瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
[363] [364] [365] [366] [367] [368] [369] [370] [371] [372] [373]

 漢字は機械的に教えられるものではない。覚えるものであり、悟るものである。文においては言葉と文字とは、動かしがたいものなのである。文字だけを切り離して教えようとするのは、暗号を覚えさせるようなもので初めから無理な話といわねばならない。もし文字を教える必要があるならば、文字構造のもつ体系を理解させるということであろう。字形の系列的な理解を与えることもせずに記憶せよというのは言うほうが無理なのである。
 どこやらの漫画オタクを自称する宰相殿のあまりにも多い漢字の読み間違いで、漢字教育法なるものが巷に氾濫していているという。テレビのクイズ番組でも毎日のように放映しているが教育法なるもので問題を解決しうるとする考え方は誤りといわねばならぬ。教育法には、便宜的なものが多いのである。
a4531366.JPG 江戸時代には「歌字尽(うたじづくし)」のようなものが行われていて、木(キヘン)の字を集めて、「春つばき、夏はえのきに、秋ひさぎ、冬はひいらぎ、同じくはきり」(椿・榎・楸・柊・桐)のように和歌にして字を覚えたらしい。攵(ノブン)の字を集めて、「正しきは政(まつりごと)なり 古き故(ゆえ)救(すく)い求めて己改(あらた)む」というのもあり、尸(シカバネ)の字を集めて「毛は尾にて九は尻なれば水尿、死ねば屍(しかばね)、比ぶるは屁(ヘ)ぞ」というのもある。爺も「ミ・シは上、ヤム・イはスデニ半ばなり、オノレ・ツチノト・イは下につく」と巳、已、己を区別して覚えたものだ。
 少年の頃教えられたものに「親は立ち木の横で見ているお方」「努(力)とは女の又? に力を入れること」「東とは木のむこうから日がのぼる方向」「お米には八十八の手がかかる」「次の皿は盗まれる」「戀は糸し糸しと言う心」等々がある。しかし、便宜的な説法ならばその字形解釈に触れないほうが、文字への先入観を与えることが少ないのではないかということで、爺もかつて生徒達にこんな方法で漢字を覚えさせた記憶がある。
Aムツキヒヒチョコマカテンテン(熊) Bクッタヨヨンヒキ(魚) Cウサンタテタテハッチョンチョン(寒)
bc02c140.JPG 政治家が字を読み違えたといって非難の対照にされて、マスコミで騒がれるというのはあまり感心しない。もっと政策の中身を検討し、議論してほしいからである。
 ①踏襲「ふしゅう」、②頻繁「はんざつ」、③破綻「はじょう」、④順風満帆「じゅんぷうまんぽ」、⑤低迷「ていまい」、⑥詳細「ようさい」、⑦未曽有「みぞうゆう」、⑧実体経済「じつぶつけいざい」、⑨焦眉の急「しゅうびのきゅう」、⑩物見遊山「ものみゆうざん」、⑪有無「ゆうむ」、⑫思惑「しわく」、⑬措置「しょち」、⑭詰めて「つめめて」、⑮怪我「かいが」、⑯前場「まえば」
 ①~⑯までは、この自称漫画オタクと自負?する宰相殿が読み違えた漢字というが、これを完全に読める人は何人いるのだろうか。この爺だってどうかすると読み違えてしまう。
 
まあ、文章を扱うときは手許から辞書は離せないのである。
 
①~⑯までの正しい読みは
 ①とうしゅう ②ひんぱん ③はたん ④じゅんぷうまんぱん ⑤ていめい ⑥しょうさい ⑦みぞう
 
⑧じったいけいざい ⑨しょうびのきゅう ⑩ものみゆさん ⑪うむ ⑫おもわく ⑬そち ⑭つめて 
 ⑮けが 
⑯ぜんば

 早、2月。2日続けての雨で家に閉じ込められていた。本日は日曜日。雨は上がったものの外は強い風が吹いている。午前11時婆様に誘われて、湯島天神まで梅を見にいった。言問通りから、国際通を南下して、浅草通りを西進、さらに春日通りまで、ジグザグに南下したが、途中、本法寺という寺があった。
247d93c9.JPG
0f2ad96e.JPG
683d121a.jpg





