瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
今朝のウェブニュースより
中国の国宝「清明上河図」、来年東京に 初の国外展示 ―― 中国・北宋時代(960~1127年)の絵巻で、神品とたたえられる「清明上河図(せいめいじょうかず)」(張択端・画)が、日中国交正常化40周年の記念行事として東京国立博物館で来年開催される特別展「北京故宮博物院200選」(朝日新聞社など主催)に出品されることが決まった。北京の故宮博物院から東京国立博物館に12日、中国の国家文物局が出品を許可したと連絡が入った。中国から国外に出品されるのは初めて。
「清明上河図」は縦24.8cm、長さ528cmの絹本製の図巻で、清明節(新暦では4月5日ごろ、中国では墓参りなどをする)の頃の北宋の都・開封(かいほう)(現在の河南省開封市)と郊外の風景を描いたとされる。
郊外の川べりの風景や、荷を満載した船、街道、大小の店、行き交う馬やかごなどが、墨と淡彩で描かれる。登場人物は約800人。中国の風俗画の最高峰と言われ、国家一級文物(国宝)にも指定されている。 (asahi.com 2011年12月12日21時18分)
北宋は、汴梁〔べんりょう、河南省開封〕を帝都として、汴京または東京(とうけい)と呼び、洛陽を西京(せいけい)と呼んだ。その東京がもっとも繁栄した北宋第八代徽宗(きそう)皇帝の崇寧~宣和年間(1102~1125年)頃の姿を南宋の初期の紹興十七(1147)年に、孟元老なる人物が追懐して書いた『東京夢華録』には「清明節」について、次のように書いている。
清明節。都では普通冬至から百五日目を「大寒食」とした。
寒食の前日は「炊熟(すいじゅく)」と呼ばれる。粉で棗こ〔食偏に固〕飛燕を作り、柳の枝に串刺しにして門に刺し、これを「子推燕」と言った。十五歳になった少女たちは、多くこの日に笄を頭につけて成人式を行った。
寒食の第三日が清明節である。新仏の墓には、みなこの日に墓参りに行き、都の者は郊外に繰り出した。公室は半月前に宮人に車馬を御陵にさしむけられ、、皇室の近親も諸陵に分遣されて祭祀が行われた。従者はみな紫の衫(ひとえ)に白絹の三角子(ひざあて)、青の行纏(きゃはん)を付けるが、これはすべて官給品である。また寒食節の日になると皇室は奉先寺道者院に車馬を出され、宮人たちの墓参りも行われた。車はみな金色に装い紺色の幔幕を張り、錦の額と珠簾をつけ、二組の綉扇(しゅうせん)と、薄絹の提灯を持ったものが前導した。
士庶(ひとびと)は郊外に向かう都の各門にぎっしりひしめき合い、紙馬〔しま、祭祀に用いる紙に描かれた神像で、祭が終わると焼く〕を売る店は、通りに紙馬を楼閣のように積み上げていた。郊外は何処も市のような賑わいで、それぞれ花木の下、あるいは庭園の中、皿・杯を並べ、互いに酒を酌み交わし、都の歌童や舞子たちも庭園・四阿(あずまや)に満ちて歌い躍り、日が暮れてやっと帰るのであった。めいめい団子・炊餅(むしもち)・黄胖〔にんぎょう、黄土をこねて作った泥人形〕・掉刀(なぎなた)、花や果物と、山亭(あずまや)での遊び道具、アヒルの卵と鶏の雛を携えてゆく。これを「門外土儀」という。轎子(こし)には楊柳やさまざまな花を屋根いっぱい飾り付け四方に垂らして日をさえぎった。これより三日間はみな都を出て墓参りをしたが、やはり〔冬至から〕百五日が一番さかんだった。
この節句のあいだ、城内の市では稠餳(みずあめ)・麦餻(むぎがし)・乳酪・乳餅(こうじどうふ)のたぐいを売った。
