瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
荀子 賦篇 第二十六 ―蠶―
有物於此,㒩㒩兮其狀,屢化如神,功被天下,為萬世文。禮樂以成,貴賤以分,養老長幼,待之而後存。名號不美,與「暴」為鄰。功立而身廢,事成而家敗。棄其耆老,收其後世。人屬所利,飛鳥所害。臣愚不識,請占之五泰。
五泰占之曰:此夫身女好,而頭馬首者與? 屢化而不壽者與?善壯而拙老者與? 有父母而無牝牡者與? 冬伏而夏游,食桑而吐絲,前亂而後治,夏生而惡暑,喜濕而惡雨,蛹以為母,蛾以為父,三俯三起,事乃大已,夫是之謂蠶理。蠶。
ここに物あり 羽なく毛なく 裸にて 変化すること 神に似る。功績は天下に あまねくて 万世までも 文飾す。礼義音楽 以て成り 貴賎上下も以て分け 養老長幼 これによる。その名称は 不美にして 残暴なると 近かりき。功なる上は 身殺され 事なる後は 家破る。老者捨てられ 子孫取る。人は喜び 鳥にくむ。我れ愚かにて わきまえず。これを五帝に 占(うかが)わん。
五帝考え のたまえり。これはこれ 身は柔軟に 馬頭なり。変化能くすも 寿にあらず。壮に能くして 老拙す〔若いときには手厚くされ、年を取ると退けられる〕。父母はあれども 牝牡(ひんぼ)なし。冬は伏せども 夏育ち 桑を食らいて 糸を吐き 始め乱れて 後治む。夏に生まれて 暑を憎み 湿を喜び 雨憎む。蛹(さなぎ)母とし 蛾父とす。三度眠りて 三度起き すべての仕事 終るなり。蚕理なりとは このことぞ。――蠶――
有物於此,㒩㒩兮其狀,屢化如神,功被天下,為萬世文。禮樂以成,貴賤以分,養老長幼,待之而後存。名號不美,與「暴」為鄰。功立而身廢,事成而家敗。棄其耆老,收其後世。人屬所利,飛鳥所害。臣愚不識,請占之五泰。
五泰占之曰:此夫身女好,而頭馬首者與? 屢化而不壽者與?善壯而拙老者與? 有父母而無牝牡者與? 冬伏而夏游,食桑而吐絲,前亂而後治,夏生而惡暑,喜濕而惡雨,蛹以為母,蛾以為父,三俯三起,事乃大已,夫是之謂蠶理。蠶。
ここに物あり 羽なく毛なく 裸にて 変化すること 神に似る。功績は天下に あまねくて 万世までも 文飾す。礼義音楽 以て成り 貴賎上下も以て分け 養老長幼 これによる。その名称は 不美にして 残暴なると 近かりき。功なる上は 身殺され 事なる後は 家破る。老者捨てられ 子孫取る。人は喜び 鳥にくむ。我れ愚かにて わきまえず。これを五帝に 占(うかが)わん。
五帝考え のたまえり。これはこれ 身は柔軟に 馬頭なり。変化能くすも 寿にあらず。壮に能くして 老拙す〔若いときには手厚くされ、年を取ると退けられる〕。父母はあれども 牝牡(ひんぼ)なし。冬は伏せども 夏育ち 桑を食らいて 糸を吐き 始め乱れて 後治む。夏に生まれて 暑を憎み 湿を喜び 雨憎む。蛹(さなぎ)母とし 蛾父とす。三度眠りて 三度起き すべての仕事 終るなり。蚕理なりとは このことぞ。――蠶――
荀子 賦篇 第二十六 ―雲―
有物於此,居則周靜致下,動則綦高以鉅,圓者中規,方者中矩,大參天地,德厚堯禹,精微乎毫毛,而盈大乎寓宙。忽兮其極之遠也,攭兮其相逐而反也,卬卬兮天下之咸蹇也。德厚而不捐,五采備而成文,往來惛憊,通于大神,出入甚極,莫知其門。天下失之則滅,得之則存。弟子不敏,此之願陳,君子設辭,請測意之。
曰:此夫大而不塞者與? 充盈大宇而不窕,入卻穴而不偪者與? 行遠疾速,而不可託訊者與? 往來惛憊,而不可為固塞者與? 暴至殺傷,而不億忌者與?功被天下,而不私置者與? 託地而游宇,友風而子雨,冬日作寒,夏日作暑,廣大精神,請歸之雲。雲。
ここに物あり 坐れば静か 下に降り 動けば高く 巨大なり 円なるものは 規にあたり 方なるものは矩にあたる。大は天地と 等しくて 徳尭・禹より 厚きなり。毫毛(ごうもう)よりも 精微にて 大宇宙にも 充満す。忽然として 遠くゆき 攭然〔れいぜん、ひらりとひるがえるさま〕として 逐反る。天上高く あるときは 恵は天下に 施せり。徳厚くして 捨つるなく。五采そなわり 文(あや)を成す。往来変化 はかられず 神の動きに さも似たり。出入きわめて すみやかに その門知るを 得ざるなり。これを得ざれば 滅亡し 得れば天下は 存続す。我れ愚かにて 願わくは 我が為これを 説き給え 君子辞(ことば)を述ぶるなら 我れ意をもって はかりなん。
答えて曰く これはこれ 広大にして 塞がれず 宇宙にみちて 余りあり 小穴に入り 狭からず。遠くに往くに 速やかも 便りをたくす ものならず、往来(ゆきき)のさまは はかられず 固塞〔こさい、固定しゆきづまりふさがった状態〕になさす ことできず。にわかに人を殺傷し 而も憎まれ きらわれず 功波天下に 及ぼして 己の徳と せざるなり。大地に託し 宇〔大空〕に遊び 風を友とし 雨(う)を子にす。冬には寒を 作りなし 夏には暑(しょ)をば、作り成す。こうだいにして 精なる神(うごき)。これこそ雲と 答えなん。 ――雲――
有物於此,居則周靜致下,動則綦高以鉅,圓者中規,方者中矩,大參天地,德厚堯禹,精微乎毫毛,而盈大乎寓宙。忽兮其極之遠也,攭兮其相逐而反也,卬卬兮天下之咸蹇也。德厚而不捐,五采備而成文,往來惛憊,通于大神,出入甚極,莫知其門。天下失之則滅,得之則存。弟子不敏,此之願陳,君子設辭,請測意之。
曰:此夫大而不塞者與? 充盈大宇而不窕,入卻穴而不偪者與? 行遠疾速,而不可託訊者與? 往來惛憊,而不可為固塞者與? 暴至殺傷,而不億忌者與?功被天下,而不私置者與? 託地而游宇,友風而子雨,冬日作寒,夏日作暑,廣大精神,請歸之雲。雲。
