瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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825ae577.jpg 本日の徘徊ルート 江戸通り→ 淺草通り→ JR上野駅(歩道橋よりのJR上野駅)→ 京成上野駅→ 動物園通り→ 上野公園(五条天神社・花園稲荷神社、旧町名由来板「上野恩賜公園」)→ パンダ橋→ 東京メトロ銀座線上野駅―地下鉄にて→ 浅草駅→ 江戸通り→ 自宅 以上 7370歩、歩行距離5.7km。
 五条天神社は日本武尊が東征のおりに上野忍が岡を通った時、薬祖神二柱に加護を受けたことを謝して、此の地に両神を祀ったことを縁起とし、幾度か変遷を重ねて昭和3年9月に創祀の地に最も近い現在地に遷座したという。祭神は大己貴命(おおなむちのみこと、大国主命の若い頃の名)と少彦名命(すくなひこなのみこと)の2柱、菅原道眞を配祀する。
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3948f262.JPG 江戸名所図会では、少彦名命一座のみが書かれて「医道の祖神として五条天神と称し、東叡山の東南の麓にあって連歌師瀬川氏の邸宅内で北野天満宮と相殿となっている」とする。続けて、文明18(1487)年の尭恵法師(1430~1498年)の北国紀行(北国記行とある)に、忍ケ岡に五條天神が鎮座する、という記事を紹介しているという。神社庁の台東区資料によれば、すり鉢山古墳(東京文化会館裏手)に旧地があったとする説と、寛永寺本堂の場所(現:国立博物館)が旧地だったとする説の2つがある(寛永寺本堂建立は1625年、すり鉢山周辺に末寺群が増築されるのは1656年頃)。神社庁資料では、五条天神の名の由来は江戸神社略記の「少彦名命はわが国の医祖神なり、平安城の五條に鎮座ゆえにこの号あり」という説を紹介しているが詳しいことはわからないとある。
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a98df9b6.JPG 江戸名所図会によれば、1642年に慈眼大師(天海僧正)が菅原道真の像を開眼し、連歌師の瀬川昌億邸に移している。神社庁資料によれば、瀬川昌億は大津に住む瀬川時能(近江源氏)の子孫ということで、1638年に江戸にやってきて連歌の宗匠として江戸にとどまり、当社に奉仕(別当)していたようである(図会2の現在のアメヤ横町北部)。連歌師の統帥は北野天満宮であるから「菅原道真」に奉仕するのは当然として、五条天神社の別当も兼任していたものと思われる。当社縁起によれば菅原道真が配祀されたのは寛永18(1641)年である(天海僧正の菅原道真像の開眼と一致する)。神社庁資料によれば1656年に寛永寺の増築で黒門脇に移転とあり、1697年に別当である瀬川屋敷内に移転している。この移転は瀬川昌億が江戸にやってきてから60年後であるからおそらく瀬川昌億の死去前後であり、その邸宅内には「連歌師と天海僧正の菅原道真」があった。ここに瀬川昌億が別当でもあった「少彦名命の五條天神」が移転して相殿となったと考えられる。その後、ここに五条天神門前町ができ、薬問屋の町となった日本橋本町に当社が分祀され薬祖神祭が行われるようになったのである。
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fde5e3e2.JPG 江戸名所図会の時代での菅原道真は別の社とみなされており、それが少彦名命1座という記事なのであろう。菅原道真が表面にでてくるのは、おそらくは明治以降ではないかと思われる。大正12年に鉄道建設のために近隣に移転(位置不明)、翌年の関東大震災で全壊。不忍池の南西に仮社殿が造られ、都市整備計画によって昭和3年に現在地に移転している。
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47ab98b9.jpg 隅田川周辺には鳥越神社など日本武尊に関連する社と伝承が少なからずある。浅草寺の縁起は野見宿禰の後裔の土師氏で、その祖は出雲臣の天穂日命であり、古来から出雲系の人々が住んでいた地域とみえる。根津神社は日本武尊を縁起としていて、鳥越神社~根津神社の間に上野山がある。往古から上野山には少彦名命と日本武尊伝承があって、寛永寺本堂付近(現:国立博物館)にその祀りの場があったのではないだろうか。湯島天神に菅原道真が祀られるのは1355年である。菅原道真は野見宿禰の後裔とされ、その祖は出雲臣の祖天穂日ですから、隅田川周辺では出雲の流れを引く人々が早々に菅原道真を民間信仰として取り込んでもおかしくない状況がある。湯島に菅原道真が登場するのと同時期にこちらにも登場していた可能性もあり、瀬川昌億と天海僧正の道真像(1642年)はその完結だったのかもしれない。
