてほしい』という声が上がっていたのです」
 だが自ら経営する「UZU」が約2カ月ぶりに営業を再開することが決まると、昭恵夫人も自粛を継続することはできなかったのだ。
 本誌が店にミニバンでやってきた夫人を目撃したのは、再開初日である61日夜。運転手は、野菜が入っていると思われるいくつかの段ボールを運び入れていた。
 「酒豪として知られる昭恵夫人ですが、“自分らしくいられる場所”が2つあるそうです。1つは学生時代から通っているワインバー、そしてもう1つがUZUです。『首相夫人なのに』と批判されつつも、彼女が経営を続けていたことからも並々ならぬ愛着を感じます」(政治評論家・有馬晴海さん)
 居酒屋おかみとしては店再開に胸をときめかせてもいただろう。だが彼女の表情は鼻まで覆い隠す大きなマスクのため、見ることができない。不織布素材の品のようで、夫がつけ続けている“アベノマスク”ではなかった。
 「昨年10月、即位礼正殿の儀にひざ丈のドレスで参列して批判を受けたことも記憶に新しいですが、夫人はファッションに強いこだわりがあります。夫人の美意識にはアベノマスクはそぐわなかったということなのでしょう」(前出・政治部記者)
 昭恵夫人は、毎年参加していた山形県のスキーイベント出席を「今回ばかりはやめてほしい」と、首相に止められたという。またかつて実行委員会の名誉会長を務めていた『ミャンマー祭り』も5月末に開催予定だったが、秋へ延期となっている。
 「毎年楽しみにしている行事が次々と延期や中止を余儀なくされていることで、コロナ対策を指揮している首相へも不満を募らせているのかもしれません」(前出・政治部記者)
 かつて首相と夫人を引き合わせた元・山口新聞東京支局長の濱岡博司氏は、こう語る。
 「昭恵さんと姑・洋子さんの仲もうまくいっていないと聞きますし、確かに悪条件はあります。しかし私は『離婚はない』とみています。もともとは晋ちゃんが昭恵さんにベタ惚れで結婚していますし、国会でも晋ちゃんは、昭恵さんのことを突っ込まれてかなり本気で怒っていますからね。(昭恵さんを)見放すことはできないと、本人は考えていると思います」
 この日、夫人がUZUを後にしたのは閉店時間の22時少し前。店の前で数分、スタッフに指示を与えると、待たせていたミニバンに乗り込む。マスクを外していたその顔からは、おかみの務めを果たした満足感が伝わってきた。   「女性自身」202062330日号 掲載

 いやはや、少々ミーハー記事を取り上げてしまったようです。


 

(はり)を詠んだ歌3
16-3791: みどり子の若子髪にはたらちし母に抱かえ.......(長歌)


標題:竹取翁、偶逢九箇神女、贖近狎之罪作歌一首并短歌
標訓:竹取の翁の、偶(たまたま)九箇(ここのたり)の神女(めかみ)に逢ひしに、近く狎()れし罪を贖(あが)ひて作れる歌一首并せて短歌

