瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
ギリシア神話:糸杉になった青年
Kyparissos(キュパリッソス)は、取り分けすらりとした背丈に、伸びやかな手肢をして、理知的な広い額に真っ黒な瞳をいかにも真摯(まじめ)らしく閃(ひらめ)かせる美しい青年だった。彼はボイオーティアの豪族ミニュアース家の息子であった。彼は牧場の生活を好み、真昼間の憩いの時にはアポローンとさまざまな運動競技にうちつれて遊ぶのを常としていた。かれは生まれつき生物が好きで、自分から牧場に来るようになったのも、ひとつにはこの獣たちの世話をしたいからであった。このKyparissosには一つご自慢の飼養物がいた。それは巨(おお)きな牡鹿で、その郷の田舎の人々が恐れかしこむ女神たち、山や野を治めるニンフたちにとって神聖な獣だった。その額にはありふれた野鹿とは格段にたち優れた立派な角がいくつにも分かれて枝を飾って誇らしく拡がっていた。朝日夕日の輝くときはこの角は彼の神聖さを誇示するかのように金色に照り映えるのであった。その円やかによく肥えた頸には、宝石を鏤めた銀の首輪が嵌められていた。額には生まれたときから銀の丸鋲を幾つもつけた皮の垂が下がり、両耳には煌く大きな真珠の玉が吊り下げられていた。しかもこの牡鹿は世の常の鹿とは変わって、少しの怖れ気もなく立ち回り人里を訪れ、近寄る者に頸を撫でさえさせるのであった。
Kyparissosがこの鹿を大切にし可愛がり、また何よりの誇りとしていたのも当然のことといえよう。彼は日毎にこの鹿を新しい牧ヘ伴(ともな)い、また清らかな泉へ水を飲ませに行くのを日課としていた。閑なときには美しく咲いた野の花々を積み集めて花冠を作り、この鹿の角にかけてやった。時にはその背に跨って紅の手綱を揺らせ、此処彼処(ここかしこ)と涼しい木陰を拾って進んだ。彼のこの喜びがついに際限もなく深い悲しみに変わる日がとうとうやって来た。それはとりわけて暑い夏の日盛りだった。疲れた鹿はすっかり伸びてしまって草原に身を臥せていたが、やがて渇を覚えたものか、起ち上がると繁みの中の涼しい木立の陰にある泉の水を飲みに出かけた。Kyparissosは昼の憩いに槍を投げて練習していた。青年は疲れを知らない。何時しか熱中していた彼は槍を抜き取ると、力の限り庭のほうへ投げ返した。槍は思ったより勢いよく空を切って、木立の中に突き刺さった。何者かの倒れる音、微かな呻き声。不審に思って駆け寄った少年が見つけたものは、鋭い穂先に胸を貫かれてもう息も絶え絶えな鹿の姿だった。
その無惨な様を見るより、悔いと悲しみとに、少年は自分も共に死をひたすら願うのであった。アポローンはいうまでもなく、すぐ馳せつけて彼を慰めた。そして嘆きも程ほどにして身を傷(やぶ)らぬようにと諌めた。しかし少年はただひたすら身も世もあられず、泣き悲しむばかりだった。涙にくれながら御神にせめてもの慈(めぐ)みの徴(しるし)に永遠(とこしえ)に自分がこの愛する者の死をいたむことを容(ゆる)たもうよう願うのだった。その頬からすべての歓喜が去って色蒼ざめ、やがて身体じゅうから血の気が退いてなく成り果てると、絶え間もない嘆きに生の力は尽き、固い痺れが手足を襲い始めた。やがてそれらは凝固して感覚のない樹の皮で蔽われ始めた。今しがた迄匂やかな眉の上に垂れ下がっていた髪の毛は緑の色の葉添えに変わった。とうとう彼は星空にまで高い梢を揺る、それでも優雅に憂いに満ちたくろずんだ緑の喬木に変わった。御神は深い溜息をされると、樹に向って言われた。
「私は永遠にお前を悼(くや)もう、お前はまた永遠にいつも他(ひと)を悼んでゆくがいい。そしてお前の場所はこれからはいつも墓傍に定められよう」
これがKyparissos、あの糸杉(キュパリッソス)、つまりCypress(サイブレス)樹の身の上であった。
その無惨な様を見るより、悔いと悲しみとに、少年は自分も共に死をひたすら願うのであった。アポローンはいうまでもなく、すぐ馳せつけて彼を慰めた。そして嘆きも程ほどにして身を傷(やぶ)らぬようにと諌めた。しかし少年はただひたすら身も世もあられず、泣き悲しむばかりだった。涙にくれながら御神にせめてもの慈(めぐ)みの徴(しるし)に永遠(とこしえ)に自分がこの愛する者の死をいたむことを容(ゆる)たもうよう願うのだった。その頬からすべての歓喜が去って色蒼ざめ、やがて身体じゅうから血の気が退いてなく成り果てると、絶え間もない嘆きに生の力は尽き、固い痺れが手足を襲い始めた。やがてそれらは凝固して感覚のない樹の皮で蔽われ始めた。今しがた迄匂やかな眉の上に垂れ下がっていた髪の毛は緑の色の葉添えに変わった。とうとう彼は星空にまで高い梢を揺る、それでも優雅に憂いに満ちたくろずんだ緑の喬木に変わった。御神は深い溜息をされると、樹に向って言われた。
これがKyparissos、あの糸杉(キュパリッソス)、つまりCypress(サイブレス)樹の身の上であった。
午前、北海道は旭川勤務に単身赴任している塾友のK氏が年賀の挨拶に訪ねてくれた。仕事部屋に飾ってある昨年暮れの忘年会の写真を見て懐かしがりながら、「早く、忘年会に復帰したいものですね」と言っていた。息子さんは昨年トヨタに就職、娘さんはこの春大学受験とのことである。
Dáphnê(ダプネー)は、テッサリアを貫通する大河Peneios(ペーネイオス)の河神の娘であった。アポローン神がピュートの大蛇を退治したとき退治したとき(何となく「八岐大蛇」の話に似ている)、彼は天上で愛神Eros(エロース、Cupido)に出遭った。この小童は、人も知るように裸形でいつも弓と矢を手挟んでいる。今しも悪龍を退治した手柄に心膨れたアポローンは、その小賢しい様子を見るなり揶揄って言った。「おい、悪戯小僧奴、大人の持つ武器を玩具にして、どうしようってんだ。そいつは僕の道具だよ。僕は十分な力と確かな技倆を持っている。それで狙いも誤たず、野獣でも悪い奴でも射て取るんだ。今が今とてほら、あそこに谷々を覆って延びている巨龍を退治してきたのだぞ。お前はせいぜい炬火(たいまつ)でも持って隠れた恋の通い路を照らしてやるのが分相応だろう。僕と腕比べをして争おうなんて考えちゃいけないよ」
こういうとErosは可愛い眉を昂(あ)げて、「君の箭はいかにも何でも射通すそうだがね、僕の矢は君でさえ射抜いてしまうんだよ。人間が神々に劣るくらい、丁度それだけ君の誉れも、僕の力に敵うまいというものさ」こう言って彼は翼を揺(ゆ)り立てて、遥かの空へそのまま翔って行ったが、パルナッソスの頂に着くと、背の箙から2本の矢を取り出して、それを弦にあてがった。一方は鋭いぴかぴか光る黄金の鏃のついた箭で、当たった者を愛しい思いに燃立たせる矢、もう一方は鈍く曇った鉛を端につけた矢でこれに当たれば、ただ人が疎ましく厭(いと)ましく思われてくるのだった。エロースはこの鉛の箭を取ってペーネイオスの河の神の娘に向けて射た。それからもう一方は、密にアポローンの胸を狙って射放たれた。
