瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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732e7460.jpg 隅田公園を吾妻橋まで南下。言問橋の上のご来光が川面に反射して、美しい。吾妻橋を渡って、枕橋から三囲神社・弘福寺・長命寺の裏手にあたる墨堤通りの歩道を通って、墨田区少年野球場前に出る。ここから墨堤通りをさらに北上、白鬚橋を渡ると明治通りを少し西進し、橋場と清川の境の通りを南下帰宅した。9635歩、6.2㎞の徘徊であった。
 墨堤通りには白鬚神社の、橋場には石濱神社の「大祓」神事の貼紙が目に付くが、今戸神社の境内には未だ「茅の輪」は設置されてはいなかった。しかし、夏越の祓の神事は行われるようである。
ae899b5b.JPG 大祓には「形代」(撫物ともいい、紙を人の形に切り抜いたもの)に、名前と年齢を書き、さらにその形代で身体を撫でて息を吹きかける。そうすることにより、自分の罪穢(ざいあい)を移し、それを海や川などに流しわが身の代わりに清めてもらうのだという。また、合わせて、疫病や罪穢を祓う「茅の輪くぐり」を行う。
16bbee34.JPG 「茅の輪くぐり」は、氏子が茅草で作られた輪の中を左まわり、右まわり、左まわりと八の字に三回通って穢れを祓うものである。『釈日本紀』(卜部兼方《うらべかねかた、生没年不詳》著、鎌倉時代中期に出来た日本書紀の注釈書)に引用された『備後国風土記』逸文にある「蘇民将来」神話では茅の輪を腰につけて災厄から免れたとされ、茅(ちがや)の旺盛な生命力が神秘的な除災の力を有すると考えられてきた。また、茅の輪の左右に設置する笹竹に願い事を書いた短冊を振下げ、七夕に河川に流すといった俗信仰は、書初めをどんどん焼(路上での飲食に適した小麦粉主体の焼き物料理)で焚くと筆が上達するといった行事と対応しているという。
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2fc77dae.jpg 言問橋を渡ると見番通りを北上、三圍神社の前を通り、さらに墨堤通りを北上。白鬚神社では6月30日の大祓(おおはらえ)にそなえて、本殿の前に「茅の輪」が作られ、その潜り方まで説明してある。東白鬚公園では、隅田川神社の境内に入ってみたが、ここにも「茅の輪」が設けられていた。何時ものように水神大橋を渡り、汐入公園、隅田公園の遊歩道を通って帰宅した。桜橋中学では2基の風力発電が設けられ環境学習に活用しているという。この風車止まっていることが多いが、ほんとうに活用されているのだろうか?
 三圍神社の石碑の由来書によれば、『千年余り前の創建で文和年間(1352~1356年)に近江の三井寺の源慶というひとが復興し、元亀年間(1570~1572年)に大災を受け再建、慶長年間(1596~1614年)に隅田堤築堤のために2丁ほど南に移された』とる。
元禄6年(1693)の雨乞神事で名を知られ、享保元(1716)年に三井氏族によって正一位の位を得、明治6年に小梅村鎮座稲荷神社から三圍神社(みめぐり)に改称した。
 祭神は宇迦御魂命(うかのみたまのかみ、古事記では、スサノオの系譜において登場)である。
新編武蔵風土記稿によれば往古は田中稲荷と称したようで、以下の縁起が書かれている。
『弘法大師が稲荷像を彫刻していたとき、杯に梅の実がひとつ忽然と現れたので縁ある土地で我を待てと空
に投げ上げた。それが当地に育ち(それでここを梅香原という)弘法大師が当地に至ったとき祠が築かれたが、いつか祠は壊れたままになった。文和年間(1352~1356年)に三井寺の僧源慶がこの梅の樹に至って霊感を得てそこを掘ると壺が出た。その壺には右手に宝珠、左手に稲を持って狐に乗る神像がはいっており、このとき白狐が現れて周りを三回まわったので三圍と称した。源慶が所持していた伝教大師作の延命地蔵像を合わせて草堂に移し、後に社と寺を造営して延命寺と名付けた。その後元亀年中(1570~1572年)に火災により寺社ともに全焼したが、天正年中(1573~1591年)に再建、慶長年中(1596~1614年)に堤を築くにあたって当地に移転した。』(延命寺には大岡政談の縛られ地蔵などがあるが、現在は葛飾区東水元8に移転している)
