瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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邶風(はいふう) 柏舟(はくしゅう)篇

 

汎彼柏舟、 汎たる彼の柏舟(はくしゅう)、

亦汎其流。 亦汎として其れ流る。

耿耿不寐、 耿耿(こうこう)として寐ず、

如有隱憂。 隱(いた)み憂うること有るが如し。

微我無酒、 我れ酒無きに微(あら)ず、

以敖以遊。 以て敖(あそ)び以て遊ばん。

 

我心匪鑒、 我が心鑒(かがみ)に匪ず、

不可以茹。 以て茹(はか)る可からず。

亦有兄弟、 亦兄弟有れども、

不可以據。 以て據(よ)る可からず。

薄言往愬、 薄(いささ)か言(ここ)に往いて愬(つ)ぐれば、

逢彼之怒。 彼の怒りに逢う。

 

我心匪石、 我が心石に匪ず、

不可轉也。 轉ばす可からず。

我心匪席、 我が心席(むしろ)に匪ず、

不可卷也。 卷く可からず。

威儀棣棣、 威儀棣棣(ていてい)として、

不可選也。 選ぶ可からず。

 

憂心悄悄、 憂うる心悄悄たり、

慍于群小。 羣小に慍(いか)らる。

覯閔既多、 閔(うれ)えを覯ることに多し、

受侮不少。 侮りを受くること少なからず。

靜言思之、 靜かに言に之を思いて、

寤辟有摽。 寤(さ)めて辟(むねう)つこと摽(ひょう)たる有り。

 

日居月諸、 日月、     ※ 居・諸は、語の辭

胡迭而微。 胡(なん)ぞ迭(たが)いにして微(か)く。

心之憂矣、 心の憂えあり、

如匪澣衣。 澣(あら)わざる衣の如し。

靜言思之、 靜かに言に之を思う、

不能奮飛。 奮飛すること能わず。

 

訳 流れに浮かぶ柏(ひ)の舟は/寄る辺も無く漂うている/
    深い憂いが胸に満ち/
うとうとと夜もねむられぬ/
    心の憂いを忘れて遊ぶ/酒も無いではないけれど

 

  鏡でもない私の心に/人の思いは計られぬ/
    よし兄弟があればとて/
何の頼りになるものか/
    かりに往って訴えても/却って怒られるばかりなのだ

 

  石ではない私の心を/転がし移すことはできぬ/
    席(むしろ)でもない私の心を/
巻いて収めることはできぬ/
    畏れることのない態度で/自分を屈(ま)げることはできぬのだ

 

  心の憂いははてもない/つまらぬものに憎まれて/
    辛い思いも重なれば/侮
られたのも幾度か/
  さめて静かに思うとき/胸を辟(な)で摽(う)つばかりなのだ

 

  ああ 日よ月よ/なぜ互いに欠けるのか/
  このこころの憂しさは/
汚れた衣(きもの)を着ているようだ/
  静かに思い悩みつつ/飛び立ちかねる鳥ならぬ身は

 

※ 毛序では、衛の頃公〔けいこう、BC?~855年〕は、衛の第8代君主)の時、仁者は不遇で小人が君の側にあて、この詩はその不遇な仁人の詩であるといいます。『列女伝』(三家詩説)では女性の作で、衛の寡夫人の詩であるとし、朱子(11301200年)は夫に愛されぬ夫人の嘆きとして解釈しています。こうして作者を男性と見るか、女性と見るかの2説があるわけでして、それに従っても諸家の説も分かれるわけですが、「威儀棣棣(ていてい)」といい、「羣小に慍(いか)らる」といっているところから、やはり然る士人の作であるか、婦人だとしても然るべき身の上の人でしょう。ともあれ、心ある者が、小人に苦しめられ、訴える所のない深い悲しみを歌っているのですが、その憂いの何故かは、知るべくもありません。

周頌 昊天有成命(こうてんゆうせいめい)篇

昊天有成命、  昊天(こうてん)成れる命(めい)有り、

二后受之。   二(ふたり)の后之を受けり。   ※二后とは文王・武王なり

成王不敢康、  成王敢えて康(やす)んぜず、

夙夜基命宥密。 夙夜命を基(う)けしこと宥(ひろ)く密なり。

於緝熙、    於(ああ)緝(つ)ぎ熙(あき)らかにして、

單厥心。    厥の心を單(つ)くせり。

肆其靖之。   肆(ゆえ)に其れ之を靖(やす)んぜり。

 