:昔有老翁、号曰竹取翁也。此翁、季春之月登丘遠望、忽値煮羮之九箇女子也。百嬌無儔、花容無止。于時娘子等呼老翁嗤曰、叔父来乎。吹此燭火也。於是翁曰唯々、漸赴徐行著接座上。良久娘子等皆共含咲相推譲之曰、阿誰呼此翁哉。尓乃竹取翁謝之曰、非慮之外偶逢神仙、迷惑之心無敢所禁。近狎之罪、希贖以謌。即作謌一首并短謌
序訓:昔、老翁ありき、号(なづけ)て竹取翁と曰ふ。この翁、季春(きしゅん)の月に丘に登り遠く望むに、忽(たちま)ちに、羮(あつもの)を煮る九箇の女子に値()ひき。百嬌儔(たぐ)ひ無く、花容に匹するは無し。時に娘子等は老翁を呼び嗤(わら)ひて曰はく「叔父来れ。この燭の火を吹け」という。ここに翁は「唯々」と曰ひて、漸(やくやく)に赴き徐(おもふる)に行きて座(むしろ)の上に著接(まじは)る。良久(ややひさか)にして娘子等皆共に咲(えみ)を含み相推譲(おしゆづ)りて曰はく「阿誰(あた)がこの翁を呼べる」といふ。すなわち竹取の翁謝(ことは)りて曰はく「慮(おも)ざる外に、偶(たまさか)に神仙に逢へり、迷惑(まど)へる心敢(あへ)へて禁()ふる所なし。近く狎()れし罪は、希(ねが)はくは贖(あがな)ふに歌をもちてせむ」といへり。すなはち作れる歌一首并せて短歌
序訳:昔、八十歳を越える老人がいた。呼び名を竹取の翁といった。この老人が春三月頃に丘に登って遠くを眺めると、たまたま、羮を煮る九人の女性に出逢った。その妖艶さは比べるものが無く、花のように美しい顔立ちに匹敵する人がいない。その時、娘女達は老人を呼び笑いながらいった。「おやじ、ここに来い。この焚き火の火を吹け。」と。老人は「はいはい」といってゆっくりと娘女達の間に近づき、膝を交えて座った。ところが、しばらくして、娘女達は一様に笑いを含めながらお互いをつつきあい、「一体、誰が、このおやじを呼んだの」といった。そこで、竹取の翁が詫びていうには、「思ってもいなくて、たまたま神仙に回り逢い、戸惑う気持ちをどうしても抑えることが出来ませんでした。近づき馴れ馴れしくした罪は、どうか、この償いの歌で許して欲しい」といった。そこで作った歌一首。并せて短歌。 


