博多でクリニックをやっている甥が、連休を利用して夫婦で、東京に遊学中の息子に会いに上京し、午後4時ごろ、浅草のこの爺の家にも立ち寄ってくれた。
クリニックの方もなかなか忙しくらしく、明日には帰福するとのこと。我家の近辺と浅草寺を案内し、夕食をともにして東京メトロ浅草駅で別れた。
浅草寺境内 団十郎碑の前で
それにしても、本堂前に設えてある賽銭箱の前には、お賽銭を上げるために順番をまつ人たちの行列が出来ていた。
15日は博多の祇園山笠、17日には京都八坂神社の祇園山鉾巡行、18日には小倉祇園太鼓と立て続けに祇園祭が行われている。
飯能市竹寺 牛頭天王
スサノオ壁画
牛頭天王はもともとはインドの神で、疫病を流行らす悪神であったが、後に仏教に取り入れられてからは祇園精舎の守護神の一人となったものであるという。スサノオは日本神話に登場する神であるが、「スサ」は、荒れすさぶの意として嵐の神、暴風雨の神とする説(高天原でのスサノオの行いは暴風雨の被害を示すとする)や、「進む」と同根で勢いのままに事を行うの意とする説などがある。牛頭天王もスサノオもどちらも災疫をもたらす神行疫神(疫病をはやらせる神)とされていたためである。本地仏は東方浄瑠璃世界の教主である薬師如来さんとされたそうじゃ。こんなことから、スサノオを祀る神社は祇園神社と呼ばれるようになったのじゃ。祇園神社の総本社は八坂神社(京都市東山区)とされるが、廣峯神社(兵庫県姫路市)も総本社を名乗っているそうじゃ。かつては祗園社という名前であったのが、明治の神仏分離の時に現在(いま)の名前になったものだそうじゃ。
行疫神を慰め和(なご)ませることで疫病を防ごうとしたのが祇園信仰の原形で、その祭礼を「祇園御霊会(ごりょうえ)」といい、10世紀後半に京の市民によって祇園社(現在の八坂神社)で行われるようになったのだそうじゃ。祇園御霊会は祇園社の6月の例祭として定着し、天延3年には朝廷の奉幣を受ける祭となり、後の祇園祭となったもの。山車や山鉾は行疫神を楽しませるための出し物であり、また、行疫神の厄を分散させるという意味もあるという。中世までには祇園信仰が全国に広まり、牛頭天王を祀る祇園社あるいは牛頭天王社が作られ、祭列として御霊会(あるいは天王祭)行われるようになったそうじゃ。明治の神仏分離令で、神社での仏式の行事が禁止され、また、祭神の名や社名に「牛頭天王」「祇園」のような仏教語を使用することが禁止されたことから、祇園社・牛頭天王社はスサノオを祀る神社となり、社名を改称したそうじゃ。総本社である京都の祇園社は、鎮座地の地名から八坂神社とされた。その他の神社では、京都にならった八坂神社のほか、祭神の名前から素盞嗚神社、かつての社名から祇園神社、また地名を冠したものや牛頭天王を祀る以前の旧社名などに改称したものだそうじゃ。
「旅の途中で宿を乞うた武塔神(むとうしん)を裕福な弟の巨丹将来は断り、貧しい兄・蘇民将来は粗末ながらもてなした。後に再訪した武塔神は、弟将来の妻となっていた蘇民の娘には茅の輪を付けさせ、それを目印として娘を除く弟巨丹将来の一族を滅ぼした。武塔神は速須佐雄能神(スサノオ)を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた」という蘇民将来伝説というのが近畿を中心に日本各地にあり、これを起源とする民間信仰がある。
水沢市黒石寺ポスター
しかしながら、祇園祭にかぎらず祭の目的が時代の変化によって参加者達の利害とは離れてしまったものが多く、行事の内容も社会環境の変化等により変更を余儀なくされた祭もあんじゃ。それらの結果、祭を行うことそのものが目的に成り代わっているような、目的から考えると形骸化した状況の祭がほとんどとなってしもうた。このため、全くの部外者や、見物する者や参加する者という当事者にとっても「祭=楽しいイベント(お祭り騒ぎ)」という程度の認識しか持たれないことが多く、祭のために仕事を休むということは、例えば葬儀のためにということなどと比べると遥かに理解が得られにくい状況になったんじゃのう。
まあ、国民の祝祭日など設けて、法令でいくらその日の意義などほざいた所で、国民は休みが多いほど喜ぶもので、その祝祭日の意義など考えている方はどれだけござらっしゃるのやら。
隅田川神社
隅田川の総鎮守であり、水上安全の守護神として崇敬を集め、古くは「水神」又は「水神宮」と称していたが、明治5年に隅田川神社と改称したという。
治承(1177~1180年)の頃、源頼朝が関東に下った折、暴風雨に逢い、当社に祈願したと伝えられている。