 訳 昊天(こうてん)定まれる命あって

   文王・武王これを受けたり

   成王しばしも康(やす)んぜず

   夙(つと)に夜(よわ)にその命に基いて深く密(きび)しく

   ああ、光りあまねく

   その心を厚うして

   ここにその命を安んじたまえり

※ 原文の「成命」とは、始祖后稷(こうしょく)からもはや定まった天命があったということでしょう。

※ 成王: 箋には、「王の功を成す」と解し、朱子は「成王すなわち武王の子誦を指す」としています。

 詩経の記載予定を変更して、今朝の朝日新聞の「科学欄」から転写する。

 

右利き・左利きの謎 生物の進化・生存競争にも影響 ―― 圧倒的に多数の人が右利きだけれど、左利きの人もいる。なぜなのかは、実はあまり分かっていない。人間だけではない。右利きと左利きの謎はいろんな生物でみられる。研究者は、生態学や進化学、分子生物学など様々な角度から、このナゾを解こうとしている。/富山大の水生動物室には、シクリッド科の熱帯魚約80匹が小分けされた水槽で泳いでいる。竹内勇一助教(神経行動学)が水槽の一つに1匹の金魚を入れると、金魚の後ろから何度も襲撃し、鱗(うろこ)を食べ始めた。/よく見ると、この魚が襲うのは金魚の左側面ばかりだ。「このシクリッドは左利きです」と竹内さんは説明する。/アフリカ中部タンガニーカ湖に生息するシクリッドには、別の魚の鱗を食べる種類がいる。竹内さんを指導した堀道雄・京都大名誉教授は1993年、この湖の鱗を食べる全ての魚には右利き、左利きがあり、うち1種類は、右利きの個体が多い時期と、左利きが多い時期を繰り返していることを米科学誌に発表した。/鱗を食べるシクリッドは左右のあごの形が違い、片方側に開きやすい構造をしていて、遺伝もする。右利きが多いと、餌となる魚は右後ろを警戒するようになる。すると、左利きのシクリッドがたくさん餌を捕れて栄養状態が良くなり、多くの子孫を残せる。その結果、左利きが増えるというわけだ。/竹内さんはこの魚を輸入し、捕食行動を詳しく調べた。利きと違う側からの襲撃では失敗が増えることや、利き側から襲う体勢をとりやすい側によく体が曲がることを突き止めた。/どんなしくみでこの利きがコントロールされているのか。竹内さんは脳の神経細胞「マウスナー細胞」に注目し、神経レベルでの反応を調べている。「僕らが持っている左右の利きを考えるとき、神経が制御するという面からのヒントがこの魚から出てくるはず」

 

■右利きヘビ仮説を証明: 右と左の不思議な関係はヘビとカタツムリの間にもある。カタツムリの殻の巻き方は種によって右か左かが決まっている。実際には圧倒的に右巻きが多いので、カタツムリを餌とするヘビは右巻きが食べやすいように適応して「右利き」になる――。そんな仮説に10年間取り組んできたのが京都大白眉(はくび)センターの細将貴特定助教(進化生物学)だ。/細さんは、日本では石垣島と西表島にしか生息せず、カタツムリを主食としているイワサキセダカヘビに着目。標本を丹念に調べると、右の歯が左より数が多かった。米国の博物館から同じ科に属するヘビの骨格標本を取り寄せて調べても、やはり右の歯が多かった。/右巻きのカタツムリを食べるとき、ヘビは左右のあごを別々に動かし、殻の奥に逃げ込んだカタツムリを引きずり出す。右巻きなら、ぎっしり並んだ右の歯でしっかり食いしばり、左の歯を奥に差し込んで引きずり出す。その際、ヘビは顔の右側を必ず上にしてかみつく。/この「右利き」ヘビがいる地域では、左巻きの種が属するカタツムリのタイプが多い傾向にあった。ヘビの捕食から逃れやすかったために、右巻きから左巻きへと進化してきたと説明できる。細さんはこうして「右利きのヘビ仮説」を証明した。「ヘビとカタツムリにはすばらしい進化のストーリーがあった」と話す。