ここに物あり 坐れば静か 下に降り 動けば高く 巨大なり 円なるものは 規にあたり 方なるものは矩にあたる。大は天地と 等しくて 徳尭・禹より 厚きなり。毫毛(ごうもう)よりも 精微にて 大宇宙にも 充満す。忽然として 遠くゆき 攭然〔れいぜん、ひらりとひるがえるさま〕として 逐反る。天上高く あるときは 恵は天下に 施せり。徳厚くして 捨つるなく。五采そなわり 文(あや)を成す。往来変化 はかられず 神の動きに さも似たり。出入きわめて すみやかに その門知るを 得ざるなり。これを得ざれば 滅亡し 得れば天下は 存続す。我れ愚かにて 願わくは 我が為これを 説き給え 君子辞(ことば)を述ぶるなら 我れ意をもって はかりなん。
答えて曰く これはこれ 広大にして 塞がれず 宇宙にみちて 余りあり 小穴に入り 狭からず。遠くに往くに 速やかも 便りをたくす ものならず、往来(ゆきき)のさまは はかられず 固塞〔こさい、固定しゆきづまりふさがった状態〕になさす ことできず。にわかに人を殺傷し 而も憎まれ きらわれず 功波天下に 及ぼして 己の徳と せざるなり。大地に託し 宇〔大空〕に遊び 風を友とし 雨(う)を子にす。冬には寒を 作りなし 夏には暑(しょ)をば、作り成す。こうだいにして 精なる神(うごき)。これこそ雲と 答えなん。 ――雲――
荀子 賦篇 第二十六 ―知― より
皇天隆物,以示施下民,或厚或薄,常不齊均。桀紂以亂,湯武以賢。涽涽淑淑,皇皇穆穆。周流四海,曾不崇日。君子以脩,跖以穿室。大參乎天,精微而無形,行義以正,事業以成。可以禁暴足窮,百姓待之而後泰寧。臣愚不識,願問其名。
曰:此夫安寬平而危險隘者邪?脩潔之為親,而雜汙之為狄者邪?甚深藏而外勝敵者邪?法禹舜而能弇跡者邪?行為動靜待之而後適者邪?血氣之精也,志意之榮也,百姓待之而後寧也,天下待之而後平也,明達純粹而無疵也,夫是之謂君子之知。知。
天帝物を 下されて 下民に示し 与えけり。或は厚く、また薄く 常に斉一 ならざりき、桀・紂以て 乱をなし 湯・武は以て 賢となる。涽涽淑淑(こんこんしゅくしゅく) 皇皇穆穆(こうこうぼくぼく) 四海に流れ あまねけど 一日(ひとひ)足らずに こと終る。君子は以て 身を修め 盗跖以て 悪事なす。その大天と ならべども 精密細微 形なし。行ない以て 正しくし 事業は以て 成就する。暴を禁じて 窮(きゅう)救(たす)け 百姓これを 望み待ち 始めて平和 訪れる。我れ愚かにて わきまえず その何たるか 名を問わん。
答えて曰く これはこれ 寛平なれば 安んじて 険隘(けんあい)なれば 危うくす 修潔なるに 親しんで 汚濁に対し 遠ざかる。甚だ深く ひそみ居て 外の敵には 勝をとる。舜・禹の道に のっとりて まことに事跡を 実践す。行為動静 これにより 始めて適し 宜しきぞ。血気も 志意も 盛んにす。百姓これに よりすがり 始めて平和 おとずれる。天下もこれに よってこそ 安寧平和 実現す。明達にして 純粋ぞ。君子の知とは これをいう。 ――知――
皇天隆物,以示施下民,或厚或薄,常不齊均。桀紂以亂,湯武以賢。涽涽淑淑,皇皇穆穆。周流四海,曾不崇日。君子以脩,跖以穿室。大參乎天,精微而無形,行義以正,事業以成。可以禁暴足窮,百姓待之而後泰寧。臣愚不識,願問其名。
曰:此夫安寬平而危險隘者邪?脩潔之為親,而雜汙之為狄者邪?甚深藏而外勝敵者邪?法禹舜而能弇跡者邪?行為動靜待之而後適者邪?血氣之精也,志意之榮也,百姓待之而後寧也,天下待之而後平也,明達純粹而無疵也,夫是之謂君子之知。知。
天帝物を 下されて 下民に示し 与えけり。或は厚く、また薄く 常に斉一 ならざりき、桀・紂以て 乱をなし 湯・武は以て 賢となる。涽涽淑淑(こんこんしゅくしゅく) 皇皇穆穆(こうこうぼくぼく) 四海に流れ あまねけど 一日(ひとひ)足らずに こと終る。君子は以て 身を修め 盗跖以て 悪事なす。その大天と ならべども 精密細微 形なし。行ない以て 正しくし 事業は以て 成就する。暴を禁じて 窮(きゅう)救(たす)け 百姓これを 望み待ち 始めて平和 訪れる。我れ愚かにて わきまえず その何たるか 名を問わん。
答えて曰く これはこれ 寛平なれば 安んじて 険隘(けんあい)なれば 危うくす 修潔なるに 親しんで 汚濁に対し 遠ざかる。甚だ深く ひそみ居て 外の敵には 勝をとる。舜・禹の道に のっとりて まことに事跡を 実践す。行為動静 これにより 始めて適し 宜しきぞ。血気も 志意も 盛んにす。百姓これに よりすがり 始めて平和 おとずれる。天下もこれに よってこそ 安寧平和 実現す。明達にして 純粋ぞ。君子の知とは これをいう。 ――知――
荀子 賦篇 第二十六 ―礼― より
爰有大物,非絲非帛,文理成章;非日非月,為天下明。生者以壽,死者以葬。城郭以固,三軍以強。粹而王,駁而伯,無一焉而亡。臣愚不識,敢請之王?
王曰:此夫文而不采者歟? 簡然易知,而致有理者歟? 君子所敬,而小人所不者歟? 性不得則若禽獸,性得之則甚雅似者歟? 匹夫隆之則為聖人,諸侯隆之則一四海者歟? 致明而約,甚順而體,請歸之禮。禮。
ここに大事な ものがある。生糸にあらず 絹布にあらず。文様すべて みごとなり。日にはあらず 月にもあらず 天下無類の 明るさぞ。生者は以て 命のび 死しては以て 葬られ 城郭以て 堅固にて 三軍以て 強固なり。粋をたもてば 王者たり 混うるなれば 覇者となり 一もなければ 亡ぶなり。我れ愚かにて わきまえず その何たるかを 王に問う。
王は答えて これはこれ 文様ありて 華美ならず 偉大であるも 知り易く 極めてすじめ 通るもの。君子はそれを 慎めど 小人どもは 気にかけず。本性これを うくなくば 何ぞえらばん 禽獣と 本性これを うくなれば 雅正の人と みなさるる。匹夫もこれを 尊べぱ ついには至る 賢人に 諸侯もこれを 貴べば ついには天下を たもつべし。極めて簡単 明瞭ぞ 甚だ行ない 易きもの。これこそ礼と 答うべし。 ――礼――
爰有大物,非絲非帛,文理成章;非日非月,為天下明。生者以壽,死者以葬。城郭以固,三軍以強。粹而王,駁而伯,無一焉而亡。臣愚不識,敢請之王?
