大和物語 九十段
同じ女、故兵部卿の宮、御消息などしたまひけり。「おはしまさん」とのたまひければきこえける、
たかくとも何にかはせん呉竹のひとよふたよのあだのふしをば
※同じ女=修理の君(父兄が修理職(皇居の修理・造営をつかさどる役所)の役人だった)という女房
現代語訳 おなじ女に、故兵部卿の宮さまが、お手紙のやりとりなどなさっていたとさ。兵部卿の宮さまが手紙で「行きますよ」と、おっしゃったので、返事に申し上げた歌
丈が高くても何になるでしょう、呉竹の一節二節といったちょっとした役にも立たない節なんか。(あなた様の身分がいくら高くっても何になるでしょう。一夜二夜しかいらしてくださらない、不誠実なお泊まりなんて)
大和物語 百三十七段
志賀の山越のみちに、いはえといふ所に、故兵部卿の宮、家をいとをかしうつくりたまうて、時々おはしましけり。
いとしのびておはしまして、志賀にまうづる女どもを見たまふ時もありけり。おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。
おほかたもいとおもしろう、家もいとをかしうなむありける。
としこ、志賀にまうでけるついでに、この家にきて、めぐりつつ見て、あはれがり、めでなどして、かきつけたりける、
かりにのみ くる君まつと ふりいでつつ なくしが山は 秋ぞ悲しき
となむ書きつけて往にける。
※故兵部卿の宮=陽成天皇の皇子、元良親王(890~943年)。
※としこ=肥前の守、藤原千兼の妻。藤原千兼の妻で、千兼は宇多天皇(=亭子院)の信任が厚かった歌人・忠房の息子です。また、忠房の娘、つまり千兼の姉か妹が源大納言清蔭の妻でしたた。としこは、この清蔭のもとに仕えており、そこで千兼と結ばれたと言います。
現代語訳 滋賀の山越えの道中の、岩江という所に、故兵部卿の宮が、家を非常に風流に建造なさって、時々その別荘においでになったそうです。
非常に人目を避けてお出かけになって、滋賀の寺社に参詣する女性たちを御覧になる時もあったということです。
おおよそお屋敷全体が、非常に風情があり、家の造りも非常に趣味が良かったようです。
俊子が、滋賀の寺社に参詣したついでに、この家に来て、周囲をめぐりながら見て、感嘆し、ほめたりなどして、塀に書きつけた歌、
仮りそめにだけやって来るあなた様を待とうと、声をふりしぼって鳴く鹿の住む滋賀の山は、秋が格別にもの悲しいことだ。
と書きつけて、たちさったということです。
今昔、川原の院は融の左大臣の造て住給ける家也。陸奥国の塩竈の形を造て、潮の水を汲入て、池に湛(たた)へたりけり。様々に微妙く可咲き事の限を造て住給けるを、其の大臣失て後は、其の子孫にて有ける人の宇陀の院2)に奉たりける也。
然れば、宇陀の院、其の川原の院に住せ給ける時に、醍醐の天皇は御子に御せば、度々行幸有て微妙かりけり。
然て、院の住せ給ける時に、夜半許に、西の台の塗籠を開て、人のそよめきて参る気色の有ければ、院、見遣せ給けるに、日の装束直(ただ)しくしたる人の、太刀帯(はき)て、笏取り畏りて、二間許去(の)きて居たりけるを、院、「彼(あれ)は何に人ぞ」と問せ給ければ、「此の家の主に候ふ翁也」と申ければ、院、「融の大臣か」と問せ給ければ、「然に候ふ」と申すに、院、「其れは何ぞ」と問はせ給まへば、「家に候へば住候ふに、此く御ませば、忝く所せく思給ふる也。何が仕るべき」と申せば、院、「其れは糸異様の事也。我れは人の家をやは押取て居たる。大臣の子孫の得(えさ)せたればこそ住め。者の霊也と云へども、事の理をも知らず、何で此は云ぞ」と高やかに仰せ給ければ、霊掻消つ様に失にけり。其の後、亦現るる事無かりけり。
其の時の人、此の事を聞て、院をぞ忝く申ける。「猶、只人には似させ給はざりけり。此の大臣の霊に合て、此様に痓(すく)やかに、異人は否答じかし」とぞ云けるとなむ語り伝へたるとや。
現代語訳 川原院融左大臣の霊を宇陀院見給へる語
これも今となっては昔のこと、今も知られる河原の院というのは、もとは融の左大臣様がお造りになり、住んでおられたお屋敷なのです。陸奥出羽按察使であられた融様は殊の外、あの陸奥の国の塩釜の浦の美観を好まれましたが故に、それを模してお庭をお作りになり、なんとまあ、わざわざ海水を汲み入れて池と成されたのでございます。かように、様々にこの上もないほど贅の限りを尽くしてお住まいになっておられたのですが、その融の左大臣様が亡くなって後は、その子孫にあたる方が、宇陀院にこの河原の院を献納したのでございます。そのようなわけで、宇陀院がその河原の院にお住まいになっておられた時には、時の帝であられた醍醐天皇は宇陀院の御子であられたのですから、度々ここに行幸もあり、まことにめでたくも良きお屋敷でございました。
さて、その宇陀院がお住まいになっていらっしゃた時のことでございます、とある夜半、西の対の塗籠を押し開けて、誰(たれ)やら人が、さらさらという衣擦れの音をさせながらやって来る気配が致しましたので、院がそちらの方をご覧になったところ、きちんと晴れの装束をなした人が、太刀を佩き笏を手にして、院から二間ほど離れた位置にかこまって座っておりましたのを、院が「そこに居る者は誰(たれ)か」とお尋ねになられると、「この家の主人の翁にございます」と申すので、院が「融の左大臣か」と重ねてお尋ねになられると、「左様でございます」と申し上げるので、院が更に「何の用じゃ」とお尋ねになられると、「私の家でございますから住んでおりますのに、その私の家にこのように帝がずっといらっしゃっておられますので、畏れ多くも、如何にも窮屈で気詰まりな感じが致すのでございます。いかが致したものでございましょうや?」と申し上げたので、院は「それはまた、如何にもおかしな申し様じゃ。我は人の家を無理矢理奪い取ってここに居るとでも申すか? 我はかつての主であった融の左大臣の、その子孫が献上したからこそここに住んでおるのじゃ。融の霊を語る怪しげな物の怪と言えども、世の当たり前の道理をも弁えず、何故そのような不埒千万なことを申すか!」と仰せられ、声高く一喝なさったところ、その霊はかき消すように失せたのでございます。そうしてその後、二度とは現れることはなかったのでございます。
当時の人々はこの出来事を聞いて、前にもまして宇陀院を畏れ敬い申し上げて、「やはり宇陀院はただのお人とはまるで違っておられることだ。他の方では、この左大臣の霊に逢って、このようにぴしゃりと言ってのけることは、とてもできそうもない。」と言ったと、今も語り伝えているということです。
これも今は昔、敏行という歌よみは、手をよく書きければ、これかれがいふに従ひて、法華経を二百部ばかり書き奉りたりけり。かかるほどに、にはかに死にに けり。我は死ぬるぞとも思はぬに、にはかにからめて引き張りて率て行けば、我ばかりの人を、おほやけと申すとも、かくせさせ給ふべきか、心得ぬわざかなと思ひて、からめていく人に、「これはいかなる事ぞ。何事の過ちにより、かくばかりの目をば見るぞ」と問へば、「いさ、我は知らず。『たしかに召して来』と仰せを承りて、率て参るなり。そこは法華経や書き奉りたる」と問へば、「しかじか書き奉りたり」と言へば、「我がためにはいくらか書きたる」と問へば、 「我がためとも侍らず。ただ、人の書かすれば、二百部ばかり書きたるらんと覚ゆる」と言へば、「その事の愁へ出で来て、沙汰のあらんずるにこそあめれ」と ばかり言ひて、また異事もいはで行くほどに、あさましく人の向ふべくもなく、恐ろしと言へばおろかなる者の眼を見れば、雷光のやうにひらめき、口は炎などのやうに恐ろしき気色したる軍の鎧兜着て、えもいはぬ馬に乗り続きて、二百人ばかりあひたり。見るに肝惑ひ、倒れ伏しぬべき心地すれども、われにもあらず、引き立てられていく。
さてこの軍は先立ちて去ぬ。我からめて行く人に、「あれはいかなる軍ぞ」と問へば、「え知らぬか。これこそ汝に経あつ らへて書かせたる者どもの、その功徳によりて、天にも生まれ、帰るとも、よき身とも生るべかりしが、汝がその書き奉るとて、魚をも食ひ、女にも触れて、清まはる事もなくて、心をば女のもとに置きて、書き奉りたれば、その功徳のかなはずして、かくいかう武き身に生れて、汝を妬がりて、『呼びて給ふらん。その仇報ぜん』と愁へ申せば、この度は、道理にて召さるべき度にもあらねども、この愁へによりて召さるるなり」といふに、身も切るるやうに、心もしみ凍りて、 これを聞くに死ぬべき心地す。
