瘋癲爺であるこの私奴は、全く計画性がなく何でも安請け合いして、「忙し、忙し」を連発して何もかも中途半端に終らせてしまう。昨年は水門会の会報の依頼はなかったが、今年は依頼があり、ついつい安請け合いしてしまった。
九州から帰京して以来、別に計画を樹てるわけでもなく、行き当たりばったりの作業に追われ、徘徊に出かけてもその後のブログ書き込みがおろそかになってしまう。
土・日・月と3日も経てば、いつ・何処をどのように徘徊したかなど忘却の彼方に成ってしまう。デジカメに残るカメラの映像をお見せするだけになる。
11月6日(土)は北十間川から桜橋通りの方面を歩いたらしい。
日曜日はテレビの報道特集と時代劇(池波正太郎アワー)を見ながら「忙しい」といいながらよくこんな時間があるあるものだと蘇峰先生の言葉に納得。
昨日11月7日(月)は日曜日の午後に作成したアルバムを花川戸のクロネコから発送、隅田川の周辺を歩いて帰宅した。
今朝は朝食後ちょうど手ごろなので、思いつく友人にこの「東京版バベルの塔」の建設過程をお眼に掛けるべく何冊か購入すべく読売新聞江東区支局スカイツリー前分室に出掛けた。
花川戸のクロネコに立ちより、その足で吾妻橋を渡り、浅草通りを東武橋まで東進、北十間側沿いに読売新聞分局まで行ったが開店は10時からのこと、浅草通りに出てネパール人が経営するカレー店でコヒーを飲みながら3~40分を過す。
昼食後、九州よりパック便が届いた。KD氏から「海峡の風」という本と銘菓「さが錦」がはいっており、KD氏の丁寧な「かあちゃんの会」へのお誘いの手紙が入っていた。
まだ、真っ暗の隅田公園から桜橋を渡って墨堤通りを北上。いつもは明々と灯りをつけて作業をしているアサヒビールの配送場が今朝は真っ暗。そういえば今日は明治節――いやいや文化の日で休日だった。何となく鳩の街を抜けて水戸街道に出た。水戸街道を北上、東武の東向島駅から線路沿いに昔の玉の井私娼窟街の入口いろは通りまで北上。辺りはやっと白んできた。
永井荷風の『濹東綺譚』によれば、1918年(大正7年)~1919年(大正8年)のころ、浅草観音裏に言問通りが開かれるに際して、その近辺にあった銘酒屋等がこの地へ移ってきたのが始まりとのこと。この当時、この地は東京市外であった。その後、関東大震災後の復興に際して、浅草では銘酒屋の再建が許可されず、亀戸とともに銘酒屋営業が認められた玉の井は、ますます繁栄するようになったという。
東武のガードを潜って大正通りを西進。再び墨堤通りを北上。鐘ヶ淵通りの入口の信号を左折し、水神大橋を渡る。今日の隅田川はことのほか穏やかで、川面には波一つ立ってない。橋の上から上流に目を移すと、千住のマンションビルがそのまま川面に映っている。
橋を渡り、汐入公園内のさくら橋を渡る。橋の上から南千住方面を見渡すと、ケヤキ通りはすっかり秋色になったようだ。欅(けやき)は秋の紅葉が美しい樹木でもあり、個体によって色が異なり、赤や黄色に紅葉するのだそうだ。
隅田川のテラスに降り、瑞光橋の下を潜り、明治通りに出る。瑞光橋から見るスカイツリーとリバーサイド隅田のビルはその姿をそっくりそのまま隅田川の川面に投げかけている。橋場、今戸の遊歩道を南下して帰宅した。万歩計は昨日は7800歩程度、本日は12790歩ばかり、ちょっと歩き過ぎかな?
