漢字は機械的に教えられるものではない。覚えるものであり、悟るものである。文においては言葉と文字とは、動かしがたいものなのである。文字だけを切り離して教えようとするのは、暗号を覚えさせるようなもので初めから無理な話といわねばならない。もし文字を教える必要があるならば、文字構造のもつ体系を理解させるということであろう。字形の系列的な理解を与えることもせずに記憶せよというのは言うほうが無理なのである。
どこやらの漫画オタクを自称する宰相殿のあまりにも多い漢字の読み間違いで、漢字教育法なるものが巷に氾濫していているという。テレビのクイズ番組でも毎日のように放映しているが教育法なるもので問題を解決しうるとする考え方は誤りといわねばならぬ。教育法には、便宜的なものが多いのである。
江戸時代には「歌字尽(うたじづくし)」のようなものが行われていて、木(キヘン)の字を集めて、「春つばき、夏はえのきに、秋ひさぎ、冬はひいらぎ、同じくはきり」(椿・榎・楸・柊・桐)のように和歌にして字を覚えたらしい。攵(ノブン)の字を集めて、「正しきは政(まつりごと)なり 古き故(ゆえ)救(すく)い求めて己改(あらた)む」というのもあり、尸(シカバネ)の字を集めて「毛は尾にて九は尻なれば水尿、死ねば屍(しかばね)、比ぶるは屁(ヘ)ぞ」というのもある。爺も「ミ・シは上、ヤム・イはスデニ半ばなり、オノレ・ツチノト・イは下につく」と巳、已、己を区別して覚えたものだ。
少年の頃教えられたものに「親は立ち木の横で見ているお方」「努(力)とは女の又? に力を入れること」「東とは木のむこうから日がのぼる方向」「お米には八十八の手がかかる」「次の皿は盗まれる」「戀は糸し糸しと言う心」等々がある。しかし、便宜的な説法ならばその字形解釈に触れないほうが、文字への先入観を与えることが少ないのではないかということで、爺もかつて生徒達にこんな方法で漢字を覚えさせた記憶がある。
Aムツキヒヒチョコマカテンテン(熊) Bクッタヨヨンヒキ(魚) Cウサンタテタテハッチョンチョン(寒)
政治家が字を読み違えたといって非難の対照にされて、マスコミで騒がれるというのはあまり感心しない。もっと政策の中身を検討し、議論してほしいからである。
①踏襲「ふしゅう」、②頻繁「はんざつ」、③破綻「はじょう」、④順風満帆「じゅんぷうまんぽ」、⑤低迷「ていまい」、⑥詳細「ようさい」、⑦未曽有「みぞうゆう」、⑧実体経済「じつぶつけいざい」、⑨焦眉の急「しゅうびのきゅう」、⑩物見遊山「ものみゆうざん」、⑪有無「ゆうむ」、⑫思惑「しわく」、⑬措置「しょち」、⑭詰めて「つめめて」、⑮怪我「かいが」、⑯前場「まえば」
①~⑯までは、この自称漫画オタクと自負?する宰相殿が読み違えた漢字というが、これを完全に読める人は何人いるのだろうか。この爺だってどうかすると読み違えてしまう。
まあ、文章を扱うときは手許から辞書は離せないのである。
①~⑯までの正しい読みは
①とうしゅう ②ひんぱん ③はたん ④じゅんぷうまんぱん ⑤ていめい ⑥しょうさい ⑦みぞう
⑧じったいけいざい ⑨しょうびのきゅう ⑩ものみゆさん ⑪うむ ⑫おもわく ⑬そち ⑭つめて
⑮けが ⑯ぜんば
長瀧山 本法寺は、天正十九年(1591)太田道灌の居城のあった江戸城紅葉山に初代日先上人が開山したのが創建であるという。その後、北条氏が滅亡し徳川家康が新たに江戸城を築城した際に紅葉山から外壕にあたる八丁堀に移った。さらに明暦3(1657年)江戸の振袖火事の大火で焼失し、幕府が茶碗用達人、高原平兵衛に賜与した浅草の拝領町屋敷のあった現在の地に移った。住居表示で現在は寿二丁目となっているが、その前の旧高原町という町名はその由来からとったものであるという。江戸中期の享保年間の頃、雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である本法寺に勧請した。