瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
唐詩選の選者をめぐってはいろいろな説がある。町の商人が、当時名声の高かった李攀竜の名を騙り、李の編んだ漢詩集『古今詩刪』の唐の部分を抜き出し、李の遺稿「選唐詩序」を「唐詩選序」と改竄して序文とし、あたかも李が『唐詩選』を編纂したかのように見せかけ、注釈も唐汝詢の『唐詩解』から盗用したものであろうというのも一つの説である。
李攀龍の「選唐詩序」という序文は僅か166文字の短文に過ぎないが、全唐詩を評論した名文として、とくに宋詩の風格を学んできた日本の五山文学の伝統をくつがえし、江戸中期以来唐詩全盛へと一大転換させたのである。
選唐詩序
唐無五言古詩而有其古詩陳子昂以其古詩爲古詩弗取也 七言古詩惟子美 不失初唐気格而縦横有之 太白縦横往往彊弩之末間雑長語 英雄欺人耳 至如五七言絶句実唐三百年一人 蓋以不用意得之 即太白亦不自知其所至 而工者顧失焉 五言律・排律諸家概多佳句 七言律体諸家所難 王維・李頎頗臻其妙 即子美篇什雖衆憒焉自放矣 作者自苦 亦惟天実生才不尽 後之君子乃茲集以尽唐詩而唐詩尽於此 済南 李攀龍
唐に五言古詩無し、而して其の古詩あるは陳子昂(ちんすごう、661~702年)、其の古詩を以って古詩と爲すは取らざるなり。七言古詩は惟だ子美(しび、杜甫の字)のみ。初唐の気格を失わずして縦横之あり。太白(李白)の縦横は往往(おうおう)彊奴(きょうど)の末(まつ)、間(まま)長語を雑(まじ)う。英雄人を欺くのみ。五・七言絶句のごときに至りては、実に唐三百年の一人なり。蓋し不用意を以って之を得たり。即ち太白も亦自ら其の至る所を知らず。而して工〈たくみ〉なるものは顧(かえ)って焉(これ)を失す。五言律・排律は諸家概(おおむ)ね佳句多し。七言律体は諸家の難(むつか)しとする所なり。王維・李頎は頗るその妙に臻(いた)る。即ち子美が篇什は衆(おお)しと雖も、憒焉(かいえん)とし自ら放(ほしいま)まなり。作者自ら苦しむ。亦、惟(た)だ天実に才を生じて尽くさず。後の君子。乃ち茲(こ)の集以って唐詩を尽くさば、而も唐詩此(ここ)に尽きなん。
〈大意〉「唐代には、伝統的な五言古詩はなくなって、唐代独自の五言古詩が発生した。陳子昂(ちんすごう)は自分の古詩を伝統的な古詩と考えているが、私は賛成しない。七言古詩では杜甫だけが初唐の風格を保っているものの、格調を破った奔放な所がある。李白も奔放だが、いくら強い弓でも射程の尽きる所では力がなくなるもので、同じようなことが彼の詩にも往々にして起こる。そこで時には間ののびた句をはさんだりするが、これは英傑の士が凡俗の目をくらましているに過ぎない。だが五言・七言の絶句となると、李白は全く唐代三百年間の第一人者である。それと言うのも、思いを凝らさない為に名詩が浮かんだのであろう。だから李白自身も気の付かぬうちに至上の境地へと達したのであって、技巧を凝らした作品は却って敗北している。五言律詩・五言俳律には、どの詩人にも大体佳句が多い。七言律詩は、どの詩人にも作りにくいものだが、王維と李頎(りき)は至妙の境地にまで、幾らか手が届いている。杜甫でさえ、作品の数が多いが、雄健な力を失って、規格を外れた勝手な方向へと流れてしまった。このように、詩人達はそれぞれに苦労をしているのだが、天が才能のある人物を生む力はまことに尽きぬものがある。だから後世に君子が現れて、この選集によって唐詩を知り尽くしてくれたならば、唐詩の全てはここに尽きたこととなるのだ。」 済南 李攀竜
暑さ寒さも彼岸までというが、ここの所めっきり秋らしくなった。夜明けも5時半を過ぎなければ、明るくならないし、夕方もも17時を過ぎるともう薄暗くなる。気温もかなり低く、今年は酷暑が続いた所為もあり、何だか駆け足で秋が来たようである。
三夕(さんせき)とは新古今和歌集にある、下の句が「秋の夕暮れ」で終る次の3首をさしていう。
さびしさはその色としもなかりけり槙(まき)立つ山の秋の夕暮(新古今361)
寂連法師(1139? ~1202年)
〈訳〉なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだった。杉檜が茂り立つ山の、秋の夕暮よ。
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮[新古今362]
西行法師(1118~1190年)
〈訳〉心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れよ。
見わたせば花も紅葉(もみじ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮〔新古今363〕
藤原定家(1162~1241年)
〈訳〉まわりを見渡しても、美しい花や鮮やかな紅葉があるわけではない。海辺の苫葺(とまぶ)きの粗末な小屋が建っているだけの秋の夕暮れなのに、胸に染みてくるこの思いは何なのだろう。
新古今和歌集のこの3首につづく和歌も下の句は「秋の夕暮」で終っているが、四夕としなかったのは、何故だろう。主題が「秋の歌」というより「恋の歌」と見たからだろうか?
たへてやは思ひありともいかがせむ葎(むぐら)の宿の秋の夕暮(新古今364)
藤原雅経(1170~1221年
〈訳〉耐えられるものですか。恋しい思いがあるとしても、どうにもならない。こんな、葎の生えた侘び住居の秋の夕暮、とてもあなたの思いを受け入れることなどできない。
「唐詩選」の巻三 五言律詩のなかに、「野望」という秋の夕暮を詠った詩を見つけた。
野望
王績
東皐薄暮望 東皐(とうこう) 薄暮に望み
徙倚欲何依 徙倚(しき)して何(いずこ)に依らんと欲す
樹樹皆秋色 樹樹 皆 秋色
山山唯落暉 山山 唯 落暉
牧人驅犢返 牧人 犢(こうし)を駆って返り
獵馬帶禽歸 獵馬 禽(とり)を帯びて帰る
相顧無相識 相顧みて 相識 無く
長歌懐采薇 長歌して 采薇(さいび)を懐う
〈訳〉夕暮れの迫る頃 東の丘にたって眺めやり
どこへ身を寄せるあてもなしに歩き回る
木々はみな秋の色に染まって
山々はすべて夕日の光
牧夫たちは子牛を追いながら小屋へともどり
猟師の馬は獲物の鳥をさげながら帰ってくる
見まわしても顔を知る者は一人もない
私は声長く詠いつつ首陽山に薇を採った人を懐かしむ
王績(おう せき、585年 - 644年)は、中国・唐の詩人。絳(こう)州竜門(山西省河津県)出身。字は無功。隋末の儒者・王通(おう つう)の弟。隋の官僚となったが、天下の乱れを察し、職を捨てて郷里へ逃げ帰った。唐になってから召し出され、門下省の待詔となったが、仕官を望まず、太宗の貞観初年に辞職して帰り、黄河のほとりの東皐(とうこう)に隠棲した。酒を好み、家の周りには黍(きび)を植えて春秋に酒を造り、鴨や雁を飼い、『易経』『老子』『荘子』だけを座右に置き、東皐子(とうこうし)と号して自由な生活を送ったという。
三夕(さんせき)とは新古今和歌集にある、下の句が「秋の夕暮れ」で終る次の3首をさしていう。
寂連法師(1139? ~1202年)
〈訳〉なにが寂しいと言って、目に見えてどこがどうというわけでもないのだった。杉檜が茂り立つ山の、秋の夕暮よ。
心なき身にもあはれは知られけり鴫(しぎ)たつ沢の秋の夕暮[新古今362]
西行法師(1118~1190年)
〈訳〉心なき我が身にも、哀れ深い趣は知られるのだった。鴫が飛び立つ沢の秋の夕暮れよ。
見わたせば花も紅葉(もみじ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮〔新古今363〕
藤原定家(1162~1241年)
〈訳〉まわりを見渡しても、美しい花や鮮やかな紅葉があるわけではない。海辺の苫葺(とまぶ)きの粗末な小屋が建っているだけの秋の夕暮れなのに、胸に染みてくるこの思いは何なのだろう。
たへてやは思ひありともいかがせむ葎(むぐら)の宿の秋の夕暮(新古今364)