「さて我をばいかにせんとて、かくは申すぞ」と問へば、「おろかにも問ふかな。その持ちたりつる太刀、刀にて、汝が身をばまづ二百に斬り裂きて、おのおの一切づつ取りてんとす。その二百の切れに、汝が心も分かれて、切ごとに心のありて、せめられんに随ひて、悲しく侘しき目を見んずるぞかし。堪へ難き事、たとへん方あらんやは」と言ふ。「さてその事をば、いかにしてか助かるべき」と言へば、「さらに我も心も及ばず。まして助かるべき力はあるべきにあらず」といふに、歩むそらなし。
又行ば、大なる川あり。その水をみれば、こくすりたる墨の色にて流たり。「あやしき水の色哉」とみて、「これはいかなる水なれば、墨の色なるぞ」ととへば、「しらずや。これこそ汝が書奉たる法花経の墨のかく流るるよ」といふ。「それはいかなれば、かく川にてはながるるぞ」ととふに、「心のよく誠をいたして、清く書たてまつりたる経は、さながら王宮に納られぬ。汝が書奉たるやうに、心きたなく、身けがらはしうて書奉たる経は、ひろき野にすて置たれば、その墨の雨にぬれて、かく川にて流る也。此川は、汝が書奉りたる経の墨の川なり」といふに、いとどおそろしともおろか也。
「さてもこの事は、いかにしてか助かるべき事ある。をしへて助給へ」と泣々いへば、「いとおしけれども、よろしき罪ならばこそはたすかるべきかたをもかまへめ。これは心もをよび、口にてものぶべきやうもなき罪なれば、いかがせん」といふに、ともかきもいふべき方もなうて、いく程も、おそろしげなる物、はしりあひて、「をそくいてまいる」といましめいへば、それをききて、さげたてて、いてまいりぬ。
大なる門に、我やうに引はられ、又、くびかしなどいふ物をはげられて、ゆひからめられて、たへがたげなるめどもみたるものどもの、数もしらず、十方より出きたり。あつまりて、門に所なく入みちたり。門より見入れば、あひたりつる軍共、目をいからかし、したなめづりをして、我をみつけて、「とくいてこかし」と思たる気色にて、立さまよふをみるに、いとど土もふまれず。
「さても、さても、いかにし侍らんずる」といへば、其ひかへたる物「『四巻経書奉らん』といふ願をおこせ」とみそかにいへば、いま門入程に「此咎は四巻経かき供養してあかはん」といふ願を発しつ。
さて、入りて、庁の前に引すへつ。事沙汰する人、「かれは敏行か」ととへば、「さに侍り」と此つきたる物こたふ。「愁ども頻なる物を、など遅はまいりつるぞ」といへば、「召捕たるまま、とどこほりなくいてまいりて候」といふ。「娑婆世界にて、なに事かせし」ととはるれば、「仕たる事もなし。人のあつらへにしたがひて、法花経を二百部書奉て侍つる」とこたふ。
それをききて、「汝はもとうけたる所の命は、いましばらくあるべけれども、その経書たてまつりし事の、けがらはしく清からで書たるが、うれへの出きてからめられぬる也。すみやかにうれへ申ものどもにいだしたびて、かれらが思のままにせさすべき也」とあるときに、ありつる軍ども、悦べる気色にて、うけとらんとする時、わななくわななく、「四巻経かき供養せんと申願のさぶらふを、その事をなんいまだとげ候はぬに、めされさぶらひぬれば、此罪をもく、いとどあらがふかた候はぬなり」と申せば、このさたする人、ききおどろきて、「さる事やはある。まことならば、不便なりける事哉。丁を引てみよ」といへば、又人、大なる文を取出て、ひくひくみるに、我せし事共を一事もおとさずしるしつけたり。中に罪の事のみありて、功徳の事一もなし。
この門入つる程におこしつる願なれば、おくのはてに注されにけり。文引はてて、いまはとする程に、「さる事侍り。此おくにこそしるされて侍れ」と申上ければ、「さてはいと不便の事也。このたびのいとまをばゆるしたびて、その願遂させて、ともかくもあるべき事也」と定られければ、この目をいからかして、「我をとくえん」と手をねぶりつる軍共失にけり。「たしかに娑婆世界に帰て、その願をかならず遂させよ」とてゆるさるる、とおもふ程に、いきかへりにけり。
妻子なきあひて有ける、二日といふに、夢のさめたる心ちして、目を見あげたりければ、「いき帰たり」とて、悦て、湯のませんどするにぞ、「さは、我は死たりけるにこそありけれ」と心えてかんがへられつる事ども、ありつる有様、願をおこして、その力にてゆるされつる事などを、あきらかなる鏡に向たらんやうにおぼえければ、いつしか我力付て、「清まはりて、心きよく四巻経書供養し奉ん」と思けり。
やうやう日比へ、比過て、例の様に心ちも成にければ、いつしか四巻経書たてまつるべき紙、経師に打つがせ、鎅かけさせて、「書奉ん」と思けるが、猶もとの心の色めかしう、経仏の方に心のいたらざりければ、「此女のもとに行、あの女のけしやうし、いかでよき哥よまん」など思ける程に、いとまもなくて、はかなく年月過て、経をも書たてまつらで、このうけたりける齢のかぎりにや成にけん、つゐに失にけり。
其後、一二年斗へだてて、紀友則といふ哥読の夢にみえけるやう、此敏行とおぼしき物にあひたれば、敏行とは思へども、さまかたちたとふべき方もなく、あさましくおそろしうゆゆしげにて、うつつにもかたりし事をいひて、「四巻経を書奉らんと云願によりて、暫の命をたすけて返されたりしかども、猶心のおろかにおこたりて、その経をかかずして、つゐに失にし罪によりて、たとふべきかたもなき苦をうけてなんあるを、もしあはれと思給はば、そのれうの紙はいまだあるらん、その紙尋とりて、三井寺にそれがしといふ僧にあつらへて、書供養をさせてたべ」といひて、大なる声をあげてなきさけぶとみて、汗水になりておどろきて、あくるやおそきと、その料紙尋とりて、やがて三井寺に行て、夢にみつる僧のもとへ行たれば、僧見付て、「うれしき事かな。ただいま人をまいらせん。『みずからにてもまいりて申さん』とおもふ心のありつるに、かくおはしましたる事のうれしさ」といへば、まづ我みつる夢をばかたりて、「何事ぞ」ととへば、「今宵の夢に、故敏行朝臣のみえ給つる也。四巻経書たてまつるべかりしを、心のおこたりに、えかき供養したてまつらずなりにし、その罪によりて、きはまりなき苦をうくるを、その料紙御前のもとになんあらん、その紙たづね取て、四巻経書供養したてまつれ。事のやうは、御前に問たてまつれとありつる。大なるこゑをはなちて、さけびなき給とみつる」とかたるに、あはれなる事おろかならず。
さしむかひて、さめざめとふたりなきて、「我もしかじか夢をみて、その紙を尋とりて、ここにもちて侍り」といひてとらするに、いみじうあはれがりて、この僧、まことをいたして、手づからみづから書供養したてまつりて後、又ふたりが夢に、この功徳によりて、たへがたき苦すこしまぬがれたるよし、心ちよげにて、顔もはじめみしには替てよかりけりとなんみけり。
現代語訳
これも今は昔。敏行という歌詠みは、書に巧みであったから、あれこれ頼まれるままに、法華経を二百部ほども書いていたが、そうこうしているうちに、あるとき、にわかに死んだ。
自分が死ぬとも思わぬ先に、いきなり獄卒に絡め取られ、引き立てられるから、この自分ほどの者を――朝廷とてこんな真似をするものか、心得ぬ奴めと、捕縛人に、「これは如何なることか。いったい何の罪科があって、わしがこんな目に遭うのだ」と聞けば、「さ、わたくしは存じません。『たしかに召し連れて来い』と仰せを受けて、あなたを連れて行くのです。ところであなたは、法華経を書き写したことはありますか」と問われるので、「さまざま書いておる」と答えた。
「自分のためには、どれほど書きましたか」
「自分のためというわけではないが、人から頼まれるまま、二百部ばかり書いたと記憶している」と、はっきり答えたところ、「ではそのことで何か訴えがあったようで、沙汰があると存じますよ」と、そんなことを伝えて、獄卒は、あとは余計なことを言わずに連れて行くのだった。
やがて、こんなところ、と思うような、決して人が在るべき場所ではないところで、二百人ばかりの群衆に行き会った。
恐ろしい、と言うも愚かなほどの連中は、目は雷光のように閃き、口は炎などのように恐ろしい風体をしており、戦争の鎧兜を身につけ、馬に乗って行くのである。そんな連中を見るにつけ、敏行は肝がつぶれ、卒倒しそうな思いになって、獄卒に連れられるまま、ぼんやりと、ただ引き立てられて行くのだった。
やがて、その軍隊は先に去ったから、敏行は獄卒に、「今のは、何の軍隊だったのですか」と尋ねたところ、「なに、知らぬとな。汝に法華経を書かせた者たちの、その功徳によって天にも生れ変るとか、現世へ立派な身上として生れ変るべきところ、汝が法華経を書くに当って魚を食い、女人に触れて、身を清浄に保つことをせず、しかも心を女のもとへ置いたまま書き上げたために、法華経の功徳が全うせず、あのような武人の姿として生まれた者たちではないか。ゆえに汝を恨めしく思い、『奴を呼び立てろ。仇を報いろ』と訴え出たため、普通であれば、汝は召し連れるべきではないが、斯様に召し立てておる次第であるぞ」と答えるから、敏行は、身を切られたように心が凍り付き、もはや死んだような心地となった。