Dáphnêはまだ恋などという言葉を耳にするのも厭わしくただ森の寂(しず)けさを愛して、野山に獣を追って歩いた。彼女の髪はただ一条の細いバンドで束ねられたばかりに白い項(うなじ)に垂れかかり、すんなりとした肩には箙(えびら)を吊るした。短い上衣は膝に達せず、紅の行縢(むかばき)が形の良い脹脛(ふくらはぎ)をしっかと締め付けているだけだった。彼女の手を求め、父の河神を訪ねる若殿原は、近隣の国だけではなく、遥かな山を越えたラピタイの中にも数多くあった。しかし彼女は求婚者等というものには一顧も与えず、婚礼のことを父から言われると、耳までまっ赤に染めて強く首を振るのだった。そして父親の首に縋りながら甘えた声で、「お父様お願いですから、私に何時までも処女(きむすめ)のままでいさせて下さいまし。あのアルテミス女神さまの御父親だっても、それをお許しになっておいでですのに」と言うのであった。彼女の父ペーネイオスは止むを得ず娘の言うままに、それを見過ごしていたが、彼女の美しさが、何時までもその願いを容(ゆる)してはおかなかった。アドメートスの羊を監督(みと)るアポローン神は、時折牧場を横切って行く少女の姿にずっと前からもう胸を焦がしていた。彼女の暁の星のようにきらきらしく仄めく瞳に、さすが神の予言の力も早くから失われていた。彼は少女の匂やかな口許を見つめ鮮やかなその色に見とれはするが、やがてそれだけでは満足できなくなった。白い指や臂(ただむき)、形地のよい頚すじから肩、それらは見惚れる隙(ひま)も与えず、木立の中へ突き入って消えてしまう。そして彼が呼んでも振り向いてもみず答えようともしない。さすがの御神も一介の鄙びて荒くれた牧夫にしか彼女の眼には写らないのか。いつの間にか彼は我ともなく少女の後を追いかけていた。
逃げ行く少女の姿は、一際愛らしく見えた。風に翻る衣は形の好いふっくらした腿を露に見せた。そして爽やかな五月の風に彼女の亜麻色の髪は、煌きながら靡いて流れた。若々しい御神はもう甘たるい言葉で誘うのは止めた。一段の切なさを加えた胸のとどろきが彼の足に拍車をかけた。競走も最早や終わりに近付くと見えた。アポーロンは今にも達せられようという望みに歩みを速め、少女はひたすら恐れに足を駆り立てられた。それにしてももう彼女の力は尽き果てるに近かった。恐怖に色も蒼ざめて、背中に迫ってくる足音に総毛立ちなが、やっと眼の前に現れてきた父であるペーネイオスの流れに対って、彼女は叫んだ。
「お父様たすけて。私をこの男の人から護って。もしお父様が神様ならば、私の美しさをこの人のものにさせないでくださいまし」少女の祈りが、まだ口許から去るか去らないかに、劇しい痺れが彼女の足を捉えた。そしてその脇腹は見る間に固い樹皮で覆われて行った。ふさふさと初夏の太陽に輝いていて波打っていた金髪は緑の葉に変わり、両腕は同じようにすんなりとした枝となった。今しがた迄あれほど疾(はや)く馳っていた両脚も、今は地中に深く入り込んだ根に変じ、その頭は今では微風にそよぐ梢に過ぎない、ただ変わらないのは趣こそ異なれ前に等しく輝かしい美しさである。この新しい姿になっても、アポローンはまだ彼女を愛していた。其の気の幹へ手を当てると樹皮の下ではまだ心臓が優しく鼓動しているように感じられた。彼は樹の幹を耐え切れぬ思いで胸に抱きしめると、そっと唇を押し当てた。すると今でもまだその木は、縮かんで彼を避けるかのように思われた。とうとう耐え切れずに御神は樹に向かって声を上げて名を呼んでさけぶのであった。
月桂樹がアポーロンの栄えの象徴として、文武の誉を獲た人々の頭に、栄冠として献ぜられるのはこうした謂れに基くと言い伝えられる。月桂樹はギリシア名はダプネーである。
ギリシア神話:ApollonとAdmetos(2009年12月31日より続く)
アポローンの胸のうちはこれで収まるものではなかった。最愛の息子に対する過酷な処置に激昂したが、さすがにゼウスに対してははむかうことは出来なかった。そこで息子を殺害した道具である雷火の製造人Cyclopes(キュクローペス)を虐殺して僅かに胸中の憤悶を遣った。しかし、たとえアポローンであろうが、神々の間でのこの乱暴は容(ゆる)されえなかった。身内の者の血を流せば追放されなければならない。この不文の掟によって、アポローンは1年の間オリュンポスを追われ、死ぬべき人間の召使となり、隷従の憂目を忍ばねばならなかった。とはいえ、これもゼウスの格別の情によって、彼が送り出されたのは、人間のうちでも取り分けて正義を愛し慈悲に豊かな者の許へであった。テッサリアはペライの領主Admetus(アドメートス)がその人である。勿論アポローンは身元引受人なしで彼の受領に入ったわけであるが、情の厚い彼の待遇に気を良くしたアポローンは、早速得意の畜産学を用いて王の飼養する牛や羊などをどんどんと太らせ、また蕃殖させた。王の家畜は病気に罹らず、狼や豺(やまいぬ)などにも襲われず、王の作物には蝗やその他の害虫もつかず、野鼠も荒らさなかった。当然のことながら王はこの若い牧場管理者の手腕に感服し、十分に報いてやったに違いない。それに対してアポローンの方も、根がお人好しの坊ちゃん育ちときているから、一段と気を好くして、腕を揮った次第であった。王の息子Eumelos(エウメーロス)が後にトロイア遠征に加わったとき、彼の馬は抜群の駿足として聞こえたほどであったが、それはアポローンが常日頃ペライの町外れの名高いヒューペレアの水を飲ませていた馬だった。

アポローンが王のために働いたのは、この農場管理についてだけではなかった。同じテッサリアで程遠からぬイオールコスの町はPelias(ペリアース)の支配下にあったが、その娘Alkestis()は、父親に似ぬ気立ての優しさと、それ以上に容姿の美しさで、国々に聞こえていた。従ってその手を求めて群がる若殿原も決して尠(すくな)い数ではなかった。それに対する最大の障害と言うのはこの片意地な父親であった。それは車駕を一匹の獅子と一匹の野猪とに牽かせて花嫁御を迎えに来る者へという難題であった。Admetusも勿論Alkestisに思いを常日頃から寄せた青年の一人であった。予言の神であるアポローンが彼の胸中を察するのはいと容易(たやす)いことであったろう。御神は何とか辞を設けてAdmetusに告白させ、そんなことはお易い御用でと山中に分け入ると、忽ち獅子と野猪を手馴づけて車を牽かせて出てきた。こうしてAlkestisはAdmetusと賑々しく婚儀を挙げることになったが、そのうちに早くも彼の任期である一年が経ってしまって、訣(わか)れを告げねばならないことになった。アポローンは過ぐる一年の間の親切な持成しの褒美として、将来Admetus王が寿命を待たずに病のために死のうというとき、誰か自ら進んで変わりに冥府(よみ)へ行こうというものがあれば、命を助けられることを約束した。こうして、間(あいだ)に一子Eumelos(エウメーロス)が生まれて間(ま)もなく彼が遽(にわ)かの病で死のうというとき、父も母も、勿論他の何人も代わりに死のうと言わないのを、最愛の妻Alkestisが代わりに死んだのである。