原文:緑子之 若子蚊見庭 垂乳為母所懐 褨襁 平生蚊見庭 結經方衣 水津裏丹縫服 頚著之 童子蚊見庭 結幡之 袂著衣 服我矣 丹因 子等何四千庭 三名之綿 蚊黒為髪尾 信櫛持 於是蚊寸垂 取束 擧而裳纒見 解乱 童兒丹成見 羅丹津蚊經 色丹名著来 紫之 大綾之衣 墨江之 遠里小野之 真榛持 丹穂之為衣丹 狛錦 紐丹縫著 刺部重部 波累服 打十八為 麻續兒等 蟻衣之 寶之子等蚊 打栲者 經而織布 日曝之 朝手作尾 信巾裳成 者之寸丹取 為支屋所經 稲寸丁女蚊 妻問迹 我丹所来為 彼方之 二綾裏沓 飛鳥 飛鳥壮蚊 霖禁 縫為黒沓 刺佩而 庭立住 退莫立 禁尾迹女蚊 髣髴聞而 我丹所来為 水縹 絹帶尾 引帶成 韓帶丹取為 海神之 殿盖丹 飛翔 為軽如来 腰細丹 取餝氷 真十鏡 取雙懸而 己蚊杲 還氷見乍 春避而 野邊尾廻者 面白見 我矣思經蚊 狭野津鳥 来鳴翔經 秋僻而 山邊尾徃者 名津蚊為迹 我矣思經蚊 天雲裳 行田菜引 還立 路尾所来者 打氷刺 宮尾見名 刺竹之 舎人壮裳 忍經等氷 還等氷見乍 誰子其迹哉 所思而在 如是 所為故為 古部 狭々寸為我哉 端寸八為 今日八方子等丹 五十狭邇迹哉 所思而在 如是 所為故為 古部之 賢人藻 後之世之 堅監将為迹 老人矣 送為車 持還来 持還来
                                        万葉集 巻16-3791
                                    作者:竹取翁
よみ:緑子の 若子の時(かみ)には たらちしも懐(なつか)し 褨(すき)を襁()け 平生(ひらお)の時(かみ)には 木綿(ゆふ)の肩衣(かたきぬ) ひつらに縫ひ着 頚(うな)つきの 童(わらは)の時(かみ)には 結幡(けつはん)の 袖つけ衣(ころも) 着し我れを 丹()よれる 子らが同年輩(よち)には 蜷(みな)の腸(わた) か黒し髪を ま櫛持ち ここにかき垂れ 取り束(たか)ね 上げても巻きみ 解き乱り 童に為()しみ 薄絹(うすもの)似つかふ 色に相応(なつか)しき 紫の 大綾(おほあや)の衣(きぬ) 住吉の 遠里小野の ま榛(はり)持ち にほほし衣(きぬ)に 高麗錦 紐に縫ひつけ 刺()さへ重(かさ)なへ 浪累()き 賭博為し 麻続(をみ)の子ら あり衣の 宝(たから)の子らか 未必(うつたへ)は 延()へて織る布(ぬの) 日晒(ひさら)しの 麻手(あさて)作りを 食薦(しきむも)なす 脛裳(はばき)に取らし 醜屋(しきや)に経()る 否(いな)き娘子(をとめ)か 妻問ふに 我れに来なせと 彼方(をちかた)の 挿鞋(ふたあやうらくつ) 飛ぶ鳥の 明日香壮士(をとこ)か 眺め禁()み 烏皮履(くりかわのくつ) ()し佩()きし 庭たつすみ 甚(いた)な立ち 禁(いさ)め娘子(をとめ)か 髣髴(ほの)聞きて 我れに来なせと 水縹(みなはだ)の 絹の帯を 引き帯()なし 韓(から)を帶に取らし 海若(わたつみ)の 殿(あらか)の盖(うへ)に 飛び翔ける すがるのごとき 腰細(こしほそ)に 取り装ほひ 真十鏡(まそかがみ) 取り並()め懸けて 己(おの)か欲()し 返へらひ見つつ 春さりて 野辺を廻(めぐ)れば おもしろみ 我れを思へか 背の千鳥(つとり) 来鳴き翔らふ 秋さりて 山辺を行けば 懐かしと 我れを思へか 天雲も 行き棚引く 還へり立ち 道を来れば 打日刺す 宮女(みやをみな) さす竹の 舎人(とねり)壮士(をとこ)も 忍ぶらひ 返らひ見つつ 誰が子ぞとや 思はえてある かくのごと 為()し故(ゆへ)し 古(いにしへ)の 狭幸(ささき)し我れや 愛()しきやし 今日(けふ)やも子らに 不知(いさ)にとや 思はえてある かくのごと 為()し故(ゆへ)し 古(いにしへ)の 賢(さか)しき人も 後の世の 語らむせむと 老人(おひひと)を 送りし車 持ち帰りけり 持ち帰りけり
◎この歌は万葉集最大の難訓を持つ難解歌のため、現在においても適切な解釈が得られていません。
意味:(わしが)誕生したばかりの頃は“たらちし”母親に抱かれていた。“ひむつきの”幼児の頃は、木綿の肩衣に総裏を縫いつけて着ていた。“うなつきの”童子の頃は、絞り染めの袖着衣を、わしは着ていたのじゃ。赤いニキビの、思春期の頃は、“みなのわた”真っ黒な髪を、立派な櫛で梳いて、髪を垂らしたり、巻いたり、梳き乱しては、その年代に似合う髪形にしていた。“さ丹つらふ”(赤い)色をさした“紫の”綾織りの衣や、“住吉の”遠里小野の榛の木で、染め上げた衣を(着用し)、高麗錦を紐にして縫いつけ、重ね着をした。“打麻やし”麻績の娘や“あり衣の”財の娘らが、絹を打ち延ばして織り上げた生地。日晒しの、手織りのアサ布を、前垂れ風の短い袴にあしらっていたのじゃよ。
 (青年期になった)何日も自宅にこもった、稲置の乙女が、(わしに)求婚するといって、わしに贈ってきた、“おちかたの”二色交ぜ織りの足袋を履き、“飛ぶ鳥”明日香の男が、長雨の中、縫い上げた黒い沓(くつ)を履いて、(惚れた女の)庭にたたずむと、『そこを退きなさい』と(彼女の両親に追い払われた)。
 なかなか会えない娘(稲置の乙女)が、こっそり聞いて、わしに会いに来た。水色の絹帯を、付け紐風の韓帯みたく、“わたつみの”宮殿の瓦を飛び翔ける、ジガバチのように細い腰に装着する。“まそ鏡”(鏡を)二つ並べて、自分の顔を何度も見た。
 春が来た。野辺を駆ければ、わしに趣があるのか、“さ野つ鳥”(キジが)飛んできて鳴くよ。秋が来た。山辺を歩けば、わしに心ひかれたのか、“天雲も”たなびくものよ。帰途につこうと、道を戻れば、“うちひさす”宮殿に仕える官女や“さす竹の”舎人たちがこっそり見返っていた。『どこのイケメンかしら』と、関心を寄せられていたのじゃ。
 ―かくして、はるか昔は、もてはやされたわしであったが、“はしきやし”きょうび、(きみたち)若い娘らに、嫌な(じーさんと)思われている。かくのごとく、年をとると大事にされなくなる。昔の賢人たちも、後世(の若者ら)に見せるため、ジジババを(山中に)捨てに行った手押しの車を、持ち帰ったのじゃ。持ち帰ったのじゃよ
 