「彼らは、わたくしをどうしようと欲して、そのように訴えたのでしょう」と尋ねれば、「愚かなことを問うものだ。二百人が銘々に持った太刀、刀の類で、まずは汝の体を二百に切り、各自が一切れずつ取るであろう。その二百の切れには汝の心もまた分割されて、心を持つから、それぞれに苛まれるがまま、汝は悲しくも凄まじい目を見ることとなる。それの耐え難いことは、まず喩えようはないな」
「では、では、そのことをいかにして免れることが、助かることができますか」と尋ねたが、「我の想像の外だな。まして助ける力などあるものか」そう言われて、敏行はもはや歩いている心地さえしなかった。
引き立てられるまま、敏行が先へ行くと、大きな川があった。水は黒々としており、あたかも濃く磨った墨の色をして流れている。おかしな水の色だと思い、「これはどのような水で、何故このような墨の色をしているのですか」と尋ねると、「知らぬか。これこそ、汝が書き奉った、法華経の墨が流れたものだ」と、獄卒は答える。
「それがどうして、このように川へ流れているのですか」「心を正しく、真を込めて清浄に書き奉られた経文は、そのまま王宮へ納められることとなる。が、汝の為したように、心汚く、汚らわしい身で書かれた経文は広野に打ち捨てられるゆえ、その墨が雨で濡れて、川へ流れ込むこととなる。つまりこの川は、汝が書いた経文の墨である」と、そんなことを言われて、敏行は恐ろしくてさらに言葉もない。
「それでは、このことは、どうして助かることができますか。どうか教えてください、助けて下さい」と泣く泣く言うと、「悪くもない罪ならば助かる方法もあるが、このことは心へも及び、口で弁解できるような罪でもない。かわいそうだが、どうしようも無い」そんな答えであったから、もはや言葉もない。ただ引きずられるだけであった。やがて恐ろしい様相の輩が駆けてきて、「遅いぞ」と叱りつける。獄卒はそれを聞くと、さらに急いで敏行を率いて行く。
さて、大きな門の前へ引き据えられた敏行。首枷などというものを嵌められ、縛り上げられ、堪えがたい思いで見渡せば、そこには数も知らず、十万人ほども群がり集って、集門内に隙間なく満ちている有様であった。先ほど行き会った軍隊が目を怒らし、舌なめずりをして、敏行を見つめて、早く来い、早く来いと言わんばかり。
もはや土を踏む心地さえ無く、「ああ、ああ、どうしたら良いのか」と呟いていると、そこへ控えていた者が、「四巻経を書き奉る旨、今すぐ発願せよ」とひそかに言うので、敏行は、今まさに門をくぐるというところで、自分の罪科は四巻経を書き、供養して贖う――と、願をかけた。
敏行は門の中へ入り、庁舎の前へ引き据えられた。裁判人が、「あれが敏行か」と問うと、「左様でございます」と、連行してきた者が答える。「しきりに訴えのあるものを、なぜこのように遅く参ったのか」「召し捕りましたまま、遅滞なく引き立てて参りました」と、獄卒は答える。
「では娑婆世界にて、何か為したことはあるか」と裁判人が敏行に尋ねた。「為したことは特にございませんが、人に頼まれるまま、法華経を二百部書いております」それを聞くと、裁判人は、「汝がもともと受けている命は、もう少しはあった。しかるに、汝の書いた法華経が汚らわしく、清くないまま書かれた旨の訴えがあり、こうして絡め取ってきたものである。この上は、すみやかに、訴え出た者へ汝の身柄を下げ渡し、彼らの思いのままにさせようと思うぞ」と言えば、そこへ集っていた軍隊たちは、大いに喜色を見せた。
そして連中が、さあ身柄をこちらへと、受け取ろうと出てきたとき、敏行がわななき、わななきながら、「四巻経を書き、供養しようと宿願したのを、にわかに召し立てられたため、未だ遂げずにおります。この罪は、なかなかに重たいものであると存じます」と申し出た。
裁判人は驚いて、「そんなことがあったのか。もし、まことであれば問題である。過去帳を引いて、調べよ」と命ずれば、別の者が大きな巻物を取り出し、それを引き出していちいち見れば、確かにそこには、彼が生前に為したことが一つも漏らさず記しつけられていた。しかも罪つくりのことばかり掲載されていて、功徳になることは一つもない。……が、門へ入る直前に立てた、四巻経の発願が、奥の奥に記されていた。過去帳の巻物を引き切って、もうダメだ、と思った時に、「あ、そのようなことがあります。ここの、最後の部分に書かれています」と報告があったから、「なるほど、それはいかん。このたびは暇を許し、ともかく、その発願を遂げさせるべきである」という裁定になった。それで、目を怒らせ、早く敏行の体を奪おうと、手をなめていたような軍隊どもも、失せてしまった。
「確かに娑婆世界へ戻り、その発願を遂げて来い」裁判人からそう言われて、ああ、許された――と思ううちに、敏行は生き返ったのである。
さて生き返った敏行。妻子の方は、敏行の死に、泣き合いながら二日過していたが、そこへふと夢から覚めたような心地で敏行が目を開けたものだから、生き返った、と大いに喜び、敏行へ白湯などを飲ませた。
そして敏行の方は、それにしても、自分は死んだはずだがと、堪え難かった出来事や、自分が発願を起こしてその徳で許されたことなど、明鏡に向ったようにはっきりと思い出せたため、体力が戻ったなら、身を心も清浄にして四巻経を書き、供養しようと誓った。
やがて幾日かが過ぎて、普段どおりの心地になってきた。敏行はまず、四巻経を書き奉る紙を表具師に作らせ、罫線も引かせて、いざ書き奉ろうと思ったが、それでもなお、昔の、色気づいた心が涌いてきて、経文や仏の方へ心が至らず、あの女のもとへ行き、こちらの女を懸想して、さてどうすれば良い歌が詠めるだろうか、などと思っているうちに暇が無くなって、むなしく年月を過ごすうちに結局、四巻経を書くこともなく、与えられた寿命が尽きたのであろう、とうとう亡くなってしまったのだった。
その後。十二年ばかり時代を隔てて、紀友則という歌人が、夢に、この敏行と思しき人に会った。とはいえ、その男を敏行だと思えても、姿形は例えようもない、あさましくも恐ろしい、忌まわしい様となっていた。
この敏行が、友則に現世にいたころのことを伝えて、「四巻経を書き奉るという発願により、しばらくの間命を助けられ、現世に返されましたが、心の愚かさのために怠り、その経文を書かないままに亡くなってしまい、今やその罪により、たとえることのできぬ責苦を受けていますのを、もし哀れだとお思いになるのなら、わたくしの発願した折の料紙が今も残っているだろうから、それを尋ね出し、三井寺の、なにがしという僧侶に書き供養していただくよう、お計らいください」と言って、大きな声を上げて泣け叫んだのであった。……と見ると、友則は汗水になって目覚めた。
翌朝、友則は夜明けや遅しとばかりにその料紙を尋ねだし、そのまま三井寺へ行って、夢で見た僧侶のもとへ行くと、僧侶の方もこちらを見つけて、「喜ばしきことです。今ちょうど人を遣わそうか、それとも自ら伺って、お伝えしようかと思っておりましたが、こうしてお越しいただけることの喜ばしさ」
友則は自分の夢を語るより先に、「それはどういうことですか」と問うと、「昨夜、拙僧の夢に、故敏行朝臣をお見かけしたのです。……四巻経を書き奉るべきであったところ、心の怠りのため、書き供養することもないままになってしまい、今その罪のため際限のない苦しみを受けている。料紙は友則さまのもとにあるはずだから、その紙を探し出し、四巻経を書き、供養してください。仔細は友則さまに伺ってくれとのことでした。そして大きな声を放って、叫び泣きなさった……」と語ったため、友則は、あわれとも言うことができないほどであった。
僧侶と差し向いになり、友則は二人で泣いて、「わたくしもこれこれの夢を見て、その紙を尋ね出し、ここへ持参しております」と受け渡すと、敏行をたいそうあわれがり、僧侶は自ら経文を書いて、供養したのだった。
やがて、二人の夢に、この功徳によって、堪え難い苦役が少し免れた――と、心地よさそうに、形も始めのようになって、だいぶ良いような敏行の姿が、見えたという。
昔、男(をとこ)ありけり。女(をんな)のえ得(う)まじかりけるを、年を経(へ)て呼ばひわたりけるを、からうじて盗み出でて、いと暗きに来(き)けり。芥川(あくたがは)といふ河(かは)を率(ゐ)て行き(いき)ければ、草の上(うへ)に置きたりける露を、「かれは何ぞ」となむ男に問ひける。行く先(ゆくさき)多く、夜もふけにければ、鬼ある所とも知らで、神さへいといみじう鳴り、雨もいたう降りければ、あばらなる蔵に、女をば奥に押し入れて、男、弓、やなぐひを負ひ(おひ)て戸口にをり。はや夜も明けなむと思ひつつゐたりけるに、鬼、はや一口(ひとくち)に食ひ(くひ)てけり。「あなや」と言ひけれど、神鳴る騒ぎにえ聞かざりけり。やうやう夜も明けゆくに、見れば率て来(こ)し女もなし。足ずりをして泣けどもかひなし。
