瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 今日から6月。5月29日(金)、30日(土)と雨で、徘徊は中止。
5b17978d.JPG 昨日は、5月の最終日で、植木市「お富士さん」、それに石濱神社の祭礼。4・5日前の新聞の挟みこみ広告によると本日5月31日(日)に隅田川の東武鉄橋~桜橋と周辺の隅田公園内特設会場で水上スキー・水上バイクエキビションが開催されるという。
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97712e79.jpg 桜橋に出てテラスに降りて、東武鉄橋下まで歩くが、それらしき準備は何もされていない。東武鉄橋のところで土手の遊歩道に上がってみると、幟が1本立っているだけであった。吾妻橋を渡り、枕橋までくると、テラスに降りて桜橋まで北上した。どうやらいまにも降り出しそうで、桜橋を渡って、帰宅した。午後から易美ションに出かけてみようかとも思ったが、とうとう一日テレビを観ほうけてしまった。

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f314dd59.jpg 本日は桜橋を渡って墨堤通りに出ると、通りの西側には白鬚神社祭礼の幟、東側には高木神社祭礼の幟が立っている。高木神社に立ち寄ってみようと思い、墨堤通りから鳩の街の狭い商店街を抜けて、水戸街道に出た。高木神社に行くには、ここから曳舟川通り出なければならず、引き返す方向になるので、水戸街道をそのまま北上し、地蔵坂通りを抜けて、再び墨堤通りに出る。
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3477e885.jpg 水戸街道からこの通りに入った辺りまでが、高木神社の氏子社中であるらしい。通りの南側は高木神社ののぼりが、そして北側には白鬚神社の幟が立つ。地蔵坂通りが墨堤通りと交わるところに子育て地蔵の祠があり、そのためこの通りを地蔵坂と呼ぶようになったのだという。
7fa8ef89.jpg この祠には何時も季節の花が備えてあり、時には狭い境内を掃除している人を見かけることもある。地元の人たちの信仰を集め、いまでも四の日には縁日として賑わうという。


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8b008a87.jpg 明治通りに出ると、これを西進し白鬚橋を渡り、橋場・今戸の街中を通って帰宅した。今週末は今戸神社の例祭である。神社の前には提灯が下がり鳥居の両側に幟が立っていた。
 天気はどうやら回復したらしい。桜橋を渡り、墨堤通りを北上。
1fe3b334.jpg 墨堤通りに「白鬚神社御祭禮」の幟が立てられているところを見ると白鬚神社も間もなく夏祭りらしい。どうやら、6月の第1土・日が大祭の日であるということである。千年余の昔、天暦5(951)年、近江国志賀郡境打颪(滋賀県高島市)琵琶湖湖畔に鎮座する白鬚神社の御分霊として祀ったのが、向島鎮座・白鬚神社の始まりといわれ、主祭神・猿田彦大神は、古事記や日本書紀などによれば、正しい方位を示す国土開拓の神として記されいる。人を正しく導くことが叶うとのことから、旅立安全・交通安全・商売繁昌・方災除の神として広く信仰を集めているのだという。
669d7525.jpg 東白鬚公園に入り、梅若橋の下道を通って何時もとは反対側の水神大橋の上流側の歩道に出た。ここで隅田川は大きく曲がり南北から東西へと流れを変える。この彎曲部が鐘ヶ淵と呼ばれた旧綾瀬川と合流する所である。