現在の御社殿は嘉永元年造営のものが、安政2年の大地震で倒潰したため、安政5年に再建されたものである。関東大震災及び太平洋戦争などで被害を受けたがその都度修理を加え、現在の位置より北約25mに南面して鎮座していたが、高速道路が神域を掠めることとなって御社殿に大修繕を加え、昭和50年6月現在の位置に遷座したという。
江戸時代での奥州路は千住大橋経由となっていて、当地は江戸庶民の観光地となっていたために水神という 古典的な形を残したのかもしれない。江戸名所図会に隅田堤(墨堤)は1574年に小田原北条氏が三圍神社から木母寺の間に築き、堤の左右に桃、桜、柳を植え、スミレなどの野草も絨毯の如くで賞するに壮観であると記されている。
江戸・東京の重ね地図を記しておこう。
江戸の地図
江戸の地図の中の図会1・図会2の風景もあったので合わせて掲載しておこう。
東京の地図
太田道灌(1432~1486年)が下総の千葉氏を攻めるために長橋三条を構えたという文の紹介と、1750年頃の文献の引用で、隅田川の渡しより一町ほど川上に昔の橋の古杭が水底に残っていて船の通行の障害になっていたとあるが、ここでいう隅田川の渡しがどこかは不詳である。当社のある中洲などを利用した飛び石伝いの橋だったのであろう。これが隅田川に最初に架けられた橋とみえるが、江戸時代にそれが修復されなかったのは軍事的な意味があったからであろう。
現在は高架道路に遮られて隅田川を見ることはできず、当時の面影は全く失われているのだろう。
梅若橋 公園内で
梅若橋を潜(くぐ)り、水神大橋を渡って、汐入公園の遊歩道を通って、帰宅した。
帰宅後、ブログを書こうと思っていて、いつの間にか忘れてしまった。そういえば昨日7月16日は閻魔の斎日。地獄の釜の蓋が開いて、閻魔様も鬼どもも休日。娑婆世界も薮入りで休日。爺もボケ忘れでブログもお休みと相成ったのだろう。
夜、N兄より、東京江戸博物館で催される特別展に行かないかと誘いを受ける。後日返事をすることにした。
浅草見附
今朝は5時に家を出ると、江戸通りを浅草橋まで南下、両国橋を渡るべく、地下横断道に入った所出口を間違えて、横山町の方へ出てしまった。あちうろうろこっちうろうろしているうちに川崎大師東京別院の「薬研堀不動院」の前に出た。ビルの谷間の裏庭に入ってみると、弘法大師のご遍路姿の像が立っていた。
薬研堀不動院
講談由来碑
薬研堀不動院は講談とゆかりが深く、昭和57年5月に一龍斎貞花師匠による第1回奉納講談「山内一豊の妻」がおこなわれて以来、毎月28日のお不動様のご縁日には奉納講談がおこなわれているという。
薬研というのは、薬草を細かく粉砕するための道具の名前であるが、薬研堀というのは、江戸時代に薬種問屋が多く集まっていた場所なので、こういう名前がついたのであろう。
七味唐辛子は江戸両国の薬研堀で「からし家徳兵衛」が寛永2(1625)年に薬の調合にヒントを得て、売り出したのが最初といわれており、それが今の「薬研堀七味唐辛子」につながっているという。爺のポン友ヤント君は、浅草に来たときは新仲見世の「やげん堀」で七味唐辛子を求めて帰ると聞いている。
トールちゃんと愛犬コアラ
隅田公園の駐輪場入口の所では、体操が始っていた。白鬚橋にかかろうかという所で、ワンさん夫妻と出会い、1・2分小火(ぼや)について話す。
朝の体操
最近はあっちでもこっちでも花火花火で余り珍しくはない。しかし、浅草の人では例年とかわりはないだろうね。
今日は、盂蘭盆会、道教においては中元といい、人間贖罪の日として1日火を焚いて神様を祝う日であるという。日本の盆はこの中元と盂蘭盆会が習合したものらしい。
徘徊の道筋は決めているわけではない。玄関を出て、足の向くままに歩く。今朝は、気が付くと江戸通りを南に向っていた。何故に朝から車の行き交いの多いこんな道を歩いているのだろう。いつの間にか、蔵前1丁目の交差点を渡っていた。ここに、蔵前の下町しるべと、その横に天台跡の説明板が並んで建っている。江戸時代後期、鳥越神社の東に天文屋敷測量所があり、葛飾北斎が富嶽36景の一つ「鳥越の不二」で描いている。頒暦調所ともいい、暦や測量、地誌編纂や洋書翻訳を行っていたという。江戸城や大名屋敷など幕府施設の絵は軍事機密のためか浮世絵などに描かれていないのだが、ここは大丈夫だったのじゃろか? 手前の屋根の上に蛎殻がおいてあるが、板葺き屋根の防火のために蛎殻を屋根に並べることが推奨されていたのだそうだ。
早朝の蔵前橋
ワンさん夫妻
桜橋を渡って、帰宅する。