 長瀧山 本法寺は、天正十九年(1591)太田道灌の居城のあった江戸城紅葉山に初代日先上人が開山したのが創建であるという。その後、北条氏が滅亡し徳川家康が新たに江戸城を築城した際に紅葉山から外壕にあたる八丁堀に移った。さらに明暦3(1657年)江戸の振袖火事の大火で焼失し、幕府が茶碗用達人、高原平兵衛に賜与した浅草の拝領町屋敷のあった現在の地に移った。住居表示で現在は寿二丁目となっているが、その前の旧高原町という町名はその由来からとったものであるという。江戸中期の享保年間の頃、雷門の浅草寺境内にあった熊谷稲荷を熊谷安左衛門の菩提寺である本法寺に勧請した。この熊谷稲荷は江戸時代から霊験あらたかな稲荷社として信者も多く、江戸誌にも参詣頗(すこぶ)る多しと書かれているように名高い稲荷である。稲荷を祀った狐にも様々な種類があるが、なかでも福徳を授ける福狐(ふっこ)として白狐(びゃっこ)だけが稲荷大明神に選ばれる資格があるといわれている。熊谷稲荷は白狐を祀った稲荷でここ本法寺と弘前津軽藩公が祀った二個所しかない、極めて珍しい稲荷であるという。境内にははなし塚もあった。
68df8915.jpg
0c72ecf8.jpg 春日通をさらに西進して、松坂屋前まで出る。吉野屋で牛肉丼を食って、湯島天神に出る。隅田公園の梅はかなり開いているのに、ここの梅はまだまだ。受験期と在って境内のあちこちに絵馬の山が立ち並んでいた。
不忍通に出て、途中ヨドバシカメラに建ちより、デシカメのバッテリーを購入。上野公園入口から東メグリンで浅草に出て、帰宅した。
 今日は、1月29日義父の34回目の命日である。婆様は雨の中、田端の大久寺まで墓参りに行った。あの世なんて信じていない爺はズボラをこいて、お家でお留守番。あの世があろうがなかろうが、故人との佳き思い出は深く胸に刻まれているのだから、墓参りをしなくても、忘れることは無い。爺も婆様もとうに義父が逝った時の年齢を超えている。まあ、何時お迎えが来てもおかしくは無い。出来うることならば、逝くときは独り静かに眠りたい。
ee8ffb23.JPG 人間はおっ死んだらおしまいなのか、あるいは死後の世界があるのかは、全く科学では計り知れない。釈迦はこの事について「有る」とか「無い」とかというような答えは明瞭になさっておられない。したがって、死後の世界はあるともいえないし、ないとも言えないようだ。仏教で説く仏性とはちがい、釈迦は、他の思想家からの「死後に地獄、極楽があるのか、あの世はあるのかないのか」といった観念的な質問に対しては答えずに、ただ沈黙したといい、これを仏教語では「無記答」というのだそうだ。無記とは答えない、無回答ということであるが、悪事を為しながら知らん振りすることとは全く違う。また、仏教以外の思想家が「釈尊は回答できないのだ」と非難すると、釈尊は「もっと大切なことを問うがよい」と正したということである。ここの教示にポイントを置いておけば死後の世界の有無など心配無用なのである。なぜならば、死後の世界があるとするならば今の生き方である「業」によって定まるからだという。
a2887ede.JPG このような問題を、形而上学として退け、とりあえずわれわれの学問の対象とする世界を、現世のこと、この世の問題に限ろうとしたのが、一般にカントの哲学であるとされている。カントの功績によって、神とか死後の世界の問題は、近代の学問の直接のテーマではなくなったといわれている。そしてカントは宗教やあの世の存在を直接否定したのではないにせよ、結果的に宗教を否定する作用を世界に与えたとも評されいる。
 今日は1日中雨。何処にも出かけず寝そべっていた。
defe89e9.jpg 今年も、関西の友人から恒例の西宮神社10日えびすの酒、門戸厄神の酒、大安寺・笹酒まつりの長寿酒が送られてきた。今年も元気であちこちと訪ねて歩いているらしい。結構なことであるといわねば成らない。今年に入ってからというものメールもめっきり少なくなった。受信メールも少なく、したがって、送信することもすっかり少なくなった。
 昨年の暮れに行くはずであった散髪も、ずぼらでそのままにしておいたら正月早々から風邪気味、伸び放題にしてなっていたが、やっとみ腰を挙げる気になって、昼食後、腹ごなしをかねて松屋の傍の理髪店に出掛けた。40分ほど待たされた。