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ff557f92.JPG 江戸名所図会によれば元禄六年(1693)に村民が雨乞いをしたおり、俳人の榎本其角(1661~1707年)が参詣し村民に代わって『夕立や田をみめぐりの神ならば』の一句を奉っており、これ以降に当社の名が広まったという。
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b6410bb2.JPG 明治以降では三井財閥系の信仰が厚く、裏手には昭和の軍閥とのつながりがうかがえる石碑があります。境内に三越のマークを刻んだ用途不明の大きな石がありますが、これも呉服の越後屋との関係とみえる。
「文政寺社書上」に『旧地は大川中島にあったが、家康入城後に川一筋に相成り…社地拝領』とあり、天正日記(内藤清成《1555~1608年、譜代》の日記)には家康入城の年(1590年)に隅田川で洪水があり堤を築く記述がある。また、当社縁起に旧地は現在地の北2丁(218m)とあり、現在の隅田堤が折れ曲がった部分に相当し、旧地は隅田川中洲の先端部分にあったことが推定される。その位置と雨乞い逸話を含めればその原形は隅田川が分流する分岐点に祀られていた水神であり、文和年間(1352~1356年)に延命寺が建立されて神仏が習合、江戸市街の発達に伴って稲荷信仰が加わり、三井系氏族の奉斎によって商業関連が前面に出たものであろう。
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901a64ca.jpg 本日は3日振りの徘徊。駒形橋を渡り、水戸邸庭園から牛嶋神社、墨堤通りの歩道を北上。白鬚橋を渡り、橋場からテラスを桜橋まで南下して、帰宅した。
 牛嶋神社は、貞観2(860)年に御神託によって須佐之男命を祀り、後に天穂日命(下註参照)を祀り、ついで清和天皇の貞辰親王(第7子)を祀って王子権現と称す。本所区向島須崎町に鎮座していたが、昭和初期に現在地(水戸藩邸跡地)に移転。
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41e6aaa6.JPG 註:アマテラスとスサノオが誓約(うけひ)をしたときに、アマテラスの右の角髪(みずら)に巻いた勾玉から成った。物実の持ち主であるアマテラスの第二子とされ、アメノオシホミミの弟神にあたる。葦原中つ国平定のために出雲のオオクニヌシの元(もと)に遣わされたが、オオクニヌシを説得するうちに心服してその家来になってしまい、地上に住み着いて3年間高天原に戻らなかったとされる。
新編武蔵風土記稿(昌平坂学問所地理局による事業。1810年起稿、1830年完成。全266巻)に書かれる縁起に曰く。『貞観2(860)年頃、慈覚大師(円仁)が当地に至ったとき衣冠を着けた老翁が現れこう言った、もし国土が乱れることがあれば我が牛頭を戴いて守護するであろう、我の姿を写し社を造立せよ。これが当社の御神体であり素盞鳴尊である。牛頭を戴いて守護とのことから、慈覚大師は牛御前と号して本地として大日の像を彫り、また釈迦像も彫った。弟子の良本阿闍梨がこの地に残って明王院(牛宝山明王院最勝寺は江戸末期では現在の東駒形2にあった、現在は江戸川区平井)と牛御前を建立(御神体は姿を写した書画)。また、清和天皇の皇子(第七子、貞辰親王)が故あって東国に移され、天慶元年(938)に亡くなられたとき、良本阿闍梨が当社傍らに葬して祀り、相殿とした。王子権現がこれである。治承4年(1180)源頼朝が下総に至るとき洪水で渡る道がなく、千葉介常胤が祈願し船筏をもって渡ることができた。翌年頼朝は社領を寄進し、以後代々の領主が神領を寄進した。天文7(1538)年に後奈良院より「牛御前」との勅号を賜わる。宝物には千葉氏関連の刀剣や旗指物などがある。建長年中(1249~1258年)に浅草川から牛鬼のごとき異形のものが飛び出し、島中を走り回り当社に飛び込んで忽然と姿が消えて社壇にひとつの玉を落とした。これが社宝の牛玉とされるが古い話なので危うい。』