内部は法要の人たちでかなり込み合っていた。シアトルママの兄(あに)さんと会ったので、カメラに収めようと思ったが、内部は撮影禁止のようである。2階を1巡りそれぞれのご先祖様の挨拶を終えて、内テラスの祭壇前で、ここは内部でなくて外だからいいだろうと、S氏夫妻と爺と並んで婆様にシャッターを押してもらうが、見事に失敗。写っていない。いやいやこれも確認しなかった爺が悪かったのじゃ。ご勘弁を。
宝蔵門のところで、S氏夫妻と別れ、地下鉄で上野に出る。上野駅の構内を上野公園に向けて出た所に「ああ、上野駅」のレリーフ碑がある。この歌が流行ったのは、ちょうど爺が浅草に塾を開いた頃で、東京はオリンピック景気で浮かれていた。
不忍池の蓮
と入場チケット
不忍池の弁天堂
外に出るとちょうど正午。腹も減ったし、不忍通りの向かい側のとある中華料理店で昼飯に冷やし中華を食らって、弁天堂付近を散策、天龍橋を渡りきった所に台東区の東西メグリンバスの停留所があったので、メグリンにのって、浅草松屋まで帰った。ここのところ、毎日この夏の最高温度を更新しているが、今日もこの夏一番の暑さを記録した1日であった。
今日は、盆の入りである。盆とは『盂蘭盆会(うらぼんえ)』といい、インドの古い言葉『ウランバナ』を漢字に訳したものであるという。『ウランバナ』の意味は『さかさまに、ぶら下げられる』ほどの苦しみを表現しているのだそうだ。お盆の行事の目的は「もし、祖先がそのような苦しみに遭っているのであれば、救ってさしあげたい」と願う心から生まれた行事じゃろう。
釈迦の十大弟子で神通第一といわれた目連が、神通力により亡き母の行方を探してみると、母は餓鬼道に落ち苦しんでいた。餓鬼道の世界は食べ物も食えず水も飲めない、とてもつらい苦しい世界じゃ。目連はなんとか母を救えないかとお釈迦様に助けを求めたところ、『お前の母の罪はとても重い人に施すことをせず、自分勝手な人間だったから、餓鬼道に落ちたのだ』と、諭したというのじゃ。目連はお釈迦様の教えに従い、僧たちの修行の最終日である七月十五日に仏弟子を集め、母の追善供養をしたところ、その功徳のおかげで母は餓鬼道をのがれ天上界へ昇ることが出来たというんじゃ。これは、爺がまだ餓鬼(子供)であった頃、祖母(ばあ)さまから聞かされた話じゃ。そして、これが「お盆」の始まりだととも聞かされた。
お盆の日にちは地方によって異なり、
東京など都市部では、7月13日~16日(4日間)に行うことが多い。
地方では、 8月13日~16日(4日間)に行う所が多い。
まあ、いずれにしても初めと終わりに多少異なることはあっても15日を含むことは変わりない。
12日夕刻か13日午前中に精霊棚や仏壇のお飾りとお供えを済ませ、13日の夕刻、縁側の軒先か精霊棚のところに吊るされた盆堤灯に火を灯す。
家の門口や玄関で素焼の焙烙(ほうろく)にオガラと呼ばれる皮をはいだ麻の茎を折ってつみ重ね、火をつけて燃し、その場で合掌する。これを迎え火といい、オガラを燃したその煙に乗って先祖の精霊が家に戻ってくるのを迎える。
家に迎えた精霊を今度は送り火を焚いてお墓に帰ってもらうのじゃ。迎え火をたいた同じ場所で16日(又は15日)オガラをつみ重ねて送り火を焚く。京都の夜空を美しく彩る「大文字焼」は、この送り火の大掛かりなものという。
送り火の一種に、船にしつらえた灯籠を川や海へ流しこの灯籠と一緒に盆に迎えた先祖の霊を送り出すことがある。「精霊流し」という自作・自演の歌を歌っている歌手もいるように、精霊流しの際には、盆の間に供えた野菜や果物などのお供え物も流すのじゃ。これは祖先の元へ供物を贈るということと、死の世界と関わったけがれを水によって清めるという2つの意味をもったものであろう。 精霊流しや灯籠流しなどで霊を迎えたり送ったりする地方や宗派もあったようじゃが、 最近ではそれができる川や海がなくなっているというのが実情のよう。 もうすぐ、隅田川花火大会があるが、あの夏祭りのメインイベントの打ち上げ花火も元来は、精霊送りの行事であったに違いない。
爺の家には、神棚もなければ、仏壇もない。触らぬ神に祟り無しで、なまじっか家にそんなものを備えて粗末に扱えば罰が当たりそうで、家の中に置く気になれぬ。浅草寺の五重塔に爺の父母と兄夫婦の位牌を納めて、上京した親戚や知人でお参りしたい人は五重塔の前で合掌してもらうことにしている。
今日の盆の入りから、浅草寺五重塔院参拝日となり、ご先祖様の位牌の前で手を合わせることが出来る。久方ぶりに爺も重い腰を上げてお参りすることにしよう。
sechin@nethome.ne.jp です。
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