白玉か何ぞと人の問ひしとき露と答へて消えなましものを
これは、二条(にでう)の后(きさき)のいとこの女御(にようご)の御もとに、仕うまつるやうにてゐ給へ(たまへ)りけるを、かたちのいとめでたくおはしければ、盗みて負ひて出で(いで)たりけるを、御兄(せうと)、堀河(ほりかは)の大臣(おとど)、太郎(たらう)国経(くにつね)の大納言、まだ下臈(げらふ)にて、内に参り(まゐり)給ふに、いみじう泣く人のあるを聞きつけて、とどめてとりかへし給うてけり。それを、かく鬼とはいふなりけり。まだいと若うて、后のただにおはしける時とや
<現代語訳>
昔、(ある)男がいた。(ある高貴な)女で(男が)手に入れることができそうになかった(その)女を、長年の間求婚し続けてきたが、やっとのことで(その女を)盗み出して、たいそう暗い夜に(連れ出して)来た。芥川という河(のほとり)を連れて行くと、(女は)草の上に置いていた露を(見て)、「あれは何ですか」と男に尋ねた。行く先は遠く、夜もふけてしまったので、(そこが)鬼のいる所とも知らないで、(その上)雷までもたいそう激しく鳴り、雨もひどく降ったので、荒れ果てた蔵に、女を奥に押し込んで、男は、弓(を持ち)、やなぐいを背負って入口に(見張りをして)いた。(男は)早く夜も明けてほしいと思いながらいたところが、鬼が早くも(女を)一口に食ってしまった。「あれえ」と(女は)叫んだけれども、雷の鳴る音のやかましさに(かき消されて男はその声を)聞くことができなかった。次第に夜も明けてゆくので、(蔵の中を)見ると連れてきた女もいない。(男は悔しくて)じだんだを踏んで泣いたけれども、どうしようもない。
「あれは真珠ですか、なんですか」と女が尋ねたとき、「あれは露だよ」と答えて、その露がはかなく消えるように私も死んでしまったらよかったのになあ。(そうすればこんな悲しい思いはしなかったはずだ。)
これは、二条の后がいとこの女御のおそばに、まるでお仕え申し上げるようなかたちでおいでになったところ、(二条の后の)容貌がたいそう美しくていらっしゃったので、(この男が)盗んで背負って逃げてしまったのを、(二条の后の)兄君の堀河の大臣と、太郎国経の大納言が、まだ身分の低いころで、宮中に参上なさるときに、ひどく泣く人があるのを聞きつけて、(連れて行くのを)引きとめて《「車を止めて」とする解釈もある。》(妹を)取り返しなさったのだった。それを、(実は)このように鬼というのであった。(この話は二条の后が)まだたいそう若くて、(后ではなく)普通の身分でいらっしゃったとき(のこと)とか(いうことである)。
良岑の宗貞の少將、物へ行くみちに、五條わたりにて雨いたう降りければ、荒れたる門にたち隱れてみいるれば、五間ばかりなる檜皮屋のしもに土屋倉などあれど、ことに人などもみえず。歩みいりてみれば、階の間に梅いとおかしう咲きたり。鶯も鳴く。人ありともみえぬ御簾のうちより、薄色の衣濃き衣うへにきて、たけだちいとよきほどなる人の、髪、たけばかりならんと見ゆるが、よもぎ生ひて荒れたるやどをうぐひすの人來となくや誰とかまたんとひとりごつ。少將、
きたれどもいひしなれねば鶯の君に告げよとをしへてぞなく
と聲おかしくていへば、女驚きて、人もなしと思ひつるに、物しきさまをみえぬることとおもひて物もいはずなりぬ。男、縁にのぼりて居ぬ。「などか物のたまはぬ。雨のわりなく侍つれば、やむまではかくてなむ」といへば、「大路よりはもりまさりてなむ、こゝは中々」といらへけり。時は、正月十日のほどなりけり。簾のうちより茵(しとね)さしいでたり。引き寄せて居ぬ。簾もへりは蝙蝠にくはれてところどころなし。内のしつらひ見いるれば、昔おぼえて畳などよかりけれど、口惜しくなりにけり。日もやうやうくれぬれば、やをらすべりいりてこの人を奧にもいれず。女くやしと思へど制すべきやうもなくて、いふかひなし。雨は夜一夜ふりあかして、またのつとめてぞすこし空はれたる。男は女のいらむとするを「たゞかくて」とていれず。日も高うなればこの女の親、少將に饗応すべきかたのなかりければ、小舎人童ばかりとゞめたりけるに、堅い塩さかなにして酒をのませて、少將には、ひろき庭に生ひたる菜を摘みて、蒸し物といふものにして丁わんにもりて、はしには梅の花さかりなるを折りて、その花辨(はなびら)にいとおかしげなる女の手にて書けり。
君がため衣の裾をぬらしつゝ春の野にいでてつめる若菜ぞ
男これをみるにいとあはれに覺えてひきよせて食ふ。女わりなう恥しとおもひて臥したり。少將起きて、小舎人童を走らせて、すなはち車にてまめなるものさまざまにもてきたり。迎へに人あれば、「いま又もまいり來む」とて出でぬ。それより後たえず身づからもとぶらひけり。よろづの物食へども、なを五條にてありし物はめづらしうめでたかりきとおもひいでける。
年月を經て、つかうまつりし君に、少將後れたてまつりて、かはらむ世を見じとおもひて、法師になりにけり。もとの人のもとに袈裟あらひにやるとて、
霜雪のふるやのもとにひとりねのうつぶしぞめのあさのけさなり
となむありける。
現代語訳
良峯の宗貞の少将が、あるところに行く途中、五条近辺で雨がひどく降ったので、荒れた門の下に身を隠して(家の中を)覗きこんでみますと、5間ほどの檜皮屋の家の裏手に、土蔵などがあるけれど、特に人なども見えません。(邸内に)入ってみると、階段のほとりに梅がたいそう美しく咲いています。鶯も鳴いています。(すると)人がいるとも思われない御簾の中から、薄紫色の衣を濃い紅色の衣の上に着て、背丈もたいそう格好のよい人で、髪が背丈ほどもあろうと見える人が、
(蓬が生えて荒れている家なのに、鶯は人が来る人が来ると鳴いていることよ。けれど、誰をあてにして待てばよいかしら。)
と独り言を言いました。(そこで)少将は、
(先ほどからやって来ているのに、(女の方には)物言いなれていませんので、鶯が訪ねてまいっていることを、(あなたに)告げなさいと教えて鳴いているのです。)
と声も美しく言いましたので、女は驚いて「誰もいないと思っていたのに、見苦しいさまを見られてしまったことよ」と思って、何も言わなくなってしまいました。男は縁に上がって座りました。「どうして何もおっしゃらないのですか。雨がひどく降っておりますので、雨が上がるまで、こうして(お邪魔させて下さい)」と言いますと、(女は)「大路よりもふる雨が漏って、ここはかえって(お濡れになるでしょう)」と答えたのでした。時は正月十日ごろであった。(女は)御簾の中から敷物を差し出しました。(少将は)引き寄せて座りました。御簾も縁もこうもりに食われて所々なくなっていました。屋内のしつらいは、覗きこむと、昔の暮らしが思われて、畳などもよかったけれど、(今は)見る影もなくなっていました。日も次第に暮れてきたので静かに(部屋の中に)入り込んで、この人を奥にも入らせません。女は悔しいと思ったけれど、止めるすべもなく、どうしようもありません。雨は一晩中降り続いて、空は早朝少し晴れてきました。男は、女が(部屋の奥に)入ろうとするのを、「ただこのままにして」と言って、入れません。日も高くなって、この女の親は、少将をもてなしようもなかったので、(少将が)小舎人童だけ残しておきましたが、その者には堅塩を酒の肴にして飲ませ、少将には広い庭に生えていた若菜を摘んで、蒸物というものに作って、茶碗に盛って、箸には梅の花の盛りの枝を折って、その花びらに、たいそう美しい女の筆跡で、次のように書き付けました。
(あなたのために衣の袖をぬらしながら、春の野に出て摘んだ若菜ですよ。)
男は、この歌を見ると、しみじみ心打たれて引き寄せて食べました。女はとても恥ずかしく思って伏していました。少将は起きて、小舎人童を(邸に)走らせて、早速車で、生活の足しになる品々を持って来させました。(少将は)「迎えの者が来たので(帰りますが)、すぐに再び戻ってきましょう」と言って出て行きました。それからのちも、絶えず少将自身も訪れました。(少将は)「(ここまで)いろいろなものを食べたが、やはり五条で食したものは、めったにないもので素晴らしかった」と思い出しました。
年月が経って、お仕えした帝に、少将は先立たれ、「二君にはお仕えすまい」と思って、法師になりました。以前の妻のところに、袈裟を洗いに出すと言って、
((これは)霜や雪の降り込んでくる古い荒れた家の中で、ひとり寝をして(修行している)私のうつぶし染めの麻の袈裟ですよ。)