 呼称は牛御前社。江戸名所図会にもほぼ同様の縁起が書かれている。呼称は牛御前王子権現社。
神社の縁起では配祀に天穂日命があるが、新編武蔵国風土記稿にも江戸名所図会にも天穂日命は書かれておらず2坐のみであるが、江戸名所図会に貞辰親王を相殿にした後に「霊告ありて素盞鳴尊第2の御子にて、仮に清和帝の皇子として生を替えたものなり云々」の興味深い1文がある。素盞鳴尊の第1子、第2子をだれとみるかは当時の考え方によるが、これが後に配祀となっている出雲臣族の祖の天穂日命に変化しているのかもしれない。対岸の浅草寺縁起では天穂日の後裔の土師(はじ)氏、大鷲神社(足立区花畑)にも土師氏が登場しているから、隅田川東岸にも天穂日命が祀られていても不思議はなく、その天穂日命に貞辰親王が重なって江戸時代では2坐のみになっていた可能性もある。
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d90c4884.JPG 江戸名所図会では牛御前の名称由来を牛島の御崎からであろうという説を紹介している。文武天皇(697~706年)時代に各地に官営の牛馬の牧が設営されたとき、当地にも「浮嶋の牧」が設営されており、明治となってからも乳牛が飼われていたという。慈覚大師の牛頭天王よりはるか昔から御牛がいたわけで、牛御前は「牛のおん前の社」というのが正解なのかもしれない。
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26a82258.JPG 新編武蔵国風土記稿に「源頼朝が下総に至るとき洪水で渡る道がなく、船筏で渡った」の記述があるが、洪水のために「道がなく」ということは、通常は歩いて渡っていたことを示す。当時の隅田川はこのあたりで東西に分流して浅瀬になっており、軍馬を含む軍勢はそこを渡っていたことが推定される。鳥越神社縁起にある源義家の渡河、遡れば日本武尊の渡河も同じ場所だったのかもしれない。
 図会の左手の堤が折れ曲がっているが、風土記稿には折れ曲がった向こう辺りまでが古来からの隅田堤であり、折れ曲がったあたりから手前が牛島堤であるとあります。家康入城直後(1590年頃)に牛島堤が築堤されて隅田川の分流部を遮断した可能性があるという。
図会の長命寺の南に「芭蕉庵」と書かれている。芭蕉は住まいを何度も替えているが、江戸での最後の住まい(1694年頃)が此処だったのかも知れない。
8422340b.JPG 今朝は朝から雨。徘徊もできず、つれづれに任せて隅田川周辺にはどれくらいの神社があるのだろうかと、指折り数えてみた。いやはや今まで、回った神社だけでも20社を越えるようだ。その来歴についてはそこそこのことを調べて、今までも記してきたが、復習を兼ねて今一度調べなおしてみようと思い立った。そこで、昨日徘徊した第六天榊神社から、その社歴を調べてみた。まあ、こんなことを書いても、根気のない爺には何時まで続くか判らんが…。
12d0bee3.JPG この神社を第六天榊神社というのはどうやら、古事記による神世七代の国常立尊から数えて第六代目の天つ神を祀ってあることに拠るものと思われる。日本武尊が東征の折にこの地に斎庭(まつりのにわ)を定めて面足尊(おもだちのみこと)と惶根尊(かしこねのみこと)の夫婦神を祀り、白銅の宝鏡を納めて東国の平安と国家鎮護を願ったことを縁起としているという。