16-3801: 住吉の岸野の榛ににほふれどにほはぬ我れやにほひて居らむ


 

ウェブニュースより
 藤井七段に意表つかれた渡辺3冠「分からなかった」 ―― 将棋の藤井聡太七段が8日、1710カ月20日のタイトル戦史上最年少挑戦記録を白星で飾った。東京・千駄ケ谷で行われた、第91期ヒューリック杯棋聖戦5番勝負第1局で、渡辺明棋聖(棋王・王将=36)を下した。屋敷伸之九段(48)が1990年(平2)に達成した18歳6カ月という初タイトル獲得最年少記録の更新に向け、好スタートを決めた。第2局は今月28日、同所で行われる。

 渡辺が、意表を突かれた。先手藤井から、自身が得意とする矢倉に誘導された。終盤、混戦に持ち込んだが「いろいろとあって分からなかった」と首をひねった。
https://www.youtube.com/watch?v=mTSurTlazTA
 約1年4カ月ぶりの再戦でも黒星を喫した渡辺は、10日から2日制で行われる名人戦7盤勝負第1局(三重県鳥羽市「戸田家」)にも登場し、豊島将之名人に挑戦する。本来なら4月8、9日の予定から約2カ月延期されての初戦。初防衛を目指す棋聖戦と掛け持ちになるが「2局目からは手番(渡辺は先手)が決まっているので、より準備をして臨みたい」と、気持ちを切り替えていた。   [日刊スポーツ 2020682017]

 荒川のシカ、市原ぞうの国が引き取る さっそく名前も ―― 荒川河川敷で捕獲されたシカについて、東京都足立区は8
日、千葉県市原市の動物園「市原ぞうの国」に移送したと発表した。同園はシカを「エスケープ(逃げる)してきた」ことにちなんで「ケープくん」と名づけ、様子を見ながら展示を検討していくという。

 区危機管理部によると、捕獲したシカの引き取り先を区が探したところ、ぞうの国から、「受け入れが可能」と回答があった。区は当初、害獣駆除の目的で都から捕獲の許可を得ていたが、5日に「展示施設での環境教育などへの活用」に目的を変更した。
 ぞうの国はゾウを含めて約80種類400頭羽の動物、姉妹園ではシカも飼育している。展示の可否や方法は、検疫後にシカの様子を見て判断し、詳細が決まり次第、ホームページなどで発表する。   (朝日新聞DIGITAL 202068 1858
分)