今日は横浜在住のIN氏の誕生日だと聞く。徘徊から帰宅するとメールを入れておいた。「78回目の誕生日おめでとう。/「明治節は雨は降らない」という古くからのジンクスどおり、今朝は風ひとつなく隅田川の川面は鏡のように静かで、まるで貴方(きみ)の人柄を表わしているようだった。/現在、「水門」(24号、今回は冊子様式)を編集中だが、総会の出欠返事の整理だけでも時間がかかるようです。/取り敢えず、門司での貴方(きみ)のお姿を貼付させていただきます。/まずは、誕生日のおめでとう旁写真貼付まで」
早速返事が来た。曰く「日高 節夫 様/誕生日のお祝いメールを頂きありがとうございました。/満36歳直前に死んだ親父が、あの世で閻魔大王とタフネゴシエーションした結果か、先年死んだ母と私は長生きさせてもらっています。/高校同窓のなかで24期、25期はいちばん死亡率が高いのに、私は、君を筆頭に、いい同期生に付き合ってもらえて、お陰で知的好奇心を刺激させられ、ボケることを遅らせることができてありがたい。これからもせいぜい私の脳を鍛えてくださるようにお願いします。/体は及ばずながら週一回の水泳で衰えを防ぎますから…。/門司の恩人や母の知人を訪ねる今回の旅は、ほんとうに有益でした。背中を押し、手を引っ張ってくれた同期生に感謝しています。/「草原の風」は、いちばん後回しでいいから、無理をしないでください。/もっとも、ちょっとだけ先出しをすると、今日11月3日の連載では、もっとも早く劉文叔の才能を見出したことを誇りにしていた厳尤将軍は敗走ののち革命軍に加わるが、更始帝・劉玄につかわされた劉信によって劉望、厳尤、陳茂の三人ともに誅される。この厳尤将軍だけは生き延びさせ、逃げおおせてもらいたかったが、易経の卦どおりの運命は避けようもないということか。」
10月25日、帰京したが何だか疲れてしまった。ついつい朝の徘徊も億劫になりでそびれてしまった。先週末29日に、この爺を追っかけるように水門会のKF氏が都立産業貿易センター台東館で開催されるニコリまつりを見るために上京した。
TK氏を交えて3人で会食しようと雷門の交番前で待ち合わせることになっていたが、何だかんだとKN氏、YK氏も加わり5名で浅草で飲むことになった。
翌日は生憎の雨。その上台風14号が接近中とのこと。KF君はニコリまつりを2・3時間ばかり見学しただけで午後の新幹線で帰っていった。
昨日は雨、昼前にはやんだが、出そびれてしまった。今朝5時、東天に高く27日の月が輝いている。カメラに収めてみたが、まだ暗くカメラがぶれてうまく取れない。桜橋を渡って墨堤通りを北上。東白鬚公園を抜ける頃漸く辺りが白み始める。鐘ヶ淵から水神大橋にかけての銀杏並木が色づいてきた。本日は久し振りの晴天で、スカイツリーもくっきりと見える。
隅田川に沿って南下し、瑞光橋を渡り、橋場・今戸のテラスを通って帰宅した。
水門会の会報の編集を頼まれたので、当分は忙しい。
北田富美子氏という方で、1949年(昭和24年)福岡県北九州市戸畑区生まれで、結婚して門司区の今津に移り、結婚後、筑前琵琶を始める。現在は、旭流師範、北田旭朋(きょくほう)となられるや、早鞆旭会を結成し学校、公民館、お寺などに気軽に出向き、琵琶を演奏され古典の格式にとらわれず、達人独自の語りで、平家物語や黒田節など身近な演目を披露することもあるという先生である。先生に拠れば、「私たちの住んでいる北九州市門司門司港は、関門海峡を背景に源氏、平家の壇の浦合戦で有名です。琵琶の音色は淋しさや力強いバチさばきで戦いの場面を作り上げています。ここ5年間では、若者との出会いがあり、地域中心の演奏活動を始めています。古典の格式を大事にしながら、聴いて、見て、感動、感激を共感していただける舞台を夢見て元気な声と笑顔で歴史を語り続けています。皆様の暖かい応援をよろしくお願いします。」ということであった。
テレビなど琵琶の演奏を聞いたことはあるが、いやはや生の演奏がこんなに迫力あるものとは恐れ入った。平家物語の壇ノ浦の段の演奏では、20数名の酔っ払いどもも声を沈め首をうなだれてじっと演奏を聞き入っていた。
いやいや、堅いものばかりではなく「博多どんたく」「黒田節」「炭坑節」なども演奏してくださり、誰が準備したのか踊り衣装を着て踊る人もいた。
とても楽しく、有意義な日であった。
本年は葛飾北斎生誕250周年に当たり、各地で様々なイベントが行われているが、生誕地墨田区は現在スカイツリー建設で沸き立ち、北斎等忘れ去られているようである。
北斎は、江戸後期の著名な浮世絵師で葛飾流の始祖。本姓は中島、名ははじめ時太郎のち鉄蔵といった。号は春朗、宗理、可侯、画狂人、卍翁など三十余ある。
宝暦10(1760)年9月江戸本所割下水で生まれ、父は徳川家用達の鏡師中島伊勢といった。14、5才の時彫刻師に学び、ひそかに狩野派の画法を学び師の知るところとなり破門。以来土佐派、琳派、洋風画、中国画などを学び独自の画境を開いた。肉筆画、版画、絵本、さし絵などに手腕をふるい、特に風景画は広重とともに称賛され、「富嶽三十六景」をはじめ傑作が多い。彼の作品はヨーロッパに多く流れ、フランスの印象派の人々に大きな影響を与えた。
