西詰、渡り口(上流側)
東詰渡り口(下流側)
東詰上流側渡り口
昔、江戸っ子は「コマカタ」と濁らず発音したといい、吉原の遊女2代目高尾が仙台の殿様、伊達綱宗を恋しがって詠んだという「ゆうべは波の上の御帰らせ、いかが候。御館の御首尾つつがなくおわしまし候や。御見のまま忘れねばこそ、思い出さず候。かしこ。 君はいま 駒形あたり ほととぎす」の句で有名じゃ。高尾太夫というのは吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は11人いたと言われている。
駒形堂
戒殺碑
観音祭(現三社祭り)では、陸路を浅草橋まで御輿を渡し、舟で隅田川を北上し、この地から上陸して還御したそうじゃ。
堂内敷地内に「浅草寺領殺生禁断の碑」が立っている。檜前兄弟が観音様を拾い上げたのがこの辺りだというので、生き物を殺すのを禁じたのだというじゃ。従ってここから上流では魚を捕ることは出来なかったそうじゃが、逆に駒形付近では多くの川魚の料理屋が出来たという。
駒形橋を西から東に渡り、いつものコースを北上。桜橋を過ぎた付近で久し振りにワンさん夫妻と出会う。白鬚橋をわたり、台東区側を南下。夏休みも後3・4日、少年野球チームの少年達は今朝もトレーニングに汗を流していた。
2日続きの雨でウサギ小屋に閉じ込められてしまった。今朝も雨、朝食を終えて空が少し明るくなった頃を見計らって、9時過ぎに小雨の中を折りたたみ傘持参で徘徊に出掛けた。お目当ては蔵前橋の1つ上流の厩橋。
春日通が蔵前と駒形を分かつ
御厩の渡し(葛飾北斎 富嶽36景より)
厩橋は、春日通りが隅田川を渡る橋である。西岸は台東区蔵前2丁目と駒形2丁目を分かち、東岸は墨田区本所1丁目で、橋名は西岸にあった「御厩河岸(おんまいがし、蔵前の米蔵のための荷駄馬用の厩があった)」にちなみ、架設当初は「おんまい(や)橋」と俗称されたという。
もともと元禄年間頃から続いていた「御厩の渡し」のあった場所で、以前から転覆事故が多かったので「三途の渡し」と揶揄されていたが、明治5(1872)年に花見客の人出でこの渡し舟が転覆するという事故があったため、この渡しを利用すものがほとんといなくなったということじゃ。それでも上流の 『吾妻橋』、下流の 『両国橋』 まではかなりの距離があることから、不便を感じた地元住民がその費用を出し合って有料の 木橋 を架設したのが『厩橋』の始まりじゃそうじゃ。明治7(1874)年10月に完成、長さ511尺(約150m)、幅20尺(約6m)の木橋であったと伝えられ、現在の位置より100mほど下流であったそうじゃ。隅田川5橋(千住大橋・両国・新大橋・永代・吾妻)に続いて6番目の橋ということになる。民間による橋の架設は出来ても、維持管理までは手が回らなかったようで、明治20(1887)年には東京府の管理になっている。
明治26年完成の旧厩橋
西詰、上流側渡し口
ステンドグラス風ガラス細工
橋柱の下のレリーフ
東詰、下流渡し口
墨田区側テラス上流より
橋のましたより橋客と橋桁
この橋は老朽化のために東京府によってトラス鉄橋(てつばし)に架け替えられることになる。ブラットトラス形式で長さ86間(約154m)の橋が明治26(1893)年5月に完成したという。当時この近辺は湿地帯で沼地が多く広い道がなかったので、この厩橋鉄橋の建設に伴い、本所方面から上野広小路を直接接続できるべく、明治23(1890)年には現在の春日通り建設計画が持ち上がっていた。しかしながら、土地買収や立ち退き交渉などでなんこうし、開通は明治28年になってからということじゃ。後関東大震災により被災、橋の崩落こそ免れたものの、火災によって木製の床は焼失し、鉄製の構造部材も熱によって変形してしまったそうじゃから、凄まじい火炎であったのじゃろうなぁ。復興計画によって現在の橋が架橋されたということじゃ。
震災3年後の大正15(1927)年9月に着工、昭和 4(1929)年9月に震災復興橋梁として架設されたものである。3径間の鋼製アーチ橋で、下流の 『蔵前橋』 が上路式アーチ橋なのに対して、この 『厩橋』 は下路式アーチ橋となっている。3連のアーチ構造と緑の塗装、アーチの下に橋桁が一直線に延びている。親柱には馬をデザインしたステンドグラス風のガラス細工が組み込まれているほか、橋の各所の橋灯の下に 「厩」 にまつわるオブジェが配されている。橋長151.4m、幅員22.5mという。