藤原雅経(1170~1221年
〈訳〉耐えられるものですか。恋しい思いがあるとしても、どうにもならない。こんな、葎の生えた侘び住居の秋の夕暮、とてもあなたの思いを受け入れることなどできない。
「唐詩選」の巻三 五言律詩のなかに、「野望」という秋の夕暮を詠った詩を見つけた。
野望
王績
東皐薄暮望 東皐(とうこう) 薄暮に望み
徙倚欲何依 徙倚(しき)して何(いずこ)に依らんと欲す
樹樹皆秋色 樹樹 皆 秋色
山山唯落暉 山山 唯 落暉
牧人驅犢返 牧人 犢(こうし)を駆って返り
獵馬帶禽歸 獵馬 禽(とり)を帯びて帰る
相顧無相識 相顧みて 相識 無く
長歌懐采薇 長歌して 采薇(さいび)を懐う
〈訳〉夕暮れの迫る頃 東の丘にたって眺めやり
どこへ身を寄せるあてもなしに歩き回る
木々はみな秋の色に染まって
山々はすべて夕日の光
牧夫たちは子牛を追いながら小屋へともどり
猟師の馬は獲物の鳥をさげながら帰ってくる
見まわしても顔を知る者は一人もない
私は声長く詠いつつ首陽山に薇を採った人を懐かしむ
王績(おう せき、585年 - 644年)は、中国・唐の詩人。絳(こう)州竜門(山西省河津県)出身。字は無功。隋末の儒者・王通(おう つう)の弟。隋の官僚となったが、天下の乱れを察し、職を捨てて郷里へ逃げ帰った。唐になってから召し出され、門下省の待詔となったが、仕官を望まず、太宗の貞観初年に辞職して帰り、黄河のほとりの東皐(とうこう)に隠棲した。酒を好み、家の周りには黍(きび)を植えて春秋に酒を造り、鴨や雁を飼い、『易経』『老子』『荘子』だけを座右に置き、東皐子(とうこうし)と号して自由な生活を送ったという。
感遇
張九齢(ちょうきゅうれい)
孤鴻海上來 孤鴻(ここう) 海上(かいじょう)より来(きた)り
池潢不敢顧 池潢(ちこう) 敢(あえ)て顧(かえり)みず
側見雙翠鳥 側(そば)め見(み)る 双翠鳥(そうすいちょう)の
巢在三珠樹 巣(す)くうて三珠樹(さんしゅじゅ)に在(あ)るを
矯矯珍木巓 矯矯(きょうきょう)たり 珍木(ちんぼく)の巓(いただき)
得無金丸懼 金丸(きんがん)の懼(おそ)れ無(な)きを得(え)んや
美服患人指 美服(びふく)は人(ひと)の指(ゆび)ささんことを患(うれ)え
高明逼神惡 高明(こうめい)は神(かみ)の悪(にく)みに逼(せま)る
今我遊冥冥 今我(われいま) 冥冥(めいめい)に遊(あそ)ぶ
弋者何所慕 弋者(よくしゃ) 何(なん)の慕(した)う所(ところ)ぞ
(訳)独り離れた大鴈が、海上から飛んで來る。
その鳥は小さな池や水溜りは決して顧りみない。
側に二羽のつがいの翡翠の鳥が美しい羽を輝かす三珠樹と言う珠の木に巣を作っている
(彼の二人)高高とこの珍しい木の頂上にいれば
誰の目につく狙う物が黄金の弾で撃つ懼れが無いわけではない。
美しい服は人が指さしあれこれ言う心配がある。
高く明い家を作ると高慢な心の為に神の悪に近ずく
今私は一羽の鴻となり光の届かぬ空を高く飛でいる
射て鳥を捕る人どうして私を追いかけ狙うことなどあろうか、
私は何の憂いも無く優游自適の暮らしを楽しんでいる。
この詩は張九齢が失脚の後、自適の心境を述べた詩。政敵李林甫・牛仙客の豪奢高慢を風刺し抑えがたい哀情を発露したものである。陳子昂と方駕し李白と驂乗すべきすべきものと伝えられる。一方、晉の阮籍の詠懐詩に倣い、忠誠の情を鳥魚草木に託して述べたものとも言う。
玄宗の開元の治も、李林甫の登用、張九齢の失脚で凶兆が現れ、天宝の乱に向かって唐朝崩壊えと進む。張九齢の罷免が治乱の原因の一つであろう。古来より歴史研究家の指摘するところだという。
張九齢(ちょうきゅうれい)
孤鴻海上來 孤鴻(ここう) 海上(かいじょう)より来(きた)り
池潢不敢顧 池潢(ちこう) 敢(あえ)て顧(かえり)みず
側見雙翠鳥 側(そば)め見(み)る 双翠鳥(そうすいちょう)の
巢在三珠樹 巣(す)くうて三珠樹(さんしゅじゅ)に在(あ)るを
矯矯珍木巓 矯矯(きょうきょう)たり 珍木(ちんぼく)の巓(いただき)
得無金丸懼 金丸(きんがん)の懼(おそ)れ無(な)きを得(え)んや
美服患人指 美服(びふく)は人(ひと)の指(ゆび)ささんことを患(うれ)え
高明逼神惡 高明(こうめい)は神(かみ)の悪(にく)みに逼(せま)る
今我遊冥冥 今我(われいま) 冥冥(めいめい)に遊(あそ)ぶ
弋者何所慕 弋者(よくしゃ) 何(なん)の慕(した)う所(ところ)ぞ
その鳥は小さな池や水溜りは決して顧りみない。
側に二羽のつがいの翡翠の鳥が美しい羽を輝かす三珠樹と言う珠の木に巣を作っている
(彼の二人)高高とこの珍しい木の頂上にいれば
誰の目につく狙う物が黄金の弾で撃つ懼れが無いわけではない。
美しい服は人が指さしあれこれ言う心配がある。
高く明い家を作ると高慢な心の為に神の悪に近ずく
今私は一羽の鴻となり光の届かぬ空を高く飛でいる
射て鳥を捕る人どうして私を追いかけ狙うことなどあろうか、
私は何の憂いも無く優游自適の暮らしを楽しんでいる。
この詩は張九齢が失脚の後、自適の心境を述べた詩。政敵李林甫・牛仙客の豪奢高慢を風刺し抑えがたい哀情を発露したものである。陳子昂と方駕し李白と驂乗すべきすべきものと伝えられる。一方、晉の阮籍の詠懐詩に倣い、忠誠の情を鳥魚草木に託して述べたものとも言う。
玄宗の開元の治も、李林甫の登用、張九齢の失脚で凶兆が現れ、天宝の乱に向かって唐朝崩壊えと進む。張九齢の罷免が治乱の原因の一つであろう。古来より歴史研究家の指摘するところだという。
今日は彼岸の中日。老妻婆は船橋の妹と実家の寺へ墓参。
昨日は横浜高島屋の地下にある「甍(いらか)」で、昼食をとり神奈川三賢人と話に花を咲かせた。それぞれ、過ぎ去りし日の思い出を語っていた。地下をあちこちと歩き回り、コーヒーを飲みながらまた一談義。地下を上って外に出るとどうやら雨。朝方は台風一過のいい日和だったのに、実に何とか心と秋の空。今回の企画は海老名市在住のS氏が企画してくれものという。どうもありがとう。横浜市在住のN氏より「奥様へ」とフルーツチョコを戴き、横浜発午後3時45分の押上行の快速に乗車。浅草に着いて地下鉄を出ると、かなりの雨。雨の中を少々濡れながら家路に着いた。

カメラを忘れ、写真を撮ることはできなかったが、今朝ほどメールを開くと藤沢市在住のY氏より写真が貼付送信されていた。
いやはや、お互いに年取ったものだ。昨夜洗面場の鏡の前に立ち照らし出された己の姿を眺めながら「唐詩選」にあった張九齢の五言絶句『照鏡見白髮』を思い出す。
照鏡見白髮 鏡(かがみ)に照(て)らして白髪(はくはつ)を見(み)る)
張九齡(ちょうきゅうれい)
宿昔青雲志 宿昔(しゅくせき) 青雲(せいうん)の志(こころざし)
蹉跎白髪年 蹉跎(さた)たり 白髪(はくはつ)の年(とし)
誰知明鏡裏 誰(たれ)か知(し)らん 明鏡(めいきょう)の裏(うち)
形影自相憐 形影(けいえい) 自(おの)ずから相(あい)憐(あわ)れまんとは
〈訳〉若き日に、とく青雲を志し
躓(つまず)きて、いま白髪の年となる
誰か知る、鏡にうつるわが影と
形と憐れみ合はむとは
張九齢(673~740年) 中国、唐代の政治家・詩人。字は子寿。玄宗の宰相となるが、李林甫(?~752年、唐朝の宗室)と対立して左遷。詩の復古運動に尽くしたことで知られる。
いやはや、お互いに年取ったものだ。昨夜洗面場の鏡の前に立ち照らし出された己の姿を眺めながら「唐詩選」にあった張九齢の五言絶句『照鏡見白髮』を思い出す。
照鏡見白髮 鏡(かがみ)に照(て)らして白髪(はくはつ)を見(み)る)
張九齡(ちょうきゅうれい)
宿昔青雲志 宿昔(しゅくせき) 青雲(せいうん)の志(こころざし)
蹉跎白髪年 蹉跎(さた)たり 白髪(はくはつ)の年(とし)
誰知明鏡裏 誰(たれ)か知(し)らん 明鏡(めいきょう)の裏(うち)
形影自相憐 形影(けいえい) 自(おの)ずから相(あい)憐(あわ)れまんとは
躓(つまず)きて、いま白髪の年となる