王曰:此夫文而不采者歟? 簡然易知,而致有理者歟? 君子所敬,而小人所不者歟? 性不得則若禽獸,性得之則甚雅似者歟? 匹夫隆之則為聖人,諸侯隆之則一四海者歟? 致明而約,甚順而體,請歸之禮。禮。
ここに大事な ものがある。生糸にあらず 絹布にあらず。文様すべて みごとなり。日にはあらず 月にもあらず 天下無類の 明るさぞ。生者は以て 命のび 死しては以て 葬られ 城郭以て 堅固にて 三軍以て 強固なり。粋をたもてば 王者たり 混うるなれば 覇者となり 一もなければ 亡ぶなり。我れ愚かにて わきまえず その何たるかを 王に問う。
王は答えて これはこれ 文様ありて 華美ならず 偉大であるも 知り易く 極めてすじめ 通るもの。君子はそれを 慎めど 小人どもは 気にかけず。本性これを うくなくば 何ぞえらばん 禽獣と 本性これを うくなれば 雅正の人と みなさるる。匹夫もこれを 尊べぱ ついには至る 賢人に 諸侯もこれを 貴べば ついには天下を たもつべし。極めて簡単 明瞭ぞ 甚だ行ない 易きもの。これこそ礼と 答うべし。 ――礼――
荀子 成相篇 第二十五 第二章 より
凡成相、辨法方、至治之極復後王。慎墨季惠、百家之說欺不詳。
きねうたにてぞ 語り申さん/政治の要は/平治の極は 後王の法に 反えること/慎・墨・季・恵〔慎倒・墨翟・季子?・恵施〕 百家の説は 多けれど/いずれ劣らぬ 不善なり
治復一、脩之吉、君子執之心如結、眾人貳之、讒夫棄之、形是詰。
平治の道は 唯一無にぞ/これを修めば/吉慶生ず 君子は固く 守れども/衆人たがい 悪人捨てて 省みず/刑罰のみを たよるなり
水至平、端不傾、心術如此象聖人。人而有埶、直而用抴必參天。
平らな水は 端正にして/傾くるなし/人の心も かくの如くば 聖人ぞ/彼勢いを得て すなおに 抴〔えい、=曵〕を 用うれば/功業天と ならびなん
世無王、窮賢良、暴人芻豢、仁人糟糠;禮樂息滅、聖人隱伏、墨術行。
王者の居らぬ 世の中なれば/賢士苦しむ/賊人驕(おご)り 仁人困り 糠を食う/礼楽亡び 聖人までも 逃げ隠れ/墨術のみが 盛んなり
治之經、禮與刑、君子以脩百姓寧。明德慎罰、國家既治四海平。
政治の要は 何ぞといえば/礼と刑なり/君子は以て 修め整え 民安し/徳をおさめて 罰をはばかり 行えば/国は治まり 波静か
治之志、後埶富、君子誠之好以待。處之敦固、有深藏之、能遠思。
政の中心 何ぞといえば/富貴をあとにす/君子実(まこと)に 道をば好み 事を待つ/事にのぞめば 誠実むねと 心がけ/遠き治道を 思うなり
思乃精、志之榮、好而壹之神以成。精神相反、一而不貳、為聖人。
思慮せば汝 精妙となり/心もはえる/ひたすら好み 進めば神の 如くなる/精と神とが 唯一無二に なるなれば/これぞまことの 聖人ぞ
治之道、美不老、君子由之佼以好。下以教誨子弟、上以事祖考。
平和の道は 何ぞといえば/美にして老いず/君子の善美 すべて実に これによる/ひたすら保持し 下は子弟を 教育し/上は祖考に 事(つか)うなり
成相竭、辭不蹙、君子道之順以達。宗其賢良、辨其殃孽。
きねうたにては これにて尽くも/言葉は尽きじ/くんし以上に 頼れば万事 利軽んじ/賢を貴び 賊人弁(わか)つ 《以下欠》
凡成相、辨法方、至治之極復後王。慎墨季惠、百家之說欺不詳。
きねうたにてぞ 語り申さん/政治の要は/平治の極は 後王の法に 反えること/慎・墨・季・恵〔慎倒・墨翟・季子?・恵施〕 百家の説は 多けれど/いずれ劣らぬ 不善なり
治復一、脩之吉、君子執之心如結、眾人貳之、讒夫棄之、形是詰。
平治の道は 唯一無にぞ/これを修めば/吉慶生ず 君子は固く 守れども/衆人たがい 悪人捨てて 省みず/刑罰のみを たよるなり
水至平、端不傾、心術如此象聖人。人而有埶、直而用抴必參天。
平らな水は 端正にして/傾くるなし/人の心も かくの如くば 聖人ぞ/彼勢いを得て すなおに 抴〔えい、=曵〕を 用うれば/功業天と ならびなん
世無王、窮賢良、暴人芻豢、仁人糟糠;禮樂息滅、聖人隱伏、墨術行。
王者の居らぬ 世の中なれば/賢士苦しむ/賊人驕(おご)り 仁人困り 糠を食う/礼楽亡び 聖人までも 逃げ隠れ/墨術のみが 盛んなり
治之經、禮與刑、君子以脩百姓寧。明德慎罰、國家既治四海平。
政治の要は 何ぞといえば/礼と刑なり/君子は以て 修め整え 民安し/徳をおさめて 罰をはばかり 行えば/国は治まり 波静か
治之志、後埶富、君子誠之好以待。處之敦固、有深藏之、能遠思。
政の中心 何ぞといえば/富貴をあとにす/君子実(まこと)に 道をば好み 事を待つ/事にのぞめば 誠実むねと 心がけ/遠き治道を 思うなり
思乃精、志之榮、好而壹之神以成。精神相反、一而不貳、為聖人。
思慮せば汝 精妙となり/心もはえる/ひたすら好み 進めば神の 如くなる/精と神とが 唯一無二に なるなれば/これぞまことの 聖人ぞ
治之道、美不老、君子由之佼以好。下以教誨子弟、上以事祖考。
平和の道は 何ぞといえば/美にして老いず/君子の善美 すべて実に これによる/ひたすら保持し 下は子弟を 教育し/上は祖考に 事(つか)うなり
成相竭、辭不蹙、君子道之順以達。宗其賢良、辨其殃孽。
きねうたにては これにて尽くも/言葉は尽きじ/くんし以上に 頼れば万事 利軽んじ/賢を貴び 賊人弁(わか)つ 《以下欠》
荀子 成相篇 第二十五 第一章 より
請成相:世之殃、愚闇愚闇墮賢良!人主無賢、如瞽無相、何倀倀!
きねうたにてぞ 語り申さん/世の殃(わざわ)いは/愚者の専横(よこしま) 賢者を害し 堕(お)とすこと/賢なき君は 瞽者(めくら)に手引き なき如し/ゆくえも知らず 迷うなり
請布基、慎聖人、愚而自專事不治。主忌苟勝、群臣莫諫、必逢災。
大事なことを ゆめ忘るるな/愚者なるに/他人に任せず 専らなれば 事乱る/猜疑の君に 臣の諫めも 阻まれる/災い遇うは 必至なり
論臣過、反其施、尊主安國尚賢義。拒諫飾非、愚而上同、國必禍。
臣の過失に 反省するか/わが身の行為/国家安泰 願わば賢を 貴べよ/諫言拒み 佞倖のみを 近づけば/国の禍(わざわい) 必至なり
曷謂「罷」?國多私、比周還主黨與施。遠賢近讒、忠臣蔽塞主埶移。
如何なる者を 罷士〔ひし、ろくでなし〕とかいわん/私事のみおおく/おもねりこびて 君をまよわし 徒党くみ/賢を遠ざけ 忠臣閉(とざ)し 讒(ざん)に慣(な)る/君の威勢も 移るなり
曷謂「賢」?明君臣、上能尊主下愛民。主誠聽之、天下為一海內賓。
如何なる者を 賢士といわん/上下の別を/明確になし 君を尊び 民愛す/君心より 用いば天下 一となり/海内服し きたるなり
主之孽、讒人達、賢能遁逃國乃蹙。愚以重愚、闇以重闇、成為桀。
君主の害は 何ぞといえば/讒臣栄え/賢者能者は 逃れて国を 覆す/長く久しく 闇愚をかさね 積むなれば/ついに桀とも みなさるる
世之災、妒賢能、飛廉知政任惡來。卑其志意、大其園圃高其臺。
世の災いは 何とぞいえば/賢者をねたみ/飛廉(紂の佞臣)政とり 悪来(殷末の官僚)を用う 如くなり/志意は貧しく 園囿(えんゆう)のみを 広くなし/建物のみぞ いや高し
武王怒、師牧野、紂卒易鄉啟乃下。武王善之、封之於宋立其祖。
武王一度 怒をなして/牧野にいくさ/進め闘う 敵寝返り 微子降る/武王嘉(よみ)して 微子(殷の忠臣)をば宋に 封建し/殷の宗廟 継がすなり
世之衰、讒人歸、比干見刳箕子累。武王誅之、呂尚招麾殷民懷。
よの衰えは 何ぞといえば/悪人ばらが/つき従いて 比干や箕子も 殺さるる/武王・呂尚は 彼等を誅し 平らぎて/殷の民衆 服すなり
世之禍、惡賢士、子胥見殺百里徙。穆公任之、強配五伯六卿施。
世の禍は 何ぞといえば/賢者に嫉妬/子胥は殺され 百里は逃れ 出奔す/穆公遂に これを用いて 五伯(春秋時代の5人の覇者)となり/六卿置ける 強国ぞ
世之愚、惡大儒、逆斥不通孔子拘。展禽三絀、春申道綴、基畢輸。
世の愚かさは 何ぞといえば/大儒を嫉み/拒み退け 孔子ですらも 困窮す/子禽は三度 春申半ば こと止みて/その業すべて ついゆなり
請牧基、賢者思、堯在萬世如見之。讒人罔極、險陂傾側此之疑。
ゆめ忘るるな 基本をおさめ/賢者を思え/尭は万世 目に見る如く あるべきに/悪人どもは 窮みもなくて ねじまげて/このことさえも 疑わす
基必施、辨賢罷、文武之道同伏戲、由之者治、不由者亂、何疑為?