この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷社として信者も多く、江戸誌にも参詣頗(すこぶ)る多しと書かれているように名高い稲荷である。稲荷を祀った狐にも様々な種類があるが、なかでも福徳を授ける福狐(ふっこ)として白狐(びゃっこ)だけが稲荷大明神に選ばれる資格があるといわれている。熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷でここ本法寺と弘前津軽藩公が祀った二個所しかない、極めて珍しい稲荷であるという。境内にははなし塚もあった。
不忍通に出て、途中ヨドバシカメラに建ちより、デシカメのバッテリーを購入。上野公園入口から東メグリンで浅草に出て、帰宅した。
今日は1日中雨。何処にも出かけず寝そべっていた。
昨年の暮れに行くはずであった散髪も、ずぼらでそのままにしておいたら正月早々から風邪気味、伸び放題にしてなっていたが、やっとみ腰を挙げる気になって、昼食後、腹ごなしをかねて松屋の傍の理髪店に出掛けた。40分ほど待たされた。
可憐な花を付けている
看板にはバッハがコーヒーカップを持っている像があり、人目を引く。店内は版画の額がずらりと飾られていて、かなりの客が入っていた。案内された席の壁に掛けられている版画に見入っていると、マスターらしい人が近寄ってきて、版画について説明してくれた。上野遒(うえのしゅう、1939年生れ)という人の作品であり、なかなかの人気画家であるということである。この喫茶店は前々から、話には聞いていた評判の喫茶店なのだが、入ったのは初めてである。
イラク戦争や金融危機など失政続きだった8年間のブッシュ政権のあとを受けるために、オバマ政権に対する米国民の期待はこれまで以上に大きい。そのうえ、初のアフリカ系大統領の誕生という米国の歴史的瞬間でもあるだけに、いっそう盛り上がって200万人に上る民衆を集めたのであろう。
就任のスピーチライターは誰が書いたかは知らないが、自己犠牲・責任・共通の目的・アメリカの再建等々美辞麗句が並び、21分そこそこの思ったものよりも随分短いもので、極めて抽象的で爺には聊か理解しにくいものであったが、まあ実現すれば、アメリカは大きく前進するであろうと思われるものであった。ともあれ、これらの1/10でもよいから実現できることを願いながら、今後を見守っていこう。
隅田公園の梅林
寒椿
悲しいかな。川は水を集め流れをなして、水は滔々(とうとう)と終日(ひねもす)過ぎてゆく。この世は人を集めて社会とし、人は段々に老いの坂を下(くだ)り行く。いつの世に新たなる人がなかろうや、そして何人が世に久しく永らえようぞ。野原には春が訪れるたびに新しい花が咲き、草の葉におく露は晨(あした)ごとに消えてゆく。これぞ永遠(とわ)にかわらぬ原理、万物に普遍の法則なのである。梅の花も、水仙も、寒椿も、つかの間に尽きる命に気が付かないのであろうか。
傷ついた胸にはいや増しに愁(うれ)い多く、悩み深き顔(かんばせ)は衰えて喜びは少ない。ひそやかな思いは糸口となってあらわれ、晴れやらぬ心は騒いで堰(せき)を切る。楽しみの無いこの世を嘆き、在りし日を思い出しては語り草とする。しかしながら寿命は幾ばくも無く燃え尽きて、生あるものはなべて死滅を免れぬ。手足を見ては深く悲嘆し、吾が肉体の消え行く怖れを噛みしめる。やんぬるかな、心を慰める術(すべ)とてもなく、眼に映る死者の顔のさても多いこの虚(むな)しさ。
冬の野を彷徨(さまよ)えば心切なく、春の花々を手にすれば、思いは募(つの)る。万象はおしなべて悲愁を生む、季節は巡っても時は還らぬ嘆きよ。かくて胸中を鎮(しず)め、自然の摂理に思いを潜(ひそ)める。精神(こころ)はかつ浮かび、かつ沈んで、忽然と世界を超越する。死とは眠りの安らぎと大悟すれば、その到来の早晩を挙げつろうまでもない。過ぎ行く日月の流れにもわが心は泰然として乱されぬ。