誰か知る、鏡にうつるわが影と
形と憐れみ合はむとは
張九齢(673~740年) 中国、唐代の政治家・詩人。字は子寿。玄宗の宰相となるが、李林甫(?~752年、唐朝の宗室)と対立して左遷。詩の復古運動に尽くしたことで知られる。
Les Feuilles Mortes
レフゥイユ モルトゥ
曲 Joseph Kosma
ジョセフ コズマ
詞 Jacques Prévert
ジャク プレヴェール
Oh ! je voudrais tant que tu te souviennes
オー! ジュ ヴドレ タン ク テュ トゥ スヴィエヌ
Des jours heureux ou nous etions amis.
デ ジュール ズル ウ ヌ ゼティオン ザミ
En ce temps-la la vie etait plus belle,
アン ス タン ラ ラ ヴィ エテ プリュ ベル
Et le soleil plus brulant qu'aujourd'hui.
エ ル ソレイユ プリュ ブリュラン コージュルデュイ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle.
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Tu vois, je n'ai pas oublie...
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle,
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Les souvenirs et les regrets aussi
レ スヴニル ゼ レ ルグレ ゾッスィ
Et le vent du nord les emporte
エ ル ヴァン デュ ノール レ ザンポールトゥ
Dans la nuit froide de l'oubli.
ダン ラ ニュイ フロワードゥ ドゥ ルゥーゥブリ
Tu vois, je n'ai pas oublie
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
La chanson que tu me chantais.
ラ シャンソーン ク テュ ム シャンテー
― refrain ―
ルフラン
C'est une chanson qui nous ressemble.
セ テュヌ シャンソーン キ ヌゥ ルサーンブル
Toi, tu m'aimais et je t'aimais
トワ、テュ メメェー エ ジュ テメー
Et nous vivions tous les deux ensemble,
エ ヌ ヴィヴィオン トゥー レ ドゥー ザンサンーブル
Toi qui m'aimais, moi qui t'aimais.
トワ キ メメー、モワ キ テメー
Mais la vie separe ceux qui s'aiment,
メ ラ ヴィ セパール スー キ セーム
Tout doucement, sans faire de bruit
トゥ ドゥースマーン サン フェーェル ドゥ ブリュイ
Et la mer efface sur le sable
エ ラ メー レファース スュール ル サーブル
Les pas des amants desunis.
レ パー デ ザマーン デズュニー
先ずは若き日のYves Montand(イヴ・モンタン)の枯葉をお聴きあれ。
http://www.youtube.com/watch?v=bKuSbz7DkFk
心あるお方は、ルヒ付の原詩をご覧になりながら、この歌を何度もお聴きの上、お覚えあれ。
〈訳〉ああ私はあなたを忘れはしない
私たちが友人でいた幸せな日々を
あの頃、今日よりも人生は美しく
そして、太陽は明るかった
枯葉がシャベルに集められる
あなたは私が忘れていないことを知っている
枯葉がシャベルに集められる
想い出と後悔とともに
そして、北風がそれらを運び去る
忘却の冷たい夜へ
あなたは私が忘れていないことを知っている
あなたが私に歌ってくれた歌を
それは、私たちのような歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛して
そして、私たちは二人一緒に暮らしていた
私が愛したあなた、私を愛したあなたと
しかし、人生は愛する人たちを離れさせる
緩やかに、音も立てずに
海は砂の上の分かれた恋人たちの足跡を
消し去ってしまう
『枯葉』(フランス語原題:Les Feuilles mortes )は、1945年にJoseph Kosma(ジョゼフ・コズマ)が作曲し、後にJacques Prévert(ジャック・プレヴェール)が詞を付けたという、シャンソンのナンバーである。
ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラードで、6/8拍子の長いヴァース(序奏部)と、4拍子のコーラス部分から成り、その歌詞は遠く過ぎ去って還ることのない恋愛への追想を、季節を背景とした比喩を多用して語るものである。
第二次世界大戦後のシャンソンの曲として、世界的にも有名なスタンダードであり、いち早くジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどのレコーディングが存在することでも知られる。
フランス語の原詞のほか、日本語をはじめ各国語の歌詞を与えられ、広く歌われている。
Joseph Kosma(ジョゼフ・コズマ)は1905年 ブダペストで生まれ、1969年 パリまたはラ・ロシュ・ギヨンで没す。ハンガリー出身の作曲家であるが。ユダヤ人だったため、1933年にナチス・ドイツを避けてパリに定住。1936年より音楽家としてフランス映画界に進出。1946年にフランスに帰化した。フランスでは、綴り字のルールに則ってコスマと発音されるのを受けて、日本でもハンガリー語の正式な発音のコズマよりもコスマと発音されることが多いという。
Jacques Prévert(ジャック・プレヴェール、1900~1977年)は、フランスの民衆詩人、映画作家、童話作家。シャンソン『枯葉』の詞や、映画『天井桟敷の人々』のシナリオを書いたことで有名である。
Yves Montand(イヴ・モンタン、1921~1991年)はいわずと知れたイタリア出身でフランスで活躍した俳優・シャンソン歌手。農民の子であるが、母は敬虔なカトリック教徒であったが、父が強固な共産主義支持者であったため、当時台頭してきたムッソリーニのファシスト政権を嫌い、1923年に家族でフランスに移住した。マルセイユで育ち、港で働いたり、姉の経営する美容室で働くなどしていたが、次第にミュージック・ホールで歌うようになる。1944年にÉdith Piaf(エディット・ピアフ, 1915~1963年、シャンソン歌手)に見出され、彼女はモンタンにとって助言者また愛人となり、2人の関係は数年の間続いたという。1951年に女優のシモーヌ・シニョレ(Simone Signoret、1921~1985年)と結婚。2人は幾つかの作品で共演している。夫婦でフランス共産党の活動に参加していた。1957年には妻シニョレ同伴で東側諸国全てでコンサート・ツアーを行っている。
今日は神奈川の三賢人と横浜で会食しようということになっている。10時59分、都営浅草線浅草発の電車に出かけるべく家を出る。
レフゥイユ モルトゥ
曲 Joseph Kosma
ジョセフ コズマ
詞 Jacques Prévert
ジャク プレヴェール
Oh ! je voudrais tant que tu te souviennes
オー! ジュ ヴドレ タン ク テュ トゥ スヴィエヌ
Des jours heureux ou nous etions amis.