基本をかたく 治めんために/賢愚を別(わか)て/文王・武王 ともに伏戯(ふぎ)と 同じ道/よれば治まり よらずば乱る この道に/疑いつゆも あらざるぞ
請成相:世之殃、愚闇愚闇墮賢良!人主無賢、如瞽無相、何倀倀!
きねうたにてぞ 語り申さん/世の殃(わざわ)いは/愚者の専横(よこしま) 賢者を害し 堕(お)とすこと/賢なき君は 瞽者(めくら)に手引き なき如し/ゆくえも知らず 迷うなり
請布基、慎聖人、愚而自專事不治。主忌苟勝、群臣莫諫、必逢災。
大事なことを ゆめ忘るるな/愚者なるに/他人に任せず 専らなれば 事乱る/猜疑の君に 臣の諫めも 阻まれる/災い遇うは 必至なり
論臣過、反其施、尊主安國尚賢義。拒諫飾非、愚而上同、國必禍。
臣の過失に 反省するか/わが身の行為/国家安泰 願わば賢を 貴べよ/諫言拒み 佞倖のみを 近づけば/国の禍(わざわい) 必至なり
曷謂「罷」?國多私、比周還主黨與施。遠賢近讒、忠臣蔽塞主埶移。
如何なる者を 罷士〔ひし、ろくでなし〕とかいわん/私事のみおおく/おもねりこびて 君をまよわし 徒党くみ/賢を遠ざけ 忠臣閉(とざ)し 讒(ざん)に慣(な)る/君の威勢も 移るなり
曷謂「賢」?明君臣、上能尊主下愛民。主誠聽之、天下為一海內賓。
如何なる者を 賢士といわん/上下の別を/明確になし 君を尊び 民愛す/君心より 用いば天下 一となり/海内服し きたるなり
主之孽、讒人達、賢能遁逃國乃蹙。愚以重愚、闇以重闇、成為桀。
君主の害は 何ぞといえば/讒臣栄え/賢者能者は 逃れて国を 覆す/長く久しく 闇愚をかさね 積むなれば/ついに桀とも みなさるる
世之災、妒賢能、飛廉知政任惡來。卑其志意、大其園圃高其臺。
世の災いは 何とぞいえば/賢者をねたみ/飛廉(紂の佞臣)政とり 悪来(殷末の官僚)を用う 如くなり/志意は貧しく 園囿(えんゆう)のみを 広くなし/建物のみぞ いや高し
武王怒、師牧野、紂卒易鄉啟乃下。武王善之、封之於宋立其祖。
武王一度 怒をなして/牧野にいくさ/進め闘う 敵寝返り 微子降る/武王嘉(よみ)して 微子(殷の忠臣)をば宋に 封建し/殷の宗廟 継がすなり
世之衰、讒人歸、比干見刳箕子累。武王誅之、呂尚招麾殷民懷。
よの衰えは 何ぞといえば/悪人ばらが/つき従いて 比干や箕子も 殺さるる/武王・呂尚は 彼等を誅し 平らぎて/殷の民衆 服すなり
世之禍、惡賢士、子胥見殺百里徙。穆公任之、強配五伯六卿施。
世の禍は 何ぞといえば/賢者に嫉妬/子胥は殺され 百里は逃れ 出奔す/穆公遂に これを用いて 五伯(春秋時代の5人の覇者)となり/六卿置ける 強国ぞ
世之愚、惡大儒、逆斥不通孔子拘。展禽三絀、春申道綴、基畢輸。
世の愚かさは 何ぞといえば/大儒を嫉み/拒み退け 孔子ですらも 困窮す/子禽は三度 春申半ば こと止みて/その業すべて ついゆなり
請牧基、賢者思、堯在萬世如見之。讒人罔極、險陂傾側此之疑。
ゆめ忘るるな 基本をおさめ/賢者を思え/尭は万世 目に見る如く あるべきに/悪人どもは 窮みもなくて ねじまげて/このことさえも 疑わす
基必施、辨賢罷、文武之道同伏戲、由之者治、不由者亂、何疑為?
基本をかたく 治めんために/賢愚を別(わか)て/文王・武王 ともに伏戯(ふぎ)と 同じ道/よれば治まり よらずば乱る この道に/疑いつゆも あらざるぞ
荀子の学は誰から承け伝えられたものかということについては、「非十二子篇」などでは孔子とともに子弓を誉めているところから、子弓から承けたという説もあるが、はっきりしたことは判っていない。劉向(りゅうきょう)の『収録』には「詩・礼・易・春秋の学に特に造詣が深い」と述べていることから、ひとりの先生に限ったわけではなく、いろいろな場所で多くの先生についたものと思われる。
荀子の弟子としては、韓非・李斯・浮丘伯の3人が知られる。このうち浮丘伯を通じて、荀子の思想は漢代の儒学に大きな影響を与えた。韓非や李斯は、外的規範である「礼」の思想をさらに進めて「法」による人間の制御を説き、韓非は法家思想の大成者となり、李斯は法家の実務の完成者となった。ただし、「法家思想」そのものは孔子や韓非子の生まれる前から存在しており、荀子の思想から法家思想が誕生した、というのは誤りであるとされる。
荀子の学を伝えたものについても李斯(りし)・韓非(かんぴ)・浮丘伯・陳囂(ちんごう)以外は明らかでないが、漢代の経学の中で特に詩、礼・春秋の学に影響を与えたと言われる。詩では毛詩と魯詩に、春秋では穀梁伝と左氏伝の伝承の系譜の中に荀子の名が挙げられているという。
「成相篇」では楽曲に合わせた定型詩十節前後のものが五章もある。この篇は「相」という楽曲の形式を借りて、君臣・治乱に関する意見を述べたものである。「相」とは労役をするときに力をつけるために音頭を取って歌うもの、あるいは杵をあげて穀物を搗くときの歌ということから、楽曲の名になったものだと言う。各節は、第一句3字、第二句3字、第三句7字、第四句11字とし、各句は韻を踏んでいる。
たとえば、「成相篇」の原文一章、第一節は 「請成相/世之殃/愚闇愚闇墮賢良/人主無賢、如瞽無相、何倀倀」の四句からなり、各句の終わりの文字 相・殃・良・倀 が押韻している。
「賦篇」では 礼・知・雲・蚕・箴の5篇の賦(韻文)と佹詩(変調詩)2篇を集めたものである。この5つのものは人生に切実なものであるのに、これを意識する人が少ないので、その意味を明らかにしたものであるという。
これらはともに韻文で思想内容よりは、文学作品であり、特に文体上興味あるものとされ、荀子の学の幅の広さを表わすものであり、他の諸子には見られない特徴である。
荀子の弟子としては、韓非・李斯・浮丘伯の3人が知られる。このうち浮丘伯を通じて、荀子の思想は漢代の儒学に大きな影響を与えた。韓非や李斯は、外的規範である「礼」の思想をさらに進めて「法」による人間の制御を説き、韓非は法家思想の大成者となり、李斯は法家の実務の完成者となった。ただし、「法家思想」そのものは孔子や韓非子の生まれる前から存在しており、荀子の思想から法家思想が誕生した、というのは誤りであるとされる。
荀子の学を伝えたものについても李斯(りし)・韓非(かんぴ)・浮丘伯・陳囂(ちんごう)以外は明らかでないが、漢代の経学の中で特に詩、礼・春秋の学に影響を与えたと言われる。詩では毛詩と魯詩に、春秋では穀梁伝と左氏伝の伝承の系譜の中に荀子の名が挙げられているという。
「成相篇」では楽曲に合わせた定型詩十節前後のものが五章もある。この篇は「相」という楽曲の形式を借りて、君臣・治乱に関する意見を述べたものである。「相」とは労役をするときに力をつけるために音頭を取って歌うもの、あるいは杵をあげて穀物を搗くときの歌ということから、楽曲の名になったものだと言う。各節は、第一句3字、第二句3字、第三句7字、第四句11字とし、各句は韻を踏んでいる。