と書いてありました。
今昔物語集 巻20 第45話 小野篁依情助西三条大臣語
今昔、小野の篁と云ふ人有り。学生にて有ける時に、事有て、公け過(とが)を行はれけるに、其の時に、西三条大臣良相と申ける人、宰相として、事に触て篁が為に吉き事を2)宣ひけるを、篁、心の中に「喜(うれ)し」と思て年来経る間に、篁、宰相に成ぬ。良相の大臣も大臣に成ぬ。
而る間、大臣、身に重き病を受て、日来を経て死給けり。即ち閻魔王の使の為に搦められて、閻魔王宮に至て、罪を定めらるるに、閻魔王宮の臣共の居並たる中に、小野篁居たる。大臣、此れを見て、「此れは何なる事にか有らむ」と怪く思えて居たる程に、篁、笏を取て、王に申さく、「此の日本の大臣は、心直くして、人の為に吉き者也。今度の罪、己れに免し給らむ」と。王、此れを聞て宣はく、「此れ、極て難き事也と云へども、申請ふに依て、免し給ふ」と。
然れば、篁、此の搦たる者に仰せ給て、「速に将返るべし」と行へば、将返ると思ふ程に、活(いきかへ)れり。其の後、病漸く止て、月来を経るに、彼の冥途の事、極て怪く思ふと云へども、人に語る事無し。亦、篁にも問ふ事共)無し。
而る間、大臣、内に参て、陣の座に居給ふに、宰相篁、兼て居たり。又人無し。「只今吉き隙也5)。彼の冥途の事、問ひてむ」と、「日来、極(いみじ)く怪く思えつる事也」と思て、大臣居寄て、忍て篁の宰相に云く、「月来も便無くて申さず。彼の冥途の事、極て忘難し。抑々、其れは何なる事ぞ」と。篁、此れを聞て、少し頬咲て云く、「先年の御□□6)の喜く候ひしかば、其の喜びに申したりし事也。但し、此の事、弥よ恐て、人に仰せらるべからず。此れ、未だ人の知らぬ事也」と。
大臣、此れを聞て、弥よ恐れて、「篁は只人にも非ざりけり。閻魔王宮の臣也けり」と云ふ事を始て知て、「人の為には直しかるべき也」とぞ、諸の人には懃に教へ給ひける。
而る間、此の事、自然ら世に聞えて、「篁は閻魔王宮の臣として、通ふ人也けり」と、人、皆知て、恐ぢ怖れけりとなむ、語り伝へたるとや。
現代語訳
昔、小野篁と言う人がありました。篁は学生の頃、罪を犯してしまい罰せられる事になりましたが、 その時、藤原良相(よしみ)という方が、 宰相として、篁をかばい、難を逃れる事が出来ました。篁はその事を知り、良相に大変感謝しました。
何年か後、篁は宰相に、良相も大臣になりました。 しかし良相は重病となり、しばらくたって亡くなってしまいました。 良相は閻魔王の使につかまり、閻魔王宮に連れていかれました。 そして、罪を定められる時、冥官の中に小野篁を見つけました。
良相はこれはいったいどうしたことだろうか?と思っていると、 篁は閻魔王に「この方は、心の正直な人で、人の為になる方です。 今度の罪は私に免じて許してもらえないでしょうか」と言いました。閻魔王は 「それは難しい事だが、篁がそう言うなら許してやろう。」と答えました。
篁が良相を捕らえた者に「すぐに現世に連れ帰りなさい。」と言うと、 良相は、目覚め、元のように自分の部屋にいたのでした。
その後、良相は病も癒え内裏に上がりました。 そして篁に会うと、閻魔庁での出来事を尋ねました。
篁は、 「以前私の弁護をしていただいたお礼をしただけですよ。 ただしこの事は誰にも言わないでくださいね。」と答えました。良相はこれを聞いて 「篁は只の人ではない、閻魔王宮の臣だ。」と知り、いよいよ恐れ、 「人のために正しくあらねばならん。」と、いろんな人に説いてまわりました。 しばらくするとこの事は自然に世間の知る所となり、 「篁は閻魔王宮の臣として冥府に通っている人だ。」と、 皆、恐ろしがったという事です。
百人一首11~20についても調べてみました。
11. 参議篁 わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟(古今集)
参議篁 小野篁(おののたかむら、802~852年)は文人官僚。令義解を編纂。遣唐副使となるも、二度の渡航に失敗した後、三度目は大使藤原常嗣と乗船の選定で衝突して渡航拒否。嵯峨上皇の逆鱗に触れ、隠岐に配流。後に許されて参議となります。『今昔物語集』「小野篁、情に依り西三条の大臣を助くる語」によると、病死して閻魔庁に引据えられた藤原良相が篁の執成しに よって蘇生したという逸話が見られます。
現代語訳 大海原のたくさんの島々を目指して漕ぎ出してしまったと都にいる人に伝えてくれ。漁師の釣舟よ。
※この歌は、篁が隠岐に流された時に詠んだもので、高官であった作者が、漁師の釣舟(身分は低くとも自由にどこへでも行ける漁師)に懇願しなければならない苦悩を表しています。
12. 僧正遍照 天つ風 雲の通ひ路 吹き閉ぢよ をとめの姿 しばしとどめむ(古今集)
僧正遍照 (そうじょうへんじょう) 遍照(遍昭) 俗名良岑宗貞(よしみねのむねさだ、816~890年)六歌仙・三十六歌仙の一人。桓武天皇の孫。素性の父。仁明天皇に仕え、左近衛少将、蔵人頭を歴任したが、天皇の崩御により出家。
現代語訳 天の風よ。雲間の通り道を閉ざしてくれ。天女の舞い姿をしばらくとどめておきたいのだ。
※桓武天皇の孫という高貴な生まれであるにもかかわらず、出家して天台宗の僧侶となり僧正の職にまで昇ったこと、また、歌僧の先駆の一人であることなど、遍昭は説話の主人公として恰好の性格を備えた人物でした。在俗時代の色好みの逸話や、出家に際しその意志を妻にも告げなかった話は『大和物語』をはじめ、『今昔物語集』『宝物集』『十訓抄』などに見え、霊験あらたかな僧であった話も『今昔物語集』『続本朝往生伝』に記されています。
13.陽成院 筑波嶺の 峰より落つる 男女川 恋ぞつもりて 淵となりぬる(後撰集)
陽成院 陽成天皇(868~949年、在位876~884年、第57代天皇)は9才で清和天皇から譲位されて即位しましたが、藤原基経によって廃位されました。
現代語訳 筑波山の峰から落ちる男女川の水かさが増えるように、私の恋心も積もりに積もって淵のように深くなってしまった。
14. 河原左大臣 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに(古今集)
河原左大臣 源融 (みなもとのとおる、822~895)は嵯峨天皇の皇子で臣籍降下し、源の姓を賜る。六条河原に住んだことから河原左大臣とよばれた。宇治の別邸は後に平等院となる。贈正一位。
現代語訳 陸奥のしのぶずりの模様のように心が乱れはじめたのは誰のせいか。私のせいではないのに。
※紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの一人といわれています。陸奥国塩釜の風景を模して作庭した六条河原院(現在の渉成園)を造営したといい、世阿弥作の能『融』の元となりました。融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語』『江談抄』等に見えます。現在の平等院の地は、源融が営んだ別荘だったもの。
15. 光孝天皇 君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ(古今集)
光孝天皇(こうこうてんのう、830~887年、在位884~887年 第58代天皇)は藤原基経により廃位された陽成天皇に代わって55歳で即位。
現代語訳 あなたのために春の野に出かけて若菜をつんでいる私の衣の袖に、次々と雪が降りかかってくる。
※『徒然草』176段には即位後も不遇だったころを忘れないように、かつて自分が炊事をして、黒い煤がこびりついた部屋をそのままにしておいた、という話があり、『古事談』にも似たような逸話があります。
16. 中納言行平 たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む(古今集)
中納言行平(ちゅうなごんゆきひら) 在原行平(ありわらのゆきひら、818~893年)平城天皇の孫。業平の兄。一門の子弟を教育するため、奨学院を設立。因幡守・太宰権帥・民部卿などを歴任。
現代語訳 あなたと別れて因幡へ赴任して行っても、稲葉山の峰に生えている松ではないが、待っていると聞いたならば、すぐに帰ってこよう。
※この歌は「別れた人や動物が戻って来るように」と願掛けをするときに使われる有名な歌だそうです。ユーモアエッセイの名手、内田百閒の本に「ノラや」という連作エッセイがありますが、その中でいなくなった愛猫、ノラが戻って来るように、このおまじないをするシーンがあります。この歌を短冊に書いて、猫の皿を伏せてその下に置いておくというものです。本当かな?