沖縄県議選で30代が躍進 沖縄の課題解決へ新たな風 ――コロナ禍の沖縄県議選で、1985年以降に生まれた玉城デニー知事を支える与党系の30代新人が躍進した。初当選を果たし、若手目線での沖縄の課題解決に意欲をみなぎらせた。
 
 宜野湾市区の玉城健一郎さん(35)=無所属=は、日焼けした両手を高く掲げて万歳をした。「皆さんのおかげで闘え、結果を残せた。成長できた選挙だった」と当選をかみしめた。子育て中の知人も多く、これまで「若い世代の声を県政に届けたい」と訴えてきた。生まれ育った市野嵩の上空は、普天間飛行場の米軍機が轟音(ごうおん)を響かせながら飛行する。戦後75年も続く基地負担に「不条理をただすのが政治の役割だ」と訴え、県政で宜野湾の声を届ける。
 沖縄市区で7期を務めた前職・嘉陽宗儀さん(77)の後継、島袋恵祐さん(33)=共産=は、年齢差44歳のバトンタッチを果たし笑顔を見せた。双子の兄とともに18歳で自衛隊に入隊したが、兄は徒手格闘訓練中に20歳の若さで亡くなった。兄の死をきっかけに、人の命や人権について強く意識するようになり、政治家を志した。「三度目の正直」で勝ち取った議席は、命と人権を守る議席だ。島袋さんは「苦しんでいる県民の声を聞き、県政へ届けたい」と語った。
 那覇市・南部離島区の翁長雄治さん(32)=にぬふぁぶし=は午後1013分、当確が報じられると冷静に支持者へお辞儀をした。父・故翁長雄志前知事の写真が見守る中「父がやり残したこと、子どもたちに胸を張って残せる沖縄をつくる」と気を引き締めた。政治団体「にぬふぁぶし」にとって、県議会での初議席。保守・中道の受け皿を目指す。「沖縄の課題はイデオロギーで解決できない。基地問題も保革を超えて県民が一枚岩となれば解決できる」と力を込めた。   (琉球新報 202068 05:00


 

(はり)を詠んだ歌2
巻7-1156: 住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく
 
巻7-1166: いにしへにありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原
 
7-1260: 時ならぬ斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども
 
巻7-1354: 白菅の真野の榛原心ゆも思はぬ我れし衣に摺りつ
 
10-1965: 思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも
 
14-3410: 伊香保ろの沿ひの榛原ねもころに奥をなかねそまさかしよかば

14-3435: 伊香保ろの沿ひの榛原我が衣に着きよらしもよひたへと思へば


 

(はり)を詠んだ歌1
 榛(はり)は、萩(はぎ)だという説もありますが、カバノキ科ハンノキ属の落葉高木の榛の木だという説が有力視されています。3~4月頃に葉が出る前に花をつけます。松かさのような形をした果実は、古代から黒褐色の染料として利用されてきました。
 
 万葉集には14首に詠まれています。榛の群生地として「榛原(はりはら)」、または染料として使ったことを表して「衣に摺()りつ」などと詠まれている歌が多くあります。
 
巻1-0019: 綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背
 
※井戸王(いのへのおおきみ、生没年不詳)
 飛鳥(あすか)時代の歌人。天智天皇6年(667)の近江(おうみ)遷都のとき、額田王(ぬかたのおおきみ)に唱和した短歌1首が「万葉集」にあります。この歌から、額田王と接触し、宮廷につかえていた女性と推定されます。
◎綜麻とは、紡いだ麻糸を丸く巻いたものです。「綜麻形の林」とはどこなのでしょうか。詠まれた歌の背景が分からないと、理解が深まらない歌です、この歌は、
 「『古事記』の崇神天皇の条にある三輪山伝説に、三輪山の神が活玉依毘売(いくたまよりひめ)のところへ通っていたが、神は身元を明らかにしない。それを針に糸を通して神の衣服に刺し、その糸の先を辿っていくと三輪山の神であったことが判明した。」
 