デ ジュール ズル ウ ヌ ゼティオン ザミ
En ce temps-la la vie etait plus belle,
アン ス タン ラ ラ ヴィ エテ プリュ ベル
Et le soleil plus brulant qu'aujourd'hui.
エ ル ソレイユ プリュ ブリュラン コージュルデュイ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle.
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Tu vois, je n'ai pas oublie...
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
Les feuilles mortes se ramassent a la pelle,
レ フゥイユ モルトゥ ス ラマス タ ラ ペル
Les souvenirs et les regrets aussi
レ スヴニル ゼ レ ルグレ ゾッスィ
Et le vent du nord les emporte
エ ル ヴァン デュ ノール レ ザンポールトゥ
Dans la nuit froide de l'oubli.
ダン ラ ニュイ フロワードゥ ドゥ ルゥーゥブリ
Tu vois, je n'ai pas oublie
テュ ヴォワ ジュ ネ パ ズブリーエ
La chanson que tu me chantais.
ラ シャンソーン ク テュ ム シャンテー
― refrain ―
ルフラン
C'est une chanson qui nous ressemble.
セ テュヌ シャンソーン キ ヌゥ ルサーンブル
Toi, tu m'aimais et je t'aimais
トワ、テュ メメェー エ ジュ テメー
Et nous vivions tous les deux ensemble,
エ ヌ ヴィヴィオン トゥー レ ドゥー ザンサンーブル
Toi qui m'aimais, moi qui t'aimais.
トワ キ メメー、モワ キ テメー
Mais la vie separe ceux qui s'aiment,
メ ラ ヴィ セパール スー キ セーム
Tout doucement, sans faire de bruit
トゥ ドゥースマーン サン フェーェル ドゥ ブリュイ
Et la mer efface sur le sable
エ ラ メー レファース スュール ル サーブル
Les pas des amants desunis.
レ パー デ ザマーン デズュニー
先ずは若き日のYves Montand(イヴ・モンタン)の枯葉をお聴きあれ。
http://www.youtube.com/watch?v=bKuSbz7DkFk
心あるお方は、ルヒ付の原詩をご覧になりながら、この歌を何度もお聴きの上、お覚えあれ。
私たちが友人でいた幸せな日々を
あの頃、今日よりも人生は美しく
そして、太陽は明るかった
枯葉がシャベルに集められる
あなたは私が忘れていないことを知っている
枯葉がシャベルに集められる
想い出と後悔とともに
そして、北風がそれらを運び去る
忘却の冷たい夜へ
あなたは私が忘れていないことを知っている
あなたが私に歌ってくれた歌を
それは、私たちのような歌
あなたは私を愛し、私はあなたを愛して
そして、私たちは二人一緒に暮らしていた
私が愛したあなた、私を愛したあなたと
しかし、人生は愛する人たちを離れさせる
緩やかに、音も立てずに
海は砂の上の分かれた恋人たちの足跡を
消し去ってしまう
『枯葉』(フランス語原題:Les Feuilles mortes )は、1945年にJoseph Kosma(ジョゼフ・コズマ)が作曲し、後にJacques Prévert(ジャック・プレヴェール)が詞を付けたという、シャンソンのナンバーである。
ミディアム・スローテンポの短調で歌われるバラードで、6/8拍子の長いヴァース(序奏部)と、4拍子のコーラス部分から成り、その歌詞は遠く過ぎ去って還ることのない恋愛への追想を、季節を背景とした比喩を多用して語るものである。
第二次世界大戦後のシャンソンの曲として、世界的にも有名なスタンダードであり、いち早くジャズの素材として多くのミュージシャンにカバーされ、数え切れないほどのレコーディングが存在することでも知られる。
フランス語の原詞のほか、日本語をはじめ各国語の歌詞を与えられ、広く歌われている。
Jacques Prévert(ジャック・プレヴェール、1900~1977年)は、フランスの民衆詩人、映画作家、童話作家。シャンソン『枯葉』の詞や、映画『天井桟敷の人々』のシナリオを書いたことで有名である。
今日は神奈川の三賢人と横浜で会食しようということになっている。10時59分、都営浅草線浅草発の電車に出かけるべく家を出る。
September 1, 1939
W.H.Auden
I sit in one of the dives
On Fifty-second street
Uncertain and afraid
As the clever hopes expire
Of a low dishonest decade:
Waves of anger and fear
Circulate over the bright
and darkened lands of the earth,
Obsessing our private lives;
The unmentionable odour of death
Offends the September night.
Accurate scholarship can
unearth the whole offence
From Luther until now
That has driven a culture mad,
Find what occurred at Linz,
What huge imago made
A psychopathic god:
I and the public know
What all schoolchildren learn,
Those to whom evil is done
Do evil in return.
Exiled Thucydides knew
All that a speech can say
About Democracy,
And what dictators do,
The elderly rubbish they talk
To an apathetic grave;
Analysed all in his book,
The enlightenment driven away,
The habit-forming pain,
Mismanagement and grief:
We must suffer them all again.
Into this neutral air
Where blind skyscrapers use
Their full height to proclaim
The strength of Collective Man,
Each language pours its vain
Competitive excuse:
But who can live for long
In an euphoric dream;
Out of the mirror they stare,
Imperialism¹s face
And the international wrong.
Faces along the bar
Cling to their average day:
The lights must never go out,
The music must always play,
All the conventions conspire
To make this fort assume
The furniture of home;
Lest we should see where we are,
Lost in a haunted wood,
Children afraid of the night
who have never been happy or good.
The windiest militant trash
Important Persons shout
Is not so crude as our wish:
What mad Nijinsky wrote
About Diaghilev
Is true of the normal heart;
For the error bred in the bone
Of each woman and each man
Craves what it cannot have,
Not universal love
But to be loved alone.
From the conservative dark
Into the ethical life
The dense commuters come,
Repeating their morning vow,
"I will be true to the wife.
I'll concentrate more on my work,"
And helpless governors wake
To resume their compulsory game:
Who can release them now,
Who can reach the deaf,
Who can speak for the dumb?
All I have is a voice
To undo the folded lie,
The romantic lie in the brain
Of the sensual man-in-the-street
And the lie of Authority
Whose buildings grope the sky:
There is no such thing as the State
And no one exists alone;
Hunger allows no choice
To the citizen or the police;
We must love one another or die.
Defenceless under the night
Our world in stupor lies;
Yet, dotted everywhere,
Ironic points of light
Flash out wherever the Just
Exchange their messages;
May I, composed like them
Of Eros and of dust,
Beleaguered by the same
Negation and despair,
Show an affirming flame.
