瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
五条天神社は日本武尊が東征のおりに上野忍が岡を通った時、薬祖神二柱に加護を受けたことを謝して、此の地に両神を祀ったことを縁起とし、幾度か変遷を重ねて昭和3年9月に創祀の地に最も近い現在地に遷座したという。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の若い頃の名)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱、菅原道眞を配祀する。
江戸末期の地図の現在地のすぐ北に牛頭天王社(別当は寛永寺末寺の妙教院)があるが現存していない。牛頭天王社は平安末期~戦国時代の疫病退散の関連で登場する社で、当地の牛頭天王の縁起は判らないが、明治の神仏分離で消えたか、五条天神社に吸収されている可能性もありそうである。
五条天神社に隣接して花園稲荷社(御祭神、倉稲魂命)があるが、旧名は忍岡稲荷で寛永寺建設に伴って勧請されたとも太田道潅の勧請ともされていてはっきりしない。江戸地図では付近が寛永寺の柳花畑となっているので、花園の名はそこからのものであろう。江戸名所図会の不忍池中島弁財天の図(図会1)では「穴の稲荷 赤丸」として描かれており、現在も「穴の稲荷」の祠があるという。
京都の五条天神宮は光仁天皇(770~781年)時代に大和の宇陀に祀られていたのが、桓武天皇(781-806)の平安京遷都によって五条の地に移されている。京都の五條天神社縁起によれば旧名は「天使社」である。祭神は少彦名命で配祀に大巳貴命と天照皇大神があり、菅原道真とはまったく無関係である。「天使の宮」とされていたことが興味深く、後鳥羽天皇1185~1198年(院政1198~1221年)時代に「五條天神宮」に呼称が変わっている。聖徳太子~光明皇后では医療と救済の概念が登場している。この概念はそれまでの日本の祭祀や仏教には存在しないもので、景教の影響を受けたものだと考えられている。景教はキリスト教の西アジアを拠点とする一派で医術と科学技術に優れ、それを奉仕することで各地に浸透している。唐には景教の寺もある。この頃に「天使」が登場していた可能性がみえるのである。
奈良の宇陀に古来から出雲の神が祀られていても不思議はない。大己貴には白ウサギ伝承のごとき医療の存在があり、少彦名にも温泉治療といった伝承がある。宇陀の少彦名命と大己貴命が京都に運ばれたとき、秦氏など渡来氏族がもたらした景教の医療と救済思想がジョイントして登場したのが「五條天使社」であった可能性は高いと思われている。
900~1200年頃には地震、富士山噴火、疫病の流行、飢饉が多発している。遣唐使の廃止など対外交流が途絶し、独自の日本文化が熟成される時代でもある。そういった流れの中で外国文化の色彩が消されていった結果、後鳥羽天皇時代に天使宮から天神宮への呼称変更が行われたのではないかという推測も成り立つ。少彦名命や大己貴命が天神とされたのではなく、祀る側の都合で社名が変更されたということなのであろうか。
藤原秀郷は騎射(流鏑馬)の祖ともされる武人、おそらくは日本武尊に戦勝を祈願したのであろう。稲荷社でも京都の藤森神社は素盞鳴尊と日本武尊等を祀り武芸(馬術)の神となっているので、藤原秀郷時代に藤森稲荷系の稲荷と関連していた可能性もあるかもしれない。それ以前では、お隣の五条天神社(上野公園内)が出雲の神と日本武尊を祀っていた状況と同様に、上野山の古墳群の被葬者達(おそらくは出雲系の人々)が祀っていた神々が大年神であり、日本武尊東征がこれと結合し、聖武天皇寺代での創祀となったのではないのだろうか。縁起に1627年に寛永寺建立(1625年)で上野山から山下に移転し、狭いために1680に広徳寺門前に移ったとある。江戸地図の山下に正法院がありここが別当となっているから当初はその付近に移転していたのかもしれない。
江戸時代のお稲荷さんの流行を語るのに欠かせないのがこの「太郎稲荷」である。江戸時代に爆発的な流行が起こった。流行の端緒は一説によると、立花家の嫡子の麻疹が太郎稲荷の霊験により平癒したという噂が流れたからだといわれているが、真偽の程は判らない。現在、太郎稲荷は二社あり(→その1つは昨日訪ねた入谷・太郎稲荷神社)、おそらく社が移転する際に二社に分かれたものであろうと思われるが、これも詳しいことは判らない。お稲荷さんに限らず、信仰を集めている社が移動しようとすると、大抵新旧二社ができるものらしい。江戸切絵図文久2(1862)年版と照らし合わせてみると、当地は立花飛騨守屋敷内北側よりの位置にあたる。
日吉神社(ひよしじんじゃ)・日枝神社(ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社(滋賀県大津市)より勧請を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社あるという。山王信仰(さんのうしんこう)とは、比叡山麓の日吉大社より生じた振動の信仰である。
ここ西浅草の日枝神社も詳しいことは解らないが、おそらくは比叡山麓の日吉大社より勧請されたものであろうから、祭神は大山咋神(おほやまくひのかみ)であろう。大山咋神は山の神、水の神、地主神とされ、殖産新興、開拓の神であり、安産の神でもある。比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。比叡山の王という意味で山王(さんのう)とも呼ばれる。天台宗が興した新道の一派で山王神道と言い、後に天海(1536? ~1643年)が山王一実神道と改めた。太田 道灌(1432~1486年)が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされているらしい。神仏習合期には山王(さんのう。山王権現、日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。猿を神使とする。
昨日の東京の日の出は5時4分ということである。4時40分はまだ薄暗い。それに全体的にガスっていて、朝から妙に蒸し暑い。江戸通りを春日通りまで南下し、春日通りの南歩道を国際通りまで東進。国際通りを渡った辺りから、蔵前4丁目になる。