 三輪山のハンノキで染めた色が衣によく染まるように、我が君(天智天皇)は立派にお見えになります、と詠った井戸王。王とありますが、天智天皇あるいは額田王に仕えていた女官かとも。
 額田王の、近江遷都の折に大和から山城へ向かう途中に三輪山を顧みて愛惜の情を陳べた長歌:
 味酒(うまさけ)三輪の山あをによし奈良の山の山の際にい隠るまで道の隈い積もるまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放けむ山を心なく雲の隠さふべしや
(味酒の三輪の山が、青丹も美しい奈良の山の山の際に隠れるまで、幾重にも道の曲がりを折り重ねるまで、しみじみと見つづけて行こう。幾度も見晴らしたい山を、情けなく雲が隠すべきでしょうか。)
 この歌に和したものなのでしょうか。
巻1-0057: 引間野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
 
※長忌寸奥麻呂(ながのいみきおきまろ、生没年不詳)
 柿本人麻呂・高市黒人(たけちのくろひと)とともに、『万葉集』の第二期を代表する宮廷歌人で、持統・文武両朝に宮廷歌を残しています。
 正史に記載がなく、生没年も系譜も官歴も不明ですが、長氏は、おもに渡来系の人に与えられた「忌寸(いみき)」という姓(かばね)であることから、渡来系氏族であろうと考えられています。
巻3-0280: いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ
 
※高市黒人(たけちのくろひと、生没年不詳)
 持統、文武朝の万葉歌人です。下級官吏として生涯を終えたようです。『万葉集』に近江旧都を感傷した作があり、大宝1 (701) 年の持統太上天皇の吉野行幸、翌年の三河国行幸に従駕して作歌しています。ほかに羇旅 (きりょ) の歌や妻と贈答した歌があります。『万葉集』にある黒人の歌は、高市古人あるいは高市作と伝えるものを含めて短歌 18首、すべて旅の歌です。なお,機知的な,ユーモラスな作品もあり、この時期の歌人としては珍しい存在です。
巻3-0281: 白菅の真野の榛原行くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原


 

ウェブニュースより
 早紀江さん「気持ちの整理つかず」 関係者悼む ―― 北朝鮮による拉致被害者の横田めぐみさん(失踪当時13)の母、横田早紀江さん(84)は5日、「北朝鮮に拉致されためぐみを取り戻すために主人と2人で頑張ってきましたが、主人はめぐみに会えることなく力尽き、今は気持ちの整理がつかない状態です」とのコメントを出した。
 横田滋さんと活動をともにしてきた関係者は娘との再会を果たせなかった無念を思い、言葉を失った。
 
 拉致被害者、田口八重子さん(失踪当時22)の兄で、横田さんから家族会代表を引き継いだ飯塚繁雄さん(81)は「仲間がまた一人居なくなった。一緒に頑張ってきた(妻の)早紀江さんを思うと気の毒でならない」と悼んだ。そのうえで「家族の高齢化は止められない。一刻も早く拉致問題の解決に向けて動いてほしい」と国に求めた。
 「横田夫妻が訴えかけた力が国民に響いたからこそ、(一部被害者の)帰国につながった」と話すのは、増元るみ子さん(失踪当時24)の弟で、家族会の元事務局長、増元照明さん(64)。長年、家族会の先頭に立って懸命に活動を続けた横田さんを思い、「言葉にならない。被害者を取り戻すまで活動を続けていきたい」と力を込めた。
 有本恵子さん(失踪当時23)の父、明弘さん(91)は「家族会を引っ張ってくれた。誠実な横田さんがいたからこそ、活動を続けられた。一番感謝している」と振り返った。自身も2月に妻の嘉代子さんを失ったばかり。「寂しいが(滋さんの)思いを尊重して頑張り続けたい」と話した。
 拉致被害者の支援組織「救う会」の会長、西岡力さんは「(横田さんは)めぐみさんの実名を公表し、拉致問題を広く世に知らしめた功績は計り知れない。(横田さんとともに運動を始めた)1997年から歩みをともにしてきた。めぐみさんとの再会を果たせず、痛恨の思い。本当に申し訳なく思う」と話した。
 救う会によると、葬儀終了後に遺族が記者会見を開く。
        【日本経済新聞 2020/6/5 19:28