ついでながら、Asklepios(アスクレーピオス)は、この事件の後、アポローンの憤慨ももっともとあって天上に神とせられ、Hippolytus(ヒッポリュトス)も同じく神化された。その後もAsklepioは医療の神として広く信仰され、各地に神殿や治療所が多く置かれた。Asklepiosの表徴としては第一に蛇、それから遊行者の杖と医者の薬を飲ませる盃などで、神前に捧げる贄(にえ)としては雌鶏が普通とされている。
ギリシア神話:Coronis・Asklepiosの悲劇
テッサリアはラリッサの領主Phlegyas(プレギュアース)には一人の娘があった。その名をCoronisと呼ばれ、テッサリア全州にも到底彼女に及ぶ者は在るまいと言われるほどに美しい娘であった。いつしか彼女はデルボイの御神(Apollon神)の寵愛を受ける身となっていた。たまたまの逢瀬を待ち侘びる彼女のためにアポローンは文使いとして、また慰みとして雪のような純白な翅(つばさ)をした一羽の鳥を与えた。それは鴉(からす)だった。鴉はこの時分には黒ではなくて真っ白な鳥であった。そしてこの鳥が御神の使いとして、デルボイの神殿から色々の土産物や見舞いの文を齎し、あるいはテッサリアから、御神への優しい便りや喞言(かごと)を伝えてくるのであった。鴉は勿論人間の言葉を解し、また語ることが出来た。
デルボイの御神は四方山の事件に忙殺されて、テッサリアへ出向かれない日が続いた。神々の一日は到底人間などの思い及ばないほど、忙しいものなのである。何しろ全世界の人間の祈りや願いや、泣言やその上怨み言まで聞かなければならない。その上方々の社での託宣や予言やその他のことが、生易しく出来ると思うのは間違いである。病人もあるし、その間にオリュンポスで饗宴が開かれれば、その演出もしなければならない。そんなわけで御神はコローニスの優しい姿を思いながらも、暫くは止むを得ずお出ましを控えておられた。というわけで、鴉もここのところ数日、テッサリアに姿を見せなかった。ところが思い立ったように不意に彼(鴉)がテッサリアの町へ飛んできて、プレギュアースの館の庭に舞い降りたとき、異様な光景が彼の眼に写った。若い男が、コローニスと親しく語らっている様子だった。しかもそれは、普通の親しさではない。コローニスの打ち解けた態度も嬉しそうな顔色も、尋常ではないあるものを示しているようだった。その若い男はアルカディアのIschys(イスキュス)という者だという。
ともかく主人の心を心とし一途に嚇となった鴉は一目散に今来た空を、そのままデルボイさして翔(か)け戻って、銀弓の御神に事の次第を告げた。コローニスはいたずらな望みを抱いてアポローンに背き、父の許しも得ずにアルカディアから来た男と言い交わし、結婚の儀式も祝いの歌も聞かずに、すでに邪な思いに身を任せたのだという。激怒した御神は恐ろしい傷みの篭る矢を取上げて、北の方に放ち給うた。矢は高い唸りを上げ、眼にも止まらず虚空を馳せてプレギュアースの館に突き入り、コローニスの胸にはつしと刺さった。彼女の白い肌は、真紅の血潮に濡れていった。悶えながら、彼女は両手を差し伸べて叫んだ。「アポローン様、御謀(おんはか)らいを私はとやかく申し上げはしませぬ。でも、死ぬ前に、せめてこの身に宿した貴方様の嬰児(やや)を、産み落としてまいりとう存じました。今二つのいのちが一本の矢でうしなわれるとは」こう言う内にも唇は蒼ざめ、息は遂に絶えてしまった。近親の者たちは泣く泣くも亡骸を取り収め、やがて葬儀の容易を整え、薪を積み上げて荼毘に付そうとした。
一方アポローンは一時の怒りに任せて酷(きび)しい処置を取りはしたが、忽ち言いようもない悲しみと後悔の思いに胸を苛(さいな)まされた。昔の優しかった女(ひと)面影、ひとつひとつに懐かしいそのこなしや持て成し、耳打ちされた言葉、それは人間でも神でも変わりはなかった。どうしてその人が自分を裏切るなんていうことがあろうか。何故、行って充分に真実を確かめてからにしなかったのだ。もしそうとしても、一時の心の迷いということもある。拗ね心でも、態とした見せつけでもあったかもしれない。こう思い出すとアポローン神とて自分の所業が疎ましく思われてならなかった。それにつけても憎らしいのは、余計な忠義面をして告げ口に来た鴉である。彼の呪いは御座の脇に勿体らしく羽根をたれていた鴉に向けられた。その日から鴉は忠義立ての褒美の代わりに、真っ黒な煤(すす)けた黒さを身に装って、コローニスの喪に永久に服さなければならないことになった。
御神は何事をもかなぐり捨ててテッサリアのプレギュアースの館に立ち向かわれた。そして冷たくなった少女の胸に香しい薫香を注ぎ、抱き縋られた。殯(もが)りの火についに屍が載せられた時、その胎(はら)から嬰児を取り出し、これをベーリオンのCentaur Chiron(ケンタウルス・ケイローン)に委ねられた。Chiron(ケイローン)はケンタウルスには珍しい有徳の老人で、ことに医学の術に達していた。ころニースの子は彼の博育をうけるうちに、自ずからさまざまな方策(てだて)を覚えて、養父にも勝る卓越した医学の腕前を獲得するにいたった。無論実の親であるアポローンの遺伝とも言うべき血統と、陰に陽にの庇護薫陶が與って力あったのだろう。いうまでもなく、これが医薬の神Asklepios(アスクレーピオス)の生い立ちである。間もなく彼の名前は全世界に広く伝えられた。この時代の彼はどうやら父である御神よりも、人間の母の性を多く受け継いだらしい。また彼の医術に対する熱心さには全く人を感動させるものがあつた。彼の手腕はそれに比例して進んでいくように見えた。しかし、それにも遂に限度があった。彼はその限度を超えることによって、遂に一命を失わなければならなかった。それはおおきな矛盾であった。そして結果論的には彼はこの矛盾を突き抜けることによって、神にもなったのではあるが。
Asklepiosは人を救うのに熱心なあまり、ついに死者をも蘇らせたのである。一伝ではこの死者というのはあのテーセウスの息子のHippolytus(ヒッポリュトス)のことだといわれる。清浄無垢な処女神アルテミスへの奉仕に熱心なあまり、恋の神アプロディーテーの復讐によって無実の罪にあたり、父の呪いを受けて致命傷を受けたこの青年は、おそらく年若な医師に献身的な治療を鼓吹するに足りる清らかさと気高さを持っていたのだろう。一旦黄泉へ赴いたかに見られた生命(いのち)はまたこの世に引き戻されたのである。
しかしこれはいかにも自然の理法に背いた不当なる侵害であった。冥府の王Ploutōn(プルートーン)は当然に手厳しい抗議をゼウスの下に提出した。やむなくゼウスは(彼自身始末に困って)早速電火を遣って、Asklepiosを焼き滅ぼして、地下の世界に送り込んだのである(彼がそこでどのような待遇を受けたのかはさだかでない)。 ―― 次回に続く