橋の上部構造と下部構造
上部構造は川や道路等を横断する部分であり、車両や人間はこの上または内部を通過することで橋を渡る。支長間に応じて各種各種の構造形式が提案されており、橋の外観に最も影響を与える部分である。
桁橋やトラス橋などの場合、荷重を支える主桁や主構などと、車両や人などを直接支える路面をつくる床版(しょうばん)、床版をささえる縦桁、横桁が主要な部材であるという。車両や人などが橋から落下するのを防ぐ高欄(こうらん、欄干のこと)や自動車防護柵、照明柱などの付加物、下部構造とを繋ぐ支承(ししょう、沓《シュー》ともいう)や、道路と橋梁との境に当たる伸縮継手も上部構造に含める。
下部構造は上部構造を支え荷重を地盤に伝える役目をもつ。橋台(きょうだい、橋の両端に設置される)と橋脚(きょうきゃく、橋の中間に設置される)の上に設けられた支承(シュー)によって上部構造は支持されているのである。
橋の形状にには次のようなものがある。
桁橋とアーチ橋
桁橋(girder bridge):多くの橋の中でもっとも経済的とされている形式である。歴史的には断面の形状がいろいろと考案されてきたが、現在はⅠ形が標準で単純に桁橋と呼ぶ。また箱形に断面を補強したものを箱桁橋と呼ぶ。橋の支持の違いから、両端のみを支える形式を単純桁、両端以外に中間部分をも支える形式を連続桁という。支持は支承と呼ばれ、1個所は橋台に固定され、他は温度、過重などによる変位に対して移動できる構造となっている。箱桁形式はねじれに対して抵抗が大きく、曲線橋に多く採用されている。
アーチ橋(arch bridge):アーチは曲げられることに対して合成のある、曲線を持った構造物である。けた橋には可動する支承を設けるのに対して、アーチでは両端とも水平方向に対して固定される。このため、荷重により水平に保つ力が生じる。これはアーチ特有のもので水平力といい、地盤の良好なところに用いられる形式である。
ニールセン・ローゼ橋(Nielsen-Lohse system bridge):ニールセン系の橋は、アーチ部と桁部を斜めの吊材で結んだ構造で、ローゼ桁は桁の部分に曲げられる力を分担し、抵抗を図る構造形式である。両方の構造形式を併せ持つニールセン・ローゼけた橋は、非常に剛性のある形式であるが、設計も製作も難しい橋である。
トラス橋(truss bridge):基本的には、引っ張りと圧縮の力に抵抗する部材で構成される形式である。製作・架設が容易である。
ラーメン橋(rahmen《rigid frame》 bridge):剛な節点(rigid frame)をもち、橋脚と桁を合体させた形式である。最近は図のような方丈ラーメン形式が主流である。高速道路や渓谷をまたぐ位置に適している。
つり橋(suspension bridge):現在ではもっとも長支間の架橋が可能な形式で、風に強くするため、床組みにはトラス、箱桁形式が多く用いられる。
斜長橋(cable stayed bridge):連続桁の中間支点上に塔をたて、桁の中間点よりケーブルを張った構造である。路面より上に出る構造物はケーブルのみのため、非常にすっきりした形式である。重心が低いため地震には強いが、長支間になると風に対して弱くなるので、空気力学的な考慮が必要となる。
少年野球チームのトレーニング
小気味よい音をたてて
昨日は、急に気温が下がり、朝は肌寒いくらいであった。日が照り始め朝日に照らされながら川風に吹かれて歩く川筋道は気持ちがよい。何だか真夏から急に秋になったようだ。
夏休みもあと10日ばかり、隅田グランド前のテラスては、少年野球チームの生徒達があいかわらずトレーニングに励んでいる。橋下を「ポンポンポン…」と小気味よい音を出しながら載積船が過ぎてゆく。昨日はまったくクーラー無しの1日を送ることが出来た。
汐入公園より対岸のテラスを
毎朝警備の巡視ご苦労様
瑞光橋
ガスタンク
ラジオ体操が始まるよ
本日は旧暦7月23日、「処暑(しょしょ)」である。「老陽日々に衰えて秋陰の気増長し暑気退かんとするところの義、涼風吹ききたり暑気おさまるを知る気節」とある。東京での日の出は5時6分、日の入りは6時21分。「暑さ寒さも彼岸まで」というから、まだまだ暑い日があるのだろう。汐入の土手を歩きながら、何時も出会う荒川区の警備員の親父さんに出会う。橋は対岸の青色御殿が並ぶテラスを通ってみようと思う。水神大橋の西詰からテラスに降りて、対岸の瑞光橋とガスタンクを写真に収めてみた。白鬚橋を墨田区側から台東区側に向って渡り、石浜河岸を南下、時刻はちょうど6時半今戸公園でラジオ体操が始まるところであった。ここは、年中休みなしにラジオ体操を行っているということじゃ。