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34f85caa.JPG この辺りは武蔵野台地の東端にあって、はるか昔に白鳥が去来する地であったことから白鳥の丘と呼ばれていたらしいが、後に鳥越の丘とよばれるようになったという。現在の鳥越周辺は平坦であるが、江戸初期に江戸市街の土木工事用に丘が取り崩されて平坦になったとされている。旧社地は森田町(現:蔵前2丁目付近)にあったが、元和6(1630)年に江戸幕府が付近に米倉を作り、それが拡張されたために享保4(1719)年に浅草榊町(現:柳橋1、江戸末期で浅草茅町)に移転し、浅草御蔵の鎮守として第六天神あるいは第六天神宮と称された。榊神社の名称は明治6年からで、大正12年の関東大震災によって現在地に移転し、全国の第六天を祀る社の総本社となったといわれている。
9a5f7a67.JPG 江戸名所図会(江戸は神田の名主斉藤家の3代にわたって書き継がれた地誌。長谷川雪旦《1778~1843年》に挿絵を依頼)によれば「榊神社」は鳥越(現、鳥越二丁目)にあった「鳥越三所明神」のひとつであったとあり、正保2(1645)年にこの地が公用となったためにわずかな地に鳥越神社を残して、1社は熱田神社として山谷掘(清川一丁目、現:今戸二丁目)に移転。もう1社は第六天社として浅草大蔵前森田町に移転、その後、享保4(1719)年に火災により「浅草御門外」に移転したとある。江戸名所図会の絵は浅草御門外の図と思われる。
 江戸通りを南へ、何時ものように、榊神社から柳橋を渡り、両国橋に出る。両国橋東からテラスを北上、吾妻橋からは遊歩道を通って桜橋を渡って帰宅した。本日は11299歩、7.3㎞を徘徊した。
3cbba8a0.jpg 榊神社の狛犬の横に「大祓(おおはらえ)」の予告貼札が出ている。大祓(おおはらえ)とは、6月と12月の晦日(みそか、新暦では6月30日と12月31日)に行われる除災行事で、犯した罪や穢れを除き去るための「祓え」の行事と信じられ、6月の大祓を夏越の祓(なごしのはらえ)、12月の大祓を年越の祓(としこしのはらえ)といわれている。701年、大宝律令によって正式な宮中の年中行事に定められ、この日には、朱雀門前の広場に親王、大臣(おおおみ)ほか京(みやこ)にいる官僚が集って大祓詞(おおはらえのことば)を読み上げ、国民の罪や穢れを祓った。衣服を毎日洗濯する習慣や水などのない時代、半年に一度、雑菌の繁殖し易い夏を前に新しい物に替える事で疫病を予防する意味があった。その後、百年ほどは盛大に行われたが、次第に衰え応仁の乱の頃から行われなくなったという。江戸時代(1691年)に再開され、次第に広まったらしい。1871年の太政官布告にて明治新政府により「夏越神事」「六月祓」の称の禁止と「大宝律令」の「大祓」の旧儀の再興が命じられ、全国の神社で行われるようになった。戦後には「夏越神事」「六月祓」の称も一部では復活し、現在に至っているという。
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6b6ef081.jpg 柳橋に出る。ここ神田川の沿岸には現在においても舟宿(ふなやど)が立ち並んでいる。舟宿とは屋形船や釣舟を業とする商業施設のことで、宿と称しているが宿屋ではなく船の貸し出しを生業(なりわい)とするが、遊里に程近い舟宿の場合は二階に休息所などを設ける場合もあった。このような休息所は社交場として人気が高く、遊里に通う客などに愛された。江戸や大阪などには川が多く、遊び客にとって舟宿は欠かせない存在であったのであろう。特に江戸は縦横に河川や運河がめぐらされており水運都市だったため、随所に船宿が存在したのである。
895761ea.jpg 桜橋を渡っているとテラスに向日葵の大輪が咲いているのが目に付いた。向日葵という和名の由来は、太陽の動きにつれてその方向を追うように花が回るといわれたことからつけられたというが、この動きは生長に伴うものであるため、実際に太陽を追って動くのは生長が盛んな若い時期だけであるという。原産地は北アメリカで日本への渡来は17世紀といわれる。