国際通りの次の路地を入った右側に「吾右エ門稲荷神社」というのがある。ブロック塀で仕切ってあり、同化すると民家の庭と見紛うほどの狭い敷地で門の内側に鳥居があり、その奥に拝殿がある。門は閉まっていたが、どうやらその状況をカメラに収めることが出来た。勿論由緒書きなど何処にもないので、どのような経緯のお稲荷さんかは判らない。



いやはや、表通りはビルが立ち並んだ、1等地のように見えるが、1歩路地に入ると昔の古びた木造民家が沢山残っている。ふと見るとそれらの民家と民家の間に傾きかけた木造の鳥居があり、その前は自転車置場となっている。鳥居にある社名を見ると「二守稲荷神社」とある。鳥居の奥にそれこそ小さな拝殿があり(奥にある民家の通し窓の下)、真新しい榊が捧げてあり、拝殿の前が覆い隠されていてその様子は判らない。ここにも由緒書き等一切無く、お狐様にも会えなかった。もしかしたら、供えられている榊の向こうに隠れていらっしゃるのかもしれない。
前々から気になっていたのであるが、「台東区の今昔」という地図の今(平成)版の記載によると両国橋の直ぐ手前に「両国稲荷」という書き込みがあり、柳橋を渡って気をつけて見回しては見るのだが、ビルが建っているだけで、社らしきものは見当たらない。同じ地図に柳橋に「篠崎稲荷」の記載もあるので、訪ねてみることにした。

篠塚稲荷神社は拝殿の扉が閉まっていて、お狐様にも会えなかったが、今日訪ねたお稲荷さんでは一番立派な造りである。花街時代の名残を残す神社らしく、玉垣には、料亭などの名前が刻まれているが、現存するのは百万石(元料亭で現在は、とんかつ屋)、伝丸(元料亭で現在は、日本料理店)、梅花亭(過去も今も、和菓子屋)くらいかな。鳥居を潜ると右手に「社歴」を書いた石碑に曰く、「当社の創起年代は詳らかでありませんが、/古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉っております。/正平年間(1346‐69年)新田義貞の家臣篠塚伊賀守重広主家、再興の祈請をなし来、国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結んで出家し、日夜参籠を怠らず、為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至りました。/延宝9年(1681年)3月、神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り、元禄6 (1693) 年2月、本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められましたが、明治初年神仏分離の際、玉蔵院は廃せられました。/古来より商売繁盛火防神として厚く尊崇奉っております」