総武線隅田川橋梁と蔵前橋の間の台東区側テラスは、江戸時代の浅草御蔵を模して作られている。
古地図 浅草御蔵
蔵前テラスから撮影
江戸時代、幕府の御蔵があったことから、蔵の前で蔵前の地名が出来たということじゃ。蔵前橋は御蔵の三番堀と四番堀の間に出来たそうじゃ。隅田川を利用して、関東一円の産出米をここに集めたわけじゃのう。当時は八本の堀があり、67棟の倉庫が並んでいたそうじゃ。
旗本や御家人は給料として扶持(ふち)米をここで受け取り、米問屋を通じてお金に換える。年三回の支給日には切米切手という札を藁束に差しておくのじゃ。これを代行したのが札差で、のちにこの札を担保に金を貸す金融業者になったそうじゃ。吉原で派手にお大尽遊びをしたのもこの連中で、それに伴って一般町民も繁盛したわけじゃ。
西詰めのテラス降り口より
左:力士 右:芸妓
西詰、下流側渡り口
橋名のレリーフ
橋柱上にあるレリーフ
東詰め、下流側渡り口
墨田区側テラス 下流より
墨田区側テラスで 橋真下
墨田区側テラス 上流より
厩橋のテラス昇降口で
蔵前橋西岸(台東区側)には、かつて蔵前国技館があった。戦後、両国国技館が接収されていた時代、ここで大相撲が行われた。現在跡地は都の蔵前水処理場が建設されている。
蔵前橋は、東京都道315号御徒町湖岩線(蔵前橋通)を通す。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。橋名は「蔵前通り」に因んで付けたそうじゃ。橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されている。昭和29年9月~昭和59年12月まで東詰には蔵前国技館があり、高欄には力士・芸妓などのレリーフが施されている。
関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋されたものじゃそうで、それ以前には「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所だそうじゃ。橋長は 173.2m (支間 :50.902m《鋼アーチ最大支間》/ 12.192m《コンクリートアーチ支間》)、幅員は 22.0m ということじゃ。
震災の翌年の大正13(1924)年から着工され、昭和2(1927)年の竣工というから、80歳を過ぎることになるんじゃ。
柳橋テラス降り口にて
両国橋上から
墨田区側テラス上流より
本橋は水面に近く、水に映えるアーチ部分は優雅である。また、橋の袂には遊歩道(テラス)があり、下から見上げると雄大に腕を広げている姿を見ることができる。橋長 - 172m(支間:38m + 96m + 38m ) 着工は昭和6(1931)年2月、竣工は昭和7(1932)年3月。
Langer Bridge
昨日に続いて、新大橋の1つ上流の両国橋をを撮影することにした。他の橋の仮名標記ではすべて「はし」と清音になっているのに、ここ両国橋では「りょうごくばし」と濁音標記になっているのは何故なんだろう。
日本語には連濁という現象がある。「妻問(ツマドヒ)」、「草葉(クサバ)」、「しらじら」のように、ふたつの言葉をつなぐと、あとの言葉の最初の音が濁るという現象がある。だから、言問橋だって「ことといはし」と標記されていても、だれも標記どおりには発音しない。だれもが「ことといばし」と読んでいる。何故に「りょうごくばし」と、ここだけわざわざ濁音標記になっているのだろう… 橋の管理者である東京都に問い合わせれば、その理由を教えてくれるのかな? まあ、どうでもよいことに拘(こだわ)りながら橋を渡るのじゃった。
柳橋の橋上から
西詰め渡り口上流がわ
中央区側テラス下流から
西詰め渡り口下流側
墨田区側テラス 下流より
両国橋は、国道14号線(靖国通)を通す。西岸の中央区東日本橋2丁目と東岸の墨田区両国1丁目を結ぶ。橋のすぐ近くは神田川と隅田川の合流点となる。
