瘋癲爺 拙痴无の戯言・放言・歯軋り
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 『中庸』には、政〈まつりごと〉についての三つの行ない方が示されています。すなわち、安じて行い、利して行い〔栄名を欲しこれを得ようとして行なうこと〕、勉強して行なうことと述べています。

 

哀公問政。子曰:「文、武之政、布在方策、其人存、則其政舉;其人亡、則其政息。人道敏政、地道敏樹。夫政也者、蒲盧也。故為政在人、取人以身、修身以道、修道以仁。仁者人也、親親為大;義者宜也、尊賢為大。親親之殺、尊賢之等、禮所生也。在下位不獲乎上、民不可得而治矣!故君子不可以不修身;思修身、不可以不事親;思事親、不可以不知人;思知人、不可以不知天。天下之達道五、所以行之者三、曰:君臣也、父子也、夫婦也、昆弟也、朋友之交也、五者天下之達道也。知仁勇三者、天下之達德也、所以行之者一也。或生而知之、或學而知之、或困而知之、及其知之、一也;或安而行之、或利而行之、或勉強而行之、及其成功、一也。  中庸より

 

 哀公政を問う。子曰く、

文・武の政(まつりごと)、布いて方策に在り。其の人存するときは、則ち其の政舉(あ)ぐ。其の人亡するときは、則ち其の政息(や)む。

人道は政に敏し、地道は樹(う)うるに敏し。夫れ政は、蒲盧(ほろ)なり。

故に政をすること人に在り、人を取るには身を以てす。身を脩(おさ)むるには道を以てす。道を脩むるには仁を以てす。

仁は人なり。親を親しむを大いなりとす。義は宜なり。賢を尊ぶを大いなりとす。親を親しむの殺、賢を尊ぶの等は、禮の生(な)る所なり。

下位に在りて上に獲ざれば、民得て治む可からず。故に君子は以て身を脩めずんばある可からず。身を脩めんことを思わば、以て親に事えずんばある可からず。親に事らんことを思わば、以て人を知らずんばある可からず。人を知らんことを思わば、以て天を知らずんばある可からず。

天下の達道五つ。之を行う所以の者三つ。曰く、君臣なり、父子なり、夫婦なり、昆弟(こんてい)なり、朋友の交わりなり。五つの者は天下の達道なり。知・仁・勇の三つの者は、天下の達德なり。之を行う所以の者は一つなり。

或は生まれながらにして之を知り、或は學んで之を知り、或は困しんで之を知る。其の之を知るに及んでは一なり。或は安んじて之を行い、或は利して之を行い、或は勉強して之を行う。其の功を成すに及んでは一なり。

 

 〔魯の〕哀公が政道を問うたのに対して、孔子は答えた。〔その内容は次のようである。〕

 文王と武王のすぐれた政治の事は、はっきりと方策〔木の札や竹の札〕に書き残されているが、〔その立派な政策も〕今の世にすぐれた人物がいてそれを行なえば、政治の功はあがるが、それだけの人物がいなければ、政策も無駄である。〔だから、以下に述べることもそのつもりで聴いていただきたい。〕

 さて政治に当たる人が人間の本性を理解して事を行なえば、その功の速いことは、あたかも土地の性質を知って草木を植え育てれば、そのの大きいことと同様である。たとえば蒲(かば)や蘆(あし)などは湿地にあってこそ良く茂るわけだが、政治もその通りで、人民にできるだけ良い環境を与えるのが務めである。

 また政治を行うには良い人物を得て補佐にせねばならぬが、人を得るには君主自ら身を修めねばならず、身を治めるには道徳をわきまえねばならず、道徳をわきまえるにはまず仁と義を知らねばならない。

 仁は人〔じん、人道〕であり、親子兄弟の間の親和が最大の仁である。また義は宜〔ぎ、正当〕であり、賢人を見分けてこれを尊ぶことは、君主の最も努むべき義である。そして親族に親和するにしても相手によって差等を付けねばならず、賢人を尊ぶにしてもその程度を異にせねばならぬのであって、ここに礼が出てくるのである。