17. 在原業平朝臣 千早ぶる神代もきかず龍田川 からくれなゐに水くくるとは(古今集)
在原業平朝臣(ありわらのなりひらあそん) 在原業平(825~880年)は平城天皇の孫で行平の弟。六歌仙・三十六歌仙の一人。美男で、『伊勢物語』の主人公とされる。
現代語訳 神代にすら聞いたことがない。竜田川が紅葉によって水を真っ赤に染め上げているとは。
※この歌は「屏風歌」です。屏風歌とは、屏風に描かれた絵に合わせて、その脇に和歌を付けたものです。古今集の詞書には「二条(にでう)の后(きさい)の春宮(とうぐう)の御息所(みやすどころ)と申しける時に、御屏風(みびゃうぶ)に龍田川に紅葉流れたる形(かた)を描きけるを」とあります。二条の后とは、藤原長良(ながら)の娘の高子(たかいこ)のことで、清和天皇の女御(にょうご=天皇の側室)でした。その二条の后が、春宮(皇太子)の御息所(=皇子を生んだ女御)だった頃、后の屏風に竜田川に紅葉が流れている絵が描かれているのを、作者の在原業平が見て、付けた歌だということです。 在原業平は平安時代を代表する美男子で、恋多き人でした。「伊勢物語」の主人公のモデルとされ、この歌を捧げた天皇の女御・二条の后とも実は恋愛関係にあったそうです。
18. 藤原敏行朝臣 住の江の岸による波よるさへや 夢の通ひ路人目よくらむ(古今集)
藤原敏行朝臣(ふじわらのとしゆきあそん) 藤原敏行(?~901?年)は平安前期の歌人、能書家。三十六歌仙の一人。
現代語訳 住の江の岸には昼夜を問わず波が打ち寄せてくる。夜に見る夢の中でさえ、あなたが私のところに通ってくれないのは、人目を避けているからだろうか。
※有名な「秋来ぬと 目にはさやかに見えねども 風の音にぞ驚かれぬる」の歌も藤原敏行の歌です。『宇治拾遺物語』によれば、敏行は多くの人から法華経の書写を依頼され、200部余りも書いたが、魚を食うなど、不浄の身のまま書写したので、地獄に落ちて苦しみを受けたといいます。19. 伊勢 難波潟みじかき芦のふしの間も あはでこの世を過ぐしてよとや(新古今集)
伊勢(いせ、872?~938?年)は平安前期の女流歌人。伊勢守藤原継蔭の娘。宇多天皇の寵愛を受け、伊勢の御とよばれた。
現代語訳 難波潟に生えている芦の短い節の間のような、ほんの短い時間も逢わないまま、一生を終えてしまえとあなたは言うのでしょうか。
20. 元良親王 わびぬれば 今はた同じ 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ(後撰集)
元良親王(もとよししんのう、890~943年)は陽成天皇の皇子。『大和物語』などでは、色好みとして描かれている。
現代語訳 思いどおりにいかなくなってしまったのだから、今となっては同じことだ。難波にある航行の目印、澪標(みおつくし)ではないが、身を尽くしても逢おうと思う。
※ 元良親王は色好みの風流人として知られ大和物語や今昔物語集に逸話が残りますが、とくに宇多院の妃藤原褒子との恋愛が知られます。百人一首のこの歌は、作者元良親王が時の宇多天皇の愛妃、京極御息所との不倫が発覚したときに詠んだ歌のようです。「後撰集」の詞書には「事いできて後に、京極御息所につかはしける」と書かれているということです。
今昔、源博雅朝臣と云ふ人有けり。延喜の御子の兵部卿の親王と申す人の子也。万の事、止事無かりける中にも、管絃の道になむ極たりける。琵琶をも微妙に弾けり。笛をも艶(えもいは)ず吹けり。
此の人、村上の御時に、□□の殿上人にて有ける。其の時に、会坂の関に一人の盲、庵を造て住けり。名をば蝉丸とぞ云ける。此れは敦実「あっざね)と申ける式部卿の宮の雑色にてなむ有ける。其の宮は宇多法皇の御子にて、管絃の道に極(いみじか)りける人也。年来、琵琶を弾給けるを常に聞て、蝉丸、琵琶をなむ微妙に弾く。
而る間、此の博雅、此の道を強に好て求けるに、彼の会坂の関の盲、琵琶の上手なる由を聞て、極て聞ま欲(ほし)く思けれども、盲の家異様なれば行かずして、人を以て内々に蝉丸に云せける様、「何と思懸けぬ所には住ぞ。京に来ても住かし」と。盲、此れを聞て、其の答へをば為ずして云く
世の中はとてもかくてもすごしてむみやもわらやもはてしなければ と。
使、返て、此の由を語ければ、博雅、此れを聞て極く心悪く思へて、心に思ふ様、「我れ強に此の道を好むに依て、必ず此の盲に会はむと思ふ心深く、其れに、盲、命有らむ事も難し。亦、我も命を知らず。琵琶に『流泉・啄木』と云ふ曲有り。此れは世に絶ぬべき事也。只此の盲のみこそ、此れを知たるなれ。構て此れが弾を聞かむ」と思て、夜、彼の会坂の関に行にけり。
然れども、蝉丸、其の曲を弾く事無かりければ、其の後三年の間、夜々(よなよな)会坂の盲が庵の辺に行て、其の曲を、「今や弾く。今や弾く」と窃に立聞きけれども、更に弾かざりけるに、三年と云ふ八月の十五日の夜、月少し上陰て、風少し打吹たりけるに、博雅、「哀れ、今夜は興有か。会坂の盲、今夜こそ流泉・啄木は弾らめ」と思て、会坂に行て立聞けるに、盲、琵琶を掻鳴して、物哀に思へる気色也。博雅、此れを極て喜(うれし)く思て聞く程に、盲、独り心を遣て詠じて云く、
あふさかのせきのあらしのはげしきにしゐてぞゐたるよをすごすとて
とて、琵琶を鳴すに、博雅、これを聞て、涙を流して、「哀れ」と思ふ事限無し。
盲、独言に云く、「哀れ、興有る夜かな。若し我れに非ず□□者や世に有らむ。今夜、心得たらむ人の来(こよ)かし。物語せむ」と云を、博雅、聞て、音を出して、「王城に有る博雅と云ふ者こそ、此に来たれ」と云ければ、盲の云く、「此く申すは誰にか御座す」と。博雅の云く、「我は然々の人也。此の道を好むに依て、此の三年、此の庵の辺に来つるに、幸に今夜汝に会ぬ」。盲、此れを聞て喜ぶ。其の時に博雅も喜び乍ら庵の内に入て、互に物語などして、博雅、「流泉・啄木の手を聞かむ」と云ふ。盲、「故宮は此なむ弾給ひし」とて、件の手を博雅に伝へしめてける。博雅、琵琶を具せざりければ、只、口伝を以て此れを習て、返々す喜けり。暁に返にけり。
此れを思ふに、諸の道は只此くの如く好べき也。其れに近代は実に然らず。然れば、末代には諸道に達者は少き也。実に此れ哀なる事也かし。
蝉丸、賤しき者也と云へども、年来宮の弾給ひける琵琶を聞き、此(かく)極たる上手にて有ける也。其れが盲に成にければ、会坂には居たる也けり。其より後、盲琵琶は世に始る也となむ語り伝へたるとや。
現代語訳
今は昔のことでございます。源博雅さまという方がいらっしゃいました。醍醐帝の御子、兵部卿の親王のご子息でいらっしゃいます。何事にも優れた才をお持ちでしたが、中でも音楽の道には特に長けておられました。笛の上手でいらっしゃり、琵琶もまた実に巧みにお弾きになりました。
これからお話しすることは、博雅さまが殿上人でいらっしゃったときのことでございます。その頃、逢阪の関に一人の盲目の男が小さな庵を作り、住んでおりました。その男の名前は蟬丸といいます。蟬丸は、敦実親王の元で下働きをしておりました。敦実親王はたいへん音楽の道に通じていらっしゃったおかたです。琵琶もつねづねお弾きになっておられました。蟬丸はその琵琶をおそばで聞き習い、上手になっていったということです。
博雅さまは、琵琶の奥義を究めたいとお思いになっていたところ、この逢阪の関に住まう蟬丸が琵琶を良く弾くことをお聞き及びになられたのです。そこで、是非とも蟬丸の琵琶を聴いてみたいとお思いになったのですが、蟬丸の庵があまりに粗末でしたので、じかに出向かれることはためらわれ、家来のものを蟬丸の庵に行かせ、「どうしてこのようなところに住むのか。京に住むがよかろう」と告げたところ、蟬丸はそれに答えず、ただ、
この世の中は、あちらに住んでも、こちらに住んでも、どんな変わりがありましょう。雅な京に住もうとも、ひなびたこの家に居ようとも、 けして限りと思いはしない。
と、歌を詠んだだけでした。博雅さまはこの次第をお聞きになり、深みがあるように思われて、なおさら蟬丸に会うことを強くお望みになり、
「なんとしても、琵琶の深奥極めたいものだ。必ずや蟬丸に会ってその琵琶を聴こう。蟬丸も私もいついかなることで命を失うか分からない。機を逃してはならない。琵琶には「流泉」と「啄木」という曲があったらしい。この二つの曲は、今は誰も弾くことができない。しかし、きっと蟬丸ならばこの秘曲を知っていることだろう。なんとしてでも、蟬丸が弾くところを聴いてみせる」とお思いになり、その夜、逢阪の関に行かれました。しかし、蟬丸がその曲を弾くことはありませんでした。それから、博雅さまは、夜な夜な逢阪の関の蟬丸の庵に行っては、「今晩こそは、今晩こそは」と密かに耳を澄ませたのですが、蟬丸はいっこうに弾く気配をみせまん。
そうしているうちに三年の月日が経ちました。八月十五日の中秋の夜、朧月、風がそよいでいます。博雅さまは、