cf29b717.jpg大川を行く曳舟
013137f2.jpg路傍に見知らぬ草花が
f6990503.jpg




 可憐な花を付けている
38138d9e.jpg 散髪の帰途、吾妻橋を渡って、白鬚橋までの隅田公園をひと回りしてきた。大寒で風は冷たいが、晴れの日が続いたせいか、路面のあちこちに草花が見受けられるようになった。春はもうすぐそこまで来ている。
 昨日、日曜日の朝のテレビはどの局も報道特集を組んでいるが、今週はどの局もオバマの話題で賑わっている。土曜日の内にビデオ収録した松本清張の「疑惑」(主演・田村正和)を見る。
 昼食後、午後2時頃になって、婆様と久し振りに近辺を歩いてみようということになり、まずは、婆様の弟が眠っている出山寺(しゅつさんじ)に詣でる。境内で水撒きをされていた院主さんの許しをえて、境内の写真を撮らせてもらった。
cde80489.jpg
5403bf5a.jpg
2e89cc71.jpg






   曹洞宗・明星山・出山寺(台東区清川1の13の1)。入口の左に朱塗りの綺麗な2階建の納骨堂。その並びは墓所。墓所の前参道の右に本堂・庫裏がある。境内には其角の句碑、采女塚、などがある。
 三囲神社の境内にある雨乞いの碑はかなり知られているが、ここ出山寺の納骨堂の前にも其角の句碑がある。
 墓所の前に采女塚(うねめづか)がある。石碑の上部に横書きで「采女塚」とあり、下部に仮名交じりの文で、由来が書いてあるが、この石碑も戦火を浴びたそうでよく読めない。説明板によれば、江戸時代の初期、寛文年間(1611~1672年)新吉原・雁金屋の遊女「采女」に心を寄せた若い僧侶が、師から固く制され悩んだ末、雁金屋の前で自害してしまった。采女は悲しんで浅茅ケ原の鏡が池に身を投げた。時に17才。翌朝、草刈りの人たちが「名をそれとしらずともしれさる沢の あとをかがみが池にしずめば」としるした短冊を見つけ、采女とわかり塚に葬ったと言う伝えがあり、文化元年(1804)大田蜀山人らが出山寺に采女塚の石碑を建てたのだそうじゃ。この出山寺の北側に隣り合わせにあったという鏡が池は埋め立てられ、見ることは出来ない。
 アサヒ会商店街を抜けて、吉野通に出る。爺が30歳前後にこの場所を通って松戸から浅草に通勤していた頃は、ここには都電が通っていたバブル時代には、200軒以上のドヤと呼ばれる簡易旅館に15,000人の労働者が生活していたが、バブル崩壊と共に急激に減ってしまったのじゃ。現在でも約150軒のビジネスホテル風に改築された旅館に、6千人程度の労働者が生活しており、労働者の街としての風景を伺い見ることができる。吉野通を少し北上した所にカフェ・バッハがある。創業40年というから、爺がこの辺りを頻繁に通っていた頃には、まだなかったらしい。
8d52feff.jpg
6260533e.jpg
94cdff05.jpg





 看板にはバッハがコーヒーカップを持っている像があり、人目を引く。店内は版画の額がずらりと飾られていて、かなりの客が入っていた。案内された席の壁に掛けられている版画に見入っていると、マスターらしい人が近寄ってきて、版画について説明してくれた。上野遒(うえのしゅう、1939年生れ)という人の作品であり、なかなかの人気画家であるということである。この喫茶店は前々から、話には聞いていた評判の喫茶店なのだが、入ったのは初めてである。
 吉野通を明治通まで北上して隅田川畔の道を南下したが、すでに日陰になっており、それに婆様が夕飯の買い物をするというので、河畔の道をよけて街中にはいり、買い物を済まして、裏道を歩いていると妙亀塚公園にぶち当たった。謡曲「隅田川」のシテは子が死んだと知った後、妙亀尼と称し、ここで供養をしていたが、ついに、鏡が池に身を投げたという。死んだ子の名が梅若丸。対岸墨田区に、梅若塚と由縁の木母寺がある。多分、出山寺の碑にあった遊女采女もこのことを知っていたのだろう。
b7148b0a.jpg
d8b085e6.JPG 帰宅したのは4時半すぎ、大相撲の千秋楽を見た。朝青龍のよもやの復活優勝。これじゃ、場所前の野暮な予想を立てた親方連中や横綱審議会のお偉いさんは全くの形無しじゃな。
 