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c3aef371.JPG 承久の乱(1221)で河野水軍は後鳥羽上皇側に味方して滅びるが、鎌倉側に仕えていた河野久道が河野氏を継承し、その孫の河野道有が元寇(1281)で手柄をたてて上野山に大山祇神社(大三島)を勧請していることは元三島神社訪問の際のブログに書いた。後鳥羽上皇時代に京都の五條天神宮の改名が行われている。承久の変の後に河野氏を継承した河野道有が上野山に京都の五條天神宮を勧請し、上野山にあった「少彦名命の社」と合祀した社、これが後の北国紀行でいう忍が丘の五條天神社(1487年)ではないかと考えられる。
江戸末期の地図の現在地のすぐ北に牛頭天王社(別当は寛永寺末寺の妙教院)があるが現存していない。牛頭天王社は平安末期~戦国時代の疫病退散の関連で登場する社で、当地の牛頭天王の縁起は判らないが、明治の神仏分離で消えたか、五条天神社に吸収されている可能性もありそうである。
 五条天神社に隣接して花園稲荷社(御祭神、倉稲魂命)があるが、旧名は忍岡稲荷で寛永寺建設に伴って勧請されたとも太田道潅の勧請ともされていてはっきりしない。江戸地図では付近が寛永寺の柳花畑となっているので、花園の名はそこからのものであろう。江戸名所図会の不忍池中島弁財天の図(図会1)では「穴の稲荷 赤丸」として描かれており、現在も「穴の稲荷」の祠があるという。
 京都の五条天神宮は光仁天皇(770~781年)時代に大和の宇陀に祀られていたのが、桓武天皇(781-806)の平安京遷都によって五条の地に移されている。京都の五條天神社縁起によれば旧名は「天使社」である。祭神は少彦名命で配祀に大巳貴命と天照皇大神があり、菅原道真とはまったく無関係である。「天使の宮」とされていたことが興味深く、後鳥羽天皇1185~1198年(院政1198~1221年)時代に「五條天神宮」に呼称が変わっている。聖徳太子~光明皇后では医療と救済の概念が登場している。この概念はそれまでの日本の祭祀や仏教には存在しないもので、景教の影響を受けたものだと考えられている。景教はキリスト教の西アジアを拠点とする一派で医術と科学技術に優れ、それを奉仕することで各地に浸透している。唐には景教の寺もある。この頃に「天使」が登場していた可能性がみえるのである。
 奈良の宇陀に古来から出雲の神が祀られていても不思議はない。大己貴には白ウサギ伝承のごとき医療の存在があり、少彦名にも温泉治療といった伝承がある。宇陀の少彦名命と大己貴命が京都に運ばれたとき、秦氏など渡来氏族がもたらした景教の医療と救済思想がジョイントして登場したのが「五條天使社」であった可能性は高いと思われている。
 900~1200年頃には地震、富士山噴火、疫病の流行、飢饉が多発している。遣唐使の廃止など対外交流が途絶し、独自の日本文化が熟成される時代でもある。そういった流れの中で外国文化の色彩が消されていった結果、後鳥羽天皇時代に天使宮から天神宮への呼称変更が行われたのではないかという推測も成り立つ。少彦名命や大己貴命が天神とされたのではなく、祀る側の都合で社名が変更されたということなのであろうか。
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974c4376.jpg 本日の徘徊ルート 江戸通り→ 淺草通り→ 東上野3丁目(下谷神社・台東区旧町名由来板「南稲荷町」)→ 元浅草→ 春日通り→ 江戸通り(駒形どぜうの前に久保田万太郎の句碑)→ 吾妻橋西→ 隅田公園→ 言問橋下→ 自宅  以上、9203歩、5.9km。
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328830fc.jpg 下谷神社の主祭神は大年神(おおとしのかみ)で、日本武尊を配祀する。大年神の「とし」には、もともと穀物などの実り・収穫を意味したが、その収穫に1年を要するところから年を意味するようになった。よってこの神名は本来、豊かな実りをもたらす神の意。『古事記』には、須佐之男命と神大市比売(かむおおいちひめ)との間に生まれ、また伊怒比売(いのひめ)、香用比売(かよひめ)などの女神との間に多くの子をもうけた神と伝える。生まれたすぐあとに、穀物神である宇迦之御魂神が生まれていることや、この神の子として御年神が生まれていることなどに、穀物神としての性格がよく表れている。『山城国風土記』逸文に、大歳御祖命、大歳神などがみえるが、大年神と同一の神であろう。
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a7698527.JPG 当社由来書によれば、聖武天皇の御代天平2(730)年に峡田稲置(はけたのいなぎ)らが、大年神と日本武尊の御神徳を崇め奉って上野忍ケ岡の地にこの二神を祀ったのが創めで、879年に田原藤太(藤原秀郷、生没年不詳)が相馬に向かうとき当神社に参篭して朝敵平将門追討の祈願をなし、その平定の後報恩のため社殿を新に造営したとある。当神社は昔から「正一位下谷稲荷社」と称していたので、この町を稲荷町というようになったのだという。