■養殖カレイ、目が両側に: では、生物の体の中では何が右と左を決めているのだろうか。左ヒラメに右カレイ。食卓の常識は、養殖してみると思わぬ結果を生む。高級魚「ホシガレイ」は天然には身の右側面に二つの目があるが、養殖すると3~4割ほどが左側面に二つの目があったり、両側面にそれぞれ目があったりする。/東北大の鈴木徹教授(魚類発生学)はヒラメとカレイの左右の謎に取り組んできた。ヒラメやカレイは稚魚のころは左右両側に目があるが、成長するにつれて、目が片方の側に移動していく。/鈴木さんは、内臓の位置を決めるのに関係する「ノダル経路」と呼ばれる複数の遺伝子の相互作用に注目。人工的に育てると、成長とともにノダル経路が働かなくなるホシガレイがいた。/人工的に飼育するとホルモンバランスが崩れ、ノダル経路の働きが阻害されるとみて、養殖で正常なホシガレイになるように実験を重ねている。/人間は約9割が右利きだ。その理由は分かっていないが、ノダル経路が効いている可能性を示唆する論文が今年9月、米科学誌プロスジェネティクスに掲載された。鈴木さんは「人間の脳にもノダル経路がある可能性は十分ある。実際には機能していると考えれば、うまく説明できるかもしれない」と話す。 〔朝日新聞DIGITAL 201310280500分〕

 昨日の孔子閒居の続きです。

 

子夏曰:「五至既得而聞之矣、敢問何謂三無?」孔子曰:「無聲之樂、無體之禮、無服之喪、此之謂三無。--『夙夜其命宥密』、無聲之樂也。『威儀逮逮、不可選也』、無體之禮也。『凡民有喪、匍匐救之』、無服之喪也。」

子夏曰:「三王之德、參於天地、敢問:何如斯可謂參於天地矣?」孔子曰:「奉三無私以勞天下。」

 子夏曰:「敢問何謂三無私?」孔子曰:「天無私覆、地無私載、日月無私照。奉斯三者以勞天下、此之謂三無私。」

 

 そこで、子夏がまた問うた。

「五至ということはこれで知ることができました。ではお尋ねいたしますが、三無とはなんでございましょう」

「声のない楽(がく)、体の無い礼、服のない喪、これを三無という。――詩に、夙夜(しゅく)、命(めい)を其(はじ)めて宥密(ゆうみつ)、とあるのは無声の樂である。威儀逮逮(ていてい)選ぶべからず、とあるのは無体の礼である。凡そ民の喪あるは、匍匐(ほふく)これを救う、とあるのは無服の喪である」

 子夏が問うた。

「三王の徳は、それによって天地の(生成の)事業に参与できるほどであった、と伝えられます。――お尋ねしたいのですが、どのような徳を備えたら天地に参与できるのでしょう」

 孔子は答えた。

「三つの無私の姿を仰いで、みずから天下万民のために苦労することができれば、その王者は天地に参与する者だ」

子夏が尋ねた。「三つの無私とは、何のことでしょう」

 孔子が答えた。

「天には私覆(しふく)が無く、地には私戴が無く、月日には私照がない。この三つの私(わたくし)の無い姿を仰ぎ、〔これを模範として〕天下万民のために苦労するのである」

 

※善政の要件として三無の実行と言う事があり、これは詩経に基いています。

 夙夜、命を其めて宥密す: 周頌 昊天有成命篇

 威儀逮逮、選ぶべからず: 邶風 柏舟篇

 凡そ民の喪あるは、匍匐してこれを救う: 邶風 谷風編 にあります。
  これらについては明日から取り上げようと思っています。

※三王:ここでは三代の王、夏禹、殷湯、周文の三王のことで、周の文王には武王も含まれています。――聖人は天地の化育(万物生成)の事業に参与し、人間でありながら神に等しい能力を有するものという思想が、戦国時代の儒家の間に形成されていたといわれています。