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 汐入公園を少し散策していると、胡録トンネルの上の展望台に出た。ここからすぐ下に「さくらばし」北詰が見える。先日とは逆の方向からこの橋を渡ってみることにした。ここの「さくらばし」は蛇行していてかなり長く、全長が1120m、凡そ15分ほどかかり、橋を渡りながら周りの景色が展望できる。
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2d18d38b.jpg 「さくらばし」を渡り切った左側はバーベキュー広場になっているが、右側の広場に何やらモニュメントらしきものがあるので、近寄ってみた。昼間しか使えないこと、晴天時しか使えないことを除けば、古代以来、誰でも見たり使ったりできる時計は日時計のみであった。いまは、何処の公園や広場でも見られるいろいろな日時計があるが、ここの日時計は Sun Sculpture(サンスカルブチュアー・太陽の彫刻)と銘打って置かれている。
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49fd037e.jpg 瑞光トンネル上の展望台から石濱神社の前に通じる道を南下して瑞光橋に出た。隅田川貨物駅は明治30年に石炭の集散地として開設された駅である。鉄道(常磐線)と隅田川の水運を結びつける構造をもち、そのための運河が造られた(昭和28年)。元来この地域は土地が低く、運河の護岸は荷物の揚げ下ろしの関係上、低く造られていたため、満潮時には付近に浸水し、さらに台風などの異常な高潮時には南千住ばかりでなく、浅草方面まで被害をこうむっていた。水門は、この水害を防ぐために建造されたのである。しかし貨物の輸送が船による河川輸送から鉄道 ・トラックによるコンテナ輸送に切り替わると、運河は不用となり昭和45年ごろには全て埋め立てられ、水門もその役割を終えたのである。現在は橋の西側の一帯は瑞光橋公園となっている。
0c6b9f2a.jpg 石濱神社の境内を抜けて、明治通りを横切ると、そのまま街中を南下して、帰宅した。橋場は今月末の石濱神社の祭礼で、今戸は来月5~7日の祭礼で賑わうことであろう。
 今日の記録は10932歩、7.1㎞。

 昨日転倒した時に傷めたらしいふくらはぎが未だ痛いが、休み癖が付いてもと、距離を縮めて歩くことにして、徘徊に出かけた。隅田公園を南下吾妻橋を渡って、墨田区側の遊歩道を北上、白鬚橋を渡って、帰宅する。
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 墨田公園は紫陽花が一斉に色づき始めたようだ。紫陽花にもさまざまな品種があるようである。台東区では2・3年前から「アジサイロード」と銘打って、紫陽花の植樹を進めているらしい。1株2000円の寄付をしたものの氏名とメッセージを記した銘板が3・4か所に設けられている。株主は台東区内外の人々で、すでにかなりの数に達しているらしい。
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addecb79.jpg 相変わらず必ずといっていいほど、隅田川を上り下りする荷役船に出会うが、墨田区側も台東区側も白鬚橋近くは剃刀堤防が川の景観を阻害する。今日もワンさんと出会い、2・3分話をする。爺のブログも良く見てくれているらしく、情報交換が出来る。
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34961a49.jpg 白鬚橋を含む明治通り、橋場一帯の人々は石浜神社の氏子である。今月29日から31日は祭礼であるが、橋の上にも鎮守の区域を示す笹竹が立てられている。
27337927.jpg 橋場のマンション裏の遊歩道にもいろいろな花が植えられているが、いまはやはり紫陽花が一番目立つ。今戸に入る辺りからテラスに降りて桜橋まで歩いてみた。陽気もよくなった所為か、ベンチでお休みの宿無しさんが増えたようにも思える。

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3dc1e94e.jpg 山谷堀水門の前には、消防署の車が止まり、テントが張りメグされ、水門には合同水防訓練の掲示がしてある。どうやらここで、消防署合同の水防訓練が行われるらしい。
 今日の記録は8606歩、5.6㎞。
 