完成当時は言問橋・天満橋(大阪市)と共に「三大ゲルバー橋(発案者Heinrich Gerber)」とよばれ、技術的にも当時の最先端であったということじゃ。ガードレール部分には軍配や花火が描かかれ、柱部には両国国技館の屋根を模(かたど)った飾りを配するなど、デザイン的にも凝ったつくりになっている。橋長164.5m、橋員24.0mで、竣工は昭和7年、爺の生れた年と同じ。
最後の木橋
旧両国橋
1932年架設当初の現橋
両国橋の創架年は2説あるそうで、万治2(1659)年と寛文元(1661)年である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋じゃ。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていたが、西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、元禄6(1693)年に新大橋が架橋されると正式名称となったということじゃ。位置は現在よりも下流側であったらしい。
幕府はは防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし明暦3(1657)年の大火(いわゆる明暦の大火)の際に、「橋が無い」ことで逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまんじゃ。事態を重く見た老中酒井忠勝(1587~1662年)らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになるんじゃ。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火地除としての役割も担ったということじゃ。
両国橋は流出や焼落、破損により何度も架け替えがなされ、木橋としては明治8(1875)年12月の架け替えが最後となったという。この木橋は西洋風の九十六間(約210m)の橋であったが、明治30(1897)年8月10日の花火大会の最中に、群集の重みに耐え切れず10mにわたって欄干が崩落してしまう。死傷者は10数名にもおよび、明治の世に入ってからの事故ということで、これにより改めて鉄橋(てつばし)へと架け替えが行われることが決定する。
その結果、明治37(1904)年に、現在の位置より20mほど下流に鉄橋として生まれ変わるのじゃ。曲弦トラス3連桁橋であり、長さ164.5m、幅24.5mと記録に残るそうじゃ。この橋は関東大震災では大きな損傷も無く生き残ったんじゃが、他の隅田川橋梁群の復旧工事に合わせて、震災後に現在の橋に架け替えられた。なお、この架け替え時に取り外された両国橋の橋名板が東京都復興記念館(墨田区横網公園内)に保存されている。両国橋は今年3月、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定された。
両国橋由来碑と大高源五句碑
公衆セッチンの間から橋名が
両国橋東詰めに両国橋の由来説明の石碑と並んで、赤穂浪士で俳句の達人であった大高源五が詠んだという「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」という句碑がある。「太陽の暖かさで、分厚い氷も、すぐ砕けて溶ける」という意味じゃが、「色々な人のお陰で、非常に困難な吉良邸討ち入りも、成功裡に終わった」ということになるんじゃろうなぁ。惜しむらくは、この句碑と両国橋の間の狭い空間に公衆セッチンが立てられ、何時もアンモニアの香りを発たせているのはいただけない。
12月14日の夜、宝井其角は、吉良邸の隣の本多孫太郎邸の句会に出席していて、討ち入りで挨拶に来た弟子の源五(俳号は子葉)さんを見て、「我がものと 思えば 軽ろし笠の雪」と呼びかけると、大高源五さんは「日の恩や 忽ちくたく 厚氷」と返したという。その場にいた富森助右衛門(1670~1703年、四十七士の一人)も「飛び込んで 手にもたまらぬ 霰かな」と返したという話じゃが、この話色々な史料を探しても、見つからないようじゃ。おそらく、法螺吹き其角あたりから出た、でっち上げ美談かも知れんてぇ。
水溜りになった両国橋下
両国橋の下を潜ろうとすると、水が溜まりテラスの排水溝から水が吹き出ている。よく見ると確かに橋下の路面は川面より低くなっている。遠回りするのも億劫だから、手摺に沿って、どうやら通り過ぎたが、通り終わって手を見ると真っ黒。いやいや手洗いもなく、往生申した。人間横着に構えると碌な目には遭えぬと見える。帰宅後、暦を見ると、本日は旧暦7月19日、中潮で満潮は午前6:00となっていた。