先ずは原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=oWtVYYoJFl4
W.H.オーデンの詩「1939年9月1日」
September 1, 1939
壺齋散人訳
52番街の安酒場で
不安と恐れを抱きながら
俺がひとりで座りこんでいると
低劣でいい加減な10年間が
希望もなしに消え去っていく
怒りと恐怖の感情が
地上のところどころで
波のように渦巻いて
俺たちの生活にまとわりつき
名状しがたい死の匂いが
9月の夜を挑発する
まともな学問なら
ルターから今日に到るまで
文明を狂気に駆り立てた
すべての罪業を明らかにできる
リンツで起きたことを見よ
どんなに巨大な妄想が
異様な神を作り出したことか
どんな生徒たちだって
人に対してなされた悪と
それへの復讐について
学習するようになるものさ
追放の身のトゥキディデスは
デモクラシーについて何がいえるか
独裁者たちが何をするか
老人たちが墓場にむかって
どんな繰言を繰り返すか
そのことをよく知っていた
その上で歴史書に書き込んだのだ
追い払われた啓蒙運動
習慣を形成することの苦しみ
失敗と痛恨と
人はこれらすべてを甘受せねばならぬと
盲目の摩天楼が
そのすさまじい高度によって
人間の集合的な力を示している
その中立の空の中に
諸民族の言葉が競い合って
空虚な命題を注ぎ込む
だがだれも幸福な夢を
何時までも見続けていられない
鏡の中から現れてくるのは
帝国主義の顔と
国際的な悪行だ
バーに並んだ顔は
平凡な毎日にしがみついている
灯りは消してはならぬ
音楽はいつでもやってなきゃならぬ
何もかもが共謀して
この砦を家具のように
見せかけようとしている
俺たちがいったいどこにいるのか
わからせまいとするかのように
俺たちときては幽霊のいる森の中で迷い
夜を怖がっている子どもみたいだ
戦闘的なたわごとも
重要人物の演説も
俺たちの望みほど粗野じゃない
狂ったニジンスキーが
ディアギレフについて語ったことは
普通の人間についてもいえることだ
男と女の骨の髄にまで
染み付いている罪業は
持ち得ないものを熱望することだ
普遍的な愛では満足できずに
自分ひとりだけが愛されることを熱望する
因習の闇から
倫理的な生活へと
おびただしい数の通勤客がやってきて
いつもどおり朝の誓言をする
「今日も女房を大事にして
一生懸命働くぞ」
頼りない亭主たちが毎日起きるのは
変り映えのしないゲームをするためさ
だれがこいつらを解放してやれるだろう
だれがつんぼの耳に語りかけられるだろう
だれがおしの口に語らせられるだろう
もつれた嘘を解くために
俺が持っているのはひとつの声だけだ
その嘘はありふれた人間の
脳みそに巣くうロマンティックな嘘だったり
空を手探りする
高層ビルの権威に巣くう嘘だったりする
この世に国家などというものはない
また孤独な人間というものもない
飢えは市民にも警察官にも
わけ隔てなく訪れる
俺たちはお互いに愛し合わねばならぬのだ
宵闇の中で無防備に
世界は昏睡して横たわっている
だが正義がメッセージを交し合うところ
そういうところではいたるところ
点々と光が交差して
まぶしい耀きを放っている
俺もエロスと泥から作られており
同じく否定と絶望に
付きまとわれている限りは
この光の交差のような
肯定の炎を放ってみたいものだ
1939年9月1日は、ナチスドイツによるポーランド侵攻が行われた日、この日を境にして第二次世界大戦が勃発した。オーデンのこの詩は、戦争と平和、文明と狂気の不思議な関係について、やりきれないような気持ちで語っている。
W.H.Auden
I sit in one of the dives
On Fifty-second street
Uncertain and afraid
As the clever hopes expire
Of a low dishonest decade:
Waves of anger and fear
Circulate over the bright
and darkened lands of the earth,
Obsessing our private lives;
The unmentionable odour of death
Offends the September night.
Accurate scholarship can
unearth the whole offence
From Luther until now
That has driven a culture mad,
Find what occurred at Linz,
What huge imago made
A psychopathic god:
I and the public know
What all schoolchildren learn,
Those to whom evil is done
Do evil in return.
Exiled Thucydides knew
All that a speech can say
About Democracy,
And what dictators do,
The elderly rubbish they talk
To an apathetic grave;
Analysed all in his book,
The enlightenment driven away,
The habit-forming pain,
Mismanagement and grief:
We must suffer them all again.
Into this neutral air
Where blind skyscrapers use
Their full height to proclaim
The strength of Collective Man,
Each language pours its vain
Competitive excuse:
But who can live for long
In an euphoric dream;
Out of the mirror they stare,
Imperialism¹s face
And the international wrong.
Faces along the bar
Cling to their average day:
The lights must never go out,
The music must always play,
All the conventions conspire
To make this fort assume
The furniture of home;
Lest we should see where we are,
Lost in a haunted wood,
Children afraid of the night
who have never been happy or good.
The windiest militant trash
Important Persons shout
Is not so crude as our wish:
What mad Nijinsky wrote
About Diaghilev
Is true of the normal heart;
For the error bred in the bone
Of each woman and each man
Craves what it cannot have,
Not universal love
But to be loved alone.
From the conservative dark
Into the ethical life
The dense commuters come,
Repeating their morning vow,
"I will be true to the wife.
I'll concentrate more on my work,"
And helpless governors wake
To resume their compulsory game:
Who can release them now,
Who can reach the deaf,
Who can speak for the dumb?
All I have is a voice
To undo the folded lie,
The romantic lie in the brain
Of the sensual man-in-the-street
And the lie of Authority
Whose buildings grope the sky:
There is no such thing as the State
And no one exists alone;
Hunger allows no choice
To the citizen or the police;
We must love one another or die.
Defenceless under the night
Our world in stupor lies;
Yet, dotted everywhere,
Ironic points of light
Flash out wherever the Just
Exchange their messages;
May I, composed like them
Of Eros and of dust,
Beleaguered by the same
Negation and despair,
Show an affirming flame.
先ずは原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=oWtVYYoJFl4
W.H.オーデンの詩「1939年9月1日」
September 1, 1939
壺齋散人訳
52番街の安酒場で
不安と恐れを抱きながら
俺がひとりで座りこんでいると
低劣でいい加減な10年間が
希望もなしに消え去っていく
怒りと恐怖の感情が
地上のところどころで
波のように渦巻いて
俺たちの生活にまとわりつき
名状しがたい死の匂いが
9月の夜を挑発する
まともな学問なら
ルターから今日に到るまで
文明を狂気に駆り立てた
すべての罪業を明らかにできる
リンツで起きたことを見よ
どんなに巨大な妄想が
異様な神を作り出したことか
どんな生徒たちだって
人に対してなされた悪と
それへの復讐について
学習するようになるものさ
デモクラシーについて何がいえるか
独裁者たちが何をするか
老人たちが墓場にむかって
どんな繰言を繰り返すか
そのことをよく知っていた
その上で歴史書に書き込んだのだ
追い払われた啓蒙運動
習慣を形成することの苦しみ
失敗と痛恨と
人はこれらすべてを甘受せねばならぬと
盲目の摩天楼が
そのすさまじい高度によって
人間の集合的な力を示している
その中立の空の中に
諸民族の言葉が競い合って
空虚な命題を注ぎ込む
だがだれも幸福な夢を
何時までも見続けていられない
鏡の中から現れてくるのは
帝国主義の顔と
国際的な悪行だ
バーに並んだ顔は
平凡な毎日にしがみついている
灯りは消してはならぬ
音楽はいつでもやってなきゃならぬ
何もかもが共謀して
この砦を家具のように
見せかけようとしている
俺たちがいったいどこにいるのか
わからせまいとするかのように
俺たちときては幽霊のいる森の中で迷い
夜を怖がっている子どもみたいだ
戦闘的なたわごとも
重要人物の演説も
俺たちの望みほど粗野じゃない
狂ったニジンスキーが
ディアギレフについて語ったことは
普通の人間についてもいえることだ
男と女の骨の髄にまで
染み付いている罪業は
持ち得ないものを熱望することだ
普遍的な愛では満足できずに
自分ひとりだけが愛されることを熱望する
因習の闇から
倫理的な生活へと
おびただしい数の通勤客がやってきて
いつもどおり朝の誓言をする
「今日も女房を大事にして
一生懸命働くぞ」
頼りない亭主たちが毎日起きるのは
変り映えのしないゲームをするためさ
だれがこいつらを解放してやれるだろう
だれがつんぼの耳に語りかけられるだろう
だれがおしの口に語らせられるだろう
もつれた嘘を解くために
俺が持っているのはひとつの声だけだ
その嘘はありふれた人間の
脳みそに巣くうロマンティックな嘘だったり
空を手探りする
高層ビルの権威に巣くう嘘だったりする
この世に国家などというものはない
また孤独な人間というものもない
飢えは市民にも警察官にも
わけ隔てなく訪れる
俺たちはお互いに愛し合わねばならぬのだ
宵闇の中で無防備に
世界は昏睡して横たわっている
だが正義がメッセージを交し合うところ
そういうところではいたるところ
点々と光が交差して
まぶしい耀きを放っている
俺もエロスと泥から作られており
同じく否定と絶望に
付きまとわれている限りは
この光の交差のような
肯定の炎を放ってみたいものだ
Autumn Song
By W.H.Auden
Now the leaves are falling fast,
Nurse's flowers will not last;
Nurses to the graves are gone,
And the prams go rolling on.