神田川に架かる柳橋を渡り、真っ直ぐ靖国通りに出ると北側歩道を両国橋に向って、注意深くビルの谷間等覗き見しながら歩いた。ビルとビルの間の外階段に隠れて、何やら赤い鳥居らしきものが見える。空き巣狙いに間違えられるのではと心配しながら、足元の悪いビルの谷間に入り込んでみた。あった、あった。社名こそ見えなかったが、正しくお稲荷さんだ。紛うべきことなく地図の場所と同じなればこれぞ「両国稲荷」に違いない。
ビルの谷間から出るとガスッた東の墨田区の空の上にご来光。両国橋の袂では2人の風流人がまだまだ白川夜船。今月末は衆議院議員の選挙。ワイワイ騒いでいるのは、立候補した当のご本人とマスコミだけ。自爆テロなんて起こる心配なんて全くなし。まあ、日本は平和だね。
両国橋を渡るとテラスを北上。吾妻橋を渡って、隅田公園を抜けて帰宅した。O氏の母上は今日も元気で太極拳。本日の記録は11088歩、7.2㎞を示していた。
いやはや、表通りはビルが立ち並んだ、1等地のように見えるが、1歩路地に入ると昔の古びた木造民家が沢山残っている。ふと見るとそれらの民家と民家の間に傾きかけた木造の鳥居があり、その前は自転車置場となっている。鳥居にある社名を見ると「二守稲荷神社」とある。鳥居の奥にそれこそ小さな拝殿があり(奥にある民家の通し窓の下)、真新しい榊が捧げてあり、拝殿の前が覆い隠されていてその様子は判らない。ここにも由緒書き等一切無く、お狐様にも会えなかった。もしかしたら、供えられている榊の向こうに隠れていらっしゃるのかもしれない。
両国橋を渡るとテラスを北上。吾妻橋を渡って、隅田公園を抜けて帰宅した。O氏の母上は今日も元気で太極拳。本日の記録は11088歩、7.2㎞を示していた。
言問通りから国際通りへ、寿2丁目の信号まで南下。ここから右折して2つ目の信号の所に菊屋橋公園という小さな公園がある。左折して少し南下すると、右側に「孫三(まごぞう)稲荷神社」というのがある。このあたりは、その昔浅草阿部川町といい、元禄9 (1696) 年、それまでの幕府下級官吏の大縄拝領地から代官細井九左衛門の支配地となり、その翌年誕生した町である。町名は、この地の地主が皆 現静岡市内の安部川から移ってきた者であったため付けられたという。
春日通に出て東に向かう。国際通りを横切ると春日通の北側は寿3丁目、南側は蔵前3丁目である。都営大江戸線の蔵前駅の前辺りで寿3丁目の路地に入ると「廣澤稲荷社」というのがある。昔この辺りは「千束郷廣澤新田」といったらしい。先日「宗吾殿」でも記したようにこの辺りは正信(1631~1680年)の子、正休(まさやす、1655~1731年)の家系である近江国宮川藩主・堀田家の屋敷地であったという。
再び春日通に出ると厩橋を渡り、三つ目通りを北上する。北十間川かかる源森橋から見る東京スカイツリーは何となく塔の形になりだしたようである。言問通りに出て、言問橋を渡り帰宅した。9958歩、6.4kmの記録であった。