両国広小路の石碑
浜町明治座付近より
昨夜の雨のためか、今朝方は毛布を被(かぶ)らないと寒いくらいであった。関西へ送るメール便もあったし、朝の徘徊は朝食が終ってからにした。8時半ごろ花川戸のクロネコ宅配所で用を済ませると、コースを南に取った。先週は爺の徘徊範囲の北の端の3橋を撮影したので、今週は南端の橋を撮影してみることにした。朝方はかなり涼しかったが、日が照り始め、陽射しも強くなった。腕時計も忘れてきたので、時刻も判らない。柳橋を渡り、靖国通に出た所は昔両国広小路といわれていたそうじゃ。少々暑いが、ついでに新大橋まで足を伸ばすことにした。
新大橋は、西岸は中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目で、橋の架かる通りは「新大橋通」と呼ばれているらしい。この付近の地下には都営地下鉄新宿線が通っているはず。
中央区側上流渡り口
中央区側上流テラスより
中央区側下流テラスより
中央区側下流渡り口
江東区側テラスより 清州橋
江東区側テラス 上流より 今しも遊覧船が
初めて新大橋が架橋されたのは元禄6(1693)年で、千住大橋・両国橋についで隅田川で3番目の橋である。「大橋」とよばれていた両国橋に続く橋として「新大橋」となづけられたそうじゃ。5台将軍綱吉の生母桂昌院が、江戸市民のために架橋するよう将軍に勧めたのじゃと伝えられる。当時の橋は現在よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の繋留地をそれぞれ埋め立てて橋詰としたということじゃ。橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
新大橋は何度も破損、流出、焼落しており、その回数は20回を超えているそうじゃ。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるんじゃが、町民衆の嘆願によって、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に永享元(1744)年には存続を許されたということじゃ。維持のために橋詰にて市場を開いたり、寄付などを集めるほかに、橋が傷まないように当時は橋のたもとに高札が掲げられ、「此橋の上においては昼夜に限らず往来の輩やすらうべからず、商人物もらひ等とどまり居るべからず、車の類一切引き渡るべからず(渡るものは休んだりせず渡れ、商人も物乞いもとどまるな、荷車は禁止)」と書かれたという。
ビントラス式の鉄橋(てつはし)
花崗岩の親柱
大はしあたけの夕立
左:広重 右:ゴッホ
明治18(1885)年に新しい西洋式の木橋として架け替えられ、明治45(1912)年にはピントラス式? の鉄橋として現在の位置に生まれ変わったそうじゃ。竣工後間もなく市電が開通し、アールヌーボー風? の高欄に白い花崗岩の親柱など、特色あるデザインが見られたようじゃ。そのため貴重な建築物として、現在愛知県の犬山市の博物館命じ村に中央区側にあたる全体の八分の一、約25mほどが部分的に移築されて保存されているという。戦後、修理補強を行いながら使われていたものの、橋台の沈下が甚だしく、橋の晩年には大型車の通行が禁止され、4t以下の重量制限が設けられていたが、昭和52年に現在の橋(橋長:170.0m 、幅員:24.0m)に架け替えられたそうじゃ。
歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図だそうじゃ。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船繋留場にその巨体ゆえに繋留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからだそうじゃ。斎藤月岑(さいとう げっしん、1804~1878年、江戸の名主)の江戸名所図会には「新大橋、三また」として描かれているということじゃ。「三また(三股、三派)」とは神田川、隅田川、竪川の合流点のことで、新大橋のすぐ上流側であるが、この中州部分は月見、花見、夕涼み、花火見物の名所であり、全盛期には江戸一番の繁盛を見せたといわれる場所であったそうじゃ。