Whispering neighbours, left and right,
Pluck us from the real delight;
And the active hands must freeze
Lonely on the separate knees.
Dead in hundreds at the back
Follow wooden in our track,
Arms raised stiffly to reprove
In false attitudes of love.
Starving through the leafless wood
Trolls run scolding for their food;
And the nightingale is dumb,
And the angel will not come.
Cold, impossible, ahead
Lifts the mountain's lovely head
Whose white waterfall could bless
Travellers in their last distress.
まずは、原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=vwNpsUZlZpo
〈訳〉木の葉がさっと舞い落ちる
おばさんの花も枯れそうだ
おばさんはもう死んでしまって
乳母車だけが残された
うるさい隣人が左右から
ぼくらの楽しみを取り上げようとする
これじゃ両手もかじかんで
膝のうえで手持ち無沙汰さ
何百という死人たちが
青白い顔で追いかけてきて
両腕を振り回しながら非難する
愛についての間違った見方を
裸の森の中を飢えに駆られ
小人たちが食い物を探してる
ナイチンゲールが泣くこともなく
天使がやってくる気配もない
目の前にはぶざまで冷たい
山の頂がのぞいている
その白い滝が旅人を祝福するのは
臨終のときだけさ
1936年、オーデン29歳の時の作品だという。秋は、人生の秋、つまり老年の象徴だ。まだ若かったオーデンが何故、老年にこだわったか。その背景には、世界大戦の暗雲があったに違いない。
Wystan Hugh Auden(ウィスタン・ヒュー・オーデン、 1907~1973年)はイギリス出身でアメリカ合衆国に移住した詩人。20世紀最大の詩人の一人とみなされている。オーデンがナチス・ドイツのポーランド侵攻及び第二次世界大戦の勃発に際して書いた詩「1939年9月1日」は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ直後、時代と社会の実相、人々の置かれたありようを深いところで表す詩としてアメリカを中心に改めて注目され広く読まれたという。
By W.H.Auden
Now the leaves are falling fast,
Nurse's flowers will not last;
Nurses to the graves are gone,
And the prams go rolling on.
Whispering neighbours, left and right,
Pluck us from the real delight;
And the active hands must freeze
Lonely on the separate knees.
Dead in hundreds at the back
Follow wooden in our track,
Arms raised stiffly to reprove
In false attitudes of love.
Starving through the leafless wood
Trolls run scolding for their food;
And the nightingale is dumb,
And the angel will not come.
Cold, impossible, ahead
Lifts the mountain's lovely head
Whose white waterfall could bless
Travellers in their last distress.
まずは、原詩の朗読をお聴きあれ。画面に原詩が映し出される。
http://www.youtube.com/watch?v=vwNpsUZlZpo
おばさんの花も枯れそうだ
おばさんはもう死んでしまって
乳母車だけが残された
うるさい隣人が左右から
ぼくらの楽しみを取り上げようとする
これじゃ両手もかじかんで
膝のうえで手持ち無沙汰さ
何百という死人たちが
青白い顔で追いかけてきて
両腕を振り回しながら非難する
愛についての間違った見方を
裸の森の中を飢えに駆られ
小人たちが食い物を探してる
ナイチンゲールが泣くこともなく
天使がやってくる気配もない
目の前にはぶざまで冷たい
山の頂がのぞいている
その白い滝が旅人を祝福するのは
臨終のときだけさ
Wystan Hugh Auden(ウィスタン・ヒュー・オーデン、 1907~1973年)はイギリス出身でアメリカ合衆国に移住した詩人。20世紀最大の詩人の一人とみなされている。オーデンがナチス・ドイツのポーランド侵攻及び第二次世界大戦の勃発に際して書いた詩「1939年9月1日」は、2001年9月のアメリカ同時多発テロ直後、時代と社会の実相、人々の置かれたありようを深いところで表す詩としてアメリカを中心に改めて注目され広く読まれたという。
本日は敬老の日だそうだ。先週、町会から「敬老の日のお祝いです」とカステラとドラ焼きの包みが2つ届けられたそうだ。敬老の日はこの瘋癲爺にとってはあっても無くても余り関係ない。
今朝のウェブニュースから
「シルバー世代」や「シルバー人材センター」という言葉があるように、シルバー(銀色)は、高齢者の代名詞としても使われている。ただし、英語のシルバーに、そんな意味はまったくない。昭和48(1973)年の「敬老の日」に、国鉄(現JR)が中央線に導入した「シルバーシート」に由来する。
▼JR東海相談役の須田寛さんによると、高齢者や身体障害者の優先席をシートの色で示すために、新幹線のこだまに使われていたシルバーグレーの布を採用した。「別の色の布だったら、違う名前だったかもしれません」という。▼「許しましょうああ許しましょう シルバーシートに座ってる 若さ眩(まぶ)しいあなた達 タヌキ寝入りか瞑想(めいそう)中か あるいはほんとに夢の中?」。詩人の川崎洋さんが、『許しましょうソング』のなかで、お年寄りに席を譲る気のない若者をからかっている。▼シルバーシートから、優先席に名前が変わっても、車内の光景は変わらない。「いっそのことなくしてしまい、すべての席をお年寄りや体の不自由な人に譲るマナーを広めるべきだ」「優先席ですら譲らない人が多い現実を、無視している」。新聞の投書欄などで、「シルバーシート是非論」が、何度も繰り返されてきた。▼9月15日から、いつのまにか9月の第3月曜日になった敬老の日にも、同じ議論がある。昨年の今ごろは、役所の記録には残っているものの、実は所在や生死がわからない100歳以上の男女が多数いることがわかり、大騒ぎになっていた。▼確かに、年長者への感謝と尊敬の念がこの国に満ちていれば、わざわざ特定の日を、国民の祝日にする必要はない。そんな日がいつか、やって来るのだろうか。 【産経抄】2011.9.19 03:06
韓非子 説林上 より