葛飾北斎は、奇行に富んだ人であり、住居を93回も移した。嘉永2(1849)年4月18日、江戸浅草聖天町(現浅草7丁目)の長屋で三女の阿栄(葛飾應為)に看取られて亡くなった。北斎の墓は、幕末まで北斎の父と合葬されていたが、現在の墓は、後に他家の養子となっていた次男の崎十郎が建てたとも、その娘の白井多知が建てたとも言われている。墓石正面に「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に辞世の句「ひと魂でゆく気散じゃ夏の原」が刻まれている。左衛門橋通りの誓教寺(元浅草4丁目)にある。
明日からは、水門会総会――みんな飲んでワイワイやるだけ。それだけのことで、航空機をつかって北九州にまで飛ぶ。別に誰に会わなきゃならんというわけでもないのに、誘われるままに何となく参加することになった。という訳で、明日からブログは暫くおやすみ。
ワンさん夫人、その弟さんのケンツ氏、そしてナベちゃん。MIさんが誘ってくれて、ほぼ40年ぶりのAKさんも参加してくれた。IA・ケンツ氏と小学校同期のMK氏が、経営する居酒屋で2次会。11時まで飲んだ。
今朝は、少し2日酔い気味で、出掛けるのはやめた。早朝、布団の中で数学史関係の本をパラパラ。
ラプラスの理論に拠ると、確率は明確に定義されていて、このような確率はあらゆる事象に対してただ一つ存在するものであって、それを探求するのが確率論の任務であるというのがラプラスのであった。ところが、その基礎のところに思わぬ矛盾が生じたのである。1つの事象に時には幾つもの確率が存在するような例が発見されたのである。その例として1888年フランスの数学者Joseph Louis François Bertrandが発表した「ベルトランのパラドックス」というのがある。
さらに、任意に弦を引くという場合、その解釈によって色々なことが考えられる。下に示すように確率が0の時だって、1の時だって考えられるという奇奇怪怪の事が起こりうることになる。
これは、「弦を引く」という行為の方法をちゃんと示さなかったことに拠るパラドックスなのである。確率に「無限」が絡むとややこしいことになるのだ。
以上の例は「何をもって同等とするか」を前提としない限り、確率は論じられないということの教訓を示している。サイコロを投げたときの、6の目が出る確率が1/6というのは、絶対的真理としてきまっているわけではなくて、確率を考えるものにとっての仮定であり、「約束ごと」なのである。ラプラスの確率論の欠陥はあらゆる事象に対して、確率はそれぞれただ一つ決まっていて、それを求めるものだとした点にある。つまり確率というものが、前もって先験的にきまっているものだと考えた点にある。
いうなれば、クイズは知識があるかどうかを問うこと、あるいは知識を土台にした論理的推理を伴う質問をすることを指し、パズルは知識の有無を問うものではなく、与えられた情報を組み合わせたり、推理したり、ひねったりしないと答えられないような、考え悩ませる問題ということになる。
クイズは必ず言葉が必要になるが、パズルはルービックキューブやナンプレ(ナンバープレイス/数独)のように、やり方さえ理解すれば、まったく言葉の介在を必要としないものもある。
ただし、クイズは出題形式によってはパズル的な要素を加えることもできるし、押しボタンにより時間を競ったり、別のゲームと組み合わせることによって複雑化したりすることができる。パズルも、クロスワードや漢字パズルのように、知識の有無が重要になるものもある。両者は連続しており、完全に別個のものではないといえる。
図形をいくつかの断片に切り分け、並べ直すパズルは西洋にも多いが、紙を「折って切る」というのは、日本独特のものらしい。
その一つのやり方としては 一二三四五六七八九十 の中央の位置から対称の位置にある数どうしを掛け合わせたものを合計し、これから中央の五と六を引く、
(1×10)+(2×9)+(3×8)+(4×7)+(5×6)-5-6
=10+18+24+28+30-5-6=110-5-6=99 とするものである。なお、この小町算と呼ばれるものは、この本より50年ほど前の元禄11(1698)年に書かれたと考えられる田中由真(たなかよしざね、1651~1719年)の「雑集求笑算法」の中にも見られ、かなり古くからあることが判る。
小町算の名称は小野小町に由来するが、その由来としては、(1)小野小町のように美しい数式という意味 (2)小野小町の下に九十九夜通いつづけた深草少将を偲んで (3)夢中になると時間のたつのも忘れてしまうので、没頭すると知らないうちに爺婆になってしまうぞという意味。百人一首にもある小野小町の歌「花の色はうつりにけりないたづらに、我が身世にふるながめせしまに」から。などの説がある。
現代では1~9までの数を1つずつ使って特定の数を表わしたり、関係式を作ったりすることを「小町算」と呼んでいる。現代の小町算の中で特に有名なものは100作りと仮分数の問題だろう。