02e34549.JPG 江戸名所図会では祭神は倉稲魂命で行基の作という十一面観世音像が本地であると書く程度で、大年神や日本武尊の話は無い。稲荷社が登場するのは秦氏関係の伝承に和銅4(711)年があり、東国での登場は842年に小野篁が陸奥に陸奥守として着任したとき、開拓と殖産の神として祀ったのが最初の記録のようである。延宝8(1680)年に広徳寺門前に移転した際には「正一位下谷稲荷社」であったそうで、江戸の稲荷社としては最古の部類とみえる(現在は稲荷として大年神を祀るが、そのあたりに「稲荷」の複雑さがあるかもしれない)。
 藤原秀郷は騎射(流鏑馬)の祖ともされる武人、おそらくは日本武尊に戦勝を祈願したのであろう。稲荷社でも京都の藤森神社は素盞鳴尊と日本武尊等を祀り武芸(馬術)の神となっているので、藤原秀郷時代に藤森稲荷系の稲荷と関連していた可能性もあるかもしれない。それ以前では、お隣の五条天神社(上野公園内)が出雲の神と日本武尊を祀っていた状況と同様に、上野山の古墳群の被葬者達(おそらくは出雲系の人々)が祀っていた神々が大年神であり、日本武尊東征がこれと結合し、聖武天皇寺代での創祀となったのではないのだろうか。縁起に1627年に寛永寺建立(1625年)で上野山から山下に移転し、狭いために1680に広徳寺門前に移ったとある。江戸地図の山下に正法院がありここが別当となっているから当初はその付近に移転していたのかもしれない。
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d15b0ec8.jpg 境内社に「隆栄稲荷神社」がある。祭神は宇賀魂命(うがのたまのみこと)で、家内安全・商売繁盛の守護神とのこと。下谷(稲荷)神社境内に多数あった末社を、本社の造営の際に一つの社として合祀したとのことである。鳥居の前には狐山が築かれていて、ここにも石狐が鎮座ましましている。
947a53fe.jpg 寛政10年(1798)馬喰町で櫛職人をしていた京屋又五郎は落とし噺を得意とし山生亭花楽と名乗り「風流浮世おとし噺」の看板を掲げ柳稲荷(現下谷神社)の境内で寄席興行を行ったという。これが江戸における最初の寄席興行といわれていて、寛政の後の文化・文政の時代には百数十軒にも増加したという。山生亭花楽は後に三笑亭可楽と名前を変え現在まで引き継がれている(現在は9代目)。1998年この寄席発祥の地であるここ下谷神社の境内に記念碑が立てられたという。これと並んで正岡子規の句碑も立っていた。
843d21b9.jpg 明暦の大火(1657年)以後、江戸市中の多くの寺がこの付近に移転して寺が密集した。当社の隣に大工屋敷があるが屋敷だから一般大工ではなく宮大工とか幕府のお抱え大工の住まいと思われる。周辺は武家屋敷と下級武士の住居が多くあり、名所図会でも武士と脇差の人物が数人参詣しているが、そういう土地柄であったことがうかがえる。現在、この付近には多くの仏具店が並んでいる。
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e988865e.jpg 江戸通り→ 雷門通り(久保田万太郎生誕の地碑)→ 淺草通り→ 東上野3丁目信号→ 西町公園(旧町名由来板・西町)→ 東上野1丁目(西町太郎稲荷神社)→ 淺草通り→ かっぱ橋道具街→ 言問通り→ 千束通り→ 淺草3丁目→ 淺草6丁目→ 自宅  以上、9945歩、6.4km。
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a7aa8b68.jpg 西町太郎稲荷神社境内に立つ案内板に曰く「当町は万治年間(1658~61)、九州筑後柳川藩十一万九千六百石の太守立花左近将監が江戸中屋敷として設けた跡地です。当太郎稲荷は立花左近将監の母堂みほ姫の守り本尊として、同邸内の現在地に建立されたものです。/諸々の祈願事を叶え給い、特に商売繁盛に御利益あらたかなところから江戸・明治・大正時代を通じて広くその名が知られ、多くの善男善女に厚く信仰されております。現在も町内有志集まって由緒ある当祠の維持運営に務め、初午祭等を盛大に行っております。」
 江戸時代のお稲荷さんの流行を語るのに欠かせないのがこの「太郎稲荷」である。江戸時代に爆発的な流行が起こった。流行の端緒は一説によると、立花家の嫡子の麻疹が太郎稲荷の霊験により平癒したという噂が流れたからだといわれているが、真偽の程は判らない。現在、太郎稲荷は二社あり(→その1つは昨日訪ねた入谷・太郎稲荷神社)、おそらく社が移転する際に二社に分かれたものであろうと思われるが、これも詳しいことは判らない。お稲荷さんに限らず、信仰を集めている社が移動しようとすると、大抵新旧二社ができるものらしい。江戸切絵図文久2(1862)年版と照らし合わせてみると、当地は立花飛騨守屋敷内北側よりの位置にあたる。