管仲、隰朋從於桓公而伐孤竹,春往冬反,迷惑失道,管仲曰:“老馬之智可用也。”乃放老馬而隨之,遂得道。行山中無水,隰朋曰:“蟻冬居山之陽,夏居山之陰,蟻壤一寸而仞有水。”乃掘地,遂得水。以管仲之聖,而隰朋之智,至其所不知,不難師於老馬與蟻,今人不知以其愚心而師聖人之智,不亦過乎。
〈訳〉管仲と隰朋の二人は、斉の桓公に従って遼東の孤竹君(こちくくん)を討伐した。行きは春だったが返りは冬となった。迷って道がわからなくなった。そこで管仲は「こういう時は、老馬の知恵が役に立つのだ」と言って、老馬を放って先に行かせ、この後ろについて行くと道を発見した。また山中で水がなくなってしまった。すると隰朋は、「蟻は、冬になると山の南に住み、山の北に住むもので、高さ一寸の蟻塚があると、その下、八尺のところにみずがあるものだ」と言ったので、それを目当てに地を掘ったところ、水を発見した。管仲のような賢人でも、また隰朋のような知者であっても、知らないことにあえば、躊躇せず老馬や蟻のようなものを師とするのである。ところが現在の人々は、愚かな心をしているくせに、聖人の知を師とすることを知らない。なんと間違ったことではないか。
いやはや、「騏驎の衰うるや、駑馬これに先んじ、孟賁(勇者の名)の疲るるや、女子これに優る」ともいう。長寿は目出度いものと言うが、本当に長寿を満喫している高齢者がどれだけ居るのだろう。かくいう、瘋癲爺も、来年は80歳、いつまで生き恥を晒せばよいのやら。
歩出夏門行
曹操
神亀雖寿 神亀は寿(いのちなが)しといえども
猶有竟時 なお終る時あり
騰蛇乗霧 騰蛇は霧に乗ずるも
終為土灰 終には土灰となる
老驥伏櫪 老驥は櫪に伏すも
志有千里 志 千里にあり
烈士暮年 烈士暮年
壮心不已 壮心やまず
〈訳〉亀の中には稀にものすごい長寿のものがあるというが、
それでも命に終わりはある。
竜は霧に乗って舞い上がるというが、
最後は土くれになってしまう。
しかし千里を駆ける駿馬は、たとえ老いて馬屋にあっても
志は千里を駆け巡っている。
男児たるもの、年老いたからといって
熱い気持ちを止められるものではないのだ。
今朝のウェブニュースから
▼JR東海相談役の須田寛さんによると、高齢者や身体障害者の優先席をシートの色で示すために、新幹線のこだまに使われていたシルバーグレーの布を採用した。「別の色の布だったら、違う名前だったかもしれません」という。▼「許しましょうああ許しましょう シルバーシートに座ってる 若さ眩(まぶ)しいあなた達 タヌキ寝入りか瞑想(めいそう)中か あるいはほんとに夢の中?」。詩人の川崎洋さんが、『許しましょうソング』のなかで、お年寄りに席を譲る気のない若者をからかっている。▼シルバーシートから、優先席に名前が変わっても、車内の光景は変わらない。「いっそのことなくしてしまい、すべての席をお年寄りや体の不自由な人に譲るマナーを広めるべきだ」「優先席ですら譲らない人が多い現実を、無視している」。新聞の投書欄などで、「シルバーシート是非論」が、何度も繰り返されてきた。▼9月15日から、いつのまにか9月の第3月曜日になった敬老の日にも、同じ議論がある。昨年の今ごろは、役所の記録には残っているものの、実は所在や生死がわからない100歳以上の男女が多数いることがわかり、大騒ぎになっていた。▼確かに、年長者への感謝と尊敬の念がこの国に満ちていれば、わざわざ特定の日を、国民の祝日にする必要はない。そんな日がいつか、やって来るのだろうか。 【産経抄】2011.9.19 03:06
韓非子 説林上 より
管仲、隰朋從於桓公而伐孤竹,春往冬反,迷惑失道,管仲曰:“老馬之智可用也。”乃放老馬而隨之,遂得道。行山中無水,隰朋曰:“蟻冬居山之陽,夏居山之陰,蟻壤一寸而仞有水。”乃掘地,遂得水。以管仲之聖,而隰朋之智,至其所不知,不難師於老馬與蟻,今人不知以其愚心而師聖人之智,不亦過乎。
いやはや、「騏驎の衰うるや、駑馬これに先んじ、孟賁(勇者の名)の疲るるや、女子これに優る」ともいう。長寿は目出度いものと言うが、本当に長寿を満喫している高齢者がどれだけ居るのだろう。かくいう、瘋癲爺も、来年は80歳、いつまで生き恥を晒せばよいのやら。
歩出夏門行
曹操
神亀雖寿 神亀は寿(いのちなが)しといえども
猶有竟時 なお終る時あり
騰蛇乗霧 騰蛇は霧に乗ずるも
終為土灰 終には土灰となる
老驥伏櫪 老驥は櫪に伏すも
志有千里 志 千里にあり
烈士暮年 烈士暮年
壮心不已 壮心やまず
それでも命に終わりはある。
竜は霧に乗って舞い上がるというが、
最後は土くれになってしまう。
しかし千里を駆ける駿馬は、たとえ老いて馬屋にあっても
志は千里を駆け巡っている。
男児たるもの、年老いたからといって
熱い気持ちを止められるものではないのだ。
秋風辞
漢 武帝 劉轍
秋風起兮白雲飛 秋風起って 白雲飛び
草木黄落兮雁南歸 草木黄落して 雁南に歸る
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀有り 菊に芳有り
懷佳人兮不能忘 佳人を懷うて 忘るる能はず
泛樓船兮濟汾河 樓船を泛べて 汾河を濟り
橫中流兮揚素波 中流に橫たはりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮發棹歌 簫鼓鳴りて 棹歌を發す
歡樂極兮哀情多 歡樂極りて 哀情多し
少壯幾時兮奈老何 少壯幾時ぞ 老いを奈何せん
〈訳〉秋風が立って白雲が飛び、
草木は黄ばみ落ちて雁が南に歸る、
蘭(ふじばかま)や菊が香るこの季節、
佳人が思い起こされて忘れることができない。
樓船(2階建ての船)を泛べて汾河を渡り、
中流に横たわって白い波をあげる、
船内は弦歌が鳴り響いて歓楽が極まるうちにも、なぜか憂いの感情が起こってくる。
若いときはいつまでも続かぬ、老いていく身をどうすることもできない。
前漢の武帝(BC156~87年〉は第7代皇帝。諱は徹。廟号は世宗。正式な諡号は孝武皇帝。BC141年に即位。BC87年に退位。前漢最盛期の皇帝で郷挙里選の法と呼ばれる官吏任用法を採用したことで有名。また、董仲舒(BC176?~104年?)の献策により五経博士を設置し、儒教を官学とした。外征では匈奴や衛氏朝鮮などの周辺諸国と戦った。
この秋風賦は武帝44歳のときの作。この年、武帝は山西省の汾陰に行幸して后土(土地神)を祭り、群臣とともに汾河に船を浮かべて行楽した。
汾上驚秋 汾上、秋に驚く
蘇頲 蘇頲(そてい)
北風吹白雲 北風白雲を吹き
萬里渡河汾 萬里河汾(かふん)を渡る
心緒逢揺楽 心緒(しんしょ)揺落(ようらく)に逢い
秋聲不可聞 秋聲(しゅうせい)聞く可(べ)からず
〈訳〉今や、秋風が白雲を吹き流す日。
我は万里を隔てた遠くに在り、この汾河を渡ろうとしている。
旅の思いに沈む我に、万物の枯れ凋む季節に巡り合っては、
秋の悲しい声には、とても聞くに堪えられぬのである。
蘇頲(670~727)
字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)、進士に及第した。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任した。また玄宗の信任もあつく、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜられて玄宗を補佐した。
漢 武帝 劉轍
秋風起兮白雲飛 秋風起って 白雲飛び
草木黄落兮雁南歸 草木黄落して 雁南に歸る
蘭有秀兮菊有芳 蘭に秀有り 菊に芳有り
懷佳人兮不能忘 佳人を懷うて 忘るる能はず
泛樓船兮濟汾河 樓船を泛べて 汾河を濟り
橫中流兮揚素波 中流に橫たはりて 素波を揚ぐ
簫鼓鳴兮發棹歌 簫鼓鳴りて 棹歌を發す
歡樂極兮哀情多 歡樂極りて 哀情多し