ゆったりと都の門をくぐれば、斜陽は御柳にさし、酔うて帰るわが庭には、明月が梨の花に光を投げるのだった。
なおこの日、禁衛兵の諸部隊が、隊列を整え馬に乗って軍楽を奏しながら都の四方に出た。これを「摔脚(しゅつきゃく)」という。その旗指物は美々しく、軍容は勇壮、人馬ともえりすぐりの精鋭で、また格別なみものの一つになっていた。 松村茂夫 訳 中国古典文学大系より
中国の国宝「清明上河図」、来年東京に 初の国外展示 ―― 中国・北宋時代(960~1127年)の絵巻で、神品とたたえられる「清明上河図(せいめいじょうかず)」(張択端・画)が、日中国交正常化40周年の記念行事として東京国立博物館で来年開催される特別展「北京故宮博物院200選」(朝日新聞社など主催)に出品されることが決まった。北京の故宮博物院から東京国立博物館に12日、中国の国家文物局が出品を許可したと連絡が入った。中国から国外に出品されるのは初めて。
郊外の川べりの風景や、荷を満載した船、街道、大小の店、行き交う馬やかごなどが、墨と淡彩で描かれる。登場人物は約800人。中国の風俗画の最高峰と言われ、国家一級文物(国宝)にも指定されている。 (asahi.com 2011年12月12日21時18分)
北宋は、汴梁〔べんりょう、河南省開封〕を帝都として、汴京または東京(とうけい)と呼び、洛陽を西京(せいけい)と呼んだ。その東京がもっとも繁栄した北宋第八代徽宗(きそう)皇帝の崇寧~宣和年間(1102~1125年)頃の姿を南宋の初期の紹興十七(1147)年に、孟元老なる人物が追懐して書いた『東京夢華録』には「清明節」について、次のように書いている。
清明節。都では普通冬至から百五日目を「大寒食」とした。
寒食の前日は「炊熟(すいじゅく)」と呼ばれる。粉で棗こ〔食偏に固〕飛燕を作り、柳の枝に串刺しにして門に刺し、これを「子推燕」と言った。十五歳になった少女たちは、多くこの日に笄を頭につけて成人式を行った。
士庶(ひとびと)は郊外に向かう都の各門にぎっしりひしめき合い、紙馬〔しま、祭祀に用いる紙に描かれた神像で、祭が終わると焼く〕を売る店は、通りに紙馬を楼閣のように積み上げていた。郊外は何処も市のような賑わいで、それぞれ花木の下、あるいは庭園の中、皿・杯を並べ、互いに酒を酌み交わし、都の歌童や舞子たちも庭園・四阿(あずまや)に満ちて歌い躍り、日が暮れてやっと帰るのであった。めいめい団子・炊餅(むしもち)・黄胖〔にんぎょう、黄土をこねて作った泥人形〕・掉刀(なぎなた)、花や果物と、山亭(あずまや)での遊び道具、アヒルの卵と鶏の雛を携えてゆく。これを「門外土儀」という。轎子(こし)には楊柳やさまざまな花を屋根いっぱい飾り付け四方に垂らして日をさえぎった。これより三日間はみな都を出て墓参りをしたが、やはり〔冬至から〕百五日が一番さかんだった。
この節句のあいだ、城内の市では稠餳(みずあめ)・麦餻(むぎがし)・乳酪・乳餅(こうじどうふ)のたぐいを売った。
ゆったりと都の門をくぐれば、斜陽は御柳にさし、酔うて帰るわが庭には、明月が梨の花に光を投げるのだった。
なおこの日、禁衛兵の諸部隊が、隊列を整え馬に乗って軍楽を奏しながら都の四方に出た。これを「摔脚(しゅつきゃく)」という。その旗指物は美々しく、軍容は勇壮、人馬ともえりすぐりの精鋭で、また格別なみものの一つになっていた。 松村茂夫 訳 中国古典文学大系より
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