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2de29900.jpg 本日のコースは 淺草7丁目→ 千束五叉路→ 入谷2丁目(太郎稲荷、旧町名「光月町」)→ かっぱ橋道具街→ 西浅草3丁目(日枝神社)→ かっぱ橋本通り商店街→ 国際通り(旧町名「淺草北田原町」)→ 雷門通り→ 吾妻橋→ 墨田区側遊歩道→ 桜橋 →自宅 記録不明(オムロン万歩計の装着を忘れる)。
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93ecf642.jpg 太郎稲荷神社については、東京太郎稲荷講『太郎稲荷神社縁起』に曰く、「当地は九州柳川藩立花左近将監の下屋敷にて《新鳥越四丁目飛地》として現在の松が谷三丁目あたりにあったものを松葉町に割与し、ここに移したと伝えられます。明治24年ごろ光月町と改称しました。/当時、前記の屋敷内に祀られていた稲荷神社を現在の地に移祠し、以来、地元の先人たちの努力により、現在まで維持保存祀祭され、都内でも残り少ない稲荷神社として保存されています。/古記によると往時の本社は大変賑やかであったと伝えられます。「東京名所図会・浅草区之部」によると下記の通りです。/《幾多の鳥居をくぐり社殿はその奥に鎮座し、老樹欝然しかも昼なお暗し。云々 新堀の立花家の下屋敷の鎮守、太郎稲荷の流行神は、近古聞き及ばぬ群参にて門前より本社まで凡そ十町余の右左奉納幟にて垣をなし、神前は賽銭、供物にて山を築き信仰のもの他に越えるもの空し。霊験もいや増して盲目は杖をはなれて初めて白日を拝し、足疾思わずも高きにのぼる。日にまして参詣のものふえて終に屋敷裏なる畑中に夜籠りはじまり「太郎神、太郎神」と称名すれば垣外霊狐顕る。眞崎なる霊狐を「お出で、お出で」と云ふが如し。されば夜籠の間、かくよびて供物をささげ己がじし願い事を祈念するとて、余も其此人と共に二夜三夜、宵のほとぼりばかり行きて試みるに、一度霊狐のあらわるるを見たり。尾の上共に背のあたり白毛あり。さて寒夜田道に莚をうち敷きてうずくまり並み居るさまは不信の者の目からは古き狐に化かさるるが如し。故に遊里(旧吉原)通ひ小唄謡ふて此処へ来かかるときは…云々 霊験利生の恩を請けたる者どもは寒夜籠りをめぐまんとて或は粥或は餅なんと施すも毎夜なり、斯く甚だしきは久しからず、二、三年にして午の日ばかりの参詣も今は稀なり》」
 日吉神社(ひよしじんじゃ)・日枝神社(ひえじんじゃ)あるいは山王神社などという社名の神社は山王信仰に基づいて日吉大社(滋賀県大津市)より勧請を受けた神社で、大山咋神(おおやまくいのかみ)と大物主神(または大国主神)を祭神とし、日本全国に約3,800社あるという。山王信仰(さんのうしんこう)とは、比叡山麓の日吉大社より生じた振動の信仰である。
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 ここ西浅草の日枝神社も詳しいことは解らないが、おそらくは比叡山麓の日吉大社より勧請されたものであろうから、祭神は大山咋神(おほやまくひのかみ)であろう。大山咋神は山の神、水の神、地主神とされ、殖産新興、開拓の神であり、安産の神でもある。比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、天台宗および延暦寺の守護神ともされた。比叡山の王という意味で山王(さんのう)とも呼ばれる。天台宗が興した新道の一派で山王神道と言い、後に天海(1536? ~1643年)が山王一実神道と改めた。太田 道灌(1432~1486年)が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされているらしい。神仏習合期には山王(さんのう。山王権現、日吉山王など)と称され、今日でも山王さんの愛称で親しまれている。猿を神使とする。
 昨日の東京の日の出は5時4分ということである。4時40分はまだ薄暗い。それに全体的にガスっていて、朝から妙に蒸し暑い。江戸通りを春日通りまで南下し、春日通りの南歩道を国際通りまで東進。国際通りを渡った辺りから、蔵前4丁目になる。
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4a1cec52.jpg 国際通りの次の路地を入った右側に「吾右エ門稲荷神社」というのがある。ブロック塀で仕切ってあり、同化すると民家の庭と見紛うほどの狭い敷地で門の内側に鳥居があり、その奥に拝殿がある。門は閉まっていたが、どうやらその状況をカメラに収めることが出来た。勿論由緒書きなど何処にもないので、どのような経緯のお稲荷さんかは判らない。
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 いやはや、表通りはビルが立ち並んだ、1等地のように見えるが、1歩路地に入ると昔の古びた木造民家が沢山残っている。ふと見るとそれらの民家と民家の間に傾きかけた木造の鳥居があり、その前は自転車置場となっている。鳥居にある社名を見ると「二守稲荷神社」とある。鳥居の奥にそれこそ小さな拝殿があり(奥にある民家の通し窓の下)、真新しい榊が捧げてあり、拝殿の前が覆い隠されていてその様子は判らない。ここにも由緒書き等一切無く、お狐様にも会えなかった。もしかしたら、供えられている榊の向こうに隠れていらっしゃるのかもしれない。