 昨夜は雷を伴った雨が降った。今朝はどうやら雨は止んで、心地よい風が吹いている。
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5a8e8cfb.jpg 山谷堀の広場に出ると川向うに一際高いビルが建った。昨年あたりから、クレーンが載っかかり、建設中とは判っていたが、今はクレーンも取り除かれている。1度近くまで行ってみようとは思っていたが、なかなか訪ねる機会もなかった。今日こそ訪ねてみるつもりで桜橋を渡り、桜橋通りに出ようと高速向島線の下の階段を上り、桜橋通りに出るくだりの階段で、あと5・6段というところで、足を踏み外し下の道に放り出された。ポケットからカメラが飛び出し2・3m先まで吹っ飛んで行った。左足の脹脛(ふくらはぎ)を傷めたらしい。
8bb9c64c.jpg 今朝の徘徊を諦めて、家に引き返そうと階段を上ろうとしたが、傷めたところが痛くて階段を諦め、弘福寺の裏手の道を足を引きずりながら、坂道を登った。この弘福寺の裏手に牛嶋神社があったらしく、内務大臣某の揮毫になる碑が立っていた。長命寺の辺りまでくると、どうやら足の痛みも治まり、目指すビルまで行ってみようと、見番通りに入り、桜橋通りの北側の道を通って水戸街道に出た。目指すビルは目の前に見えるので、水戸街道から脇道に入り、目の前のビルだけを目当てにまるで迷路のような路地を歩いた。
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648df30b.jpg 向島税務署の玄関前に立つと、すぐ目の前に東武線越しに目当てのビルがある。東武線に沿って南へガード乃至は踏み切りはないものかと探しながら歩くと、あんりゃ見たようなところへ出た。円通寺の横道を通って飛木稲荷神社の前に出て、後ろを振り向くと、目当てのビルはかなり遠ざかっていた。東武線のガードを潜るとすぐに京成押上線の踏み切りを渡り、どうやら四つ目通りの方に出たらしい。
4799696c.jpg 後は何処をどの様に通ったのか帰宅後地図を見てみたが良く判らない。いずれにしろ、京成押上線の京成曳舟駅の傍を通って、どうやら曳舟川通りに出た。


1479b4db.jpg ここから、桜橋通りまで南下し、桜橋通りから桜橋を渡って帰宅した。山谷堀広場の隣にある少年野球場のすぐ傍に、名前を知らない黄色の花が咲いていた。ちょっと変わった花なのでカメラに収めた。帰宅後図鑑で調べたが、よく判らない。
 本日の記録は8161歩、5.3㎞。