孫三稲荷については、台東区教育委員会の案内板に曰く「この付近は、『御府内備考』によると、慶安年中(1648~52年)、川村某が駿河国安倍川(現在、静岡県静岡市域を中心に流れる一級河川)の鎮守「孫三稲荷」とともに駿河から当地へ移したことにより阿部川町と称していた。/孫三稲荷は、当地に伝わっている由来によると、天正年間(1573~92年)、徳川家康が、「孫三」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、ただ安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ嗣があり、実はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正18 (1590) 年関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村其の手により江戸にもたらされ、慶安年中当地へ移したという。この伝承は、江戸へ招来した年も『御府内備考』と異なるが、『町方書上』に、慶安に阿部川より移安したことが記されており、江戸初期には地域の鎮守として信仰を集めていたことが知られる。/『町方書上』にはまた、当町に店借していた修験者の善明院という人物が「正一位孫三稲荷大明神」を司っており、神像は木造で長さ3寸(約10㎝)であったと記されている。/現在、静岡の孫三稲荷の所在は不明であり、当地も関東大震災、東京大空襲などによって、記録や社殿を失ったが、昭和26年、当町会(阿部川町・菊屋橋町会)によって、社殿が再建され、毎年3月8日に例祭が行われている。/平成8年7月/台東区教育委員会」

廣澤稲荷社については、境内にある寿3丁目町会の案内板に曰く「『宇迦之魂神』を祭神とし古くは田原町(旧町名千束郷広沢新田のうち紙漉町部分を改名)あたりに鎮座されたのを浅草寺門前町の発展に伴い当時佐倉藩堀田家の屋敷の馬場の一隅の現在地に移転されたといわれます。鎮座されて以来町民先達に依り厚く守護され本日迄町内安全火防の神様としてお守りを頂いて居ります。/今度、町会発足50周年を迎え神社の敷地に付き地主世田谷区在住 土屋徳之助様に御相談申し上げました処、永年にわたり町会員崇敬者により守護されている意を汲まれ、50周年記念として計台地を贈与頂ける事と相成りました。誠に有り難く、ここに神社の経緯と土屋様の御意志を永く伝えるべく記念の標を建てることにいたしました。/平成13年5月吉日/寿3丁目町会」
春日通に出て東に向かう。国際通りを横切ると春日通の北側は寿3丁目、南側は蔵前3丁目である。都営大江戸線の蔵前駅の前辺りで寿3丁目の路地に入ると「廣澤稲荷社」というのがある。昔この辺りは「千束郷廣澤新田」といったらしい。先日「宗吾殿」でも記したようにこの辺りは正信(1631~1680年)の子、正休(まさやす、1655~1731年)の家系である近江国宮川藩主・堀田家の屋敷地であったという。
昨日と同じく千束五叉路に出ると国債通りを北上。今日は金美館通りを通って、金杉通りに出た。小野照崎神社の境内に入るには、金美館通りからと金杉通りからの2つがある。ここはあの小野妹子(生没年不詳)の子孫といわれる平安時代の歌人学者で百人一首にある「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」の和歌の作者とされる小野篁を祀る。



金杉通り沿いの入口から入って、稲荷神社、富士浅間神社、庚申塚、三峰神社・御嶽神社などをひと回りして、金美館通り沿いの鳥居から境内を出ると、入谷鬼子母神の裏手辺りにも三峰神社があることを思い出し、訪ねてみることにした。金杉通りを南下して言問通りに出ると、鬼子母神を過ぎると右折して、昭和通りの一つ手前の路地を真っ直ぐ南下する。

高いビルが立ち並ぶビルの袂にどうかすると見過ごしそうな小さな社がある。これが三峰社で、この近くはその昔豊住町といったらしい。社の前に台東区の旧町名由来板が立っている。

昭和通りにでるとここを少し南下して、かっぱ橋本通りを東に進む。台東区は東京23区の中でももっとも面積の狭い区であるというが、此処曹源寺(かっぱ寺)辺りが、台東区の臍に当たるらしい。この辺りはその昔松葉町といわれたらしく、通りの両側にはあちこちに河童の置物が見られる。
国際通りから奥山の参道を通り、淡島明神の前に出て言問通りに抜けて、帰宅した。9186歩、5.9㎞と記録されていた。