 さて〔ここに一人の賢者がいたとして、〕身分が低くて上長に認められなくては、人民を治める立場につくことはできない。だから君子は身を修め〔徳を高めて人びとに尊ばれる地位につか〕ねばならず、そのためには先ずよく父母に仕えねばならず、そのためには先ず人の性情を理解し、父母の心を知るようにせねばならず、人の性情を理解するためには、〔その根源たる〕天を知らねばならぬ。

 次に、この天下で何びとにも通ずる五つの道義があり、これを実行するには三つの能力が必要である。すなわち、君臣・父子・夫婦・兄弟・朋友五つの道義と、知・仁・勇の三つの能力である。―― しかも、この三つの能力により、この五つの道義を行なうにあたって、もう一つ大切な心がけがある。〔それは誠である。〕

 さて〔人びとが道徳をわきまえ、これを実行する能力には大小があって、〕ある人びとは生まれながらにして万事を知り、安やす実行することができ、またある人びとは学んで初めて知り、何らかの利益を目的として事を行なうであり、またある人びとは〔最初は学ぶという気持ちさえなく、〕実際生活の上で何か困惑することに出あってそこで初めて学問して道を知り、大いに勉強〔努力〕してこれを行なうのである。このように人々の間には差等はあるけれども、しかしいずれにしても、最後に正しい知識を得てこれを実践することのできる境地に達した時に、三者みな同一の人格となっているのである。

 

※この三つの分類は、原文では「知」と「行」に分けて、

  或生而知之、或學而知之、或困而知之、及其知之、一也;

或安而行之、或利而行之、或勉強而行之、及其成功、一也

と述べてあり、後世の人はこれを要約して、生知安行・学地利行・困知勉行と呼んだといいます。

 明日から、大相撲九州場所が始る。今朝の朝日新聞にちょっくらオモロイ記事があったので転写します。

 

巨漢の哀歌 体重271キロ、飛行機トイレNG 大相撲 ―― 「お相撲さんみたい」といえば、イメージは一つだ。体が大きい――といったら聞こえはいい。だが、現役時に体重190キロ近くあった元幕内大翔山の追手風(おいてかぜ)親方は、「俺たちから相撲を取ったら、ただのデブだもんね」と自嘲する。巨漢力士たちのエレジー(哀歌)を聞いて下さい。/力士の最重量は、北の湖部屋の三段目力士、大露羅(おおろら)。身長193センチで、体重はいま271キロ。昨年、故郷ロシアで弟の結婚式があり、久しぶりに飛行機に乗った。再来日直後、「僕、もう二度とイヤです」と涙目で語っていた。/大型力士が飛行機に乗る際の最大の難題は、手洗い。狭い飛行機のトイレに、どうやって入るのか。個室内で方向転換ができないので、後ろ向きで入る。そのまま便座に腰掛け、用を足したら、また、そのまま前進して脱出するのが力士流だ。/だが大露羅ほどの巨漢になると、入ることすらできない。そこで、トイレに行かないことにしている。前日から水分摂取を減らし、食事も控え、おなかを空にして飛行機に乗り、ひたすら耐える。/とはいえ、あの体だと椅子に座っているだけで苦行だ。巨体を収めるため、シートはエコノミークラス2席分が必要。1席分は正規料金だが、もう1席分は子供料金が請求される。リクライニングを倒すと座席の間のひじ掛けが腰を直撃するので、倒さないままの2席分に座り、着陸まで我慢する。「もういいんです。あの苦しみは、きっと誰も分かってくれないから」/逆に太れないお相撲さんもいる。現役力士だと腹筋が割れたチェコ出身の隆の山(94キロ)が典型だ。寂しげに「太ることは、もう諦めました」と嘆く。/元大関琴風の尾車親方は、同じ二所ノ関一門の元大関で、同じ1957年生まれの若嶋津(現松ケ根親方)の一言が忘れられないという。「松ケ根さんは引退時にね、『ああ、これでもう食べなくて済むんだ』って漏らしたんだよ」。現役時に「ワリバシ」とあだ名された松ケ根親方は、「食べても食べても太らず、食事が苦行でした」と語ったことがある。だが、こんな力士は珍しい。多くは体の大きさに悩み、苦労し続けている。