 今年に入って、すっかり怠け者になってしまった。鼻風邪を口実に徘徊も休むことが多くなった。風邪は大したことはないのだが、ちょっと寒いと出掛けるのが億劫に成る。テレビばかり見ていると、ブログに書くネタもなくなってしまう。
4d4d4ea2.JPG アメリカの新大統領は就任式の日には国民のさまざまな期待と願望の権化になる。大統領は任期中、これらの国民の願いを満たすことはおそらくできないだろう。そこで当然のように同じことが繰り返される。米国民は次の大統領候補を探して期待と願望を託そうとするのである。
イラク戦争や金融危機など失政続きだった8年間のブッシュ政権のあとを受けるために、オバマ政権に対する米国民の期待はこれまで以上に大きい。そのうえ、初のアフリカ系大統領の誕生という米国の歴史的瞬間でもあるだけに、いっそう盛り上がって200万人に上る民衆を集めたのであろう。
就任のスピーチライターは誰が書いたかは知らないが、自己犠牲・責任・共通の目的・アメリカの再建等々美辞麗句が並び、21分そこそこの思ったものよりも随分短いもので、極めて抽象的で爺には聊か理解しにくいものであったが、まあ実現すれば、アメリカは大きく前進するであろうと思われるものであった。ともあれ、これらの1/10でもよいから実現できることを願いながら、今後を見守っていこう。
107c2cb3.jpg
bfffe5ab.jpg 朝食後、少々風邪が冷たかったが、吾妻橋と桜橋の間の隅田公園を1周してみる。3・4日前までは開き切っていなかった梅園の白梅も咲き始めていた。やはり、冷たい風に当たると洟水が垂れてくる。まだ、鼻風邪は癒りきっていないらしい。
 今日は旧暦12月25日、大寒。暦便覧によれば、「冷ゆることの至りて甚(はなは)だしきときなれば也」と記す。冬来たりなば、春遠からじ。爺の仕事部屋から窓越しに見る隅田公園の梅園はぼんやりと紅く色づいている。洟風邪(はなかぜ)はまだ癒りきらないが、隅田公園を20分ほど散策する。梅の開花が始まり、白水仙と寒椿がお互いに清楚な装いを競っている。この身は老いさらばえて、風邪の快復もすっかり長引いている。
隅田公園の梅林
71ea3f67.jpg紅梅(大盃)
85621294.jpg白水仙
3711fb74.jpg