※三つの無私: 天は何のえり好みもせず万物を覆い、地は全てを載せ、日月はえこひいきなく照りわたる、これが三つの無私だというのです。

礼記〔小戴礼〕の孔子閒居〔孔子と子夏との問答。君主の徳について論じたもの〕第二十九に次の記述があります。

孔子閒居、子夏侍。子夏曰:「敢問《詩》云:『凱()弟君子、民之父母』、何如斯可謂民之父母矣?」孔子曰:「夫民之父母乎、必達於禮樂之原、以致五至、而行三無、以橫於天下。四方有敗、必先知之。此之謂民之父母矣。」

 子夏曰:「民之父母、既得而聞之矣;敢問何謂『五至』?」孔子曰:「志之所至、詩亦至焉。詩之所至、禮亦至焉。禮之所至、樂亦至焉。樂之所至、哀亦至焉。哀樂相生。是故、正明目而視之、不可得而見也;傾耳而聽之、不可得而聞也;志氣塞乎天地、此之謂五至。」

 孔子が家でゆっくり休んでいると、側に子夏が控えておって、問うた。

「お尋ねしたいのですが、――詩に『凱弟(がいてい)の君子は、民の父母なり〔かの心楽しく人に逆ら輪ざる君は、また良き民の父母、君主なり〕』とございますが、どのような徳を備えましたら民の父母といえましょう?

 すると、孔子は答えた。

「ああ、民の父母ということか。――必ず礼楽の根本を心得、それに基いて五至三無(ごしさんむ)を実行し、その効を広く天下に及ぼし、もしその治める世の片隅にでも手落ちがあれば、すぐ君主にわかる、というよであれば、こうした君主を民の父母と言うのである」

 そこで子夏が、

「民の父母ということは、これで知る事ができました。ではお尋ねいたしますが、五至とは何でございますか?」

 孔子が答えた。

〔わが志の至る所に詩も至り、礼も楽も、そして悲哀の情も至る、というのが五至である。

 

()弟君子、民之父母

 詩経 大雅 生民之什 泂酌篇

 泂酌彼行潦、 行潦(にわたずみ)(とお)く酌()
 挹彼注茲、
 
 抱()みとりてここに注がば
 可以餴饎。
  またもちて飯
(いい)を蒸してむ
 
豈弟君子、  安らけきわが大君は
 民之父母。
  民びとの父母

 

 泂酌彼行潦、 行潦泂く酌み
 挹彼注茲、
  抱みとりてここに注がば
 
可以濯罍。  またもちて罍(もたい) (あら)わむ
 
豈弟君子、  安らけきわが大君は
 民之攸歸。
  民びとの帰するところ

  洞酌彼行潦、 行潦泂く酌み
 挹彼注茲、
  抱みとりてここに注がば
 
可以濯漑  またもちて樽(たる)を濯わむ
 
豈弟君子、  安らけきわが大君は
 民之攸
  民びとの息(いこ)うところ

 

※ 詩や礼楽にはそれぞれ教育上の目標があり、例えば詩は温柔敦厚の心を養い、礼は恭倹荘敬の態度を養うのですが、ここに至るというのはそうした目標を指しています。すなわち、わが志の至る所、わたしはこうしよう、これを成し遂げようと狙うことが、自然と詩や礼楽の教育の狙う所と一致し、かつ礼楽の教育中には悲哀の情操の指導も含まれているのですが、わたしの政治の文教政策中でも、人間のそうした情操の処理や指導が重視されているというのです。そこでこの、わが志の至る所、詩の至る所、礼、楽、哀の至る所を合わせて「五至」といったのであります。

凡棄妻。須有七出之状。一無子。二泆〔淫〕。三不事舅姑。四口舌。五盗竊。六妬忌。七悪疾。皆夫手書棄之。与尊属近親同署。若不解書。畫指為記。妻雖有棄状。有三不去。一経持舅姑之喪。二娶時賎後貴。三有所受無所帰。即犯義絶。泆〔淫〕。悪疾。不拘此令。  養老律令より

 

《意訳》妻を棄てるには、以下の7つの理由(「七出の状」)に該当する必要がある。

1. 子(男子)がない。

2. 泆〔淫〕〔いんしつ/いんしち〕(=淫乱)。

3. 舅姑(ここでは夫の父母)に仕えない。

4. 口舌(推問を被ったり罪に至る類の悪言)。

5. 盗竊〔とうせつ/とうせち〕(=窃盗)。

6. 妬忌〔とき〕(=嫉妬やいじめ)。

7. 悪疾(=ハンセン病)。

皆、夫が(棄妻文書を)手書して棄てること。尊属・近親が同じく連署すること。もし文字を解さない場合は、畫指〔かくし〕(=画指=自署の代用に人差し指の長さ・関節の位置を点で写し記す方法)によって証拠の印とすること。