■引退しても「太った」:引退後も、体重が減らないお相撲さんも多い。/元大関魁皇の浅香山親方は、地元・九州場所のたびに、連夜の宴席回りで体が大きくなってしまう。「去年、宴会を終えて部屋に帰って座ろうとしたらさ、『バチーン』って音がしたのね。見たら、ベルトのバックルが飛んでいた。嫁に怒られるから、ナイショね」/今年から九州場所担当となり、9月から九州で切符を売り歩いている。必ずやせると決意して九州入りしたが、「太っちゃった。九州は、ダメだよ。地元でやせようとした俺がバカだった」。/車が好きで、毎日のようにハンドルを握って出かけるのだが、悩みがある。駐車場で、「俺の車の隣には、止めないで欲しいんだよなあ。車、出せなくなっちゃうからさあ」。スーパーなどの駐車場で、隣に止められてしまった車の持ち主を、ぽつんと待ち続ける浅香山親方を見かけたら、彼の車を数メートルだけ前に出してあげてください。/土俵上で激しくぶつかり合い、「ごっつあんです!」などと、豪快に見えるお相撲さんたち。でも、日常生活では、「あ、どうもすみません」と、その巨体を縮こまらせることも多いようだ。  〔朝日新聞デジタル 20131190500分〕

 

 歌手の島倉千代子さんが亡くなったらしい。今朝のウェブニュースより

 

島倉千代子さん死去、75歳=歌手、「人生いろいろ」 ―― 「東京だョおっ母さん」「人生いろいろ」など数多くのヒット曲で知られ、「お千代さん」の愛称で親しまれた歌手の島倉千代子(しまくら・ちよこ)山河8日午後0時30分、肝臓がんのため東京都目黒区の病院で死去した。75歳だった。

 葬儀は14日午後1時から同港区南青山23320の青山葬儀所で。葬儀委員長は原康晴・日本コロムビア社長。/東京都出身。1953年に日本音楽高等学校に入学。54年にコロムビア全国歌謡コンクールで優勝したことをきっかけに、日本コロムビアと専属契約を結び、55年に「この世の花」でデビューした。女性らしいたおやかさとパンチを併せ持った歌唱力が評判を呼んだ。/57年にリリースした「東京だョおっ母さん」は100万枚を超える大ヒットとなり、人気歌手の地位を不動のものに。同曲を基に映画もつくられ、自ら主演した。その後も「からたち日記」「愛のさざなみ」などのヒットを連発、NHK紅白歌合戦に30年連続、計35回出場するなど日本の演歌、歌謡界を代表する存在となった。49歳で発表した「人生いろいろ」は130万枚のセールスを記録、レコード大賞最優秀歌唱賞に輝いた。/歌手業の傍ら、テレビのバラエティー番組などにも登場、飾らない素顔で人気を博したほか、自身が座長を務める舞台公演やドラマ、映画で女優としても活躍。乳がんの克服など私生活でも話題を提供した。/99年に紫綬褒章を受章。今年3月には所属レコード会社のコンサートにも出演していた。 (時事ドットコム 2013110821:16

 親に対する子の三つの務めを三行(さんこう)というのだそうです。論語の為政篇に次のように記されています。

 

孟(もう)懿子(いし)、孝(こう)を問(と)う。子(し)曰(いわ)く、違(たが)うこと無(な)かれ、と。樊遅(はんち)御(ぎょ)たり。子(し)之(これ)に告(つ)げて曰(いわ)く、孟孫(もうそん)、孝(こう)を我(われ)に問(と)う。我(われ)対(こた)えて曰(いわ)く、違(たが)うこと無(な)かれ、と。樊遲(はんち)曰く、何(なん)の謂(いい)ぞや、と。子(し)曰(いわ)く、生(い)きては之(これ)に事(つか)うるに礼(れい)を以(もっ)てし、死(し)しては之(これ)を葬(ほう)むるに礼(れい)を以(もっ)てし、之(これ)を祭(まつ)るに礼(れい)を以(もっ)てす。