少壯幾時兮奈老何 少壯幾時ぞ 老いを奈何せん
草木は黄ばみ落ちて雁が南に歸る、
蘭(ふじばかま)や菊が香るこの季節、
佳人が思い起こされて忘れることができない。
樓船(2階建ての船)を泛べて汾河を渡り、
中流に横たわって白い波をあげる、
船内は弦歌が鳴り響いて歓楽が極まるうちにも、なぜか憂いの感情が起こってくる。
若いときはいつまでも続かぬ、老いていく身をどうすることもできない。
この秋風賦は武帝44歳のときの作。この年、武帝は山西省の汾陰に行幸して后土(土地神)を祭り、群臣とともに汾河に船を浮かべて行楽した。
汾上驚秋 汾上、秋に驚く
蘇頲 蘇頲(そてい)
北風吹白雲 北風白雲を吹き
萬里渡河汾 萬里河汾(かふん)を渡る
心緒逢揺楽 心緒(しんしょ)揺落(ようらく)に逢い
秋聲不可聞 秋聲(しゅうせい)聞く可(べ)からず
我は万里を隔てた遠くに在り、この汾河を渡ろうとしている。
旅の思いに沈む我に、万物の枯れ凋む季節に巡り合っては、
秋の悲しい声には、とても聞くに堪えられぬのである。
字は廷碩。雍州武功の人。調露二年(680)、進士に及第した。武則天に認められて、左司禦率府冑曹参軍となり、監察御史・給事中・中書舎人などを歴任した。また玄宗の信任もあつく、工部侍郎・中書侍郎に昇進。開元四年(716)には宰相となり、許国公に封ぜられて玄宗を補佐した。
秋夜寄丘二十二員外 秋夜 丘二十二員外に寄す
韋応物
憶君屬秋夜 君を憶ひ 秋夜に属し
散歩詠涼天 散歩して 涼天に詠ず
山空松子落 山空しうして 松子落ち
幽人應未眠 幽人 応(まさ)に未だ眠らざるべし
〈訳〉君を想い 静かな秋の夜に
庭を歩き回って 涼しい空に詩を吟じている
君は人気のない山の中 松かさの落ちる音を聞いているか
ひっそりと暮らす君は きっとまだ眠っていないだろう
「丘二十二員外」は、友人の丘丹のこと、それに和したのが次の詩。
和韋使君秋夜見寄 韋使君の秋夜寄せらるるに和す
丘丹
露滴梧葉鳴 露滴り 梧葉鳴りて
秋風桂花發 秋風に 桂花発(ひら)く
中有學仙侶 中に仙を学ぶ侶(ともがら)有り
吹簫弄山月 簫を吹いて 山月を弄せり
韋応物(737?~792?)は中唐期の詩人。京兆(けいちょう、陝西省)万年県の人。若いころ侠気(きょうき)を重んじ、玄宗の近衛(このえ)士官として奔放な生活を送ったが、安禄山(あんろくざん)の乱で職を失ってから、心を入れ替えて勉強に励んだという。洛陽(らくよう)(河南省)丞(じょう)、櫟陽(れきよう)(陝西省)令、比部員外郎、滁州(ちょしゅう)(安徽(あんき)省)刺史(しし)、江州(江西省)刺史、左司郎中を歴任。蘇州(そしゅう)(江蘇省)刺史で終わったことから韋蘇州とよばれる。自然詩人として、「王(維)、孟(浩然(こうねん))、韋(応物)、柳(宗元)」と並称され、その詩風は「澄淡精緻(ちょうたんせいち)」と評されている。
丘丹 丘は姓、丘丹。二十二は排行。員外は官名、員外郎。長官の補佐役
登 楼 楼に登る
韋応物
茲楼日登眺 茲の楼 日に登り眺む
流歳暗蹉跎 流歳 暗に蹉跎たり
坐厭淮南守 坐して厭う淮南の守
秋山紅樹多 秋山 紅樹多し
高楼に登って 毎日あたりを眺める
来し方を懐えば おのずから悔やまれる
淮南の刺史となったが 嬉しくもなく
秋の山に 紅葉はみちている
「蹉跎」はつまずく、時機を失するの意で、後悔することのみ多いという意味。「淮南守」は滁州刺史〈じょしゅうしし〉のことで、刺史になったが嫌なことばかり多くて、美しいのは秋の山の紅葉だけだと、自然の美しさに心を和ませている。
聞 雁 雁を聞く
韋応物
故園眇何処 故園眇として何処ぞ
帰思方悠哉 帰思方まさに悠なる哉
淮南秋雨夜 淮南秋雨の夜
高斎聞雁来 高斎雁の来るを聞く
〈訳〉都の方は 漠として定かに見えず
帰心がつのって眠れない
淮南の夜に 秋雨が降り
楼上の部屋で 飛び来る雁の声を聞く

韋応物の任地滁州は淮水の南の地(淮南)にあたるので、刺史のときの作品と思われる。「故園」は生まれ故郷のことであるが、韋応物は京兆長安県の生まれなので、都を意味する。都が「眇何処」というのはあり得ないことなのので、地方勤務が長くて都の状況もわからなくなったという意味だろう。都に帰りたくて眠れない。「悠哉」は『詩経』関雎の「悠哉悠哉輾転反側」を踏まえており、心に悩みがあって眠れないことを意味する。
眠れないでいる高楼の部屋で雁が飛んできたのを耳にした。秋雨の降る秋の季節なので、雁は北から南へ飛んでいく。雁はいつもの通り北からやってきたが、都からの便りはないという意味を含んでいる。
雁(がん、かり)(異字:鴈)とは、カモ目カモ科の水鳥の総称である。
韋応物
憶君屬秋夜 君を憶ひ 秋夜に属し
散歩詠涼天 散歩して 涼天に詠ず
山空松子落 山空しうして 松子落ち
幽人應未眠 幽人 応(まさ)に未だ眠らざるべし
〈訳〉君を想い 静かな秋の夜に
庭を歩き回って 涼しい空に詩を吟じている
君は人気のない山の中 松かさの落ちる音を聞いているか
ひっそりと暮らす君は きっとまだ眠っていないだろう
「丘二十二員外」は、友人の丘丹のこと、それに和したのが次の詩。
和韋使君秋夜見寄 韋使君の秋夜寄せらるるに和す
丘丹
露滴梧葉鳴 露滴り 梧葉鳴りて
秋風桂花發 秋風に 桂花発(ひら)く
中有學仙侶 中に仙を学ぶ侶(ともがら)有り
吹簫弄山月 簫を吹いて 山月を弄せり
韋応物(737?~792?)は中唐期の詩人。京兆(けいちょう、陝西省)万年県の人。若いころ侠気(きょうき)を重んじ、玄宗の近衛(このえ)士官として奔放な生活を送ったが、安禄山(あんろくざん)の乱で職を失ってから、心を入れ替えて勉強に励んだという。洛陽(らくよう)(河南省)丞(じょう)、櫟陽(れきよう)(陝西省)令、比部員外郎、滁州(ちょしゅう)(安徽(あんき)省)刺史(しし)、江州(江西省)刺史、左司郎中を歴任。蘇州(そしゅう)(江蘇省)刺史で終わったことから韋蘇州とよばれる。自然詩人として、「王(維)、孟(浩然(こうねん))、韋(応物)、柳(宗元)」と並称され、その詩風は「澄淡精緻(ちょうたんせいち)」と評されている。
丘丹 丘は姓、丘丹。二十二は排行。員外は官名、員外郎。長官の補佐役
登 楼 楼に登る
韋応物
茲楼日登眺 茲の楼 日に登り眺む
流歳暗蹉跎 流歳 暗に蹉跎たり
坐厭淮南守 坐して厭う淮南の守
秋山紅樹多 秋山 紅樹多し
高楼に登って 毎日あたりを眺める
来し方を懐えば おのずから悔やまれる
淮南の刺史となったが 嬉しくもなく
秋の山に 紅葉はみちている
「蹉跎」はつまずく、時機を失するの意で、後悔することのみ多いという意味。「淮南守」は滁州刺史〈じょしゅうしし〉のことで、刺史になったが嫌なことばかり多くて、美しいのは秋の山の紅葉だけだと、自然の美しさに心を和ませている。
聞 雁 雁を聞く
韋応物
故園眇何処 故園眇として何処ぞ
帰思方悠哉 帰思方まさに悠なる哉
淮南秋雨夜 淮南秋雨の夜
高斎聞雁来 高斎雁の来るを聞く
〈訳〉都の方は 漠として定かに見えず
帰心がつのって眠れない
淮南の夜に 秋雨が降り
楼上の部屋で 飛び来る雁の声を聞く
眠れないでいる高楼の部屋で雁が飛んできたのを耳にした。秋雨の降る秋の季節なので、雁は北から南へ飛んでいく。雁はいつもの通り北からやってきたが、都からの便りはないという意味を含んでいる。
雁(がん、かり)(異字:鴈)とは、カモ目カモ科の水鳥の総称である。
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目高 拙痴无
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