 桜橋を渡り、墨堤通りを北上。東白鬚公園で久し振りに梅若橋を越えて、新装なったイニシア千住曙町のテラスを通って千住汐入大橋に出る。これを渡って、汐入公園のさくらばしを北側から渡り、西白鬚ポンプ場の前から瑞光橋・石濱神社を通って帰宅した。
7046954e.jpg 墨堤通りに面するところは、何処も鉄筋のマンションか株式会社ばかりで味気ないが、墨田区の屋内プールの前に2軒ほど並んでしもた屋風の昔ながらの和風建築の家がある。こういう風景をみると何となくほっとする。「じまん草餅」の店が取り壊されて平地になっている。建替えになるらしいが、これも味気ないコンクリート作りの風情のない店舗になるのだろうか。
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6f296f11.jpg なんだか、どこもかしこも前に撮ったような風景で、カメラのシャッターを押す回数が少なくなったようだ。きょうは、遊歩道を避けて街中を通ってみたが、これといって変わった様子もない。
 12167歩、70.9㎞の道のりをぼんやりとした頭で、ふらふらと歩いたわけだ。

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f1e3e548.JPG 6月18日(木)の夕刊に門司出身の写真家の記事が掲載されたので、これをスキャンし、門司の関係者にメールして問い合わせた。曰く、「2枚の貼付文書は6月18日(木)の朝日新聞の夕刊に載ったものです。藤原新也という写真家は、昭和19年門司港の藤之屋という旅館の2男坊だそうです。15歳まで、門司にいたといいますが、昭和33(1958)年関門国道トンネルの開通に伴う地画整備のため旅館が撤去になり、別府に移ったといいます。どなたか「藤之屋」という旅館が門司港のどこにあったのか、また藤原新也という写真家の出身小学校をご存知の方がいらっしゃいましたらお教え下さい。宜しくお願いします。」
816b77d1.jpg 江戸通りを蔵前橋通りまで南下。例の如く柳橋に出て、両国橋西でテラスに降りる。ここから新大橋をわたり、一の橋通りを北上。京葉道路に出ると、両国橋の東からテラスに降りる。吾妻橋を渡り、公園沿いの道を通って、帰宅した。本日の記録は13313歩、8.6㎞となった。
 桜橋まで来ると、カメラを忘れて来たことに気付いた。取りに帰るのも面倒だし、そのまま桜橋を渡り、墨堤通りを北上、東白鬚公園を抜けて水神大橋を渡り、川沿いの遊歩道を桜橋まで南下して、帰宅した。というわけで、本日の記録は9814歩、6.3㎞とあった。
 いやはや、写真の無いブログも間が抜けているので、インターネットからの写真を拝借することにした。
 墨堤通りに入り、アサヒビール配送場を過ぎた所に、なんでも本社は大阪だという共栄倉庫株式会社の東京支社がある。そのビルの前に「大倉喜八郎別邸」という説明板がある。彫り字に流した黒ペンキが剥げて読みづらいが、曰く、『この一角は、田沼意次にとり入り、養女を大奥にいれて権勢をほしいままにした。中野碩翁の別邸跡で隅田川に面してを贅こらしていた。そこを明治の政商、大倉喜八郎が受け継ぎ、大蔵別邸としていた。邸内の川に面して建てられていた「蔵春閣」は船橋の「ららぽーと」に移築されている。(共栄倉庫株式会社)』
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 大倉喜八郎(1837~1928年)は新潟生まれの実業家で大倉財閥の創設者。父は新発田藩の大名主(おおなぬし)であったが、18歳で上京、乾物屋を営んだ後、慶応元年(1865)大倉屋銃砲店を開業、戊辰戦争に際し官軍御用をつとめて巨利を得たという。明治6(1873) 年大倉組商会を設立し、貿易業に着手、7年(1874)の台湾出兵や日清・日露戦争で軍の用達商として活躍した。朝鮮・中国における投資にも積極的で、帝国ホテル等も含め内外に多くの事業を展開し、大倉財閥を築いた。また、教育にも関心をもち、明治33 (1900)年大倉商業学校(現東京経済大学)を創立。大正4年(1915)男爵となる。なお、ホテルオークラは長男喜七郎(1882~1963年)の創設になるという。