6c2bee7d.JPG 昨日と同じような曇り空。昨日のテレビの予報を信じて、桜橋のところまで来ると色付き始めた紫陽花がある。近寄ってみるととくに青色が鮮やかである。葛飾北斎の花鳥画に「紫陽花に燕」というのがあったが、今年はまだ燕を見ない。昔の木造の家には大抵燕の巣が作られており、この時節になるとよく見かけたものだが、コンクリートのマンションでは燕も巣作り出来ないのかもしれない。近年、燕の姿もすくなくなったようである。北斎の絵では紫陽花の色ははっきりしないが、現代(いま)は写真のお蔭で紫陽花の七変化もよく判る。
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89859d01.jpg 紫陽花の花の色は、anthocyanin(アントシアニン、色素の一種)のほか、その発色に影響する補助色素(助色素)や、土壌のpH(ペーハー、酸性度)、アルミニウムイオン量、さらには開花からの日数によって様々に変化する。そのため、「七変化」とも呼ばれている。一般に「土壌が酸性ならば青、アルカリ性ならば赤」と言われているが、土壌のpHは花色を決定する要因の一つに過ぎないらしい。花弁(正確には萼《がく》で装飾花、本来の花は中心部で目立たない)に含まれる補助色素によっては青になり得ない・なり難いものがあるほか、pHは地中のアルミニウムがイオン化する量を左右する要因に過ぎないため、仮に酸性土壌であっても地中のアルミニウムの量が少なければ花が青色になることはない。また、初めは青かった花も、咲き終わりに近づくにつれて赤みがかかっていく。「あじさい」の名は「藍色が集まったもの」を意味する「あづさい(集真藍)」が訛ったものと言われる。漢字表記に用いられる「紫陽花」は唐の詩人・白居易(772~846年)が別の花(Lilacか?)に名付けたもので、源順(みなもとのしたごう、911~983年)がこの漢字をあてはめたことから誤って広まったといわれている。
de484846.jpg 桜橋を渡り、高速向島線を潜って、見番通りから墨堤通りを北上する。地蔵坂近辺まで来ると、冷たいものが顔に当たるようになる。どうやら小雨が降ってきたようである。明治通りまで来ると、雨は大したことはないとは思ったものの、ここから水神大橋まで回る間に本降りになってはと、右手に東白鬚公園を見て、白鬚橋を渡り、件の遊歩道を南下して帰宅することにした。今日も、お天気に騙されたようで桜橋まで来た時には薄日さえ射し出していた。
cc1458b9.jpg 今は、何処も皐月が満開で、ビルの玄関先や歩道沿いによく見かける。桜橋を過ぎてスポーツセンター脇を通っていると、まあ、一面真っ赤に皐月が咲いている。一体全体躑躅と皐月何処が違うのだろうか? 躑躅は春の季語であり、皐月は夏の季語であるから、先に咲くのが躑躅、後に咲くのが皐月ということぐらいしか判らない。まあ、概してオオムラサキなどの躑躅と比べれば葉っぱも花も小粒のようだ。まあ、それにしても此処の皐月は葉っぱの緑が覆い隠されるほどの満開振りである。よく見ると先ほどの雨に打たれたと見えて花びらに付いた水滴が、射し始めたお日様をキラキラと反射させていた。
 本日の記録は6813歩、4.4㎞であった。
 今にも降り出しそうな天気。生暖かい南風が吹いている。
e8621195.jpg 隅田公園を南下、言問橋を潜ると土手の上の遊歩道に上がってみた。目の前に東武の隅田川橋梁が横たわる。橋長166mの鉄道橋梁で、別名、花川戸鉄道橋(はなかわどてつどうきょう)とも呼ばれているそうである。この橋は、東武鉄道が浅草駅まで延長するために隅田川に架けた橋で、隅田川の景観に配慮するためと車窓からの隅田川の景観を考慮して、高いトラス橋にせず架線柱に曲線のデザインが取り入れられたという。また、計画の際には隅田公園を通る路線が計画されていたが、隅田公園の景観を損なわないよう公園を避けるようにルートの設定がなされたそうである。1949年まで橋のすぐ東側に隅田公園駅(今の枕橋茶や辺り)が設けられていた。この橋はデザイン性の高さとしては誇るべきもので、戦後間もなく進駐軍から設計図の提出を求められたという。さらに、浅草駅入線に際する運転の制約上、この橋梁付近での制限速度は15km/hとなるほか、両渡り線が設置されている。橋梁上に分岐器は設置されないのが通例であるが、浅草駅よりの高架区間に設置するスペースがなく、やむを得ず設置されているものである。列車がゆっくりとこの鉄橋を渡る風景は非常におだやかで、鉄橋のつくりも相俟って、現在は浅草の情緒を引き立てる役となっているという人もいる。こんなことを考えながら、鉄橋から浅草駅に入る早朝の上り電車を撮ってみた。
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7f3dd297.jpg 吾妻橋を渡っていると、橋の下を大きな音を立てて荷役船が通過していく。カメラを取り出し橋の上から再び東武の隅田川橋梁を撮る。今日はいつ降り出すか判らないような天気だったので、出来るだけ家から離れないように近辺を歩くことにして、枕橋にかかると橋の袂に梅か、桃か青い実をつけた木が茂っている。枕橋を渡ると、桜橋までテラスを歩いて見ることにした。
d4b60dac.jpg 桜橋でテラスから遊歩道に上がると、ところどころ夏草の生い茂っているところがあるが、芒(のぎ)のある雑草が多くなった。そういえば、間もなく芒種(ぼうしゅ)を迎える。いやまさに、今の時期を初夏と言うべきなのだろう。
 白鬚橋を渡り、清川町と橋場を分かつ境の通りを南下して、帰宅した。本日の記録は9100歩、5.9㎞。
 二十四節気では、本日およびこの日から芒種(ぼうしゅ)までの期間を「小満」という。暦便覧には「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されていて、一年のうちでも農家のもっとも忙しい時期とされる。
702b4589.jpg 5時に家を出る。おやおや珍しくSS氏がパジャマ姿で、植木に水をやっているではないか。兼愛塾創設の頃の塾生であり、同じ町内でしかも同じ番地の区画に住んでいるのに、顔も忘れてしまうほど長い間会っていないようである。「おや、Sくん?」こちらから声を掛けると、如雨露(じょうろ)をおろして「ああ、日高先生?」と応えてくれた。4・5分ばかりかつての塾友の消息等を話した後、自作の名刺を渡して、爺のメールアドレスを教えておいた。「そのうち皆を誘って、話しに行きますよ」と言ってくれた。「歳を取って、植木に興味を持ちましてね」と言うが、彼ももう50代の半ばになるだろう。
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75465d44.jpg 言問橋を渡り、三つ目通りが言問通りと交差して水戸街道になる言問橋東詰めにかかる所で、前方でババァーン! という大きな音がしたので、前方を見ると、紺色の車が横転するところが目に入った。すぐ傍のコンビニの店員さんらしき人が、駆けつけていた。横倒しになった車のガラス越しに内部を見ると、後ろの半開きになったバンパーから声を掛けていた。どうやら返事はあったようである。ぶっつけたほうのタクシーの運転手はガラス越しに姿が見られあまり大きな怪我は無いようだが、車の前部はかなり損傷を受けたようだ。
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649a3290.jpg 東武線の業平橋駅前から東武橋に出る。東武橋から東京スカイツリーの工事の進捗状況を見ていると、今しも建設中のスカイツリーの背後からご来光と言うところであった。工事も大分進んでいる模様。