テッサリアはラリッサの領主Phlegyas(プレギュアース)には一人の娘があった。その名をCoronisと呼ばれ、テッサリア全州にも到底彼女に及ぶ者は在るまいと言われるほどに美しい娘であった。いつしか彼女はデルボイの御神(Apollon神)の寵愛を受ける身となっていた。たまたまの逢瀬を待ち侘びる彼女のためにアポローンは文使いとして、また慰みとして雪のような純白な翅(つばさ)をした一羽の鳥を与えた。それは鴉(からす)だった。鴉はこの時分には黒ではなくて真っ白な鳥であった。そしてこの鳥が御神の使いとして、デルボイの神殿から色々の土産物や見舞いの文を齎し、あるいはテッサリアから、御神への優しい便りや喞言(かごと)を伝えてくるのであった。鴉は勿論人間の言葉を解し、また語ることが出来た。
ともかく主人の心を心とし一途に嚇となった鴉は一目散に今来た空を、そのままデルボイさして翔(か)け戻って、銀弓の御神に事の次第を告げた。コローニスはいたずらな望みを抱いてアポローンに背き、父の許しも得ずにアルカディアから来た男と言い交わし、結婚の儀式も祝いの歌も聞かずに、すでに邪な思いに身を任せたのだという。激怒した御神は恐ろしい傷みの篭る矢を取上げて、北の方に放ち給うた。矢は高い唸りを上げ、眼にも止まらず虚空を馳せてプレギュアースの館に突き入り、コローニスの胸にはつしと刺さった。彼女の白い肌は、真紅の血潮に濡れていった。悶えながら、彼女は両手を差し伸べて叫んだ。「アポローン様、御謀(おんはか)らいを私はとやかく申し上げはしませぬ。でも、死ぬ前に、せめてこの身に宿した貴方様の嬰児(やや)を、産み落としてまいりとう存じました。今二つのいのちが一本の矢でうしなわれるとは」こう言う内にも唇は蒼ざめ、息は遂に絶えてしまった。近親の者たちは泣く泣くも亡骸を取り収め、やがて葬儀の容易を整え、薪を積み上げて荼毘に付そうとした。
一方アポローンは一時の怒りに任せて酷(きび)しい処置を取りはしたが、忽ち言いようもない悲しみと後悔の思いに胸を苛(さいな)まされた。昔の優しかった女(ひと)面影、ひとつひとつに懐かしいそのこなしや持て成し、耳打ちされた言葉、それは人間でも神でも変わりはなかった。どうしてその人が自分を裏切るなんていうことがあろうか。何故、行って充分に真実を確かめてからにしなかったのだ。もしそうとしても、一時の心の迷いということもある。拗ね心でも、態とした見せつけでもあったかもしれない。こう思い出すとアポローン神とて自分の所業が疎ましく思われてならなかった。それにつけても憎らしいのは、余計な忠義面をして告げ口に来た鴉である。彼の呪いは御座の脇に勿体らしく羽根をたれていた鴉に向けられた。その日から鴉は忠義立ての褒美の代わりに、真っ黒な煤(すす)けた黒さを身に装って、コローニスの喪に永久に服さなければならないことになった。
御神は何事をもかなぐり捨ててテッサリアのプレギュアースの館に立ち向かわれた。そして冷たくなった少女の胸に香しい薫香を注ぎ、抱き縋られた。殯(もが)りの火についに屍が載せられた時、その胎(はら)から嬰児を取り出し、これをベーリオンのCentaur Chiron(ケンタウルス・ケイローン)に委ねられた。Chiron(ケイローン)はケンタウルスには珍しい有徳の老人で、ことに医学の術に達していた。ころニースの子は彼の博育をうけるうちに、自ずからさまざまな方策(てだて)を覚えて、養父にも勝る卓越した医学の腕前を獲得するにいたった。無論実の親であるアポローンの遺伝とも言うべき血統と、陰に陽にの庇護薫陶が與って力あったのだろう。いうまでもなく、これが医薬の神Asklepios(アスクレーピオス)の生い立ちである。間もなく彼の名前は全世界に広く伝えられた。この時代の彼はどうやら父である御神よりも、人間の母の性を多く受け継いだらしい。また彼の医術に対する熱心さには全く人を感動させるものがあつた。彼の手腕はそれに比例して進んでいくように見えた。しかし、それにも遂に限度があった。彼はその限度を超えることによって、遂に一命を失わなければならなかった。それはおおきな矛盾であった。そして結果論的には彼はこの矛盾を突き抜けることによって、神にもなったのではあるが。
しかしこれはいかにも自然の理法に背いた不当なる侵害であった。冥府の王Ploutōn(プルートーン)は当然に手厳しい抗議をゼウスの下に提出した。やむなくゼウスは(彼自身始末に困って)早速電火を遣って、Asklepiosを焼き滅ぼして、地下の世界に送り込んだのである(彼がそこでどのような待遇を受けたのかはさだかでない)。 ―― 次回に続く
今朝のウェブニュースより

「伊江島か下地島に」普天間移設先で小沢氏が与党関係者に意向 ―― 民主党の小沢一郎幹事長が米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の新たな移設先について、沖縄県内の離島を軸に検討する考えを与党関係者に伝えていたことが29日、分かった。小沢氏は同県内の米軍伊江島補助飛行場(伊江村)、下地島空港(宮古島市)への代替施設建設に前向きだ。/鳩山由紀夫首相も県内移設を示唆しており、民主党は政府・与党協議で両島への移設案を示す一方、日米合意に基づき米軍キャンプ・シュワブ沿岸部(名護市辺野古)に移設する現行計画は選択肢から除外する。/伊江島は沖縄本島北部西海岸の本部(もとぶ)半島から約9キロに位置する離島。約1600メートルの滑走路を備える補助飛行場や米海兵隊の訓練施設がある。下地島は沖縄本島南西の宮古列島に位置し、民間パイロット訓練施設も備える下地島空港がある。/小沢氏は28日、「沖縄の人の声は尊重しないといけない。きれいな海を汚していいのか」と現行計画に否定的な見解を新党大地の鈴木宗男代表に示した。/与党関係者によると、小沢氏はこれに先立つ15日、県内移設を念頭に「(米軍が)使っていないところで使える所があるのではないか」と述べるとともに、伊江、下地両島移設の検討が必要との認識を示した。29日には与党幹部との会合で「下地島空港」に言及した。/移設問題に関し、政府は28日から政府・与党協議を始めており、鳩山由紀夫首相の来年5月に結論を出す意向を踏まえ、1月末までに各党が移設先を明示して協議を加速することにしている。民主党側は両島を有力な選択肢として検討する構えだ。/防衛省は21年10月、伊江、下地両島への移設の可能性を探る現地調査を行っている。1月に沖縄入りする平野博文官房長官も、伊江島や下地島を訪問する意向だ。(産経ニュース、2009.12.30 01:17)
横浜のN氏から、メールが入った
「歳の暮れのメールのご返事ありがとう。/お父上の祥月命日が12月29日とか。その思い出を拝見、大まかには君の書いたさまざまな文章で覚えていたが、棺を積んだ荷車にそれを焼く薪もともに積んでいくという光景はなんともすさまじい。あの頃は、薪も配給だったからね。私の母は、正確には12月22日が祥月命日だが、息子と孫の日程が詰まっていたので、すべてが終わった29日にしたわけ。
いまYS君から電話、「三馬鹿プラス日高の会」??? は、1月14日、13:00 横浜駅西口交番前集合で二転して決まったと連絡あり。