両国ジャンクションを潜り抜けるだるま船
両国橋を通り抜ける「ヒミコ」
富岡八幡の祭見学に
江東区側のテラスに降りて、下流を見ると清洲橋の全景が見えた。この橋についても書いてみようとは思うが、今の爺の体力では清洲橋まで行ってみる気になれない。まあ、写真1枚だけに留めておこう。テラスを両国ジャンクションのところまでくると、だるま船が2艘、親船に曳かれて行くところであった。その昔、土地や家を持てずに川や海に船を浮かべて生活している人は珍しくなく、いわゆる水上生活者の船を「だるま船」といったのじゃ。なにゆえ、「だるま船」というのかはわからぬが、思うに動力をもたぬ船なので、親船に曳いてもらわぬことにゃ、手も足も出ず自力で動くことが出来ないからそのような名前が付いたのかも知れんてぇ。
竪川の水門をすぎ墨田区側のテラスを両国橋までくると、今しも水上バスの「ヒミコ」が両国橋を潜り抜けるところであった。漫画・アニメ界でご存知の松本零士がデザインした宇宙船のような「ヒミコ」が、2004年3月から浅草~お台場間を運航している。「ヒミコ」は、松本零士が「ティアドロップ(涙滴)」をイメージ・コンセプトに、「子供たちが乗ってみたいと思ってくれる船」として、デザインを手がけたということじゃ。
厩橋と駒形橋の間のテラスで、福島からわざわざ富岡八幡の祭(8/15が祭礼日であるが、いまはどこも土・日で行う)を見に来たのだという2人連れのご仁にであった。ここで、休憩を兼ねて、少々水掛神輿等について話した。
Ⅰ・K氏、父子鷹
吾妻橋を渡って、江戸通りを北上していると、I・K氏とすれ違った。息子を連れてプールからの帰りだという。「いま、小学2年生ですが、200メートルのメドレーを泳ぎ抜きましたよ。僕が追い付かないほどですよ」まさか、そんなこともないだろうが、小学5年生にして初めて泳げるようになった彼にすれば、自慢の息子には違いない。今は亡き彼の父上・M親方がどんなに喜ばれていることだろう。
彼女の実家は爺の住む聖天町にある宮本卯之助商店で、彼女は現当主の妹御に当たられる。
宮本卯之助商店は、神輿・太鼓・祭礼具の製造販売や修理、復元およびレンタルを行っている老舗の商店であれ、文久元(1861)年に創業ということじゃ。宮内庁楽部や歌舞伎座、日本武道館等に楽器を提供しているという。
本店と西浅草店の2店舗がある。 本店は浅草6丁目(元、聖天町)にあり、本社と工場が併設されている。 また西浅草店は神輿・太鼓をはじめ、祭衣装や神具まで幅広い商品を取り揃えたショールームとなっている。
展示室での撮影はいけなかったのかな?
さらに太鼓に関する文献図書、視聴覚資料も3000点を越え、研究者の閲覧、利用に便宜を図っているという。
ここの所、猛暑が続き、それにうろつきどんたくの日なので、朝の徘徊は中止にした。昨夜は一雨あったようで、今朝は過しやすかった。遠出は止めにして、近くの国際通りにある「太鼓館」へ出向いた。館内は我々がトップと見えて他には見学者はいなかったので、カメラのシャッターを切らせていただいた。10時に家を出て、ゆっくりと見学を終え、浅草ROXで、昼飯を済ませ、午後1時前には帰宅した。
千住汐入大橋付近地図
荒川区側テラス下流より
荒川区側橋桁下(下流)
荒川区側橋桁下(上流)
荒川区側渡り口(上流)
足立区側渡り口(上流)
足立区側橋桁下(上流)
足立区側橋桁下(下流)
足立区側渡り口(下流)
今朝の爺の写真のお目当ては、昨日の水神大橋下のテラス(荒川区側)をさらに北上すると隅田川が大きく西にカーブする辺りに架けられた千住大橋である。平成18(2006)年2月に開通した隅田川に架かる橋のうち2番目に新しい橋である(最も新しい橋は2007年3月に開通した新豊橋)ということじゃ。南岸は汐入公園で荒川区南千住8丁目、北岸は足立区千住曙町である。橋の名は元々この場所にあった渡船場「汐入の渡し」に因むという。
東京都が災害時の防災拠点として整備している白鬚西地区の主要連絡路であり、足立区、荒川区、葛飾区を相互につなぐ重要拠点としてかきょうされたとそうじゃ。全長158.6m、幅員20.0m(車道11.0m、人道4.1m)。
sechin@nethome.ne.jp です。
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