「ああ、なんと風情のある夜だろう。きっとこんな夜にこそ、蟬丸は流泉や啄木を弾くのではないか」と、逢阪の関に行かれ、いつもの通り粗末な庵の近くで身を潜めておられますと、蟬丸の琵琶の音が聞こえてきました。しっとりと心にしみ入る音色です。博雅さまはようやく蟬丸の琵琶が聴けたことを嬉しくお思いになりながら、耳を傾けておられました。すると、蟬丸が己の心を慰めるかのように歌を詠み始めました。
秋深く、逢阪の関は、風強く、激しき風は、私を責める。それでも私は堪え忍ぶ。風が心を乱さぬように。そっと、この世を過ごすため。
そっと、この夜を過ごすため。
琵琶の音とともに流れてくるこの歌を聴かれた博雅さまは、流れ落ちる涙を止めることができませんでした。
琵琶を弾き終わった蟬丸は、
「おやおや、趣深い夜だこと。私のほかにも風流を愛するものがいるだろうか。この夜の良さが分かる人がいたら良いのだがな。そんな人と語り合いたいものだよ」と、独りごちたのです。それを聞かれた博雅さまは、思わず、
「ここに博雅というものがございます。王城より参りました」と、お答えになりました。蟬丸は驚き、
「なんと。そのようなことを仰るのはどなたであろう」と問うたので、博雅さまはこれまでのことをお話しになりました。
「私は、都に住む源博雅というものです。長年、音楽の道を極めようと精進しております。そこで、琵琶の上手でいらっしゃるあなたのお噂を耳にし、この三年の間、こちらの庵を訪ねておりました。今宵、ようやくあなたの琵琶を聴くことができました」
これを聞いた蟬丸はたいへん喜び、博雅さまを庵に呼び入れました。博雅さまも長い間持ち続けていた願いが叶ったことをお喜びになり、蟬丸とじっくりと語り合ったのです。
そして、博雅さまが「流泉と啄木を弾いてみたいのです」と望まれると、蟬丸は「亡くなられた敦実親王はこのようにお弾きになっていらっしゃいました」と、博雅さまにその手を伝えました。博雅さまはこのとき琵琶をお持ちではなかったので、ただ口伝のみでこれを習われました。このように、一晩中琵琶の話をされて、明け方に博雅さまは都に帰られたのでした。 この出来事を思いますと、どのような道でも、このようにひたすらにそれを求めるべきなのだと分かります。しかし、近頃はそうではないようです。それで、道を極めたという人物が少なくなったのでしょう。本当に寂しいことでございます。
蟬丸は身分が低いものでしたが、亡き親王のお弾きになる琵琶をつねに聴いていて、ついにはその奥義を身につけたのです。だた目が見えなかったがために、逢阪の関に住むようになりました。この後、盲目のものが琵琶の弾き手になることが世に広まったという話しでございますよ。
百人一首1~10について調べました。
1. 天智天皇 秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ(後撰集)
天智天皇(てんじてんのう、626~671年、在位668~671年)は第38代天皇。中臣鎌足とともに蘇我氏を滅ぼし(乙巳〈いっし〉の変)、大化の改新を断行しました。近江大津宮に遷都の後、即位。庚午年籍を作成し、近江令を制定しました。
現代語訳 秋の田の傍にある仮小屋の屋根を葺いた苫の目が粗いので、私の衣の袖は露に濡れてゆくばかりだ。
※実際の作者は、天智天皇ではないというのが定説です。万葉集(巻10・2174)「秋田刈る仮庵を作りわが居れば衣手寒く露ぞ置きにける」(詠み人知らず)の歌が変遷して御製となったものといいます。天智天皇と農民の姿を重ね合わせることで、庶民の痛み・苦しみを理解する天皇像を描き出しているのだと言われています。大化の改新以降の社会の基盤を構築した偉大な天皇である天智天皇の御製が、百人一首の第一首とされました。
2. 持統天皇 春すぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山(新古今集)
持統天皇(じとうてんのう、645~702年、在位690~697年)第41代天皇。天智天皇の第2皇女。天武天皇の皇后。飛鳥浄御原宮で即位し、飛鳥浄御原令の施行や藤原京遷都などを行い律令体制の基礎を構築しました。
現代語訳 春が過ぎて夏が来たらしい。夏に純白の衣を干すという天の香具山なのだから。
※万葉集では、この歌は「春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山」になっています。「干したり」は「干している」で、原歌が歌われた頃はちゃんと干していたのでしょうが、藤原定家の時代には、もう行われていなかったのでしょう。「衣ほすてふ」と伝え聞く「伝聞」の形をとることで、天の香具山に衣を干した当時の風俗を取り込む趣になっています。
この歌の舞台となった橿原市は万葉の都。大和三山の畝傍山(199m)、香具山(152m)、耳成山(140m)がちょうど正三角形をなして、持統天皇のいた藤原京跡を取り囲んでいます。神話では、香具山が天から降りてきたという話の他に、畝傍山を女性に見立て、耳成山と香具山が奪い合ったという話も残っているそうです。万葉集に
香具山は 畝傍(うねび)を愛(を)しと
耳梨(みみなし)と 相あらそひき
神世より かくにあるらし
古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ
うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき
~中大兄皇子 万葉集 巻1-0013~
訳 香具山は畝傍山を愛しい人だと思って
ライバルの耳梨山と争ったそうだ
神代からそのようであったらしい
そんな昔からそうであったからこそ
現実でも妻取りというものは争うものであるらし
と言う歌があり、持統天皇の歌の背景には、額田王をめぐって争った天智天皇(持統天皇の父)とその弟、天武天皇(持統天皇の夫)の関係が連想されます。
3. 柿本人麻呂 あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかも寝む(拾遺集)
柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ、生没年不詳)は白鳳時代を代表する歌人。歌聖。三十六歌仙の一人。雄大で力強い歌風に特徴があり、長歌の完成度は比類がない。下級官吏という説があるものの詳細は不明。
現代語訳 山鳥の尾の垂れ下がった尾が長々と伸びているように、秋の長々しい夜を一人で寝ることになるのだろうか。
※拾遺集・巻13・恋3(778)「題知らず 人麿」より、選出されたもです。実際に人麻呂の歌ということではなく、「こんなに見事な歌だから人麻呂の歌といっても不自然ではない」ということで、いつのまにか人麻呂作になったと思われます。
4. 山部赤人 田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ(新古今集)
山部赤人(やまべのあかひと、生没年不詳)奈良前期の歌人。柿本人麻呂と並ぶ歌聖。三十六歌仙の一人。自然を題材とする歌が多い。下級官吏であったという説があるものの詳細は不明です。
現代語訳 田子の浦に出てみると、まっ白な富士の高嶺に今も雪は降り続いていることだ。
※「万葉集」では「田子の浦ゆ うち出でてみれば 真白にそ 富士の高嶺に 雪は降りける」となっています。「白妙の」は布の白さにたとえた表現ですが、こちらは「真白にそ」となっていて、より直接的な言い方になっています。最後の「ける」も「降ってるなあ」というような、今初めて気が付いた感動を示す表現になっていて、百人一首の歌よりずっと素朴であることが分かります。
5.猿丸太夫 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき(古今集)
猿丸太夫(さるまるだゆう、生没年不詳)は8世紀後半から9世紀前半頃の歌人と推定されるも詳細は不明。三十六歌仙の一人。古今集の真名序にその名が記されています。
現代語訳 奥山で紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞く時こそ、秋の悲しさを感じるものだ。
※ この歌は、『古今和歌集』では作者は「よみ人しらず」となっています。菅原道真の撰と伝わる『新撰万葉集』にも「奥山丹 黄葉踏別 鳴鹿之 音聆時曾 秋者金敷」の表記で採られていますが、これも作者名はありません。なお「おくやまに」の歌は『猿丸集』にも入っているそうですが語句に異同があり、「あきやまの もみぢふみわけ なくしかの こゑきく時ぞ 物はかなしき」となっているそうです。