 

 孟懿子どのが孝をおたずねになった。 先生「間違いがないようにすることですな」

 〔他日、孔子が外出して〕樊遅さんが馭者(ぎょしゃ)をつとめた時、先生は彼に

「孟孫さんが私に孝をたずねたので、『間違いがないように』と答えておいたよ」

樊遅「どういう意味でございますか」

先生「〔父母の〕生前には礼に従って仕え、死んで葬る時には礼によって葬り、〔死後〕祭る時にも礼によって祭るのだ。〔これが孝行で、礼の掟を踏みたがえないようにと言ったつもりだ〕」

 

※ 孟懿子(もういし) 魯の臣。孟孫氏。名は何忌(かき)。孟懿子とも書く。仲孫何忌ともいう。孟釐子(もうりし)の子。~BC481年。BC518孟釐子は病にかかり、死に瀕して嗣子の孟懃子をいましめて「いま孔丘(孔子)は年は若いが、礼を好み、達人ではないかと思う。わしが死んだら、おまえは是非あの人に師事するように」と言った。そこで孟懃子は南宮敬叔(なんぐうけいしゅく、生没年不詳)とともに孔子について礼を学んだ。

※ 樊遅(はんち) 孔子の弟子樊須(はんしゅ)のこと。斉の人〔一説には魯の人〕で、孔子より若きこと36歳〔一説に46歳〕という。

 「三知」とは道を知るのに三つの段階があることを言います。生まれながらにして知る「生知」、学んでのち知る「学知」、苦しんでのち知る「困知」の三つです。

 

孔子曰。生而知之者上也。學而知之者次也。困而學之又其次也。困而不學。民斯爲下矣。   論語 季氏篇より

 

孔子(こうし)曰(いわ)く、生(う)まれながらにして之(これ)を知(し)る者(もの)は上(じょう)なり。学(まな)びて之(これ)を知(し)る者(もの)は次(つぎ)なり。困(くるし)みて之(これ)を学(まな)ぶは又(また)其(そ)の次(つぎ)なり。困(くるし)みて学(まな)ばざるは、民(たみ)にして斯(これ)を下(げ)と為(な)す。

 

 孔先生のお言葉。「生まれながらにして明らかな智恵を備えている人は上級である。学問によって智恵を得た者はその次の段階である。分からなくて困ってから学問するものは、更にその次の段階である。分からなくて困っても学問しない者は、庶民の価値しかなくて下級である。

 

 また、「三知」とは命〈運命〉・礼〈礼節〉・言〈ことばの得失〉の三つを知る事だとも言います。

 

孔子(こうし)曰(いわ)く、命(めい)を知(し)らざれば、以(もっ)て君子(くんし)と為(な)す無(な)きなり。礼(れい)を知(し)らざれば、以(もっ)て立(た)つ無(な)きなり。言(げん)を知(し)らざれば、以(もっ)て人(ひと)を知(し)る無(な)きなり。

 

 孔先生のお言葉。「(我々人間に対して)至上の命令があるという事をさとらぬものは、君子と称することはできない。礼を心得ぬものは、一人前の人間として世に立つことはできない。人の言葉の真意が理解できぬ者は、人を理解することはできない」

 

※ 天命(てんめい)とは、天から与えられた命令のことであります。天から人間に与えられた、一生をかけてやり遂げなければならない命令のこと。また、人がこの世に生を授けられる因となった、天からの命令のことであります。「天命」は大きく分けて2つの意味で用いられています。ひとつは《天から与えられた使命》という意味で、これは《天あるいは天帝の命令》ということであります。もうひとつは、人間の力では如何ともしがたい《運命》や《宿命》を意味し、天から与えられた宿命ないしは寿命を意味します。天命の原義は前者の《天の命令》の意味であったのですが、それが転じて《運命》の意味を持つようになったということです。