~話を続けると~、
私の母方の祖母が敗戦の年の9月に門司で死んで、丸山の火葬場に遺体を運んで荼毘に付したことがあった。さすがに薪は積んで行かなかったが、隣りに住んでいた指物大工さんに頼みこんで、寝棺を作ってもらい、どこからか借りてきた大八車に棺を縛り付けて、夫である祖父は、一人で女房の死体を乗せた大八車を、あの急な丸山の火葬場に至るカーブの舗装道路を曳いて登った。わたしは葬列について歩いただけ。/終戦直後の葬式は、最もガンジス川のほとりでおこなうヒンズー教のやり方に近かったね。/夜間に陰坊が焼いて、翌日、骨拾いに行ったと記憶しているが、夫婦というもの、相方の死体を一人で運ぶ体力を、戦後のような混乱期には保持していなければならないもんだと思ったよ。
さてきょうメールする気になったのは、NHKのFM放送の「にっぽんの歌、世界の歌」という番組(月~金 朝9:20~10:00 )で畑中良輔(門司中学12回生)が出ていて、大木惇夫さんの「野の羊」という曲を語っていた。♪野原はいいな、おや、羊がいるよ という歌。立川澄人が歌っていた。/白秋門下の一番弟子の大木惇夫さんという説明だったが、広島銀行? 勤務している頃から伯父さん? は白秋に師事していたのかい。♪野原はいいな、さびしくていいな という最後の句は、〆がよく効いている。
三馬鹿の会も、YSご本人が、ハーモニカの練習日を忘れるようでは、まだ現役並みに調整が必要な状況とお見受けした。なにはともあれ、1月14日13:00は楽しみにしています。
大木惇夫氏は永遠なりだね。」
因みに、大木惇夫は爺の伯父(おふくろの兄)で明治28(1895、乙未)年4月18日生まれ。日清戦争の攻略終了間もなくに生まれたので、「軍一」と名付けられたと聞いた。広島市小網町で生まれ、県立廣島商業を卒業、三和銀行の前身である三十四銀行に勤務していたが、青雲の志止み難く、上京して博文堂に勤めながら文学者の道を進んだという。ご本人によると、「白秋の弟子ではないが、白秋に心酔していたので、マスコミがそのように言うんじゃろう」ということであった。
「野の羊」 大木惇夫 詩 服部 正 曲
野っぱらはいいな/いつ来てみてもいいな/おや 羊がゐるな/放ち飼ひだな/だが独りだな
いい毛なみだな/見てやる者もないのだな/飢じさうだな/だが恨まない眼だな
俺も未のうまれだな/おや羊の脊に紫の斑が揺れたな/ああ 辛夷(こぶし)の花の影だな
野っぱらはいいな/さびしくていいな
横浜のN氏から、メールが入った
「歳の暮れのメールのご返事ありがとう。/お父上の祥月命日が12月29日とか。その思い出を拝見、大まかには君の書いたさまざまな文章で覚えていたが、棺を積んだ荷車にそれを焼く薪もともに積んでいくという光景はなんともすさまじい。あの頃は、薪も配給だったからね。私の母は、正確には12月22日が祥月命日だが、息子と孫の日程が詰まっていたので、すべてが終わった29日にしたわけ。
いまYS君から電話、「三馬鹿プラス日高の会」??? は、1月14日、13:00 横浜駅西口交番前集合で二転して決まったと連絡あり。
~話を続けると~、
私の母方の祖母が敗戦の年の9月に門司で死んで、丸山の火葬場に遺体を運んで荼毘に付したことがあった。さすがに薪は積んで行かなかったが、隣りに住んでいた指物大工さんに頼みこんで、寝棺を作ってもらい、どこからか借りてきた大八車に棺を縛り付けて、夫である祖父は、一人で女房の死体を乗せた大八車を、あの急な丸山の火葬場に至るカーブの舗装道路を曳いて登った。わたしは葬列について歩いただけ。/終戦直後の葬式は、最もガンジス川のほとりでおこなうヒンズー教のやり方に近かったね。/夜間に陰坊が焼いて、翌日、骨拾いに行ったと記憶しているが、夫婦というもの、相方の死体を一人で運ぶ体力を、戦後のような混乱期には保持していなければならないもんだと思ったよ。
さてきょうメールする気になったのは、NHKのFM放送の「にっぽんの歌、世界の歌」という番組(月~金 朝9:20~10:00 )で畑中良輔(門司中学12回生)が出ていて、大木惇夫さんの「野の羊」という曲を語っていた。♪野原はいいな、おや、羊がいるよ という歌。立川澄人が歌っていた。/白秋門下の一番弟子の大木惇夫さんという説明だったが、広島銀行? 勤務している頃から伯父さん? は白秋に師事していたのかい。♪野原はいいな、さびしくていいな という最後の句は、〆がよく効いている。
三馬鹿の会も、YSご本人が、ハーモニカの練習日を忘れるようでは、まだ現役並みに調整が必要な状況とお見受けした。なにはともあれ、1月14日13:00は楽しみにしています。
大木惇夫氏は永遠なりだね。」
「野の羊」 大木惇夫 詩 服部 正 曲
野っぱらはいいな/いつ来てみてもいいな/おや 羊がゐるな/放ち飼ひだな/だが独りだな
いい毛なみだな/見てやる者もないのだな/飢じさうだな/だが恨まない眼だな
俺も未のうまれだな/おや羊の脊に紫の斑が揺れたな/ああ 辛夷(こぶし)の花の影だな
野っぱらはいいな/さびしくていいな
今朝のウェブニュースより
「三国志」曹操の本物の墓地を発見 ―― 中国の長編小説「三国志演義」の主要人物、曹操(155~220年)の墓地が河南省で発掘された。/ 後漢時代、天下統一をめぐり劉備、孫権と雌雄を争った曹操は、長者の曹丕が魏を建国した後、武帝と追尊された人物だ。曹操は死ぬ前に墓地の盗掘を防ぐため、72の家廟を作るよう遺言を残したものとされる。このため曹操の墓地の所在地に関連し多様な学説が混在していたが、これまで本物の墓地は発見されずにいた。/27日付の中国共産党機関紙・人民日報が報じたところによると、河南省安養県安豊郷西高穴村で、魏の武王、曹操の陵墓を確認した。地下15メートルに位置した同墓地は甲の字の構造で、西方から東方へ傾斜路の墓道を降りていくと6の部屋が現れる。全長60メートルにのぼるこの巨大な墓地は、漢代の王侯らの陵墓と規模が似ている。/ 発掘チームが本物の墓地と確信できた理由は「魏の武王が使った戟(魏武王常所用格虎大戟)」「委の武王が使った石の枕(魏武王常所用慰頚石)」と刻まれた銘文が見つかったからだ。河南省文物局と中国の考古学者はこの銘文を重要な根拠に、同墓地が曹操の陵墓だと結論付けた。/ 考古学者らは魏・武王の銘文が見つかったほか、出土した遺物(200点)が文献の記録上、曹操の好みと一致し、墓地の構造も、葬儀の簡素化を命じた曹操の遺言と一致すると強調している。学者らは「三国時代研究への一大転機となる」と興奮を隠せなかった。(中央日報)



曹操は、中国後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。沛(はい)国譙(しょう)県(現在の河南省永城市)の人。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。彼の挙兵時から従軍した夏侯惇、夏侯淵等は従兄弟にあたる。息子の曹丕によって後漢に代り魏が建国される。