6. 中納言家持 かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける(新古今集)
中納言家持は大伴家持((おおともやかもち、718?~785年)のことで、大伴旅人の子。奈良時代の歌人。三十六歌仙の一人。万葉集の編者とされ、収録数は最多。越中守をはじめ地方・中央の官職を歴任。中納言。
現代語訳 かささぎが連なって渡したという橋、つまり、宮中の階段におりる霜が白いのをみると、もう夜もふけてしまったのだなあ。
※この歌には、2つの読み方があります。唐詩選の張継(ちょうけい)「楓橋夜泊(ふうきょうやはく)」の一節「月落ち烏(からす)啼いて、霜天に満つ」を元にしたもので、冬の冴えわたる夜空の星を、白い霜に見立てたもので、冬の夜空を見上げて、天の川に輝く夜空の星が美しいなあ、冬の夜がふけていくなあ、と感じ入っている歌です。「かささぎの橋」というのは、七夕の織り姫と彦星の話のことです。中国では七夕の一日だけ、たくさんのかささぎが天の川に翼を広げて織り姫の元へ彦星が渡って行けるようにしたわけです。
もうひとつは、「かささぎの橋」を奈良は平城京の御殿の階段になぞらえたもの。宮中はよく「天上界」になぞらえられ、「橋」と「階(はし)」の音が同じことからきたものです。宮中の夜の見張り番「宿直(とのい)」をしている深夜に、紫宸殿の階段に霜が降り積もっているのを見て、「天上をつなぐ階段に霜が積もり、白々と輝いている。冬の夜も更けたものだ」と感じているというのです。
7.安倍仲麿 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも(古今集)
安倍仲麻呂 阿倍仲麻呂(あべのなかまろ、698?~770?年)は717年の遣唐使に随行し、留学生として入唐。科挙に合格して玄宗に重用されるとともに、李白・王維らと交流するなど幅広く活躍。海難により帰国は果たせず、唐で没する。中国名、朝衡(ちょうこう)。
現代語訳 長安の天空をふり仰いで眺めると、今見ている月は、むかし奈良の春日にある三笠山に出ていた月と同じ月なのだなあ。
※ 天平勝宝5年(753年)帰国する仲麻呂を送別する宴席において王維ら友人の前で日本語で詠ったとするのが通説ですが、仲麻呂が唐に向かう船上より日本を振り返ると月が見え、今で言う福岡県の春日市より眺めた御笠山(宝満山)から昇る月を思い浮かべて詠んだとする説もあります。現在、陝西省西安市にある興慶宮公園の記念碑と江蘇省鎮江にある北固山の歌碑には、この歌を漢詩の五言絶句の形で詠ったものが刻まれているといいます。
8. 喜撰法師 わが庵は 都のたつみ しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり(古今集)
喜撰法師(きせんほうし、生没年不詳)平安初期の歌人。六歌仙の一人。
現代語訳 私の庵は都の東南にあり、このように心静かに暮らしている。それにもかかわらず、私が世を憂いて宇治山に引きこもったと世間の人は言っているようだ。
※ 六歌仙の一人。紀貫之が『古今集』序でその名をあげて論じていますが,出自,伝記ともに未詳。出家して宇治に住んだことがわずかに推定されます。確実な作は『古今集』雑下の「わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり」の1首だけです。
9. 小野小町 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに(古今集)
小野小町(おののこまち、生没年不詳)は平安前期の歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。絶世の美人とされ、数多くの伝説を残します。
現代語訳 桜の花はむなしく色あせてしまった。長雨が降っていた間に。(私の容姿はむなしく衰えてしまった。日々の暮らしの中で、もの思いしていた間に。)
※ 父母,経歴などに諸説があり、たしかなことは不明です。絶世の美女として語り継がれ、歌舞伎、義太夫、謡曲などの題材となりました。歌は「古今和歌集」「後撰和歌集」などの勅撰集に六十余首おさめられ,そのなかに文屋康秀(ふんやのやすひで)らとの贈答歌もあります。
10.蝉丸 これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の関(後撰集)
蝉丸 (せみまる、生没年不詳)は平安前期の歌人。盲目の琵琶の名手との説があり、敦実親王に仕えたとも、醍醐天皇の第四皇子とも伝えられるものの、詳しい経歴は不明。
現代語訳 これが例の、都から離れて行く人も都へ帰る人も、知っている人も知らない人も、出逢いと別れをくり返す逢坂の関なのです。
※ 蝉丸は平安前期の伝説的歌人。宇多天皇の皇子敦実(あつざね)親王の雑色(ぞうしき)とも、醍醐天皇の第4皇子とも伝えられます。盲目で琵琶に長じ、逢坂(おうさか)山に住んで源博雅(みなもとのひろまさ)に秘曲を授けたといいます〔今昔物語巻24第23〕。
正月の室内ゲームと言えば百人一首があります。
天智天皇から順徳天皇までの約550年の間に、貴族や歌人たちの間で詠まれた和歌から、各人の優れた和歌や代表的な和歌一首を取り上げ、年代を追って、全部で百人の和歌を取り上げたものです。特に「小倉百人一首」と呼ばれるのは、藤原定家が京都嵯峨の小倉山の別荘で屏風(襖)に書き写したことから、このように呼ばれていますが、小倉百人一首はすべて「古今集」や「新古今集」などの「勅撰和歌集」から集められています。
「勅撰和歌集」とは、時の天皇の命で編纂された和歌集で、全部で21の和歌集がありますが、「小倉百人一首」は、次の10の「勅撰和歌集」から、和歌が選ばれています。
古今集 … 24首 詩花集 … 5首
後撰集 … 7首 千載集 … 14首
拾遺集 … 11首 新古今集 … 14首
後拾遺集 … 14首 新勅撰集 … 4首
金葉集 … 5首 続後勅撰集 … 2首
※2番の歌(持統天皇)と4番の歌(山部赤人)などは、藤原定家が「新古今集」から選んでいますが、原歌は「万葉集」にあります。
百首の中には恋の和歌が四十三首もあり、季節の歌では秋の和歌が一番多く選ばれています。
また、女流歌人は二十一人、僧侶も十五人が選出されています。
百人一首の歴史は「かるた」から始まると言われています。「かるた」とはいつ頃日本で生まれたのでしょうか。優雅な遊びのイメージから、日本古来のものであると考えられがちですが、16世紀半ば頃にポルトガル人によって日本にもたらされました。それは現在のトランプに近いものであったと考えられまが、ポルトガル語でカードを意味する「CARTA」がそのまま日本語に充てられた。今日でも時折「歌留多」という表記が用いられていますが、古くは「嘉留太」あるいは「骨牌」とも記述されました。
平安時代に遊ばれていた「貝合わせ」というものがあります。「貝合わせ」とは、二枚貝をふたつに分けて、その片方を探すといった単純な遊びですが、やがて宮廷の人々のあいだでは、貝に歌や絵を書いて遊ぶようになります。これは「歌合せ」といって、いろいろな貝にそえて和歌を詠み、その和歌を競い合うというものでした。 やがて、それと似た絵合わせをする「貝おおい」という遊びが進歩して、「歌貝」というものに発展します。「歌貝」では、貝の形をした札が上の句、下の句ともに100枚あって、現在の「かるた取り」と同じように、下の句の札を並べて、上の句を詠んで下の句を取るというものです。
この遊び方は、百人一首の歴史からすると、かなり現在の遊び方に近いものではないでしょうか。
歴史が下って戦国時代の頃になると、百人一首が「かるた」として遊び始められますが、はじめは宮中とか諸大名の大奥などで行われ、それが年間行事となったようです。この時代の「かるた」は、まだまだ庶民の間では馴染みの薄いものでしたが、江戸時代に入り、木版画の技術の発展や、南蛮渡来の「かるた」を取り入れることによって、庶民の中に徐々に広まっていきます。
やがて、「民用小倉百人一首」などが出版され、元禄時代の頃から一般庶民の間にも広がり、「和歌かるた」と言えば「小倉百人一首」のことを指すようになり、庶民にも馴染みあるものになりました。このように百人一首の歴史は古いのですが、「小倉百人一首」が正月の楽しみとして各家庭でも行われるようになったのは、ずっと後の安政の頃からだと言われています。
しかし、現在では、正月以外でも簡単に遊べる室内ゲームとして親しまれてるほか、日本の古典や歴史の風情を学ぶうえでも馴染みやすく、身近な資料となっています。
sechin@nethome.ne.jp です。
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