 孔子は、殷末の3人の忠臣、微子、箕子、比干のことを「三仁」と称えています。

 

 微子去之。箕子爲之奴。比干諫而死。孔子曰。殷有三仁焉。  論語 微子篇より

 

 微子(びし)は之(これ)を去(さ)り、箕子(きし)は之(これ)が奴(ど)と為(な)り、比干(ひかん)は諫(いさ)めて死(し)す。孔子(こうし)曰(いわ)く、殷(いん)に三仁(さんじん)有(あ)り。

 

 微の子爵は国を捨てて去り、箕の子爵は〔狂人の真似をして〕奴隷と成り、比干は〔紂王〕を諌めて惨殺された。

 孔子先生は仰った。「殷王朝に三人の仁者がいました」。

※ 微子は殷王朝最後の王であった紂の庶兄(あに)。箕子と比干とは紂の諸父(おじ)であったといわれています。

 今朝の朝日新聞DIGITA「東京版・川の手面」より

 

袋小路は「まちの個性」 東京・向島で夜の路地ツアー ―― 東京スカイツリーが開業し、多くの観光客でにぎわう墨田区。一方で下町ならではの景観を楽しむ「まち歩き」も人気だ。向島地区で初めて開かれた夜の路地観察ツアーに参加し、昭和の面影が色濃く残る町並みを歩いた。/1日午後8時。東武線曳舟(ひきふね)駅に近い喫茶店「東向島珈琲(コーヒー))20人ほどの参加者が集まった。/地域の活性化に取り汲むNPO法人(向島学会)などが主催するツアーのタイトルは「Dontsuki Night」。/ドンツキとは袋小路のことで、同区北部の向島には数多く残る。その夜の姿を見てみようというのが、ツアーの趣向だ。/「週末のプライベートな時間帯です。住民の迷惑にならないように」。注意事項が説明された後、路地へと繰り出した。/案内人を務めるのは、地元在住の環境デザイナー斎藤佳(けい)さんら。不便な袋小路を「まちの個性」として肯定的にとらえようと、2011年に仲間と「ドンツキ協会」を結成。その形状に応じて「丁字型」や「ツリー型」などと分類したり、ワークショップや観察ツアーを開いたりしてきた。/提灯(ちょうちん)をさげて歩く斎藤さんの後ろに一行が続く。銭湯帰りのお年寄りが声をかけてきた。「おや、今日はナイトツアーですか?」/複雑に入り組んだ細い路地の先々に、個性豊かな袋小路が現れた。行き止まりに見えて、実は抜け道があるものも。逆に、昔は通り抜けられた路地がふさがったケースもある。/ある袋小路には昭和初期に建てられた木造家屋がひっそりと残っていた。「びっくり。火事を起こさないよう、よほど気をつけて生活されてきたんですね」と向島学会副理事長の清水永子(ながこ)さん。/「個人的にこれが一番美しいと感じているドンツキです」。そう言って斎藤さんが指さした袋小路には、町工場の後ろにスカイツリーのイルミネーションが瞬いていた。/午後10時。2時間のツアーが終わった。「街灯に照らされた夜の路地がこんなに魅力的だったとは」と参加者の1人が話した。/近年、向島のような木造密集地域は防火や防災の観点からも否定的に取り上げられることが少なくない。/が、斎藤さんらはこう考えている。/まちを根本からひっくり返す工事に膨大な予算と時間をかけるよりも、「ドンツキ」とのより良い関係を模索しながら、まちづくりや防災意識につなげられないか、と。  (朝日新聞DIGITAL 東京川の手 20131150300)

 昨日は、K家の法要で、早稲田通りにある慈雲山竜興寺に出かけた。

 

 爺の兄弟は5人平成2年11月5日(明日はその月命日)に長兄A64歳で亡くなり、6年後の平成861日に三番目の兄Yが長兄Aと同じ64歳で逝った。そして、昨年平成241226日に姉Tが逝った。5人兄弟のうち残るのは、下関市に在住の次兄のSとこの爺の2人だけである。