 寒椿
984891ab.JPG 天地の気は巡り流れ、昇り降って循環を繰り返す。太陽は大空を雲の上をはるかに疾走し、四季は虚空をまわって忽ち変転する。ああ人の命の短さよ。誰が永遠の命を保ち得ようぞ。時は疾風(はやて)の如く過ぎ行きて帰らず、老いはいつしかわが身に忍び寄る。
 悲しいかな。川は水を集め流れをなして、水は滔々(とうとう)と終日(ひねもす)過ぎてゆく。この世は人を集めて社会とし、人は段々に老いの坂を下(くだ)り行く。いつの世に新たなる人がなかろうや、そして何人が世に久しく永らえようぞ。野原には春が訪れるたびに新しい花が咲き、草の葉におく露は晨(あした)ごとに消えてゆく。これぞ永遠(とわ)にかわらぬ原理、万物に普遍の法則なのである。梅の花も、水仙も、寒椿も、つかの間に尽きる命に気が付かないのであろうか。
 傷ついた胸にはいや増しに愁(うれ)い多く、悩み深き顔(かんばせ)は衰えて喜びは少ない。ひそやかな思いは糸口となってあらわれ、晴れやらぬ心は騒いで堰(せき)を切る。楽しみの無いこの世を嘆き、在りし日を思い出しては語り草とする。しかしながら寿命は幾ばくも無く燃え尽きて、生あるものはなべて死滅を免れぬ。手足を見ては深く悲嘆し、吾が肉体の消え行く怖れを噛みしめる。やんぬるかな、心を慰める術(すべ)とてもなく、眼に映る死者の顔のさても多いこの虚(むな)しさ。
 冬の野を彷徨(さまよ)えば心切なく、春の花々を手にすれば、思いは募(つの)る。万象はおしなべて悲愁を生む、季節は巡っても時は還らぬ嘆きよ。かくて胸中を鎮(しず)め、自然の摂理に思いを潜(ひそ)める。精神(こころ)はかつ浮かび、かつ沈んで、忽然と世界を超越する。死とは眠りの安らぎと大悟すれば、その到来の早晩を挙げつろうまでもない。過ぎ行く日月の流れにもわが心は泰然として乱されぬ。
 天地の授けた生命を涵養(かんよう)し、聖人の定めた栄誉を忘れ去ろう。苦患から余生を解放し、さてゆったりと老いを楽しもう。
 相も変わらず、洟水たらたら、家に閉じこもってテレビの時代劇ばかりを見ている。考えることはつまらぬことばかり。パソコンに向えば、愚にもつかぬことを書きつぐる。
6347993f.JPG 古より現今(いま)に至るまで、邪悪(よこしま)や詐欺(いつわり)は数知れず、諂(へつ)う者は日々に多く、気質(きだて)が堅く偽りや誤魔化(ごまか)しの利(き)かぬ者は消え失せ、他人(ひと)の尻穴(けつあな)でも平気で舐(な)めようという輩(やから)は車を連ねて栄耀栄華、正義を守る者は、一向に梲(うだつ)が上がらず、何処へ行くにも歩き詰め。権力者にはへいこらし、分限者どもとは手を結べ。世を拗ねて権力に逆らえば、たちどころに、罪科に陥(おちい)るぞ。立身出世に齷齪(あくせく)すれば、日々に富み、月ごとに栄えもしよう。凡そこの世は、闇同然、どやつが黒で、どやつが白か、とんと見分けがつけられぬ。悪賢い奴は栄進し、正直者には住みにくい。
 禍事(まがごと)の起こる源を訊ぬれば、どれもこれも為政者(おえらいさん)が愚かなため。権力と金に眼が眩(くら)み、耳塞(ふさ)がれて、その側近こそが実力者。贔屓(ひいき)にすれば皮に孔(あな)空けてでも羽毛を生やすように、滅多やたらに褒めちぎり、憎いとなると、毛を毟(むし)ってでも、疵(きず)を求めるように欠点(あら)探し。破局が今にも訪れるというのに、欲におぼれる浅ましさ。海を渡(わた)るに舵(かじ)もなく、薪(たきぎ)に坐して燃えるを待つとはご存じない。
de01b8ba.JPG 己の身の栄達は胡麻擂(ごます)り諂いによるものとは考えず、これこそ真の名誉とぞ、わが世の春を謳歌する。権力を得れば、法を枉(ま)げるは朝飯前、世にも得がたい恩恵(めぐみ)とて、僕(やつがれ)どもには縁が無い。災害や飢饉に遭うて飢え凍ることがあろうとも、今の世の豊年でぬくぬくと活(い)きていよとは思わない。筋を通して死ぬならば滅びることにはならないが、心に背く生業(なりわい)で活きていたとて、しょうかない。志(こころ)ある人は訴える。
  江戸の大川の澄むは千年に一度とかや
  人の命は短くて、清い世に出遇うは難しい
  吹き募る風に日陰の草はいよいよ傷(いた)められ
  金持ちどもは、出来が違うと大威張り
  誰にも負けぬこの学識も 彼らの財布に勝てぬが口惜(くちお)しい
  胡麻擂る輩は、邸宅住まい 正直者は、相も変わらず塀の外
 そこで、瘋癲爺はこれに続けて吐(ほざ)いてみせる。
  おえらい方は 結構ずくめ
  吐(は)いた唾(つば)さえ 真珠(たま)に成る
  襤褸(ぼろ)を纏(まと)えば 可惜(あたら)才覚も持腐(もちぐさ)れ
  香草(かおりぐさ)さえ 牛馬の餌(えさ)となる
  賢い人はとうの昔に悟ってもいられようが 愚かな爺は 救われぬ
  暫くは 己(おのれ)が分(ぶん)を護り 齷齪するのは 止めにしよう
  哀(かな)しいかな! ああ、哀しいかな
  これが宿命(さだめ)というものか
8b1c6a8e.jpg ここ1週間ほど鼻風邪をひいたらしく、立ち上がってちょっと動いただけで洟(はな)水がだらだら。婆様が鼻水に聞くという点滴薬をかってきてくれたが、あまり効果はない。という訳で徘徊はお休みになってしまい、毎日テレビの前で、時代劇を見たり、大相撲を見たりで、誠に怠惰な日を過ごしてしまった。
 成人の日には、今年は丑年だから近くの牛嶋神社では何かやっているに違いないと、出かけてみた。初詣の親子連れのお参り客が多かった。撫で牛のところには列が出来、沢山の老若男女が交互に牛を撫でながら、無病息災を願っていた。
 江戸時代、腕力や体力を鍛えた者が、重い石を持ち上げて力競べなどを行ったという。この時に用いた石を力石と呼び、江戸や大坂では力自慢たちにより、‘力持番付’が付けられるほど、盛んに行われたそうじゃ。その発祥は、本所・深川であったと考えられているらしい。また農村では、おとなに仲間入りするための通過儀礼のひとつとされていたという。力石を使った力競べは、明治時代以降は廃れていったが、牛嶋神社の境内には9個の力石が集められているる力石には、重さや年号が刻まれるばかりではなく、強さの代名詞として刻むことも多くあり、「麒麟」石や「雲龍石」もこうしたうちの一つなのじゃ。 中には、石を持ち上げた力持ちの名を刻む場合もある。「内田店平蔵」とは、寛政6年(1794年)から活躍していた‘石の平蔵’のことで、各地にその名を残した職業的力持ち力士だったようである。「馬石」は、馬の顔のように長い石で90cmもあり、「さし石」は、この石を差し上げたことから刻まれたようじゃ。 コンクリートで固定されているために、重量については不詳でわるが、刻まれた数値を信ずるならば、45貫目から55貫目(約169キログラムから206キログラム)もあることになるようじゃ。
c7d485ea.JPG
6e4e48bd.jpg
1e926ce8.jpg