妻を棄てる状況にあるといえども、棄てることのできない3つの理由(「三不去」)がある。

1. 妻が舅姑(ここでは夫の父母)の喪をつとめ終えた場合。

2. 結婚したときには賤しかったけれども、後に貴い身分となった場合。

3. 帰す実家がない場合。

しかしながら、義絶、淫乱を犯したり、悪疾である場合は、この令の三不去を適用しない。

 ※ 離婚の際には三行半とも称される離別状が書かれた。

今朝のウェブニュースより

海峡道路構想、復活の動き 「無駄」批判、08年に凍結 ―― 「無駄な公共事業」と批判を浴び事実上凍結されていた、全国6海峡をトンネルや橋で結ぶ構想「海峡横断プロジェクト」の復活をめざす動きが始まった。うち一つの「関門海峡道路」(北九州市―山口県下関市)では、福岡県が事業化に向けた調査を6年ぶりに再開する方針を固めたことが21日、関係者への取材でわかった。目的には「防災」などを掲げるが、識者からは必要性を疑問視する声もある。

 「夢みたいな計画」期待再燃:プロジェクトは1987年、第4次全国総合開発計画で原案が示され、国などが調査を進めてきた。しかし2008年、国会で批判されたことを受け、冬柴鉄三国土交通相(当時)が「個別プロジェクトに関する調査は今後行わない」と表明。国や関係自治体の多くが調査を打ち切った。その後、「コンクリートから人へ」を掲げる民主党政権下で、事実上の凍結状態が続いていた。/関門海峡道路は、関門トンネル、関門橋(いずれも北九州市門司区―下関市)に続く第3のルートとして北九州市小倉北区と下関市を結ぶ構想。橋かトンネルかなどは未定だが、総工費は400億~2千億円に上るとの見方もある。/この道路について、福岡県は、大規模災害時に現行の2ルートの代替機能を確保するなどとして、国に調査再開を求める方針を21日までに確認。今年度、道路が整備された場合の経済面や防災面の効果について、約100万円をかけて調べることを決めた。/山口県も今年度、この調査のため5年ぶりに予算を復活し、約200万円を計上。11月貮も調査をする業者が決まる予定だ。7月には安倍晋三首相の地元・下関市で、建設促進協議会が7年ぶりに開かれ、麻生太郎副総理の実弟の麻生泰(ゆたか)・麻生グループ代表が新会長に選出された。

 別ルートでは、和歌山、兵庫、大阪、奈良、徳島、愛媛、大分など10府県知事が今年9月下旬、「紀淡海峡道路」(和歌山市―兵庫県洲本市)や四国新幹線の実現を目指す協議会を設立。和歌山県の仁坂吉伸知事は9月の県議会の答弁で「政権交代し、国土強靱(きょうじん)化というチャンス。挑戦しよう」と述べた。

 「豊予海峡道路」(愛媛県・佐田岬半島―大分県・佐賀関半島)では、九州と四国選出の自民党国会議員が11月貮も計画を進めるための議員連盟を立ち上げる。衛藤征士郎・衆院議員(大分2区)は「防災・減災のため、なんとしても進めたい」と話す。

 「紀淡」「豊予」両ルートでは、地元自治体も建設促進団体への予算の支出を続けている。また、「島原天草長島連絡道路」(長崎県―熊本県―鹿児島県)では、3県が年間計900万円を出して調査を続けているほか、建設促進協議会を運営している。

 

  〈元経済産業省官僚の古賀茂明さんの話〉 人口が減っていく時代に、膨大な建設費用と維持費を後世に課すことになる大型公共事業を進める姿勢はおかしい。今やるべきことは、将来の負担を減らすため、必要な資産を見極め、必要性が低く維持費のかかる資産を減らしていくこと。右肩上がりだった時代に作られた構想を今進めるのは、時代の要請に逆行している。いったんできた国の事業は凍結されても、その時々のはやり言葉を添えられてよみがえる。そのことに国民は気づくべきだ。