 三番目の兄Yは、昭和12年小学校2年のとき、実父Mの弟K(爺から見れば叔父)のもとに養子に入った。兄弟の中でも三番目の兄Yとは年齢差も一番近く、同じ東京で40年余り付き合ったので、最も親しかったのだと思う。

 今回の法要は、その三番目の兄の嫁の連れ子M君の嫁Cさんが昨年肝臓がんのため亡くなりその一周忌の法要であった。MK家の後を継ぐということで、戸籍上は日高の籍には入れなかったが、実質的には結婚後に設けた爺の姪にあたるM子を含め、4人家族を営んできた。

 法要の席ではM君の嫁Cさんの86歳になる母というご婦人と隣り合わせになったが、この爺がM君とCさん仲人を務めたことを知り、読経中にも拘らず、この爺に話しかけてこられた。Cさんの父という方も出席されていたが、91歳にしていまも毎朝畑仕事に出かけられるという。今回もお2人して、娘さん(Cの妹ご)連れられて、長野県の松本から出席されたのだという。

 まあ、この三番目の兄については、叔父や叔母との間に入って、色々仲介役も努めたこともあり、その経緯は複雑で今は説明もできない。まあ、爺とてこの先そんなに長くはあるまい。こんなことはこの世の無常と考えて、残り少ない人生を満喫することにしよう。

 1027日のブログに続いて、「三無」の1つ「服のない喪」の基になった、詩経の『谷風』を取り上げます。

 詩経邶風(はいふう)にある「谷風(こくふう)」は、夫に棄てられた女の歌だといいます。詩序に、「谷風は夫婦の道を失ふを刺(そし)るなり。衛人其の上に化し、新昬(しんこん)に淫して、其の旧室を棄つ。夫婦離絶し、国俗傷敗す。」とあり、怒り、怨み、嫉みを訴えた民歌でしょう。

 三不去の1つである「前には貧賤にして後に富貴なるは去らず」に該当するにもかかわらず、夫は若い女の色に惑うて先婦を逐い出したと思われます。また、この詩は、ある詩人が棄婦の悲怨の心情を、棄婦に代わって叙べたものであるともいわれています。

 

 谷風

習習谷風、  習習たる谷風、

以陰以雨。  以て陰(くも)り以て雨ふる。

黽勉同心、  黽勉(びんべん)として心を同じくして、

不宜有怒。  怒ること有る宜からず。

采葑采菲、  葑(ほう)を采り菲を采るに、

無以下體。  下體を以てすること無かれ。

德音莫違、  德音違うこと莫くば、

及爾同死。  爾と死を同じくせん。

 

行道遲遲、  道を行くこと遲遲たり、

中心有違。  中心違(そむ)くこと有り。

不遠伊邇、  遠からずして伊(こ)れ邇し、

薄送我畿。  薄(しばら)く我を畿に送る。

誰謂荼苦、  誰か荼(にがな)を苦しと謂う、

其甘如薺。  其の甘きこと薺(なずな)の如し。
宴爾新昏、  爾の新昬〔昏〕を宴(たの)しみ、
如兄如弟。  兄の如く弟の如し。

 

涇以渭濁、  涇(けい)は渭を以て濁れるも、

湜湜其沚。  湜湜(しょくしょく)たる其の沚(なぎさ)

宴爾新昏、  爾の新昬〔昏〕を宴しみ、

不我屑以。  我を屑しとし以(とも)にせず。

毋逝我梁、  我が梁(やな)に逝くこと毋かれ、

毋發我笱。  我が笱(うえ)を發(ひら)くこと毋かれ。

我躬不  我が躬すら(い)れられず、

遑恤我後。  我が後を恤うるに遑(いとま)あらんや。

 

就其深矣、  其の深きに就いて、

方之舟之。  之に方(いかだ)し之に舟す。

就其淺矣、  其の淺きに就いて、

泳之游之。  之を泳(くぐ)り之を游(およ)ぐ。

何有何亡、  何か有り何か亡き、

黽勉求之。  黽勉として之を求む。

凡民有喪、  凡そ民喪有れば、

匍匐救之。  匍匐して之を救う。

 