たとえば、「成相篇」の原文一章、第一節は 「請成相/世之殃/愚闇愚闇墮賢良/人主無賢、如瞽無相、何倀倀」の四句からなり、各句の終わりの文字 相・殃・良・倀 が押韻している。
「賦篇」では 礼・知・雲・蚕・箴の5篇の賦(韻文)と佹詩(変調詩)2篇を集めたものである。この5つのものは人生に切実なものであるのに、これを意識する人が少ないので、その意味を明らかにしたものであるという。
これらはともに韻文で思想内容よりは、文学作品であり、特に文体上興味あるものとされ、荀子の学の幅の広さを表わすものであり、他の諸子には見られない特徴である。
荀子 性悪篇 第二十三 より
繁弱、鉅黍古之良弓也;然而不得排檠則不能自正。桓公之蔥、太公之闕、文王之錄、莊君之曶、闔閭之干 將、莫邪、鉅闕、辟閭、此皆古之良劍也;然而不加砥厲則不能利、不得人力則不能斷。驊騮、騹驥、纖離、綠耳、此皆古之良馬也;然而必前有銜轡之制、後有鞭策之威、加之以造父之駛、然後一日而致千里也。夫人雖有性質美而心辯知、必將求賢師而事之、擇良友而友之。得賢師而事之、則所聞者堯舜禹湯之道也;得良友而友之、則所見者忠信敬讓之行也。身日進於仁義而不自知也者、靡使然也。今與不善人處、則所聞者欺誣詐偽也、所見者汙漫淫邪貪利之行也、身且加於刑戮而不自知者、靡使然也。傳曰:「不知其子視其友、不知其君視其左右。」靡而已矣!靡而已矣!
〔訳〕
繁弱と鉅黍は昔のすぐれた弓である。しかし弓を正しくする器械を使わなかったら、自分だけで正しくはなれい。斉の桓公の葱(そう)、斉の太公望の闕(けつ)、周の文王の録、楚の荘王の曶(こつ)、呉の闔閭(こうりょ)の干将(かんしょう)・莫邪(ばくや)・鉅闕(きょけつ)・辟閭(へきりょ)、これらはすべて昔のすぐれた剣である。しかし砥石にかけなければ、鋭利になることは出来ず、人の力が加わらなければ物を切断することは出来ない。周の穆王の驊騮(かりゅう)・騹驥(りき)・纖離(せんり)・綠耳(ろくじ)などはすべて昔のすぐれた馬である。しかし必ず前には轡や手綱で制御され、後からは策(むち)によって励まされ、さらに造父(ぞうほ)のような名馭者によって始めて一日に千里も走ることが出来たのである。人の場合も同じであって、たとい生まれつきすぐれた素質があり、物事を識別する心があっても、必ずすぐれた先生を探してそれに従い、良い友達を選んで交わるようにすべきである。すぐれた先生を得てそれに従えば、耳に聞く所のものはすべて尭・舜・禹・湯のような昔の聖王の残した道である。良い友を得てこれと交われば目に見るところのものは、すべて誠実で慎み深い行いばかりである。このようにして自分では知らない内に一日一日仁義の道に進んでゆくのは、環境の影響がそうさせるのである。今かりによくない人と一緒におれば耳に聞く所のすべて、欺き騙し、うそいつわりであり、目に見る所のものはすべて、でたらめでよこしまで、貪欲な行いばかりである。このようにして、自分では知らない内に、今にも刑罰に処せられるようになっているのは、環境の影響がそうさせるのである。古伝にも「その人の人柄が分らなければ、その友達を見れば分る。その君主の人柄が分らなければ、その側近のものを見れば分る」といっている。環境の影響が非常に大事なことを述べているのである。
繁弱、鉅黍古之良弓也;然而不得排檠則不能自正。桓公之蔥、太公之闕、文王之錄、莊君之曶、闔閭之干 將、莫邪、鉅闕、辟閭、此皆古之良劍也;然而不加砥厲則不能利、不得人力則不能斷。驊騮、騹驥、纖離、綠耳、此皆古之良馬也;然而必前有銜轡之制、後有鞭策之威、加之以造父之駛、然後一日而致千里也。夫人雖有性質美而心辯知、必將求賢師而事之、擇良友而友之。得賢師而事之、則所聞者堯舜禹湯之道也;得良友而友之、則所見者忠信敬讓之行也。身日進於仁義而不自知也者、靡使然也。今與不善人處、則所聞者欺誣詐偽也、所見者汙漫淫邪貪利之行也、身且加於刑戮而不自知者、靡使然也。傳曰:「不知其子視其友、不知其君視其左右。」靡而已矣!靡而已矣!
〔訳〕
繁弱と鉅黍は昔のすぐれた弓である。しかし弓を正しくする器械を使わなかったら、自分だけで正しくはなれい。斉の桓公の葱(そう)、斉の太公望の闕(けつ)、周の文王の録、楚の荘王の曶(こつ)、呉の闔閭(こうりょ)の干将(かんしょう)・莫邪(ばくや)・鉅闕(きょけつ)・辟閭(へきりょ)、これらはすべて昔のすぐれた剣である。しかし砥石にかけなければ、鋭利になることは出来ず、人の力が加わらなければ物を切断することは出来ない。周の穆王の驊騮(かりゅう)・騹驥(りき)・纖離(せんり)・綠耳(ろくじ)などはすべて昔のすぐれた馬である。しかし必ず前には轡や手綱で制御され、後からは策(むち)によって励まされ、さらに造父(ぞうほ)のような名馭者によって始めて一日に千里も走ることが出来たのである。人の場合も同じであって、たとい生まれつきすぐれた素質があり、物事を識別する心があっても、必ずすぐれた先生を探してそれに従い、良い友達を選んで交わるようにすべきである。すぐれた先生を得てそれに従えば、耳に聞く所のものはすべて尭・舜・禹・湯のような昔の聖王の残した道である。良い友を得てこれと交われば目に見るところのものは、すべて誠実で慎み深い行いばかりである。このようにして自分では知らない内に一日一日仁義の道に進んでゆくのは、環境の影響がそうさせるのである。今かりによくない人と一緒におれば耳に聞く所のすべて、欺き騙し、うそいつわりであり、目に見る所のものはすべて、でたらめでよこしまで、貪欲な行いばかりである。このようにして、自分では知らない内に、今にも刑罰に処せられるようになっているのは、環境の影響がそうさせるのである。古伝にも「その人の人柄が分らなければ、その友達を見れば分る。その君主の人柄が分らなければ、その側近のものを見れば分る」といっている。環境の影響が非常に大事なことを述べているのである。
荀子 性悪篇 第二十三 より
問者曰:「禮義積偽者、是人之性、故聖人能生之也。」
應之曰:是不然。夫陶人埏埴而生瓦、然則瓦埴豈陶人之性也哉?工人斲木而生器、然則器木豈工人之性也哉?夫聖人之於禮義也、辟則陶埏而生之也。然則禮義積偽者、豈人之本性也哉!凡人之性者、堯舜之與桀跖、其性一也;君子之與小人、其性一也。今將以禮義積偽為人之性邪?然則有曷貴堯禹、曷貴君子矣哉!凡貴堯禹君子者、能化性、能起偽、偽起而生禮義。然則聖人之於禮義積偽也、亦猶陶埏而為之也。用此觀之、然則禮義積偽者、豈人之性也哉!所賤於桀跖小人者、從其性、順其情、安恣孳、以出乎貪利爭奪。故人之性惡明矣、其善者偽也。天非私曾騫孝己而外眾人也、然而曾騫孝己獨厚於孝之實、而全於孝之名者、何也?以綦於禮義故也。天非私齊魯之民而外秦人也、然而於父子之義、夫婦之別、不如齊魯之孝具敬文者、何也?以秦人從情性、安恣孳、慢於禮義故也、豈其性異矣哉!