 〈法政大法学部の五十嵐敬喜教授(公共事業論)の話〉 「防災」という名目ならば、道路でも何でも事業着手が許されるというのが、今の世の中の雰囲気だ。採算性や、事業費を負担する国、自治体の財政は大丈夫なのかという観点が、なおざりになっている。今後、事業の評価や情報公開、住民参加が担保されるよう、国会や地方議会がチェック機能を果たしていく必要がある。 〔朝日新聞デジタル201310220415分〕

 古代中国の少年少女教育は少年少女に対しての集中的な識字教育に始まり、倫理道徳、三綱五常、典章礼節、勤勉勤労、質素倹約知足(質素倹約して足を知る)を中心とした封建思想教育を施すと同時に詩文や一般知識などをも包括した一連の初等教育であったのですが、それは封建社会の安定的な統治を目的とする政治的な色彩の極めて強いものでした。階級に対する意識は極めて強烈で、過度な忠孝や男尊女卑を生み、更には厳格な長幼之序や門閥による貴賤の違いや区別を厳しく強いられることになりました。

 

 女温柔典雅、四徳三従、孝順父母、惟令是行  閨訓千字文より

 女子は温和で柔順、その立ち居振る舞いは端正優雅でなければならない。女子は四徳三従を心に銘記して常に遵守しなければならない。女子は父母に考を尽くし、その命には唯々諾々として従わなければならない。

 

※四徳:女子は婦徳(節義を守り品徳を保つこと)、婦言(言葉遣いに気を配り、言い訳や悪口を言わない)、婦容(身を清潔にして常に容姿や挙止を端正に保つこと)、婦功(裁縫、料理、接客などの家事を司り、音楽、礼儀などの女性の美徳にも精通すること)の四つの徳を指す。

※三従:嫁ぐ前には父兄に従い、嫁いでは夫に従い、夫が死して後は子に従うこと。〔出典は礼記(らいき)郊特牲(こうとくせい)第一一〕

 

【婦人三従の道】

婦人には、三従の道あり。凡そ婦人は、柔和にして、人に従ふを道とす。わが心にまかせて行ふべからず。

父の家にありては父に従ひ、夫の家にゆきては夫に従ひ、夫死しては子に従ふを三従といふ。身を終はるまで、わがままに事を行ふべからず。必ず人に従ひてなすべし。

【婦人七去の法】

婦人に七去とて、悪しき事七あり。女子に教え聞かすべし。一には父母に従はざるは去る。二に子なければ去る。三に淫なれば去る。四に妬めば去る。五に悪しき病あれば去る。六に多言なればさる。七に盗みすればさる。此の七の内、子なきは生まれ付きなり。悪しき病はやまひなり。此の二は天命にて、力に及ばざる事なれば、婦のとがにあらず。  〔いずれも、貝原益軒の『和俗童子訓』巻5【女子を教ゆる法】より〕

 

※『和俗童子訓』は、寺子屋の教科書として重用されましたが、特に巻5【女子を教ゆる法】は、後に編集され、「女大学」として、戦前まで女子教育の規範とされました。 

 

マヌの法典第5章の婦人の義務のところには「幼いときは父の、若いときは夫の、夫が死んだときは息子の支配下に入るべし。女は独立を享受してはならない。」(妻の貞節・5148))とある。

 

※マヌの法典は紀元前2世紀から紀元後2世紀にかけて成立したと考えられている法典(ダルマ・シャーストラ)。世界の創造主ブラフマーの息子にして世界の父、人類の始祖たるマヌが述べたものとされている。バラモンの特権的身分を強調しており、バラモン中心の四種姓(カースト制度)の維持に貢献したとされます。

 

 孔子は春秋時代の周末に孔丘(孔子、紀元前551年~紀元前479年)は魯国に生まれたとあるから、間違いなくマヌの法典の方が早いようです。とすれば正確にはマヌの法典が古代中国にとりこまれ風習となり儒教に取り入れられたのかもしれません。

 昨日は、T:家の法要で、雨の中を家内と連れ立って大井町の光福寺まで出かけました。家内の叔母の納骨と、その連れ合いの17回忌の法要であった。叔母上は献体していた遺体が大学から戻ってきたというので、納骨がおくれてしまったということでした。大井山光福寺は由緒ある寺で、江戸名所図会にも載せられているさいいます。