平安初期の歌人学者である小野篁(おののたかむら、802~ 853年)を祀る。小野篁は、上野国司となるが(下野では足利学校を創立)、その子孫には書家の小野道風(894~966年)や六歌仙の小野小町(生没年不詳)がいる。任期を終えて帰国の帰路で上野忍岡の風景を賞し、亡くなった後にその地に霊を奉拝し、後の上野寛永寺造営のとき(1625)長左衛門稲荷があった当地に移転したといわれる(上野忍岡にあった孔子聖廟が昌平橋に移転した《1691年頃》ともいう)。菅原道真(845~903年)公を配神する。境内社には ①富士浅間神社:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大山祗命(おおやまつみのみこと)・磐長姫命(いわながひめのみこと)・天津彦彦火瓊瓊岐命(あまつひこひこほのににぎのみこと) 富士山より岩石を運び天明年間《1782年》に築造、文政11《1821》年に修復したという ②御嶽神社:国常立命、国狭槌命(くにのさつちのみこと)、豊斟淳命(とよくむぬのみこと) 御嶽信仰者に依り古くに創建した ③三峰神社:伊邪奈岐命、伊邪奈美命 大正9年合祀した ④琴平神社:素盞雄命 江戸末期に合祀した ⑤庚申塚:猿田彦命 日本三大庚申の一つ 最古の塔は天保2(1647)年の作 ⑥稲荷神社:宇迦之魂命 長左衛門稲荷と称し、小野照崎神社遷座前より当地の地主神 ⑦織姫神社:栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと) 昭和29年に織物組合庭内に奉斎されていた織姫神社を合祀

言問通りを越してはいるが、同じ下谷に2つ三峰神社があるのは何か謂れがあるのだろうか。こちらの眷属の狼さん先ほどの小野照崎神社の境内社の三峰神社の狼さんとそっくりである。阿の狼さんは先ほどの小野照崎神社のものは下顎が破損していたが、こちらのほうは完全である。案内板も何もないので、詳しいことは判らないが、いずれ秩父の三峰神社から勧請したものであろう。
金杉通り沿いの入口から入って、稲荷神社、富士浅間神社、庚申塚、三峰神社・御嶽神社などをひと回りして、金美館通り沿いの鳥居から境内を出ると、入谷鬼子母神の裏手辺りにも三峰神社があることを思い出し、訪ねてみることにした。金杉通りを南下して言問通りに出ると、鬼子母神を過ぎると右折して、昭和通りの一つ手前の路地を真っ直ぐ南下する。
国際通りから奥山の参道を通り、淡島明神の前に出て言問通りに抜けて、帰宅した。9186歩、5.9㎞と記録されていた。
旧日光道中(現、金杉通り)に面しているが、新編武蔵風土記稿に金杉村の地名由来は鶴岡八幡宮の文書(1399年)に当地に金曽木三郎なる人物の事跡がありこれによる、とある(当地に金曾木小学校あり)。江戸末期の地図には近隣に御獄社、石稲荷社、稲荷社があり、当社の場所には火除地がある。御獄社が配祀の木花開耶姫命、日光道中近くにあった稲荷社が地主神の火除稲荷社となっていると推定されるが詳細は不明である。なお、先だって訪ねたように石稲荷社は下根岸稲荷として江戸地図と同じ場所に現存している。
言問通りを鶯谷駅北口まで西に進む。北口の改札口から、本殿は見えるが、これが元三島神社らしい。入口が判らない。



この辺りは飲み屋とホテルが立ち並び盛り場のど真ん中である。飲み屋街にそってひと回りすると信濃路という飲み屋の上に本殿があるらしい。曲がりくねった道路を回ると一の鳥居が立っていて、その袂に古びた由緒説明板があった。境内に入ると、階段がありそこを上った奥に本殿がある。元三島神社を出ると、創業350年という豆富料理の「笹の雪」の前から、再び言問通りに出ると、台東区の旧町名由来板がありこの辺りが上根岸町」であったことを知る。元来た道を引き返すのも能がないので、入谷方面でも見て帰ろうと路地に入ったが、途中方向が判らなくなり、あっちうろうろ、こっちうろうろ、どうやら国際通りの鷲神社の前に出ることが出来た。千束の五叉路から言問通りと小松橋通りの中間の通りを東進して帰宅した。11570歩、7.5㎞が記録されていた。