b90fe436.JPG 前々から気になっていたのであるが、「台東区の今昔」という地図の今(平成)版の記載によると両国橋の直ぐ手前に「両国稲荷」という書き込みがあり、柳橋を渡って気をつけて見回しては見るのだが、ビルが建っているだけで、社らしきものは見当たらない。同じ地図に柳橋に「篠崎稲荷」の記載もあるので、訪ねてみることにした。
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6e7dc81b.jpg 篠塚稲荷神社は拝殿の扉が閉まっていて、お狐様にも会えなかったが、今日訪ねたお稲荷さんでは一番立派な造りである。花街時代の名残を残す神社らしく、玉垣には、料亭などの名前が刻まれているが、現存するのは百万石(元料亭で現在は、とんかつ屋)、伝丸(元料亭で現在は、日本料理店)、梅花亭(過去も今も、和菓子屋)くらいかな。鳥居を潜ると右手に「社歴」を書いた石碑に曰く、「当社の創起年代は詳らかでありませんが、/古記に「大川辺に高き丘あり篠生い茂り里人ここに稲荷神を祀る」とあれば悠久の昔より奉斎し奉っております。/正平年間(1346‐69年)新田義貞の家臣篠塚伊賀守重広主家、再興の祈請をなし来、国光の刀を神前に捧げ社傍に庵を結んで出家し、日夜参籠を怠らず、為にいつしか篠塚稲荷大明神と尊称するに至りました。/延宝9年(1681年)3月、神社別当僧たる伊賀守子孫に醍醐寺三宝院御門跡より篠塚山玉蔵院宗林寺の称号を賜り、元禄6 (1693) 年2月、本多紀伊守殿寺社奉行の折には御府内古跡地と定められましたが、明治初年神仏分離の際、玉蔵院は廃せられました。/古来より商売繁盛火防神として厚く尊崇奉っております」
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87873cf5.jpg 神田川に架かる柳橋を渡り、真っ直ぐ靖国通りに出ると北側歩道を両国橋に向って、注意深くビルの谷間等覗き見しながら歩いた。ビルとビルの間の外階段に隠れて、何やら赤い鳥居らしきものが見える。空き巣狙いに間違えられるのではと心配しながら、足元の悪いビルの谷間に入り込んでみた。あった、あった。社名こそ見えなかったが、正しくお稲荷さんだ。紛うべきことなく地図の場所と同じなればこれぞ「両国稲荷」に違いない。
e6eb2532.jpg ビルの谷間から出るとガスッた東の墨田区の空の上にご来光。両国橋の袂では2人の風流人がまだまだ白川夜船。今月末は衆議院議員の選挙。ワイワイ騒いでいるのは、立候補した当のご本人とマスコミだけ。自爆テロなんて起こる心配なんて全くなし。まあ、日本は平和だね。
 両国橋を渡るとテラスを北上。吾妻橋を渡って、隅田公園を抜けて帰宅した。O氏の母上は今日も元気で太極拳。本日の記録は11088歩、7.2㎞を示していた。
 言問通りから国際通りへ、寿2丁目の信号まで南下。ここから右折して2つ目の信号の所に菊屋橋公園という小さな公園がある。左折して少し南下すると、右側に「孫三(まごぞう)稲荷神社」というのがある。このあたりは、その昔浅草阿部川町といい、元禄9 (1696) 年、それまでの幕府下級官吏の大縄拝領地から代官細井九左衛門の支配地となり、その翌年誕生した町である。町名は、この地の地主が皆 現静岡市内の安部川から移ってきた者であったため付けられたという。
 春日通に出て東に向かう。国際通りを横切ると春日通の北側は寿3丁目、南側は蔵前3丁目である。都営大江戸線の蔵前駅の前辺りで寿3丁目の路地に入ると「廣澤稲荷社」というのがある。昔この辺りは「千束郷廣澤新田」といったらしい。先日「宗吾殿」でも記したようにこの辺りは正信(1631~1680年)の子、正休(まさやす、1655~1731年)の家系である近江国宮川藩主・堀田家の屋敷地であったという。
a7ab9827.jpg 再び春日通に出ると厩橋を渡り、三つ目通りを北上する。北十間川かかる源森橋から見る東京スカイツリーは何となく塔の形になりだしたようである。言問通りに出て、言問橋を渡り帰宅した。9958歩、6.4kmの記録であった。


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09484419.jpg 孫三稲荷については、台東区教育委員会の案内板に曰く「この付近は、『御府内備考』によると、慶安年中(1648~52年)、川村某が駿河国安倍川(現在、静岡県静岡市域を中心に流れる一級河川)の鎮守「孫三稲荷」とともに駿河から当地へ移したことにより阿部川町と称していた。/孫三稲荷は、当地に伝わっている由来によると、天正年間(1573~92年)、徳川家康が、「孫三」と名乗る者に馬の轡を取らせ安倍川を渡ったが、後にその孫三を探したところ該当者はなく、ただ安倍川の川辺に「孫三」の名を持つ嗣があり、実はこの稲荷の化身であったという霊験から、天正18 (1590) 年関東入国の際、家康の命により稲荷の神体ごと川村其の手により江戸にもたらされ、慶安年中当地へ移したという。この伝承は、江戸へ招来した年も『御府内備考』と異なるが、『町方書上』に、慶安に阿部川より移安したことが記されており、江戸初期には地域の鎮守として信仰を集めていたことが知られる。/『町方書上』にはまた、当町に店借していた修験者の善明院という人物が「正一位孫三稲荷大明神」を司っており、神像は木造で長さ3寸(約10㎝)であったと記されている。/現在、静岡の孫三稲荷の所在は不明であり、当地も関東大震災、東京大空襲などによって、記録や社殿を失ったが、昭和26年、当町会(阿部川町・菊屋橋町会)によって、社殿が再建され、毎年3月8日に例祭が行われている。/平成8年7月/台東区教育委員会」