中国河南省安陽市安陽県安豊郷西高穴村で、約740平方メートルの面積の陵墓が発見された。曹操を示す「魏武王」と刻まれた銘文など200点以上の埋葬品や60代前後の男性の遺骨と女性2人の頭部や足の遺骨が発見され、中国河南省文物局が曹操の陵墓であるということを2009年12月27日に暫定的に発表したというのである。
「三国志」曹操の本物の墓地を発見 ―― 中国の長編小説「三国志演義」の主要人物、曹操(155~220年)の墓地が河南省で発掘された。/ 後漢時代、天下統一をめぐり劉備、孫権と雌雄を争った曹操は、長者の曹丕が魏を建国した後、武帝と追尊された人物だ。曹操は死ぬ前に墓地の盗掘を防ぐため、72の家廟を作るよう遺言を残したものとされる。このため曹操の墓地の所在地に関連し多様な学説が混在していたが、これまで本物の墓地は発見されずにいた。/27日付の中国共産党機関紙・人民日報が報じたところによると、河南省安養県安豊郷西高穴村で、魏の武王、曹操の陵墓を確認した。地下15メートルに位置した同墓地は甲の字の構造で、西方から東方へ傾斜路の墓道を降りていくと6の部屋が現れる。全長60メートルにのぼるこの巨大な墓地は、漢代の王侯らの陵墓と規模が似ている。/ 発掘チームが本物の墓地と確信できた理由は「魏の武王が使った戟(魏武王常所用格虎大戟)」「委の武王が使った石の枕(魏武王常所用慰頚石)」と刻まれた銘文が見つかったからだ。河南省文物局と中国の考古学者はこの銘文を重要な根拠に、同墓地が曹操の陵墓だと結論付けた。/ 考古学者らは魏・武王の銘文が見つかったほか、出土した遺物(200点)が文献の記録上、曹操の好みと一致し、墓地の構造も、葬儀の簡素化を命じた曹操の遺言と一致すると強調している。学者らは「三国時代研究への一大転機となる」と興奮を隠せなかった。(中央日報)
曹操は、中国後漢末の武将、政治家、詩人、兵法家。字は孟徳、幼名は阿瞞また吉利。沛(はい)国譙(しょう)県(現在の河南省永城市)の人。後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。父は曹嵩。曹嵩はもともと夏侯氏であったが、中常侍・大長秋曹騰の養子となり曹氏を継ぎ(高位の宦官は養子をとって家名を存続することが可能だった)、太尉となっている。曹氏の先祖は前漢の平陽侯曹参とされるが疑わしい。また、曹嵩の実家である夏侯氏の先祖は前漢の汝陰侯夏侯嬰とされている。彼の挙兵時から従軍した夏侯惇、夏侯淵等は従兄弟にあたる。息子の曹丕によって後漢に代り魏が建国される。
ギリシア神話:蜘蛛にされた少女
小アジアの西岸コロポーンの町にArákhnē(アラクネー)という少女がいた。両親は余り身分の高くない商人だったが、母親はすでに世に無く、父親のイドモーンはよく娘の面倒を見て、機織が好きなところから、毛糸を紫色に染めては彼女に与えていた。この紫は一種の貽貝(いがい)から取るので、貝の胎内にある小さな袋に詰まっている濃液を集めて精製するため、非常に値の張る貴重なものであった。
好きな技であれば、一心に日となく夜となく織り続けるうちに少女の巧みは日増しに進んで、広いリューディアにもイオニア中にも、並ぶ者のないくらいになった。かの名高きトモーロスの丘の斜面にある葡萄畑に棲むニンフたちでさえ、よく棲み慣れた里を後に彼女の仕事ぶりを見にやってくるという程であった。布の織り上げも見事ながら、それにも増して働いている彼女の手の捌き、美しい色の毛の玉が見る見るうちに錘(つむ)に繰り取られ、やがて枷の動きにつれて立派な布に仕上げられるさま、または細い指先に針を閃かせて、いろいろな物の形を刺繍してゆくところなど、眺める人を感心させずにはおかない。全くAthena(アテーナー)女神が、みずからこの技を少女に授けられたと誰しも思ったであろう。されども、少女はこれを否定して「いえいえ、とんでもないことです。あたしは誰にも教わったことなんてありませんわ。女神様とだって技比べをいたしまして、決して負けるつもりはありませんもの。もし負けたなら、どんなものでも差し上げますわよ」という始末であった。女神は小賢しい少女の大言を聞いて、些か心憎く思われた。そこである日姿を老婆に変えて、よろめく足を杖に支えて、少女の家へと出向いて行かれた。
「年寄りの言うことは聞いておく方が好いものさ。皺が増えると知恵もつく、物もおいおい分かってくるのだからね。私の忠告を馬鹿にしちゃいけないよ。紡いだり機を織ったりする技を自慢するのもせいぜい人間たちの間だけにしておきな。そいで神様には譲っておいて大きな事を言った御宥(おゆる)しを願うのが身のためだよ。そしたら女神様も宥(ゆる)してくださるだろうからね」
しかし、少女は老婆のほうを厭な目つきで睨んで、その辺のものを擲(なげう)ちもしかねない有様、怒りの色を面に顕(あらわ)し、姿を変えている女神に向って、激しい言葉を投げ掛けるばかりであった。
「お前さんは年を取って耄碌したのね。そんなことは自分の娘か孫にでも言ったらいいでしょ。私の方から忠告したいくらいだわ。そんならいっそ女神様を呼んで来たらいいでしょ。ほんとに技比べをやったら、どちらが上手か解るでしょうから」
女神は、やおら真の姿をお現しになった。居合わせたニンフたちは、その場に平伏(ひれふ)して女神を崇(あが)め、里の者たちも手を合わせひたすら崇敬の心を尽くすのだったが、アラクネーは片意地にも恐れ気もなく坐ったままで、ただその頬を真っ赤に染め、やがて蒼ざめながらも固い決心を口元に表していた。
こうして競技は始められた。二人はそれぞれに座を占め、各々の機にしなやかな糸の束を掛けた。縦糸をこまかい枷に結び付けると、緯(よこいと)を結んだ梭(ひ)が目まぐるしく、巧みな指先に操られて動いた。紫に染めた鮮やかな色糸、微かに異なった薄色、さらに色合いを変えた色糸、丁度驟雨の後で、太陽が灝気(こうき)を貫くとき、大きな弧を描いて虹が広やかな空に渡るように、百千の色合いが交わりながら、人の目にはその移り変わりを定かには認め得ないように、ぼかされた色糸は覚りがたく、ただ両端の色の違いだけが、くっきりと鮮やかに認められた。中には黄金の色糸もあった。織り出された模様は昔の物語の様を写していた。
アテーナーの機には、中央に十二柱のオリュンポスの神々が高い御座に、燦然と輝いて、ゼウスを中に居並び給う。海洋神ポセイドーンは重々しい三叉戟を取って嵯峨とした巌を討てば、その割目からは清らかな泉が迸り出る様が描かれていた。アテーナイの町争いの場面である。彼に立ち向かうはアテーナー女神御(おん)みづからで、盾と鋭い槍を手に執り、頭にはきらきらしい兜(かぶと)を被(かぶ)り、その槍で突かれた地面からは青白い葉のオリーブが生え、枝にはいっぱい丸い実を結んでいた。彼女の脇には勝利の女神ニーケが立ち、神々は感嘆してこの不思議に見惚れているところである。この全体の絵をオリーブの葉冠(ようかん)が取り巻き、境をなしていた。