前者はその名の通り、123456789の間に、適当な算用記号を入れて100を表わすもので、+、-だけを用いた解が12通りあるという。また、987654321のように逆順の場合もおこなわれていて、18通りあるという。その幾つかを挙げると、
1+2+3-4+5+6+78+9=100
1+23-4+56+7+8+9=100
123-45-67+89=100
98-76+54+3+21=100
98-7+6-5+4+3+2-1=100
9+8+76+5-4+3+2+1=100 などがある。
+、-、×、÷の4個の記号を使った場合については、
1+2+3×4-5-6+7+89=100
1+2+3×4×5÷6+78+9=100
1+2+3×4×56÷7-8+9=100 などがあるが、アメリカのR.L.Patton.Jr.という人がコンピューターを使って全解を求め、正順150通り、逆順198通りの解を得ているという。
もう一つの仮分数の問題は、1~9までの数で仮分数を作り、2から順に整数をあらわしていくもので、
2=13458/6924=13584/6792=1438/7269=18594/9267
3=17469/5823=17496/5832 などがある。
例として、nの初期値を 6 にすると、6→ 3→ 10→ 5→ 16→ 8→ 4→ 2→ 1
n の初期値を 11 とすると、11→ 34→ 17→ 52→ 26→ 13→ 40→ 20→ 10→ 5→ 16→ 8→ 4→ 2→ 1 となり、この数列は 1 に到達するまでに14ステップともっと長くなる事がわかる。
n の初期値として 27 を選ぶなら、数列は111ステップにまで及び、その値は最終的に 1 に到達する前に 9232 にまで増大する。
この予想は未解決だが、この問題を調査した多くの数学者によって直感的に正しいと考えられている。その理由は、この予想は 3 ×(2の53乗) = 27,021,597,764,222,976 までチェックされている。この記録は、コンピュータのスピードアップとテスト技術の向上に伴って伸ばされ続けているからである。
もう1つの理由としてステップを経るごとに数の大きさがどのようになるかを考察してみる方法がある。
偶数 2m なら2でわって、mにする。(偶数なら0.5倍する)
奇数 2m+1 なら 3倍して1を足す すなわち 3(2m+1)+1=6m+4、さらに2で割って3m+2にすることになる。(奇数なら、およそ1.5倍する)
ある自然数Nから初めて、この計算(偶数なら0.5倍し、奇数なら1.5ばいする)を繰り返した結果、偶数になったのがa回、奇数になったのがb回あったとすると、Nはおよそ N×(0.5のa乗)×(1.5のb乗)となる。
ところで回数を多くすれば偶数と奇数はほぼ同じ回数出てくると考えられるので、a=bとすると N×(0.5のa乗)×(1.5のa乗)=N×(0.5×1.5のa乗)=N×(0.75のa乗)と考えられる。ここで、a→∞ とすれば、(0.75のa乗)→0 で、0.75は 1 より小さな値であるから、ステップを経るごとにNは「確率的に」小さくなると考えられる。この意味で、いつかは 1 に到達するとの予想は確からしいといえる。
しかし、確率論の言葉を用いるとこれは無限のステップ数を取る極限で1に平均収束するということであり、厳密には予想の確からしさとは無関係なのである。
必ず正しい答えが導けるわけではないが、ある程度のレベルで正解に近い解を得ることが出来る方法で、答えの精度は保障されないが、回答に至るまでの時間が少なくて済み、主に計算機科学と心理学の世界で使われる語にheuristic(ヒューリスティック)というのかある。どちらの分野での用法も根本的な意味は一緒だが、指示対象が違う。計算機科学ではプログラミングの方法を、心理学では人間の思考方法を指して使われる。論理学では仮説形成法と呼ばれているそうだ。
心理学におけるheuristicは、人が複雑な問題解決等のために何らかの意思決定を行う際、暗黙のうちに用いている簡便な解法や法則のことを指す。判断に至る時間は早いが、必ずしもそれが正しいわけではなく、判断結果に一定の偏り(bias、バイアス)を含んでいることが多い。ヒューリスティックの使用によって生まれている認識上の偏りを、認知バイアス(Cognitive bias)というのだそうだ。
まあ、爺が民主党の代表選での予測を見損なったのも、小沢氏に対する認知バイアスが強すぎたのかもしれない。
今週末は水門会出席のため、九州旅行となる。少し、身体を休めることもあって、此処1週間は朝の徘徊は控えて、近くの散策ぐらいにしておこう。まあ、ブログのほうも行き当たりばったり思いつくことを記すに留めよう。
sechin@nethome.ne.jp です。
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