 江戸通りを南下して、何時ものように蔵前警察署の横から柳橋までくると、なにやら冷たいものがポツリと来た。新大橋まで足を伸ばそうと思ったが、靖国通りを横断した所で、本降りになってはと両国橋を渡り、引き返すことにした。
4fc9131b.jpg 写真の「もゝんじや」とは、両国で9代続くという「しし鍋」を食わせてくれる店である。ももんじ屋(ももんじや)またはももんじい屋とは、江戸近郊の農村において、農民が鉄砲などで捕獲した農害獣の猪・熊や鹿を利根川を利用して江戸へ運び、肉食させたり、売ったりしていた店のことである。この外牛肉や馬肉は勿論、犬や猿の肉まで肉食させたり、売っていたらしい。表向きは肉食忌避があったから、これらを「薬喰い」と呼んで、猪を山鯨あるいは牡丹、鹿を紅葉などと称したという。江戸では両国広小路、あるいは麹町にあった店が有名であった。獣肉を鍋物にしたり、鉄板で焼いたりし食べていたようで、近代のすき焼きや桜鍋の源流と言えそうだ。幕末には豚肉(猪肉)食が流行し、これを好んだ最後の将軍、徳川慶喜は豚将軍とか豚一殿とあだ名された。これら肉食文化は明治初期の牛鍋の人気に繋がっていったという。
8f8f25ec.JPG 「もゝんじや」の名前の由来については、関東地方で妖怪を意味する児童語のモモンジイ(百々爺=江戸時代の瘋癲爺)に由来しており、江戸時代には尾のある獣や毛深い獣が嫌われてモモンジイと呼ばれたことから、それらの肉を扱う店も「ももんじい屋」と呼ばれるようになったという説があるそうだ。

ff372451.jpg 京葉道路を横切ると、両国橋のほうへ引き返し、テラスに降りる。何時ものように吾妻橋まで川沿いに北上。墨田区役所裏から枕橋を渡り、さらに桜橋を渡って帰宅した。雨のほうはちょっとパラ付いただけで、薄日さえさしだした。Made in chinaのomron万歩計によれば、本日は11574歩にして7.5kmの徘徊だと。

 夜中にかなりの雨が降ったらしいが、朝になってどうやら上がったらしい。言問橋を渡り、常泉寺の手前から水戸街道と曳舟川通りの間の路地を北上した。
bc29ab27.JPG 言問通りから2本目の路地に、曹洞宗・普門山・圓通禅寺というのがあった。『新編武蔵風土記稿』(文化・文政期に編まれた武蔵国の地誌)に「圓通院(庵)本尊正(聖)観音ヲ安ス小庵ナリ元禄年中須崎村弘福寺開山鉄牛穏棲ノ旧跡ナリ----」と記されているという。
 桜橋通りから水戸街道を明治通りを北上し、白鬚橋を渡って、川沿いに遊歩道を通って帰宅した。
d6bd68a5.jpg 桜橋に近付いた所で東京スカイツリーの工事現場を撮ろうとカメラを構えていると、桜橋を潜り川を上る引き船が上ってきた。この辺りは1960年代に対岸で高速道路の工事が始まり、70年代からは向島線が開通、それに合わせるように山谷堀の埋め立てが行われ、今の水門が設けられた。続いて、80年代には桜橋が掛けられ、川ッぷちはテラストしてせいびされ、景色を一変させてしまった。そして、今またこの向こうに高い東京スカイツリーが立つという。
2408a0ba.jpg 待乳山聖天の信号の街路樹(スズカケ)の根本にCanna(カンナ)の花が咲いている。Cannaは、夏から秋にかけて色鮮やかな独特の花を咲かせる半耐寒性多年草の球根植物というが、原産地は熱帯・亜熱帯アメリカで、日本には江戸初期に渡来し、日本全国に広まったという。葉は横幅があり長く、光沢に富んでおり、先端が長楕円形をしている。
 本日の記録8463歩、5.5㎞。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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