 何だか洟水で鼻の下が被れてきたようなので、以来徘徊は見合わせている。明日はどうなることやら。
 朝のメールで、Y・Aさんから、2日に我が家で撮った写真がヤフーフォトで届いていた。今年は1日には筑紫野市のR・N兄から楽天グリーティングの音楽入りの年賀状が入ったり、ヤフーフォトなる見慣れないメールが届く。その度にこの阿呆爺戸惑うのであるが、何とか処理することが出来た。
むさい姿の爺婆
b384ed82.JPGY・Aさんと一緒に                     
db1287c1.JPGI・K君がシャッターを押してくれた
9b5394aa.JPG





 気候の変り目の祝祭日のことを節日(せちび・せつび)といい、お供え物をしたり行事をおこなって祝ってきたという歴史がある。この節日の供物、「節供(せちく)」という言葉が、節日そのものを指すようになって「節句」ということばになったといわれている。五節句というように、現在にも五つの節句が伝えられている。
1月7日、七草粥で新年を祝う「人日(じんじつ)の節句」
3月3日、ひなまつりとして有名な「上巳(じょうみ・じょうし)の節句」
5月5日、男の子の成長を祝う、こどもの日「端午(たんご)の節句」
7月7日、おり姫、ひこ星の物語で有名な「七夕(たなばた)の節句」
9月9日、菊花の香りの酒で月をめでる「重陽(ちょうよう)の節句」
今日は、1年の節句の初め人日の節句である。
古来中国では、正月の1日を鶏の日、2日を狗(犬)の日、3意日猪(豚)の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さないようにしていた。そして、7日目を人の日(人日=じんじつ)とし、犯罪者に対する刑罰は行わないことにしていたという。また、この日には7種類の野菜(七種=ななくさ)を入れた羹(あつもの)を食べる習慣があり、これが日本に伝わって七種粥になったという。百人一首に「君がため  春の野に出でて  若菜(春の七草)つむ  我が衣手に  雪は降りつつ 」 光孝天皇(こうこうてんのう、830~887年、第58代天皇)  古今集
春の七草
44670cca.JPG四辻善成と河海抄
1ab83614.JPG 日本では平安時代から始められ、江戸時代より一般に定着した。江戸幕府の公式行事となり、将軍以下全ての武士が七種粥を食べて人日(ジンジツ)の節句を祝った。
14世紀の南北朝時代に、四辻の左大臣(よつつじのさだいじん、本名は四辻善成《よしなり》)が源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の第13巻「若菜」の注釈の中で七草のことを記載している。それが後年、よく知られるところの『せりなずな  御形はこべら  仏の座 すずなすずしろ  これぞ七草』 となって伝えられたということじゃ。ちなみに、この日は新年になって初めて爪を切る日ともされ、七種を浸した水に爪をつけて、柔かくしてから切ると、その年は風邪を引かないといわれているそうじゃ。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


小冊子の紹介
カレンダー
02 2025/03 04
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31
最新コメント
[enken 02/23]
[中村東樹 02/04]
[m、m 02/04]
[爺の姪 01/13]
[レンマ学(メタ数学) 01/02]
[m.m 10/12]
[爺の姪 10/01]
[あは♡ 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
[Mr.サタン 09/20]
最新トラックバック
ブログ内検索
カウンター
Powered by ニンジャブログ  Designed by ゆきぱんだ
Copyright © 瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り All Rights Reserved
/