不我能慉、  我を能く慉(やしな)<畜と同じ>わず、

反以我為讎。 反って我を以て讎とす。

既阻我德、  に我が德を阻(しりぞ)け、

賈用不售。  賈(あきもの)用って售(う)られざるがごとし。

昔育恐育鞫、 昔育(やしな)いするに育い鞠(きわ)まり、

及爾顛覆。  爾と顚覆せんことを恐る。

既生既育、  に生きに育えば、

比予于毒。  予を毒に比す。

 

我有旨蓄、  我に旨き蓄(たくわえ)有り、

亦以御冬。  亦以て冬を御(ふせ)がん。

宴爾新昬、  爾の新昬〔昏〕を宴(たの)しみ、

以我御窮。  我を以て窮まれるに御(あ)たらしむ。

有洸有潰、  洸たる有り潰(かい)たる有り、

既詒我肄。  に我が肄(い)を詒(のこ)す。

不念昔者、  昔、伊(こ)れ余が來り

伊余來  (いこ)いしことを念わざらん。

 

 訳 吹き止まぬ烈しい風/空は曇り雨も降る/
   心合わせて働いて/
今さら怒ることはない/
   蕪(かぶら)や大根とるのにも/根や茎だけではあるまいに/

優しい言葉を違わねば/貴方といっしょしぬまでも

※ 大根をとるのは根や茎ばかりでなく葉も捨てたものでは
    ない

 

   去られて行けばとぼとぼと/心惑うて行きかねる/
   遠く送ってくれずとも/
せめて門まで遅れかし/
   この苦しみに較べれば/苦い茶(にがな)も薺(なずな)の甘さ/

新妻ばかりを宴(たの)しんで/兄弟のような睦まじさ

 

   涇(けい)は渭(い)に合えば濁り川/
   それでも沚(なぎさ)は澄んでいる/新妻だけを宴んで/

   いまは私に眼もくれぬ/私の梁(やな)に近づくな/
   私の筍(かご)を発(あば)くなと/
跡を気づかうひまもない/
   今はわが身さえ閲(い)れられぬ

   ※ 当時の諺に「涇水は渭水に合流すれば、その濁りは目立
    つ」とある。

   ※ 私の梁……発(あは)くな: 詩中に時々見える文句で、
    自分のこれまで苦心して持ってきた家を、新しい女が入っ
    て来て、勝手にするのを嘆くことば。

 

   渉(わた)りに水が深ければ/筏を浮かべ舟に乗り/
   渉りに水の浅ければ、/
くぐり游(およ)ぐもなんのその/
   有るもの無いもの気をくばり/辛苦を厭わず求めきて/

ひとに不幸のあるときは/つい駆け出しても手伝った

※ ひとに不幸の……手伝った: 近所の不幸に駆け出して手
    伝うのも、夫の家を大事に思えばこそ

 

   今さら私をいとしまず/いっそ仇を見るように/
   心づくしを振り捨てて/
顧みもせぬ棚ざらし/
   苦しい中に二人して/ようよう育てて来たものが/

   どうやら伸びた今になり/邪魔な私はどくのよう

   うまい漬菜もたくわえて/冬の用意もしていたに/
   新妻ばかりを宴しんで/
私は苦労を見るばかり/
   怒ったりまた罵ったり/
こうまで私を苦しめる/

   あれほど私をいとしんだ/昔の事も忘れたか

 今朝のウェブニュースより

 