一方アラクネーの布(きれ)は、まず中央はエウローペが白い牛に欺(あざむ)かれて乗って行くところを写した、波も牛も真に活々とありのままの姿であった。少女は陸のほうを振り返り友達を呼んで多助を求める。跳ね返る波の飛沫を恐れるように、こわごわ足を縮めていた。その傍らにはレーダーが白鳥の翼に抱きすくめられていた。また、ゼウスがアンピトリュオーンの姿に変わって彼の妻アルクメーネーを誑し込んでいるところなどもあった。また向こうにはアポーロンが田舎漢(いなかもの)の姿でアドメートス(ゼウスの命令で、アポーロンが1年間だけ使えた人間)の僕(しもべ)になって賎しい仕事をしているところである。また、バッコスはイカリオスの娘エーリゴネーを偽の葡萄で騙していた。さらにクロノスが馬の形を借りてあの半人半馬のケンタウロス・ケイローンを生ませた話も描かれていた。この織物の全体にぎっしりと詰まった絵物語は、狭い細かな花模様で囲まれ、それに常春籐(きずた)の葉が絡まっていた。その出来映えはいかにも見事で、たとえPhthonos(プトノス、嫉妬の神)自身でさえも、殆んど難のうちようのないくらいだった。
しかし、金髪の女神アテーナーはそれだけに一入(ひとしお)胸の怒りを抑えきれずに、この刺繍された布を真っ二つに断ち切ってしまわれた。そして、手に持ったぶなの木の梭で、三たびアラクネーの頭を討ち叩かれた。みじめな少女はそれを忍び切れずわれから縄を括って首を吊った。その姿をみて女神は、さすがに憐れを催し、高みに吊るし上げてのたまい給うた。「生命(いのち)は助けてあげよう。でも、そのまま吊り下がっといで、悪い娘だもの。お前のような神々をないがしろにする者共は、みな同じ運命を受けるのだよ」
こういって出かけながら、振り返りざまにアラクネーへHekate(ヘカテー、ギリシア神話の女神)の魔法の草(一説には「トリカブト」)の汁を注がれた。見る間に彼女の髪は竦んで消え、頭も縮んでゆけば、体全体も小さくなり、手足の指は8本の足と変わり、残りの部分はみんな塊(かた)まって大きな腹になった。いまでも彼女は細い糸を口から吐いて、綺麗な露の模様を朝ごとに織りなしている。女神から許された昔の技の哀れな名残を繰り返しているのである。
好きな技であれば、一心に日となく夜となく織り続けるうちに少女の巧みは日増しに進んで、広いリューディアにもイオニア中にも、並ぶ者のないくらいになった。かの名高きトモーロスの丘の斜面にある葡萄畑に棲むニンフたちでさえ、よく棲み慣れた里を後に彼女の仕事ぶりを見にやってくるという程であった。布の織り上げも見事ながら、それにも増して働いている彼女の手の捌き、美しい色の毛の玉が見る見るうちに錘(つむ)に繰り取られ、やがて枷の動きにつれて立派な布に仕上げられるさま、または細い指先に針を閃かせて、いろいろな物の形を刺繍してゆくところなど、眺める人を感心させずにはおかない。全くAthena(アテーナー)女神が、みずからこの技を少女に授けられたと誰しも思ったであろう。されども、少女はこれを否定して「いえいえ、とんでもないことです。あたしは誰にも教わったことなんてありませんわ。女神様とだって技比べをいたしまして、決して負けるつもりはありませんもの。もし負けたなら、どんなものでも差し上げますわよ」という始末であった。女神は小賢しい少女の大言を聞いて、些か心憎く思われた。そこである日姿を老婆に変えて、よろめく足を杖に支えて、少女の家へと出向いて行かれた。
「年寄りの言うことは聞いておく方が好いものさ。皺が増えると知恵もつく、物もおいおい分かってくるのだからね。私の忠告を馬鹿にしちゃいけないよ。紡いだり機を織ったりする技を自慢するのもせいぜい人間たちの間だけにしておきな。そいで神様には譲っておいて大きな事を言った御宥(おゆる)しを願うのが身のためだよ。そしたら女神様も宥(ゆる)してくださるだろうからね」
しかし、少女は老婆のほうを厭な目つきで睨んで、その辺のものを擲(なげう)ちもしかねない有様、怒りの色を面に顕(あらわ)し、姿を変えている女神に向って、激しい言葉を投げ掛けるばかりであった。
「お前さんは年を取って耄碌したのね。そんなことは自分の娘か孫にでも言ったらいいでしょ。私の方から忠告したいくらいだわ。そんならいっそ女神様を呼んで来たらいいでしょ。ほんとに技比べをやったら、どちらが上手か解るでしょうから」
こうして競技は始められた。二人はそれぞれに座を占め、各々の機にしなやかな糸の束を掛けた。縦糸をこまかい枷に結び付けると、緯(よこいと)を結んだ梭(ひ)が目まぐるしく、巧みな指先に操られて動いた。紫に染めた鮮やかな色糸、微かに異なった薄色、さらに色合いを変えた色糸、丁度驟雨の後で、太陽が灝気(こうき)を貫くとき、大きな弧を描いて虹が広やかな空に渡るように、百千の色合いが交わりながら、人の目にはその移り変わりを定かには認め得ないように、ぼかされた色糸は覚りがたく、ただ両端の色の違いだけが、くっきりと鮮やかに認められた。中には黄金の色糸もあった。織り出された模様は昔の物語の様を写していた。
アテーナーの機には、中央に十二柱のオリュンポスの神々が高い御座に、燦然と輝いて、ゼウスを中に居並び給う。海洋神ポセイドーンは重々しい三叉戟を取って嵯峨とした巌を討てば、その割目からは清らかな泉が迸り出る様が描かれていた。アテーナイの町争いの場面である。彼に立ち向かうはアテーナー女神御(おん)みづからで、盾と鋭い槍を手に執り、頭にはきらきらしい兜(かぶと)を被(かぶ)り、その槍で突かれた地面からは青白い葉のオリーブが生え、枝にはいっぱい丸い実を結んでいた。彼女の脇には勝利の女神ニーケが立ち、神々は感嘆してこの不思議に見惚れているところである。この全体の絵をオリーブの葉冠(ようかん)が取り巻き、境をなしていた。
しかし、金髪の女神アテーナーはそれだけに一入(ひとしお)胸の怒りを抑えきれずに、この刺繍された布を真っ二つに断ち切ってしまわれた。そして、手に持ったぶなの木の梭で、三たびアラクネーの頭を討ち叩かれた。みじめな少女はそれを忍び切れずわれから縄を括って首を吊った。その姿をみて女神は、さすがに憐れを催し、高みに吊るし上げてのたまい給うた。「生命(いのち)は助けてあげよう。でも、そのまま吊り下がっといで、悪い娘だもの。お前のような神々をないがしろにする者共は、みな同じ運命を受けるのだよ」
こういって出かけながら、振り返りざまにアラクネーへHekate(ヘカテー、ギリシア神話の女神)の魔法の草(一説には「トリカブト」)の汁を注がれた。見る間に彼女の髪は竦んで消え、頭も縮んでゆけば、体全体も小さくなり、手足の指は8本の足と変わり、残りの部分はみんな塊(かた)まって大きな腹になった。いまでも彼女は細い糸を口から吐いて、綺麗な露の模様を朝ごとに織りなしている。女神から許された昔の技の哀れな名残を繰り返しているのである。
今朝のニュースは鳩山首相の偽装献金記者会見で賑わっていた。ウェブニュースから、