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a29fdbf0.jpg 浅草通りに出て、業平橋から大横川親水公園に下りようとしたが、ここは午前9時までは通行止めらしい。大横川と並行する西側の道を平川橋まで南下し、親水公園に降りる。横川橋(春日通を通す)、紅葉橋、報恩時橋(蔵前通りを通す)、清平橋、長崎橋(北斎通りを通す)、総武線橋梁を潜り、江東橋で公園から京葉道路に上がる。
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 京葉道路を只管西進、回向院の前で両国ぶらり街角展の立て札等を読んで、回向院に入ろうかどうしようかと迷ったが、あまり時間もないようなので、そのまま両国橋まで出て、何時もの親水テラスに降りると、吾妻橋まで、北進してテラスを上がり、吾妻橋を渡り、隅田公園を通って帰宅した。
 本日の記録は12861歩、8.3㎞。
 本日は桜橋を渡ると隅田川に沿って遊歩道を南下。何時もなら枕橋を渡るとすぐ右折する所であるが、そのまま真っ直ぐに墨田区役所の玄関前を通り、吾妻橋の東袂に出た。途中上を見上げると吾妻橋上から見えるスーパードライホールを丁度裏側から見る形になる。このスーパードライホールは墨田区吾妻橋にあるリバーピア吾妻橋敷地内のアサヒビールの吾妻橋本部ビル(アサヒビールタワー)に隣接するホールである。1989年竣工。
f15d8ba3.jpg フランスのPhilippe Starck(フィリップ・スタルク、1946年生れ)というデザイナーによる設計だそうだ。隅田川の吾妻橋のたもとにあった旧吾妻橋工場跡地の再開発で建造された。屋上には特徴的な巨大モニュメントが設置されている。本来は燃え盛る炎を形象した「フラムドール(フランス語 flamme d'or、金の炎)」と呼ばれるもので、アサヒビールの燃える心を象徴する「炎のオブジェ」とされる。 しかしその形状と色彩から、見る者の中には排泄物を連想する者もおり、しばしば「ウンコビル」の別名で呼ばれることがある。
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5a490df9.jpg 吾妻橋東からテラスに降りてテラスを南進。厩橋に差し掛かるところで何時ものようにT氏と出会う。隅田川に向って準備体操をされているところであった。このあと、きっと素振りの練習が始るのだろう。2・3分話をして別れ、更に何進。両国橋でテラスから上がり、両国橋を渡って、柳橋に出た。
c082d594.jpg 両国橋の歩道と車道を分ける手摺欄干は、近くの国技館や両国の花火をモチーフにしたレリーフで飾られている。柳橋もよく見ると、欄干にそって行儀よく出っ張りが並び、紅玉・青球(たぶんルビー・サファイアを意識したものか?)を埋め込んだレリーフの簪が置かれている。