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e86e2bff.jpg 廣澤稲荷社については、境内にある寿3丁目町会の案内板に曰く「『宇迦之魂神』を祭神とし古くは田原町(旧町名千束郷広沢新田のうち紙漉町部分を改名)あたりに鎮座されたのを浅草寺門前町の発展に伴い当時佐倉藩堀田家の屋敷の馬場の一隅の現在地に移転されたといわれます。鎮座されて以来町民先達に依り厚く守護され本日迄町内安全火防の神様としてお守りを頂いて居ります。/今度、町会発足50周年を迎え神社の敷地に付き地主世田谷区在住 土屋徳之助様に御相談申し上げました処、永年にわたり町会員崇敬者により守護されている意を汲まれ、50周年記念として計台地を贈与頂ける事と相成りました。誠に有り難く、ここに神社の経緯と土屋様の御意志を永く伝えるべく記念の標を建てることにいたしました。/平成13年5月吉日/寿3丁目町会」
 昨日と同じく千束五叉路に出ると国債通りを北上。今日は金美館通りを通って、金杉通りに出た。小野照崎神社の境内に入るには、金美館通りからと金杉通りからの2つがある。ここはあの小野妹子(生没年不詳)の子孫といわれる平安時代の歌人学者で百人一首にある「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」の和歌の作者とされる小野篁を祀る。
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 金杉通り沿いの入口から入って、稲荷神社、富士浅間神社、庚申塚、三峰神社・御嶽神社などをひと回りして、金美館通り沿いの鳥居から境内を出ると、入谷鬼子母神の裏手辺りにも三峰神社があることを思い出し、訪ねてみることにした。金杉通りを南下して言問通りに出ると、鬼子母神を過ぎると右折して、昭和通りの一つ手前の路地を真っ直ぐ南下する。
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1d4d42e4.jpg 高いビルが立ち並ぶビルの袂にどうかすると見過ごしそうな小さな社がある。これが三峰社で、この近くはその昔豊住町といったらしい。社の前に台東区の旧町名由来板が立っている。

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c3edcbbf.jpg 昭和通りにでるとここを少し南下して、かっぱ橋本通りを東に進む。台東区は東京23区の中でももっとも面積の狭い区であるというが、此処曹源寺(かっぱ寺)辺りが、台東区の臍に当たるらしい。この辺りはその昔松葉町といわれたらしく、通りの両側にはあちこちに河童の置物が見られる。
 国際通りから奥山の参道を通り、淡島明神の前に出て言問通りに抜けて、帰宅した。9186歩、5.9㎞と記録されていた。
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06d7198a.jpg 平安初期の歌人学者である小野篁(おののたかむら、802~ 853年)を祀る。小野篁は、上野国司となるが(下野では足利学校を創立)、その子孫には書家の小野道風(894~966年)や六歌仙の小野小町(生没年不詳)がいる。任期を終えて帰国の帰路で上野忍岡の風景を賞し、亡くなった後にその地に霊を奉拝し、後の上野寛永寺造営のとき(1625)長左衛門稲荷があった当地に移転したといわれる(上野忍岡にあった孔子聖廟が昌平橋に移転した《1691年頃》ともいう)。菅原道真(845~903年)公を配神する。境内社には ①富士浅間神社:木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)・大山祗命(おおやまつみのみこと)・磐長姫命(いわながひめのみこと)・天津彦彦火瓊瓊岐命(あまつひこひこほのににぎのみこと) 富士山より岩石を運び天明年間《1782年》に築造、文政11《1821》年に修復したという ②御嶽神社:国常立命、国狭槌命(くにのさつちのみこと)、豊斟淳命(とよくむぬのみこと) 御嶽信仰者に依り古くに創建した ③三峰神社:伊邪奈岐命、伊邪奈美命 大正9年合祀した ④琴平神社:素盞雄命 江戸末期に合祀した ⑤庚申塚:猿田彦命 日本三大庚申の一つ 最古の塔は天保2(1647)年の作 ⑥稲荷神社:宇迦之魂命 長左衛門稲荷と称し、小野照崎神社遷座前より当地の地主神 ⑦織姫神社:栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと) 昭和29年に織物組合庭内に奉斎されていた織姫神社を合祀