 山本太郎氏 園遊会で陛下に“直訴状”「禁じられていない」 ―― 天皇、皇后両陛下主催の秋の園遊会が31日、東京・元赤坂の赤坂御苑で開かれ、山本太郎参院議員が陛下に直接手紙を手渡す場面があった。皇室の政治利用ではないかと批判の声も出ているが、山本氏は会見で「この国の現状を知っていただこうと、情報をお渡ししただけ」と釈明。直訴ともとれる異例の行動に出たのは「禁じられていないためだ」と述べた。参院議院運営委員会は1日、対応を協議する。/山本氏が手紙を手渡したのは、陛下が招待者の並ぶ列の前を回られた際。「子どもたちの未来が危ないんです。健康被害も出ています」などと声を掛け、身をかがめて「この手紙に実情が書いてありますので、お読みいただけませんか」と差し出した。陛下は無言で受け取り、すぐにそばにいた侍従長に預けた。/手紙は1枚の巻紙に自らの筆で、前日30日夜に書いた。福島第1原発事故後の子どもたちや、原発労働者の被ばく問題などについて記したという。/山本氏は閉会後、都内で記者会見。姿を見せると、約40人の記者団を見渡して「珍しいですね、皆さん」と第一声。多くの記者が集まったのは、7月の参院選初当選時と、翌8月に発覚した極秘離婚に関する釈明会見以来のため、「珍しい」と述べたとみられる。/手紙の真意を聞かれ「政治家である前に人間として、この国に対する憂いを陛下に伝えたいという思いがあふれた。せっかくの機会なので」と釈明。具体的な文面は明かさなかった。記者団から再三、「陛下の政治利用にあたらないか」と質問が飛んだが、「天皇陛下に手紙を書くことが政治利用にあたるのか」と返し、否定した。/直接手渡す行為自体については「失礼にあたるかもしれないけど、ルール的には禁じられていない」とし、法律では禁じられていないと主張。手紙を読んでもらうことで「陛下に何かを期待したのか」との質問には、「僕が感じる日本の現状を知っていただきたいだけ」と強調した。/1901年に足尾銅山鉱毒事件について明治天皇に直訴した田中正造を想起させる異例の行動だが、「そのことはよく知っているが、僕はそれを意識してやったわけではない」と説明。約18分に及ぶ会見は「どうレッテルを貼ってもらっても構わない」と強気な言葉で締めくくった。

 ▽足尾銅山鉱毒事件 栃木県の足尾銅山が19世紀後半から鉱毒を流出、渡良瀬川流域に被害をもたらした日本初の公害事件。原因企業は古河鉱業(現・古河機械金属)。衆院議員だった田中正造が「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」と国に問題提起。明治天皇に直訴した時は議員を辞職していた。精錬所は80年代まで稼働し、現在も影響を残している。  [Sponichi Annex 2013111 06:00 ]

 今朝のウェブニュースより

 

 V9の川上哲治元巨人監督が死去 93 ―― 戦前、戦後を通じ巨人で選手として活躍、監督としてV9を達成した川上哲治(かわかみ・てつはる)氏が28日午後458分、東京都稲城市内の病院で老衰のため死去した。93歳だった。葬儀・告別式は近親者のみで執り行った。/川上氏は1920323日、熊本県生まれ。熊本工時代に投手として吉原正喜(19191944年、第2次世界大戦で戦死)とバッテリーを組み、3437年全国中等学校野球選手権に出場。いずれも準優勝を果たしている。/38年に吉原とともに巨人入団。同期には千葉茂がいた。プロでは打者として活躍。大下弘の「青バット」と並び称される「赤バット」で終戦直後の球会を盛り上げる。MVP3回、首位打者5回、本塁打王2回、打点王3回のタイトルを獲得し「打撃の神様」の異名を取った。通算18年で2351安打を放ち、生涯打率は3割1分3厘。/61年に水原茂監督に代わり巨人監督に就任。14年監で優勝11回、2位1回、3位1回、41回。1066739敗、勝率.591の驚異的な成績を残した。特に65年からの9連覇(日本シリーズも)は球史に輝く金字塔で、巨人軍第3期黄金時代を築いた。/10連破を逃した74年に監督退任。その後は野球評論家として活躍。球界への強い影響力から「ドン」と呼ばれることもあった。   [ Sponichi Annex 20131030 15:41 ]
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目高 拙痴无
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1932/02/04
自己紹介:
くたばりかけの糞爺々です。よろしく。メールも頼むね。
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