【偽装の源流】献金わずか10人、政界の「金持ち」ゆえの困窮 ―― 「なんで私が知っている顔しかいないんだ」/十数年前に開かれた政治資金パーティー「鳩山由紀夫サイエンス・フォーラム」での出来事だった。出席した政界関係者の証言によると、後に首相となる衆院議員の鳩山由紀夫はパーティーが終わると、公設秘書の勝場啓二と、政策秘書の芳賀大輔に向かって厳しい口調でこう言った。/政治家の政治資金は、主に個人や企業・団体からの献金と、政治資金パーティーの収入からなる。パーティー券は秘書が中心となって売りさばく。ある国会議員秘書は「民間企業の営業みたいなもので、継続購入のお願いと新規開拓のため、一軒一軒歩いて回らないといけない」と話す。/新規開拓の成果はパーティーにどれだけ「新顔」が来ているかで一目瞭(りよう)然(ぜん)だ。ところが、十数年前のパーティーでは…。鳩山は勝場らの“営業成績”の悪さをとがめたのだった。/鳩山側の弁護士、五百蔵(いおろい)洋一は勝場について「昔は売り上げが良かったが、売り上げが下がったセールスマン」と表現したが、勝場は昔から資金集めに苦労していた。/別の自民党議員秘書は、鳩山が「パーティー券がまったく売れない」とこぼしているのを何度か耳にしたことがあるという。/ 集まらなかったのはパーティー収入だけでなく、個人献金も同じだった。/6月に資金管理団体「友愛政経懇話会」の偽装献金が発覚し、鳩山側が政治資金収支報告書を訂正した結果、実際に献金していた人は鳩山本人や親族、秘書ら「身内」を除くと、わずか10人程度だった。/曾祖父の和夫は衆院議長、祖父の一郎は首相、父の威一郎は外相と名門の血統を誇る鳩山だが、献金実態を見ると「国民の支持」は“幻”だったのだ。
勝場は鳩山事務所に入る前は大手不動産会社の社員だった。当時、会社が父、鳩山威一郎を支援していたことから、勝場は昭和55年の威一郎の参院選で事務担当として派遣される。これが鳩山家との接点とされる。/61年に鳩山が衆院選に初出馬した際にも選挙を手伝う。これは、威一郎の選挙での勝場のまじめな仕事ぶりを鳩山の母、安子が高く評価したからだといわれている。鳩山が初当選を果たすと会社を退社し、鳩山の秘書となった。/芳賀も威一郎時代から鳩山家とかかわりを持つ。北海道で生コン会社を経営する父が威一郎の支援者だったことから、威一郎の選挙を手伝い、勝場と一緒に鳩山の秘書になった。/「2人とも有能な秘書だが、勝場さんは真面目で酒も飲まずに黙々と仕事をこなすタイプ。芳賀さんは社交的で派手に飲み歩く。20年以上仕えている秘書は2人を含めて3人だけで、鳩山さんの信頼も絶大だった」(鳩山家関係者)/勝場は、鳩山が平成5年に自民党を割って出て新党さきがけを結成した際には、さきがけの事務局長に就任。8年の民主党結党の際には党の経理トップになったほどで、鳩山家関係者は「鳩山さんの表も裏も知る金庫番だった」と語る。/ただ、勝場を知る多くの秘書仲間が口をそろえるのは「あんなまじめな男がなぜ、偽装献金なんかをしたのか」という疑問だ。
「おれたちのころは、業界団体に電話すれば、パーティー券は簡単にさばけた。業界団体が加盟社に割り振ってくれるから、パー券を段ボールでまとめて送るだけで済んだんだよ」/勝場が国会議員秘書としての薫陶を受けたとされる威一郎の元秘書は、パーティー券がさばけず苦労していた鳩山事務所関係者にこう明かして笑ったという。/鳩山家関係者によると、威一郎の現職時代は、元大蔵事務次官という経歴もあって、多くの業界団体や企業などから手厚い支援を受け、資金集めに苦労することはなかった。/だが、鳩山はそうではなかった。すでに実弟の邦夫が政界入りしており、野党に転じたこともあって企業からの資金集めは容易ではなかったという。/それでも2千万円以上の企業・団体献金を集めていたが、追い打ちをかけるように12年からは資金管理団体への企業・団体献金が禁止され、個人献金に頼らざるをえなくなった。/しかし個人献金も集まらない。その最大の理由は、鳩山がいまだに90億円もの総資産を持つ政界随一の資産家であるということだった。「なぜ金持ちに献金しないといけないのか」。こういった声が資金集めの大きな「壁」となった。/資金集めがままならない勝場が頼ったのが、鳩山家の莫大(ばくだい)な資産を管理する「六幸商会」(東京都港区)だった。
政界随一の資産家といわれる鳩山の資金管理を一手に任されていた勝場が、偽装献金に手を染めた背景には何があったのか。政治家・鳩山のルーツをたどりながら考察する。(敬称略) (産経ニュース、2009.12.25 01:17)
【偽装の源流】献金わずか10人、政界の「金持ち」ゆえの困窮 ―― 「なんで私が知っている顔しかいないんだ」/十数年前に開かれた政治資金パーティー「鳩山由紀夫サイエンス・フォーラム」での出来事だった。出席した政界関係者の証言によると、後に首相となる衆院議員の鳩山由紀夫はパーティーが終わると、公設秘書の勝場啓二と、政策秘書の芳賀大輔に向かって厳しい口調でこう言った。/政治家の政治資金は、主に個人や企業・団体からの献金と、政治資金パーティーの収入からなる。パーティー券は秘書が中心となって売りさばく。ある国会議員秘書は「民間企業の営業みたいなもので、継続購入のお願いと新規開拓のため、一軒一軒歩いて回らないといけない」と話す。/新規開拓の成果はパーティーにどれだけ「新顔」が来ているかで一目瞭(りよう)然(ぜん)だ。ところが、十数年前のパーティーでは…。鳩山は勝場らの“営業成績”の悪さをとがめたのだった。/鳩山側の弁護士、五百蔵(いおろい)洋一は勝場について「昔は売り上げが良かったが、売り上げが下がったセールスマン」と表現したが、勝場は昔から資金集めに苦労していた。/別の自民党議員秘書は、鳩山が「パーティー券がまったく売れない」とこぼしているのを何度か耳にしたことがあるという。/ 集まらなかったのはパーティー収入だけでなく、個人献金も同じだった。/6月に資金管理団体「友愛政経懇話会」の偽装献金が発覚し、鳩山側が政治資金収支報告書を訂正した結果、実際に献金していた人は鳩山本人や親族、秘書ら「身内」を除くと、わずか10人程度だった。/曾祖父の和夫は衆院議長、祖父の一郎は首相、父の威一郎は外相と名門の血統を誇る鳩山だが、献金実態を見ると「国民の支持」は“幻”だったのだ。
政界随一の資産家といわれる鳩山の資金管理を一手に任されていた勝場が、偽装献金に手を染めた背景には何があったのか。政治家・鳩山のルーツをたどりながら考察する。(敬称略) (産経ニュース、2009.12.25 01:17)
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ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
93
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
sechin@nethome.ne.jp です。
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