元三島神社の縁起は、先だって記した寿三島神社の縁起と同じである。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けるが(位置不明)御用地となったために浅草小揚町(現、蔵前4)に移転する(1650年)。浅草小揚町から当地に再び移転したのは金杉村(現在の根岸~下谷)から遠くに社が離れてしまったため氏子の要望によるもので、当地にあった熊野権現社と合祀して現在の元三島神社となったのである。祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)で、上津姫命 下津姫命 和足彦命 身嶋姫命を配祠する。また、伊佐那岐命を合祀する。鶯谷駅裏の盛り場の真ん中にあり下階が飲食店、その2階に鎮座します。それでも境内に入るとふっと喧噪から離れるから不思議である。前述の通り台東区には3つの三島神社がある。当社と浅草三島神社と下谷三島神社である。縁起はすべて同じであるが、江戸名所図会に記載されているのは浅草三島神社で当社と下谷三島神社は記載がない。(江戸末期の地図(1850年頃)には浅草三島神社と当社の2社が記載されている)。

江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688~1704年)に下谷坂本(現:下谷1~下谷3)にあった社を浅草に移転したとある。新編武蔵風土記稿には寛永6(1629)年までは小名根岸(位置不明)にあって御用地となったために移転したがご神体を熊野社に仮設置していたのでこの地を元三島という、とありる。上野寛永寺の造営開始が1625年頃であるから、旧三島社の最初の移転がこれかも知れない。以後寛永寺には社領が次々に幕府から寄進されてゆくのである。縁起と名所図会の移転年に数十年のずれがあるのは、明暦の大火が1657年であるから浅草移転直後にこの大火で焼失し、いったん下谷坂本に再建された後に再び浅草に移転したことが錯綜しているのかもしれない。浅草から当地に再び移転したのは江戸名所図会の完成(1832~1850年頃)ということになる。なお、足立区の扇2丁目にも三嶋神社があるという(未散策)。こちらの縁起は江戸初期にその地の開拓を行った阿出川権左衛門知康の勧請(1620年頃)によるようで、別当が当社と同じ金杉西蔵院となっているので、これも上野山にあった旧三島神社が原形である可能性もある。
元三島神社の縁起は、先だって記した寿三島神社の縁起と同じである。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けるが(位置不明)御用地となったために浅草小揚町(現、蔵前4)に移転する(1650年)。浅草小揚町から当地に再び移転したのは金杉村(現在の根岸~下谷)から遠くに社が離れてしまったため氏子の要望によるもので、当地にあった熊野権現社と合祀して現在の元三島神社となったのである。祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)で、上津姫命 下津姫命 和足彦命 身嶋姫命を配祠する。また、伊佐那岐命を合祀する。鶯谷駅裏の盛り場の真ん中にあり下階が飲食店、その2階に鎮座します。それでも境内に入るとふっと喧噪から離れるから不思議である。前述の通り台東区には3つの三島神社がある。当社と浅草三島神社と下谷三島神社である。縁起はすべて同じであるが、江戸名所図会に記載されているのは浅草三島神社で当社と下谷三島神社は記載がない。(江戸末期の地図(1850年頃)には浅草三島神社と当社の2社が記載されている)。
小学校の横道を南に少し入った裏手に「下根岸稲荷神社」がある。鳥居には「石稲荷神社」とある。鳥居は石造の明神鳥居、拝殿と氏子の集会場が廊下でつながれているらしい。お稲荷様だからお狐様を探したが、お狐様の鎮座する台座らしきものは本殿の両端にあるのだが、何処へお出かけか不在である。台座の前には簡単な由緒書の立て札があった。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
sechin@nethome.ne.jp です。
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