 “意表を突く手”で形勢逆転…9時間44分の激戦制した藤井七段 師匠は“凄すぎる故”の心配も? ―― 見事な逆転劇でした。4日、最年少でのタイトル挑戦記録を31年ぶりに更新した藤井聡太七段。
 対局を見守った師匠の杉本昌隆八段は、藤井七段の「凄み」に驚いた一方で、若者だからこその心配事もあるようです。
 
 瀬戸市出身の高校生棋士・藤井聡太七段(17)は4日、将棋の8大タイトルの1つ、棋聖戦の挑戦者決定戦で勝利。
 1710か月20日でのタイトル挑戦を決め、最年少記録を31年ぶりに塗り替えました。
 藤井聡太七段:
 「今までなかなかタイトル戦という舞台まで行けなかったので、それを今回達成できて、1つ前に進めたのかなという風に思っています」
 新たな記録を打ち立てた勝利から一夜明け、地元・瀬戸市はお祝いムード。
 瀬戸市民の男性:
 「何年に一人、出てくるか出てこんかの逸材だもんでね」
 瀬戸市民の女子高生:
 「同級生なので、すごなと思いました」
 2016年、142か月の史上最年少でプロ入りした藤井七段。
 藤井聡太四段(当時14歳):
 「東海地区にタイトルを持って帰るというのが、板谷先生の頃からの悲願でありましたので、ぜひそれを一刻も早く実現できるように、日々精進していきたいと思っています」
 中学校の詰襟学生服で臨んだデビュー戦に勝利すると、連勝街道を突き進み、公式戦29連勝など数々の記録を塗り替え、「藤井フィーバー」を巻き起こしました。
 そして、新たな記録がかかった4日の対局。相手は叡王・王座のタイトルを保持する、永瀬拓矢二冠(27)です。
 
 攻勢にでる永瀬二冠に対し、藤井七段が我慢する展開に。対局を見守った師匠の杉本昌隆八段は…。
 杉本昌隆八段:
 「対戦相手の永瀬さんが、用意周到に対策を立ててこられてましたね。ピンチで一時は危なかったです」
 しかし、藤井七段は猛攻をしのぎ反撃に、終盤ついに形勢が逆転します。
https://www.youtube.com/watch?v=jEsXs95SaWg
 杉本昌隆八段:
 「藤井七段の指した手が、非常に意表をつく手だったんですね。その手を境に流れが変わって、藤井七段がペース握って逆転勝ちしたという内容でした」
 そして対局開始から9時間44分。
 永瀬拓矢二冠:「負けました」
 藤井聡太七段:「ありがとうございました」
 見事、100手で勝利。1710か月と20日の史上最年少で、タイトルに戦に挑みます。
 杉本昌隆八段:
 「勝手に経験を積んでいきますので、何の心配もいらない。しいて言うならば、対局が増えれば増えるほど忙しくなってきますし、学校も行かなければいけないでしょうから、学校の勉強は大丈夫かなというのが、ちょっとだけ心配ですね」
 棋聖戦五番勝負は8日に開幕。相手は渡辺明三冠(36)。
 2人は去年2月に初対局し、その時は藤井七段が勝ちましたが、渡辺三冠は、8大タイトルのうちの3つを保持するトップ棋士です。
 藤井聡太七段:
 「まだ挑戦するという実感があまり湧かないですけど。ただまあ、第1局がすぐにあるので、しっかり気持ちを入れ替えたいなと思います」
 悲願のタイトル獲得へ、瀬戸の高校生棋士・藤井聡太の挑戦は、この夏をさらに熱くします。   【東海テレビ 6/5() 19:43配信】


 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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