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b3f396dd.jpg 言問通りを越してはいるが、同じ下谷に2つ三峰神社があるのは何か謂れがあるのだろうか。こちらの眷属の狼さん先ほどの小野照崎神社の境内社の三峰神社の狼さんとそっくりである。阿の狼さんは先ほどの小野照崎神社のものは下顎が破損していたが、こちらのほうは完全である。案内板も何もないので、詳しいことは判らないが、いずれ秩父の三峰神社から勧請したものであろう。
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b6f9cee8.jpg 言問通りと小松橋通りの中間にある通りを西へ、千束五叉路から国際通りを北上。左折して竜泉1丁目と2丁目を分ける道を西へ進む。昭和通り(現日光街道)を横切り、金杉通りに出る。南へ少し下ったところに三島神社がある。ここは下谷3丁目であるから、仮に「下谷三島神社」としておこう。境内に入ると、10人近い人々が、境内を掃き清め、拝殿を拭き掃除されている。併社の火除稲荷の祭壇や鳥居まで磨き上げておられる。おそらく、地元の氏子の人々だろう。
07c0b3b2.jpg 金杉通りを暫く南下すると、柳通りというのがあったので、右折してこのとおりを通ってみる。尾竹橋通りに出ると直ぐ左が根岸小学校。通りを渡ると豆富料理の「笹の雪」、正岡子規が贔屓にした店で、玄関先に子規の句碑が立つ。尾久橋通りに入ったところの路地を行けば子規庵と書道博物館が向かい合わせにある。その手前に普通の民家と見紛う程の幅2mほどの2本の門柱の間に八二神社というのがある。何でも加賀藩前田家の所縁の神社ということらしい。八二神社を見ると元来た道を引き返し、言問い通りを東に真っ直ぐ帰宅した。本日の記録は10516歩、6.8㎞なり。
bc4adada.JPG 下谷三島神社の祭神は大山積命、配祀されているのは身島姫命、和足彦命、上津姫命(雷神)、下津姫命(竜神)の諸神。境内社に火除稲荷社(保食命)、旧には御崎稲荷、地主神の可能性あるという。境内に雷神を封じ込めたという井戸がある。縁起は昨日記した元三島神社とまったく同じである。すなわち、蒙古襲来(弘安の役1281)で河野通久の孫の河野通有は九州へ出兵、勝利して上野山へ帰り、愛媛県大三島の大山祇神社を上野山の河野館に勧請した(旧三島社、推定上野山中)という。当社の神主は河野通有の代々の子孫だそうで、現在は女性の神主さんであると聞く。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けますが御用地となったために浅草小揚町(現、蔵前4~寿4)に移転している(1650年)。江戸末期の地図には元三島権現社と浅草三島神社が記載されている当社は記載がなく、当地は火除の空き地になっている。旧三島社は上野山中から浅草や根岸へ移転を繰り返しているのである(元三島神社参照)(寿三島神社参照)。元三島神社と寿三島神社は別当が金杉西蔵院で、元三島社と当社の真ん中の位置にある。当社には別当があった様子もなく、明治の神仏分離以降に当地に建立されているとみえる。元三島神社は金杉村の西端にあり、当社は明治にはいってから金杉村の東端に建立された、といったところだろう。
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 旧日光道中(現、金杉通り)に面しているが、新編武蔵風土記稿に金杉村の地名由来は鶴岡八幡宮の文書(1399年)に当地に金曽木三郎なる人物の事跡がありこれによる、とある(当地に金曾木小学校あり)。江戸末期の地図には近隣に御獄社、石稲荷社、稲荷社があり、当社の場所には火除地がある。御獄社が配祀の木花開耶姫命、日光道中近くにあった稲荷社が地主神の火除稲荷社となっていると推定されるが詳細は不明である。なお、先だって訪ねたように石稲荷社は下根岸稲荷として江戸地図と同じ場所に現存している。
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fae84726.jpg 八二神社は、加賀藩主前田家が明治にこの場所(根岸82番地)に五千坪の土地を貰い本郷から引っ越した場所で、前だけに所縁の神社らしい。思うに番地の82が神社の名前になったのだろう。正岡子規のお家も前田家が家臣に用意した借家の一つだという。今は殆どが鶯谷のラブホテルに大変貌、前田家の先祖も子規も目ん玉ひん剥(む)いているかも知れん。
 言問通りを鶯谷駅北口まで西に進む。北口の改札口から、本殿は見えるが、これが元三島神社らしい。入口が判らない。