天地の授けた生命を涵養(かんよう)し、聖人の定めた栄誉を忘れ去ろう。苦患から余生を解放し、さてゆったりと老いを楽しもう。
禍事(まがごと)の起こる源を訊ぬれば、どれもこれも為政者(おえらいさん)が愚かなため。権力と金に眼が眩(くら)み、耳塞(ふさ)がれて、その側近こそが実力者。贔屓(ひいき)にすれば皮に孔(あな)空けてでも羽毛を生やすように、滅多やたらに褒めちぎり、憎いとなると、毛を毟(むし)ってでも、疵(きず)を求めるように欠点(あら)探し。破局が今にも訪れるというのに、欲におぼれる浅ましさ。海を渡(わた)るに舵(かじ)もなく、薪(たきぎ)に坐して燃えるを待つとはご存じない。
江戸の大川の澄むは千年に一度とかや
人の命は短くて、清い世に出遇うは難しい
吹き募る風に日陰の草はいよいよ傷(いた)められ
金持ちどもは、出来が違うと大威張り
誰にも負けぬこの学識も 彼らの財布に勝てぬが口惜(くちお)しい
胡麻擂る輩は、邸宅住まい 正直者は、相も変わらず塀の外
そこで、瘋癲爺はこれに続けて吐(ほざ)いてみせる。
おえらい方は 結構ずくめ
吐(は)いた唾(つば)さえ 真珠(たま)に成る
襤褸(ぼろ)を纏(まと)えば 可惜(あたら)才覚も持腐(もちぐさ)れ
香草(かおりぐさ)さえ 牛馬の餌(えさ)となる
賢い人はとうの昔に悟ってもいられようが 愚かな爺は 救われぬ
暫くは 己(おのれ)が分(ぶん)を護り 齷齪するのは 止めにしよう
哀(かな)しいかな! ああ、哀しいかな
これが宿命(さだめ)というものか
成人の日には、今年は丑年だから近くの牛嶋神社では何かやっているに違いないと、出かけてみた。初詣の親子連れのお参り客が多かった。撫で牛のところには列が出来、沢山の老若男女が交互に牛を撫でながら、無病息災を願っていた。
江戸時代、腕力や体力を鍛えた者が、重い石を持ち上げて力競べなどを行ったという。この時に用いた石を力石と呼び、江戸や大坂では力自慢たちにより、‘力持番付’が付けられるほど、盛んに行われたそうじゃ。その発祥は、本所・深川であったと考えられているらしい。また農村では、おとなに仲間入りするための通過儀礼のひとつとされていたという。力石を使った力競べは、明治時代以降は廃れていったが、牛嶋神社の境内には9個の力石が集められているる力石には、重さや年号が刻まれるばかりではなく、強さの代名詞として刻むことも多くあり、「麒麟」石や「雲龍石」もこうしたうちの一つなのじゃ。 中には、石を持ち上げた力持ちの名を刻む場合もある。「内田店平蔵」とは、寛政6年(1794年)から活躍していた‘石の平蔵’のことで、各地にその名を残した職業的力持ち力士だったようである。「馬石」は、馬の顔のように長い石で90cmもあり、「さし石」は、この石を差し上げたことから刻まれたようじゃ。 コンクリートで固定されているために、重量については不詳でわるが、刻まれた数値を信ずるならば、45貫目から55貫目(約169キログラムから206キログラム)もあることになるようじゃ。
何だか洟水で鼻の下が被れてきたようなので、以来徘徊は見合わせている。明日はどうなることやら。
むさい姿の爺婆
気候の変り目の祝祭日のことを節日(せちび・せつび)といい、お供え物をしたり行事をおこなって祝ってきたという歴史がある。この節日の供物、「節供(せちく)」という言葉が、節日そのものを指すようになって「節句」ということばになったといわれている。五節句というように、現在にも五つの節句が伝えられている。
春の七草
sechin@nethome.ne.jp です。
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