529dffb1.jpg 何時ものように、榊神社の前を通り、蔵前橋通りに出た。榊神社の横入り口で、狛犬さんが今月末に行われる祭礼を待っていた。江戸通りを吾妻橋まで来ると隅田公園にはいり、公園を抜けて帰宅した。本日の記録は11699歩、7.6㎞であった。
354f6d74.jpg 隅田公園の紫陽花が咲き始めた。三社の祭礼が終ると浅草近辺は土・日は今戸神社・玉姫神社・石浜神社と、祭礼が続く。桜橋を横目に件(くだん)の遊歩道を白鬚橋まで北上。明治通りを横切ると、遊歩道には上らず、石浜神社の横を通って、瑞光橋まで北上。
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403ac744.jpg 瑞光橋の西側の歩道を通り、瑞光橋の下に広がる瑞光橋公園を写真撮影。瑞光橋公園は、明治時代に隅田川貨物駅(現JR貨物隅田川貨物駅)を開設した際に設けられた鉄道と貨物船を結ぶための運河跡地に造られた。瑞光橋公園は、隅田川の入り江を生かして造られているのが特徴で、入り江の北側には土と緑の堤防を設け、憩いの場として利用出来る。また、公園の西側には、アスレチック遊具がある「わくわく広場」やローラーすべり台がある「すべり台広場」を設けるなど、子どもも楽しめるようになっている。
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bb6f3443.jpg 白鬚ポンプ場の横を通って、バーベキュー広場から汐入公園内のさくらばしを渡ることにした。この橋の西側には水神大橋から南千住駅まで「えのき通り」が通っている。隅田川が大きくカーブする所にあり、橋の上から対岸のシティーヌーブ北千住30や最近新しく出来て只今入居者募集中のイニシア千住曙町が真正面に見える。
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faf755c1.jpg さくらばしを渡り、水神大橋の西詰めに汐入公園の案内図がけいじされていたので、参考のためカメラに収めた(今朝の徘徊ルートを赤線でたどってみた)。テラスに降りて、水神大橋を潜り、瑞光橋公園を通って、明治通りに出る。同じ道を引き返すのも能がないので、橋場1・2丁目、今戸1・2丁目の街の中をあちこちと徘徊して、帰宅した。10225歩、6.6㎞を記録していた。

d472f528.jpg 本日は朝から雨、しかも本降りの様子。今日は昨日から上京しているYK兄と横浜のIN兄が11時15分に浅草で待ち合わせて、我が家を訪ねてくれることになっている。2人とも高校時代のポン友である。午前中は時代劇劇場の「鬼平犯科帳」と「剣客商売」を観る。11時近くにYM嬢が先日のJ-COMのウォーキング教室のビデオが見たいと来訪。早速ビデオをセットしたところにTK氏が来訪。雨のためか、すでに二の宮は町内を通過したということであった。2人でビデオを見てもらうことにした。
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ad439776.jpg そこへ、YK兄とIN兄が来訪。しばらく、先客は婆様に任せて、爺は旧友と仕事場で昔話等をして、11時45分頃、3人で予約してあったレストラン大坂屋に出掛ける。ここの兄妹は2人して、かつての兼愛塾に通った、塾友である。妹のSちゃんが事前に連絡してくれたのかAちゃんを呼んでくれた。Sちゃんの母上までお店に出て来て挨拶してくださり、恐縮した。兄上のH氏ともお会いしたが、厨房で忙しそうだったので、写真に撮ることはできなかつた。2時間ぐらい大阪屋で話が弾み、大坂屋を出たのは2時過ぎになっていた。
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c57873ad.jpg 馬道まで、裏通りを通って家路に着いたが、途中道引き地蔵尊をみたり、路地裏でお囃子の演奏をやつているのをみたり浅草の風景をみてもらった。YK兄の友人に池波正太郎のファンがいるとのこと、待乳山公園の入口にある池波正太郎の碑のところで、写真に収めた。この場所には神酒所が設けられてあり、町内神輿も飾られている。
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2476a18d.jpg 一旦家に帰り、しばらく話し込んでいたが、4時頃になりあまり夜遅くなってもと、江戸通りまで送って出た。彼らと別れると、小松通りの方から近付いてくる神輿(二の宮)が見えたので、写真に収めてみた。神輿を写真に撮るのは難しいものである。とくに担ぎ手をカメラに入れるのは難しい。
c88ddd60.jpg 家に帰ろうとT家の前を通るとこれも兼愛塾の塾生だったMちゃんが三社祭りで里帰りしたのか、ご両親と一緒に家の前で談笑されているのに出会った。




 

プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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