〔訳〕
「礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性である。だからこそ聖人もこれを作り出すことができたのである」と反論するものがいる。しかし、これに対しては、そうではないのだと答える。あの陶工は粘土をこねて瓦をつくるが、粘土をこねて瓦とするのは、陶工の生まれながらの性であるとどうして言えるだろうか? 細工師は木を削って器物をつくるのであるが、木を切って器物を作るのは細工師の生まれながらの性であるとどうしていえようか? 聖人が礼義を作るのも、たとえば陶工が粘土をこねて瓦を作るようなものである。そうすると礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性であるとどうしていえようか。人の生まれながらの性について言えば、聖天子である尭や舜と、暴君の桀や大盗賊の盗跖(とうせき)とすべてその生まれながらの性は同じである。君子と小人との区別はあっても、生まれながらの性は同じである。今仮に礼義や努力してて修得する偽が人の生まれながらの性であるとするならば、どうしてまた尭や禹を尊敬する理由があろうか、どうして君子を尊敬するひつようがあろうか。尭や禹や君子を尊重するわけは、生まれつきの性を変化させ、努力して修得する偽を実行するからであり、偽を実行してその結果礼義が作られるからである。そうすると聖人が礼義や努力して修得した偽を実行するのは、やはり陶工が粘土をこねて瓦をつくるようなものである。このように見てくると、礼義や努力して得た偽は、どうして人の性であると言えようか。暴君の桀や大盗賊の盗跖や小人を蔑むわけは、生まれながら持っている性や情のままに行動し、ほしいままに振る舞い、利を貪り、争い奪い合うからである。だから人の生まれながらの性は、悪い傾向性を持っていることは明らかであり、その善いというものは、努力して修得した偽なのである。
天は、孝行で有名な曾参(そうしん)、閔子騫(びんしけん)、孝己(こうき)の三人を特別に寵愛して、その他の人々には不親切であったというわけではない。そうであるのにこの三人だけが、親孝行を十分実践したものとして、孝行の名声を得ているのはどうしてであろうか。それは礼義を修め尽くしたからである。天は斉と魯の国の人々を特別に愛して、秦の国の人々を憎んだわけではない。そうであるのに、父子の間の道義や夫婦の礼義において、秦の国の人々は斉や魯の人々が孝行で慎み深く、よく礼儀作法にかなっているのに及ばないのは、どうしてであろうか。それは秦の国の人々が生まれながらの性情のままに、ほしいままな行いをし、礼義を無視下からである。どうして生まれつきの性に違いがあろうか。
問者曰:「禮義積偽者、是人之性、故聖人能生之也。」
應之曰:是不然。夫陶人埏埴而生瓦、然則瓦埴豈陶人之性也哉?工人斲木而生器、然則器木豈工人之性也哉?夫聖人之於禮義也、辟則陶埏而生之也。然則禮義積偽者、豈人之本性也哉!凡人之性者、堯舜之與桀跖、其性一也;君子之與小人、其性一也。今將以禮義積偽為人之性邪?然則有曷貴堯禹、曷貴君子矣哉!凡貴堯禹君子者、能化性、能起偽、偽起而生禮義。然則聖人之於禮義積偽也、亦猶陶埏而為之也。用此觀之、然則禮義積偽者、豈人之性也哉!所賤於桀跖小人者、從其性、順其情、安恣孳、以出乎貪利爭奪。故人之性惡明矣、其善者偽也。天非私曾騫孝己而外眾人也、然而曾騫孝己獨厚於孝之實、而全於孝之名者、何也?以綦於禮義故也。天非私齊魯之民而外秦人也、然而於父子之義、夫婦之別、不如齊魯之孝具敬文者、何也?以秦人從情性、安恣孳、慢於禮義故也、豈其性異矣哉!
〔訳〕
「礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性である。だからこそ聖人もこれを作り出すことができたのである」と反論するものがいる。しかし、これに対しては、そうではないのだと答える。あの陶工は粘土をこねて瓦をつくるが、粘土をこねて瓦とするのは、陶工の生まれながらの性であるとどうして言えるだろうか? 細工師は木を削って器物をつくるのであるが、木を切って器物を作るのは細工師の生まれながらの性であるとどうしていえようか? 聖人が礼義を作るのも、たとえば陶工が粘土をこねて瓦を作るようなものである。そうすると礼義や努力して修得する偽は、人の生まれながらの性であるとどうしていえようか。人の生まれながらの性について言えば、聖天子である尭や舜と、暴君の桀や大盗賊の盗跖(とうせき)とすべてその生まれながらの性は同じである。君子と小人との区別はあっても、生まれながらの性は同じである。今仮に礼義や努力してて修得する偽が人の生まれながらの性であるとするならば、どうしてまた尭や禹を尊敬する理由があろうか、どうして君子を尊敬するひつようがあろうか。尭や禹や君子を尊重するわけは、生まれつきの性を変化させ、努力して修得する偽を実行するからであり、偽を実行してその結果礼義が作られるからである。そうすると聖人が礼義や努力して修得した偽を実行するのは、やはり陶工が粘土をこねて瓦をつくるようなものである。このように見てくると、礼義や努力して得た偽は、どうして人の性であると言えようか。暴君の桀や大盗賊の盗跖や小人を蔑むわけは、生まれながら持っている性や情のままに行動し、ほしいままに振る舞い、利を貪り、争い奪い合うからである。だから人の生まれながらの性は、悪い傾向性を持っていることは明らかであり、その善いというものは、努力して修得した偽なのである。
天は、孝行で有名な曾参(そうしん)、閔子騫(びんしけん)、孝己(こうき)の三人を特別に寵愛して、その他の人々には不親切であったというわけではない。そうであるのにこの三人だけが、親孝行を十分実践したものとして、孝行の名声を得ているのはどうしてであろうか。それは礼義を修め尽くしたからである。天は斉と魯の国の人々を特別に愛して、秦の国の人々を憎んだわけではない。そうであるのに、父子の間の道義や夫婦の礼義において、秦の国の人々は斉や魯の人々が孝行で慎み深く、よく礼儀作法にかなっているのに及ばないのは、どうしてであろうか。それは秦の国の人々が生まれながらの性情のままに、ほしいままな行いをし、礼義を無視下からである。どうして生まれつきの性に違いがあろうか。
荀子 性悪篇 第二十三 より
人之性惡、其善者偽也。今人之性、生而有好利焉、順是、故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉、順是、故殘賊生而忠信亡焉;生而有耳目之欲、有好聲色焉、順是、故淫亂生而禮義文理亡焉。然則從人之性、順人之情、必出於爭奪、合於犯分亂理、而歸於暴。故必將有師法之化、禮義之道、然後出於辭讓、合於文理、而歸於治。用此觀之、人之性惡明矣、其善者偽也。
〔訳〕