 

浄土真宗 系単立の光福寺は、大井山と号し、延暦 元年(78211月、顕教房栄順律師が天台宗 神宮寺として開創したと伝えられています。1200年以降に関東六老僧の一人了海上人が父の俗名光福の名をとり、浄土真宗光福寺として再興し、現在に至っているとのことです。

 挿絵(江戸名所図会 )には寺の全景のほかに「大井」という井戸が描かれています。これは本堂裏の墓域のなかに「大井」と刻銘された横穴式の井戸があり、かたわらの石碑には「開基了海上人産湯井(かいきりょうかいしょうにんうぶゆのい)」と書かれています。昔、この寺に身を寄せていた了海上人の父が子授けを祈願したところ男の子を授かりました。そのとき寺の境内から忽然と泉が湧き出したので、この水で産湯をつかわせたと伝えています。

 また、光福寺の境内は大井の台地を背にして位置し、本堂の前に実に堂々とした銀杏の巨木が立っています。その太さは品川区内最大なのですが、高さも都内の立木としては最大級の40mもあり(むろん銀杏の中ではずば抜けた高さでしょう)江戸時代には海を行き来する船の目印にもなっていたそうです。樹齢は約800年と推定されていますが樹勢は旺盛で、多数の乳根を垂らした樹観から麻布善福寺の銀杏の兄弟木ともいわれています。

孔子(こうし)曰(いわ)く、君子(くんし)に三畏(さんい)あり。天命(てんめい)を畏(おそ)れ、大人(たいじん)を畏(おそ)れ、聖人(せいじん)の言(げん)を畏(おそ)る。小人(しょうじん)は天命(てんめい)を知(し)らずして畏(おそ)れざるなり。大人(たいじん)に狎(な)れ、聖人(せいじん)の言(げん)を侮(あなど)る。 論語 季子第三六 より

 

 孔先生のお言葉。「君子に畏敬することが三つある。天命を畏敬し、〔天命を受けて天下国家を治める〕大人(たいじん)を畏敬し、〔伝承された〕聖人のお言葉を畏敬する。〔これに反して〕小人は天命などには無頓着で平気であり、大人の権威を小馬鹿にし、聖人の言葉を侮るのである」

 

※天命とは

「論語」に天命として出てくるのは、「為政第二」の『子(し)曰(いわ)く、吾(われ)十有五(じゅうゆうご)にして学(がく)に志(こころざ)す。三十(さんじゅう)にして立(た)つ。四十(しじゅう)にして惑(まど)わず。五十(ごじゅう)にして天命(てんめい)を知(し)る。六十(ろくじゅう)にして耳(みみ)順(したが)う。七十(しちじゅう)にして心(こころ)の欲(ほっ)する所(ところ)に従(したが)いて、矩(のり)を踰(こ)えず。〔先師が言われた。「私は、十五の年に聖賢の学に志し、三十になって一つの信念を以って世に立った。しかし、世の中は意のままに動かず、迷いに迷ったが、四十になって物の道理が分かるにつれ迷わなくなった。五十になるに及び、自分が天の働きのよって生まれ、又何者にもかえられない尊い使命を授(さず)けられていることを悟った。六十になって、人の言葉や天の声が素直に聞けるようになった。そうして七十を過ぎる頃から自分の思いのままに行動しても、決して道理を踏み外すことがなくなった〕→「志学」「而立」「不惑」「知命」「耳順」「従心」」として知られています。』と、上の「季子第三六」の『三畏』の部分だけであります。

 また、孟子には天命について、万章上に、次のように述べています。

之を為すこと莫(な)くして為る者は、天なり。之を致すこと莫(な)くして至る者は、命なり。

 こうしようと思わないのに、そうなっていくのは、天の働きである。招き寄せようと思わないのに、やってくるのは、命の働きである。つまり、「天命」は、人知人為を超えた存在の作用であり、絶対的な存在とも言えるし、俗に運命と言う事もできるのです。
プロフィール
ハンドルネーム:
目高 拙痴无
年齢:
92
誕生日:
1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
 sechin@nethome.ne.jp です。


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