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8f6cd0aa.jpg この辺りは飲み屋とホテルが立ち並び盛り場のど真ん中である。飲み屋街にそってひと回りすると信濃路という飲み屋の上に本殿があるらしい。曲がりくねった道路を回ると一の鳥居が立っていて、その袂に古びた由緒説明板があった。境内に入ると、階段がありそこを上った奥に本殿がある。元三島神社を出ると、創業350年という豆富料理の「笹の雪」の前から、再び言問通りに出ると、台東区の旧町名由来板がありこの辺りが上根岸町」であったことを知る。元来た道を引き返すのも能がないので、入谷方面でも見て帰ろうと路地に入ったが、途中方向が判らなくなり、あっちうろうろ、こっちうろうろ、どうやら国際通りの鷲神社の前に出ることが出来た。千束の五叉路から言問通りと小松橋通りの中間の通りを東進して帰宅した。11570歩、7.5㎞が記録されていた。
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 元三島神社の縁起は、先だって記した寿三島神社の縁起と同じである。下って、旧三島社は徳川幕府から社領を受けるが(位置不明)御用地となったために浅草小揚町(現、蔵前4)に移転する(1650年)。浅草小揚町から当地に再び移転したのは金杉村(現在の根岸~下谷)から遠くに社が離れてしまったため氏子の要望によるもので、当地にあった熊野権現社と合祀して現在の元三島神社となったのである。祭神は大山祇命(おおやまづみのみこと)で、上津姫命 下津姫命 和足彦命 身嶋姫命を配祠する。また、伊佐那岐命を合祀する。鶯谷駅裏の盛り場の真ん中にあり下階が飲食店、その2階に鎮座します。それでも境内に入るとふっと喧噪から離れるから不思議である。前述の通り台東区には3つの三島神社がある。当社と浅草三島神社と下谷三島神社である。縁起はすべて同じであるが、江戸名所図会に記載されているのは浅草三島神社で当社と下谷三島神社は記載がない。(江戸末期の地図(1850年頃)には浅草三島神社と当社の2社が記載されている)。
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e53353af.JPG 江戸名所図会には浅草三島神社は、元禄年中(1688~1704年)に下谷坂本(現:下谷1~下谷3)にあった社を浅草に移転したとある。新編武蔵風土記稿には寛永6(1629)年までは小名根岸(位置不明)にあって御用地となったために移転したがご神体を熊野社に仮設置していたのでこの地を元三島という、とありる。上野寛永寺の造営開始が1625年頃であるから、旧三島社の最初の移転がこれかも知れない。以後寛永寺には社領が次々に幕府から寄進されてゆくのである。縁起と名所図会の移転年に数十年のずれがあるのは、明暦の大火が1657年であるから浅草移転直後にこの大火で焼失し、いったん下谷坂本に再建された後に再び浅草に移転したことが錯綜しているのかもしれない。浅草から当地に再び移転したのは江戸名所図会の完成(1832~1850年頃)ということになる。なお、足立区の扇2丁目にも三嶋神社があるという(未散策)。こちらの縁起は江戸初期にその地の開拓を行った阿出川権左衛門知康の勧請(1620年頃)によるようで、別当が当社と同じ金杉西蔵院となっているので、これも上野山にあった旧三島神社が原形である可能性もある。
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603c5dfa.JPG 言問通りと小松橋通りの間に位置する通りを西に国際通りまで進む。国際通りを北上し、大音寺を過ぎた所の通りを西に入り、昭和通りを横切って金杉通りに出る。金杉通りからさらに西に少し入ったところに台東区立金曽木小学校があり、小学校前には台東区の「下町まちしるべ」が立っている。小学校の掲示板には「江戸名所会図・根岸の里の寮」などの切り絵などが掲示してある。
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 小学校の横道を南に少し入った裏手に「下根岸稲荷神社」がある。鳥居には「石稲荷神社」とある。鳥居は石造の明神鳥居、拝殿と氏子の集会場が廊下でつながれているらしい。お稲荷様だからお狐様を探したが、お狐様の鎮座する台座らしきものは本殿の両端にあるのだが、何処へお出かけか不在である。台座の前には簡単な由緒書の立て札があった。
2f6ac654.jpg もと来た道をもどり、金杉通りを南下して言問通りに出る。言問通り越しに入谷鬼子母神が見える。寺門の両端に柘榴(ざくろ)の木が植わっているが、沢山の実をつけているのが、道路越しながらよく見える。鬼子母神様もさぞお喜びの事であろう。言問通りを東に進み帰宅した。8501歩、5.5㎞を記録。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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