〔人間の能力の中で、生まれながらに持っている能力である性と、努力して身につけた能力である偽(い)とを比べると〕人の生まれながらにして持っている性は悪くなる傾向性をもっているが、努力して修得した偽(い)こそが善いのである。今このことについて考えてみると、人の生まれながらの性質というものは、利益を得たいと願うものである。そしてこれにそのまま従うと人と争い奪い合いが生じて、譲り合うことがなくなるのである。また人は生まれながら他人を嫉み憎むという感情を持っている。そしてそれにそのまま従うと人を害(そこ)ない、殺し合いが生じてて、心から信じあうことがなくなる。また生まれながら美しいものを見たり聞いたりしたいという耳や目の欲望がある。そしてそれにそのまま従うと、無制限に乱れ淫りがわしくなり礼義や文理〔規則や道理〕がなくなる。そうすると、人の生まれつきの性質や感情のままに従った行為をすれば、必ず争い奪いあうという結果になって、社会の秩序や道理が破られることになり、ついに混乱に陥る。だからこそどうしても先生の教化や礼義の指導が必要であり、それによってはじめて人と譲り合い、社会のおきてや道理を守るようになり、ついには平和が実現するのである。このように観てくると、人の生まれながらに持っている能力である性は、悪い傾向性をもつものであることが明らかであり、その善いというものは努力して身に習得した能力である偽(い)なのである。
故枸木必將待檃栝、烝矯然後直;鈍金必將待礱厲然後利;今人之性惡、必將待師法然後正、得禮義然後治、今人無師法、則偏險而不正;無禮義、則悖亂而不治、古者聖王以人性惡、以為偏險而不正、悖亂而不治、是以為之起禮義、制法度、以矯飾人之情性而正之、以擾化人之情性而導之也、始皆出於治、合於道者也。今人之化師法、積文學、道禮義者為君子;縱性情、安恣孳、而違禮義者為小人。用此觀之、人之性惡明矣、其善者偽也。
〔訳〕
曲がった木は、矯木(ためぎ)をあて、蒸して矯正することによって始めて真っ直ぐになり、なまくらな刃物は、砥石にかけて磨(と)ぐことによって始めて鋭利になる。このように人の生まれながらの性は悪い(粗野な)ものであって、先生の教化によって始めて正しく善いものとなり、礼義によって始めて平和な世の中になるのである。もしかりに先生による教化がなければ、人々は偏り不正に陥り、礼義がなければ、道理にもとり、乱暴になり、世の中は乱れる。
昔聖王は、人の生まれながらの性は悪い傾向性を持っているものであるから、そのままそれに従う行為をすれば、偏って不正になり、道理にもとり、乱暴をして世の中が平和にならないと思った。そこでそうならないために礼義を作り、法度(おきて)を定め、それによって人の生まれながらの性や情を矯め治して正しいものにし、またそれによって生まれながらの性や情を馴らし、善い方に変化させるように導いた。これらはみな世の中が平和になり、道理にかなうようにさせるためである。現代においても、先生の教えに感化され、学問を積み礼義に従った行為をする人を君子といい、生まれながらの性情のまま勝手きままな行為をし、礼義にたがうものを小人というのである。このように見てくると、人の生まれながらの性は、悪い傾向性を持つことは明らかである。その善いというものは努力して身に修得した偽(い)なのである。
孟子曰:「今之學者、其性善。」
曰:是不然。是不及知人之性、而不察乎人之性偽之分者也。凡性者、天之就也、不可學、不可事。禮義者、聖人之所生也、人之所學而能、所事而成者也。不可學、不可事、而在人者、謂之性;可學而能、可事而成之在人者、謂之偽。是性偽之分也。今人之性、目可以見、耳可以聽;夫可以見之明不離目、可以聽之聰不離耳、目明而耳聰、不可學明矣。
〔訳〕
孟子は「人が学問をするのは、人の生まれながらの性が善いものであるからである」と言っている。しかしこれはそうではない。このような論は、人の生まれながらの性を十分よく知っていないし、人の生まれながらの能力と、努力して得た能力との区別を明らかにしていない者のいうことである。いったい性というものは、天から与えられたものであり生まれつきのものである。だから学習したり努力することによって得られる能力ではない。それに反して礼義は、聖人がつくりだしたものである。これは人々が学習して体得することも出来、努力して完成させることも出来るものである。学習や努力では得ることの出来ない能力の中で、人に生まれつき備わっているものを性といい、学習することによって体得し、努力することによって完成できる能力の中で、人に生まれながらに備わっているものを偽(い)というのである。これが性と偽の区別なのである。今、人の性について考えてみるに、目は物を見ることが出来、耳は音を聞くことができる。しかも物を見る視力は目にあり、音を聞く聴力は耳にあり、目や耳を離れてあるのではなくて、耳や目はそのままで聡明なのである。これは人の性は学習によって得られるものでないことを明らかにしている。
孟子曰:「今人之性善、將皆失喪其性故也。」
曰:若是則過矣。今人之性、生而離其朴、離其資、必失而喪之。用此觀之、然則人之性惡明矣。所謂性善者、不離其朴而美之、不離其資而利之也。使夫資朴之於美、心意之於善、若夫可以見之明不離目、可以聽之聰不離耳、故曰目明而耳聰也。今人之性、飢而欲飽、寒而欲煖、勞而欲休、此人之情性也。今人見長而不敢先食者、將有所讓也;勞而不敢求息者、將有所代也。夫子之讓乎父、弟之讓乎兄、子之代乎父、弟之代乎兄、此二行者、皆反於性而悖於情也;然而孝子之道、禮義之文理也。故順情性則不辭讓矣、辭讓則悖於情性矣。用此觀之、人之性惡明矣、其善者偽也。
〔訳〕
孟子は「人の性は善いものである。今、悪い行いをする人がいるのは、すべてその善い本性を失ってゆくことに原因がある」と言っている。しかし、このような説は誤っていると言わなければならない。もし人の性を生まれながらのままにしておけば、孟子のいうよい性質である素朴さや生まれつきから離れて、必ずその善さを全くなくしてしまうことになる。そうであってみれば、人の性は悪い傾向性を持つことは明らかである。いわゆる人間の性は善であるというのは、その素朴さのままが美しいものであり、生まれつきの性質そのままが善いとするものである。素質が立派であり心ばせが善いというのは、じゅうぶんに物を見ることが出来る視力が目に備わっており、じゅうぶんに音を聞くことの出来る聴力が耳に備わっているから、目が明らかでよく見え、耳が聡くよく聞こえるといわれるこうな関係にさせることをいうのである。今、人間の性を考えてみるに、腹が減ると腹一杯食べたいと思い、寒いときには暖まりたいと思い、疲れると休みたいと思う。これは人であれは誰でも持っている生まれながらの情性である。ところが腹がへっているときに食糧をみても、真っ先に食べようとしないのは、人に譲ろうとするからである。また疲れていても休憩を望まないのは、人に代わろうとするからである。子が父に譲り、弟が兄に代わるというこの二つの行いは、ともに生まれながらの性に反し、自然の情にもとるものである。そうではあっても、この行いこそが孝子の道であり、礼義の道理なのである。だから生まれながらの情性に従うと人に譲るようなことはしない。人に譲るならばそれは自然の情性にもとることになる。このようにみてくると、人の生まれながらの性は悪い傾向性を持つものであることがあきらかであり、その善いものは努力して得た偽(い)なのである。
人之性惡、其善者偽也。今人之性、生而有好利焉、順是、故爭奪生而辭讓亡焉;生而有疾惡焉、順是、故殘賊生而忠信亡焉;生而有耳目之欲、有好聲色焉、順是、故淫亂生而禮義文理亡焉。然則從人之性、順人之情、必出於爭奪、合於犯分亂理、而歸於暴。故必將有師法之化、禮義之道、然後出於辭讓、合於文理、而歸於治。用此觀之、人之性惡明矣、其善者偽也。
〔訳〕
