次に述べる三区分は昨日のブログで述べた「萬章章句下」で検討された孔子の三通りの進退と照応しているようです。すなわち本章の一つ目の進退が、萬章章句下の『見行可(見て行なうべし)』の仕えに当たります。以下、本章二つ目の進退は『際可(際あり)』の仕えに、三つ目の進退は『公養(公に養う)』の仕えに当たるのでしょう。
陳子曰、古之君子、何如則仕。孟子曰、所就三、所去三。迎之致敬以有禮、言將行其言也、則就之。禮貌未衰、言弗行也、則去之。其次、雖未行其言也、迎之致敬以有禮、則就之。禮貌衰、則去之。其下、朝不食、夕不食、飢餓不能出門戶。君聞之曰、吾大者不能行其道、又不能從其言也。使飢餓於我土地、吾恥之。周之、亦可受也。免死而已矣。 孟子 告子章句下より
陳子曰く、古の君子、何如がすれば則ち仕う、と。孟子曰く、就く所三つ、去る所三つ。
之を迎うるに敬を致して以て禮有り、言うこと將に其の言を行わんとするときは、則ち之に就く。禮貌未だ衰えざれども、言行われざるときは、則ち之を去る。
其の次は、未だ其の言を行わずと雖も、之を迎うるに敬を致して以て禮有るときは、則ち之に就く。禮貌衰うるときは、則ち之を去る。
其の下は、朝に食らわず、夕に食らわず、飢餓して門戶を出づること能わず、と。君之を聞いて曰く、吾大いなるは其の道を行うこと能わず、又其の言に從うこと能わず。我が土地に飢餓せしめんこと、吾之を恥ず、と。之を周[すく]うときは、亦受く可し。死を免るるのみ、と。
弟子の陳子が
「昔の勝れた人物はどのような場合に仕えたのですか」
孟子は言った。
「仕える場合が三つ、辞職して去る場合が三つある。
①心から敬い、礼儀を尽くして招聘し『ご意見を実行いたしますから』と言って来たならば仕える。しかし、この場合には、主君の礼儀や尊敬の気持ちが始と変わりなくとも、意見が取り上げられなくなったときにはじしょくする。
②その次は『ご意見を実行いたしますから』とまでは言わなくとも、心から敬い、礼儀を尽くして招聘されたらつかえる。この場合は主君の礼儀や尊敬の気持ちが薄らいだなら、辞職して去る。
③最後は、朝も夕も食べ物がなく、飢えて家の外にも出られないほど困窮した時、領主がそれを聞いて『わたしは大にしては彼の道を実行することもできず、小にしてはその意見を取り上げることもできなかったが、さりとてわが領内で飢えさせてはわたしの恥だ』と言って救助の禄をくれる場合で、これは受けてもよい。しかし飢餓を免れる程度に止めなければならぬ」
※ 福沢諭吉はその著「徳育如何」の中で、去就について次のように述べています。
支那と日本の習慣の殊(こと)なるもの多し。就中(なかんずく)、周の封建の時代と我が徳川政府封建の時代と、ひとしく封建なれども、その士人(しじん)の出処(しゅっしょ)を見るに、支那にては道行われざれば去るとてその去就(きょしゅう)はなはだ容易なり。孔子は十二君に歴事したりといい、孟子が斉(せい)の宣王(せんおう)に用いられずして梁の恵王を干(おか)すも、君に仕(つか)うること容易なるものなり。遽伯玉〔きょはくぎょく、中国春秋時代 衛の賢太夫〕の如き、「邦有道則仕(くにみちあらばつかえ)、邦無道則可巻而懐之(くにみちなくんばまきてこれをふところにすべし)」とて、自国を重んずるの念、はなはだ薄きに似たれども、かつて譏(そしり)を受けたることなきのみならず、かえって聖人の賛誉を得たり。これに反して日本においては士人の去就はなはだ厳(げん)なり。「忠臣二君に仕えず、貞婦両夫に見(まみ)えず」とは、ほとんど下等社会にまで通用の教にして、特別の理由あるに非ざればこの教に背(そむ)くを許さず。日支両国の気風、すなわち両国に行わるる公議輿論の、相異なるものにして、天淵(てんえん)ただならざるを見るべし。sechin@nethome.ne.jp です。
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