〔人間の能力の中で、生まれながらに持っている能力である性と、努力して身につけた能力である偽(い)とを比べると〕人の生まれながらにして持っている性は悪くなる傾向性をもっているが、努力して修得した偽(い)こそが善いのである。今このことについて考えてみると、人の生まれながらの性質というものは、利益を得たいと願うものである。そしてこれにそのまま従うと人と争い奪い合いが生じて、譲り合うことがなくなるのである。また人は生まれながら他人を嫉み憎むという感情を持っている。そしてそれにそのまま従うと人を害(そこ)ない、殺し合いが生じてて、心から信じあうことがなくなる。また生まれながら美しいものを見たり聞いたりしたいという耳や目の欲望がある。そしてそれにそのまま従うと、無制限に乱れ淫りがわしくなり礼義や文理〔規則や道理〕がなくなる。そうすると、人の生まれつきの性質や感情のままに従った行為をすれば、必ず争い奪いあうという結果になって、社会の秩序や道理が破られることになり、ついに混乱に陥る。だからこそどうしても先生の教化や礼義の指導が必要であり、それによってはじめて人と譲り合い、社会のおきてや道理を守るようになり、ついには平和が実現するのである。このように観てくると、人の生まれながらに持っている能力である性は、悪い傾向性をもつものであることが明らかであり、その善いというものは努力して身に習得した能力である偽(い)なのである。
故枸木必將待檃栝、烝矯然後直;鈍金必將待礱厲然後利;今人之性惡、必將待師法然後正、得禮義然後治、今人無師法、則偏險而不正;無禮義、則悖亂而不治、古者聖王以人性惡、以為偏險而不正、悖亂而不治、是以為之起禮義、制法度、以矯飾人之情性而正之、以擾化人之情性而導之也、始皆出於治、合於道者也。今人之化師法、積文學、道禮義者為君子;縱性情、安恣孳、而違禮義者為小人。用此觀之、人之性惡明矣、其善者偽也。
〔訳〕
曲がった木は、矯木(ためぎ)をあて、蒸して矯正することによって始めて真っ直ぐになり、なまくらな刃物は、砥石にかけて磨(と)ぐことによって始めて鋭利になる。このように人の生まれながらの性は悪い(粗野な)ものであって、先生の教化によって始めて正しく善いものとなり、礼義によって始めて平和な世の中になるのである。もしかりに先生による教化がなければ、人々は偏り不正に陥り、礼義がなければ、道理にもとり、乱暴になり、世の中は乱れる。
昔聖王は、人の生まれながらの性は悪い傾向性を持っているものであるから、そのままそれに従う行為をすれば、偏って不正になり、道理にもとり、乱暴をして世の中が平和にならないと思った。そこでそうならないために礼義を作り、法度(おきて)を定め、それによって人の生まれながらの性や情を矯め治して正しいものにし、またそれによって生まれながらの性や情を馴らし、善い方に変化させるように導いた。これらはみな世の中が平和になり、道理にかなうようにさせるためである。現代においても、先生の教えに感化され、学問を積み礼義に従った行為をする人を君子といい、生まれながらの性情のまま勝手きままな行為をし、礼義にたがうものを小人というのである。このように見てくると、人の生まれながらの性は、悪い傾向性を持つことは明らかである。その善いというものは努力して身に修得した偽(い)なのである。
孟子曰:「今之學者、其性善。」
曰:是不然。是不及知人之性、而不察乎人之性偽之分者也。凡性者、天之就也、不可學、不可事。禮義者、聖人之所生也、人之所學而能、所事而成者也。不可學、不可事、而在人者、謂之性;可學而能、可事而成之在人者、謂之偽。是性偽之分也。今人之性、目可以見、耳可以聽;夫可以見之明不離目、可以聽之聰不離耳、目明而耳聰、不可學明矣。
〔訳〕
孟子は「人が学問をするのは、人の生まれながらの性が善いものであるからである」と言っている。しかしこれはそうではない。このような論は、人の生まれながらの性を十分よく知っていないし、人の生まれながらの能力と、努力して得た能力との区別を明らかにしていない者のいうことである。いったい性というものは、天から与えられたものであり生まれつきのものである。だから学習したり努力することによって得られる能力ではない。それに反して礼義は、聖人がつくりだしたものである。これは人々が学習して体得することも出来、努力して完成させることも出来るものである。学習や努力では得ることの出来ない能力の中で、人に生まれつき備わっているものを性といい、学習することによって体得し、努力することによって完成できる能力の中で、人に生まれながらに備わっているものを偽(い)というのである。これが性と偽の区別なのである。今、人の性について考えてみるに、目は物を見ることが出来、耳は音を聞くことができる。しかも物を見る視力は目にあり、音を聞く聴力は耳にあり、目や耳を離れてあるのではなくて、耳や目はそのままで聡明なのである。これは人の性は学習によって得られるものでないことを明らかにしている。
孟子曰:「今人之性善、將皆失喪其性故也。」
曰:若是則過矣。今人之性、生而離其朴、離其資、必失而喪之。用此觀之、然則人之性惡明矣。所謂性善者、不離其朴而美之、不離其資而利之也。使夫資朴之於美、心意之於善、若夫可以見之明不離目、可以聽之聰不離耳、故曰目明而耳聰也。今人之性、飢而欲飽、寒而欲煖、勞而欲休、此人之情性也。今人見長而不敢先食者、將有所讓也;勞而不敢求息者、將有所代也。夫子之讓乎父、弟之讓乎兄、子之代乎父、弟之代乎兄、此二行者、皆反於性而悖於情也;然而孝子之道、禮義之文理也。故順情性則不辭讓矣、辭讓則悖於情性矣。用此觀之、人之性惡明矣、其善者偽也。
〔訳〕
孟子は「人の性は善いものである。今、悪い行いをする人がいるのは、すべてその善い本性を失ってゆくことに原因がある」と言っている。しかし、このような説は誤っていると言わなければならない。もし人の性を生まれながらのままにしておけば、孟子のいうよい性質である素朴さや生まれつきから離れて、必ずその善さを全くなくしてしまうことになる。そうであってみれば、人の性は悪い傾向性を持つことは明らかである。いわゆる人間の性は善であるというのは、その素朴さのままが美しいものであり、生まれつきの性質そのままが善いとするものである。素質が立派であり心ばせが善いというのは、じゅうぶんに物を見ることが出来る視力が目に備わっており、じゅうぶんに音を聞くことの出来る聴力が耳に備わっているから、目が明らかでよく見え、耳が聡くよく聞こえるといわれるこうな関係にさせることをいうのである。今、人間の性を考えてみるに、腹が減ると腹一杯食べたいと思い、寒いときには暖まりたいと思い、疲れると休みたいと思う。これは人であれは誰でも持っている生まれながらの情性である。ところが腹がへっているときに食糧をみても、真っ先に食べようとしないのは、人に譲ろうとするからである。また疲れていても休憩を望まないのは、人に代わろうとするからである。子が父に譲り、弟が兄に代わるというこの二つの行いは、ともに生まれながらの性に反し、自然の情にもとるものである。そうではあっても、この行いこそが孝子の道であり、礼義の道理なのである。だから生まれながらの情性に従うと人に譲るようなことはしない。人に譲るならばそれは自然の情性にもとることになる。このようにみてくると、人の生まれながらの性は悪い傾向性を持つものであることがあきらかであり、その善いものは努力して得た偽(い)なのである。
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